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2017年1月の記事 19件

大見崇晴「イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫」第9回 『風の歌を聴け』について 複製とその起源【不定期連載】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.771 ☆

大見崇晴「イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫」第9回 『風の歌を聴け』について 複製とその起源【不定期連載】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆ 2017.1.17 vol.771 http://wakusei2nd.com 今朝のメルマガでは大見崇晴さんの連載「イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫」第9回をお届けします。ヴォネガットやブローティガンといったアメリカ文学の〈借用〉からなる村上春樹の作品。デビュー作『風の歌を聴け』を参照しながら、そのメタフィクショナルな手法が構築した「自己複製の起源」について論じます。 ▼プロフィール 大見崇晴(おおみ・たかはる) 1978年生まれ。國學院大学文学部卒(日本文学専攻)。サラリーマンとして働くかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動、カルチャー総合誌「PLANETS」の創刊にも参加。戦後文学史の再検討とテレビメディアの変容を追っている。著書に『「テレビリアリティ」の時代』(大和書房、2013年)がある。 本メルマガで連載中の『イメージの世界へ』配信記事一覧はこちらのリンクから。 前回:大見崇晴『イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫』第8回 あなたが純文学作家になりたいならば――ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』と『2666』を中心として  本論では可能な限り、村上春樹の処女作『風の歌を聴け』(一九七九)に関わる内容に留める。このような断りが村上春樹の作品を論じる際には求められがちになる。かつて批評家、中村光夫が断じたように戦後日本文学においては需要に応えるべく作品を生産するために、自己模倣を繰り返す傾向が見られた。  だが、そのことを差し引いても村上春樹の自己模倣は甚だしい。いや、むしろ自己模倣というよりも、村上春樹作品は、自己複製の反復の結果、巨大に増殖したひとつの連続体のようにも読める。多くの読み手(批評家、研究者たち)は、そのような読みの誘惑に抗えずに来た。たとえば、村上春樹研究書としては最もポピュラーなものといえる加藤典洋『村上春樹イエローページ』(荒地出版社、のちに幻冬舎文庫)においては、登場人物のひとり「鼠」からそう呼ばれることもある「鼠三部作」(処女作の他には、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』)との関連性を読み解こうとしている。おそらく加藤典洋の読み方がオーソドックスなものと思われるが、本論では敢えてこのような観点による読みを断念したい。そのことによって、毎年ノーベル賞候補に取り上げられることで、今日では作家として自明な存在になった村上春樹と処女作に対して忘れかけていた疑問を浮かび上がらせることになる。  すなわち、「自己複製する作家である村上春樹は、処女作において何を複製したのか」、という疑問である。  二十一世紀においては、村上春樹が登場した時の鮮烈さ――それが二〇〇〇年ごろにおいても、国語教科書が掲載している小説と断絶が感じられるほど――だったことは、最早伝わりづらいかもしれない。ひとまず、主要な芥川賞作家たちを取り上げることで鮮烈さを感じる所以となる停滞を説明しておこう。  一九五五年、石原慎太郎の『太陽の季節』が発表され、一躍流行する。これに追うように一九五八年に開高健、大江健三郎が芥川賞を受賞し、二十代の作家たちが活躍する。彼らはスターとして扱われた。このことは新人賞として設けられながら、創設間もないころに尾崎一雄が四〇代で受賞するなどして、その意義が曖昧だった芥川賞が、文字通りの「新人賞」として機能していた時期にあたる。文芸時評を多く担当し、戦後日本文学のペースメーカーとして機能した批評家・平野謙はこの時期を次のように振り返る。  戦後、第一次戦後派とか「第三の新人」の名のもとに、おおくの新人が輩出して、なかでも石原慎太郎の登場は、戦後文学史の上でも注目すべき「事件」のひとつだった。いわば純粋戦後派ともよぶべき文学世代がここに登場したことになる。開高健・大江健三郎は石原慎太郎につづく純粋戦後派の新鋭にほかならなかった。 (平野謙『平野謙全集 第九巻』所収「開高健・大江健三郎」)  こうした傾向は、一九六〇年代までは継続されたが、一九七〇年代になると歩留まりする。一九七〇年代は明らかに前進よりも停滞である。具体的な作家名を取り上げると、森敦のような戦前から文壇居住者といえる人物から、戦後派に近い古山高麗雄、戦中に小学生であった所謂「焼跡派」である日野啓三、林京子といった第二次世界大戦を体験した世代が多く受賞している。  戦後生まれの受賞は知られているように、一九七五年の中上健次「岬」に始まる。とはいえ、その文体は大江健三郎や自然主義小説に影響を受けたものであり、小説に親しみを持たない読者にはひと目で分かる新しさではなかった。清新さを持って受け止められたのは翌一九七六年の村上龍『限りなく透明に近いブルー』である。アメリカ文化(ドラッグ・カルチャーなど)を素材に盛り込んだことも清新さの一因であった。さらに翌一九七七年に、村上春樹の同級生にあたる三田誠広が、一九六〇年代末の早稲田大学の学生闘争を題材にした『僕って何』で受賞している。  一九七九年に村上春樹が『風の歌を聴け』で登場したのは、こうした閉塞感からの脱出が伺えた時機であり、その素材として一九六〇年代以降のカウンター・カルチャー(およびポップ・カルチャー)が見出されつつあったと言える。突破口を開いたとも言える村上春樹について、坪内祐三は以下のように回想する。  同時代の中でうすうすとそう感じていながら、あとから振り返ってそれを断定的に語ることのできる事象がある。  たとえば一九七九年に文章表現の世界で一つのパラダイム・チェンジが起きたこと。  当時、私は、大学二年の若者だった。  (中略)  村上春樹の小説言語、沢木耕太郎のノンフィクション言語、椎名誠のエッセイ言語、それらに共通しているのは、それぞれに、そのジャンルの言語表現を強く意識化していたことだ。つまり村上春樹の小説はメタ・フィクションであり、沢木耕太郎のノンフィクションはメタ・ノンフィクションであり、椎名誠のエッセイはメタ・エッセイだった。 (坪内祐三「一九七九年のバニシング・ポイント」) 【ここから先はチャンネル会員限定!】PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は今月も厳選された記事を多数配信します! すでに配信済みの記事一覧は下記リンクから更新されていきます。 http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201701  

大見崇晴「イメージの世界へ 村上春樹と三島由紀夫」第9回 『風の歌を聴け』について 複製とその起源【不定期連載】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.771 ☆

HANGOUT PLUSレポート川田十夢×宇野常寛「新春うのとむ対談スペシャル 2017年の矢印を考える会」(2017年1月9日放送分)【毎週月曜日配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.770 ☆

HANGOUT PLUSレポート 川田十夢×宇野常寛 「新春うのとむ対談スペシャル 2017年の矢印を考える会」 【毎週月曜日配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆ 2017.1.16 vol.770 http://wakusei2nd.com 毎週月曜夜にニコニコ生放送で放送中の、宇野常寛がナビゲーターをつとめる「HANGOUT PLUS」。2017年1月9日、新年最初の放送では、本番組2回目の登場、J-WAVE「THE HANGOUT」では火曜担当でもあったAR三兄弟の川田十夢さんをゲストに迎え、リスナーのみなさんには2017年の話を幅広く募集しました。 川田十夢さんがご出演のHANGOUT PLUSの動画アーカイブはこちらからご覧いただけます。 PLANETSチャンネルで、J-WAVE 「THE HANGOUT」月曜日の後継となる宇野常寛のニコ生番組を放送中! 〈HANGOUT PLUS〉番組に関する情報はこちら ▼ゲストプロフィール 川田十夢(かわだ・とむ) 1976年 熊本県生まれ。1999年 メーカー系列会社に就職、面接時に書いた『未来の履歴書』の通り、同社Web周辺の全デザインとサーバ設計、全世界で機能する部品発注システム、ミシンとネットをつなぐ特許技術発案など、ひと通り実現。2009年 独立。2010年『AR三兄弟の企画書』出版。2013年 情熱大陸出演。編集者 佐渡島庸平と発明マネジメント会社トルク設立。2015年 作・演出・開発をつとめた舞台『パターン』をフジテレビで番組化、NHK『課外授業 ようこそ先輩』に出演するなど、公私ともに活躍の舞台を拡張している。 「HANGOUT PLUS書き起こし」これまでの記事はこちらのリンクから。 前回:水野良樹×宇野常寛「歌謡曲/J-POPは成立するか――大衆音楽のゆくえ」(HANGOUT PLUS 12月19日配信分書き起こし) ※このテキストは2017年1月9日放送の「HANGOUT PLUS」の内容のダイジェストです。 ◎構成:村谷由香里 ■2017年に発表したいもの、やりたいと思う抱負は? 宇野さん川田さんこんばんは。川田さん、ラジオのおもしろさに気付いたときには既に終了間近でいかがされていたのか気になっておりました。今夜は2017年の矢印がテーマということで、お二人が今年発信するであろう矢印を伺いたいです。端的に言うと、こういうこと発表したいな、やりたいなという抱負、単純ですが日常で面白いものに出会ったとき、今年の宇野さんだったら、十夢さんだったら、こう解釈するのではと考える材料にしたいです。 (ラジオネーム:甘さ控えめさん) 川田 2017年という年は、物質、本質、実質のトライアングルが実質を頂点に偏ると思う。今まで誰もがばらばらの本質を語っていたけれど、一人一人にとっての質を届けられるようなサービスやファンタジーが今年求められるのではないかと思うし、開発者としてそういうものを具体的に作っていきたい。 【ここから先はチャンネル会員限定!】PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は今月も厳選された記事を多数配信します! すでに配信済みの記事一覧は下記リンクから更新されていきます。 http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201701  

HANGOUT PLUSレポート川田十夢×宇野常寛「新春うのとむ対談スペシャル 2017年の矢印を考える会」(2017年1月9日放送分)【毎週月曜日配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.770 ☆

京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第16回 「セカイ系」と『機動戦士Vガンダム』の呪縛――戦後アニメーションの描いた男性性【金曜日配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.769 ☆

京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録第16回 「セカイ系」と『機動戦士Vガンダム』の呪縛――戦後アニメーションの描いた男性性【金曜日配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆ 2017.1.13 vol.770 http://wakusei2nd.com 今朝のメルマガは宇野常寛の〈サブカルチャー論〉講義録をお届けします。『新世紀エヴァンゲリオン』に端を発した90年代後半の「セカイ系」ブーム。しかし、そのブーム以前に「セカイ系」的物語構造の徹底的な自己破壊を行った作品がありました。今回は、その問題作『機動戦士Vガンダム』の意義を論じます。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年6月10日の講義を再構成したものです) 金曜日配信中! 「京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録」配信記事一覧はこちらのリンクから。 前回:京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第15回 ナデシコとウテナ――第三次アニメブームの風景 ■「結末でアスカにフラれないエヴァ」としてのセカイ系作品群  90年代が終わり、00年代に入っていくなかで「セカイ系」といわれる一連の作品群が流行します。「セカイ系」って言葉を知ってますか? まぁ、ちょこちょこいますね。  この「セカイ系」は、「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」とも言われたりします。代表的な作品は『ほしのこえ』(2002年に劇場公開)、『イリヤの空、UFOの夏』(電撃文庫で2001-03年にかけて刊行)などですね。よく特徴として言われるのが、「世界の問題を自意識の問題へと矮小化している」というものですね。  ここまでもお話ししてきたとおり、80年代のアニメでは頻繁に冷戦下の最終戦争のイメージで「世界の終わり」が描かれたわけですが、これらは基本的に消費社会下の若者の自意識の問題の表現だったわけです。「革命」のような歴史が個人の人生を意味づける回路が難しくなった時代のアイデンティティ不安の問題がここにはあった。 『エヴァンゲリオン』が画期的だったのは、そこで描かれていた世界の問題がすべて主人公のマザコン少年の自意識の問題の比喩であったことです。もちろん、これは人間と自然、あるいは人間と人間という社会の問題の安易な矮小化と言われても仕方がない。実際にそう批判されてきたし、僕もそう考えています。ただ、この作品の社会現象化は結果的に消費社会下におけるファンタジーの機能不全を露悪的に突きつけた、という言い方もできると思います。  そして「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」であるところの「セカイ系」は、こういった「エヴァ」の露悪的な批評性がすっぽり抜け落ちて、描かれる世界の問題すべてを自意識の問題の比喩として扱う、というスタンスを徹底して主人公の少年のヒーリングに注力していくことになります。  具体的にどういうことかというと、「セカイ系」と言われる作品群は、だいたい思春期の男の子が主人公です。彼はどこにでもいそうな平凡な男の子なのだけど、そんな彼のそばに世界の運命を背負っている女の子がいて、その女の子に無条件に愛されることで何者でもない男の子が承認される、という形式を取ります。男の子への愛情を動機に女の子は世界の運命を背負って戦って、死んじゃったりもするわけです。ここでは男の子の存在=世界の運命という構図になる(笑)。「世界の運命を背負ってる女の子に愛される」って究極の承認ですよね。   僕の先輩格の評論家である更科修一郎さんがセカイ系の作品群を指して「結末でアスカにフラれないエヴァ」と言っていましたが、これはなかなかうまい表現だなと思います。『エヴァンゲリオン』の劇場版(Air/まごころを、君に)の結末は、世界が破滅してシンジとアスカの二人だけが世界に取り残されてしまいます。ここで二人が新世界のアダムとイブになるのだったらそれこそ後の「セカイ系」そのものになる。男の子が自分を無条件で、それこそ世界そのものと等価なものとして承認してくれる女性によって満たされる、というのは要するに母による承認ですよね。でもアスカはシンジの「お母さん」にはなってくれない。それはどっちかというともうひとりのヒロインで、シンジ君のお母さんのクローンである綾波レイの役目ですね。しかし庵野秀明は結末にシンジ君の隣にはレイではなくアスカを配置した。そしてアスカはシンジ君を「気持ち悪い」と拒絶する。あそこでシンジの隣にアスカではなくレイがいて、シンジ君を「母」的に承認してしまうと歴史が個人の人生を意味づけなくなってしまった世界には幼児的な全能感しか救済はなくなってしまう。たとえ生の意味を保証する大きなものが信じられなくても、(拒絶されることも受け入れながら)他者に手を伸ばすべきだ、というのが着地点なわけです。まあ、ちょっと一周回って当たり前すぎて何も言っていない感はあるんですが、この結末は、庵野秀明なりの倫理の表明だったと思います。 ▲劇場版 NEON GENESIS EVANGELION - DEATH (TRUE) 2 : Air / まごころを君に [DVD]緒方恵美 (出演), 三石琴乃 (出演), 庵野秀明 (監督, 原著, 脚本)   けれど、『エヴァンゲリオン』の影響を受けた、もしくはアスカに振られて傷ついてしまったシンジ君たちは、結末でアスカに振られない=レイという母親に承認されるセカイ系を生み、支持していった、というわけです。  要するに先行する『エヴァンゲリオン』よりも表現的に後退してしまったんですね。『エヴァ』が最後の最後で拒絶したものを、むしろ全面的に承認して感動ポルノにしていったわけです。 【ここから先はチャンネル会員限定!】PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は今月も厳選された記事を多数配信します! すでに配信済みの記事一覧は下記リンクから更新されていきます。 http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201701  

京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第16回 「セカイ系」と『機動戦士Vガンダム』の呪縛――戦後アニメーションの描いた男性性【金曜日配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.769 ☆

加藤るみの映画館(シアター)の女神 2nd Stage ☆ 第8回『ブルージャスミン』『マッチポイント』【毎月第2木曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.768 ☆

加藤るみの映画館(シアター)の女神 2nd Stage第8回『ブルージャスミン』『マッチポイント』【毎月第2木曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆ 2017.1.12 vol.768 http://wakusei2nd.com 今朝のメルマガは、加藤るみさんの連載『加藤るみの映画館(シアター)の女神 2nd Stage』をお届けします。 今回は巨匠ウディ・アレン監督の描く「残念な男女」特集。欲望のままに生きる浮気性の女性を描いた『ブルージャスミン』と、スカーレット・ヨハンソンの魅力が炸裂する不倫サスペンス『マッチポイント』です。 ▼執筆者プロフィール 加藤るみ(かとう・るみ) 1995年3月9日生まれ。岐阜県出身。サンミュージックプロダクション所属のタレント。映画鑑賞をはじめ、釣り、世界遺産、料理、カメラ、アニメと多趣味を活かしてマルチに活躍中。インターネットラジオK'z Station『おしゃべりやってま~すRevolution』にレギュラー出演中。雑誌『つり情報』でコラムを連載中。 本メルマガで連載中の『加藤るみの映画館(シアター)の女神』、過去記事一覧はこちらのリンクから。 前回:加藤るみの映画館(シアター)の女神 2nd Stage ☆ 第7回『ブルース・ブラザース』『ファンタスティックビーストと魔法使いの旅』【毎月第2木曜配信】 新年明けましておめでとうございます!! 2017年がやってきました。加藤るみです。 今回は、私の大好きなウディ・アレンが描く残念な男と残念な女特集!! 新年早々、パンチの効いた2作品をドヒャンとお届けしたいと思います。 ご紹介するのは、セレブの転落人生を描いた『ブルージャスミン』と、 サイテーなのに強運すぎる男の物語『マッチポイント』です。 この2作品に通ずるキーワードは、ズバリ、人間の欲望(笑)。 昨年、世の中では不倫騒ぎが大きなニュースとなりましたね。 そんな今だからこそ、欲望には大切なものを瞬時に奪ってしまう怖さがあるということを、 この2作品を観て感じていただけたらと思います。 そして、巨匠ウディ・アレンが描く、人間心理の本質を見抜いたストーリーに、 あなたもクスッと笑ってしまうはず。 私が初めてウディ・アレンに出逢ったきっかけ。 それは、『ミッドナイト・イン・パリ』という作品でした。 そう、略して「ミッパリ」です。 “現実逃避”をテーマに描いた、タイムスリップコメディーで、 私はミッパリを観て以来、雨のパリに強い憧れを持っています。 この作品を観て、ウディ・アレンの沼にどっぷりハマってしまい…… それからの私は、過去作を次々とチェックするようになりました。 私が思う、ウディ・アレン映画の魅力をざっくり三つ挙げたいと思います。 まず一つ目は、ただ単に世の中を綺麗事でまとめるのではなく、 世の中のイヤ〜〜な部分や矛盾点をユーモラスに描くところ。 人生の悲哀をしっかりと映し出すところが好きなんです。 彼自身の人生を映画に投影しているからこそ、リアリティがあるんでしょう。 基本的に、皮肉がたっぷり詰まっている脚本なんですが、 それでも「面白い!」って思える言葉のセンスが大好きなんです。 二つ目は、舞台の街に必ず行きたくなる魔法をかけてくれること。 毎回、映画らしいロマンチックな舞台にうっとりしてしまいます。 それに加え、音楽のセンスも抜群にオシャレなんです。 三つ目は、構成の上手さに「やられた〜〜!」ってなること。 起承転結がはっきりしていて、全てに意味があり理由がある。 そして、予測もできないような展開に驚かされることが多いです。 どんな結末であれ、余韻に浸れるところが魅力だと思います。 クセは強めでありますが……(笑) ぜひとも、一度ウディ・アレン映画に足を踏み入れてみてはいかがでしょうか? 【ここから先はチャンネル会員限定!】PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は今月も厳選された記事を多数配信します! すでに配信済みの記事一覧は下記リンクから更新されていきます。 http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201701  

加藤るみの映画館(シアター)の女神 2nd Stage ☆ 第8回『ブルージャスミン』『マッチポイント』【毎月第2木曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.768 ☆

猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第16回「アートによって、世界の境界をとりはらいたい!」【毎月第1水曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.767 ☆

猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第16回「アートによって、世界の境界をとりはらいたい!」【毎月第1水曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆ 2017.1.11 vol.767 http://wakusei2nd.com 今朝のメルマガは、チームラボ代表・猪子寿之さんによる連載『猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉』の第16回です。今回のテーマは、今年1月25日からロンドンで開催される個展「teamLab:Transcending Boundaries」について。そこで発表される、スクリーントーンに着想を得た新作と鳥山明の意外な関係とは? そして「境界のない世界」をテーマにしたアートを、いまこのタイミングにロンドンで発表することの意味について、語っていただきました。 ▼プロフィール 猪子寿之(いのこ・としゆき) 1977年生まれ。2001年東京大学計数工学科卒業時にチームラボ設立。チームラボは、様々な分野のスペシャリストから構成されているウルトラテクノロジスト集団。アート、サイエンス、テクノロジー、クリエイティビティの境界を越えて、集団的創造をコンセプトに活動している。 47万人が訪れた「チームラボ 踊る!アート展と、学ぶ!未来の遊園地」などアート展を国内外で開催。他、「ミラノ万博2015」の日本館、ロンドン「Saatchi Gallery」、パリ「Maison & Objet」、5時間待ち以上となった「DMM.プラネッツ Art by teamLab」など。2月からシリコンバレー、イスタンブールでの個展を開催中。また3月からシンガポール、8月から韓国で巨大な常設展開催中。今後、ロンドンや北京、台湾などで開催予定。 http://www.team-lab.net ◎構成:稲葉ほたて 本メルマガで連載中の『猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉』配信記事一覧はこちらのリンクから。 前回:猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉第15回「アートの力で、歴史に人間をつなげたい!」 ◼ロンドンで開催する「境界のない」展示会 猪子 今年の1月25日から3月11日にかけて、ロンドンで「teamLab: Transcending Boundaries」という展示をやるんだけど、今日はその話をしたいんだよね。去年、同じタイトルの個展を表参道でやったんだけど、今回はクオリティもだいぶ上げて、もっと「境界のない世界」というテーマを強く押し出したものになってる。たくさん作品があるんだけど、その作品の間には境界がないの。 ▲チームラボは、2017年1月25日から3月11日まで、PACE LONDONにて「teamLab: Transcending Boundaries」を開催。 宇野 これは以前に表参道で展示した作品のアップデート? あの作品の境界を無視して……。 猪子 そう! 作品同士の間を、容赦なく蝶が行き来するんだよ(笑)。たとえば、人がいると、そこに花が咲いていく作品があるんだけど、花が咲いたら蝶が集まってきたり、そこに水の作品が流れてくれば花が散ったりしていく。蝶と花と水の作品、それからディスプレイのいくつかの作品が、それぞれ独立しつつ、境界が曖昧な世界になってるんだよ。 宇野 展覧会全体としては、どんなものがあるの? 猪子 会場には部屋が三つあって、いま語ったような作品たちが展示してあるメインの部屋と、二つめは、『Dark Waves』という作品の部屋、そして三つめに『Flowers Bloom on People』という作品を展示した部屋がある。 表参道で実験的に展示した作品をだいぶアップグレードした『Flowers Bloom on People』は、空間には何もない真っ暗な部屋なんだけど、人が部屋に入ってじっとしていると、人の体に花が咲いていき、やがては足元の床に広がっていく。近くに別の人がいると足元の花々が他の人々の花々とが繋がっていくんだ。 ▲『Flowers Bloom on People』 宇野 今回は、他者と繋がるようになってるんだね。 猪子 そして、シリコンバレーで展示した『Black Waves』の新しいシリーズである『Dark Waves』。これは暗い波をあらわした作品なんだけど、今、イギリスは世界に対して再び境界をつくろうとしてるから、太古からの境界の象徴として、海の作品を展示した。 ▲『Dark Waves』 https://www.youtube.com/watch?v=8F8x_kbAaDI 猪子 最後に、メインの部屋では『境界のない群蝶、儚い命』、『憑依する滝、Transcending Boundaries』、『花と人、Transcending Boundaries - A Whole Year per Hour』、『円相』、『The Void』、『Impermanent Life』という、全く違うコンセプトの作品たちが同じ空間に展示されている。それぞれ独立しているけれども、それぞれの作品の境界が曖昧になっているんだよ。 ▲『境界のない群蝶、儚い命』 ▲『憑依する滝、Transcending Boundaries』 ▲『花と人、Transcending Boundaries - A Whole Year per Hour』 ▲『円相』 ▲『The Void』 ◼スクリーントーンの概念を更新!? 新作での試み 猪子 全く新しい作品もやるんだよね。ただこれ、超マニアックなビジュアル実験としてつくったものなんだ(笑)。 ▲『Impermanent Life』 【ここから先はチャンネル会員限定!】PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は今月も厳選された記事を多数配信します! すでに配信済みの記事一覧は下記リンクから更新されていきます。 http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201701  

猪子寿之の〈人類を前に進めたい〉 第16回「アートによって、世界の境界をとりはらいたい!」【毎月第1水曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.767 ☆

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第12回 トリコ、FF15の風景は、ただ美しいだけなのか?【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.766 ☆

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第12回 トリコ、FF15の風景は、ただ美しいだけなのか?【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆ 2017.1.10 vol.766 http://wakusei2nd.com 今朝のメルマガは、井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第12回をお届けします。 昨年末に発売された『ファイナルファンタジーXV』と『人食いの大鷲トリコ』。この2大タイトルの共通点は、〈風景〉を前景化させたことにありました。風景を印象づけるために作動している認識操作の技術を読み解きます。 ▼執筆者プロフィール 井上明人(いのうえ・あきと) 1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。 本メルマガで連載中の『中心をもたない、現象としてのゲームについて』配信記事一覧はこちらのリンクから。 前回:井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第11回 政治運動をめぐる二つの快楽のジレンマ ■われわれは風景を「見て」いるのか?「感じて」いるのか?  今月は、せっかくなので『ファイナルファンタジーXV』(以下、『FFXV』)と、『人食いの大鷲トリコ』(以下、『トリコ』)に関連する話をしようと思う。まだトリコは遊んでいる最中だが、とりあえず遊びながら、考えていることなどを少し書ければと思う。 *  さて。  言うまでもないことだが、ゲームの開発において、いかに美しい映像をつくるかということはある時期までとても重要なことだった。しかし「より美しい映像を」つくることはある時期から多くの人に飽きられた。「映画のようなゲーム」が純粋に誉め言葉としての意味をもっていたのは1990年代の途中までで、2000年代からは蔑みの意味でも使われるようになってしまった。美しい映像は、意外とすぐに飽きる。それよりも重要なことがあるのではないか、と思う人が増えた。  そしてまた、わざわざ言うまでもないことだが、『ファイナルファンタジー』シリーズというのは、そのような「映画のようなゲーム」の最左翼であり、その代名詞だった。  今回もまた、『FFXV』の映像は、期待に違わず凄まじいものだった。電車の側面の鉄板に映り込む朝日の映り込みなど、これがリアルタイムで生成されているということが信じられない。この世界のなかの鉄、石、光は我々が現実の世界において知っている、それそのものに限りなく近づいていた。  ただ、今回のFFは、ただ美しいだけではなかった。確かに、よく作りこまれた映像は、食い飽きるほどだったが、映像を単にゲームの中にちりばめておくというだけのゲームではなかった。  そして、『FFXV』の一週間後にリリースされた『トリコ』。『トリコ』もまた、その映像の美しさが重要な特徴の一つとなっているゲームだった。もちろん、『FFXV』とはまったく違うゲーム、まったく違うユーザー層のためのゲームだ。だが、ゲームのなかにおける「風景」をどのように扱うかという点において、不思議な類似が見られた。  それは「美しい風景」を単に配置する、のではなく、「美しい風景」をまじまじと眺めるための文脈をどう作るかというというへの、あまりにもきめ細やかな配慮だ。  そもそも「美しい風景」をまじまじと眺めるときというのはどのようなときだろうか?  我々は、美しい風景というものを好むわりに、雑に扱うことが多い。  たとえば、プロの写真家が撮った世界遺産の写真。高名な画家が描いた湖の絵。そういったものが、そこらへんに何気なく掛けてあるカレンダーに使われていることは多い。だけれども、その絵に、ハッとして、魅入るというような経験をすることはほとんどない。  カレンダーに使われている写真や、絵の多くは、その写真や絵にかかわる展覧会が開かれていたりするような、有名だ。しかし、それをありがたく鑑賞する機会は限られている。現代人は、それほどの「素晴らしい絵」に接しながらもそのありがたさをなかなか実感しないような贅沢な生活を送っている。  その一方で、我々は、もっとつまらない風景を大事にしていることがある。近所のどこにでもあるような小高い丘に登って町を眺めてみたときに軽い感動を覚えることがある。これといって風光明媚というわけでもない場所に海外旅行で訪れたとき、その風景が強く印象に残ることがある。そこで見えている風景が、そこらのカレンダーに使われている写真よりも、「価値がある」かどうかはわからない。しかし、そのような風景に魅入られてしまうということがよくある。  風景の美しさを感じるとき、それ自体が内在的に持っている美しさに感動を覚えているのか。それともそれを感じるためのプロセスのほうが、美しさへの感動を生んでいるのか。それを判別することはしばしば難しい。  ゲームを遊ぶという経験は、我々の美的感覚がどのように立ち上がっているのか。よくわからない気分にさせることがよくある。  最先端のCGを食い飽きてしまう一方で、ファミリーコンピュータ時代のドット絵の風景にだって感動を覚えることはある。RPGで長い洞窟を通り抜けてあらたな風景が広がるエリアまでたどり着いたとき、動かないと思っていたバックグランドの風景が動いたとき、シムシティのようなシミュレーションゲームで、ゲームのなかの人々がほんとうに命をもって動いているかのように風景を作り替えていくのを眺めたとき、ゲームのなかの風景をまじまじと眺めさせられることがある。  我々が、風景をまじまじと眺めるという体験はどのようにして与えられるのだろうか? 【ここから先はチャンネル会員限定!】PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は今月も厳選された記事を多数配信します! すでに配信済みの記事一覧は下記リンクから更新されていきます。 http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201701  

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第12回 トリコ、FF15の風景は、ただ美しいだけなのか?【不定期配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.766 ☆

京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第15回 ナデシコとウテナ――第三次アニメブームの風景【金曜日配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.765 ☆

京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録第15回 ナデシコとウテナ――第三次アニメブームの風景 【金曜日配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆ 2017.1.6 vol.765 http://wakusei2nd.com 今朝のメルマガは宇野常寛の〈サブカルチャー論〉講義録をお届けします。『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットによって90年代後半に巻き起こった第三次アニメブーム。その中核となった『機動戦艦ナデシコ』『少女革命ウテナ』という2つの作品を論じます。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年6月10日の講義を再構成したものです) 毎週金曜配信中! 「京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録」配信記事一覧はこちらのリンクから。 前回:京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第14回 ラブコメと架空年代記のはざまで――完全自殺マニュアルと地下鉄サリン事件 ■『機動戦艦ナデシコ』と『少女革命ウテナ』――第三次アニメブームの双璧  『エヴァンゲリオン』の社会現象化はおよそ10年ぶりのアニメブームを日本社会にもたらしました。『エヴァ』のヒットによって、ティーンから大人のファンを対象にしたアニメが大量に作られるようになり、90年代末にはいわゆる「深夜アニメ」が定着します。  この『エヴァ』の生み出したアニメブームを「第三次アニメブーム」と呼びます。『宇宙戦艦ヤマト』を起点とした第一次アニメブーム、『機動戦士ガンダム』に始まる第二次アニメブームは、70年代後半と80年代前半ですからほぼ連続しています。だから考え方によっては『エヴァンゲリオン』以降は2回目のアニメブームと考える人も多いです。  これらは『エヴァ』と同じように制作委員会方式で資金が調達されていました。つまり複数の会社が制作資金を出し合って、印税をシェアする方式です。そしてこの制作資金は主にビデオソフトの販売で回収されていました。当時ビデオソフトは30分のテレビアニメが2〜4話収録で5000円〜1万円が相場だったので、対象は確実に社会人でした。これは『エヴァ』の少し前から採用されていたモデルですが『エヴァ』によって一気に拡大し、定着したものです。『エヴァ』は内容だけでなく、ビジネス的な成り立ちにおいても、大人のアニメファンを対象にした作品だったと言えるでしょうね。  『ガンダム』と『エヴァンゲリオン』のあいだにはほぼ10年の空白がありますが、80年代後半から90年代前半はさきほども話したようにアニメオリジナルの作品があまり盛り上がっていない時期でした。そんななか登場した『エヴァンゲリオン』によって、アニメがまた盛り上がるようになっていったんです。これは子どもの頃に『ヤマト』や『ガンダム』見ていた世代が大人になって、彼らがビデオソフトを買うことによってマーケットが活気づくという新しい市場が生まれたことが背景にありました。第一次、第二次アニメブームを支えた団塊ジュニア世代、今の40代は人口ボリューム的にも非常に大きかったんですね。そうした市場の活況を背景に、『エヴァンゲリオン』のインパクトを受け継ぎながらも発展させようとしたアニメがこの時期にいくつか出てきます。  そのうちの代表的な2つの作品を挙げましょう。どちらも『エヴァンゲリオン』ほどのブームを巻き起こすことはできませんでしたが、当時は非常に期待されていたアニメです。そのひとつがこれです。 (『機動戦艦ナデシコ』映像上映開始)  これ、知ってる人いますか? あまり知らないですかね。僕が高校三年生のときに放映された『機動戦艦ナデシコ』という作品です。絵柄が90年代すぎて、今見るとちょっと恥ずかしいですね。  『機動戦艦ナデシコ』ってタイトルからもわかるとおり『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』のパロディが根底にあります。よく言われていたのが、「『宇宙戦艦ヤマト』のような戦艦に『うる星やつら』の美少女がたくさん乗っていて、ラブコメを繰り広げながら『ガンダム』的なロボットに乗って活躍する」ということ。ある意味、『エヴァンゲリオン』とは違うかたちで戦後アニメの総決算をやろうとしていたわけです。 ▲機動戦艦ナデシコBlu-ray BOX 上田祐司 (出演), 桑島法子 (出演), 佐藤竜雄 (監督)  【ここから先はチャンネル会員限定!】PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は今月も厳選された記事を多数配信します! すでに配信済みの記事一覧は下記リンクから更新されていきます。 http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201701  

京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第15回 ナデシコとウテナ――第三次アニメブームの風景【金曜日配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.765 ☆

落合陽一「デジタルネイチャーと幸福な全体主義」 第4回 オープンソースの倫理と資本主義の精神(後編)【毎月第1木曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.764 ☆

落合陽一「デジタルネイチャーと幸福な全体主義」第4回 オープンソースの倫理と資本主義の精神(後編)【毎月第1木曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 ☆ 2017.1.5 vol.764 http://wakusei2nd.com 今朝のメルマガは落合陽一さんの『デジタルネイチャーと幸福な全体主義』第4回の後編をお届けします。 オープンソースの思想は、資本主義と拮抗しながら、バイオやハードウェアなどの分野に拡大しつつあります。プロテスタンティズムに由来する資本の絶え間ない再投下の果てに、インターネットが辿り着いた「脱倫理」と「全体主義」という二つの思想について論じます。 【発売中!】落合陽一著『魔法の世紀』(PLANETS) ☆「映像の世紀」から「魔法の世紀」へ。研究者にしてメディアアーティストの落合さんが、この世界の変化の本質を、テクノロジーとアートの両面から語ります。 (紙)/(電子) 取り扱い書店リストはこちらから。 ▼プロフィール 落合陽一(おちあい・よういち) 1987年東京生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程を飛び級で修了し、2015年より筑波大学に着任。コンピュータとアナログなテクノロジーを組み合わせ、新しい作品を次々と生み出し「現代の魔法使い」と称される。研究室ではデジタルとアナログ、リアルとバーチャルの区別を越えた新たな人間と計算機の関係性である「デジタルネイチャー」を目指し研究に従事している。 音響浮揚の計算機制御によるグラフィクス形成技術「ピクシーダスト」が経済産業省「Innovative Technologies賞」受賞,その他国内外で受賞多数。 ◎構成:長谷川リョー 『デジタルネイチャーと幸福な全体主義』これまでの連載はこちらのリンクから。 前回:落合陽一 「デジタルネイチャーと幸福な全体主義」第4回 オープンソースの倫理と資本主義の精神(前編) ▼ニコ生放送時の動画はこちらから! http://www.nicovideo.jp/watch/1473245015 放送日:2016年8月30日 ◼︎オープンソースの精神が変えつつある社会 すでに私たちは、オープンソースなしでは生きていくことができなくなっています。オープンソースの上に成り立つ資本主義の世界を生きている。そういう意味において、私たちは知らず知らずのうちに「オープンソースの精神」を身に付けていると言えそうです。 オープンソースという概念や、それよって支えられたインフラは、インターネット以降の人類のみが持ち得る特殊な環境です。こうした環境が整備されることが人間の社会をどのように変えていくのでしょうか。 いま我々が生きているのは、「オープンソースの精神」と「資本主義の精神」が拮抗する世界です。2000年以降に全面化してきたオープンソースを、どうやって資本主義と共存させていくのか。オープンソースが生み出したものを、いかにして市場経済の枠組みの中に取り込むんでいくか、という葛藤があらゆる場所で起き始めています。 オープンソースと資本主義の関係は、いまのところ繊細なバランスの上に成り立っています。たとえば、もし仮に、全てがオープンソースとなってシェア化されたときに、果たして資本主義経済は維持されるのでしょうか。資本主義は資本の集積と再投下によって成り立っていますが、全てが共有財産になった場合、シェアされた利益は誰の一存で再投下されるべきなのか、その判断は非常に難しいと思います。 その一方で、公共的なプラットフォームが資本主義的な価値観によって運用されている状況は、必ずしも安定的ではありません。たとえば、Appleが突然App Storeを閉鎖したり、GoogleがAndroidの機能を停止する可能性はゼロではなく、そこに関して我々は極めてセンシティブにならざるをえません。 また、オープンソースから資本主義側に価値を提供する流れでは、さほど大きな問題は起きていませんが、もし資本側がオープンソースを買収しようとすれば、これは大きな問題となるでしょう。 オープンソースによって社会が少しずつ変化すると、それによってプラットフォームの構造も変わってきます。たとえば、Googleの情報検索やFacebookのソーシャルグラフといった技術は、オープンソースとしては公開されていませんが、その代わり、APIが提供されることによって、外部のプラットフォームから自由にその機能を利用できます。ようは、自由に価値を提供したり、逆に価値を享受できるような枠組みが求められるようになってきたということで、それを体現しているのが、近年登場してきた「シェアリングエコノミー」や「ソーシャルグッド」でしょう。 いま、シリコンバレーから拡大し全世界的でメジャーとなりつつあるビジネスモデル、限界費用ゼロのサービスを提供することで薄く広くユーザーを獲得し、そこに資本主義的な資金の投下を繰り返すことで、最終的に利益を生み出すまで事業を育てていく。こうしたモデルが、オープンソースと資本主義が共存を始めた社会においても続いていくのか、改めて考えていく必要があるでしょう。 ◼︎各分野で生まれるオープンソースによる二層構造 ここまでの議論では、インターネットやコンピュータ業界において、オープンソースという新しい価値が蓄積されるようになったという変化を論じてきましたが、そういった動きは、ほかの分野にも拡大しつつあります。 たとえば、バイオ分野の研究では、遺伝子のコーディング、CRISPR-Cas9によるゲノム編集、iPS細胞の製造といった先端技術の基本的なアイディアは、オープンに公開されています。もちろん多数のバイオ系企業は特許によって売り上げを得ているのですが、iPS細胞であれば、最初の発見者である山中伸弥先生の特許を確保した上で開放しているため、公的な研究機関であれば無償で利用できるし、関連企業はライセンス料を支払うことで製造を手がけられる。このように最新の研究成果が「知のインフラ」として整備されることによって、自前で細胞を製造できない小規模なベンチャーでも、バイオ系企業に依頼してIPS細胞を購入し、新しい心筋細胞や網膜細胞を作る、といったアプローチが可能になってきています。  同じことはハードウェアの分野でも起きていて、Arduinoなどに代表される、オープンソースハードウェアが登場しています。これはインターネット上でハードウェアの設計図や回路図が無償で公開されていて、深圳の工場に発注をかければ、誰でも安い金額で用途に応じたパーツを製造できるわけです。 【ここから先はチャンネル会員限定!】PLANETSの日刊メルマガ「ほぼ日刊惑星開発委員会」は今月も厳選された記事を多数配信します! すでに配信済みの記事一覧は下記リンクから更新されていきます。 http://ch.nicovideo.jp/wakusei2nd/blomaga/201701  

落合陽一「デジタルネイチャーと幸福な全体主義」 第4回 オープンソースの倫理と資本主義の精神(後編)【毎月第1木曜配信】 ☆ ほぼ日刊惑星開発委員会 vol.764 ☆
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