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三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第二章 キャラクターに命を吹き込むもの(2)【不定期配信】
2017-07-19 07:00550pt
ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。東洋的混沌と人工知能の存在論を結びつけた前回。今回は引き続き東洋哲学の視点を参照しながら、人工知能の構造を捉え直します。
(3)混沌が持つ人工知能における意味
機能的な人工知能で十分ではないか、という意見もあれば、対極として、一個の知性としての人工知能を作らねばならない、という意見もあります。しかし、「一個の知性を作り出す」という目標は西洋の夢でもあり、同時に人工知能研究の上でも重要な方向の一つです。たとえ辿り着くことが遠くても、その道程には重要な知見と技術が横たわっています。そして、それは人工知能という概念そのもの、或いは知能という概念そのものを打ち破って行くかもしれません。
図5 多数の要素が相互作用し発展する「力学系」のイメージ
自律型カオス力学系
「機能を突き詰めて存在へ至ろうとする」という方法もあります。現在の人工知能の枠の中で、知能を存在として作ろうとすれば、環境と人工知能の機能的相互連関の中で混沌を獲得するという手法、「自律型カオス力学系」と呼ばれる手法が適しています(図5)。
力学系とは「絡み合う複数の要素が時間と共に変化するシステム」のことです。特にこの力学系が「繰り返す動的な運動をボトムアップに持つ」場合には「自律型力学系」、さらに、外界からのインプットに関してセンシティブ(鋭敏)に運動を変化する場合に「自律型カオス力学系」と言います。イメージとしては、天井からつりさげられたたくさんの振り子がお互い細い糸でつながれている場を想像しましょう。いくつかの振り子を力強く動かすと、力が伝搬して全体として複雑な振り子運動が生成されます。振り子は空間の中にありますが、「自律型カオス力学系」の要素はより高次元の抽象的な空間にあります。これが一般の力学系です。
私自身も知能を「外部環境と内部構造の相互作用による情報の混沌」の中から自律生成されるカオス」力学系として人工知能を構築するという試みに長い間かかわって来ました(これは私の博士課程の頃からのテーマでありました)。現在も続けていますし、またこれからもこの手法が最も有望であると感じています。
人工知能のカオス存在理論
ところが、このアプローチは人工知能の中に閉じている限り、とても数学的でトリッキーなものに見えてしまいます。このアプローチにしっかりとした基盤を与えようとするならば、まず哲学の領域でしっかりとした土台を築く必要があります。さらにより深い基盤として、東洋的な思想の上に構築することが自然です。というのも「混沌からすべてが生まれる」という思想は東洋哲学においてこそ根源的なものであるからです。これは東洋的な知見と西洋な知見をつなぎ合わせるということではありません。知能を作るという試みの中では、自然と東洋と西洋の二つの知見が自然と必要とされます。私の現在の教養ではなぜ、そのような事情になるかはわかりません。東洋だけでも、西洋だけでも、人工知能は成功して良さそうに思えますが、人工知能を作ろうとする行為は、まさにこの二つを世界の潮流を結び合わせる役目を持っているようです。それは我々の見方を逆転させることでもあります。混沌を構成する、という見方ではなく、まず知能とは混沌であり、その表現として「自律型カオス力学系」があるという見方です。ですから知能の根底である混沌を知ることこそが、知能を形成するための最大のヒントであり、それを「自律型カオス力学系」の力をかりて描き出す、ということでもあります(図6)。
図6 人工知能と混沌、そして力学系
ニューラルネットワークと混沌
混沌は人工知能に存在を与えます。一つの混沌からの人工知能の作り方は、「リカレント・ニューラルネットワーク」を用いることです。ニューラルネットワークとは脳の神経回路を模した「電気回路シミュレータ」です。通常、ニューラルネットワークは多層構造を持っており(パーセプトロン型)、入力(感覚)から出力(判断)に向かって信号が進んで行きますが、リカレント・ニューラルネットワークは出力を入力にもう一度戻します。出力と入力が混じり合います。つまり感覚と判断が混じり合います。つまり客観と主観が混じり合います(図7)。
判断と感覚が混じり合うのがリカレント・ニューラルネットワークの特徴です。リカレント・ニューラルネットワークを動かしていると、次第に、このリカレント・ニューラルネットワークを構成する要素の間に「自律型カオス力学系」が出現します。正確には、その場合、ニューラルネットワークは少し複雑な構造を持つ必要がありますが、本質的には自己ループバック構造と世界とのインタラクションの中からカオスが生まれます。
図7 リカレント・ニューラルネットワークと自律型カオス力学系
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福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第三章 文化史における円谷英二 2 飛行機・前衛・メカニズム(2)【毎月配信】
2017-07-18 07:00550pt
文芸批評家・福嶋亮大さんが、様々なジャンルを横断しながら日本特有の映像文化〈特撮〉を捉え直す『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』。エンターテイメント作家としてのイメージが強い円谷英二を、近代映画史の文脈の中に改めて位置づけつつ、円谷の同世代に「メカニズム志向」が共有されていたことを指摘します。
『バレエ・メカニック』から『狂つた一頁』まで
円谷が『フォトタイムス』に寄せた文章には「ホリゾント法に據るセッティングの研究」のような技術論が目立つが、そのなかにあって一九三三年十月号の『フォトタイムス』には、円谷の美学的関心のありかを示唆する文章が掲載されている。
フェルナン・レジェは、彼の「機械的舞踏」に於て、動的物体の発見に向かって、驚くべき一歩を踏み出した。
シナリオとか自然主義的、または劇的のアクションとかの代わりに実在の、そして造形的な形体。
彼は、物体の通常の意味などには気も止めずに、物体のただ造形的の価値の上にのみフィルムを建設しようとして理論的、お話的、象徴的な意味から、物体を完全に、離脱し、開放したのである。[26]
レジェは一九二四年に画家ダドリー・マーフィーとともに製作した『バレエ・メカニック』(機械的舞踏!)で名を馳せた。この二〇分弱のアートフィルムは、歯車やレバー、振り子、泡立て器等の日常の事物の合成映像によって作られた、いわば「抽象画的ドキュメンタリー」と評すべき作品であり[27]、撮影はマン・レイが担当した。この円谷の論評以前に、日本でレジェはすでに「機械の世界」の運動を捉えることによって「新興写真運動」に貢献した重要な芸術家と見なされており[28]、『バレエ・メカニック』の与えた衝撃の大きさがうかがえる。
円谷が技術者の見地から、この『バレエ・メカニック』の意義を「自然主義」や「劇的なアクション」からの解放として説明したのは、本質を突いた見解である。社会的現実にも演劇的約束事にも従属することなく、あるいは手垢のついた「物語」や「象徴」からも離れて、無機物の「バレエ」によって運動そのものを映像のパフォーマンスとして出現させること――、このレジェの前衛的な企ては、先述した一九二六年の『狂つた一頁』が精神病院での女性の「舞踊」で始まっていたことと綺麗に符合する。
近年再評価の進む『狂つた一頁』は、一八九六年生まれの衣笠貞之助監督が、川端康成、横光利一、片岡鉄兵、岸田國士の四人を含む「新感覚派映画聯盟」を結成して製作した前衛映画である。精神病院に収監された女性患者が牢獄のなかで踊り狂うという鮮烈な冒頭部に始まり、他の患者たちがそれにエキサイトする「観客」として登場する。自我を失くしたかのような女の運動そのものを示しつつ、その狂気が周囲にも感染していくというディオニュソス的(祝祭的)な運動が、そこでは映像化されていた。
ただし、『狂つた一頁』はいたずらにおどろおどろしい映画ではなく、アポロン的な造形感覚にも事欠かない。四方田犬彦の詳しい分析を借りれば、そこにはキュビズムやダダイズムの影響を思わせる抽象的な「円環」のイメージが増殖する一方で、それを切断するように、牢獄の鉄格子のような冷たい垂直線のイメージが多用された[29]。そもそも、『狂つた一頁』は凝りに凝った美術セットで名高い『カリガリ博士』(一九二〇年)の影響下にある「ドイツ表現主義的」な作品と見なされがちではあるものの、かつて蓮實重彦が指摘したように、その装置はむしろ普通の作りである[30]。『狂つた一頁』の「前衛性」は美術の仕事以上に、ディオニュソス的な激しさとアポロン的な冷たさを共存させながら、ときに「抽象画的ドキュメンタリー」にも近づくカメラの繊細な運動によって担保されていた。
そのことはまさに円谷によって的確に指摘されている。円谷は自らが助手として関わった『狂つた一頁』の画期的な新技術として「画面を飛躍的に表現する急速な移動パンや、パンワーギと称するキャメラを横に振って急速な場面転換、立体的な移動ショット等」に加えて「歪曲鏡の使用、フラッシュ・ダブル・エキスポージュアに依るビジョンの効果、波形移動の効果、シルエットの使用効果、小型模型の使用」を挙げながら、衣笠監督について「映画の技術的なコツを実によく知りぬいた演出家だと、技術家の立場から私はいつも敬服している」と評していた。円谷にとって、『狂つた一頁』は「日本映画の技術発達史」に屹立するテクノロジーの記念碑なのだ[31]。
歌舞伎の女形出身の衣笠監督はかえって演劇的映画から離れて、当時のヨーロッパの前衛とも共振する映画的映画を撮り、『狂つた一頁』の後に『十字路』という傑作も生み出すが、その前提として、円谷は衣笠自身にカメラマンの経験があったことを強調していた。円谷の考えでは、衣笠は何よりもまずカメラの性能を知り尽くした「技術者」なのであり、表現主義云々、主観描写云々はあくまでその高度な技術の後に続くものにすぎない――、むろん、この衣笠評から円谷自身の技術者としての密かな矜持を読み取ることも、十分可能だろう。
戦後の『ゴジラ』やウルトラシリーズの印象が強いため、私たちはつい円谷英二をエンターテインメント志向の映像作家と見てしまいがちだが、それは大きな誤解である。映画固有の表現を追求した枝正義郎のもとで修行し、映像を人工的に「構成」することに習熟した技術者が、やがて『狂つた一頁』や新興写真のような前衛運動とも接近遭遇する――、この履歴からは戦後の「怪獣もの」のイメージには収まりきらない円谷のもう一つのモダンな顔をうかがい知ることができる。円谷自身、晩年には「私が怪獣映画ばかり作るように思われるのは心外」だとして、特撮の研究を始めたのは本来「映画をより芸術的なものにしたかったから」だと記していた[32]。裏返せば、日本の戦後とは、前衛が怪獣化し、娯楽化していった時代なのだ。次章で詳しく論じるが、この変転にこそ戦後サブカルチャーを読み解く鍵があると私は考えている。
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京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第24回 AKB48は〈戦後日本〉を乗り越えられたか【金曜日配信】
2017-07-14 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は、ゼロ年代末に社会現象となっていったAKB48の軌跡を振り返ります。〈ライブアイドル〉として出発したAKBが、やがてぶつかることとなった「壁」とは?(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)
ブレイク期のAKBを象徴する「大声ダイヤモンド」「RIVER」
AKBは大手レコード会社「キングレコード」に移籍し、やがてメジャーな存在になっていくのですが、同時に地方展開も始めています。その時期を象徴する曲が、2008年の「大声ダイヤモンド」です。
(AKB48「大声ダイヤモンド」映像上映開始)
(画像出典)
MVの最初のシーンで階段を駆け上がっているのが、新しく名古屋にできた「SKE48」のセンター、当時小学5年生の松井珠理奈ですね。「これからAKBはマスメディアに打って出ていくぞ」「地方展開もしていくぞ」ということが象徴的に表現されています。MVの内容は、普通の女子高校生たちが様々な障害を乗り越えて学園祭での出し物を成功させていくというストーリーで、まさにAKBの売りである「親しみやすさ」という立ち位置が表現されています。
このあたりから、秋元康の書くAKB48のシングル曲の歌詞には「僕」という一人称が増えていきます。アイドルソングとしては「私」という女の子の目線から相手の男の子のことを想う歌詞が王道なのですが、これはその逆になっている。これはどういうことかというと、要するに参加型のアイドルであるAKB48では、アイドルは疑似恋愛の対象であると同時に自己同一化の対象なんですね。アイドルとファンが一丸になってこの社会をのし上がっていく、そんな構造を歌詞で表現しているわけです。
そしてこの時期AKB48は現場+インターネットで培った勢いをベースに、2009年くらいからテレビに出ていき、一気にメジャー化していきます。そのときに秋元康が勝負曲として彼女たちに与えたのが、「RIVER」という曲です。
(AKB48「RIVER」映像上映開始)
(画像出典)
かつて1989年に秋元康は、美空ひばりの生前最後の曲である「川の流れのように」を作詞しています。ここでいう「川」は戦後日本の比喩なんです。美空ひばりは「昭和」を象徴する歌姫で、この曲の歌詞には「戦後っていろいろあったけれど、トータルに見れば経済発展したし平和になったし、良かったよね」という感慨が込められている。戦後日本という「川」に、「おだやかに身をまかせ」ることを肯定する曲なんですね。
そして「RIVER」は、20年前の「川の流れのように」へのアンサーソングなんです。川=戦後日本を若者たちに立ちはだかる障壁に見立て、その古い時代を乗り越えていこう、という歌詞になっています。秋元康は、そういう歌詞の曲を、自分の勝負企画であるAKBに歌わせた。「この先、AKBは古いものを終わらせてどんどん拡大していくぞ」と宣言しているわけです。
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本日21:00から生放送☆ 今週のスッキリ!できないニュースを一刀両断――宇野常寛の〈木曜解放区 〉2017.7.13
2017-07-13 07:30
本日21:00からは、宇野常寛の〈木曜解放区 〉生放送です!
〈木曜解放区〉は、宇野常寛が今週気になったニュースや、「スッキリ!!」で語り残した話題を思う存分語り尽くす生放送番組です。
時事問題の解説、いま最も論じたい作品を語り倒す「今週の1本」、PLANETSの活動を編集者視点で振り返る「今週のPLANETS」、週替りアシスタントナビゲーターの特別企画、そして皆さんからのメールなど、盛りだくさんの内容でお届けします。
★★今夜のラインナップ★★特別ゲストに香港中文大学社会学講師の張 彧暋(チョウ イクマン)さん出演が決まりました!今週の1本…映画『メアリと魔女の花』を語ります。
メールテーマ…「夏の計画」というテーマでみなさんからのおたよりをお待ちしています。
アシスタントナビコーナー…「井本光俊、世界を語る」をお送りします。
and more...
今夜の放送もお見逃しな -
井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第17回 二次的フレームの形成【毎月第2木曜配信】
2017-07-13 07:00550pt
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は、ゲーム好きが一度はハマる「やりこみ」、この本来の遊びの範疇を逸脱する奇妙な欲望を手掛かりに、「フレームからの逸脱」と「一時的現実に対する複数の合理性」という2つのゲーム的形式を論じます。
3-4-4.二次的フレームの形成
前々回、気ままにポケモンを遊んでいるこどもに強制でポケモンを遊ばせたところ、ポケモンに飽きてしまったという話を紹介したが、その逆のような話をしたい。
何かのゲームにハマりまくった結果、誰にも強制されていないはずなのに、苦行のようなゲームプレイをしてしまったということはないだろうか。ある程度、一つのゲームをずっと遊んでいると普通のゲームプレイではあきたらなくなってくるということは、ゲームが好きな人であれば多くの人が体験として知っていることだろう。
こういったゲームをやりこむという行為で有名なものの一つに、かつてファミ通で実施されていた企画である「やりこみ大賞」というものがあった。とてつもなく暇人でなければ達成できないのではないか、という驚異的で変態的なゲームの遊び方がしばしば投稿された。とりわけ、多くの人に衝撃を与えたやりこみに『ロマンシングサ・ガ3』(ロマサガ3)の「セレクトボタンを押さずにクリア」というものがあった。『ロマンシングサ・ガ3』では、セレクトボタンはいわゆるメニューボタンであり、これを押せないということは(1)ノーセーブクリア、(2)初期装備のままクリア(3)陣形・キャラ配置・技の入換え不可(4)ステータス確認不可ということを意味している。
これは同じゲームをある程度やりこんだ人にとっては大きな衝撃を生んだようで、あらたな「やりこみ」を導いた。次の引用は、ファミ通のやりこみ大賞を見て、自分でもやりこみをはじめたという人が書いたテキストだ。[1]
当時中学生だった私は「セレクトボタンを押さずにクリア」を始めてみたとき、感動に身を震えさせました。
想像を絶する内容のやりこみが大賞に選ばれて「これ以上のやりこみはもう生まれないだろうなあ」と素直に思いました。
まだまだ小さな視野でしかロマサガ3を触れなかった私には別次元の存在を見せ付けられた心境でした。
無理とか不可能とかいうレベルではなく、賛美するしかないような威圧感のあるやりこみ。
それが私にとっての「セレクトボタンを押さずにクリア」です。
それから8年の歳月の間このやりこみの影を追うようにロマサガ3と付き合っていました。
ロマサガ3のやりこみの見るたびに必ず「セレクトボタンを押さずにクリア」をものさしにしている自分が居ました。
それは"崇拝"という言葉がもっとも近い表現でしょう。
しかし自分がロマサガ3のやりこみ人としてネットで活動し始めてから、徐々にその信仰は薄らいでいきます。
自身の達成したやりこみも「セレクトボタンを押さずにクリア」をものさしにして自虐していることに気づいたとき、ひどい嫌悪感に陥りました。
崇拝なんて奇麗事ではなく、自身が達成できない領域にあるものに対して嫉妬していただけだったのではないか。
その事実に気づいたとき、無性に悔しくなり、決心します。
私も「セレクトボタンを押さずにクリア」を達成しよう
いつまでも影を追いたくなんかない。
自分のやりこみに自信を持てない人間なんかやりこみなんて語ることすらおこがましい。
過去の自分に決別する意味でもやらなければならないと感じました。
こうして2004年1月のある日、私は1年ぶりにロマサガ3とSFCを押入れから取り出したのです。
それから数ヶ月の間は空いた時間に少しずつロマサガ3のデータを集めながらテストプレイを行う日々が始まりました。
最初は不可能だと思っていた「セレクトボタンを押さずにクリア」も徐々にその形を現してきました。
8年前に容赦なくたたきつけられたハードルがようやく私にもしっかりと見え始めてきたのです。
そして4月のある日、一つの攻略ルートを叩き出しました。
この攻略ルートこそ私が三ヶ月の歳月をかけて完成させた「セレクトボタンを押さずにクリア」です。
あとはその攻略ルートをベースにテストプレイやリハーサルプレイを重ねついに5月7日に「セレクトボタンを押さずにクリア」を達成しました。
ゲームをやりこむということは多くの人が経験しがちな体験であるが、この人固有の『ロマンシングサ・ガ3』への情熱は他人とは異なる特殊なものである。この特殊で、強い情熱は「気ままに遊ぶ」というありかただとは言い難い。
筆者にとっても『ロマンシングサ・ガ3』は合計で一五〇時間以上は遊んだ記憶があるが、おそらく筆者が把握しているゲームと、この人にとって見えているそれは半分以上違うゲームだ。
実際に、この人が引用部のあとに詳細に述べている『ロマンシングサ・ガ3』の攻略についての話は、筆者が記憶しているそれとはだいぶ違っている。正直なところ、何を言っているのか、細かいところはよくわからない。先に挙げた基準でいえば「意味的独立の共有可能性」を満たしているといえるのかどうかが怪しい。この人が使っているゲーム内の攻略を指し示す用語も体感レベルではよくわからないし、楽しみどころも、苦しみどころも、体験を共有しているとは言い難い。
もちろん、それは同じ『ロマンシングサ・ガ3』であっても、「セレクトボタンを押さずにクリア」を押さずにクリアをしているという新たなルールを課したことで、ルール上も別のゲームに変質してしまっているから、ということができる。しかし、ここまで激しいやりこみにならなくとも、この一歩手前、二歩手前ぐらいのレベルまである特定のゲームをやりこむとこれに近い状況がでてくることはある。これといって特殊なルールの縛りをつけると決めたわけでなくとも、その人固有のこだわりのようなものがボンヤリとかたちをとってきて、同じゲームを遊んでいるはずが、少しずつ違った体験を構成しているということはよくある。
たとえば、筆者の友人のS氏にとっては『スーパーマリオブラザーズ』は「いかに手際よく無限1UPをするか」というところがゲームの醍醐味だという。おそらくそういった形で遊んでいる人はほかにもいるのだろうが、筆者はそういう遊び方はしていなかったので、S氏の話す『スーパーマリオブラザーズ』の話は同じゲームの話をしているとは思えないときがあった。
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【特別寄稿】三宅陽一郎「解題『正解するカド』」
2017-07-12 07:00550pt
今朝のメルマガでは、今期話題のアニメ『正解するカド』について、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんによる寄稿をお届けします。『2001年宇宙の旅』や『スタートレック』といったSF作品の系譜を継ぐ、正統的な「ファーストコンタクトもの」である本作。異方存在ヤハクィザシュニナの現代性、そして、この物語が最後に辿り着いた「正解」とは?(※注意:本記事には作品に関するネタバレがあります)
カド
『正解するカド』は、大ヒットとなったフル3D劇場アニメーション『楽園追放』(2014年)を放った東映アニメーションが、同作品の野口光一プロデューサーの指揮のもと、ユニークな作品群で注目を集める野崎まど氏を脚本に擁し、満を持して放つフル3Dテレビアニメーションである。ゲームエンジンUnity3Dを用いた計算による表現が「カド」の時間結晶運動の表現に用いられている。
『正解するカド』は彼方からやってくる存在「異方」との出会いの物語である。それは極めて仕組まれた出会いであり、「ファーストコンタクト」と言ってもまったく一方的な出会いである。それは降臨と言ってもいいし「押しかける」と言ってもいいし、あるいは「取り立てる」と言うべきかもしれない。何百億年と異方から長らく宇宙を見守っていた存在が、満を持して会いに来た、そんな出会いなのである。
図 「正解するカド」設定見取り図
出現する異次元からの立方体は「カド」と呼ばれる、多次元の存在が幾重にも折りたたまれたフラクタル立方体である。第一話で飛行機をまるごと飲み込んでしまうが、乗客の安全は保障される。飛行機は一つの比喩であり、いつでも地球全体を飲み込めることを暗示している。「カド」は人類を超えた圧倒的な存在であることを証明したのだ。「カド」は3次元の空間ではなく、この宇宙とは異なる物理法則を持つより高次元の存在(3+37次元)である。「カド」によって「異方」より来たりしは「ヤハクィザシュニナ」一人である。その高次元の存在体は、人間の警戒心を抑えるために白い装束に身を包み、真っ白い髪を持つ男性として顕現する。人間の言語を一瞬で学習し、人間とのコンタクトを始める。物語はこのカドを代表する「ヤハクィザシュニナ」と、人類を代表して外務省 国連政策課の交渉官(ネゴシエーター)である「真道幸路朗(しんどう・こうじろう)」との交渉を軸として展開される。
ヤハクィザシュニナ(1)
ヤハクィザシュニナの東洋的な姿、そして彼がそこから来た場所である「異方」はその根底に東洋的神話を思わせる。一つの世界に、その世界に属さない客人(まろうど)、あるいは「まれびと」として現れる存在である。世界に新しい兆しをもたらし、去って行く存在である。
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【特別インタビュー】大西ラドクリフ貴士 世界の〈境界線〉を飛び越える――Q&Oサイト「ヒストリア」の挑戦(後編)
2017-07-11 07:00550pt
Q&O(クエスチョン&オピニオン)サービス「historie(ヒストリア)」を立ち上げ、国際情勢や歴史認識に関する議論を、新しい切り口で可視化しようとしている大西ラドクリフ貴士さん。後編では、多民族が参加するオンラインスクール事業のアイディアや、物語性を超えた歴史観をいかに子供たちに教育するかについて、お話を伺いました。※本記事の前編はこちら。
▼プロフィール 大西ラドクリフ貴士(おおにし らどくりふ たかし)
1988年兵庫生まれ。起業家。横浜市立大学卒業後、RECRUITに新卒入社。内定者時代に社内新規事業制度「Newring」にてグランプリを獲得し、「Media Technology Lab.(現 新規事業開発室)」にてプロダクトマネージャーとして新規事業立ち上げ。RECRUIT VENTURESに異動し、Open Innovation戦略担当として「Newring」をRECRUIT史上初めて社外に解放。三井不動産、サイバーエージェント、経産省との協業を企画。Recruit Lifestyleでは UX DesignerとしてFintech系プロダクトの新機能立ち上げを担当。2017年4月末に同社を退職し、historieを運営するthe Babels株式会社を創業、代表取締役社長CEOに就任。 世界平和をインターネットからつくる。
CGMの限界とオンラインスクールの可能性
宇野 ただ、一つ聞いてみたいのは、いま世界には民主主義の限界を意識せよ、という考え方のほうが説得力を持つ局面があるのは間違いないと思うんですよね。端的に言えば、バカにインターネットをもたせるとロクなことをしない。だから、ネット時代に民主主義は究極的には成立しない。民主主義で決められる範囲をなるべく狭くし、立法ではなく行政、デモクラシーではなくガバナンスで問題解決を試みる方が「賢い」と考えるほうが優勢だと思うんですね。
そんな中で、このhistorie(ヒストリア)はまだ素朴なインターネットへの信仰、つまり発信力を与えることで人間が「群」として賢くなるという幻想に基いているように思えるんですよ。もちろん、それができるなら越したことはないと僕は考えているからこういうことを聞くわけですが、そんな状況の中で、あえてボトムアップのCGM的なサービスに期待するのは、なぜでしょうか?
ラド CGMといっても正直なところ、historieの議論のレベルを維持するためには、一般コンシューマーよりも、いわゆる「プロコンシューマー」の意見の方に期待しています。プロコンシューマーというのは専門性や知識を持ってるユーザーのことです。やっぱりある程度の専門性や知識がないと、発言しにくいし支持されるものになりにくいですからね。でも、その一つ一つの意見をジャッジするのは実は一般コンシューマーの方です。現代の世界を解剖するには「プロコンシューマーの意見がどのように一般コンシューマーに支持されているのか?」の集積と分析が重要だと思うんです。
例えば、米国大統領選でのトランプの支持層を見ても、プロコンシューマーではない一般コンシューマーのVote(投票)が最終的な決定権を握っていたわけじゃないですか。こういったネット上では大騒ぎしなくて目立たないような、サイレントマジョリティやサイレントマイノリティの声の受け皿が、いま世の中に必要で。彼らのVote(投票)を受け付けるようなCGMが、非常に重要になると考えています。そういう意味では、ネット上の民主主義にはまだまだ大きな可能性があると僕は捉えています。
少し話が飛びますが、よくインターナショナルとグローバリセーションを対比する議論があるじゃないですか、インターナショナルとは「寛容になる」ということであって、どちらかを選ぶという話ではない。ここにCGMを持ち込めないかなと。
宇野 あえてざっくり整理するならインターナショナルは境界のある世界でお互い頑張って交流しよう、グローバルは境界そのものをなくしてしまおう、という考え方ですよね。前者ではいかに人々が「寛容」になっていかに他者に手を伸ばすかが大事になって、後者では自動的に接続されてしまったものの間をいかに調節するか、もっと言ってしまえばいかに手を離すか、が大事になっていく。具体的には画一化されたプラットフォームの上でどう多様性を実現するかが問われることになる。
ラド まだ上手く言語化できてないですけど、インターナショナルでもない、そしてグローバリゼーションでもない、そのもうひとつ先にある世界があると思っていて、そしてそれを描きたくて、そこにCGMの可能性を見ているんです。世の中にはたくさんの境界線があり、人々は色眼鏡やフィルターを通して世界を見ている。そういった状況に対して、僕らのアプローチは3つあって、「1.境界線を超える」、あるいは「2.境界線を溶かす」、そしてもうひとつ、「3.境界線を上書きする」があると思っています。1はインターナショナル的、2はグローバリゼーション的と言ってもいいかもしれない。そして3は、つまりは、境界線を爆発的に増やすことで、実質的に人々の色眼鏡を無効化するようなものかと。
例えば「中国のことはあまり好きじゃない」というレイヤーに重なるかたちで「でも、中国のFintech(フィンテック)とかって超すごい」みたいなレイヤーで内側に入れる。たとえば「韓国のことはあまり好きじゃない」というレイヤーに重なる形で「K-POPは好き」という発想があってもおかしくない。それって、「K-POPアイドル好き」という趣味性の領域において、境界線の内側に入り込んでいる状態なんですよね。これは、ネット上で動画がシェアされファン層が急激に拡大していくような動きとして現れますが、そのことによって境界線が爆発的に増えて、誰もがお互いに相対化されれば、境界線の内側同士になれるんです。ただし、この方法は、ちょっとだけ境界線が増えても意味がない。爆発的に増えないと意味が出にくいんです。狙いとしては、国籍の上にさらにいろんな境界線がひかれまくってしまうと、わけわかんなくなってきて、その興味分野に関しては自分がナニジンかとかどうでもよくなってしまう瞬間があると思いますから、その演出です。そういう意味でも、CGMのアプローチは未だに有効であると考えています。
宇野 境界線をあえて「増やす」というアプローチですね。「日本人とそれ以外」という境界線を心のなかに持っている人に対して、自分自身がもっとたくさんの、複数の境界線が複雑に絡み合ったところに浮かんでくる存在だということを知ってもらう。国民というアイデンティティを相対化することで、ナショナリズム回帰を乗り越えよう、という議論はずっとあったと思うんですが、それをCGMサービスのようなかたちで実践するという発想はなかなかなかったと思います。
ラド CGMの本質はそこにあると思っていて、トップダウンでは方向性が決まってしまって打破できない状況を、ボトムアップの集合知で高速に無効化していく。境界線を跨いでどうしても気になっていたことが、別の境界線が上書きされて囲われることで、無効化、希薄化、中和されて、いつのまにか気にならなくなっていく。そういう意味で象徴的なのは日本のネット文化です。
わかりやすい例としてよく話すのは「初音ミク」とか。こういうことを言うと実際の初音ミクのファンの方は嫌がると思うし、僕自身は純粋なファンではないから言えるんだと思うんですが、僕はウェブサービスの設計者として、初音ミクをあくまでウェブサービスやプラットフォームとして捉えたい。
プロコンシューマーによって、楽曲数という点では、B’zやサザン、秋元康さんといった天才たちをはるかに凌ぐ勢いでが数が増加していくわけですが、そのプロコンシューマーたちって、全然一つの文化圏に収まりきってなかったりして。初音ミクというCGMの前では、自分がナニジンかとかどんな職種だとか、そんなあらゆる境界線が上書きされて、どんどん内側へと入り込んでいく。
――ニコニコ動画では、動画数が増えすぎると逆に閉塞的になる。初音ミクの話でも、曲が増えすぎて素人にはどれが良い曲かよくわからない。つまり、情報量がある閾値を超えたときに、ピックアップや編集を加えて全体性を仮構しないとオープンな場を維持することが難しいという問題がありますが、そこについてはどうお考えですか?
ラド おっしゃる通りだと思います。ただ、このhistorieは、プロコンシューマーが中心となって、世界から有益な情報を吸い上げる装置として機能すればいいと考えています。やっぱりウェブである以上、気になってGoogleで検索するとか、historieをSNSでシェアするような友人が周りにいるとか、興味やコミュニティが無い人々にはなかなか届かないので。意見を吸い上げる装置が、もともと興味ある人とか知識人に閉鎖的になってしまう部分は、ある程度仕方ないと思っています。でも、そこから生まれたいわゆる「良い曲」をしっかりと編集して「アルバム」の形にして届けるのは、また別の作業だと思っていて。
historieで得られた素材を編集して子供たち(大人かもしれませんが)に届けるのは、「バベルスクール」というオンラインスクール事業を計画しています。もちろん、編集が入る時点で公平さを維持できるのかという議論はありますが、僕らはたとえば右翼にも左翼にもフラットで、あくまでも複数の意見を立体化させるためのプラットフォームとして情報を届けていきたい。それが、historieの向こう側にある、国境をまたいだ次世代の教科書や学校事業です。
――「バベルスクール」では、子供たちに向けてどのようなコンテンツを提供するのでしょうか?
ラド まだ構想段階ですが、バベルスクールでは、「オンラインインターナショナルスクール」にチャレンジしたいなと思っています。具体的には、文化圏をまたいだ同世代の子供たちを、オンラインで時差が合う時間帯に集めて、ディスカッションさせる場を作ろうとしています。多民族の小さなクラスルームを作って、たとえば原爆についてのクエスチョンで、「最低限こういうことは調べてきてね」と事前課題も与えた上で議論を行う。そうやって学校や家族に教えられた自分たちの常識的な歴史観が、実は国ごとに全然違っていることを体感できる場を、提供していきたい。
historieという名前で「歴史を教える」と話すと、どうしても歴史上の「過去」を引っ張り出して議論しているように聞こえるかもしれないんですが、むしろ逆だと思っていて、バベルスクールは現代史も含めて「今」や「未来」の世界を考える時間を提供していけると思っています。
History(歴史)って、ほんとは、過去の出来事を教える科目じゃなくて、未来を考える想像力を育てる科目なはずだと僕は思っているので。だから、歴史を学ぶことは、未来を考えること。歴史を教える仕事は、未来をつくる仕事です。歴史って暗記科目じゃないですよ、超クリエイティブです。
近年、シリコンバレーでは、子供にリベラルな教育を与えたいと考える親が増えています。21世紀型のグローバルシティズン力、つまり地球市民としての力がビジネスにおいても問われ始めている。それを教育によって伸ばしていこうという動きがあります。
そういう教育を望んでいる親は、カリフォルニアのリベラル層や富裕層を中心に、世界中、日本にもいます。でも、完全にインターナショナルスクールに通わせるのっていろいろハードル高くて、それをオンラインで私塾的につまみ食いできる場所があればいいなと、ファーストステップとしてはそう思っています。
本当は、届ける人を最大化するためにも、公教育に落とすところまでやっていきたいんですが、それはとてもパワーもかかることだと理解しているので、公教育を進めてこられた有識者の方々のご支援やご指導を受けながら、時間をかけてしっかりと進めて行きたいと考えています。日本国内だけでもディスカッションの場を提供することには意味がありますし、スクールとして非常に価値があることだと思ってます。
物語的な歴史観の限界をいかに乗り越えるか
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【特別再配信】『ズートピア』――ディズニーの自己批評路線が作り上げた、嫌になるくらいの完成度(イシイジロウ×宇野常寛)
2017-07-10 07:00550pt
今回の特別再配信では、映画『ズートピア』をめぐるイシイジロウさんと宇野常寛の対談をお届けします。高い完成度のシナリオで右肩上がりのヒットとなった本作。絶妙なさじ加減で盛り込まれた政治性と、3DCGが可能にした柔軟な映画作りの可能性、そしてディズニー買収後のピクサーが失ったテーマ。その完成度の高さの理由とディズニーアニメとしてのすごさを語りました。(構成:須賀原みち/初出:「サイゾー」2016年7月号(サイゾー)/2016年7月27日に配信された記事の再配信です)
宇野常寛が出演したニコニコ公式生放送、【「攻殻」実写版公開】今こそ語ろう、「押井守」と「GHOST IN THE SHELL」の視聴はこちらから。
延長戦はPLANETSチャンネルで!
(出典)
▼作品紹介
『ズートピア』
監督:リッチ・ムーア/バイロン・ハワード 脚本:ジャレッド・ブッシュ/フィル・ジョンストン 制作:ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ 公開:2016年4月23日(日本)
進化によって、肉食動物と草食動物が仲良く共存できるようになった世界の大都会「ズートピア」。ウサギ初の警察官となったジュディと、この世界にあっても嫌われ者のキツネゆえひねくれた詐欺師ニックのコンビが、ズートピアで起きる連続行方不明事件の調査に当たる。その過程で変わってゆく2人のバディ的関係を軸に、種族を超えた共存が可能になってもなお続く差別や偏見を明確に描く。
イシイ 『ズートピア』、自分のようなクリエイターからすると、鼻につくぐらいよくできていましたね。「(ジョン・)ラセター【1】、ここで絶対ドヤ顔してる!」って思うところが何度もあって(笑)、嫌になるくらいの素晴らしさでした。これまでディズニーが作り上げてきたアーカイブを破壊するような邪道的なことをやりながら、エンターテインメントの文法にしっかり則っているから観客にも伝わるし、エンタメ作品として成立している。完成度が高すぎます。
宇野 アニメーション映画の宣伝って、「このキャラクターが動くところが観たい」と思わせるのが重要じゃないですか。『ズートピア』はそのルックスが地味で、どうなのかな?と思っていた。でも実際に観てみたら、とにかく感心しましたね。設定や筋立ては結構いい加減なところもあると思うのだけど、そういう穴をかなり露骨に現実の比喩だと宣言することで無効化してしまう、というやり方でしょう? ディズニーがファンタジーの力を使って現実のヤバさをえぐり出してくるタイプのものを、このレベルで出してくるとは。
イシイ 僕もコマーシャルを見ただけだとそんなに惹かれていなくて、「ステレオタイプなバディものだな」って思いながら観に行った。しかも、主人公のジュディが、最初は理想主義すぎて印象が良くないんですよ。ところが、10分も観ていると彼女を応援せざるを得ない気持ちになってしまう。その演出とシナリオの積み上げ方のうまさとテーマ性がセットになっていて、よく効くようになっていた。
宇野 後味のコントロールが絶妙なんですよね。物語の中ではすごくキレイに完結してスッキリしている半面、例えば会見のシーン【2】で「自分がジュディの立場だったらどう答えたか?」とか、現実に持ち帰って考えさせるようにしている。政治的なメッセージが鼻につくという人もいるかもしれないけど、現実の問題を作品に取り込むことで、非常に奥行きの深いアニメーションを構築していたと思う。程よくモヤモヤを持ち帰らせているのがとにかくうまい。アニメに現代の現実を持ち込むと、作品の世界が壊れてしまうことも多いけど、本作は、そのバランス感覚が巧みだった。もともとディズニーはこういうことが苦手な印象があったんですよ。ディズニーランドじゃないけど、“夢の国”を作るのがディズニーで、社会的なものを取り込むのはピクサー、という感じで。
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京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第23回 〈メディアアイドル〉から〈ライブアイドル〉へ――情報環境の変化とAKB48のブレイク【金曜日配信】
2017-07-07 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録』。今回は90年代末〜ゼロ年代半ばのアイドルシーンを扱います。モー娘。やPerfume、AKB48のブレイクを、世相や情報環境の変化と絡めて論じます。(この原稿は、京都精華大学 ポピュラーカルチャー学部 2016年7月8日の講義を再構成したものです)
歌謡曲的なアプローチを復活させたモーニング娘。
しかしそんななかで、90年代後半に出てきて時代を席巻したのが、つんく♂がプロデュースするモーニング娘。とハロー!プロジェクトでした。モーニング娘。はテレビ東京の「ASAYAN」というバラエティ番組から出てきたのですが、やっていることは「夕やけニャンニャン」とほぼ同じで、オーディションの過程からすべてテレビで放映していく、〈楽屋〉を意図的に半分だけ見せるというものでした。半分虚構、半分現実みたいなもので、ある程度作っているところも当然あります。
今って新しいアイドルが出てくると、みんながその人のTwitterをフォローしてどういう人間かを見ますよね。そういうものが、この当時はまだない。カメラがオーディションに入っていって、アイドル(候補)の表情だけを見せて、親近感を演出したわけです。モーニング娘。はそういった〈楽屋〉を半分だけ見せるという手法を使って人気を得ていったという意味では、ネット以前の最後のアイドルだといえます。
それと、モーニング娘。は歌番組ではなくミュージック・ビデオ(MV)を重視していました。当時すでに歌番組の衰退が始まっていて、プロモーションツールとしてMVが重要になっているんです。
もうひとつ特徴的だったのは、つんく♂が明確に「70年代、80年代の歌謡曲を今風にアレンジして復活させたい」と言っていたこと。代表曲である「LOVEマシーン」の歌詞を見るとそれがすぐにわかります。
(モーニング娘「LOVEマシーン」映像上映開始)
(画像出典)
これは、当時日本が右肩下がりになり始めていて「このままズルズルいくとヤバいよね」という空気がある中で、もう一回社会を勇気づけようというコンセプトの曲でした。〈自分の物語〉ではなく〈社会の物語〉を歌うというのは非常に歌謡曲的なアプローチですね。だから「LOVEマシーン」は若者だけでなく中高年男性などの幅広い世代に受け、大ヒットになりました。僕より少し上の40歳くらいの人は、会社の忘年会の出し物で無理やりこれを踊らされた人がすごく多いと思います。
僕は「スッキリ!」という朝のワイドショー番組にコメンテーターとして出ていますが、毎回、芸能人の内輪ネタクイズをやっていて、まったく興味が持てないんです。ああいったものは「世界の人間はすべてテレビを見ていて、テレビ芸能人が好きなはずだ」という謎の前提をもとに作られています。僕はそもそもバラエティ番組を見ないから基本的に芸人やタレントを知らないですし、ドラマは好きだし役者の演技に興味はあるけど、プライベートには興味がない。普段からテレビをつけっぱなしにしていて、バラエティをだらだら見る習慣のない人にとって、芸能人の芸はわかるけれどもキャラクターはわからない。だからああいう芸能界内輪トークみたいなものばかり見せられると冷めますよね。今のテレビの製作者はそういうことをまったくわかっていません。
80年代のテレビバラエティが芸能界のタレントたちの内輪話、楽屋ネタばかりをやっていたのは視聴者に親近感を与えるためで、しかもそういう手法は当時としてはトリッキーで斬新だったんです。しかし、今のテレビ製作者は、「テレビ=芸能界の内輪話をするもの」だと思いこんでしまった。80年代のテレビバラエティがどういうロジックで作られているものだったのかという前提を知らないまま、製作者になってしまったんですね。今ではテレビは新しいお客さんを作ることに失敗していて、最初からテレビが好きなお客さん以外は楽しめないものになってしまっている。これは非常に悲しいことですね。
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落合陽一「魔法使いの研究室」直方体型人類とタイムマネジメント時代の終わり(後編)
2017-07-06 07:00550pt
メディアアーティストにして研究者の落合陽一さんが、来るべきコンピューテーショナルな社会に向けた思想を考える「魔法使いの研究室」。今回は、「直方体型人類とタイムマネジメント時代の終わり」の後編です。経済格差・文化格差に次ぐ第三の本質的格差とは。そして、SF映画で描かれるAIやUI環境を現実にするための具体的課題について語ります。※この内容は2017年3月25日に青山ブックセンターで行われた講演の内容を記事化したものです。
格差の本質は「資本」ではなく「文化」にある
落合 最近「格差についてどう思いますか?」いう質問をよくされます。もちろん、格差の問題は重要ですが、いま最も大きな格差になっているのは、実は資本格差ではありません。僕は文化資本の偏りの方が、本質的な格差だと思っています。現に富を持っている人は、得てして賢く、教養があることが多い。今はこの三つの要素が固まってしまっているのです。
お金自体は、起業して投資を受けたり、ベーシックインカム的な仕組みによって社会に配分することができます。これは両方ともありうる形で、つまり、チャレンジする人がお金を得やすい社会にするか、チャレンジしなくてもお金を得られる社会にするか、どちらを選ぶかということでしかありません。もし、それを国全体の方針として選択できないのであれば、地方分権によって対応するという方法もあります。
たとえば、日本を40くらいの区域に分けて、ある区画ではベンチャーキャピタルを優遇し生活保護は設けない。また、ある区画ではベーシックインカムを全面的に導入するというように制度に差を付けて、どちらに定住したいかを人々が選べるようにする。
もちろん、このようなドラスティックな改革がすぐに実現できるとは思いませんが、シンガポールのような小さい国では、既にそういう動きが始まっています。地方自治の規模であれば日本でも恐らく成立するでしょう。
そうなったとき、経済の持つ意味は相対的に軽くなります。なぜなら、お金は簡単に送金できますが、文化資本は簡単には伝達できないからです。世阿弥の能を理解したり、クラシック音楽を楽しめる教養を伝えるのは、一万円札を渡すことよりもはるかに難しい。この経済資本と文化資本の関係性を考えることは重要ですが、しかし、その制約すらテクノロジーが変えていくと僕は思っています。
Demis Hassabis, CEO, DeepMind Technologies - The Theory of Everything - YouTube
たとえば、最近のYouTubeには字幕を表示するボタンがあります。この動画はGoogle DeepMind社のCEO、デミス・ハサビスのプレゼンテーションです。イ・セドルを倒した囲碁ソフトを作った会社の社長ですね。この人は紛れもない天才ですが、彼の発言が英語字幕で表示されています。中学レベルの英語なので、辞書を引きながらであれば誰でも言っていることが分かります。
昔は、同時代の天才の最新の思考をトレースするには、学会に参加するか、本人と友達になるか、あるいはその思考を理解した人から人づてに伝えてもらうしかなかったのですが、それがYouTubeと自動翻訳で誰でもできるようになった。これは文化資本の伝達性において、非常に重要です。
これはデミス・ハサビスが実際に使っているスライドです。「From Pixels to Actions」とありますが、これは前編の「現在のディープラーニングの本質はピクセル的な視覚野的演算である」と同じ話です。情報は二次元にピクセル化されることで非常に計算しやすくなる。それをどうやってアクションに変えていくか。たとえば、AIのアルゴリズムを使ってゲームを解いたり、マシンラーニングを使ってロボットを動かしたり、そういった研究が重要になると彼は言っています。
このように、次の時代に価値を生み出すであろうポイントを、誰もが共有できるようになったことは非常に大きい。彼らが投資しているのなら、そこが一番お金が儲かることは明らかで、それをYouTubeを通じて僕らが知ることができるようになったのは、大変大きな意味を持つわけです。
Large-scale data collection with an array of robots - YouTube
これはGoogleの研究で、画像で認識した物体をつまんで左の箱に移す動作ををロボットアームに学習させています。従来の自動車の組み立て作業などに使われていた工業用ロボットアームは、人間が挙動をプログラミングすることで動作していましたが、それを自分で覚えられるようにするための研究です。大量のロボットアームを同時に稼働させているのはなぜでしょうか? データの世界では一秒間に何万回も実行できます。たとえば、アルファ碁の強さは、自分自身と3600万回も戦うような、とんでもないことしているからです。しかし、現実世界ではそれができないので、マシンを何十台も並べて、同時並列的に学習させています。
こういった先端的な研究や知見を、誰もがリアルタイムに享受できるようになりつつある。つまり、文化的な価値の再配分がテクノロジーによって進みつつある。
また、再配分された文化資本をどうやって経済的に還元するかについても、たとえばGoogleは月面無人機探査レース「Google Lunar XPrize」に出資していて、このプロジェクトには3000万ドルもの賞金が設けられています。このようにテクノロジーを主体としたお金の再配分の流れは、既に生まれてきているわけです。
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