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記事 26件
  • 本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2018.7.18

    2018-07-18 07:30  

    本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
    21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
    〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
    既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
    今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★メールテーマ「夏の予定」今週の1本「ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー」アシナビコーナー「ハセリョーPicks」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
    ▼放送情報放送日時:本日7月18日(水)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者
    ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:長谷川リョー(ライター・編集者)
    ▼ハッシュタグ
    Twitterのハッシュタグは「#水曜解放区」です。
    ▼おたより募集中!
    番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番組へのご意見
  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第六章 キャラクター認識論・感情論【不定期配信】

    2018-07-18 07:00  
    550pt

    ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。自己像を外界から切断する西洋型認識論と、主体と外界が溶け合う東洋型認識論を比較しながら、感情の働きや自己投影を通じて、知性が世界へと干渉するプロセスを読み解きます。
     この世界で人工知能はどれほどのものを背負うことができるでしょうか。たいていの場合、人工知能は、決められた仕事を与えられ、それを遂行します。それが現代の人工知能です。人工知能はフレーム(問題設定)を超えられませんが(フレーム問題)、決められたフレームの中では効率よく学習し人間よりずっと賢くなります。 しかし、人工知能が発展し、人間が持つような責任感、倫理感、判断、生きる意味、他者への尊敬のようなものを捉えることができるなら、人間はさらに人工知能にいろいろなものを託すことができるでしょう。世界の意味を背負うものであるならば、さまざまなものを託すことができるでしょう。時に、我々は人工知能に人類の持つ重荷まで背負って欲しいと願うこともあります。人類の歴史は、人工知能にその一旦を担って貰うことで、人類に課せられた、課せられたと思っている世界の歴史を部分的に人工知能に託すことができます。  ゲームの中でキャラクターたちはさまざまなものを背負うことができます。しかし、それは決められた物語の中だからです。では、この実世界で人工知能が高い意識を持って自分の役割をきちんと理解する、ということはあり得るのでしょうか? ここでは認識論・感情論を軸に、人工知能が引き受ける役割について考察して行きましょう。
    (1)西洋型の認識論
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  • 井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第26回 ゲームにとって快楽とは何か――「快楽」説の検討(学習説の他説との整合性⑥)

    2018-07-17 07:00  
    550pt

    ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ゲームを構成する様々な要素は、快楽の観点からゲームそのものと区別することはできるのか。これまで議論してきた強化学習プロセスをさらに拡張し、社会の中で自己生成し続ける運動の原理としてのゲームのあり方を考えます。
    3.8 ゲームにとって快楽とは何か――「快楽」説の検討(学習説の他説との整合性⑥)
    3.8.1 インタラクティヴな快楽のすべて
    「ゲーム」にとって「快楽」とは何だろうか。この二つの関係を整理しよう。
     コンピュータ・ゲームや、麻雀、将棋、野球といったルールやゴールやインタラクションを備えた仕組みが「快楽」を誘発する場合、多くの人はそれを「ゲームを遊んでいる」状況とみなす。もっとも、「快楽」と結びつかないようなゲーム的な行為もあるが、その点についてはすでに論じた【1】 ので、ここではゲームが快楽と結びついているケースについて検討したい。
    「ゲーム的な形式が、快楽を誘発する」という意味では、試行錯誤を重ねていきながらゲームを遊ぶような学習的プロセスも、パチンコ的な反復的な依存状態も、傍からみれば似たようなプロセスかもしれない。しかし、両者の快楽には隔たりがある。
     前者は、次第に変容していく新しい状況に対して認識を組み替えていくプロセスである。それは人間の創造的な営為でもある。
     一方、依存的なプロセスの場合、新奇性のないものについて「忘却」と「過去の刺激の想起」によって強化学習プロセスが機能することを、どうにか生き延びさせている。
     すなわち、学習的なプロセスは「変化を繰り返すプロセス」であり、依存的なプロセスは変化が繰り返された結果、「同一の行為の反復」に至りつつあるものとして整理できる。 【2】
     試行錯誤の快楽と、慣れ親しんだものを繰り返す快楽とでは、その快楽の性質にも違いがあるだろう【3】 。
     繰り返しになるが、ここで確認しておきたいのは、どちらも「ゲーム的な形式が、快楽を誘発する」という意味では等価でありながら、そこであらわれる快楽の性質が異なっているということだ。
     この「快楽」の性質はどこまでのバリエーションが「ゲーム」に類するものとして認められるのだろうか?
     すでに何度か述べてきたが【4】 、「ゲーム」概念の幅を広くとろうとする場合にはたとえば、「インタラクティヴ」な行為であるかどうかというところに境界線を引かれれることがある【5】 。
     そしてインタラクティヴであることによって線引きをする場合、ほぼセットになるのは、単にインタラクティヴというのみならず、何らかの「快楽」がそのインタラクティヴィティによって成立しているのだという観察だ。
     快楽の経験をつくりだすためではない辞書ソフトや、ワープロソフトはたとえインタラクティヴであっても、それがゲームの一種としてみなされることは極めて少ない【6】 。インタラクティヴであって、快楽を伴わないものは、ほとんどゲームとみなされることはない。
     逆に言えば、「快楽」が伴うインタラクティヴな行為であれば、それはゲームとしてみなされうる【7】 。こうした広い定義の採用は、論者がいい加減なのではなく、論じたい対象の幅を広くとりたいケースにおいてしばしば見られる。
     しかし、Juulが「Classic Game model」について同心円状の図を描いてみせたように、すべての快楽が等しく「ゲーム特有」の経験として受け入れられているわけではない。
     たとえば、ゲームのなかで華麗な映像がカットシーンとして流れた時、映像の素晴らしさを認めたとしても、その映像によってもたらされた快楽を「ゲーム特有」の経験によってもたらされた快楽とは認めないはずだ。
     美しい映像がもたらす快楽、ヒキのあるシナリオがもたらす快楽、あるいはゲームのなかに登場する性的な表現による快楽……それらはいずれも、コンピュータ・ゲームのパッケージを介して発生しうる快楽だ。しかし、そうした快楽はゲームに特有の快楽とはしばしば認められず、ゲームに特有の経験ではないものとして拒否される。一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけて、こうした快楽のどこまでが「ゲーム」たりうるか、ということは何度も議論になってきた。【8】
     美しいカットシーンがゲームではないとか、シナリオ自体はゲームではないという批判は一見すると、わかりやすい。実際問題としては、それらはしばしばゲームとは別のメディアによって表現することも可能だ。実際に、『シェンムー』(一九九九)などは、ゲーム内のカットシーンを集めたものを『シェンムー・ザ・ムービー』(二〇〇一)という映画として公開している【9】 。映像の美しさや、ゲーム内音楽、ゲームシナリオの全てゲーム特有の経験とされてしまうのならば、絵画も音楽も小説もなんだって「ゲーム」との区別がつかなくなってしまう。
     しかし、美しい映像を万華鏡のように操作したり【10】 、音を奏でることとゲームプレイが密接に結びついていたり【11】 、プレイヤーの行動に応じて物語が変化したり【12】 するものはゲーム特有の経験と連続したものとしてみなされる。
     これは、コンピュータ・ゲームに慣れ親しんできた人であれば、そこで論じられていることを実感としては理解しうるだろう。
     ただし、こうした議論というは、ゲームのアーキテクチャによって引き起こされる快楽のうちのいくつかは、「ゲーム特有」のものではないとされ、いくつかのものは「ゲーム特有」のものと連続しているとみなす議論だ。
     いったん話を整理しよう。
     今、問うているのは「ゲーム」と「快楽」の関係だ。
     第一に、広範な対象をゲームとして取り扱おうとする場合には、「快楽を伴うインタラクティヴな仕組み」全般が「ゲーム」としてみなされる。これはアリかナシか、で言えば、アリだ。これが操作的定義として自覚的に用いられるのならば、何の問題もない。
     そして、第二にここまで長々と論じてきたように、狭義の定義を用いるのならば、そこには学習説的な説明がかなり有効である。Juulの「Classic Game Model」による狭義のゲーム概念と広義のゲーム概念をグラデーション状に位置づける議論も、学習説的な説明とかなり近いものだ。駆け引きの快楽や、物語の生成プロセスや、依存的な経験は、強化学習プロセスと連続したものとして位置づけることができる。これらは、全く同じものとは言えないが、確かに強化学習プロセスとの間の連続性を見出すことができるものだ。
     ごく短くまとめるならば、「コンピュータ・ゲームのようなパッケージには様々な快楽を詰め込める。そして、そのなかでも強化学習プロセスの快楽は他の快楽のハブとなりうるような特権的な快楽である」ということだ。
     そこまではいい。
    3.8.2 快楽経験の変換
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  • 【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(前編)

    2018-07-13 07:00  
    550pt

    6月1日に『辺境の思想 日本と香港から考える』を共著で上梓した、福嶋亮大さんと張イクマンさんの対談をお届けします。日本と香港は歴史上、西欧や中国の「辺境」にあり、それは文化的・経済的な強みでもありました。東日本大震災(2011年)と雨傘運動(2014年)以降の、「二つの辺境」の思想状況を考えます。(構成:佐藤賢二)
    書誌情報『辺境の思想 日本と香港から考える』(Amazon) 頼れる確かなものが失われた中心なき世界。自由と民主が揺らぐカオスな時代。未来への道は辺境にある―。日本と香港。2つの辺境で交わされた往復書簡の記録。
    政治なき時代のカギは「国ではなく都市単位」の視点
    宇野 今回は『辺境の思想 日本と香港から考える』が無事に刊行されたことを記念して、著者のお二人にお話を聞きたいと思います。これは東京に住んでいる福嶋さんと、香港に住んでいる張さんの往復書簡という形で、2016年の後半から2018年の1月ごろまでの連載をまとめたものです。 この1年余りでは日本は、安倍政権で森友・加計問題や公文書のずさんな管理が注目を集め、安定政権であることが唯一のアドバンテージだったとすらいえる安倍政権がスキャンダルに振り回されながらも、選挙ではそれを上回る野党の自爆によって安倍政権が盤石になっていきました。一方、香港では、2014年に起きた「雨傘運動」以降の若者を中心とした民主化運動が、北京の中央政府による締めつけで衰退に追い込まれてゆく1年余りであり、そういう状況の中で、お二人は往復書簡を交わしていたわけですね。
    福嶋 日本に関して言えば、森友・加計問題を典型として、昭和的なオポチュニズム(無原則の日和見主義)が再び前景化している。要は、山本七平や丸山眞男の批判した「空気の支配」と「無責任の体系」の問題ですが、それが高じて公文書の改竄なんていうとんでもない次元にまで行ってしまう。しかも、それを批判しようとしても、責任の所在があいまいなので暖簾に腕押しにしかならない。平成はもう終わりつつあるというのに、政治の週刊誌化も含めて、今はむしろ昭和の悪いところばかりを拡大したような政治状況が日本を覆っているわけですね。平成は日本の政治風土を何も更新できなかった。 ただ、だからといって日本国内だけで政治的な問題を考えていても、もう未来はないし、論壇的な世間話にしかならないと思うんです。それで日本と香港、つまり国民国家と都市を比較するという新しい枠組みを立てて、世界との別の繋がり方を模索しようと考えたわけです。それが僕の出発点でした。張さんはどういう感じで臨まれたでしょうか。
    張 私としては、やはり香港の方が、日本よりも強く政治が終わっている感じがしますね。日本は思想的に平成がまだ終わってないし、戦後昭和的な雰囲気がまだ強く残っている。これに対し、香港は何より、まだ団塊世代の政治感覚が残っているんだけど、それと30代以下の若者の思想が決定的に違っていて、世代の断裂がはっきりしている形です。私なりには、そう見えているんですね。
    福嶋 世代的分断は今の香港を考える鍵ですね。日本人は1970年代以降に金儲けにしか興味のない経済動物、つまり「エコノミックアニマル」と揶揄されたわけですが、かつての香港人もそれに近いところがあった。イギリスの植民地支配のもとで政治参加が閉ざされていたためです。しかし、張さん以下の世代は急速に政治化したように見える。香港はもはや一枚岩ではない。
    宇野 そのように、異なる地域を対比して見えてくる視点が本書の特徴ですね。『辺境の思想』というタイトルが秀逸で「辺境とは何か?」ということが、この本で言いたいことの6割くらいを占めていると思います。日本人は夜郎自大なので、自分たちを辺境とは思ってないんですよ。ただ、歴史的に考えると、アジアの中でも、西洋から見ても端っこの辺境以外の何者でもない、近代日本は、いかにして自分たちが辺境であることを忘却するかというゲームをやってきた。 ところが、逆に辺境であることを思い出すことでしか、今の日本の社会的文化的な行き詰まりに対する抜け道を探すことはできないんじゃないか? というのが、この本における福嶋さんと張さんの基本的なスタンスだと思うわけです。 日本が辺境であるとはどういう意味か、究極的にひとことで言えば「国民国家未満」ということです。中国本土のような古代神話の時代から国そのものの枠組みが続いてるわけでもなければ、近代ヨーロッパの国民国家ともまったく違う、日本はどちらでもない存在なんですね。結果的に言ってしまえば、その枠組みを外したときに初めて、日本でものを考えることが可能になっている。
    福嶋 歴史的に言えば、日本は常に「子供」の立場にあった。前近代であれば中国、近代以降であれば欧米というように、外部の大きな「父」を参照しながら我流に加工するのが基本的なプログラムだった。建築家の磯崎新氏の言い方を借りれば「和様化」(ジャパナイゼーション)ですね。しかし、今はそういう外部の超越的なモデルが弱体化してしまった時代だと思います。その結果、日本はこれまでの和様化のプログラムがうまくいかなくなり、外部への通路が閉ざされ、ガラパゴス的な状況に陥っている。千年単位で見れば、この「父の不在」が日本史の新しい局面を示すものであることが分かります。日本人は前例の少ない状況に置かれているのです。この困難から脱するために、隣の都市を参照しようというのが僕の基本的なスタンスです。
    宇野 たぶん、いま国家の単位でものを考えているとトランプ的に、あるいはブレグジット的にグローバル化に対するアレルギーの受け皿になるしかない。そもそもばらばらのものを物語的に一つに統合している国民国家は定義的に閉じていてグローバル化と相性が良くないわけです。「グローバル化で国境がなくなる」と言ってるけど、そんなのは嘘で、グローバル化の実態とは情報化された大都市の経済的なネットワークですよ。 国境を単位とする領域的な国民国家というのは古い形の線引きで、それに対して、たとえば上海とドバイとパリの住人が直に結びつくような都市のネットワークが対抗しているのが、グローバル化の実態だと思います。だから、国家という枠組みにとらわれている限り、思想的にグローバル化を正面から受けとめることはできない、その可能性はむしろ日本や香港のような国家未満の辺境にあるというのがこの本の基本的なスタンスで、その視点から日本と香港の政治状況や文化状況を参照していると感じました。
    中二病的なナショナリズム・政治化を超えて
    福嶋 おっしゃるように、日本の知識人は基本的に国民国家の単位で考えている。たいていの日本論も国民性の比較によって作られているわけで、現に日中比較論や日韓比較論はたくさんある。しかし、そこには都市の比較という観点がほとんど存在していないのです。 たとえば、日本は「雑種文化」だという加藤周一の有名な定義がある。加藤氏はフランスとの比較でそう言っています。しかし、それを言うのなら、香港は日本以上に雑種的な都市です。なおかつ、日本はサブカルチャーが栄えていて「クールジャパン」などとナショナリスティックなお国自慢をしているけれども、それだって別に日本の固有性ではない。香港もそれは同じだからです。香港は武侠小説や推理小説が強いし、張愛玲や李碧華のような女性作家も目立つ。しかも、香港文学は映画とのメディアミックスも盛んにやっている。これらは日本の大衆消費文化とよく似ています。「怪力乱神を語らず」という中国の儒教的な建前からすればサブカルチャーでしかないものを、香港はたくさん生み出してきた。こういう辺境の都市と比較すれば、従来の日本特殊論を解除することができる。 加藤的なモデルは、最近の内田樹氏の議論にも受け継がれています。つまり、中心的な文明と辺境の日本を比較するという、いつもの分かりやすいモデルです。しかし、そのような認識の座標ではグローバル化には対応できないし、香港のようなすぐ隣にある「似て非なる存在」も見逃してしまう。香港を介して日本論の座標を組み替える――こういうアングルの提示はこれまでほぼ誰もやっていないと思います。
    張 福嶋さんが言った通り、この本の狙いは認識のフレームです。日本の近代認識のフレームは、明治から平成までずっと国民国家、どうしてもナショナリズムのフレームで物事を考えている。この本で書いたように、私なりのナショナリズムの定義は、自分たちこそが世界の中心であるとか、自分の尊厳をかけて他人からの承認を得られるよう努力するとか、辺境発の中二病的なものです。そういう中二病的なナショナリズムを発病して成功した文明を持つ国家は、最初はイギリス、そしてフランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、西洋以外では近代の日本ですね。「自分たちこそが偉くて、尊敬に値する」ことを証明するために、物語を語る。ですから、ネイションは民族や文化伝統の発明に熱心で、国民文学と歴史のような近代の物語を重視するわけです。 逆に、香港の近代認識のフレームは都市です。思えば、香港は日本と同じく、19世紀中旬から西洋文化をいち早く取り入れて、約150年の近代社会史を織り成しましたが、香港の認識のフレームは日本・ネイションとは違ったかたちで、基本、都市ベースです。宇野さんが言ったように、都市は基本的にネットワークです。物語よりもお金と情報に依存します。文化の伝統より、その多様性を優先します。日本も香港も同じく辺境同士なのに、異なった道で、西洋近代化の歴史を歩んできました。 香港という成功例においては、そういう「自分が世界の中心」という発想はなかったんですね。自分が常にアジアにおいても西洋からも辺境にいることを自覚して、異なる発見の狭間で物事を考えて、いつもコンテクストに依存して、文化を自由に選べて、自由に動いていくのが得意なんです。日本が平成時代に入って、この10〜20年間、世界中がいわゆるグローバリゼーションに進んでいる状況で、私は香港の方が日本より活躍していると感じるようになったんですね。 東アジアにある辺境同士の日本と香港は、もともと比較できる文化心性はいくらでもありそうです。しかし、香港は日本への文化関心が高いが、日本から香港への視線はほとんど感じられません。たぶん、ネイションと都市という二つの近代心性の異なる影響のせいです。 やはり、この本に書いた中でも一番面白いのは、日本が都市化しているのに対して、香港はなぜナショナリズム化しているのかですね。実際に今の状況はこの本で書いた通りに進んでいます。
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  • 10年後にたどり着いた〈幸福な関係〉? 復活バンドブームは何をもたらしたか(市川哲史×藤谷千明『すべての道はV系に通ず』第16回)

    2018-07-12 07:00  
    550pt

    80年代以降の日本の音楽を「V系」という切り口から問い直す、市川哲史さんと藤谷千明さんの対談連載『すべての道はV系に通ず』。近年、LUNA SEAやX JAPANなど、V系全盛期を築いたバンドの再結成が相次いでいますが、約10年ぶりの再起動をどう捉えるべきなのか。V系バンドの「再結成」のあり方を議論します。(構成:藤谷千明)
    【告知】「すべての道はV系に通ず」が書籍になります!
    本メルマガの内容に大幅な加筆を加えて、8月6日刊行予定。
    『すべての道はV系へ通ず。』 著者:市川 哲史、藤谷 千明 発売日:2018年8月6日 価格:1944円 版元:シンコーミュージック Amazonでの予約はこちらから。
    LUNA SEAとX JAPANの再結成をどう考えるか
    藤谷 そもそも〈復活バンド〉という呼び方そのものが失礼なんですけど、ゼロ年代後半、90年代に活躍したバンドたちが立て続けに復活しました。なかでも、2007年のD’ERLANGER再結成、LUNA SEAの一日限定復活ライヴ、X JAPANの再結成、09年には無期限活動休止状態だった黒夢の〈解散〉ライヴなどなど。この《再合体ムーヴメント》の契機は、私は間違いなくD’ERLANGERだったと思うんです。なんていうか……〈誰が観てもカッコいい再結成〉だったんです!
    市川 このブームの口火を切ったのは、D’ERLANGER再結成だったと?
    藤谷 ええ。D’ERLANGERの復活に関しては、06年の末に公式サイトで発表されたんですよね。たしか仕事の昼休みを待ちわびて、チケットのFC申し込みに郵便局へ突撃したのを憶えてます! それから再結成ライヴの前に復活第一作『LAZZARO』をリリースして、なんと17年前のラスト・ライヴと同じ日比谷野音で復活するというドラマチックさ! 何から何まで美しかったんですよ!!(口角泡)。
    市川 うわ、D’ERLANGERらしい悪意に満ちた配慮がまた、いやらしいわ(苦笑)。それにしても藤谷さんの世代なら、それが初D’ERLANGERなんじゃない?
    藤谷 そうです。リアルタイム世代ではなかったです。解散中のkyoのソロやCRAZEもFCに入るほど好きでしたから当然、既に伝説となっていたD’ERLANGERのライヴを観てみたいじゃないですか。だから正直、彼らが超恰好いい復活をしていなかったら、その後のLUNA SEAの復活も無かったと思うんですよね。
    市川 そのLUNA SEAは最初の復活ライヴに際して、「本当に一回こっきり」って言及してたはずなんだけどなぁ。
    藤谷 なんたって《One Night Déjàvu》でしたからね、最初のライヴ・タイトル。
    市川 完璧主義を徹底的に貫いたあのLUNA SEAなら、「いくら一夜限りだろうといいかげんな復活ライヴを見せるはずがない」と皆が皆思ってたし、実際おそろしく〈ちゃんとした〉公演だったから、さすがだった。私の《輝け☆再結成ライヴ歴代完成度ランキング》の、堂々第2位に輝いてるからさ未だに。
    藤谷 へ? あんな素晴らしいライヴだったのに、1位じゃないんですか!?
    市川 第1位は、1995年5月18日キング・クリムゾン@英ロイヤル・アルバート・ホール公演に決まってるだろ。
    藤谷 ……どうでもいいです。
    市川 第一報を最初に知ったとき、私は正直「日和りやがったな」と失望したの。だってSUGIZOにせよJにせよ、20世紀末に空中分解しちゃうほどの、チョモランマより高い理想とプライドをLUNA SEAに抱いてたのを知ってるから、絶対再結成なんかしない――いや、できるわけがないと思ってた。実際、JもSUGIZOも終幕後、再結成を嫌がってたからそれだけに違和感があったよ。
    藤谷 それでもすごくいい、これぞLUNA SEAなライヴでしたよね(嬉笑)。
    市川 あの夜は楽屋打ち上げの場所がブルペンだったんだけど、すごくニコニコしてたJや清々しさ全開のSUGIZOの姿に、かつて頂点を極めたバンドマンの性(さが)というか業を見た気がしたな。
    藤谷 裏側のことは知る由もないですが、SUGIZOが最後の最後までステージに残っていて、ずっとお辞儀をしていたことが印象に残っています。それが答えなのかな、と。
    市川 かつて熱狂した元スレイヴたち全員が納得した出来で、しかも当事者であるメンバー5人がニコニコ笑えているのならいいじゃん、みたいなね。
    藤谷 LUNA SEAの再結成はそれに尽きます。その後の2010年《REBOOT宣言》以降もずっと定期的にライヴ観ていますけど、相変わらず皆ニコニコがちで。
    市川 再結成に至るまでの紆余曲折は大変だったけども、いざ踏み切ったら新作リリースに国内外ツアーと現役復帰に意味を見い出せたことが、本人たちを笑顔にしてるわけじゃない? に較べて同じケースでも、Xの方は〈笑顔なき再結成〉だったよね、しばらくの間は。
    藤谷 またそんな。
    市川 だってフロントマンの自己啓発洗脳問題は全っ然解決しておらず、頼みの綱のhideは二度と還ってこないうえに、そもそも再結成する大義も見当たらないまま、でも再結成せざるをえない諸事情を抱えた〈袋小路への見切り発車〉だったんだから、翌年のHEATH脱退未遂事件やらも含めて、そりゃ笑えないよなぁ。当時、日本で活動しづらい事情があって苦肉の海外進出だったとも聞いたし。
    藤谷 ぱ、パスいち。
    市川 結局、当のYOSHIKIが心から愉しめるようになれたのは、〈働き者の後輩〉SUGIZO正式加入や瓢箪から駒の海外〈visualkei〉ブームでやっと手応えが感じられた、2010年代突入以降なんじゃないかと思うよ。
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  • 【イベント情報】7/26(木)20時〜宇野常寛がナビゲートする「水曜解放区」公開生放送(号外)

    2018-07-11 08:00  

    評論家の宇野常寛が、政治からサブカルチャーまで独自の視点で語り尽くす、PLANETSチャンネルの生放送番組「水曜解放区」。 7月26日(木)は、いつものスタジオを飛び出して公開生放送を行います! 気になるニュース解説や、お悩み相談などを間近で聞けるチャンス! 
    また、公開生放送前には直接宇野とお話ができる交流会を開催いたします! ぜひご参加ください!
    ▼日時
    2018年7月26日(木)  19:00 開場・交流会 20:00 開演(放送開始) 21:45 終了(放送終了)
    ▼会場
    東京都渋谷区渋谷2-22-3 渋谷東口ビル 5F 株式会社CAMPFIRE内 イベントスペース ※当日は5Fまで直接お越し下さい。
    ※遅れて参加される方へ 20:00以降に会場へお越しになる場合、正面エントランスが閉まっております。 恐れ入りますが、ご到着の際に下記までお電話をよろしくお願いいたします。 tel
  • 本日21:00から放送☆ 宇野常寛の〈水曜解放区 〉2018.7.11

    2018-07-11 07:30  

    本日21:00からは、宇野常寛の〈水曜解放区 〉!
    21:00から、宇野常寛の〈水曜解放区 〉生放送です!
    〈水曜解放区〉は、評論家の宇野常寛が政治からサブカルチャーまで、
    既存のメディアでは物足りない、欲張りな視聴者のために思う存分語り尽くす番組です。
    今夜の放送もお見逃しなく!★★今夜のラインナップ★★メールテーマ「雨の話」今週の1本「タクシー運転手」アシナビコーナー「加藤るみの映画館の女神」and more…今夜の放送もお見逃しなく!
    ▼放送情報放送日時:本日7月11日(水)21:00〜22:45☆☆放送URLはこちら☆☆
    ▼出演者
    ナビゲーター:宇野常寛アシスタントナビ:加藤るみ(タレント)
    ▼ハッシュタグ
    Twitterのハッシュタグは「#水曜解放区」です。
    ▼おたより募集中!
    番組では、皆さんからのおたよりを募集しています。番組へのご意見・ご感想、宇野に聞いてみたいこと、お悩
  • 成馬零一 テレビドラマクロニクル(1995→2010) 第4回 堤幸彦(2) 悪ふざけと革命願望(後編)

    2018-07-11 07:00  
    550pt

    ドラマ評論家の成馬零一さんの連載『テレビドラマクロニクル(1995→2010)』。第2回の(2)では、堤幸彦のほか、押井守や村上龍、小林よしのり、秋元康など、多くの作家を輩出した1955年生まれを、「60年代の革命と80年代の消費社会の間に宙吊りにされた世代」という側面から捉え、彼らの作品に滲み出る、革命への〈憧れ〉と〈断念〉について考えます。
    堤の「人工的でありながら生々しい映像」
     堤幸彦は『テレビドラマの仕事人たち』(著:上杉純也/高倉文紀・KKベストセラーズ)に収録されたインタビューの中で、自身の映像について「マルチカメラを使ってトレンディドラマみたいなことはムリ」と語っており、外様の自分が世の中に出て目立つためには、他のドラマがやらないことをやるしかなかったと語っている。
     インタビュアーの上杉純也は、堤の演出の特徴を以下のように書いている。
    極力スタジオセットを避ける、スタジオで撮る場合でもセットは全部天井ありの4面総囲みにする。それは“人間の視点に一番近い映像でなくては、アニメやCMには勝てない”という思いからだった。(『テレビドラマの仕事人』より)
     堤は『金田一』の際に、マルチカメラ(複数のビデオカメラを使ってマルチアングルで撮影する手法)で、スタジオに組んだセットで撮るという、既存のテレビドラマの手法ではなく、オールロケで一台のカメラで撮影していくという手法を選択した。  また、当時のテレビドラマとしてはカット数が多く、下から煽るようなアップや、魚眼レンズの歪んだ映像で顔を撮影するような、奇抜な構図の映像が多かった。これはミュージッククリップの手法からの影響である。 『金田一』第2シーズンではマンネリを避けるために、演出がより過激化した。
    例えば“犯人はお前だ!”っていうのも“は・ん・に・ん・は・お・ま・え・だ・!”って10カットくらいになったり、縦にカメラがグルグル回ったり。まぁ、小難しくても、小学生が楽しめる作品にはなったと思いますけど」(同書)
     また『サイコメトラーEIJI』では、照明を使わずにノーライトで撮影しているが、これは当時としては画期的な一つの事件だった。 当時のテレビドラマが、映画と比べて映像面で劣ると言われた理由は、照明に時間を割くことができず全体にライトを当てるため、陰影のないぺらぺらの映像となっていたからだ。照明を使わずに撮影すると、ザラザラとした映像となりブロックノイズなども出てしまうが、それが逆にドキュメンタリー映像のような生々しさを生んでいた。
     1. 奇抜な映像でカット数が多い。 2. オールロケ 3. 照明を使わない手持ちカメラの映像 堤演出の特徴をまとめるなら以上の三点だろう。 (さらに、『金田一』の時点ではまだ控えめだが、『池袋ウエストゲートパーク』以降になると、大人計画の宮藤官九郎のような、小ネタを多用したアドリブ混じりの軽妙な会話劇が劇中に持ち込まれるようになっていく)
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  • 橘宏樹『GQーーGovernment Curation』第4回 教育。まだ見ぬ幸せを、その手に。~第3期教育振興基本計画を読み解く~

    2018-07-10 07:00  
    550pt

    現役官僚の橘宏樹さんが「官報」から政府の活動を読み取る連載、『GQーーGovernment Curation』。今回のテーマは「教育」です。6月15日に閣議決定された「第3期教育振興基本計画」(2018-2022年) を、第1期(2008-2012年 )、第2期(2013-2017年)と比較しながら、この10年の間に国が掲げる教育のビジョンが、どのように変化したかについて検討します。
    ▲教育。政策にできること、できないこと。
     こんにちは。橘宏樹です。国家公務員をしております。このGovernment Curation(略してGQ)は、霞が関で働く国民のひとりとして、国家経営上本当は重要なはずなのに、マスメディアやネットでは埋もれがちな情報を「官報」から選んで取り上げていくという連載です。どんな省益も特定利益にも与さず、また玄人っぽくニッチな話を取り上げるわけでもなく、主権者である僕たちの間で一緒に考えたいことやその理由を、ピンポイントで指摘するという姿勢で書いて参ります。より詳しい連載のポリシーについては、第一回にしたためさせていただきました。
    【新連載】橘宏樹『GQーーGovernment Curation』第1回「官報」から世の中を考えてみよう/EBPMについて
     2018年6月のマスコミでの話題は、やはりワールドカップ開催ですよね。森友・家計問題も少し影を潜めたように見えます。西野ジャパンの大健闘や団結力に僕は勇気をもらいました。実はサッカー見るのは結構好きなので、色々と書きたくなってきてしまうのですが、誘惑を抑えます…。政治・行政関係では、会期の延長された国会で、働き方改革法案、TPP関連法案と、話題の法律が立て続けに可決されました。ちなみに、昨日(7月4日)から、霞が関では「官庁訪問」と呼ばれる、国家公務員総合職試験の合格者による就職活動期間が始まりました。毎日1官庁ずつ選んで訪問し、人事担当者や原課の職員と数回の面接を行います。訪問者も官庁側も、お互いに選んだり選ばれたりの4週間。ライバル?仲間?との待合室での待ち時間が異常に長いことが特徴です。この部屋に集められているのは1軍なのか?2軍なのか?と評価に気を揉んだりします。心身ともにかなりしんどいです。僕も面接官を務めます。イマドキの若者がどんな志望動機を語ってくれるのでしょうか。また僕の方でも、いい訪問者にはうちの役所への志望を固めてもらえるよう魅了せねばならず、真剣勝負の毎日が始まります。
     さて、今回のGQのテーマは「教育」です。6月15日閣議決定「第3期教育振興基本計画(2018-2022年)」を取り上げたいと思います。閣議決定は普通官報には載らないのですが、あまり話題になっていないけれど非常に重要な行政の動きを伝えるGQの使命に照らしてうってつけかなと判断しました。「教育振興基本計画」は、今後5年間のあらゆる教育政策の根幹になります。なので、極めて重要です。ですが、一般的に存在はどのくらい知られているでしょうか。
    第3期教育振興基本計画(2018-2022年)(概要)第3期教育振興基本計画(2018-2022年)(本文)
     本文は96ページあって一見長いですが、パラグラフが細切れにされていて、文体も平易で一文の長さも短く、けっこう読みやすい気がします。なので、御覧になってみてください。(ちなみに、第1期計画は48ページ、第2期計画は84ページです。)
     本稿では、第3期教育振興基本計画のポイントを、ザックリと第1期、第2期と比較してみます。政府の教育政策が力点の置き方がこの15年間でどのように変わっているか(または変っていないか)を確認してみます。  ちなみに、民主党政権は2009年から2011年でした。第2期の計画内容を議論し始める期間にかかっており、政権交代前後で議論するメンバーに入れ替えがあったりはしています。ただ、それが定例の入れ替えなのか、政権の意向なのか、今、僕にはわかりません。
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  • もはやサブカルチャーは「本音」を描く場所ではなくなった――『バケモノの子』に見る戦後アニメ文化の落日(宇野常寛×中川大地)(PLANETSアーカイブス)

    2018-07-09 07:00  
    550pt

    今朝のPLANETSアーカイブスは『バケモノの子』をめぐる評論家の中川大地さんと宇野常寛の対談をお届けします。『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』などでヒットを飛ばし、ポストジブリの最右翼と目される細田守監督とスタジオ地図。その最新作が逆説的に示してしまった戦後アニメ文化の限界とは? 初出:「サイゾー」2015年9月号(サイゾー) ※この記事は2015年10月7日に配信した記事の再配信です。
    Amazon.co.jp:バケモノの子
    大作化で発揮されなくなった細田守の批評性
    中川 どうしても面白いとは思えない作品でした。「“夏休み映画”を作らなければ」という形骸的要請ばかりが先だって、ワクワク感が全然なくて。異世界ファンタジーとしての体裁が、ほとんど機能してなかった気がします。
    宇野 僕はちょっと評価が複雑で、観ている間はそんなに気にならないんですよ。でも、観終わったあとに何か言おうと思うとまぁ、誰も傷つけずによくできていたな、ということしか浮かばない。
    中川 基本的には、シングルマザーの子育てを描いた前作『おおかみこどもの雨と雪』【1】と対の構造になっている。つまり、親が一方的に子を導くのではなく、親の側が子から教えられる相互性とか、熊徹【2】だけではなく、友人の多々良と百秋坊【3】らにも子育てのタスクを分散させるとかで、細田守監督なりの新たな父性や家族像を追求しようとしたわけですね。そのメッセージ性自体にはなんら異論はないのだけれど、『おおかみこども』とセットだと「母にはあれだけ苛酷な運命を押しつけといて、父はここまでユルユルに免責すんのかよ!」という見え方になってしまう(笑)。

    【1】『おおかみこどもの雨と雪』
    公開/12年7月 
    細田守のオリジナル長編2作目。
    “おおかみおとこ”と結婚し子どもを産んだ女性と、その娘と息子の“おおかみこども”の物語。シングルマザーとなった主人公の花を通じて描かれる母性信仰の強さが、一部から批判を集めた。
    【2】熊徹
    熊の容姿をした半獣人で、武道家。バケモノの世界で次期宗師の座を猪王山と争っている。人望が厚い猪王山に比べ、荒くれ者で我が強い。蓮を拾い、名前を名乗らなかった9歳の彼を「九太」と名づける。
    【3】多々良と百秋坊
    どちらも熊徹の幼なじみで、多々良はヒヒの半獣人、百秋坊は豚の半獣人で僧侶。多々良は大泉洋、百秋坊はリリー・フランキーが声を当てている。

    宇野 『おおかみこども』では「女性賛美の形をとった女性差別」の典型例みたいなことをやってしまって、ちょっと過剰に叩かれすぎた面もあるけど、まあ、さすがにあれは今の40代男性の自信のなさと、屈折した男根主義が悪い形で全面化して作品を狭くしていた側面は否めない。その反省か、今回、現代的な家族観・コミュニティ観を最小公倍数的にきれいに描いていて、こういう関係が美しいという美学はわからなくもないけれど、今度はその分、批判力のあるファンタジーではなくなってしまった。
    中川 まぁ『おおかみこども』での批判に誠実に対応した結果、たまたま男性側の免責に見えてしまっただけかもしれないからジェンダー論的な批判は留保するとして。もっと問題なのは、「渋天街」のイメージの弱さでしょう。『千と千尋の神隠し』的な、この世とは違う理で動く摩訶不思議な異界としての設定も映像的快楽も希薄で、ただステレオタイプな都会としての渋谷に対比させるためだけの、素朴な共同体社会でしかなかった。
    宇野 あそこで描かれているものって、完璧に正しくてそこそこ美しいと思うんですよ。でも、いま期待をかけられているスタジオ地図【4】の新作アニメーションで、夏休みの最大のごちそうとしてみんなが観に行って、この作品が出てきた時の物足りなさは否めないと思う。ポスターから想像できるストーリーの半歩もはみ出ていない。
     結局細田さんって、美少年というモチーフに一番興味があると思うんですよ。『サマーウォーズ』【5】を観ると明らかじゃないですか。一番思い入れがあるのはカズマだったでしょう。カズマは脇役だったのが『おおかみこども』で“雨”を経て、『バケモノの子』では完全に少年が主役になっている。モチーフレベルでは正直になってきているんだけど、その間に細田守の社会的地位が上がって、表現レベルではどんどん丸くなってしまって、とうとう誰も傷つけない代わりに何もない作品になってしまった。
     特に九太が青年になって以降、後半のシナリオが完全に“段取り”になってしまっている。一郎彦【6】が実は人間の子どもだというのは観ていればすぐにわかるし、クライマックスのアクションシーンが必要だからという理由だけで渋谷に出るのも……。あと、九太の社会復帰が、勉強して高認をとって大学に行くことを決意する【7】って展開に到っては、だったらなんのためにファンタジーが存在するのかよくわからなくなってしまう。異世界で修行をすることで、大学では学べないような世界の豊かさを学んできたんじゃなかったのか、と(笑)。この映画の中でいちばん豊かに描けているのって、少年期の修行時代の擬似親子+2人の傍観者(多々良・百秋坊)というあのコミュニティですよね。

    【4】スタジオ地図
    『時をかける少女』『サマーウォーズ』を手がけたプロデューサーが、細田守と共にマッドハウスから独立して設立したアニメ制作会社。
    【5】『サマーウォーズ』
    公開/09年8月
    17歳の健二が、ふとしたことから憧れの先輩の田舎に共に帰省し、
    大家族の仲間入りをする。同時進行でインターネット上の仮想世界「OZ」ではサイバーテロが発生。田舎の大家族とネット上の仮想世界での出来事がリンクしながら進んでゆく。
    【6】一郎彦
    熊徹と宗師の座を争う猪王山の長男。実は拾われてきた人間の子ども。少年期はさわやかで聡明な子どもだったが、成長するにつれて心に闇を宿し、最後に暴走する。
    【7】勉強して高認をとって~
    17歳になってから人間社会に再び足を踏み入れた九太は、図書館で出会った楓(後述)の存在をきっかけに勉強を始め、楓の勧めもあって大学受験を考えるようになる。結果、熊徹とぶつかり、渋天街を飛び出してしまう。

    中川 映像的には、細田さんが自分の本当に得意な表現を純粋抽出して組み合わせることで構築されてますよね。要は『サマーウォーズ』でも好評だった対戦格闘アクションを核に、『おおかみこども』での人獣のメタモルフォーゼの要素を盛り込むなどの手法で、ドラマの軸線を作った。熊徹からの見取り稽古をアニメーションのシンクロで示した修行時代や、猪王山とのバトルなどは、すごく良かった。
     渋天街のイメージの弱さも、肯定的に捉えるなら、これまでの細田作品における現実社会と異世界──『デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム!』【8】や『サマーウォーズ』ならデジタル空間だったり、『おおかみこども』なら狼たちの自然世界だったり──とを等価に描く表現の延長線上に発想されたがゆえの帰結ともいえる。渋天街って、設定上は人間界の渋谷の地形と対応している〈拡張現実〉的な世界ということなので。そういう感じで、異世界を人間社会とフラットに捉えて特別視しない点が、自然/空想賛美的なジブリ作品に対する、細田守の現代的な作家性だったわけです。
     しかし今作については、画面を見ていても2つの世界の対応が全然伝わらないし、作劇上も活かされていない。結局、世界観構築に際しての批評性が弱いので、前半と後半でファンタジー世界と現代社会を対置するプロットが作劇意図ほどには機能していないんですよ。それが“段取り”感につながっているのだと思う。
    【8】『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』
    公開/00年3月 
    細田守監督作品。ネットに出現した新種のデジモンの暴走を止めるべく、少年たちが戦いに乗り出すストーリーで、『サマーウォーズ』公開当初から類似性が指摘されていた。

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