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「男と女」を描くことで〈社会〉が描ける――『問題のあるレストラン』が示した画期(成馬零一×宇野常寛)(PLANETSアーカイブス)
2018-05-21 07:00550pt
今回のPLANETSアーカイブスは、2015年に話題となったドラマ『問題のあるレストラン』をめぐる、ドラマ評論家・成馬零一さんと宇野常寛の対談をお届けします。ドラマ界で「男と女の対立」というフレームを描く作品が重なったなか、なぜ本作は突出できたのか? 脚本家・坂元裕二の作品歴をヒントに考えていきます。(文:橋本倫史)
初出:「サイゾー」2015年5月号(サイゾー)
画像出典:問題のあるレストラン Blu-ray BOX※この記事は2015年5月26日に配信した記事の再配信です。
▼作品紹介
『問題のあるレストラン』
脚本/坂元裕二 演出/並木道子、加藤裕将 出演/真木よう子、YOU、東出昌大、松岡茉優ほか 放送/1月15日~3月19日、毎週木曜22:00~22:54(フジテレビ系)
大手飲食チェーン企業に務めていた田中たま子(真木)は、同僚が受けたセクハラ事件をきっかけに会社を退職、裏原宿のビル屋上で「ビストロ フー」を開く。集まったのは、ゲイのパティシエと、対人恐怖症のシェフ、離婚したてのシングルマザーほか女性スタッフ。ビストロ フーの裏手には元勤務先が経営するレストランもあり、そこにはたま子の元恋人で同僚でもあるシェフらが在籍している。この店に戦いを挑むつもりで、彼女たちは店を軌道に乗せるべく奮闘する。脚本は、『東京ラブストーリー』、『それでも、生きてゆく』『最高の離婚』『Mother』『Woman』等々を手がけてきた坂元裕二。
成馬 今期のドラマは豊作でしたけど、『問題のあるレストラン』は群を抜いて面白かった。脚本は坂元裕二さんで、彼がこれまで積み重ねてきた総合力で勝った、という感じがしました。セクハラや男女の働き方といった、ジェンダー問題が中心のハードなテーマなので、テーマにドラマが負けてしまうかな、と最初は思ったんです。でもフタを開けてみたら、テレビドラマとしてちゃんと面白かった。
放映当初、ネット上では批判も結構あったんですよ。「男性の描写がキツすぎる」とか、逆にフェミニズム的な意識がある人からは「描写が甘い」というダメ出しだとか。確かに最初は、男は内面がない人のように描かれていたところがあった。だから、男が圧倒的に悪くて、セクハラ被害者やシングルマザーといった、女性差別に傷ついた人たちがチームを組んでレストランを作って戦っていく、みたいな内容になるのかと思っていたら、どんどん話が展開していく。今までのドラマだと、女性たちがレストランを作って癒されて終わり、という話になっていたと思うんです。でもそうはならなくて、前半で受けた批判を、後半にいくにつれてドラマが打ち返して盛り上げていった。
宇野 僕も最初は「カリカチュアライズしすぎじゃないか」と思ったけれど、まったくの杞憂だったね。最初はわかりやすい極端な例を出して視聴者を引き込むんだけど、そのわかりやすさにあぐらをかいて安直な描写に走るのではなく、そこから細かい人物描写や背景をフォローしていく構図になっていて、実によく考えられていた。だから、このドラマに対してジェンダー的な観点から批判しているのは、ちゃんと観ていない人が多かったんじゃないかというのが単純な感想です。
坂元裕二という作家は基本的に、耳目を集める現代的な社会問題を扱って、それによって発生するユニークな状況や奇妙な人間関係を使って芝居のニュアンスや人間関係の面白さを見せていくのだけど、今回の『問題のあるレストラン』ではそういう社会的なテーマを、作者にとって面白い状況設定を生むための道具に使っているのではなくて、最初から最後までメッセージ性で強烈に貫くということを本気でやっていた。だから結果的に、裁判をやって相手のレストランを潰すという、ある種のちょっとした後味の悪さにまでつながる結末になっていたと思う。
成馬 第6話が転換点でしたね。YOU演じる烏森さん【1】が実は弁護士だと告げ、セクハラを受けてライクダイニングサービス【2】を辞めた五月(菊池亜希子)の裁判を始める。セクハラ事件の話は第1話以降姿を消していて、そのまま終わるのかとも思っていたので、この問題を最後までやるんだというのは驚きでした。
【1】烏森さんYOUが演じた「ビストロ フー」のソムリエール。たま子とは前職の仕出し会社で同僚だった。【2】ライクダイニングサービス物語当初、たま子が勤めていた大手飲食チェーン企業。ビストロ フーの裏手に位置し、門司らが勤務する「シンフォニック表参道」を経営している。
宇野 『問題のあるレストラン』を全話観ると、結局坂元裕二が何を信じているのかが透けて見えて、それがよりこの作品を面白くしていたと思う。つまり、最終回でたま子(真木よう子)が、理想のレストランを夢見るシーンがあるじゃない? 理解ある社長のもとに男女が和気あいあいと働くレストランを夢想するんだけど、現実には女だけの「ビストロ フー」を再興させることを選ぶし、男たちは男たちで別のレストランで働いていて、どうやらまた闘う関係になりそうだ、と。つまり、本当にすべての問題が解決することよりも、男と女がそれぞれのレストランをつくって、一種スポーツのように競い合って潰し合う空間のほうが魅力的だと、実は坂元裕二は思っているんだと思う。『問題のあるレストラン』の魅力って、現実をよりわかりやすくデフォルメしたハードな状況があって、やるかやられるかのシビアなところで男女が闘っているからこそ、その中で発生するホモソーシャルな気持ち良さにあるんだと思う。結局、「ビストロ フー」で仕事が終わった後にみんなでだらだらアイスクリームを食べているシーンや、スタッフ間の隠語を冗談みたいに言いながら楽しく働いているシーンが、いちばん生き生きと描写されていたしね。
成馬 坂元ドラマの最終回は、基本的に“断絶”で終わります。絶対に相容れないもの同士がぶつかり合う瞬間──『それでも、生きてゆく』【3】の殺人犯との対話もそうだし、今回のたま子と雨木社長(杉本哲太)【4】もそうで、その瞬間に生まれる何かにドラマ性を託している。ただ、そこから先はわからない。もしかしたら人と人が理解し合うということを信じていないのかもしれない。たま子にとっての理想は男と女が一緒に働ける社会だけど、結果的に出来上がったのは男を排除したレストランだった。だから、明るい終わり方だけど、たま子にとっては挫折の話なんですよね。
【3】『それでも、生きてゆく』
放映/フジテレビ(11年)
瑛太に満島ひかり、柄本明、安藤サクラ、大竹しのぶらが出演し、少年による幼女殺人事件の加害者家族と被害者家族を描いた話題作。
【4】雨木社長(杉本哲太)
ライクダイニングサービスのトップ。飲食に対して愛はなく、家庭も顧みない金儲け至上主義の前時代的な男性経営者として描かれる。
宇野 あと、坂元裕二は今回、意図的にマンガ的な描写を入れていたと思う。例えば、松岡茉優演じる雨木千佳【5】が天才シェフになれた理由が、ひきこもりのお母さんのために幼い頃から毎日料理を作っていたから、という設定なんてかなり少年マンガ的でしょう。烏森さんが実は弁護士だったというのもそう。今までの坂元裕二のリアリズムにはなかった、超展開といってもいいような描写が相当入っている。そういうある種のご都合主義的な、もしかしたら自分の世界観を壊してしまうかもしれないような冒険をやっていたのは間違いない。敵側の、男社会レストランとの対決も、どこかゲーム的というかスポーツ的だしね。
根底にあるジェンダー後進国・日本への怒りは本物だと思うけれど、そこから出発してたどり着いたホモソーシャル・ユートピアはどこかマンガ的で、そこが物語の中で「救い」として機能していた。
【5】雨木千佳
ビストロ フーの天才シェフで、ライクダイニングサービス雨木社長の実娘。
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第四回 吉本隆明と母性の情報社会(1)【金曜日配信】
2018-05-18 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。今回からは、「戦後最大の思想家」吉本隆明の代表作「共同幻想論」と、FacebookやLINE、TwitterといったSNSに象徴される現在の情報化社会との接点を探ります。 (初出:『小説トリッパー』 2018 春号 2018年 3/25 号 )
1 なぜいま「吉本隆明」か
さて、連載二回分を費やした猪子寿之と彼の率いるチームラボの作品批評を通して、グローバル/情報社会下におけるボーダレス化のイメージについて考えてきた。猪子の試みは、ボーダレス化の二重の敗北――多文化主義(政治的アプローチ)とカリフォルニアン・イデオロギー(経済的アプローチ)――を経た上での文化的アプローチ(デジタルアート)だと位置づけることができる。では、ここで猪子が示した「境界のない世界」が私たちのこの世界に仮に現出するとしたらいかなるかたちを取るのだろうか。続く第四回ではその可能性について考えてみたい。
ジョン・ハンケがゲームで、猪子寿之がアートで、それぞれ人類社会の来るべきビジョンとして提示する「境界のない世界」は、ある部分で決定的に異なっていながらも確実に根底にあるものを共有している。ここではハンケと猪子、二人の仕事とその問題意識を参照した上で、ある思想家の仕事を再読したい。そしてそうすることで、彼らの考える「境界のない世界」がいかに社会に実現し得るのか、し得ないのか、し得るとしたらその条件は何かについて検証することができる。私はそう考えている。なぜならばその人物は「結果的に」だが八〇年代の時点で、いや、捉え方によってはまだマルクス主義が健在だった六〇年代の時点で、既に今日の情報社会のかたちを予見し、そして不幸にもその行き詰まりをもその後の思想的展開で体現していたからだ。 吉本隆明――中心的な読者であった団塊世代が社会の表舞台から退場するとともに、今や忘れ去られようとしている「戦後最大の思想家」である。 七〇年代以降、吉本隆明は過去の思想家と位置づけられていたが、二一世紀の今日こそ再読されるべきである。それが本連載での私の立場だ。もちろん、本書は吉本隆明を聖典として崇める立場を取らない。むしろ批判的な立場からその継承を試みる。そもそも吉本の文章は読解不能な悪文で、論理構成も破綻しているものが多い。吉本の今日における読解には論理的で明快な「現代語訳」と、複数のテキストを組み合わせて理論的な記述不足を類推して補う作業が必要だろう。 だが吉本の欠陥や誤りを指摘することとその天才性に敬意を払うことは矛盾しない。あくまで重要なのは一九六〇年代にあたかも今日の情報社会を予見するようなテキストが書かれていたという事実であり、さらには一九八〇年代に吉本が展開した消費社会論(『ハイ・イメージ論』)の着想(とその行き詰まり)から、私たちは大きなものを持ち帰ることができるという事実だ。その圧倒的な天才性とそれゆえの決定的な誤りから私たちが学ぶべきものとは何か。今回はその再読の指針を示すことになるのだが、その前に私の考える吉本の天才性を卑近な例で示しておこう。
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井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第24回 駆け引き(学習説の他説との整合性④-2)【毎月第2木曜配信】
2018-05-17 07:00550pt
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回のテーマもゲームに欠かせない「駆け引き」です。ルールの更新や不平等の不可視化によって「公平性」を感じさせ、自発的学習を促そうとするそれぞれのゲームの戦略について井上さんが解説します。
24回 駆け引き(学習説の他説との整合性④-2)
複数の均衡
前回、ゲームにおける学習的な自己変容プロセスと、均衡点を目指して行動を最適化していくプロセスの違いについて整理したうえで、両者は協同しうる時期と、背反してしまう時期がありうると述べた。「安定に向かって変化する性質」と、「変化しつづける性質」の相性は、仲の良かったカップルが別れてしまうようなものだ。両者は、結婚して家族にもなれるかもしれないが、離婚することが宿命づけられている。そして、次は、このカップルが別れた後の話に移ろうと書いた。 ただ、均衡やトレードオフの問題について書いた前回の話について、いただいた反応を見たところ、いくつかの補足をしておくべきだろうというお叱りをいただいたので、もう少し込み入った解説をしておきたい。 とくに詳しく論じるべきなのは「均衡が複数ありうる」という点だ。前回「均衡点が移行」という表現をさらっと書いたが、これは、そもそも「均衡点が複数ありうる」「均衡点が推移しうる」というの理解を前提としている。 均衡点が複数ありうる、とはどういうことだろうか。これは、ゲームのプレイヤーが、最適戦略に至るまでの行動がランダムだという意味ではない。 囚人のジレンマゲームの例を思い出そう。
・もし両方の犯罪者が自白しなかった場合、二人とも懲役一年。 ・二人ともに自白したら懲役四年。 ・一人だけ自白した場合、自白した犯罪者の懲役が二年、自白しなかった側の犯罪者が懲役一〇年になる。
という設定で、多くの場合、二人共自白をすることが、最適な均衡だと理解している人が多いと思う。 だが、その理解には、注釈を加える必要がある。 第一に、よく言及される「オウム返し(Tit-for-tat)戦略」が強い戦略だという話だ。政治学者のロバート・アクセルロッド[1]が世界中の研究者に呼びかけて、囚人のジレンマ状況における強いコンピュータ・プログラムを決めるトーナメントを開催し、そこで優秀な成績を収めたのがこの戦略だ。 はじめに黙秘を選び、以後は前回相手が選んだ戦略を模倣するのがオウム返し戦略である。[2] 囚人のジレンマゲームのような個人としての合理的な行動と、集団全体の利益の最大化に齟齬が生まれるような社会的ジレンマ状況 [3]において、オウム返し戦略のような協力行動には協力で、裏切りには裏切りで応えるという互恵的戦略が、ジレンマ解消の手段として有効だというように理解される事が多い。 しかし、残念ながら、オウム返し戦略は、現在では十分に安定的[4]戦略ではないと言われている。オウム返し戦略を潰すための「おとり」戦略を混入させると、オウム返し戦略は優秀な成績を収められないという。すなわち、オウム返し的な互恵的戦略は、限定された条件下において強い戦略であるということだ。[5] 第二に、いろいろと条件をつければ強い戦略たりうる、という意味では、二人がともに協力し、黙秘を貫くという行動も有効な戦略たりうる。何度もゲームを繰り返す場合で、かつゲームプレイヤーの計算コストに制約があり……といった様々な要件をつける [6] とこれが有効な解となる。 むろん、協力的な戦略は、条件によっては機能しない戦略になる。現実の例で言えば、たとえば「共有地の悲劇」というよく知られた話がある。これは一九世紀の産業革命前後のイギリスの農村で、うまく機能していた家畜放牧のための共有地の仕組みが、産業革命以後に機能しなくなってしまう話だ。これは産業革命を通じて共有地を利用する人々のインセンティヴ構造が変化したことによって、人々のふるまいのバランス(均衡点)が変わったことによって、もたらされている。ある条件下においては、共有地の仕組みは安定的な均衡点であっても、その均衡点を支えていた条件を固定しておくことができなければ、均衡点は変わってしまう。 簡単にまとめてしまえば、囚人のジレンマは、参加者の振る舞いのバリエーションに限定を付けたり、プレイヤーの計算能力に限定を付けたりすることによって、最適な解が変わってくるということだ。裏切ることも、協力することも、オウム返し的な互恵的戦略も、状況に応じて、それぞれ強い戦略たりうる。条件を限定することによって均衡点も変わるのである。 ゲーム理論家たちの研究によれば、[7]我々の人類社会は、裏切り/協力/オウム返し戦略のそれぞれの戦略を採用する人々が、一定の割合で混じるような形に発展してくるものだという。多くの社会では、複数の戦略が混合する形でバランスしている。 ゲーム理論的な「駆け引き」の問題のとの関わりで考えたいのは、こうした前提のゲームである。これは三目並べの例で論じたような、最適解をもつ二人ゼロ和完全情報有限確定ゲームとは、異なる「ゲーム」理解である。 三目並べや将棋においては、負けることのない最適解がある。しかし、この前提では、条件によって均衡点が推移し、異なる戦略を採用するプレイヤーが一定の割合で存在する。ここには、複数の均衡点があるだけだ。その都度ごとに相対的に有利な戦略は成立しても、常に負けることのない最適解があるわけではない。
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【対談】加藤裕康×中川大地 日本で〈eスポーツ〉を定着させるには?———ゲーム文化と産業の本質から(中編)
2018-05-16 07:00550pt
写真提供:映画『リビング ザ ゲーム』横浜シネマリン(〜5/25)ほか、山口情報芸術センター[YCAM](5/18〜20)、シネモンド(金沢市・5/26〜6/1)にて順次公開 ⓒWOWOW/Tokyo Video Center/CNEX Studio
『ゲームセンター文化論』の著者でゲームセンター研究の第一人者である社会学者の加藤裕康さんと、『現代ゲーム全史』の著者である評論家の中川大地さんの対談の集中連載。全3回のうち中編では、話題となっているプロライセンス制度を含めた〈eスポーツ〉を取り巻く現状について分析します。(構成:藪和馬+PLANETS編集部) ※本連載の一覧はこちら。
eスポーツが保つべき「遊び」の本質とは
中川 前回の議論で、いわゆる「eスポーツ」をプロゲーム産業の振興に限定せず、デジタルゲームの競技大会と一般スポーツの文化的な土壌がどう違うのかから考えていく話題に行き着きました。そこでもうすこし掘り下げておきたいと思うのは、ゲームセンター的な第四空間で得られる、みんなが感じている価値は、武道を近代スポーツ化した嘉納治五郎的な求道心とどのように違うものとして言語化すべきなのか、ということです。eスポーツとしてのゲームでも第四空間としてのゲームのどちらも勝つことだけが目的じゃないし、ゲームによって稼ぐことが目的でもなくて、基本的にはそれぞれ自己のための価値じゃないですか。同じく自己にとっての価値でありながら、どう違うんでしょうか。
加藤 遊び論に戻るんですけど、現在、ゲーム研究の分野で最も多い研究領域は効果研究です。つまりゲームをやることによって、その人がどういう影響を受けるのかという研究が多い。たとえば、人は暴力的になるとか、社会的に不適応になるとかが研究のテーマとなり、量的調査や実験をするわけです。
中川 一昔前に物議を醸した、『ゲーム脳の恐怖』的な方向性ですね。
加藤 でも、カイヨワが言っていることは、ゲームは遊びであるから、暴力的なゲームをプレイしたとしても、遊びなのでいつでもやめることができます。それが現実の戦争だと、一端の歩兵がやめたいと言ってもやめられない。敵前逃亡したら、場合によっては処刑されちゃうわけですよ。そういう強制的な環境の中で、正当な人殺しが行われるわけです。 でも、ゲームは、たとえ戦争のシミュレーションゲームが作られていたとしても、そこで遊んでいるという意識は常にあるはずなんですよ。 同じようにスポーツがなぜ遊びに分類されるのかというと、スポーツはやめようと思ったらやめられるし、実際の命のやり取りではありません。それは特に近代スポーツの特徴であると思います。ルールによって、そこは明確に守られるわけですよ。 そういう意味ではゲームもスポーツと非常に似ていて、そこに本当の命のやりとりがあるのではなく、想像の中で遊ばれるものであると思うんですね。ホイジンガは、イメージを心の中で操ることから遊びが始まると論じていますけれども、子どもでさえも、ごっこ遊びの中で本当に自分が演じている対象になってしまったとは考えません。そこが抜け落ちてしまうと、ゲームをやると何か悪い影響を受けるんじゃないかと思われがちになるんです。
中川 つまり、嘉納治五郎がスポーツとしての柔道を実際の殺傷とは切り離したような意味で、遊びの持つ現実からの独立性に立脚することで「悪い影響」を切り離しつつ、さらに「道としての完成を目指す」とか「自己修養に役立つ」みたいな価値を打ち立て、近代スポーツ的な規範性を人々に納得させるイデオロギー再編による社会化をはかる方向性が、部活的なモデルとしてのeスポーツになるわけですね。
加藤 はい。しかし、ホイジンガの言葉を借りると、遊びはそれ自体でおもしろい、価値のあるものとして認められるものなんですよね。にもかかわらず、近代スポーツの流れや、今のゲームの流れのような部活動的なものをやることによって、自己修養や成長につながるものとか、価値のあるものだと切り分けちゃうわけですよね。そうなると、何かのためにやるものはもう遊びじゃないわけですよ。
中川 自己修養になるとか道を追求できるとか、それを認識した時点ですでに遊びが遊びたる所以を離れてしまっているということですね。遊びの持つ無目的な自由さの面を担保し続けるのが、第四空間的なゲーム文化であると。
加藤 だけど、おもしろいことに、実は遊びは適当にやっていたらつまらない。どんなゲームでも、技の掛け合いや駆け引きなどを一生懸命取り組むから面白くなるんですよ。ストイックに突き詰めていくのは真面目なことだから、遊びではないかというと必ずしもそうではありません。真面目に取り組んだものがふとむちゃくちゃ楽しくなっていることがあり得ます。むしろ一生懸命取り組まなければ、面白さがわからなくなるものもあったりすると思うんです。そうやって考えると、部活動的なものがダメなのではなくて、それだけが最高の価値であると言うような人が出てきたり、そういう言説が流布することこそ、危険で注意したいなと思うんですね。部活的なものやスポーツも遊びの要素を含むわけですから。逆に遊びの分野だけが最高のものとみなしたときにも、僕はちょっと危険を感じるんですよ。 つまり、流動的なものであることを踏まえた上で、どちらかにバランスがブレることを僕は注意したいなと思っています。
中川 本当に拮抗的なバランスを維持していくことこそが大事だと思いますよね。そのバランスを能動的に維持することを僕は中沢新一さんの言葉を使って、〈非対称性の論理〉と〈対称性の論理〉の複論理(バイロジック)として捉えています。つまり、真面目な修練によってルールや技術に習熟し、自らを研ぎ澄ますことで他者と差別化をしていく〈競技〉化のモーメントが〈非対称性の論理〉。対して、遊びだからいつでもやめてカオスに戻ることができる自由さがあるからこそ、勝ち負けを超越した楽しさを見出せる〈遊戯〉のモーメントが〈対称性の論理〉。 この二つの論理が協働してバイロジカルに作動しているからこそ、ももちさんや梅原さんのような境地が成り立つんだと思います。
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『たかまつななの新米ディレクター月報』 第2回 NHKに入局しました
2018-05-15 07:00550pt
お笑いジャーナリストであり、テレビ局のディレクターでもあるたかまつななさんの『たかまつななの新米ディレクター月報』。NHKで働きながらも自身の立ち上げた株式会社 笑下村塾の仕事も忙しくこなしていたたかまつさんでしたが、そんななか笑下村塾の新社長が急病に倒れます。疑念を感じながらも組織に迎合していく自分、笑下村塾のピンチ。たかまつさんが今の心境を赤裸々に語ります。
「もう、NHK辞めた方が良いんですかね」。止めて欲しい一心で、でも、もう何も考えたくなくて、私は先輩に小さな声で言った。「絶対に諦めたらダメだ」と先輩が言って下さった。入社早々、事件は勃発した。
私は、お笑い芸人であり、株式会社 笑下村塾の取締役であり、4月からNHKに入局した新米ディレクターである。現在、三足の草鞋を履いている。NHKの面接で、「笑下村塾は、日本の株式会社の中で唯一、主権者教育を行っている会社です。笑下村塾がなくなったら、日本から主権者教育をやる株式会社がなくなります」と訴え続けて、内定を貰った。以降、ものすごく理解のある先輩方に囲まれ、NHKの職員と笑下村塾をどのように両立していくか綿密に相談していた。「代表取締役を降りてほしい」とNHKから言われたので、私は笑下村塾の理念を理解してくれていた方に、笑下村塾の経営をお願いすることにした。
NHKに入局して1週間――。朝は打ち合わせ、夜は取材や会食をいれるなど、NHKで普通に働きながら、1日2~3つぐらいは仕事を入れていた。NHK入局を言い訳に笑下村塾を縮小するのだけは避けたかったが、中々体力的にも、物理的にも大変だと思っていた。新社長に「研修期間が終わるまでには、もう少し引き継ぎをしたい」と伝えるつもりでいた。今日の夜、新聞の取材があるから、そこで伝えようと思っていた。1分でも早く帰ろうと、研修が終わってからタイムカードを打刻して、急いで駅まで向かい、電車に乗っている際にラインが新社長から来た。「倒れました。今日はお休みします」。無理をしすぎたのかな。心配だな。でも取材は一人でも受けられるから、なんとかなるかなどと思い、電車の中でMacBookを開いて仕事をし、事務所に戻った。ギリギリ取材に間に合い、無事に取材が終わった。その時は、事の重大さをまだあまり理解していなかった。事務所で残った仕事をしていると電話が鳴った。新社長からだ。「メニエール病になりました。1週間は絶対安静だそうです。電話は耳鳴りがして、LINEは文字がくらくらして読めません」。以前、私の担当マネージャーがメニエール病になったことがあり、病気の大変さを私は知っていた。頭が真っ白になりながらも、「分かりました。こちらは、なんとかしますから、とりあえず、ゆっくり休んで下さい」と言った。過去のメールを見ながら、進捗を予測して、先方にこちらの状態を伝えた。とりあえず、諸々リスケさせてもらい、帰りを信じて待った。新社長の身体を案じながら、私はできることを必死でやっていた。笑下村塾のクラウド営業部のメンバーにだけ、状況を伝えたところ、代わりにできることをやりますとたくさんの方が手を挙げてくださった。三菱総研で、プレゼンの機会があり、新社長が力を入れていた案件を欠席するのは忍びないと思っていたが、クラウド営業部の人が現場に行ってプレゼンをしてくださり、心強かった。
そんな我々の願いも空しく、数日後、「最悪もう一生治らないかもです」とLINEが来た。どうしよう……。
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【対談】泉幸典×三宅陽一郎 いつか僕らはロボットと服について語り合うだろう (PLANETSアーカイブス)
2018-05-14 07:00550pt
今朝のPLANETSアーカイブスは、人工知能開発者の三宅陽一郎さんと泉幸典さんの対談です。ロボットユニフォームブランド「ROBO-UNI(ロボユニ)」の開発をする泉幸典さんは、ロボットに服を着せるという行為がロボットと人間の関係をより良い形に変えると考えています。ロボユニの開発秘話から、ユニフォームの果たすシンボル的な役割や内包する文化、ロボットが作る未来のカウンターカルチャーの可能性まで、縦横無尽に語り合いました。(構成:高橋ミレイ)※この記事は2017年04月25日に配信した記事の再配信です。
原点となったシリコンバレーでの挫折
――まずロボユニがどういうものかということと、なぜその事業を始めようと思ったのかという背景から、お願いします。
泉 ロボユニは、コミュニケーションロボットに特化した専用のアパレルブランドです。もともと私たちはホテルやレストランの接客スタッフが着用するユニフォームを作っているメーカーなんです。人のユニフォームを何十年も作ってきましたが、日本の少子高齢化が進み、特に接客業に関しては若い子たちがどんどん減ってきています。そうなるとユニフォームの需要も少なくなるので、人のユニフォームを作り続けたとしても、市場自体が縮小してしまいます。新しいアパレルのジャンルを自分たちで作っていかないと、五年後十年後、三十年後の事業が続かないと思ったのがロボットのユニフォームを作ろうと思った最初のきっかけです。
レストランやホテルの仕事は、昔はすべて人がしていましたが、今はビジネスホテルのチェックインがタブレットでできるようになるなど、機械に置き換わりつつあります。Pepperのようなロボットたちがガイドをしてくれるようにもなりました。そうなると、仕事の正確さだけで見れば、人間のアルバイトの子たちよりもロボットの方が上回るという現象が起きてくると思います。「人間の方がロボットよりも仕事できないね」と言われるような時代が来た時に、「さぁ、人間はどうしていくんだろう?」と思ったんです。そんな時代が来た時に人間が持つ、「人を喜ばせたい、良いサービスをしたい」という意志をテクノロジーの力で促進してあげられないかって思っていたんですね。
当初は、既存のユニフォームの中にデバイスを搭載させて、ゲストが近くにいることを振動によって知らせたり、お客様の不満を音声認識で拾って、本格的にお怒りになる前にバックヤードから責任者が出てきてお客様のクレームを最小限に抑えることを考えていました。提携先として、そのような技術を持つ会社を探すためにシリコンバレーに行ったところ、現地では技術はあっても前例がまったくないことが分かりました。僕はそれを聞いて、「あ、これいけるな」と思ったんですけれど、こうとも言われたんですね。「実現可能な技術があるのに商品やサービスが世の中にないということは、新規性があるからではなく、誰もそれを必要としていないからじゃないの?」と。その方は、「そんなものに金をかけるくらいなら、時間をかけてでも人材育成に力を入れていくべきだ」とおっしゃっていました。ラグジュアリーホテルに来るゲストは、なぜ高いお金を払うかと言えば、人と人とのコミュニケーションによる質の高いサービスによる感動を得たいからです。しかし、そこをテクノロジーに頼ってしまうと、人間の本質的な喜びとは違う方向に行ってしまうとも指摘されました。もう何もかもが「その通りだな」と思いましたね。
サンフランシスコから日本へ戻る飛行機の中で、行きの便では絶対いけると思っていたのに出た結論は真逆だったことに落ち込みながら、「そもそもなぜ僕は、あのような商品を考案したのだろう?」と考えました。すると実は僕自身が、既存のテクノロジーに人間が色んなものを付け加えた結果、やっぱり人間の方が素晴らしいという結論に至りたかったからだと気がついたんです。言い換えればテクノロジーを僕が敵だと思っていたからなんですね。それに思い至ったところで、「本来ならばテクノロジーは敵ではなく、人間の役に立つために作られているはずだ」という考えに立ち返ったんです。
そのような問いを立てた時、引き合いに出すのに分かりやすいテクノロジーがロボットでした。調べれば調べるほど、ロボットや人工知能の研究開発に携わっている方たちが、人間のことを深く研究して、日常的な動作など僕たちが当たり前にしている行動がいかに複雑な仕組みによって成り立っているのかを理解していることがわかりました。しかし多くの人たちは、ロボットたちが何をできるかさえ知りません。もっとそれを簡単に理解する方法があれば、人間はロボットとの付き合い方が分かるし、ロボットもさらに人の役に立つことができると思いました。それを伝える記号として、ユニフォームが大きな役割を持つと思ったんです。
ユニフォームがロボットと社会をつなぐ
泉 たとえばユニクロの黒のシャツを1枚買ったとします。それを家で着ていると単なる黒のシャツですが、同じ物を10枚買って皆が着てスターバックスで働くと、それはスターバックスのユニフォームになります。物は一緒なのにシチュエーションや組織といった環境を変えてしまうと、それは制服になるんです。明治時代、洋装が普及し始めた時に、日本で初めて近代ユニフォームを導入した組織が鉄道と警察と病院でした。世の中が混乱している中で窃盗が起こったり、病気になった場合、十分に教育を受けていない人たちも多くいるなかで、それは非常に役に立ちました。白衣を着ている人を見たら、「あの人が私たちの命を助けてくれる人だ」、あるいは泥棒に遭った時に警察官の服を着ている人がいたら、「あの人に言えばいい」と判断できる視覚的な認識記号になったのです。対象が何者かであるかを示す記号であることがユニフォームの根幹にあります。
パーソナルロボットは、各企業や各家庭の要望に応じた異なる使命を持っており、それぞれの分野に特化した膨大な知識が入っています。でもロボットたちは量産されたもので外見も均一なため、人間以上に個々のパーソナリティがありません。ですから大抵の人は、「こんにちは」とか「今何時?」くらいのレベルのことしかロボットに聞かないのです。しかしユニフォームがあれば、彼らがどう役に立つのかが子ども達やお年寄り、外国の人たちにも一目で分かるはずです。このような考えから着地した製品がロボットユニフォームです。
三宅 人工知能は環境を理解したり何かを推論したり、なるべく人間に近づける形で発展してきましたが、このようにロボットにユニフォームを着せるという視点は、我々人工知能開発者にとっては盲点でした。大抵の人工知能は特化型人工知能と言って、株式の予測やレコメンドシステム、あるいはお料理ロボットといった、特定の問題を解くための人工知能として開発されます。さらにそれらの人工知能が体を持つことで、バーチャルな空間から現実世界に進出しようとしているのが今の大きな流れです。
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宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第三回 チームラボと「秩序なきピース」(後編)(2)【金曜日配信】
2018-05-11 07:00550pt
本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。人間と人間、人間と事物、事物と事物の境界線を消失させようとしているチームラボ。その試みは、究極的には人類が直面している最後の境界線、時間的な境界の無化へとつながっていきます。 (初出:『小説トリッパー』 冬号 2017年 12/30 号)
人間と人間、人間と事物、事物と事物の境界線の消失――これらが達成されたときに起こることは何か。それは私たちが媒介なく直接世界に触れることができる、ということだ。
それは平面というものが本質的に人間にとって媒介的なものであるからだ。
パースペクティブにせよ、超主観空間にせよ、それは空間を平面に置き換えることで、複雑で莫大な情報量を持つ世界を整理し、人間の(言語的な)理性に把握しやすく加工するための論理だ。私たちにとっては、それがどれほどインタラクティブな構造を持っていようとも、平面に整理されたものは一度抽象化され、整理され、言語的なものに接近したものにすぎないのだ。
しかし前述の通り、猪子がデジタルアートを用いてこれら「境界」を突破することは、人間の身体的な(非言語的な)知を発動させることに等しい。そのためには私たちはまず、世界に媒介なく直接触れる必要がある。
だからこそ、カラスはモニターの中から飛び立つ必要があったのだ。そしてその「離陸」は徐々に、そして慎重に進められたものだ。
たとえば、〈カラス〉の発展形である〈追われるカラス、追うカラスも追われるカラス、そして衝突して咲いていく- Light in Space〉は、この「離陸」までの試行錯誤の過程としてとらえられる。
同作ではモニターの分割が採用されない代わりに、密室の中に投影された作品(映像)の側が移動し、鑑賞者たちの視点に徐々に合っていく。これによって、鑑賞者は自分を包み込む風景そのものが動いているような錯覚に陥る。もし、仮に鑑賞者が歩きまわったとしても、それに合わせて作品の側が変化し、鑑賞者は世界の側に追いつかれ、そして強い没入感を味わうことができる。ここにはもし仮に複数の鑑賞者がいた場合、彼らが一箇所に集まって鑑賞することではじめてこの強い没入感を共有できる(逆にバラバラに動いていると、作品の側が誰の視点に合わせていいか分からず、この機能は働かない)という、実に猪子らしい他者観に基づいた仕組みが備えられているのだが、ここではそれは本題ではない。映像そのものはオーソドックスなパースペクティブで描写されたアニメーションにすぎない本作は、この時期のチームラボが超主観空間による新しい平面の獲得から、そこで得られた世界そのものの実空間の演出へと離脱するための助走として位置づけられるだろう。
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【対談】加藤裕康×中川大地 日本で〈eスポーツ〉を定着させるには?———ゲーム文化と産業の本質から(前編)
2018-05-10 07:00550pt
写真提供:映画『リビング ザ ゲーム』 シアター・イメージフォーラム(5/11まで)、横浜シネマリン(5/12〜25)ほか全国にて公開中 ⓒWOWOW/Tokyo Video Center/CNEX Studio
今回から、『ゲームセンター文化論』の著者でゲームセンター研究の第一人者である社会学者の加藤裕康さんと、『現代ゲーム全史』の著者である評論家の中川大地さんの対談の集中連載が始まります。全3回のうち前編ではゲームとスポーツの文化的本質に立ち返りながら、〈eスポーツ〉発展の可能性について検討します。(構成:藪和馬+PLANETS編集部)
ゲームとスポーツはどう同じで、どう違うのか
中川 今回、加藤さんとお話ししたいと思ったのは、現在ゲーム業界のホットトピックになっているeスポーツを、ゲーセン文化の文脈で捉えていらっしゃる視点に共感したからです。今年2月に開催された「闘会議2018」は、もともと「ニコニコ超会議」のゲーム版のスピンアウトで、ゲーセン文化とも相通ずる、ボトムアップなゲーム実況カルチャーの集積体に近いイベントでした。しかし、おそらくニコニコカルチャーの凋落なんかも背景に、今年はそれがカドカワ傘下のGzブレインの主導で大きく様変わりしました。具体的には、発足したての日本eスポーツ連合(JeSU)が認定するプロライセンス制度による初の賞金制ゲーム大会を前面に打ち出した、eスポーツ振興のデモンストレーションの場になったわけですね。
これを機に、様々な団体がeスポーツ事業への参入を表明し、一般メディアでの報道も増えて社会的な関心が高まっていますが、そこでの議論は、海外並みにプロゲーマーが稼いでスター化するショービジネスを築きたいという業界的な期待か、あるいは「ゲームがスポーツになるなどとんでもない」という一般世間の無理解かの、両極端な方向に向かいがちです。
ただ、これまで実際に国内のゲームコミュニティで実際にデジタルゲーム競技のシーンに接してきた人々からは、そのどちらの態度にも違和感の声が寄せられることが多い。両者の溝を埋めて、日本のゲーム文化の脈絡に即したeスポーツのシーンを地に足ついたかたちで築いていくには、もうすこしゲームとスポーツの文化的本質に立ち返りながら、展望していく必要があると思うんですよ。そこでまずは、一般の人々が直感的に感じるだろうゲームとスポーツの相同と相違から、改めて掘り下げてみたいのですが。
加藤 一般の人にとって、ゲームはそのまま「遊び」として理解されています。対してスポーツは、遊びとは違うものだと思われています。春夏の甲子園などを見てもわかるように、高校球児は努力して技術を磨き、スポーツマンシップに則って競技をする。私たち視聴者は、その努力がわかるからこそ、高校球児の汗と涙に感動するのだと思います。スポーツにおける努力が自己成長にもつながっていくわけですから、教育的効果も見込むことができます。それに対してビデオゲーム(以下、ゲームと略記)は、単なる遊びであるばかりでなく、社会的害悪をもたらすもの、つまり教育から遠く離れたものと考えられてきました。
しかし、スポーツの語源が気晴らしや遊びを意味する「デポルターレ(deportare)」であることを考えてみても、スポーツと遊びは密接に結びついています。ヨハン・ホイジンガ(高橋英夫訳『ホモ・ルーデンス』中公文庫)やロジェ・カイヨワ(多田道太郎・塚崎幹夫訳『遊びと人間』講談社学術文庫)は、競技スポーツや登山などのスポーツを遊びと捉えました。
では、ゲームとスポーツの一般認識の違いは、どこから生まれたのか。それは教育化と制度化と、それらを勧めるためのイデオロギーの浸透によって生じました。たとえば、柔術や剣術など「術」であったものが精神修養に役立つ「道」に作り変えられ、警察や学校などに取り入れられていく中で、柔道や剣道といった近代スポーツへと変貌していきます。その最大の立役者は、講道館の創設者で大日本体育協会の設立者である嘉納治五郎ですが、彼は柔道をオリンピックの種目にまで押し上げていきます。その流れは、まさに今のゲームシーンの流れと、まったく同じ流れであることを昨年7月に行なった中央大学でのシンポジウム(拙著「ゲームがスポーツになるとき── eスポーツにおける情報と身体」『社会学・社会情報学』28号に講演内容を収録)で指摘しました。このシンポジウムには、プロゲーマーの百地祐輔(ももち)さんと百地裕子(チョコブランカ)さん、ライターの金子紀幸(ハメコ。)さんも登壇して有意義な議論をしています。
中川 そうですね。カイヨワは遊びをアゴン(競争)とアレア(運)、インリンクス(眩暈)、ミミクリ(模擬)という四つの枠組みによる分類していますが、 原初の遊びは四つの枠組みが渾然一体になっていました。
でも、遊びが社会によって制度化されていくと、勝敗を分けるタイプの遊びであるアゴンとアレアの結びつきが〈競技(ルドゥス)〉としての様相を強めていき、古代オリンピックのような形で発展していきます。それは現実と切り離された遊びの一領域としてのスポーツのみならず、現実自体を制度化するモーメントにつながっています。つまり遊びから競技を作っていく流れの中に、すでに人間が法律や社会制度といった抽象的なルールを作っていくための原理原則があった。勝ち負けをはっきりさせる文明が発展することで、イリンクスとミミクリが呪術のようなかたちで結びつく〈遊戯(パイディア)〉優勢のゆるい原始的な社会よりも、高度に制度化された近代という文明が起きていったというのが、僕流に解釈したカイヨワの文明観です。
ただ、コンピューターの登場で、現実の在り方をより高精度に模倣(ミミクリ)しつつ、インタラクティブな身体的快楽(イリンクス)が生成できる情報環境が生まれたことで、この文明史的な流れが逆転します。古典的なアナログゲームやスポーツは、人間の処理能力の限界に沿って現実を単純化・抽象化し、人間が決めたルールの取り決めを、人間自身が手動で遂行することによって成立していました。しかし、コンピューターは数学の力で自然法則に近いものを自動再現したり、多彩な感性情報をデジタル処理したりできるので、近代が切り捨てていったインリンクスとミミクリの結びつきを新たなかたちで復権できるようになった。例えば、コンピューターゲームでは現実とは半歩ずれた仮想世界を疑似体験したり、何かの物語に見立てたロールプレイングを行ったりすることが可能です。
この力によって、近代スポーツが〈競技〉を成立させるために現実の複雑性を縮減・抽象化する方向で進化してきたとは逆に、デジタルゲームは〈遊戯〉としての様々な具象的な見立てを取り戻していく方向の進化を遂げていきました。それによって、競技に純化されない余計な要素がたくさん入る営みとして、コンピューターゲームがあるからこそ、アスリートとは呼ばれえない人たちも巻き込んで、この数十年間のデジタルゲーム文化が育まれていった流れがある。そういう描像が、拙著『現代ゲーム全史 文明の遊戯史観から』の歴史解釈の基本的な軸になっています。
そのように、いったん複合的な遊びが復権した状況の中で、再び〈遊戯〉を切り捨て〈競技〉としての制度化や純粋化を目指そうという方向が強くなってきていることは、文明史的には近代的な原理の揺り戻しという側面があるのかなという見方を、今のeスポーツシーンに対して僕はしています。
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橘宏樹『GQーーGovernment Curation』第2回 水道法改正/PFI法改正から考える
2018-05-09 12:05550pt
本記事の記述に一部誤りがあったため、修正いたしました。読者の皆様にご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます。【5月9日12時00分追記】現役官僚の橘宏樹さんが「官報」から政府の活動を読み取る連載、『GQーーGovernment Curation』。最近の政治報道が森友問題やセクハラ問題一色でしたが、官報では私たちの生活に密接に関わっている「水道法改正」が審議中であることが報じられていました。主権者である我々の考えなければならない3つのトピックについて橘さんが考察します。
▲暮らしに欠かせない水。だけど、決してタダではないんです... こんにちは。橘宏樹です。国家公務員をしております。このGovernment Curation(略してGQ)は、霞が関で働く国民のひとりとして、国家経営上本当は重要なはずなのに、マスメディアやネットでは埋もれがちな情報を「官報」から選んで取り上げていくという連載です。どんな省益も特定利益にも与さず、また玄人っぽくニッチな話を取り上げるわけでもなく、主権者である僕たちの間で一緒に考えたいことやその理由を、ピンポイントで指摘するという姿勢で書いて参ります。より詳しい連載のポリシーについては、第一回にしたためさせていただきました。
【新連載】橘宏樹『GQーーGovernment Curation』第1回「官報」から世の中を考えてみよう/EBPMについて
なお、第一回でとりあげたEBPM(Evidence Based Policy Making:証拠に基づく政策)は、今年の正月に日経新聞「やさしい経済学」でも取り上げられていました。一見地味なトピックではありますけれど、いよいよ注目が集まり始めているのかなと思いました。
証拠に基づく政策とは何か(1)科学的知見を活用して決定 東京大学教授 山本清(日本経済新聞 2018年1月4日)
第一回から今回の第二回まで、ずいぶん経ってしまいましたが、その間は、「現役官僚の滞英日記」刊行記念として、PLANETSと活動する僕自身の自己紹介というか、マニフェスト的なエッセイを連載させていただいておりました。
橘宏樹「コンサバをハックする」ということについて(全5回)
さて、現在国会(第196回国会(通常国会))が開会中です。ご存知のとおり、最近の政治報道は、森友問題やセクハラ問題一色でした。しかし、その裏で、80本以上の法律案の審議も行われています。働き方改革関連法案やカジノ法案は比較的報道されているかもしれませんね。戦後最大規模となる97兆円7128億円の予算も3月28日に可決しています。
そんななか、本稿第二回では、敢えて「水道法改正」を取り上げたいと思います。なぜなら、今後僕たちが向き合っていかないといけない超重要なトピックが3つも含まれているからです。尚、これと非常に関係が深い、いわゆるPFI法改正(民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律の一部を改正する法律案)もセットで論じます。
水道法改正のポイント
官報としては、2018年3月9日、水道法の一部を改正する法律案が閣議決定され、同日に国会に提出されたことが報じられました。実は、去年も、ほぼ同内容の法案が国会に提出されていました。しかし、2017年9月に衆議院が解散され総選挙になったため、廃案となりました。なので今回は再チャレンジになります。ちなみに下水道は国土交通省が所管しているのですが、上水道は厚生労働省が所管しているので、この法案の作成は厚生労働省が担当しています。
法案の提出理由は、内閣法制局(内閣が国会に提出する法案を最終チェックする役所)によると「人口減少に伴う水の需要の減少、水道施設の老朽化等に対応し、水道の基盤の強化を図るため、都道府県による水道基盤強化計画の策定、水道事業者等による水道施設台帳の作成、地方公共団体である水道事業者等が水道施設運営等事業に係る公共施設等運営権を設定する場合の許可制の導入、指定給水装置工事事業者の指定に係る更新制の導入等の措置を講ずる必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。」となっています。
ここに水道法改正のポイントはだいたい凝縮されていますけれど、ちょっと読みにくいですよね。ストーリーとして背景や狙いをざっくり整理するとこういう感じだと思います。
事情をざっくり解説
まず、日本は人口が減る。すると必要な水の量も変わる。だから、水道料金の収入が減る。だけど、戦後の人口増加にあわせて高度経済成長期に一気にたくさん作った水道管の寿命はだいたい40年なので、そろそろ日本中で更新しないといけない。むしろ工事費用が一気にかかる。水道料金を上げないといけなくなる。でも、なるべく上げたくない。費用を節約すべく、より安く水道事業を運営する方法はないだろうか。じゃあ「民営化」したらどうだろう。しかし、国民の命に係わる水は、やはり国家が守ってくれないと不安だ。経営悪化したら、水質が悪化してかつ水道料金上がるかもしれないというのはまずい。ならば、水道施設の所有権は政府が持ったままで、事業の運営だけを民間に委託する、PFI(※)の一種の、いわゆる「公設民営(コンセッション方式)」でやろう。でも、現在のところ、水道事業の経験がある業者は国内にいない。海外では、フランスの企業はじめ、実績豊富な水道事業者がたくさんある。彼らの参入も受け入れたりしつつも、国内の企業に水道局の運営ノウハウを移して事業者を育てて、競わせて、競争市場を築いていかないといけない。
それから、必要な水量の増減は、地方と都市で大きく異なっていくだろう。だから地方それぞれで色々経営判断してもらわないといけない。また、一定の規模と人口の大きさで事業運営しないと、非効率で割に合わない。だから、水道は市町村単位で管理してきたけど、都道府県がリーダーになって市町村横断の広域連携できるようにしよう。
あと、地方自治体にもインセンティブが生まれるように、PFI法もあわせて改正しよう。そしたら、これまで進んできた空港や公園や下水道だけじゃなくて、国有・県有林野の林業だとかにも官民連携(PPP)を広げていけるじゃないか。じゃあそうしていこう。
※PFIとは、Private Finance Initiativeの略で、公共施設等の建設、維持管理、運営等に民間の資金、経営能 力及び技術的能力を活用することにより、同一水準のサービスを より安く、又は、同一価格でより上質のサービスを提供する手法。例えば、〇〇省の建物を建て替える際に、費用を全部税金でまかなえば公共事業ですが、民間企業も建設費用やビルメンテナンス費用を一部負担するかわりに、高層ビルにして、いくつかのフロアを民間企業も使えるようにしたりしたときに、「あのビルはPFIでやった」などと言います。ひとくちにPFIと言っても、方式は色々あります。PFIは、PPP(Public Private Partnership:公民が連携して公共サービスの提供を行うスキーム)の一種です。
PFIって何?(内閣府)PFIとはPPPとは(日本PFI・PPP協会ウェブサイト)
水道法改正自体の詳細については、水道法改正に向けて ~水道行政の現状と今後のあり方~(厚生労働省 2017年8月21日) などを参照していただいたり、適宜ググっていただきたいのですが、このストーリーのなかに潜んでいる、主権者である僕たちが考えないといけない、非常に重要なトピックを3つ挙げたいと思います。
1、不均等な人口減少
少子化で、2060年には2010年のおよそ3分の2(8700万人くらい)に減少します。なので、色々な公共需要も減りますし、同時に税収も減ります。ただ、その過程は全国で均一には進まないでしょう。都市には人口集中が続きそうです。地方の人口減少のスピードは激しそうです。このことが、僕たちの生活をどのように変えるか、絶えず想像力を働かせていかないといけません。
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本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2018.5.9
2018-05-09 07:30
本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★メールテーマ「レディ・プレイヤー1」今週の1本「『もう、会うのやめよう』と思った瞬間」アシナビコーナー「加藤るみの映画館の女神」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
▼放送情報放送日時:本日5月9日(水)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
▼出演者
ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:加藤るみ(タレント)
▼ハッシュタグ
Twitterのハッシュタグは「#水曜解放区」です。
▼おたより募集中!
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