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記事 23件
  • 【緊急掲載】「チームラボと佐賀 巡る!巡り巡って巡る展」完全レポート!☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.033 ☆

    2014-03-19 07:00  
    220pt

    【緊急掲載】「チームラボと佐賀 巡る!
    巡り巡って巡る展」完全レポート!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.3.14 vol.030
    http://wakusei2nd.com


    佐賀県内にある4つの会場(佐賀県立美術館、佐賀県立九州陶磁文化館、佐賀県立名護屋城博物館、佐賀県立宇宙科学館)にて、2014年2月28日(金)~3月22日(土)の期間で開催される「チームラボと佐賀 巡る!巡り巡って巡る展」。
    「これを見逃す手はない!」と、急きょ佐賀への弾丸ツアーを敢行した宇野常寛とPLANETS編集部による完全レポートをお届けします!
     
    ◎文・写真:編集部
    それは3月某日午後のこと。何も聞かされないまま、「なんか急に佐賀出張が決まったっぽい件について。」という宇野のツイートを発見し、PLANETS編集部事務所は騒然としました。佐賀に出張って、どういうことだ!?
    その日の夜、事務所に戻った宇野いわく、別件でチームラボの猪子さんと打ち合わせをしていたところ、「作家生命をかけた展覧会だから」と、(超強引に)佐賀で行われている展覧会へのお誘いを受けたとのこと。

    ▲「なぜ宇野常寛は佐賀へ行かねばならないか」を熱弁する猪子さん
    チームラボ国内初の大規模な展覧会、かつ、開期が3/22(土)までと間近に迫っていたこともあり、猪子さんの熱さに負けて急遽、出張が決定したのでした。
    今回は、そんな経緯で訪れることとなった「チームラボと佐賀 巡る!巡り巡って巡る展」を、完全レポート!
    ▲佐賀駅前の様子
     
    3/17(日)、朝9時の佐賀駅前。これからいったいどんな一日になるのか想像もつかず、楽しみ!
    「佐賀駅南口前は映画『悪人』のロケ地で、出会い系で知り合った妻夫木聡が深津絵里と待ち合わせたのがここだったはず」(宇野)
    ちなみに後で調べたところ、この南口ロータリーにはなんと2人の位置がわかるように赤い靴あとマークまであったとか。まったく気づかずにスルーしてしまいました……
     

    ▲謎の県庁職員あらわる!
     
    集合場所で待っているところへ、颯爽と現れたこちらの方は…?
    気さくで明るい振る舞いと、サングラスがお似合いのお洒落なルックスとは裏腹に、実は佐賀県庁の職員さん!(※イケメン)
    文化・スポーツ部 文化課の光武さんに、丸一日、ガイド兼ドライバーをしていただきました。
     
    ▲佐賀県立美術館の外観
    http://www.pref.saga.lg.jp/web/kankou/kb-bunka/kb-hakubutu/museum.html
     

    ▲展覧会の概要
     
    最初に向かったのは、佐賀県立美術館。朝早い時間でしたが、すでにラボ展を観にお客さんたちが集まっていました。
    4会場を巡る旅がここからスタートです。
     

    ▲「Nirvana」
    チームラボ, 2013, アニメーション, 6min 20sec (9:16 x 8)
    (佐賀県立美術館)
    http://www.team-lab.net/all/pickup/nirvana.html
    https://www.youtube.com/watch?v=J5aGNryim5c
     
    展示場に入るとすぐ目に飛び込んでくる、「Nirvana」。この作品は、伊藤若冲(1716 〜 1800)の「鳥獣花木図屏風」や「樹花鳥獣図屏風」がモチーフだそう。全体がいくつもの升目に区切られ、升目1つずつにおいて、その中に描かれた何重もの四角の色が変化していくことで、画面全体のアニメーションが動きます。動物たちが現れ、様々に動き、最後にブッダが入滅する瞬間に画面が金箔で覆われ剥落していく様子が、FHD(フルハイビジョン)の8倍の解像度による圧倒的情報量のアニメーションで表現されています。国内初展示。日本画的な空間把握で記述された世界をデジタルで描く――猪子さんが度々口にする「日本的な世界のとらえ方とデジタル技術のハンパなくイイ相性」、というコンセプトをもっとも直接的に表現した代表作です。
     
    「ポップな無常観で死への欲望すらも包み込む――実は話を聞いていた段階では題材とテーマの選び方に優等生的なあざとさを感じてちょっと抵抗があったのだけど(ごめんなさい!)、現物を前にするとむしろ猪子さんとチームラボのもつ無邪気さの方が目立ちます。猪子さんはこの世界が好きで、その好きって気持ちを表現したい、そんな情熱が名刺代わりのこの作品には過剰に溢れています」(宇野)
     

    ▲「憑依する滝 / Universe of Water Particles」
    チームラボ, 2013, デジタルワーク, 1920×5400 pixels
    (佐賀県立美術館)
    http://www.team-lab.net/all/pickup/uowp.html
    https://www.youtube.com/watch?v=Yo0K6n-OaV4
     
    コンピュータ上の仮想空間に立体的につくられた岩に水を落下させ、その水は、無数の水の粒子の連続体で表現されています。そして全体の水の粒子の中からランダムで選んだ0.1%の水の粒子の挙動によって、空間上に線を描き、その線の集合で滝を描いている作品とのこと。
    「猪子さんのつくってきた自己解説的な、抽象度の高い作品の中では僕はこれが一番好き。見る人間の脳を動かそうと思ったとき、まず4メートルの高さにものを言わせるという選択は実に猪子さんらしいアプローチだと思います」(宇野)
     
    ※写真:チームラボ提供
    ▲「追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして分割された視点 / Crows are chased and the chasing crows are destined to be chased as well, Division in Perspective – Light in Dark(work in progress)」
    チームラボ, 2013, デジタルインスタレーション, 3min 40sec, 音楽:高橋英明
    (佐賀県立美術館)
    http://www.team-lab.net/all/pickup/crows_dark.html
    https://www.youtube.com/watch?v=rhziaNx6WYQ
     
    アニメーター板野一郎によって確立された「板野サーカス」へのオマージュ。デフォルメされた空間を用いるその手法を3次元空間で再現することによって、自由に視点を広げ、実際の空間として再構築することを試みています。そして、7画面に視点を分割し、分割された視点を立体的に配置することによって、どのような体験になるかという実験でもあるそうです。群れの中から飛び立つカラスと、それを追うカラスたちがダイナミックに描かれます。会場に足を踏み入れた瞬間、音楽と映像が一体となったその世界に圧倒されました。
    「この作品が今回の佐賀展での、たぶん一番の見どころです。いままでの猪子さんの作品は、どこにでも視点を置けるように、そしてどこに視点を置いていいのか、どのキャラクターを主人公に観ていいのか分からないようにつくってあったところがある。けれど、この作品では最初に飛び立つカラス(そして、最後に死んで花になるカラス)に一瞬だけ視点を集めた上で、それを攪乱していきます。言い換えれば、ここでは僕たちの感情移入が解体されていく過程の面白さを見せている。僕は以前、猪子さんになぜキャラクターという要素を排除するのかと尋ねたことがあります。この作品は僕たち日本人が得意とするそこに描かれたキャラクターの視点に同一化して世界を眺めるという想像力に対する、猪子寿之からのひとつのアンサーなのだと思います。」(宇野)
     
    ▲広がるロードサイドの景色
     
    「カラス」の余韻も冷めやらぬ中、次の会場へ移動。
    国道を走るその途中で、ロードサイドの景色をパシャリ。東京とは違う景色に、なんとなく興奮します。
     

    ▲佐賀にもイオンモール
     
    郊外名物の大規模なイオンモールも、パシャリ。
    光武さん「駐車場が広くて、誰でも車を停めやすいところも人気の一つです。軽トラを持っている人もこちらでは多いですから。」
     
    次の会場へ向かう途中、お昼をいただきました。
    「ここのイカが最高にうまいんですよ!!」という光武さんの言葉に、期待はふくらむばかり。
    活造り定食を注文したところ…
     

    ▲「最高にうまい」イカ
     
    なんと、まるまる一杯のイカが、人数分!貴重なコブイカの姿も。
    まず、添えられたハサミでゲソを切って、そのままいただきます。甘い刺身にうっとり…。
    ゲソを切り落とした胴体は、すぐに天ぷらにしてくださいます。
    イカしゅうまいも、ふわふわした食感が絶品でした。

    ▲ふわふわのイカしゅうまい
     

    ▲佐賀県立名護屋城博物館http://www.pref.saga.lg.jp/web/nagoya.html
     
    次に向かったのは、佐賀県立名護屋城博物館。豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に建設した名護屋城跡付近です。
     

    ▲「増殖する生命  / Ever Blossoming Life (work in progress)」
    チームラボ, 2014, デジタルワーク
    https://www.youtube.com/watch?v=54csqpKT1ys
     
    数えきれないほどの花の誕生と死滅が、画面の至る所で描かれ続けます。画面のどこか一部の花の様子を観ているあいだに、他の場所では新しい花が誕生しています。花の配置や動きはプログラムによりリアルタイムで絶えず更新されるものであり、その瞬間と同じ絵は、2度と観ることができないそうです。新作。
     

    ▲「花と屍 剝落 十二幅対/ Flower and Corpse Glitch Set of 12 」
    チームラボ, 2012, デジタルワーク, 1min 50sec (9:16 × 12)
    http://www.team-lab.net/portfolio/flower/flowerandcorpseglitch.html
    https://www.youtube.com/watch?v=AY0wSbTbenY
     
    自然と文明の衝突、循環、共生をテーマとした絵物語の12幅からなるアニメーション作品。アニメーションの表面が剥がれ落ち、作品の裏側が見えていくつくりになっています。3次元空間上に立体的に構築した世界を、日本の先人達の空間認識によって、論理的に平面化した作品だそうです。
      
  • 【現代ゲーム全史】スーファミに受け継がれた王座――90年代に幕開けした<仮想現実の時代> ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.032 ☆

    2014-03-18 07:00  
    220pt

    【現代ゲーム全史】
    スーファミに受け継がれた王座
    90年代に幕開けした<仮想現実の時代>
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.3.14 vol.030
    http://wakusei2nd.com



    中川大地さんの好評連載「現代ゲーム全史」が再開。
    ポスト冷戦の90年代、<仮想現実の時代>の幕開けでゲームの進化はどこへ向かったのか。当時流行したゲームの設計思想から読み解きます。
    ■スーファミに受け継がれた玉座
     
     冷戦の終結や天安門事件といった世界史的な事件の波は、当初ゴルバチョフが企図していたような穏当な体制転換に留まることなく、雪崩を打つようにして共産主義圏の盟主ソビエト連邦を崩壊へと導いてゆく。永久に続くかにも思われた人類社会の強大な第二極が瞬く間に消失するという事態は、唯一の超大国となったアメリカの政治学者フランシス・フクヤマをして欧米型の自由民主主義がついに普遍価値として勝利したという「歴史の終わり」を豪語させ、あるいは逆にサミュエル・ハンチントンをして歴史や宗教を共有する大きなエリアごとに世界が多極化する「文明の衝突」の危機を唱えさせたように、世界秩序の変動をどう受け止めるかが全地球的な課題として各国に降りかかることになった。
     国内政治的にはそれは、自由民主党と日本社会党のイデオロギー対立が作り上げた55年体制の動揺というかたちで襲来し、その機能不全を弥縫すべく強引に二大政党化を促進する選挙制度改革が敢行されたため、戦後初の政権交代によって理念の不明確な小政党が合従連衡して自民党の対抗勢力が作られては消えてゆく、不安定な連立政権時代が到来することになる。
     しかしながら、こうした政治体制の迷走以上に日本社会の大きな変動源となったのが、マルクス主義の実験終了でグローバル資本主義が拡大したことによる国際競争の熾烈化や、国内での金融政策の迷走といった経済的要因であった。とりわけプラザ合意後の為替相場と金融市場の変動を受けての土地と株への集中的な投機によるマネーゲームの過熱は、〈虚構の時代〉の最後の灯火としてのバブル経済とその無残な崩壊をもたらし、右肩上がりの成長に過剰適応した日本のあらゆるシステムを軋ませる複合的な長期不況の引き金を引く。のちに「失われた20年」と呼ばれる事態の始まりである。
     つまりは政治革命の〈理想〉も高度成長の〈夢〉も消費文化の〈虚構〉さえも、およそあらゆる外在的目標が国内外から喪失して先の見えない「身も蓋もない現実」に直面する時代として、1990年代は幕を開けた。
     とはいえ、そんな「ここではないどこか」へのイマジナリーな憧れがなくなったとしても、テクノロジーの進歩は矛先を変えながらも絶えることはなかった。すなわち、人間の世界を外へ外へと開拓していくベクトルを持っていた核開発や宇宙開発こそ下火になったが、かつてその従者であった情報技術や生命科学が、「いま、ここ」にある人間自身の知性や身体性の本質を探って内へ内へと潜っていく営みとなって、社会の在り方を変えてゆく原動力に浮上してきたのである。
     この両者が結びつくコンセプトとして、1980年代に現れたサイバーパンクSFなどで描かれたのが端末機械と脳神経系を直結することで人間がデジタルネットワークに没入(ジャックイン)できるようになるという「サイバースペース」の想像力であり、それに近い疑似体験を視界を覆うヘッドマウントディスプレイやモーション入力装置といったインターフェースで提供しようとする「ヴァーチャルリアリティ(VR:仮想現実)」技術であった。代表的な産物としては米イリノイ大学のトーマス・デファンティらが発表した「CAVE」(1991年)などが挙げられるが、こうした狭義のVRシステムに限らず、ひとまず先進国においてはデジタル技術がもたらすインタラクティブな視聴覚情報のレベルが「もうひとつの現実」として錯覚可能なレベルにまで高まるというかたちで、身も蓋もない現実からのひとときの、ないしは恒常的な退避経験を人々にもたらすようになる。
     1990年代とともに始まる〈仮想現実の時代〉とは、このように性格づけることができるだろう。
     そして一般大衆にとって最も身近なデジタル技術体験となっていたファミコンの世代交代ほど、〈虚構の時代〉から〈仮想現実の時代〉への過渡を端的に示す出来事はないだろう。NECホームエレクトロニクスの「PCエンジン」とセガの「メガドライブ」に続き、いよいよ家庭用ゲーム市場の覇者・任天堂もまた、1990年11月に新型ゲーム機「スーパーファミコン」を市場に投入。その名の通りファミコンの直接の後継機として発売されたスーファミは、「65C816」互換の16ビットCPUであるリコーの「5A22」を搭載し、背景の多重スクロールや描画オブジェクトの拡大縮小・回転機能など大幅に向上した視聴覚性能により、再びファミコンが登場時に有していた他社ハードへの性能的優位を獲得することになる。
     ソフト供給方式はファミコンへの後方互換性を断念した新規格のROMカートリッジ式となったため、翌91年に登場したPCエンジンの「Super CD-ROM2」やメガドラの「メガCD」にデータ容量面では及ばなかったが、ロード時間などで処理時間がかかりメディア普及度も充分ではなかったこれらCD-ROM式の拡張手段を備えるライバル機の追随を許すことはなかった。このように慣れ親しんだカセット交換式の使用感を変えることなく、本体と同時にファミコン最大のヒット作をそのままグレードアップした『スーパーマリオワールド』と、スピード感あふれる優れた擬似3D表現によって機体性能の向上を端的に体感させるレースゲーム『F-ZERO』という完成度の高い2本のタイトルを発売。ファミコン帝国の優位を隙なく継承する任天堂の手堅い売り出し方を前に、国内のほとんどのファミコン所持者は自宅ゲーム機の代替わりにあたって、スーファミ以外の選択肢を思い浮かべることさえなかっただろう。
     ただし北米市場では、スーファミが「SNES(Super Nintendo Entertainment System)」として1991年8月に登場する少し前の同年6月、「Genesis(北米版メガドラ)」向けに横スクロール型の冒険アクションゲーム『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』が発売されている。マリオに対抗するセガの看板キャラクターとすべく造形されたハリネズミのソニックを主人公に、メガドラの高速の画面描画能力を活かし、中裕司ら開発陣が総力を挙げてジェットコースターのような疾走感で新鮮なアクション体験を生み出した本作は、Genesis普及を牽引するキラーソフトへと成長。セガが伝統的に確立していた北米市場での優位とハードの世代交代タイミングの間隙を衝いた販売戦略が奏効し、目論見どおり任天堂と『スーパーマリオ』シリーズの対抗馬の座を獲得、しばらくはSNESのシェアを抑える対等以上のライバルとしてGenesisと『ソニック』シリーズが並び立つ状況を築くことになる。
     こうした日米での展開の違いが生じながらも、スーファミ登場以降の16ビットゲームにおけるインタラクティブな視聴覚体験の高度化は、ファミコン時代のそれとの質的な差異を拡げてゆく。つまり、ファミコン当時のゲームで描かれる粗いドット図像や単純な電子音によって表現しえたのは、総じてゲームが舞台とする架空世界へのイメージを喚起するための抽象化されたシンボルや記号の域に留まっていた。例えば『ドラクエ』ならば、主人公の勇者の姿やアレフガルドの風景は画面上では鳥山明のデザインを大きくディフォルメしたものにならざるをえなかったし、すぎやまこういちの音楽もゲーム音源とは別にオーケストラ演奏のサウンドトラック盤が制作されたりと、作り手や受け手にとってのあるべき姿がゲーム機の生成する表象の外に思い描かれてきた。そうした「ここではないどこか」を想定する表現志向は、ジャンルを越えた〈虚構の時代〉の心性の共通の特徴でもあった。
     対してスーファミ世代のゲーム機では、作り手側のイメージデザインがゲーム上の表象として再現できる度合いが大幅に高まり、受け手の側も画面上で展開される出来事をそのままの具象として鑑賞する態度がしだいに強まっていく。例えば二大RPGシリーズとしてスーファミ初のリリースとなった『ファイナルファンタジーIV』(1991年 スクウェア)では、強力な一本道シナリオの中で名前も性格もあらかじめ明確に設定されたキャラクターたちの図像が、ストーリーイベントのたびに画面上を自動的に動いて「芝居」を繰り広げる。そこではプレイヤーが能動的な想像によってそれぞれの物語や世界観を自由に半創造するというクラシカルなRPGの醍醐味は減少しつつも、ゲームソフト内で描写される「いま、ここ」の世界に没入するだけで完成度の高い仮想体験が得られるようになったのだとも言える。このようなゲーム設計を典型として、外部を必要としない自己完結的なインタラクションの体系、すなわち〈仮想現実の時代〉のモードが全面化していったのである。
     
     
    ■日米シミュレーションゲームの発想の対称分化
     
     こうした〈仮想現実の時代〉の心性は、ハードウェアの単線的な発展の帰結というだけでなく、むしろ新たに登場したゲームデザインの発想の中に濃厚に見出すことができる。その筆頭に挙げるべきが、アメリカのウィル・ライトが制作した都市造成・経営シミュレーション『シムシティ』(1989年 マクシス)であり、イギリスのピーター・モリニュー制作による宗教戦争シミュレーション『ポピュラス』(1989年 ブルフロッグ)であろう。MacintoshやAmiga、IBM PCといった英語圏のパソコン用ソフトとして人気を博した両作は、それぞれプレイヤーが市長や神といった超越的な立場から種々の指示を与え、そのコマンドに従いながらも統治下の街や民衆が自律的な発展を遂げ、フィールドの状況が刻々とリアルタイムに変化していく点を際立った特徴としていた。
     ウォーシミュレーションを典型とする従来のSLGは、基本的にはチェスや将棋のようなターン制ボードゲームの延長線上に、「対戦相手」と「ジャッジ」役をコンピューターに代行させるかたちで成立していたと言える。つまり、例えば戦場をヘックス状のマス目で構成された盤面上に一定の移動能力や攻撃能力などが定められた兵種を表す駒(ユニット)を配置するなど、現実の戦争を抽象化・簡略化したルールで表現し、放っておけば何も起こらない静的な状態空間において対戦者が交互に指示を加え合うことによって不連続に変化を積み重ねる中で、それぞれが他方に対する勝利条件の達成を目指すというものだった。これが1990年代にはコンピューター性能の進歩によって人間が一度に処理できる量をはるかに越えた無数の状態パラメーターを同時処理可能になり、ほぼ連続的と言っても差し支えないほどの多段階の状況変化をプログラムが生成し、まるでアニメーション映像のようにグラフィカルに描画出力可能になった。
     その結果『シムシティ』や『ポピュラス』では、画面上の多数のユニット群が単なるチェスの駒のような静的な存在の域を越え、あたかも「もうひとつの現実」の中で勝手に挙動する生命のように感受可能になり、それらの群体が自律的に進化する箱庭的な社会や世界を“神の視座”から俯瞰し干渉するようなゲーム体験がもたらされたのである。この体験的本質をロジェ・カイヨワによる遊びの4類型に当てはめて説明するなら、従来のウォーゲーム型SLGが盤面上でプレイヤー同士が合理的戦略を練り合いながら互いを打ち負かそうとする〈闘技(アゴン)〉の性格が優勢な遊びだったとすれば、『シムシティ』『ポピュラス』はここにプレイヤーの意志を越えたコンピューターによる自律変化を擬似的な自然法則として取り込むことで、サイコロを振るよりは決定論的ながら容易には予測統御のできないレベルの〈運(アレア)〉の要素を生成しようとしたものだったと言えるだろう。
     このことはちょうど、同時代の専門的なコンピューター科学の領域では、かつてマンハッタン計画を遂行した米ロスアラモス国立研究所を母体とするサンタフェ研究所などを中心に、「複雑系の科学」の一分野としてクリストファー・ラングトンらによってコンピューターシミュレーションを利用した「人工生命(Artificial Life)」と呼ばれる領域が勃興していたこととも軌を一にする変化でもあった。人工生命とは、いきなりトップダウン式に人間の知性をモデル化しようとしたかつての人工知能とは異なり、生物個体や細胞などを擬制した単純な数理アルゴリズムで記述されるエージェントを多数同時に作用させるなどしてボトムアップ式に一定の秩序をデジタル空間上に形成することで、発生や進化などの生命の本質を構築的に再現しようとする学問ないしメディアアートの手法である。第2章にも述べたコンウェイの「ライフゲーム」の発想の発展形とも言えるこの分野の発想は、コンピューターを自然法則の代行役に据えて一定の自律性をもった仮想的な生態系を再現しようとするという意味で、のちに様々な題材にシリーズ化するライトの『シムシティ』や『ポピュラス』のゲームデザインとも完全に底を通じている。
     このように、コンピューターが再現するアルゴリズミックな自律性を通じて自然生態系の本質を体感しテクノロジーを媒介とした合一化を図ろうとする発想は、アメリカ西海岸のヒッピームーブメントから連綿と受け継がれてきたニューエイジ的な思想のひとつの結実でもあった。
     以上のような文脈から生じた『シムシティ』『ポピュラス』がスーファミの初期ラインナップ内として移植されて上陸したことで、日本の一般的なゲームファンたちも国内ゲームの自生的な発展とは大きく異なる米欧流の〈仮想現実〉構築のセンスに直面し、『テトリス』に続く「洋ゲー」ショックとしてこれを迎えることになる。 
  • 日本アニメの歴史に高畑勲をどう位置づけるか――井上伸一郎×宇野常寛『かぐや姫の物語』対談 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.031 ☆

    2014-03-17 07:00  
    220pt

    日本アニメの歴史に
    高畑勲をどう位置づけるか
    井上伸一郎×宇野常寛
    『かぐや姫の物語』対談
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.3.14 vol.030
    http://wakusei2nd.com


    ついに昨年11月、8年の製作期間を経て公開された高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』。今回は、KADOKAWA代表取締役専務の井上伸一郎さんを迎えて、高畑勲の日本アニメーション史における位置づけに迫りました。
    初出:サイゾー14年3月号
     
    ▼プロフィール
    井上伸一郎(いのうえ・しんいちろう)[株式会社KADOKAWA代表取締役専務]
    1959年生まれ。大学在学中から「アニメック」の編集者として活動。87年にザテレビジョン社(当時)に入社。「月刊ニュータイプ」の創刊に参画、後に同誌編集長となる。07年角川書店社長就任、グループ再編により13年より現職。
     
    ◎構成:稲葉ほたて
     
     
    宇野 実は、そもそも僕が高畑勲作品に興味を持ったきっかけは、高校の頃、古本屋で偶然手に取った「アニメック」【1】で井上さんが書いた『赤毛のアン』【2】特集なんですよ。なので高畑勲について語る時は、ぜひ井上さんを呼びたいと思っていました。今日だけアニメライターに戻って、お話を聞かせていただきたいと思います。
    井上 緊張しますね(笑)。私が編集アルバイトで最初に担当した特集です。
     『かぐや姫の物語』の感想を話すと、すでにいろいろな人が言ってることですが、竹取物語の話から基本的に全く変えてなかったのがびっくりしました。キャッチコピーが「姫の犯した罪と罰。」でしょう。これまでの解釈にないものをいっぱい入れてくるのかと思ったら、5人の貴公子に課題を与える有名なエピソードも含め、そのまま素直にやってきた。だけど物語的にはちっとも古びた感じがしなかったのが、さらに驚きました。
    宇野 僕は実は、高畑さんの映画作品はリアルタイムで観た中では、そんなに好きなのがないんです。毎回出落ち感がある(笑)。もちろん、『火垂るの墓』【3】なんかは長崎で小学生の頃に反戦教育を受けた自分から見ても、どんな反戦ビデオの生映像よりも恐ろしさを訴える力があった。「アニメだからこそ描くことができる現実がある」という確信が高畑演出の本質だと僕はずっと思っています。
     でも、『おもひでぽろぽろ』【4】も『ホーホケキョ となりの山田くん』【5】も、作画演出的には最先端なことはよくわかるけど、表現力が高すぎるせいで演出コンセプトがすぐわかってしまい、「ああ、これがやりたかったのね」と思ってしまう。話も単に戦後市民派のテンプレートみたいな内容だし。本当は細かいところですごいことをやっているのだろうけど、なかなか伝わらないのがもったいない。
     でも、今回の『かぐや姫の物語』は、観てしまうとその圧倒的なすごさが細部まで伝わると思いました。井上さんがおっしゃるように完全に知ってる「竹取物語」なのに、絵だけでも飽きないし2時間ストーリーとして追える。ただ、最後の場面で、姫がなぜここに来たかを自分でセリフで言ってしまったのは、若干もったいなかったですね。世界の美しさとは何かという話は、作画演出力で十分に表現できているはずなんです。
    井上 この最後のシーンについて宇野さんに質問してみたいのですが、天界の、雲の上から来る人たちの恐ろしさというのは、見方によってはユートピアとはディストピアでもあり、心というか感受性をなくしたほうが人間は幸せになれると受け取れるでしょう。でも、猥雑で罪はいっぱいあるけれど、現世のほうが魅力的だよという話を高畑さんは作られたのかなと、私は大雑把な解釈をしたんですが。
    宇野 あのシーンで面白いのは、姫をあれだけ全力で描き滔々と演説もしてるのに、もしかしたら捨丸も含め誰一人として彼女の理解者がいないことだと思います。「何でそんなに地球にこだわるの?」と。
    井上 その孤独さはありますね。かつて地上に落ちた天人【6】だけがわずかにシンクロできるような感じなんでしょう。
    宇野 高畑さんには、表面には出さないけど抱えている「無常観」があると思うんです。例えば、宮崎駿さんのそういう毒の部分は言ってみればムスカ【7】で、彼には宮崎さんが抱える大衆憎悪や残酷性が出ている。高畑さんの場合、人間の心の機微や人の目から見た世界の美しさとかを丁寧に追うんだけど、その一方でものすごく突き放してる。今回の姫と捨丸のエピソードも、再会時に彼に家族がいるのは明らかに意図的ですよね。成就の可能性を完璧に潰した上で、あの飛行のシーンを描いている。
    井上 人間に対する見方が厳しい人ですよね。『火垂るの墓』でも、清太が死ぬのは結局、誰にも頼らなかったから。普通のアニメ作家は彼の行為を英雄的に称えるだろうけれど、それは間違いだ、罪だよと示す。そういう冷徹な現実の突きつけ方を常にしてくるのが高畑作品の怖さです。『平成狸合戦ぽんぽこ』【8】の狸も、ギャグ的に描かれてるのに死んじゃうしね。
    宇野 あのキャラクターであんなに普通に死ぬんだ、と思いますね。
    井上 あと絵の話をすると、鉛筆の描線をうまく取り込んで、なおかつ背景と一体化したことですね。こんな面倒なことは高畑さんしかやらない(笑)。絵的なチャレンジは、実は宮崎さんより高畑さんのほうがたくさんしているんです。宮崎さんはやっぱり自分の絵が動くのが好きなんですね。自分の絵の最高の動きを常に求めている人で、だから皆安心して観に行ける。
     『ぽんぽこ』は、ものすごくリアルな狸、マンガ・アニメ的ないわゆる半擬人化されたキャラクターの狸、さらにマンガっぽくなった谷岡ヤスジみたいな狸、と描き方が一瞬で変わっていくけど、それがちゃんと同じキャラに見える。ああいうことをわざわざやるのは、絵描き出身じゃない故のアニメに対する突き詰め方なんでしょうね。
    宇野 その「絵が違うのに同じキャラクターに見える」というのは、高畑さんを考える上で大きい問題だと思うんですよ。
     今回の「かぐや姫」でも皆が最初に驚くのは、タケノコがいつの間にか同じカットの中で成長してしまっている場面でしょう。僕はあれを観たときに、『赤毛のアン』の第37章「15歳の春」を思い出した。この回でアンの等身が変わるのだけど、観ている人にはまるでいつの間にか成長していたかのように見える演出の力があって、マリラと一緒に泣きたくなるんです。
     それは、大塚英志の言う「アトムの命題」問題を逆手にとったんだと思う。つまり、絵の記号性で同一性を担保しているマンガやアニメのキャラクターの身体は成長しないんだという観る側の無意識に訴えかけて、成長に伴う喪失感を描いた。そこには最初に言った、高畑演出の本質が現れていると思います。そういう点で、今作は高畑さんの自己解説的な部分があって、最後の集大成的な作品のような気がしてしまうんですよね。
    井上 いや、それは違うと思いますよ。過去のインタビュー等を読んでの推測ですが、高畑さんが最後に作りたいのは多分『平家物語』なんです。今回の作品も含め、それに向けた習作なんじゃないかな。
    宇野 なるほど、それは観てみたいですね。高畑さんは間違いなく永遠なんてないと思っている、まさに「無常観」の人ですから。
     
     
    ■『けいおん!』の源流もここに 高畑勲という孤高の存在
     
    宇野 これは伺ってみたかったのですが、高畑さんはアニメ史的にどう位置付けられるのでしょうか?
     
  • 「宇野常寛のオールナイトニッポン0(zero)金曜日~3月7日放送全文書き起こし!」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.030 ☆

    2014-03-14 19:00  
    220pt
    3/7 宇野ゼロ
    きょうは突然!!
    アイドルの小池美由さんが登場して
    みなさまを驚かせてしまいましたね。(笑)
    お楽しみ頂けましたでしょうか?
    さすがの宇野も小池さんの元気パワーを前に
    圧倒されていた場面もありました。
    小池さん本当にありがとうございました。
    _
    さて、いよいよ来週にせまってきた宇野フェス。
    日時は 3月15日・土曜日 お昼の1時30分〜(約2時間)
    場所は、ニッポン放送 地下2階イマジン・スタジオです。
    参加したい人は今すぐメールを送って下さい。
    また、企画は3つ
    ①第2次 評論ライムバトル 
    (2分間のライムバトル形式で予選と決勝を行います。
    参加ご希望の方は評論する2作品を選んでメールを送って下さい。)
    ②シチュエーション48
    ( AKB48のメンバーとの究極のシチュエーションを書いてメールして下さい。)
    ③第2回宇野ゼロ リスナーの魂を開放するプロジェクト
    (宇野に相談したいことがある人はメール送って下さい。)
    1つの企画だけでもOKです。
    モチロン全部の企画に参加しても構いません。
    事前にメールを送って下さい。
    アドレスはuno@allnightnippon.com
    当日は、頂いたメールの方の中から出場者を選びます。
    <Playlist, 3/8 2014>
    M1: シューベルトの子守唄 / 島田祐子
    M2: キミをみつめてる / 小池美由
    M3: KONJO / AKB48
    M4: 東京 / wacci
    M5: 汚れちまった悲しみに / 一世風靡セピア
    M6: hooting Star / 小池美由
    M7: アバヨ・フライ・バイ / 山形ユキオ
  • 消費があぶり出す新しい政治性の見取図――原田曜平×速水健朗×宇野常寛『ヤンキー消費とフード右翼――新しいブルーカラーと郊外文化のゆくえ』現場レポート ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.029 ☆

    2014-03-13 07:00  
    220pt

    消費があぶり出す新しい政治性の見取図
    原田曜平×速水健朗×宇野常寛
    『ヤンキー消費とフード右翼
    ――新しいブルーカラーと郊外文化のゆくえ』
    現場レポート
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.3.13 vol.029
    http://wakusei2nd.com


    『ヤンキー経済』で生活保守層の登場を指摘した原田曜平と『フード左翼とフード右翼』で食の消費から政治意識を炙りだした速水健朗。司会・宇野常寛を交えて三者が語った「新しいブルーカラーと郊外文化のゆくえ」とは?
    3月9日の夜、おなじみ高田馬場10°CAFEで開催された本イベントは、
    夜遅い時間にも関わらず超満員。
    あふれんばかりの聴衆を前に白熱した議論は、延長に延長を重ね、
    10°CAFE側の断固たるストップが出るまで続いたほどだった……。
    この記事ではトークの内容をダイジェストでお届けします!熱い議論を動画で見たい方は以下からどうぞ(PLANETS会員は無料で試聴できます)。【前編】
    http://www.nicovideo.jp/watch/1394613870
    【中編】
    http://www.nicovideo.jp/watch/1394614246
    【後編】
    http://www.nicovideo.jp/watch/1394618976
     
    ◎文:真辺昂
     
     
    ■「『フード左翼とフード右翼』と『ヤンキー経済』はいわばコインの裏表」
     

    ▲原田曜平さん
     
    「僕は普段、若い人向けのビジネスをしていて、ずっとどうやって若者に消費させるかについて考えてきました。それで『地方の若者の方が消費意欲があがっているんじゃないか?』と思いはじめて、それが『ヤンキー経済』を書こうと思った最初の動機ですね。調査をしていくうちに〈ジモト/なかま〉を極端に愛する若者像が見えてきて、僕はそれを〈マイルドヤンキー〉と名づけました。そして彼ら〈マイルドヤンキー〉の消費傾向やライフスタイルを若者の協力を得ながら調査する形で、この本ができました。」(原田)
     

    ▲速水健朗さん
     
    「『ヤンキー経済』でもっとも重要なのは〈マイルドヤンキー〉って言葉を創ったことですよね。巷にはヤンキー論ってたくさんあるけど、原田さんの『ヤンキー経済』は、従来のヤンキーとはまったく異なる新しい消費層(=マイルドヤンキー)を明確に浮き彫りにしている。みんな、ぼんやりと〈ジモト/なかま〉的な若者像を感じてたけど、イマイチその存在を捉えきれていなかった。原田さんはそのポイントをうまくついたと思う。僕の『フード左翼とフード右翼』は、『食文化をみることで都市の富裕層の思想傾向を分析してみよう!』という本で、『消費傾向から政治的立場を切り出そう』と試みているという意味で、『ヤンキー経済』と裏表になっていると思う。」(速水)
    「僕はお二人の本を読んで、『これ、どっちも俺のことじゃん』と思いました。原田さんが名づけた〈マイルドヤンキー〉たちの『同年代のやつらとダラダラ/外に出たくない』的心象に僕は少なからず共感するし、一方で速水さんの『フード左翼とフード右翼』の概念で整理すると僕の食文化の変遷はまさにフード右翼からフード左翼への転向なんですよね。そこで問いたいんだけど、果たして僕の消費傾向から政治的立場って判断できるのかな?という疑問がある」(宇野)
    この宇野の問題提起を皮切りに議論は白熱。以降「消費傾向と政治的立場はどう相関するのか?」というテーマでトークは進み、「フード左翼はさらに2系統に分けられる」「リバタリアンとオールド左翼が共にフード左翼である問題」「『頭の悪いフード左翼=放射脳』説」など、さまざまな話題にまで及んだ。
     
     
    ■「ほとんどの企業は〈マイルドヤンキー〉の子たちををわかっていないと思います。」(原田)
     
    「現代のヤンキーの特徴は、一言でいうと『脱アウトロー化』だと思う。これは重要な変化で、僕はここに2つの漫画作品を挙げることによって議論に補助線を引きたい。一つ目は高橋ヒロシの『クローズ』で、読んでいてびっくりするくらい〈先生〉や〈女性〉といったアイコンが出てこない。『クローズ』は、ヤンキーからアウトローとしての意味が失われた『脱アウトロー』の世界観なんですよね。二つ目は去年最終回を迎えた『頭文字D』で、あの作品で描かれていた90年代の走り屋のコミュニティとそのメンタリティは、原田さんが指摘している〈マイルドヤンキー〉の世界観を先取りしていたのではないか。」(宇野)
     
  • 月島花は坊屋春道を超えられたか――クローズ/WORSTが描いた男性性の臨界点 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.028 ☆

    2014-03-12 07:00  
    220pt

    月島花は坊屋春道を超えられたかクローズ/WORSTが描いた男性性の臨界点
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.3.12 vol.028
    http://wakusei2nd.com


    傑作不良漫画『クローズ』の続編として描かれ、12年の歳月をかけて昨年完結した『WORST』。坊屋春道なきあとの鈴蘭を描いた本作を通じて見えてくる『クローズ』が描いた男性性の臨界点とは。(※ 昨日予告した内容は明日の配信に変更となりました)
    初出:ダ・ヴィンチ2013年11月号〈「オレはおまえらと同じで/よそを放り出されて鈴蘭へ来たただの勉強ぎらいさ/ただちょっと違うのは/オレはグレてもいねーしひねくれてもいねえ!/オレは不良なんかじゃねーし悪党でもねえ!!〉
     髙橋ヒロシによる90年代を代表するヤンキー漫画『クローズ』は、主人公・坊屋春道の自分は不良「ではない」という宣言ではじまった。引用したのはそんな彼=春道が物語の冒頭、転入してきたばかりの高校で貴様は何者だと問われたときの返答だ。舞台となる架空の高校・鈴蘭男子高校はとある街にあるいわゆる「底辺」高校だ。不良少年の巣窟である同校では、その社会の「覇権」をめぐって常に派閥抗争が繰り広げられている。しかし所属する生徒の大半が不良高校生である鈴蘭は常に群雄割拠の状態にあり、もう何世代にもわたり「統一政権」が生まれていないのだという。世代を超えて数えきれないほどの不良少年がその統一を夢見て入学し、3年間をケンカに明け暮れて過ごし、そして鈴蘭統一の志半ばで卒業していく……そんな無限ループが永遠に続く世界に、春道は転校してきたのだ。
     春道は圧倒的な戦闘力を見せつけ、彼に戦いを挑む鈴蘭内の各派閥の領袖たちをことごとく破ってゆく。その勇名はやがて彼を他校との抗争の中に導いてゆくが、春道はその挑戦者たちをもことごとくほぼ初戦でノックアウトしてゆく。なぜ春道は「強い」のか。
     答えは既に春道自身の口から語られている。春道は「グレてもい」なければ、「不良なんか」でもないからだ。
     坊屋春道は劇中でほとんど唯一、鈴蘭の統一など不良少年社会での権力の獲得に興味を「示さない」人物として描かれている。そう、「グレてもいない」し「不良でもない」春道は単に「勉強が嫌い」で「ケンカが好き」なだけで、決してアウトローであることに意味を見出していないのだ。したがって「鈴蘭のてっぺん」にも「大人社会への反抗」にも興味がない。彼が戦う理由はふたつ、仲間を守るためと自分の快楽、面白さのためだ。そんな春道に、鈴蘭の統一や不良少年社会での覇権を夢見る少年たちが次々と挑戦し、そして敗れていくことで物語は進行する。
     これが意味するところは何か。髙橋ヒロシがここで描いているのは、ヤンキー漫画がその数十年の歴史の中で育んできた男性ナルシシズムの更新、「カッコイイ男」のイメージの更新だ。春道は不良少年たちの世界──思春期の数年間だけそこに留まることができるモラトリアム空間、疑似的な社会──の中での自己実現に拘泥する少年たちを愛情をもって退ける。「不良」である彼らは一般の社会から疎外されたアウトローであるという自覚を持ち、それゆえにもうひとつの社会での自己実現を権力奪取というかたちで目論む。しかし、そんな自己実現に全く興味を示さない春道に敗れることで、彼らはことごとく転向してゆく。疑似社会での期間限定の自己実現ではなく、ケンカすることそれ自体を楽しみ、魂を燃焼させることに美的な達成を見るという春道の示したモデルに転向してゆくのだ。(劇中で春道と互角以上の戦いを展開することができたのは、同様に権力闘争に興味を持たない林田恵・通称リンダマンのみだ。)
     ここで髙橋が坊屋春道という男に託したのは、これまでのヤンキー漫画の美学の延長線上にありながらも、少なくとも従来の意味では「グレてもい」なければ、「不良なんか」でもない男の理想像、「大人社会への反抗」に意味を見出し、アウトローであることにアイデンティティを見出さ「ない」男の理想像に他ならない。だからこそ、この物語では従来のモデルの不良少年が春道の影響下に転向してゆくという物語が描かれたのだ。
     そんな坊屋春道の最後の戦いは、全国的な勢力を誇る不良少年グループ「萬侍帝國」の幹部・九頭神竜男とタイマンだ。不良少年社会=疑似社会の頂点に君臨する九頭神はまさにこの物語で描かれてきた古い、従来の「不良」を代表する存在だ。そう髙橋ヒロシは物語の結末に、春道のこれまでの戦いとは何だったかを総括し、改めて読者に示すエピソードを配置したのだ。
     タイマンの前半、春道は九頭神に対して劣勢を見せる。戦いを見守るのは春道の後輩・花澤(通称ゼットン)と九頭神の舎弟・トシオだ。呑気にタイマンを見守るゼットンに、トシオは問いかける。「おまえアニキ分がやられているのによくそんなもん食ってられるな!」と。しかしゼットンは動じない。それどころか「オレはあの人(春道)の子分でも舎弟でもない」と告げる。これは間違いなく、春道がその登場時に述べた自己規定の言葉と対応したものだ。「不良」でもなければ「グレて」もいない春道の後輩は「子分」でも「舎弟」でもないのだ。そしてゼットンはトシオに告げる。「九頭神竜男が最強の男なら坊屋春道は最高の男よ! たかが最強程度で最高に勝てるわけがねーだろうが!」と。
    「最強の男」とは何か。それはアウトローたちのもうひとつの世界での自己実現=権力奪取を夢見る少年たちの到達点だ。現実の社会と歴史に生きる証を見つけられなくなった代わりに、もうひとつの社会ともうひとつの歴史を生きることで自己実現を果たそうとするアウトローたちの到達点だ。対して「最高の男」とは何か。それは「最強の男」が目指す疑似社会での自己実現に背を向け、いま、ここの一瞬の魂のきらめきに美的な達成を見出す生き方だ。何かのために戦う(ケンカする)のではなく、戦うこと自体が目的なのだ。ある自己実現のモデルを追求し、その中で強弱を競い勝ち抜いた人間が「最強」だとするのなら、最初からそのモデルの限界を前提とし、別のモデルを追求している人間が「最高」なのだ。「最強」が「最高」に「勝てるわけがない」のはそのためだ。
    『クローズ』の世界にはたとえばほとんど「大人」と「女性」が登場しない。そう、彼らには乗り越えるべき「父」も、守るべき「女」も存在しないのだ。かつての男性的なもの=最強の男が通用しなくなった新しい世界の、あたらしい男性性のモデルを提示すること、それが『クローズ』の主題であり坊屋春道が体現した「最強から最高へ」の変化なのだ。(そして髙橋ヒロシの手を離れ、オリジナルのストーリーが展開する前日譚の映画「クローズZERO」シリーズはまさに、主人公が父を乗り越え、ヒロインを救い鈴蘭統一を目指す「最強の男」の物語として描かれ、春道の転入直前の春に主人公が鈴蘭を統一を果たせずに卒業するシーンで終わる。映画版の制作者たちは、髙橋ヒロシが坊屋春道という主人公を通して『クローズ』が提示した世界観の本質を正しく理解し、新旧の主人公を対照的に配置したのだろう。)
     そして物語は春道の影響下に「最強」から「最高」へとその生き方を変化させていった少年たちの卒業を描いて幕を下ろす。ある者は大工、ある者はボクサー、ある者はミュージシャン──それぞれの夢を現実社会の中に見出し、彼らは卒業していく。たとえその夢が実現できなくとも、夢を追うその過程に快楽を見出すことができれば、彼らは「最高」でいられるだろう。しかし、物語のエピローグは読者をあたらしい迷宮へといざなっていく。当の春道だけが、「最高の男」の頂点に立つ坊屋春道だけが「卒業」することができず、留年し鈴蘭高校に留まったことがエピローグでは描かれるのだ。
     そう、この物語では坊屋春道だけが「卒業」することができなかったのだ。もっと言ってしまえば春道だけが「成長」することができなかったのだ。なぜならば、『クローズ』における成長=卒業とは「最強の男」的な生き方からの「卒業」であり、登場した時点で既に「最高の男」である春道にはその必要がなかったからだ。
     では、春道はその後どこに向かっていけばいいのだろうか。この巨大な問いに立ち向かったのが、『クローズ』の続編である『WORST』だ。
     
  • 【3.11特別掲載】ウェブで政治は変わらなかった?――宇野常寛が語る3年目の帰結と今後 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.027 ☆

    2014-03-11 07:00  

    【3.11特別掲載】
    ウェブで政治は変わらなかった?
    ――宇野常寛が語る3年目の帰結と今後
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.3.11 vol.027
    http://wakusei2nd.com


    2011年のあの日から3年――。この期間は新しい世代のネット文化が、日本社会に浸透していった時間でもありました。あれから2回の総選挙を経て見えてきた、その「文化運動」の帰結を宇野が語ります。
    (※この記事は編集部による聞き書きです)■失敗に終わった「動員の革命」
     
    この3年間を振り返ってみると、「動員の革命」「ウェブで政治を動かす」というような――奇しくも両方とも津田大介さんの言葉だけど――インターネット・ポピュリズムで政治にコミットする運動が盛り上がった時間だったように思うんだよね。それはある意味で、団塊ジュニアの文化人や言論人たちが主導してきた文化運動の政治的な帰結だったとも
  • 「2020年に東京は旧市街と新市街に分裂する」 ――五輪の生むデュアルシティをハッキングせよ! 建築学者・門脇耕三インタビュー☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.026 ☆

    2014-03-10 07:00  

    「2020年に東京は旧市街と新市街に分裂する」
    ――五輪の生むデュアルシティをハッキングせよ!
    建築学者・門脇耕三インタビュー
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.3.10 vol.026
    http://wakusei2nd.com

    「東京都は新旧文化の対立の時代へと向かう」今回のP9プロジェクトチームインタビューは気鋭の建築学者・門脇耕三さんです。招致委員会が提出した2020年『オリンピック計画』を読み解き、東京と建築の未来像を語ってもらいました。
    【PLANETS vol.9(P9)プロジェクトチーム連続インタビュー第3回】
    この連載では、評論家/PLANETS編集長の宇野常寛が各界の「この人は!」と思って集めた、『PLANETS vol.9 特集:東京2020(仮)』(略称:P9)制作のためのドリームチームのメンバーに連続インタビューしていきます。2020年のオリンピックと
  • 「宇野常寛のオールナイトニッポン0(zero)金曜日~2月28日放送全文書き起こし!」☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.025 ☆

    2014-03-07 19:00  
    220pt
    2/28 宇野ゼロ!!(第2回 宇野FES!決定)
    今週は何と言っても『AKB48グループ 大組閣祭り』!!
    "システムはいじらず、メーンバーの移動には容赦がなかった。"
    良くも悪くも涙を流すメンバーをみての感想は、
    "秋元康さんは問題を逆手に取って成功に導いてきている
    そのスピリッツをメンバーも受け継いでくれるといいのに"とのこと。
    ちなみに、AKB48本体から地方に移ったメンバーはみんな成功しているので、
    "地方からAKB48本体にくるメンバーが成功する工夫もあるといいのに"
    とも言っていましたね。
    _
    そして今週はスペシャルゲストとして
    株式会社アクティブラーニング 代表取締役 社長 
    羽根拓也さんにお越し頂きました。
    宇野とのトークで"討論の本質"が垣間見えましたね。
    0228ANN0.JPG
    羽根さん、ありがとうございました。
    _
    さらに、緊急発表!!
    3/15(土) Open 13:00 / Start 13:30
    ニッポン放送 地下2階イマジン・スタジオにて
    "第2回 宇野FES!"を開催します。  
    と言うことで...
    参加ご希望の方は
    件名に『宇野FES参加希望』、
    本文に住所・氏名・お電話番号を記入の上
    uno@allnightnippon.comまでメールでご応募下さい。
    宇野FES!でこんな企画やって欲しい 等
    みなさんからの企画も大募集中です。
    _
    <Playlist 0228,2014>
    M1 Party is over /AKB48
    M2 ファンレター / AKB48(Team K)
    M3 大岡越前のテーマ / 山下毅雄
    M4 亜空大作戦のテーマ / 片桐圭一
    ※アナーキーリクエスト from 宇宙かくれ超人
    M5 浪漫飛行 / 米米クラブ
    M6 So Long! / AKB 48
  • "走り屋"は時が止まった世界で戯れる――『頭文字D』の"D"とはなにか ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.024 ☆

    2014-03-06 07:00  
    220pt

    "走り屋"は時が止まった世界で戯れる
    『頭文字D』の"D"とはなにか
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2014.3.6 vol.024
    http://wakusei2nd.com

    【お蔵出し】「D」は〇〇〇〇の「D」
    (初出:「ダ・ヴィンチ」2014年3月号)



    昨年、18年にわたる連載が完結した『頭文字D』。成長物語を志向した当初の展開とは裏腹に地元での抗争に終始したこの漫画をサブカルチャー史の大きな流れから宇野が読み解きます。

      正月休みに組み立てるレゴとプラモデルを買いに、池袋に出かけた。たぶん、大晦日のことだったと思う。僕は数時間後に大島優子が卒業を発表することも知らずに、混みあうビックカメラの6階でレゴ・アーキテクチャーのマリーナ・ベイ・サンズと、1/144スケールのガンダムF91を手にして浮かれていた。6人待ちのレジに並んで、8割の期待と2割の苛立ちを覚えていたとき、あの車と僕は再会したのだ。
     
     AE86 スプリンタートレノ、通称「ハチロク」。白黒のツートンカラーに塗り分けられたこのタイプ(パンダトレノ)は90年代に全国の「走り屋」たちに愛された名車にして、そんな走り屋たちの世界を題材に展開し、彼らのバイブルとなった漫画『頭文字D』の主人公・藤原拓海の愛車だ。
     
     僕が目にしたのはレジ前のトミカコーナーに積まれた「ハチロク」藤原拓海仕様のミニカーだった。そう、国内を代表する児童向けミニカーシリーズ「トミカ」には、漫画・アニメなどに登場する車を「ドリームトミカ」として発売しているのだが、この年の秋に『頭文字D』のハチロクがラインナップに追加されたのだ。
     
     思わず手に取りながら、そういえばこの漫画の連載も終わったんだな、と思い出していた。そう、この年の夏に18年続いた『頭文字D』の物語はようやく完結を迎えていたのだ。この漫画の連載がヤングマガジンではじまったとき、僕は高校2年生だった。自動車の運転に憧れていても、法律上免許を取ることが許されていない年齢だった。しかし連載が始まった1995年の夏、高校3年生という設定で既に18歳を迎えていた藤原拓海は、免許をとってはじめての夏を迎えていた。作中で物語の舞台は「90年代」としか明かされていないが、仮に連載開始時の1995年だと考えれば拓海は僕と同世代、ひとつ年上のお兄さんにあたる。そんな拓海は自動車の購入計画に胸を弾ませる級友を「何がそんなに楽しいのか」と冷ややかに眺めていた。その拓海の冷めた感想は、実は僕がこの漫画に出会ったときの、そして僕が自動車というものに対して抱いていた感想にそっくりだった。そう、当時の僕は自動車にも、その運転にもまるで興味がない17歳だった。
     
     
     一昨年(2012年)の秋、トヨタ自動車社長の豊田章男氏が「車を持てば、女性にもてると思う」と発言しインターネットの若者層から強い反発を浴びた。豊田社長のこの発言は「若者の車離れ」を食い止めることをテーマに設定したイベントでの発言だったという。しかし、豊田社長は分かっていない。「車を持てば、女性にもてる」という発想が過去のものになったからこそ、若者の「車離れ」は起ったのだ。
     
     戦後という長くて短い時間、自動車はアメリカ的な豊かな社会の象徴であり、それを実力で獲得できる「大人の男」の象徴だった。少年は安価で小回りの利くオートバイに憧れ、やがて自動車に乗り換えて大人の男になっていく。助手席に恋人を乗せるところからスタートして、やがて家族のためにファミリーカーに乗り換え、子育てを終えたあとは趣味の高級車に乗り換える……。そんな時代がこの国にも「あった」のだ。
     
     そして拓海や僕の世代は、そんな物語の重力が失われた最初の世代でもあったはずだ。僕からしてみると、まず、男が女を助手席に乗せて自分の優位を示す、というマッチョな発想についていけない。そして、高校に上がるころにはすっかりバブルも崩壊していた僕らが、いまさら自動車にアメリカ的な豊かな消費生活を見ることなんか、あるわけがない。僕らが思春期を迎えたのは、一度アメリカを追い越したはいいものの、調子に乗ってスピードを出しすぎた結果コーナーを曲りきれず、ガードレールを突き破って谷底に転落した後の時代だ。古本屋で見つけた片岡義男の小説をめくったときは、昔の日本はこうだったのかと文化史の教科書のつもりで読んだ。それがヒルクライムではなく、ダウンヒルの時代に思春期を送った僕ら世代のリアリティだ。僕らにとって自動車を運転することで重要なのは、速く、力強く坂を上がることではなく、ガードレールを突き破らないように器用に坂を下ることだった。
     
     だから僕も、そして藤原拓海もまた、そんな器用にやり遂げることだけを要求される世界=自動車の運転にまったく面白みを感じていなかったのだ。
     
     
     そう、藤原拓海はまったく自覚のないままに卓越したドライビングテクニックを身に付けていた。どうやらかつてプロのレーサーだったらしい父親によって、家業のとうふ屋の納品を代行するという名目で拓海は14歳の頃から自動車の運転を身に付けていた。毎朝、夜明け前に峠を全力疾走していた彼は自分でも気が付かない間にダウンヒルのスペシャリストになっていたのだ。しかし拓海にとってそれは単に効率よく家業の手伝いをこなすための技術であり、無味乾燥な作業だった。
     
     そしてこの『頭文字D』はそんな拓海少年が車の快楽に目覚め、成長していく物語として幕を開ける。少なくとも、物語の開始時はそう構想されていたはずだ。かつて『バリバリ伝説』でオートバイを題材に少年の成長物語を描いたしげの秀一は、おそらくオートバイや自動車がかつて背負っていた物語を失いつつあることを察知して、その回復をこの作品を通して描こうとしていたのではないかと僕は思う。
     
     だからこそ、拓海は父親から受け継いだハチロク(当時すでにレトロカーとして扱われていた)を愛車にしなければならなかったのだ。なぜならば本作は喪われた「車」の物語を回復するための作品としてはじまったのだから。
     
     そして拓海が好きなクラスメートの女子(なつき)は高級車を乗り回す中年男性と援助交際をしていなければならなかったのだ。なぜならば、拓海は強い大人の男に成長して、間違った歳の取り方をした大人の男から彼女の心を奪い取らなければいけなかったのだから。
     
     そして実際に、藤原拓海は走り屋の世界に触れることで、自動車の快楽に目覚めることで社会化し、やがて無難にやり過ごしていた自身の父子家庭や、なつきの問題に向き合っていく。
     
     そして、そんなアナクロな世界観が苦手で、僕は長い時間この漫画のいい読者ではなかった。拓海はやがていわゆる「ラスボス」としての父親と対決し、彼に勝利する。そして仲間たちに見守られながら、地元(群馬)を去り、レーサーになるために東京に発つのだろう。僕はこの物語の展開を勝手にそう決めつけて、そんなありきたりな、そしてアナクロな成長物語にリアリティを感じないと心の中で切り捨てたのだ。
     
     しかし、それは愚かな判断だった。