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  • 「テクネに魂を惹かれて」(落合陽一『魔法の世紀』第7回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.345 ☆

    2015-06-16 07:00  
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    「テクネに魂を惹かれて」(落合陽一『魔法の世紀』第7回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.16 vol.345
    http://wakusei2nd.com


    本日はメディアアーティスト・落合陽一さんの好評連載『魔法の世紀』の最新回をお届けします。 GoogleやApple、ジャスコといったプラットフォーマーが生み出す「多様性」の内実とは? そして、パソコン革命が終わった「次の時代」のアート観とはなにかについて原理的に問い直していきます。
    落合陽一『魔法の世紀』これまでの連載はこちらのリンクから。
     
     
    お久しぶりです落合陽一です。6月も半ばになってきました。新緑の季節ですね。
     
    僕の方は東京大学の博士課程を無事に飛び級で卒業、今月から筑波大で研究室を開きました。今はもう研究論文を書いたり、授業やゼミや月一の公開授業(「魔法使いの研究室 vol.1 テーマ:光」 「vol.2 テーマ:映像と物質」)を行う毎日です。
     
    最近、僕は「人間性を捧げる生活をしているんだよね」とよく口にしています。ここでの「人間性を捧げる生活」とは、「健康で文化的な生活を諦める」という意味ですから、さしづめ僕は人権を研究に捧げているのでしょう。
    そんな僕が今回書くのは、魔法の世紀の文化や芸術がどう人間性をアップデートしていけるのかという話です。と言っても、ここでの人間性は、もっと人類の価値観や暮らし、思想、人類に関わること全般を指しているので、ご安心ください。
     
    そもそも有史以来、芸術や文化は、この人間性をどうやって更新するかを目標に存在してきました。そして現在、コンピュータテクノロジーは我々の文化に深く介入しています。ここで重要になるのが、プラットフォームという概念です。というのも、前回の連載で僕は、あらゆるコンテンツはジャスコに吸収されるということを書きましたが、ジャスコとは――コンピュータ文化でこそないものの――プラットフォームそのものだからです。
    このジャスコ的なもの=プラットフォームというコンテンツ吸収装置の前で、どうやったら我々は文化的閉塞感を打開していくことができるのでしょうか。
     
     
    1.Googleに見るジャスコの思想
     
    前回(『魔法の世紀』第6回:早すぎた魔法使いと世界を変えた四人の弟子)、僕はあらゆる機能を包括する「都市」という存在の象徴として、ジャスコを論じました。
    しかし、インターネットにおけるGoogleのようなプラットフォームの存在もまた都市におけるジャスコと同じような振る舞いをしているように思います。というのも、ジャスコは都市に生きる人々の導線を制御して、コンテンツへとデリバリーしていきますが、同様にグーグルもインターネット上のコンテンツにまつわる導線を制御して、あたかもネット上のあらゆるコンテンツを吸収しているかのように振る舞っているからです。
     
    また、Googleのようなプラットフォームの凄いところは、「土台」を共通化することでコストの最小化を実現しながらも、ユーザーがその上で行う活動については最大限の多様性を保証してしまうことです。しかし、これもジャスコに似ています。モールの中にある服もレストランもスーパー銭湯も、どれも小さいコストで多くのニーズに応えられる場所です。
     
    故に、いまやプラットフォームから得られるコンテンツは最適解に近くなっています。言わば、iPhoneやApple Watchを身につけて、OSやハードを共通化しながらもその上のアプリは多様化していくことで、体験の多様化が起きるというわけです。
     
    しかし、ここで立ち止まって考えてみましょう。それは、本当に「多様化」なのでしょうか。
    そもそも、ジャスコでみんながやっているのは、一体どんなことでしょうか。
    結局はシネコンに行って、イオンモールでご飯を食べて帰るという以上のことはしていないようにも見えます。一見して多様化した体験とは言われながらも、その上に乗っている限りにおいては、プラットフォームに規定されたコンテンツ表現の域を出てはいないのです。僕たちは、ジャスコ的なもの、イオンモール的なもの、Google的なものに吸収されていくコンテンツ体験の中にとどまっています。
     
    もちろん、だったら何が問題なのだ……というのもひとつの見解です。規定された枠の中で、その"お作法"を知った上で感動を生み出していく「文脈のゲーム」というのは、昔からある楽しみ方の一つです。
    例えば、週刊少年ジャンプは昔からずっと、漫画の掲載順位を連載の人気順で決めて、王道の漫画をメディアミックスで提供しています。こういうポップカルチャーにおいては、ジャンプのような形での多様性は大事にされてきましたし、ニコニコ動画のようなCGMプラットフォームにおいても、運営が提供する仕組みによるコスト低下と価値観の最大化のもと、民主化された表現が多様に生まれています。
    確かに、既に可能なことが判明したメディアの上で、こういう民主化された多様性を楽しみ合う表現も大事なものです。しかし、表現の定義を、ひいてはメディアの定義そのものを更新していくような運動もまた重要だと思います。今では特に珍しくもない油絵も、映写機の上でのシネマトグラフも、当時は最先端のメディアであり、各々の時代のアーティストたちがその文法を作り上げてきました。
     
    そのことを我々が忘れてしまったのは、油絵や映画のようなメディアの寿命が長かったからです。
    例えば、映画が分かりやすいでしょう。映画は元々トリックアートのような短編映像が作られていたジャンルでしたが、やがてストーリー的な表現手法が混ぜられていくようになっていきました。これは、映画がそのメディアそのものの更新ではなくて、コンテンツの文脈それ自体の更新で自らを定義するようになった歴史といえるでしょう。その果てに生まれたのが、映像表現によるメディアアートでした。
     
    でも、ジャスコやGoogleが問いかけてくるのは、その先にある世界です。
    なぜなら、もはやメディアの上に乗ったコンテンツは、全てプラットフォームの下位存在にしかならない時代だからです。どんなコンテンツも、プラットフォーム上の多様化でしかなく、その下にあるプラットフォームそのものの刷新には何も影響を及ぼせない。プラットフォームを越えようといくらあがいても、僕たちはプラットフォームの一部分にしかなれない――。
    この連載で指摘してきたような、20世紀的な文脈主義のアート観に乗れば乗るほど、アーティストは単なるジャスコやグーグルの一プロバイダに落ちていくのです。しかし、文化とは果たしてそういうものなのでしょうか?
     
    しかも、この連載でも書いてきたように、ニコニコ動画やYouTubeのようなプラットフォームが複数のコミュニティを生成するようになったことで、僕たちの周りにある「文脈」は飽和状態になりました。その結果、僕が関わってきたメディアアートのような、文脈を複雑に練り上げていくアートは見向きもされなくなりました。そして、本来はメディアそれ自体の刷新を目的にしていたメディアアートは、単なる狭いコミュニティの同業者同士の議論の場以上のものでは、なくなってしまったのでした。
     
     
    2.パソコン革命の終わり
     
    さて、このプラットフォームにあらゆるコンテンツが吸収されていく時代に、一つの回答を示してきた企業があります。それが、Apple社です。
     
    Apple社の思想は、パーソナルコンピュータを開発してきた人々――アイバン・サザランドから、アラン・ケイ、そしてスティーブ・ジョブズへと連なっていくような、人間の能力を拡張する「エンパワーメント」の存在としてコンピュータを捉えていく系譜の中にあります。これは、人間を雑事から開放しようとコンピュータを使い、現在では人工知能へと接近しているグーグルとは異なる系譜の思想にあります。黎明期のコンピュータ史を見れば分かるように、思想として見たときにパソコンの思想と人工知能の思想は、実は似て非なるものです。
    実際、スティーブ・ジョブズはAppleの目指すコンピュータを聞かれて、「人にとっての自転車のようなものを目指す、早く走れたり遠くに行けたりするための道具」と回答しています。人間の身体的特徴や知的能力、表現の自由をコンピュータでいかに拡張していくか――これこそが、パーソナルコンピュータの開発者たちの思想なのです。
     
    そして、彼らのこの姿勢は連載で論じてきたような、コンテクストに依存しない、原理主義的な感動をハードウェアにおいて与えて、人間の新たな可能性を発見していく一つの事例になっているように思います。
    ところが、アップルのCM映像を見れば分かりますが、彼らはこれを20世紀後半のヒューマニズムの文脈で捉えようとしています。その結果、そこに流れる映像はスピリチュアル系のようなものになっています。それは本当に豊かな精神性の獲得といえるのでしょうか?
     
    いくらアップルが「お前らしくあれ」「Think different」と呼びかけても、結局はプラットフォームの上に乗せられたアプリで体験できることには限りがあります。Apple WatchもiPhoneも結局のところ、昔からある営みの中に収まる体験がほとんどなのが良い例です。それを彼らは、自身の出自であるカリフォルニアンイデオロギーから来たスピリチュアルな文脈によって正当化しようとしているようにも見えます。
    しかし、それは彼らがモノのちからを信じきれなくなりつつあるから、とも言えはしないでしょうか。ハードウェアによる原理的な体験の更新を志向していたはずのAppleが、文脈主義的なブランド戦略に傾いてしまっている――そんなようにも思えるのです。
     
    Macという素晴らしいデバイスを使うことは、本来は人間の個性を浮き彫りにして、根本的に人間性を拡張するはずでした。しかし、現状ではせいぜいリンゴマークのそばに貼られたシールの数という程度にしか、ユーザーの間には違いがありません。
    実際、ジョブズの死後に出たApple Watchを僕は3章で好意的に取り上げましたが、あのデバイスが実際に出てきて明らかになったのは、むしろAppleがテクノロジーによる人間のエンパワーメントを諦めて、ブランド戦略に向かったということでした。
    それは、Mac、iPhoneと、パーソナルコンピュータの革命を先導してきたApple社が告げた、革命の時代の終わりだったようにも思います。今や人々にGUIのユーザーインターフェイスは浸透して、開発のためのプラットフォームも行き渡りました。その時代に、Apple Watch程度のハードウェアの革新では、人間性のアップデートにつながるほどのインパクトは持てなかったのだと思います。
    とすれば、この「Apple以後」の世界において、僕たちアーティストはどうやって自らを刷新していけばいいのでしょうか? 
     
    僕はここで再びデジタルカルチャーの大元に戻りたいと思うのです。それは、マウスの発明者であり、ハイパーテキストなどの生みの親であるダグラス・エンゲルバートです。彼は、マウスの発明について聞かれたときに、以下のように答えました。
     

    Mouse was a tiny step of larger project aimed at augmenting human intellect.
    ――マウスは人間の知性を拡張するためのもっと大きなプロジェクトにおける小さな一歩にすぎなかった。

     
    彼にとって、マウスは単なる操作しやすいユーザーインターフェースの発明ではなかったのです。彼は、人間の知性をコンピュータでいかに拡張していくかという発想から、それを生み出しました。コンピュータは、他の自動車や自転車や冷蔵庫のような装置や単なる道具ではない――そういう確信が、エンゲルバートにはあったのです。
     
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  • 月曜ナビゲーター・宇野常寛 J-WAVE「THE HANGOUT」6月8日放送書き起こし! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.344 ☆

    2015-06-15 07:00  
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    月曜ナビゲーター・宇野常寛J-WAVE「THE HANGOUT」6月8日放送書き起こし!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.15 vol.344
    http://wakusei2nd.com


    大好評放送中! 宇野常寛がナビゲーターをつとめるJ-WAVE「THE HANGOUT」月曜日。ほぼ惑月曜日は、前週分のラジオ書き起こしダイジェストをお届けします!
     

    ▲先週の放送は、こちらからお聴きいただけます!
     
    ■オープニングトーク
     
    宇野 時刻は午後11時30分を回りました。こんばんは。評論家の宇野常寛です。すこし前の話なんですけれども、仕事で「機動戦士ガンダム」シリーズの生みの親、富野由悠季監督とすごく久しぶりに会って、お話をしてきたんです。富野監督というのは、僕がこれまでに最も影響を受けた作家で、特に10代の頃は心酔していました。高校生の頃には函館中の古本屋を巡って、富野監督が書いた小説やインタビューがのっている昔の雑誌とかを片っ端から買いあさっていたくらいなんです。当時の富野監督って、過激な発言が多かったんですよね。たとえば、当時なぜか北海道だけでやっていた「サンライズラヂオ」という、ガンダム制作会社であるのサンライズのアニメ作品を毎回取り上げるラジオがあったんですよ。そこに、富野監督が電話出演したことがあるんですよ。当時の僕は北海道に住んでいたので、「やった! 北海道に住んでいてよかった。富野さん生出演じゃん!」とか思って、夜遅くに聞いていたんですよね。そしたら開口一番、パーソナリティの女性タレントの声の出し方がよくないという説教から始まるんですよ。宮島依里という人だったんですけれど、「宮島さん、声の出し方がよくないねえ」とかいう話をしはじめるんですよね。もうその場が明らかに凍りつきましたね。で、その後もやりたい放題でした。「リスナーと生電話でお話しましょう」みたいなコーナーがあったんですよね。そしたら本当に無邪気な女子中学生とかが出てきて、「富野監督に質問です! ファーストガンダムの最終回で、アムロがフラウに、『僕の好きなフラウ……』って声をかけるじゃないですか。あれって告白なんですか?」っていうふうに聞いているんですけれど、それを全部言い終わる前に「僕、そういう質問する人って大っ嫌いです。見ればわかるでしょ」というふうに切り捨てていて、もうほとんど放送事故なんですよ。
     そんな調子でずっと続いていくんですが、『機動武闘伝Gガンダム』のときに、富野監督がいっかいテレビシリーズから離れるんですよね。それで、若い監督が担当していくんですけれど、「そのときはどう思われましたか?」という質問に対して「関係者の家に火をつけてやろうかと思った」とか言っていて、どう考えても公共の電波にのせていいものじゃないんですよ。冒頭からそんな感じだったから、パーソナリティももはやなにも口を挟めなくなっていたんですけれど、あれが僕にとって富野由悠季監督との間接的な出会いでした。当時の僕は18〜19歳とかだったんですけど、僕はその頃、中二病マキシマムみたいな状態だったので、むしろ「公共の電波でここまでぶっとばせる富野由悠季ってなんて偉大なんだ」ってますます心酔していったんですよね。
     
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  • 四十路男の『セーラームーン』(稲田豊史『セーラームーン世代の社会論』発刊記念コラム)☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.343 ☆

    2015-06-12 07:00  
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    四十路男の『セーラームーン』(稲田豊史『セーラームーン世代の社会論』発刊記念コラム)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.12 vol.343
    http://wakusei2nd.com


    PLANETSの書籍『あまちゃんメモリーズ』や『PLANETS Vol.9』の編集スタッフであり、『ヤンキーマンガガイドブック』(DU BOOKS)や『ヒーロー、ヒロインはこうして生まれる アニメ・特撮脚本術』(朝日新聞出版)といった編著もある稲田豊史さんが、アラサー女子論をテーマに初の単著を刊行しています。今回は、御年40歳の筆者が『セーラームーン』放送当時、この女児向け作品とどう向き合っていたかを追想します。
     

    ▲『セーラームーン世代の社会論』(すばる舎)発売中
  • 女子文化がけん引する"食"のソーシャル化――クックパッド編集長に聞くネットの食文化における現在 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.342 ☆

    2015-06-11 07:00  
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    女子文化がけん引する"食"のソーシャル化――クックパッド編集長に聞くネットの食文化における現在
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.11 vol.342
    http://wakusei2nd.com


    1998年3月にサービスを開始した料理レシピの検索・投稿サイト「クックパッド」は、累計レシピ数200万件以上、のべ月間利用者数5,000万人以上(2015年5月現在)となり、レシピサイトとしてインターネットの食文化に大きな影響を与えています。
    今回、PLANETS編集部はクックパッド編集部を訪問。インターネットの料理文化を支えてきたクックパッドの編集長である草深由有子さんに、「クックパッドから見える食文化」というテーマのもとクックパッドの歴史を伺うと共に、インターネット食文化の変遷についてお話を聞いてきました。
    ◎聞き手・構成:稲葉ほたて、飯田樹
     

    ▲クックパッドのオフィス入り口。右手にはキッチンがある。
     
     
    ■ 「料理メモのデジタル化」から「ありがとうの連鎖」へ
     
    ――クックパッドのサービスは1998年から開始されました。まずは簡単に、当時の状況について教えてください。
     

    ▲クックパッド編集室 編集長の草深由有子さん
     
    草深 クックパッドは、主婦の方たちが今まで自分用に取っていた料理メモをインターネットに記録させていく「料理メモのデジタル化」から始まりました。つまり、一つ一つの家庭で口伝えやメモで伝わっていたものをデジタルの形でアーカイブさせようとしたんです。
    ――まだ現在ほど「ソーシャル」の発想もなかった時代ですよね。Googleの検索エンジンすら、まだ普及していなかった。
    草深 デジタル化して保存性が高まったところに、グーグルなどの登場でエンジンからの流入が増えていきました。現在はTwitterやFacebookなどの登場によりシェアされることも多くなっている……というのがざっくりとした流れになります。
    閲覧ユーザーの増加で大きく影響があったのは、「モバれぴ」(※2006年に開始したモバイル向けサービス)を3キャリア公式のサービスにした際のことでした。モバイルと料理は相性が良いことの象徴ともいえ、最近では、スマートフォンの普及によりさらにアクセス数が増加しています。ちなみに現在は、スマートフォンからのアクセスが70%強となっています。
    現在は月間のべ5000万人と非常に多いサイトとなりましたが、私たちがサイトを運営する中で最も大切にしているのは「もともとは投稿者であるレシピ作者さんに自分のレシピを投稿・保存していただいて、生活の中で役立たせていってもらいたいという思想から出発したサイト」であるということです。投稿しているレシピ作者の方の想いを何よりも大切にするという信念は今も昔も変わっておりません。
    ――Googleの「検索」、FacebookやTwitterの「シェア」……というふうに時代の流れにあわせて、閲覧の価値を見出されてきたけれども、根幹にあるのは「自分のための料理メモ」なんですね。
    草深 そうですね。ですから、現在もレシピ作者さんにとって投稿しやすいサービス、投稿したくなるサービスというのは徹底して追求しています。
     

    ▲レシピ投稿の画面(※レシピ名は編集部による一例)
     
    実際、レシピの投稿画面を見ていただければわかると思いますが、エンジニアたちが本当に投稿しやすいUIを探求しています。どういうふうにユーザーの方に入力していただくべきか、そのフォーマットのあり方も含めて、いろいろな視点から改善を日々細かく重ね続けています。
    ―― 一方、閲覧ユーザーからの反応によって、投稿者の方がモチベーションを高める面もあるのではないでしょうか。
    草深 「つくれぽ」の実装で、投稿者が大きく増えた時期があります。「つくれぽ」というのは、自分が投稿した料理を作った人に「作ったよ! おいしかったよ!」というメッセージを送ってもらえる仕組みです。
    ――「つくれぽ」を見ていると、褒め合ったり感謝したりしている言葉がとても多くて、まるで「女子会」みたいだなあと思います。
    草深 私たちは、それを「ありがとうの連鎖」と呼んでいます。「つくれぽ」で重視したのは、評価するレビューの場にせずに、あくまでも「ありがとう」を伝える場にすることだったんです。
    よくTwitterやブログでは、コメントでシェアされることで賛否の評価がわかるのがインターネットの特徴として言われますよね。でも、「つくれぽ」では、「美味しかった」「ありがとう」の感謝を送ることに徹底しているんですね。「美味しくなかったよ」とか「こうした方がいいよ」ではなくて、あくまで感謝のレポートを送るという仕組みなんです。
    ――閲覧ユーザーに役立つレビューよりも、投稿者のモチベーションが高まる「ありがとう」の方が大事なのだ、と。本当に、投稿する人を大事にしているんですね。
    草深 こういうことが、クックパッドが初期から大事にしてきた思想なのだと思います。
    実際、主婦になった人たちは、ふだんの生活で褒めてもらう機会がなかなかないんです。いくら毎日の献立に悩みながら作っていても、家族は当たり前のようにご飯を食べて、自分はそれを当たり前のように片づけるだけ。そういう日々の繰り返しを生きているんですね。
    ところが、つくれぽができたことで、同じ主婦から「あなたのレシピが私の生活に役に立ったよ!」みたいな反応が来るようになったんです。そのときに、目の前の家族のためだけではなくて、どこか別の家庭にいる「ありがとう」を言ってくれる人のために、彼女たちが料理を頑張れるようになったんです。この仕組みが回りだしてから、レシピ投稿数もどんどん増えていきました。
     
     
    ■ 外食から内食へ――「女子文化」と「SNS」がけん引する食のトレンド
     
    ――そういうクックパッドが近年、メディア事業によってレシピを発信していくようになっています。その編集長である草深さんのポジションから見て、現在のネットの食文化はどういうものなのでしょうか。
    草深 実は、現在までの食のトレンドというのは、概ね人気店のメニューなど外食産業が作ってきたものだったと思うんです。それに対して、ここ数年「手作りごはん」という「内食」ジャンルで様々なブームが生み出されるようになりました。
    具体的な料理名で言うと、「おにぎらず」や「塩レモン」ですね。2014年〜現在にかけて検索数も投稿数も急上昇し、大ブームとなりました。
    こうしたトレンドを大きく支えているのは、まず一つにはSNSがあります。そして、その背景として見逃せないのが、「女子文化」の浸透なんですよ。
    最近の女性は「ママ会」や「女子会」などのホームパーティーを開いて、お友達同士で一緒に食べる機会が増えているんです。最近は、「ママももっと楽しんでいいよね」という雰囲気になってきてはいるけれども、現実的には外食は難しいから「じゃあ、お家にみんなで集まろうよ」となるんです。消費税増税も、この「外食じゃなくてお家でパーティ」という志向を後押ししていると思われます。
    ちなみに、そういう場所で流行るレシピってどんなものだと思いますか?
    ――……え、ええと、盛り付けがすごそうだったりとか?
    草深 ふふふ、男性の方はよく間違えるのですが、女子は肩ひじ張って頑張ってる人はあんまり好きじゃないんです(笑)。だから、そこで流行るレシピの正解は、「簡単なのにセンスがいい」ものなのです。
    具体的には、「これ、ちょっと市販品をアレンジしたのよ」というくらいの、頑張っていないのに素敵なレシピを出すようなのがウケます。その女子目線が、とても大事なんです。私たちも編集方針として、「肩ひじを張っていない」という要素を大変に大事にしていますね。
    例えば「塩レモン」はレモンと塩だけで作れます。でも、塩の濃度やレモンの切り方で自分らしい工夫ができて、その漬けた「塩レモン」は肉料理や野菜料理にも利用できてしまう。肩肘は張っていなくても、ちゃんと腕の見せどころがあるんです。しかも「塩レモン」は瓶に入れてキッチンに飾っておけるでしょう。来客にも見せられるんです。
     

    ▲「塩レモン」確かに、瓶詰めにすると映えそうなビジュアルだ(「秋からも人気続行中!今さら聞けない『塩レモン』おさらい!!」クックパッドニュースより)
     
    加えて、モロッコの調味料という点も魅力でしたね。塩レモンブームの前にはモロッコ雑貨などが流行っていて、女子の間で「モロッコがオシャレ」という文脈があり、その流れに乗れた点もポイントでした。
    ――確かに! でも、そういうふうに考えると、かつての塩麹のブームとはちょっと雰囲気が……。
    草深 塩麹ブームを支えた層と、塩レモンブームを支えている層は、少し担い手が違うと編集部では考えています。
    塩麹というのは、タッパーで作って冷蔵庫で寝かせて、家族に向けて出すような……少し内向きのものなんです。これを支えたのは、現在アラフォーの団塊ジュニア世代です。彼女たちが求めた、派手ではないけれども豊かな暮らし……そういう「ほっこりブーム」に乗るなかで登場しました。
    でも、「塩レモン」を支える層は、一つ世代が下がった現在アラサーの「キラキラママ」たちです。彼女たちは「塩レモンを漬けました」などをSNSに画像をあげて、ママ会では「塩レモン」でちょっとマリネしたチキンソテーを出したりするんです。そのチキン自体はただ焼いているだけなのに、とても美味しい。そして、そういう料理を食べながら、塩の濃度やレモンの切り方など、自分なりのこだわりについての会話ができる……。
    ――まさに、ソーシャルメディアが当たり前になった世代のレシピなんですね。
    草深 いま、仲間で食を楽しむという「食のコミュニケーション」という要素はどんどん大きくなっている気がしますね。
     
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  • 各界のイノベーターとの対話集『資本主義こそが究極の革命である』発売記念! 宇野常寛による書き下ろしの「まえがき」を無料公開! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.341 ☆

    2015-06-10 07:00  
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    各界のイノベーターとの対話集『資本主義こそが究極の革命である』発売記念!宇野常寛による書き下ろしの「まえがき」を無料公開!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.10 vol.341
    http://wakusei2nd.com


    本日、宇野常寛と各界のイノベーターとの対話集『資本主義こそが究極の革命である』が発売になります。それを記念し、宇野による書き下ろしの「まえがき」を無料公開します! いま、産業界でイノベーションを起こしている彼らの「思想」について考え、知ることの意味とは――?
     

    ▲『資本主義こそが究極の革命である 市場から社会を変えるイノベーターたち』
    宇野常寛(編著)、粟飯原理咲 (著), 安藝貴範 (著), 安宅 和人 (著), 川鍋一郎 (
  • 月曜ナビゲーター・宇野常寛 J-WAVE「THE HANGOUT」6月1日放送書き起こし! ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.339 ☆

    2015-06-08 07:00  
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    月曜ナビゲーター・宇野常寛J-WAVE「THE HANGOUT」6月1日放送書き起こし!
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.8 vol.339
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    大好評放送中! 宇野常寛がナビゲーターをつとめるJ-WAVE「THE HANGOUT」月曜日。ほぼ惑月曜日は、前週分のラジオ書き起こしダイジェストをお届けします!
     

    ▲先週の放送は、こちらからお聴きいただけます!
     
     
    ■オープニングトーク
     
    宇野 時刻は午後11時30分を回りました。みなさんこんばんは。評論家の宇野常寛です。ついに今週末、AKB48の選抜総選挙がやってきます! 僕は毎年このシーズンには、雑誌とかテレビとかニコニコ動画でAKBの総選挙の解説をやっているんですけど、僕は、去年のゴールデンウィークには吉本隆明さんの追悼シンポジウムの司会とかもやっているんですよね。AKBの総選挙の解説と吉本隆明のシンポジウムの司会っていう、この両方をやった人間って、たぶん人類の歴史で僕が初めてで、この先もたぶんいないと思うんですよね(笑)。そんなわけで、僕にとっては毎年いちばん忙しいシーズンなんですけど、今年の選挙は、どういった結果になるのかぜんぜん読めないですね。誰が1位になってもおかしくないですね。もともとこの選挙というのは、ファンから秋元康さんへの不満がきっかけで生まれたものなんですよ。毎回のシングル曲で秋元康さんにセンターを指名されていた前田敦子さんと、現場の人気では前田さんに引けをとらない大島優子さんがいて、ファンの中で「なんでいつもあっちゃんがセンターなんだ! 俺たちの優子をもっと見てくれよ」という不満がたまっていって、それを秋元さんが逆手に取るかたちでビッグビジネスにしたというのがこの総選挙のはじまりなんですよね。毎年この選挙では、投票開始時刻から24時間ちょっとたった時点での集計データを出していて、それが「速報」と呼ばれています。で、毎年その速報結果から風向きを分析して、「今年はこの子がきそうだ」とか「ここのグループがきそうだ」とかそういった分析をするんですよ。で、その速報の発表が、先週かちょっと前くらいにありました。それで、例によって僕はニコニコ生放送の公式の速報結果を分析する番組に出演したんです。
     こういったAKB48関係のイベントとかでいつも一緒に仕事をしている人に、光文社の青木宏行さんという50歳後半の男性がいるんです。この青木さん、実はAKB関連の仕事でからむ前からのちょっとした知り合いで、お互い名刺を交換して挨拶していたくらいの人なんですよ。当時、彼は「FLASH」という日本を代表する写真週刊誌の編集長だったんですよね。で、さらに言うと出身的にはけっこう政治系なんですよ。小沢一郎の担当をやっていた人で、ばりばりの政治記者だったんですよね。20年前のオウム真理教による地下鉄サリン事件の時なんかは、「FLASH」はオウムの敵対メディアということですごく攻撃されていて、青木さんもそのテロの標的にあっていたらしいんですよ。話を聞いてみると、命からがら尾行を巻いた経験とかもあるんですよね。そういうわけで、彼はそんな修羅場をくぐってきた凄腕の編集者で、若くして「FLASH」の編集長になっていたことからも、完全に出世コースに乗っていたんです。なので、はじめて会った時には「すごい人だな」と思っていたんですけれど……数年後に再会した時には、お互い完全に道を踏み外していました。 
     
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  • 【新連載】市川哲史×藤谷千明『すべての道はV系に通ず』第1回「元祖・フィジカルエンターテイナーとしてのYOSHIKI」 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.338 ☆

    2015-06-05 07:00  
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    【新連載】市川哲史×藤谷千明『すべての道はV系に通ず』第1回「元祖・フィジカルエンターテイナーとしてのYOSHIKI」
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.5 vol.338
    http://wakusei2nd.com


    本日は、新連載の第1回をお届けします! テーマは、「ヴィジュアル系(V系)」。
    90年代の黄金期にアーティストたちとシーンを並走した音楽評論家の市川哲史さん、そして現代のヴィジュアル系に詳しいライターの藤谷千明さんの二人で、過去と現在を往復しながらこの日本独自のポップカルチャーの本質を考えていきます。
     
    ■ はじめに
     
     「ヴィジュアル系 (ビジュアル系)」という言葉が誕生して四半世紀以上が経ちました。そもそもこのジャンルが世の中に認知され始めたのは〈1990年〉前後だと言われています。プログレ&ニューウェイヴ雑誌だった『フールズメイト』(13年に休刊)がXやBUCK-TICKといった”ヴィジュアル系”バンドを中心にした編集方針へと大きく舵を切り、”ヴィジュアル系”専門誌『SHOXX』(音楽専科社・現在も刊行中)が誕生した年です。その後、奇抜な衣装やメイク、独特の美学や世界観をもったロックバンド”が世間的にも注目され始め、シーンが形成されていきました。
     〈ヴィジュアル系の始祖鳥〉といわれるBUCK-TICKがメジャーデビューしたのが、1987年。そして89年にX(92年にX JAPANに改名)が、92年にLUNA SEAが、94年に黒夢やL’Arc~en~Ciel、GLAYが続々とメジャーデビューしていきます。
     そして97年にSHAZNAがメジャーデビューと共に大ブレイクし、「ヴィジュアル系ブーム」はピークを迎えます。ちなみにヴィジュアル系が「新語・流行語」にノミネートされたのもこの年です。
     
     どのバンドも100万枚単位でアルバムを売り、ドーム公演はもちろん10万人以上の観衆を集めるライヴまで次々と実現させました。しかし97年12月にX JAPAN、00年12月にLUNA SEAが解散(※LUNA SEAは「終幕」と表現)していく中、徐々にブームも沈静化したーーというのが「世間一般」の”ヴィジュアル系”認識ではないでしょうか。
     思えば98年5月、X JAPANのギタリストでシーンの牽引者でもあったhideが急逝したことも、象徴的な出来事だったと言えます。
     
     「もう”ヴィジュアル系"は終わった」という人もいる一方で、今日も都内のライブハウスでは新しい”ヴィジュアル系”バンドと、それを求める沢山の女の子(と少数の男の子)がライブに熱狂しています。
     また、この十数年の間にヴィジュアル系バンドの海外公演も当たり前になりました。単発ライブはもちろんのこと、ヨーロッパからアジア、南米まで回る長期ツアーに行くアーティストも少なからず存在し、Instagramなどで「JROCK」と検索すると出てくるのはtheGazettEなどのヴィジュアル系バンドが目立ちます。他ジャンルのアーティストの海外進出がニュースになるなかで、それより以前から成功していたヴィジュアル系については、あまり国内メディアから注目を浴びないまま、海外での人気を拡大しているといういびつな状況も起こっています。  
     
     ”ヴィジュアル系”といってもいまだに定義は曖昧ですし、X JAPANとゴールデンボンバーの映像を並べるだけでもそのカテゴリーのおそるべき広さは理解できると思います。
     

    ▲X Japan Rusty Nail from "The Last Live" HD
     

    ▲GOLDEN BOMBER 武道館LIVE千秋楽「女々しくて」【ゴールデンボンバー】
     
     そして”ヴィジュアル系”という言葉を積極的に使うメディア、アーテイストもいれば、逆にその言葉を使うことに慎重になっているケースもいまだに存在します。
     
     この四半世紀、”ヴィジュアル系”は存在しているのに、そのシーンの総体を語ろうという試みはほとんど行われてきませんでした。そこでこの連載では、ヴィジュアル系黎明期〜黄金期にアーティストたちとシーンを並走した音楽評論家の市川哲史氏とともに、過去と現在を往復しながら、”ヴィジュアル系”という日本独自のポップカルチャーの本質を考えていこうと思います。(藤谷千明)
     
    ▼プロフィール
    市川哲史(いちかわ・てつし)
    
1961年岡山生まれ。大学在学中より現在まで「ロッキング・オン」「ロッキング・オンJAPAN」「音楽と人」「オリコンスタイル」「日経エンタテインメント!」などで歯に衣着せぬ個性的な文筆活動を展開。最新刊は『誰も教えてくれなかった本当のポップ・ミュージック論』(シンコーミュージック刊)。
    藤谷千明(ふじたに・ちあき)
    1981年山口生まれ。思春期にヴィジュアル系の洗礼を浴びて現在は若手ヴィジュアル系バンドを中心にインタビューを手がけるフリーライター。執筆媒体は「サイゾー」「Real sound」「ウレぴあ総研」ほか。
     
     
    ■「V系の文化史」を語るために
     
    藤谷 この連載を始めるにあたって、ヴィジュアル系の歴史を語っていくとしたら時系列でやっていくのが普通だと思います。たとえば「ヴィジュアル系シーン」が成立したの90年前後だと言われていますが、その前段階としてはメジャーシーンにBOOWY、ジャパメタ(ジャパニーズ・メタル)シーンにはDEAD END……だったりが固有名として挙げられるわけですよね。
     でも90年以前の「ヴィジュアル系前夜」の時代って、「BUCK-TICKが人気ある」とか「Xはジャパメタとして人気がある」というかたちで個々のバンドとして認識されているのに留まっていて、「ヴィジュアル系シーン」というものはまだ輪郭がハッキリしていなかったんじゃないかと思うんです。
    市川 たしかにV系を通史として語るのは難しい、というかあまり意味がない(苦笑)。たとえばBUCK-TICKは〈V系の始祖鳥〉として崇められてるけど、そもそも彼らが現われたときV系なんて存在しなかったし、本人たちもV系の自覚はないし、世間的にも「チェッカーズに続くアイドルバンド!」的な捉えられ方だったから(失笑)。文脈も何もあったもんじゃないよねぇ。
     それよりは、「90年代にはヤンキー文化の最新型だったはずのものが、現在ではオタク文化の象徴になっている」という、V系の特異なスタイルと本質についてしっかりと語ったほうがいいと思う。「日本人はヤンキーとオタクに二分できる」じゃないけども、その両極端をこの30年間で渡り歩いているという、他に類を見ないストレンジなポップカルチャーですから。だははは。
    藤谷 そもそもヴィジュアル系の成り立ちって「80年代に文化系の人たちがやっていたゴシックだったりニューウェーブの耽美の園にヤンキーがズカズカ踏み込んできた」という側面が強いですよね。
    市川 そう。80年代後半、東京には繊細な耽美系のロックが存在してたんだけども、そんな文科系特有の感性と知識で丹念に手入れした花壇を、ヤンキー的感性でドカドカと土足で踏み荒らして蹂躙したのがV系。外来文化ならではの繊細で粋なスタイル性を「ウチの美学が最高だから、矛盾上等!」的なアバウトさで駆逐したところ、踏み荒らした花壇の土壌が逆に強くなり、新たな雑草や毒々しい花々を大量に咲かせちゃったんだね。
    藤谷 身も蓋もない言い方ですね(苦笑)。
    市川 「闇」とか「絶望」とか「破滅」とか「堕落」とか「破壊」とか、要するに〈ネガティヴィティーの大博覧会〉状態なのに、具体的な美意識はサウンド同様ひたすら過剰な〈足し算の論理〉だった。その発想はやはりヤンキー的だし、その大雑把さというか勘違い具合が日本人ならではで、素敵だったわけです。
     そんなヤンキー文化直系だったはずのV系がなぜ、オタク文化の象徴へと変容していったのか考えると、要するにアーティスト本人たちが自発的に変わったというより、おそらくファンの子たちがどこかでチェンジしたから。それに合わせて、出てくるバンドも変わっていったんじゃないかと思う。本末転倒だけども(失笑)。
    藤谷 そうですね。市川さんはヴィジュアル系の草創期から90年代の黄金期に評論家兼呑み仲間として彼らに接してきて、私は00年代〜10年代の最近のバンドを取材していますし、現役のバンギャルの友人も多いので、この連載ではそういった環境の変化について相補的に語っていければと思います。
     
     
    ■ 2.5次元演劇とフィジカル・エンタ
     
    藤谷 ヴィジュアル系という文化をきちんと語るためには、今で言う「2.5次元」の感覚が大事だと思っているんです。いわゆるネオヴィジュアル系以降のバンドって衣装ひとつとっても「キャラっぽさ」が顕著じゃないですか。昨年フランスのJAPAN EXPOに行ったんですが、アニメ中心のイベントということもあって現地のファンはアニメキャラと同列にV系ミュージシャンをみてるような印象を受けたんです。
     たとえば最近だと己龍(きりゅう)というバンドが面白いと思っていて、今度武道館でライブをやるんですよ。近年の若手ヴィジュアル系バンドで武道館公演をやったのはゴールデンボンバー(12年に初公演)くらいですね。
    それぐらいにヴィジュアル系バンドにとってハードルが高い場所になっていたなかで、これは快挙と言っていいと思います。
     

    ▲己龍「悦ト鬱」MUSIC VIDEO:08年結成の己龍。ネット&現場双方の水も漏らさぬ全方位戦略が功を奏して、インディーズながら今年の7月31日に武道館公演を敢行。
     
    市川 現在54歳のおっさんには、アニメの実写版にしか見えない(愉笑)。
    藤谷 正確には「和製ホラー・痛絶ノスタルジック」というコンセプトです。先ほどおっしゃっていたように「ヤンキーからオタクになった」ということも影響していると思いますが。
     ここ数年で、ミュージカル「テニスの王子様」や舞台「弱虫ペダル」(以下ペダステ)といった「2.5次元演劇」はすっかり人気ジャンルとして定着しました。俳優さんやキャラクター人気だけではなく、ロードバイクやテニスを舞台上でいかに表現するかということがよく考えられているんですね。
     
    ▼参考記事
    ・「2.5次元って、何?」――テニミュからペダステまで、「2.5次元演劇」の歴史とその魅力を徹底解説
     
    市川 あのー、その「2.5次元感」ってよくわかんないんだけども、最近やたら増えてきたいわゆる生身のリアリティーが希薄な映画やドラマ、みたいなあの感じ?(焦笑)。
    藤谷 まあ、遠くはないです(笑)。要は、ヴィジュアル系の文脈でいうとゴールデンボンバーがわかりやすいんじゃないかと思います。彼らも、「演奏していない」のに、どうやって生のドラマを生み出すかにものすごい労力を注いでいる。ゴールデンボンバーのライブで歌広場(淳)さんが弦の一本無いベース抱えてヘドバンしたり、喜矢武(豊)さんが身体を張って熱湯風呂に入っていたら、爆笑しつつもなぜか心が動かされますよね。
     

    ▲ゴールデンボンバー「抱きしめてシュヴァルツ」Live at 大阪城ホール 2012/6/10 (Live DVDより)【GOLDEN BOMBER】:ゴールデンボンバーのライブ映像。MCで前振りされたダジャレを体を張ってストレートに表現する。くだらないことに全力を注ぐ姿にファンは心を動かされる。
     
     たとえば『ペダステ』もハンドルしかない状態なのにロードバイクを漕ぐ演技、つまり中腰で足踏みをずっとしている状態だから、汗がダラダラ落ちてきていて、そこに説得力が宿る。2.5次元的な感覚って単にアニメやマンガのキャラの格好をしてる舞台のことではなくて、キャラクターを生身の人間が引き受ける過程のことだと思うんです。
     
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  • カルチャーを「自意識」から解き放つ(石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 第5回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.337 ☆

    2015-06-04 07:00  
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    カルチャーを「自意識」から解き放つ(石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 第5回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.4 vol.337
    http://wakusei2nd.com


    本日は石岡良治さんの連載『視覚文化「超」講義外伝』の第5回をお届けします。あるカルチャーを好きになっていくと、私たちの前に必ず立ちはだかるのが「教養主義」の問題。楽しいものだったはずの「文化」を息苦しくさせてしまうこの教養主義の構造について、より細かく読み解いていきます。
    「石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 」これまでの連載はこちらのリンクから。

    ※本連載は、PLANETSチャンネルニコ生「石岡良治の『視覚文化「超」講義』刊行記念講義」(第2回放送日:2014年8月13日)の内容に加筆・修正を加えたものです。
    ■ 文化のレギュレーション
     
     教養がなんでもカルチャーになってしまった。その後どうするかということです。本書では「レギュレーション」という言葉を挙げています。「レギュレーション」とはF1などのモータースポーツやスポーツ観戦されている方はお分かりになると思いますが、競技規定のことを指します。柔道やボクシングで体重別で階級があるとします。するとある種のパワー厨の人は、一番重い階級がいいと思うかもしれませんが、そうではありません。軽量級のレギュレーションにはそれ固有の魅力があって、重量級とは全く様相が変わってくるんですね。私の家は教養とは無縁で、父親がいつもボクシングをテレビで観戦していたんですが、ボクシングの軽量級の魅力をそこで知りました。レギュレーションによって全く違う競技といっていいぐらいの幅が生まれます。
     
     レギュレーションによって様々なカルチャーを捉えるというのが、本書で提示した一つの事柄です。そこにハイカルチャー、ポピュラーカルチャーの関係を放り込むというのが本書の流れです。本書が出た後、図書館の日本十進分類でどこに入るのかな?ということを少し気にしていました。実際は、700番台である美術学に入ることもあったのですが、国立国会図書館では361.5、すなわちカルチャー系のメディア文化論に入りました。つまりポピュラー文化の本として扱われるときは361.5に入って、アート系の本とされたら704に入ります。映画論扱いだと778ですね。私は、図書館でよく利用する本の数字は覚えてしまっています。この分類もレギュレーションといえます。
     
     私はレギュレーションは一個一個定まっていると考えています。とはいえカルチャーでは、なんでもありになってゆるゆるにならないか、または、かつて科学哲学のパラダイム論にかんしてポール・ファイヤアーベントが唱えた、科学では「何でもかまわない(Anything goes)」というフレーズがあるのですが、なんでもありではないことは近年の科学を巡る諸問題から明らかです。だいたい、このような主張をすると多くの人文系の人たちから色々な批判を受けます。ニコ厨であることで、なぜか人文的な文化に対する教養主義へのアクセス権を失ってしまうという排他的な考え方は、今でも残っていると思います。残念ながら、人文厨の人はこの動画は視聴していないと思いますが、私自身は、人文のレギュレーションを一定程度学んだことがあるので、彼らの発想の仕方もわかります。例えばモーリス・ブランショの書籍に出てくるマラルメの言葉「世界は一冊の書物に到達するために存在しているのだ」という擬似存在論的な文化観が典型的です。そういう問題について考える必要があるということです。
     
     もしかしたら人によっては、私くらいの年齢の団塊ジュニア世代を疎ましく思う方がいらっしゃると思います。実際に、世代間のミスマッチは絶対にあります。私にとっては60年代後半生まれぐらいの世代がそれで、もちろん合う人とは合うのですが、彼らバブル世代の感覚は基本的には苦手なんですね。
     そこで68年生まれの清水真木さんの『感情とは何か』(ちくま新書)を紹介したいと思います。この本は「プラトンからハンナ・アーレントまで」の哲学的感情論をよくまとめています。哲学史を感情論でトレースしていくという2014年6月4日に発売された話題書です。
     

    ▲清水真木『感情とは何か』(ちくま新書)
     
     この本では「やばい」という言葉を最近の若い人が使うことについて述べています。その部分を少し読んでみますと、「「やばい」という言葉があります。「カッコいい」「ダサい」「イマイチ」という言葉も若者言葉でした。私は若者言葉としての「やばい」を使うべきでないと考えています。「やばい」を使うことで感情の質が著しく傷つけられ損なわれるように思われるからです。そして、私たちの言語使用の能力がその分だけ損なわれる」と書かれてあります。簡単に言うと「やばい」という一言でなんでもすます傾向を批判しているんですね。
     しかし私はこの文章を読んだときにまさに「やべー」と思ってしまったんですね。たしかに、清水さんの教養観である、型の習得という点からいえば、「やばい」がよくないのは明らかです。その一方で、顔文字は意外と良いものだと述べられているので、著書「これが『教養』だ」の頃のSNS批判からは一歩考えが進んでいます。でもこの本を全部読んだ後、もう一度「やばい」という言葉を捉え直してみると、私の考えでは「やばい」という言葉のニュアンスの違いを聞き取るという感情論の方が可能性があると思います。「強度」の問題ですね。教養主義の極致といえるハイモダニズムの作家サミュエル・ベケットの言葉は、彼の本を読んでみればわかるのですが、語彙がすごく貧しいことが分かります。言ってみれば「やばい」のような言葉を多用している演劇や小説なんですが、当然、物語の展開によって「やばい」といった貧困な語彙を用いた応答の意味作用・その他は、そのたびに全部変わっています。
     私は清水さんの感情論を、たとえば「やばい」という言葉に複数のニュアンスを読み取っていくという方向で、もう少し深いところまで持っていけると考えているんですね。私の古典教養論に対する立場はだいたいこういうものだと理解していただきたいと思います。
     要するに今の若者やSNSを批判している本からは、逆にSNSなどを教養であると考えていくとよいと考えています。私のノスタルジア論は大体がこの考えです。これは本書の第5回のメディア論でも挙げています。私は経過しませんでしたが、私の上下の世代で、ポケベルを高頻度で使用していた人には、数字コード表を文字に高速で変換するという「教養体験」があるわけですが、いまやこのようなものは文化としてはどうでもよい徒花になっています。でも、だからといってかつてのポケベル文化が意味のないものだったかといえば、そうではなく、私自身はポケベルの超絶コミュニケーションワールドに入ることができなかったことを少し悔いています。
     一般に、環境依存はダメで、環境に依存しないものが普遍的であるという考えがあると思います。私は超環境依存的な場からも、なにかを持ち帰ることができる、すなわち、何も持ち帰ることができない文化は存在しないのではないかと考えています。
     古いタイプの教養主義を崩していったのは文化人類学です。マシュー・アーノルドの時代の人類学は、エドワード・タイラーのように「人間活動はなんでもカルチャー」としていましたが、二十世紀になると、例えばレヴィ=ストロースの「ブリコラージュ論」のように、「ありあわせの道具でなんとかやりくりする」ことが、古典的教養とは異なる意味で重視されていきました。またビートルズやパンクの時代でも、UKロックは教養だが、その他はダメという風に、どこかしらに分割線を引くという考えがあります。
     実のところ、何かが文化ではないと批判されていたなら、それは逆に文化であることの前フリであると考えてもらいたいです。これは文化の受容のすべてに言えると思っています。ネットカルチャーが生み出した定型表現に「フラグ」がありますが、「〜終わったな」という発言からそのまま「〜始まったな」が導けるようなテンプレートが生まれているわけです。これはこれで貧困化した自動反応になっているところがあるのですが、「文化ではない」から「文化である」にいたるシークエンスを読み取ると良いのではないかと考えています。
     たとえば、日本語の「やばい」に言えることは、英語の「ill」でも同じことが言えます。悪い意味合いの言葉が良い意味合いに変わっていくわけですね。「これってすごくillだよね」という表現は、そのものがすごく良いものであることを表しています。褒め言葉としての「マジヤバイ」はその典型でしょう。
     そう考えれば、「全然大丈夫」も言葉の誤用ではないと思うんですね。その表現でないと言い表せない事柄があるからです。このように、細かいニュアンスの違いを見出していうことは、まさに文化の一つであると私は考えています。このように考えると教養主義と文化の関係はだいぶ変わるのではないかと思います。
     
     
    ■『ハローキティのニーチェ』からニーチェを読む
     
     ここで取り上げてみたいのが『ハローキティのニーチェ』(朝日文庫)です。ニーチェは超訳本の多さで知られています。もちろんニーチェの超訳本は読むべきでないという考えの人が多いですね。そこで、この本に「教養の劣化」があるかどうかの問いが生まれます。この本には、かなり超訳感があります。とくに恋愛関係の項目で超訳感が顕著に表れています。
     

    ▲朝日文庫編集部『ハローキティのニーチェ 強く生きるために大切なこと』(朝日文庫)
     
     この本は、「見出し」と「キティ翻訳」と「注記」でページが成り立っています。注記はすべて、岩波文庫の『ツァラトゥストラはこう言った』から引用していることに私は注目しました。奥付に「ニーチェ著、氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』(岩波文庫)から転載しました。そして、訳文にある筆者注は氷上氏によるものです」と表記されています。この結果、面白い現象が起きています。タイトルとキティ翻訳がぶっ飛んでいます。ひとつ読んでみますとタイトル「愛という大事なものを、他人任せにしていない?」キティ翻訳「「愛してほしい」そんな風に思うのは、自分以外の他人に運命を託してしまうこと、それってちょっと、不安じゃない?自分から愛そう。運命の舵は、自分で握ろう。あなたの愛と希望を投げ捨てるな!」。ニーチェは素の真理は存在せず、すべてが解釈であると言いました。この本のなにがやばいと言えば、著者名がない点にあります。
     私はサンリオをいろいろと調べていて、機会があれば「サンリオ論」に挑戦してみたいと思っています。サンリオのキャラクターを使ったアニメには、いい感じにカオス的なものが多いのですね。多摩センター駅にサンリオピューロランドという娯楽施設があります。現在の多摩センターの寂れっぷりは日本の廃墟感があって私は大好きです。また、サンリオは社長の辻信太郎がカリスマで有名です。
     私は少女漫画で育ったので、サンリオの発行している『いちご新聞』をいくつか買ったことがあります。その紙面には、いちごの王さまと称して辻社長の言葉がたくさん載っていました。1970年代は辻社長本人が変なポエムを書いていました。よって『ハローキティのニーチェ』と現在発売されているサンリオのポエム本と比較すると面白いと思うんですね。
     このようにキティの超訳感というものは、もともと存在していたことになります。サンリオのカルチャー、ハローキティというキャラクターの仕事の選ばなさをみれば、なんら不思議なことではないと思います。
     
     ここで考えてみたいのは、『ハローキティのニーチェ』から2ストロークで超訳ではなくガチのニーチェ解釈に到達できるということです。
     まずは『ツァラトゥストラはこう言った』です。この本は名著ですが、中2病になった人のだいたいが読む本でもあります。私は高校生時代に読破しました。読んでいるとよくわからない点が多々あります。ツァラトゥストラが「蛇」や「ロバ」のような動物を伴って山から下りてくるのですが、なんとなく「超人」のテーマだったり、漫画『ジョジョの奇妙な冒険』や『幕張』の読者ならば「ノミの勇気」のエピソードを思い出すかもしれません。このようにぼんやりとしたイメージで終わりがちです。

    ▲ニーチェ (著), 氷上 英廣 (翻訳)『ツァラトゥストラはこう言った』岩波文庫
     
     次に村井則夫さんの『ニーチェ - ツァラトゥストラの謎』(中公新書)です。この本は良著です。なにがいいかといえば、私の大好きな「蛇」や「ロバ」などの動物をスルーしていないところが素晴らしいです。キャラクター紹介や構造分析をきちんとしています。わかりやすいように表にしてあります。哲学書というよりは、漫画、アニメ、映画、ダンス、演劇のようなものと一緒であると考えたほうが面白いです。巷のニーチェ論は哲学的なテーゼを解説しがちなんですが、この新書では、『ツァラトストラはこう言った』を本全体の構成から紹介しているんですね。
     

    ▲村井則夫『ニーチェ―ツァラトゥストラの謎』中公新書
     
     この2冊を読めば、きちんとしたニーチェの教養へと到達します。マルティン・ハイデッガーやジル・ドゥルーズ、ピエール・クロソウスキーのような現代式ニーチェ解釈の古典にいって、今のニーチェとはどうだろうかと考えるのも手です。しかし、もちろんこの2冊を読むのはハードルが高い行為であることを念頭においてください。
     村井則夫さんはドイツ哲学研究者なんですが、クロソウスキー、ドゥルーズのフランス派の解釈について、ドイツ語がベースの人は、どうしても「ポストモダン」として揶揄したり批判的な人が多いのにもかかわらず、ニーチェ関係の解釈本はすべて読むのがよいのではないかという姿勢をとっています。2014年に発売された村井さんの著書『ニーチェ 仮象の文献学』もオススメします。
     『ハローキティのニーチェ』のような超訳本は、本の構成がいったん気になり始めれば、そこから解釈の仕事を全面的に作動させる、そんなマシーンであるように思います。そういうわけでニーチェ好き、ハローキティ好きの両者にオススメの本であるのは間違いないです。
     
     どうしてニーチェの話をしたかといえば、教養-文化問題のひとつの難点として、文化をレギュレーションで語るが、語っている本人の文化はどのようなものであるのかという問いがあるからです。要するに教養主義というものは常にある種の「啓蒙主義」としてあらわれてきます。例えば『視覚文化「超」講義』をブログで「先生」の本として書評で取り上げられて、私としても評価されたことは嬉しいのですが、ただ「先生」というものは自動的に「人格の陶冶」や「説教臭」が漂うものになります。講義という形式も、自動的に上から目線になりがちという構造的な問題があります。「教える」「教えられる」の非対称性です。ジョン・バージャー『イメージ』の問題でいうならば、見ることの持つ非対称性です。講義においては私がしゃべる側であるがゆえに必然的に生じてしまう「説教臭」問題です。筆者である私が権威主義はダメだと言っているが、それ自体にもう一段教養主義が入っていないかという問いです。この点について考えてみたいと思います。
     
     この点に関して私は一つの回答を出しています。それは國分功一郎さんとの対談で挙げている問いなんですが、「ギアチェンジ」の話についてです。ギアチェンジの話をどうして出したのかというと、現代「人文」によくある「減速モデル」との対比からです。
     

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  • 『セーラームーン世代の社会論』発刊記念! セーラームーン世代の女子を考えるための2本の映画(稲田豊史) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.336 ☆

    2015-06-03 07:00  
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    『セーラームーン世代の社会論』発刊記念!セーラームーン世代の女子を考えるための2本の映画(稲田豊史)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.3 vol.336
    http://wakusei2nd.com


    PLANETSの書籍『あまちゃんメモリーズ』や『PLANETS Vol.9』の編集スタッフであり、『ヤンキーマンガガイドブック』(DU BOOKS)や『ヒーロー、ヒロインはこうして生まれる アニメ・特撮脚本術』(朝日新聞出版)といった編著もある稲田豊史が、アラサー女子論をテーマに初の単著を刊行。それを記念して、書籍版ではカットされたネタを再構成し、無料配信します!
     
     
    ■ アラサー女子の共通原体験『セーラームーン』
     
     1992〜97年に放映され、当
  • 芸術は誰のためのものか――「設計」される市民と芸術の距離(橘宏樹『現役官僚の滞英日記』第9回) ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.335 ☆

    2015-06-02 07:00  
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    芸術は誰のためのものか――「設計」される市民と芸術の距離(橘宏樹『現役官僚の滞英日記』第9回)
    ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆
    2015.6.2 vol.335
    http://wakusei2nd.com


    本日は、在英官僚・橘宏樹さんの連載第9回をお届けします。今回のテーマは「文化・芸術のまちロンドン」。
    大英博物館やナショナル・ギャラリーなど、世界に名だたる博物館・美術館が無料で観覧できることの意味とは? さらには大道芸やストリート・アート、パブリック・ピアノなど、ロンドンならではのボトムアップ型文化について考えていきます。
    橘宏樹『現役官僚の滞英日記』前回までの連載はこちらのリンクから。
     
     
     こんにちは。ロンドンの橘です。まず冒頭に、御礼を申し上げさせてください。先日、私が活動に参加しているNPO法人ZESDA http://zesda.jp/(「プロデューサーシップ」を普及したり、文化ギャップに着眼した海外ビジネスを支援したりする団体)は、宇野常寛PLANETS編集長を講演者にお招きし、ワークショップを開催させていただきました。
     
    開催報告「第17回プロデュース・カレッジ〜2020年の東京をプロデュースする〜」
     
     講演ではみなさまご存知の「東京5分割案」をご紹介いただきました。『PLANETS vol.9』もぼちぼち売れたようで、宇野編集長のことを全く知らなかったような新しい読者層へもアプローチするきっかけになったのではないかと思います。宇野編集長におかれましては、お忙しいなか本当にありがとうございました。
     
     さて、ロンドンの私の方は、とにもかくにも、6月上旬の試験に備えた勉強でいっぱいいっぱいの毎日を過ごしています。とは言え、息抜きと称しては、LINEの無料漫画を読んだり、友達と寮の共有スペースにある“FIFA”(プレイステーションのサッカーゲーム。世界中でも大人気のようで、みな実家でハマリすぎていたため、危険だ!危険だ!と言います)に興じてしまったりと、本来望まれるほどには勉強に集中できない日々を送っています。よくあるパターンです。聞くところでは、寮のとある完璧主義者(!?)のルーマニア人学生が、就職や進学に必要なわけでもないのに、すべて最高得点を取らないといけないと思い込み、しかしそれがこの短期間の準備では取れないということで、来年受けなおすと言って全てを放り出し母国に帰ってしまったとの話を耳に挟みました。そんな話を聞いて、妙に不安になったり、逆に気が楽になったりする日々です。
     
     前回、前々回は、時節柄政治・行政のトピックが続いてしまっていたのですが、今回は、文化芸術の街としてのロンドンを取り上げてみたいと思います。折しも、直近のメルマガで石岡先生からも、カルチャーとアナーキーを対比されつつUKポップカルチャーへの言及がありまして、私も大変興味深く拝読いたしました。
     
    ▼参考記事
    カルチャーと「教養主義」の結びつきを考える(石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 第4回)
     
     ファッションや音楽といった「クール・ブリタニア」にご注目の読者の方々も多いと思います。というわけで、私からも、ロンドンの文化芸術、特に一般市民と芸術の接点を豊かにしている無料の美術館群、大道芸、ストリート・アートに着目したいと思います。また、日記という勝手な私見をつらつら書いて良いという形式を利用して、芸術は誰のためのものかということについても、少し思うところを書いてみたいと思います。
     
     私の滞在は早いもので10ヶ月に及んで参りましたが、なかなか勉強などが忙しく、ロンドンの有名な文化・芸術的スポットへは、実は、思っていたほどには行けていません。短期間の観光でいらっしゃる人の方が、もっと訪れておられるかもしれません。それでも、美術館では、トラファルガー広場に隣接するナショナル・ギャラリー、デザイン・ミュージアム、現代アートで有名なテート・モダン、貴族が邸宅と所蔵品を寄贈して運営されている小さな美術館のいくつか行きました。映画、写真、グラフィック、広告等の業界に多彩な人材を輩出しているロンドン・カレッジ・オブ・コミュニケーションの文化祭や、サマセット・ハウスという有名な催事場で開催された「ロンドン・ファッション・ウィーク」のイベントにも行ってみました。
     博物館系統ですと、国立自然史博物館、大英博物館、ビクトリア女王夫婦の名を冠したビクトリア・アルバート博物館、科学博物館には行きました。それから、ミュージカルは、ロンドンのウェストエンドはブロードウェイと並ぶ聖地なのですが、私は「ウィキッド」(「オズの魔法使い」のスピンオフ作品)を観てきました。役者の迫力満点でした。「オペラ座の怪人」はブロードウェイでは見たことがあるのですが、いずれはこちらのものにも行って、見比べてみたいと思っています。シェークスピアの地球座は夏の間だけ公演があるというので、再来月あたり、行ってみたいと思っています。音楽方面では、ロイヤル・アルバート・ホールという、格式ある場所などのクラシックコンサートや有名なバレーにはまだ行けていないのですが、通っている大学でも毎月1回以上、プロの演奏家がやってきて昼休みにクラシックのミニコンサートを開いてくれ、無料で鑑賞できます。素晴らしいです。また、路上や地下鉄の構内、トラファルガー・スクエアなどの公共空間などのいたるところで、大道芸人が腕を振るっています。バイオリン、四重奏、ドラム、オペラ歌手、サックス等、中にはミラーボールを吊り下げて回すDJまでいまして、大変バラエティに富んでいます。
     

    ▲トラファルガー広場で和太鼓を披露する日本人らしき大道芸人。喝采を浴びており僕も嬉しい。
     

    ▲トラファルガー広場名物の大道芸人のひとり、「DJグランパ」。夜になると頭上のミラーボールが威力を発揮します。
     
     
    ■ 無料で見られる「本物」たち
     
     よく知られていることかも知れませんが、大英博物館、ナショナル・ギャラリー、テート・モダン、ビクトリア・アルバート・ミュージアムなど、市内に300以上あると言われる美術館や博物館の多くは無料です。
     しかも、どんな人でもほぼ毎日、朝から晩まで簡単に入れる状況であるにもかかわらず、モネ等の有名作品であっても、ロープ程度しかなく、間近で見られます。見張りの学芸員もちらほらとしかいません。観光客を含めた誰もが、市民全体の共有物として当たり前のように大事に扱っていることは、よく考えると少し驚くべきことであるように思えます。ちょうど日本で自動販売機を壊してお金を盗む人がいないことが、日本人には当たり前で、外国人には驚きであるように。
     

    ▲ナショナル・ギャラリー内。クロード・モネによる睡蓮の連作のひとつ。
     

    ▲ナショナル・ギャラリー内。模写する画学生をたくさん見かけます。
     
     無料であるということは、大人も子供を連れて行きやすいということであり、お金のない中学生や高校生もデートで来れるということです。芸術家を志す若者達も歴史が認めた「本物」から学ぶため、毎日勉強に来れるということでもあり、そのために世界中からロンドンに芸術家の卵が集まることにも繋がります。
     実際、写真撮影も自由です。館内でスケッチをしている人もたくさん見かけます。こうして、当然のように「本物」が極めて身近にあることは、まず、審美眼を養うと思います。そして、仮にそれらが西洋文化中心主義的な展示内容であろうとも、審美眼のベースが階級や人種を超えて開かれた形で共有されることで、「いろいろな芸術に無料で触れられるロンドンは良いよね」と誰もが思うことになりましょう。これは歴然とした階級差があり、多様な人種の移民が増えるロンドンに、緩やかな市民社会の統合を支えるアイデンティティを育むことにも繋がるように思います。
     

    ▲ウォレス・コレクション。貴族の豪奢な元邸宅に彼らが蒐集した作品を展示。巨匠の作も多く含むこちらも入場無料。
     

    ▲大英博物館。「現物」がここに……。
     
     
    ■ 大道芸人が奏でる街のBGM
     
     無料で楽しめるという点では、大道芸にも大きな社会的意味があると思います。東京でも新宿駅前など、パフォーマンスをしている人々はよく見かけますよね。インディーズのミュージシャンがCDを並べながらやっていたりします。なんとなく『ゆず』に続きたい、というようなタイプの若者が多かった印象です。
     また渋谷のハチ公前ではいつもどこからか太鼓の音がしていたように記憶しています。しかし、ロンドンの演奏系の大道芸は、はっきり言って、そうした東京のパフォーマーたちよりも、圧倒的に腕前の水準が高いと思います。個人的に、足を止めたり、一度通り過ぎても振り返ったりしてしまうほどです。東京ではそういうことはあまりありませんでした。(ジャンルの好みもあるかもしれませんけれど。)
     
     彼らは帽子やギターケースなどを置いて、投げ銭を集めています。曲の切れ目に、けっこうみな投げ込んでいます。これが寄付文化が定着している、というやつでしょうか。私はこのコインを入れる人々の気持ちのなかに、「スゴいパフォーマンスだと思うので対価を払います」といった気持ちに加えて、なんとなく、「私たちのために、わざわざその素晴らしい技芸を提供してくれてありがとう」という御礼と労いの気持ちまでも含まれているような印象を受けています。(斯く言う私も、後述しますが路上でピアノを弾くと”thank you”と言われます。日本で「ありがとう」と言われたことはないので驚きました。)少なくとも、頑張っている若いミュージシャンを応援してあげたい、という感じよりも、技芸に対する純粋なリスペクトの方を強く感じます。
     

    ▲コベント・ガーデンのカルテット。軽くダンスしながら楽しげに演奏中。
     

    ▲地下鉄のなかでも営業!? さすがに一駅ですぐ降りていきました。
     
     それから、彼らの演奏は、なんというか、うるさくないのです。音量や音質、選曲はもちろん、全体として、公衆の面前で演奏をしているわけではありつつも、「どうだ!」という個性アピールや目立ちたいという自己顕示は感じられず、すっと心に入ってくるような、その場に溶け込んでいるような耳心地が良いものが多いです。その空間のBGMが生音であるというだけ、あたかも、この場所にBGMがあったらいいなと思ったから自分が提供しているというだけ――だからみんなも「ありがとう」という具合なのです。
     これはきっと、「大道芸は、パフォーマー、その場所で仕事したり生活したりする人々、往来する人々の誰にとっても心地よくあるべきだ」という精神が広く共有されているからではないかと感じられてきます。
     実際、大道芸人のパフォーマンス可能な場所や時間については、市役所とストリート・パフォーマー団体との間の合意に基づいたガイドラインが定められています。この3月にも、レパートリーが少ないミュージシャンは演奏が終わり次第、速やかに移動するべしとするなどの新ガイドラインが発表されています。警察が規制するか、しないか、の二元論ではなく、管理方法を一緒にみんなで考えるスタイルなわけです。
    (ガイドラインはこちらで見ることができます。“make London your stage”「ロンドンを貴方のステージに」が標語の大道芸(busk)の総合ホームページです。)
     ちなみに、一般的にも、イギリスはじめヨーロッパでは、政府ではなく公益法人のような団体にルール作りや管理を委託したり、逆にEUレベルで一律に決められたりと、政府ではない主体が規制行政を担うことが増えています。官僚として大変学ぶところが多いです。
     
     
    ■ 落書きか?芸術か?ショーディッチのストリート・アート
     
     ストリート・パフォーマンスがメインの大道芸ですが、ストリート・アートにも、市民と芸術の関係で特筆するべき点があると思います。ストリート・アートはロンドンのあちこちで見られますが、特に、ショーディッチ(Shorditch)という街が有名です。
     ここは元々はアラブ人街で、比較的荒廃していた時期もあった地域だったのですが、10年くらい前からストリート・アーティスト達によって壁にスプレーなどに「落書アート」や彫刻が至るところに施され始め、それらのクオリティが人気を集め、今では一大観光地ともなる大変個性的な地域となりました。人気作家も輩出しています。最も有名なストリート・アーティストのひとりであるBanksyは石岡先生の論考にも言及がありましたね。
     

     

    ▲ショーディッチのストリートアート。間近で見ると精緻さに驚きます。
     
     この街の「キャンバス」にデビューして評判になることがアーティストの登竜門になっているとも聞きます。どの壁が誰の「キャンバス」であるという認識がなんとなく共有されており、作品の「更新」がなされるとInstagramなどに共有され、ファンたちはそれをフォローし拡散するなどしています。街全体がキャンバスでもありアーティストのカタログにもなっているわけです。
     

    ▲LONDON STREET ART: SHOREDITCH, EAST LONDON ショーディッチのストリートアート(YouTube)。英語ですがいろいろな作品をご覧いただけると思います。
     
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