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記事 25件
  • 消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える。第13回 コミュニケーションを介在する存在(簗瀬洋平・消極性研究会 SIGSHY)

    2019-11-18 07:00  
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    消極性研究会(SIGSHY)による連載『消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える。』。今回は簗瀬洋平さんの寄稿です。ペットの存在は、家庭内に潤いをもたらすだけでなく、社会的なコミュニケーションを発生させる契機にもなります。ゆるやかな社会的交流のきっかけとしてのテクノロジーの活用を考えます。
    消極性研究会の簗瀬です。
    2018年10月23日に我が家に子犬がやってきてもう1年が経過しました。犬は1歳ともなるとすっかり成犬で1歳3ヶ月になる我が家のエダ(パピヨン ♀)は人間に換算すると10代後半ということになります。終始動き回っている子犬の頃と違い落ち着きは出てきましたが、まだ3〜4歳の落ち着きがある子と比べるとまだまだ子供で、散歩中に出会う方々からも「まだお若いですか?」と言われます。
    実は犬を飼って大きく環境が変化したことの一つに、社会とのコミュニケーションがあります。私は家を出てから大阪と横浜で十数年一人暮らしをしてきましたが、実のところ同じマンションの住人や近所の人とは挨拶以上の会話を交わしたことがありませんでした(とは言え、大阪だとお店や路上で突発的に話しかけられたりするのでやや例外です)が、生後半年近くなり、愛犬を散歩に連れて行くようになって知らない人との会話が劇的に増えました。
    犬は基本的に散歩が必要な生き物です。これは運動と社会適応という二つの面があり、後者は人間社会で発生する様々な物音や他の人、犬、その他の生き物などに慣らしていくトレーニングでもあり、犬自身の好奇心を満たしていく行為でもあります。また、大型犬の場合は家でトイレをしない子も多く、排泄のために外に連れ出さなければならないという一面もあるようです。
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  • ディズニー、ピクサー、ジブリ…『アナ雪』大ヒットから見えるヒロイン像の"後進性"ーー石岡良治×宇野常寛が語る『アナと雪の女王』 (PLANETSアーカイブス)

    2019-11-15 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、批評家の石岡良治さんと宇野常寛の語る『アナと雪の女王』です。『アナ雪』の大ヒットから逆説的に見えてきたのは、ディズニーの遥か先を走っていたはずのピクサー、そしてジブリが直面する「テーマ的な行き詰まり」だった――?(構成:清田隆之 初出:サイゾー2014年7月号) ※この記事は2014年7月25日に配信した記事の再配信です。

    ▲アナと雪の女王 MovieNEX [Blu-ray]
    ピクサー化するディズニー・アニメの象徴としての『アナ雪』
    宇野 『アナと雪の女王』はまず、予告編で「Let It Go」のシーンを観たときに、「ディズニーは、この作品にものすごい自信があるんだな」と思ったんですよ。それで実際に観てみたら、まぁやりたかったことはわかるのだけど、作品としての出来がいいとまでは思えなくて、予告編の期待は超えなかったですね。 『アナ雪』の話をするにあたっては、前提として、ここ10年くらいのディズニー映画とピクサー映画の流れについて言及しておく必要があると思う。アニメファン的に見ると、ディズニーとピクサーって技術的にはそこまで差がないんだけど、ゼロ年代は特にシナリオは圧倒的にピクサーのほうが上だと言われていた。『モンスターズ・インク』(01年)、『ファインディング・ニモ』(03年)、『Mr.インクレディブル』(04年)など、圧倒的にシナリオワークの優れた作品を連発していたピクサーに対して、ディズニーはいまいちな作品ばかりだった。家族観・ジェンダー観にしても、旧来のディズニーは古典的なプリンセス・プリンスもの、ボーイ・ミーツ・ガールの話をベタに描いていたのに対し、ピクサー作品は、例えば『Mr.インクレディブル』だったら「古き良きアメリカの強い父」みたいなイメージがもう通用しないというところから出発していたように、時代の移り変わりや新しい家族観・ジェンダー観を取り込むことによって重層的な脚本を実現してきた。言い換えるとそれは親世代、つまり団塊ジュニア世代の記憶資源に訴えかけながら、子どもも楽しめる物語をどう作るか、ということ。一つのストーリーで大人にはイノセントなものの喪失の持つ悲しみを、子どもには古き良きアメリカのイメージを、その記憶を持たないことを利用して輝かしいものとして提示する、というのがピクサー的、ジョン・ラセター(※1)的なものの本質だと思うわけ。これは『トイ・ストーリー』から、最近のピクサー化しつつあるディズニーの『シュガー・ラッシュ』(※2)まで通底している。要するに、この流れはさまよえる現在の男性性をテーマにしてきた流れだとも言える。

    (※1)ジョン・ラセター…ピクサー設立当初からのアニメーターであり社内のカリスマ。06年にディズニーがピクサーを買収し、完全子会社化したことでディズニーのCCO(チーフ・クリエイティブ・オフィサー)に就任。ディズニー映画にも多大な影響を及ぼしているという見方がなされている。
    (※2)『シュガー・ラッシュ』…公開/ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ(13年/日本)。アクションゲームで何十年も敵キャラを演じることにうんざりしたラルフが、別のゲームの中でヒーローになろうとしたことから、複数のゲームの世界を舞台にした騒動が巻き起こる。

     じゃあ、『アナ雪』は何か、というと、ここでもう自信喪失したおじさんたちの話はやめよう、ってことなんだと思う。自信喪失したおじさんたちの回復物語はもうやりつくしたので、自分探し女子の物語に切り替えて新しいことをやろう、ってことなんでしょうね。この決断は良かったんじゃないかと思う。その結果、出てきたのが最終的に王子様のキスではなく、姉妹愛というか同性間の関係性で救済される新しいプリンセス・ストーリーだった、ってこと。ディズニーといえばおとぎ話的な「いつか白馬の王子様が……」的な世界観でやってきていて、まあ、現代的なそれとは到底相容れないアナクロな世界観が維持されている文化空間なわけで、そこからこの作品が出てきたので、みんなこれは新しい、感動した、って言っているわけだけど……。うーん、それって、あくまでディズニーの過去作と比べたら今時のジェンダー観に追いついているってことに過ぎないんじゃないかって思うんですよね。この作品に何か特別なものがあるとは思えない。
    石岡 僕はまず、歌のバズり方自体に興味を持ったんですよ。これは日本特有だと思うけど、「Let It Go」が「ありのままで」と訳されて、「意識高い」女性に大受けしてますよね。あの歌って、いろんなところで指摘されているように、いわば邪気眼というか厨二病の能力解放の歌だと思うんだけど、それを”自己啓発系”の歌として読んじゃうっていうのは、ある意味で痛快ですよね。つまり、普段は邪気眼的なものに共感を示さないような女性に、「これは私のことだ!」と感じさせているわけで、うまいといえばうまい(笑)。
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  • 小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第4回 ウィーン学団、3名のオーストリア人科学者の夢物語

    2019-11-14 07:00  
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    分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第4回。19世紀末からの科学と哲学を大きく変えつつあったオーストリア的な知の新展開として、「ウィーン学団」を打ち立てた3人の科学者にスポットを当てます。科学哲学という分野の勃興に結実し、20世紀科学革命とも共振する彼らの交歓。しかしその夢と友情は、2度の世界大戦の荒波に翻弄されていくことに──。
    1920年代のウィーン〜アイコンと科学哲学のルーツ
    アイコンの元祖とも言われる「アイソタイプ」(引用)
     現代のI T機器に欠かせないもののひとつに、アイコンがある。デフォルメされた画像によって特定の内容を明確かつわかりやく伝達できるアイコンなしには、これほどまでにI T機器が広まることはなかったことは間違いない。とはいえ、コンピューターが生まれる前から、アイコンと同様のデフォルメされた画像によって内容をわかりやすく伝えようという試みは存在した。わかりやすい例では、教科書の図説がそうだ。おそらく人類は、その歴史の黎明期からデフォルメされた画像を使ってコミュニケーションを図ってきたのだろう。だが、アイコンのように、内容伝達の効率化を目的として、特定のパターンに従ってデフォルメされた画像のみを用いるという試みは、そこまで古いものではない。ある説によれば、そうした試みは1920年代に遡るとされる。そしてその場所は、オーストリア帝国の首都ウィーンである。
     1926年のウィーンで、オットー・ノイラートとマリー・ライデマイスター(晩年にオットーと結婚してマリー・ノイラートとなる)という男女2人が指揮するデザインチームが「アイソタイプ(isotype)」というある種の絵文字を開発する。ノイラートが設立したウィーン社会経済博物館では、一般市民向けに社会学的、経済学的知識を得られる機会が設けられていたのだが、まだ教育が行き届いていたなかった当時の市民でも容易に理解できる方法が必要だった。そのためにアイソタイプが開発されたのだ。
     ところで、オットー・ノイラートの名前は、アイソタイプの開発という一点でのみ歴史に残っているのではない。むしろ彼は、ひと昔前に分析哲学を学んだ人の中では知らない人がいないと言ってよいほど広く知られている。ノイラートは、彼に由来する「ノイラートの舟」という比喩によって知られる科学哲学者であり、そもそも科学哲学という分野の確立に大きく貢献した「ウィーン学団」の設立者の一人なのである。
    ウィーン大学で世界初の科学哲学の教授となったマッハ
     今回はウィーン学団に焦点を当てるが、まずその前に、ウィーン学団誕生に背景にある、オーストリアの科学と哲学の状況について話をしなければならない。
     じつは19世紀の著名な科学者にはオーストリア人が少なくない。例えば、ドップラー効果で知られるクリスチャン・ドップラー(1803-1853)。その教え子のメンデルの法則で知られる遺伝学者のグレゴール・ヨハン・メンデル(1822-1884)。さらには、速度の単位マッハに名前を残すエルンスト・マッハ(1838-1916)、そしてエントロピー増大則の証明で知られ、統計力学の創設者の一人であるルードヴィヒ・ボルツマン(1844-1906)。彼らはみな、オーストリアに生まれ、オーストリアの大学で活躍し、オーストリアで没した、生粋のオーストリア人である。彼らの他にも当時のオーストリアには著名な科学者が少なくなかったのだが、その理由は一説には、多民族国家であるオーストリア帝国には母語が異なる民族が多数暮らしていたがために、母語が異なっていても差が生まれにくい数学や科学が広まっていったとも言われている。
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  • e-sportsはどう社会を変えるのかーー〈ゲーム〉と〈スポーツ〉の相克をこえて(後編)

    2019-11-13 07:00  
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    今朝のメルマガは、2018年に明治大学で行われたe-sportsをテーマにしたシンポジウムのレポートをお届けします。後編では、メディアテクノロジーの研究者・福地健太郎さんが、スコアを争う競争に留まらない、多様な評価軸を取り込んだ文化的なゲームのあり方について提案します。 ※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。
    2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
    デジタル技術と身体
    中川 最後にご登壇をお願いするのは、同じく明治大学の福地健太郎先生です。福地先生は主にメディアテクノロジーの工学的なご研究をされていて、デジタルゲームにも非常に造詣が深く、学内の教員ではもっともゲーム研究に通じていらっしゃる方の一人です。いまの高峰先生のご発表のなかにもあった「デジタル技術と身体」の問題に対して、クリティカルな立場からのご発表をいただけると思います。
    身体運動とテクノロジーの関係をめぐって
    本学総合数理学部で教員を務めております、福地と申します。ふだんは、さまざまな映像メディアを多様な場面に実装していく研究をしております。最近は能と映像技術の融合ということをやっておりまして、2019年1月には実際に能舞台で披露いたします。この系統のルーツにあたる研究として、もう15年くらい前のものになりますが、2003年には音楽フェスティバルでお客さんがリアルタイムに楽しめる映像作品の展示を行っています。こうした実践を通じて、映像技術が人間の身体や行動にどのような影響を与えられるのかということが、自分の研究の中心テーマになっております。 この技術を応用したもので、スポーツとエンターテインメントのテーマに関連するものとして、「自撮りトランポリン」というものをつくりました。この研究の背景として、健康増進やリハビリテーションの現場では、ただ「運動しなさい」と言っても誰もやりたがらない、ということがあります。特にリハビリテーションの場合は、継続が辛くて、ついついサボってしまう。そのような人たちに対して、モチベーションを提供するために映像技術を応用できないかというところから取り組みました。具体的には、トランポリンでピョンピョン跳んでいると、Instagramよろしく、パシャッと良いタイミングで写真を撮ってくれるという、単純な機構のシステムです。 これを明治大学中野キャンパス前の中野セントラルパークで行われた夏祭りで展示したところ、4時間の展示で約660枚の写真を撮影することができました。1枚の写真を撮るためにだいたい10回くらい跳ぶので、延べ6,600回くらい人を跳ばしています。図の右側に一番枚数が多い順番に結果を並べた順位表がありますが、一位の子は84枚、つまりこの日、840回くらいトランポリンを跳んでいることになると思います。さぞかしこの日の夜は、ぐっすり眠れたのではないでしょうか。
    ゲームの力でスポーツの評価軸を多様化する
    ここでポイントになるのは、ゲームの面白さをリハビリテーションや運動に取り入れようという際には、より高く跳びましょうとか、たくさん跳びましょうとか、ある種のスコア競争のかたちで採り入れがちになることです。いわゆるゲーミフィケーションの方法論の多くは、そのような定量化された指標によってユーザーを動機づけしようという仕組みが中心になっているように思います。 ただ、トランポリン運動の場合に「高く跳ぼう」ということを目的に取り入れてしまうと、危険な姿勢で跳んでしまったり、反対にすぐに諦めてしまう子がどうしても出てしまう。そうした時に、競争の原理として「より高く」「より速く」といったスポーツ的な競技性ではなく、「より面白い写真を撮りましょう」という呼びかけをしているところが、この研究のポイントです。
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  • 今夜20:00から生放送!浅見裕×山口拓也×宇野常寛「田舎フリーランスという生き方入門」2019.11.12/PLANETS the BLUEPRINT

    2019-11-12 07:30  
    今夜20時から生放送!「PLANETS the BLUEPRINT」では、 毎回ゲストをお招きして、1つのイシューについて複合的な角度から議論し、 未来の青写真を一緒に作り上げていきます。 今回のテーマは「田舎フリーランス」。 千葉県富津市金谷でコーワーキングスペース「まるも」を運営されている山口拓也さんと、 埼玉県秩父でフリーランスとしてご活躍されている浅見裕さんをお迎えして、 「田舎フリーランス」という生き方についてお話を伺います。▼放送日時2019年11月12日(火)20時〜☆☆放送URLはこちら☆☆https://live.nicovideo.jp/watch/lv322449638▼出演者浅見裕(浅見制作所 代表) 山口拓也(株式会社Ponnuf 代表取締役 ) 宇野常寛(評論家・批評誌「PLANETS」編集長) ファシリテーター:友光だんご(編集者・ライター)ハッシュタグは #
  • e-sportsはどう社会を変えるのかーー〈ゲーム〉と〈スポーツ〉の相克をこえて(中編)

    2019-11-12 07:00  
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    今朝のメルマガは、2018年に明治大学で行われたe-sportsをテーマにしたシンポジウムのレポートをお届けします。中編では、スポーツ社会学が専門の高峰修さんが、デジタルゲームを含んだ包括的なスポーツの定義のあり方について発表します。 ※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。
    2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
    e-sportsとスポーツ
    中川 さて、ここまではe-sports業界の「中の人」側からのプレゼンテーションでした。ここからは明治大学の二人の教員に、それをアカデミックサイドがどのように受け止めるのかという方向で議論の提起をお願いしたいと思います。e-sportsという新しいジャンルの勃興に対して、われわれの社会にはスポーツが築いてきた既存の文化があります。いわば先達である一般スポーツの経験から捉え直した時に、e-sportsが果たす社会的な意義や役割は、どのように考えることができるのか。スポーツについての研究を専門とされている高峰修先生のお話をいただきたいと思います。
    「スポーツ」の定義からe-sportsを考え直す
    皆さん、こんにちは。私は大学で体育の実技の指導をするかたわら、「スポーツ社会学」という分野でスポーツのことを考えています。 そもそも、スポーツとはどういうものかということを、皆さんは深く考えたことがあるでしょうか? これを考えるにあたって、スポーツをめぐる著名な専門家や国際会議、あるいはいろいろな国の法律などで取り上げられているスポーツの定義について、共通する要素を抜き出してみました。 一つ目は、スポーツのいちばんの基本にあるのは、何かのために行う仕事や労働ではなく、広い意味での「遊び」だということ。英語では「play」という言葉が使われますが、これは人間にとっての遊びについて深く考察した研究家であるヨハン・ホイジンガやロジェ・カイヨワといった人たちが指摘している、非常に有名な考え方です。 二つ目は、遊びのなかでも、特に「競争」や「対戦」、あるいは「挑戦」といった要素を本質とするもの。レスリングやサッカーのように対戦相手がいる場合もありますし、陸上競技で記録の更新をめざすように自分との戦いという場合もあります。または登山や波乗りなど、自然環境への挑戦という場合も含まれます。 三つ目は、そういったもののなかでも、さらに「身体活動」を伴うもの。私が大学に入った頃は、「大筋運動」ということが、スポーツの定義のなかで言われていました。要は、身体を構成する筋肉を大きく動かす、または大量の筋肉を使って行う活動だという定義です。 ただしこれは、よく考えると「本当にそうなのかな?」と思えてきます。スポーツを語る時の難しさは、あまり典型的な定義には収まらないさまざまなスポーツがあるということですが、今日のこの話に関しては、利点になるかもしれません。
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  • 今夜20:00から生放送! ゲーム・オブ・ザ・ラウンド 第3回 令和元年のeスポーツ──ゲーセン文化とコミュニティの視点から 出演:影澤潤一(かげっち)/加藤裕康/松田泰明/中川大地

    2019-11-11 07:30  

    「ゲーム・オブ・ザ・ラウンド」は、話題の最新タイトルから懐かしの名作、xRやAIといったテクノロジーや社会的・学術的なトピックまで、あらゆる話題を縦横無尽に語り合う〈ゲーム円卓会議〉。『現代ゲーム全史』の評論家/PLANETS副編集長の中川大地を進行役に毎回豪華ゲストをお迎えしながら、ゲーム・カルチャーの真髄をえぐるクリティカル・トークを繰り広げていきます。

    第3回目のテーマは、世界的な盛り上がりが継続中の「eスポーツ」ムーブメントの実像について。
    古くからゲームセンターで育まれてきた日本の対戦ゲームコミュニティは、
    2018年の日本eスポーツ連合(JeSU)発足以来の「eスポーツ」化の波をどのように受け止めているのか。
    伝説のゲーセン「ゲームニュートン」のオーナーで、
    今年8月からはGaming Community Network(GCN)の活動を開始した松田泰明さん、
    個人
  • e-sportsはどう社会を変えるのかーー〈ゲーム〉と〈スポーツ〉の相克をこえて(前編)

    2019-11-11 07:00  
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    世界的なe-sportsの隆盛に対して、ようやくキャッチアップをはじめた日本のゲーム業界。日本のe-sportsはどのような課題に直面しているのか。PLANETS副編集長・中川大地がコーディネーターを務めた明治大学でのシンポジウムの記録をお届けします。前編では、SEGA・eスポーツ推進プロデューサーの西山泰弘さんとウェルプレイド株式会社代表取締役CEO谷田優也さんが、日本のe-sportsの状況について報告します。 ※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。
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    イントロダクション
    明治大学野生の科学研究所研究員の中川と申します。 土屋恵一郎学長からのアカデミックフェスの主旨説明でもあったように、これからの知のあり方の「楽しさ」を考えていくことが、この「e-sportsはどう社会を変えるのか」と題したセッションの役割になります。ニュースなどで耳にしたことがある方も多いかと思いますが、e-sportsというのは、いわゆるデジタルゲームを使った対戦競技です。これが2018年に入って、非常に大きく盛り上がってきています。 もともと日本には、1970年代からゲームセンターや家庭用ゲーム機で根強くゲーム文化を培ってきた土壌があります。対して、世界では主にPCでプレイするゲームタイトルを競技種目に、個人あるいはチームを組んだゲーマーたちが高額な賞金をかけて対戦するのを一種のプロスポーツとして観戦するといったシーンが、ここ15年ほどで急成長してきました。そのような海外主導の競技文化を輸入するかたちで、いまようやく国内でもe-sportsブームが起きているという状況です。 こうしたゲームをめぐる異文化接触が、どのように社会を変えていくのかということを、今日は楽しみながら考えていきたいと思っています。実はこのセッションの後、「明治大学学長杯 三種混合e-sports大会」として、実際に大学でe-sports大会を行ってみようという取り組みを準備しています。その主旨紹介も兼ねたかたちで、今回のセッションを進めていきたいと思います。 最初にご登壇いただくのは、午後のe-sports大会の競技種目の一つである『ぷよぷよeスポーツ』のベンダーであるSEGA eスポーツ推進室プロデューサーの西山泰弘さんです。
    e-sportsとは。そして何が生まれるんだろう。
    日本におけるe-sportsの現状
    皆さん、SEGAの西山と申します。私からは、「e-sportsとは。そして何が生まれるんだろう。」と題して、日本におけるe-sportsの現状や、SEGAのようなゲーム会社の立場からはどう見えるかというスタンスについて、私の個人的な考え方も交えながらご説明させていただきます。 まず、e-sportsとは何かについてですが、ゲームを通してプレイヤー同士がスキルを駆使して対戦することに加えて、ゲーム大会とその環境下でのプレイヤーとファンの共感の場、といった捉え方をさせていただいています。つまり、プレイヤー同士が競う大会が、観客を集める興行として行われるという構造があるわけです。 たとえばスポーツというカテゴリーには、個人的にキャッチボールをしたり、学校の運動会でリレーをしたり、さまざまな内容が含まれていますが、そのようなアマチュアの活動が裾野になって、プロ野球を観たり、オリンピックで応援したりする人たちがいます。あるいは関連グッズを売ったり、それを買ったりする人たちもいて、プロスポーツという興業が成り立っています。そのような活動を全部含めて、私たちはスポーツと呼んでいます。 ゲームについても同じことが言えるわけです。家庭でゲームを買って、ちょっと友達と対戦することもあれば、ゲームセンターやオンラインで見知らぬ誰かと対戦することもある。そこからいまではプロゲームプレイヤーと呼ばれる人たちが登場して、自分でプレイする以外にも試合を視聴したり、ファンとして同じ場を共感するという、スポーツビジネスと同じようなシーンが成立してきています。このような状況を指してe-sportsという表現があるのだと思っていただくと、わかりやすいかと思います。 国内でe-sportsが話題になっている背景には、2018年の2月に「JeSU(日本eスポーツ連合)」という統一団体が発足したことがあります。それまではe-sportsの業界団体は四つほどあったのですが、オリンピックやアジア大会、あるいは国体などの国内外のスポーツ競技大会に日本の選手が出場する場合の派遣主体になったり、競技種目となるタイトルの版権をもつゲーム会社とのあいだでの権利処理をしたり、あとは大会で選手に賞金を出す際の法律的な問題をクリアにするための窓口として、一つに統合したわけです。 そのような動きを受けて、国内のゲームメーカー各社も本腰を入れ始めて、2018年は「e-sports元年」と言われるようになりました。たとえば、私がいるSEGAグループ内でのe-sportsの事業部も4月に立ち上がりましたし、5月にはコナミの『ウィニングイレブン[註1]』が2019年に開催される国体文化プログラムに協力する告知があり、さらには、8月にジャカルタで開かれたアジアカップに採択されています。9月の東京ゲームショウでも、2017年のVRに続いてe-sportsがゲーム業界のいちばんのメイントピックとして扱われるような状況が生まれています。
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  • 宇野常寛 モラトリアムを受け止めるために――山下敦弘と「間違えた男たち」の青春(PLANETSアーカイブス)

    2019-11-08 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、宇野常寛による山下敦弘論です。『マイ・バック・ページ』以降、従来のモチーフを捨て、「少女」を撮り始めた山下監督の新たな展開とは――?(初出:『観ずに死ねるか ! 傑作青春シネマ邦画編』鉄人社) ※本記事は2014年6月12日に配信された記事の再配信です。
    ■前田敦子の正しく死んだような目
     
     去年(2013年)の夏のことだったと思うのだが、山下監督と夕食を食べる機会があった。意外なところに共通の知り合いがいて、じゃあ久しぶりに、という話の流れになったのだと記憶している。
     僕の事務所のある高田馬場に監督はひょっこり現れて、世間話をしながら箸を進めた。監督と食事をするのははじめてだったけれど、よく飲む人だった。
     話題が一段落したところで、「あ、そういえばこれを宇野さんに渡そうと思って」と言って取り出したのが、「もらとりあむタマ子」のサンプルディスクだった。終電近くまで飲み食いして、自宅に戻ってすぐに観た。主役の前田敦子は、正しく死んだような目をしていた。もちろん、褒め言葉だ。
     本作において前田敦子が演じているのは、大学卒業後特に就職もせずに自宅でごろごろしている無職女性だ。自意識が強いくせに、いや強いからこそ何者にもなれない自分を受け入れられなくて、何もやろうとしない。そんなヒロインを前田敦子は十二分に演じてるし、いや、それ以上に前田敦子のあの、勃興期のAKB48の激流の中にあってもマイペースを守り続けたデタッチメントの姿勢はこのヒロインと高いシンクロニシティを発揮していたと思う。実際どうなのかはともかく、観ている人間に「あっちゃんって本当にこういう奴なんだろうな」と思わせる佇まいをこのヒロイン・タマ子は獲得しているし、それが山下監督の狙いだったのだとも思う。
     しかし、見終わったあと、僕には妙に引っかかるものがあった。もちろん、映画の出来に不満があったわけではない。企画の発端は監督自身から聞いていたが、なし崩し的に長編映画になっていった企画とは思えないくらい、過不足のない出来だったと思う。だから僕が引っかかったのは別のことで、それは言ってみれば山下敦弘にしては珍しく、この映画には自分自身の「いま」が現れてしまっているように見えたことだ。
     もっとはっきり言ってしまえばこの「モラトリアム」とはあっちゃんのことではなく監督自身のことだ、というのが僕の感想なのだ。
     
     
    ■「気まずい現実」を他人事としてしかコミットできない諦念
     
     山下敦弘はずっと青春映画を撮ってきた監督だと僕は思っている。たとえば90年代に青春期を過ごした多くの同世代の作家たちが、何も起こらない世界に暮らす、何ものにもなれない人たちの青春を描き続けて来たと言える。
     「政治と文学」という古い言葉が体現する世界と個人との距離感の問題は若者文化から後退して久しく、そんな「政治の季節から消費社会へ」のダイナミズムでものを語れた時代も(空騒ぎして見せることに意味のあった時代も)バブルの崩壊と同時に遠い過去のことになってしまった。その結果、90年代に多感なお年頃を生きた僕たちに残されたのは、そんな何もない世界(「終わりなき日常」でも「平坦な戦場」でもなんでもいい)でいかに生きて行くか、だった。だから彼らの作品とその観客達が往々にして自意識過剰なのは当然の話で、個人の自意識にどう決着を付けるのか、という問題だけがどこまでも肥大していったのが90年代のサブカルチャーであり、そんな90年代「サブカル」の自意識を引きずったまま中年になってしまった団塊ジュニア達の憂鬱の種はここにあるからだ。
     そんな時代を背景に山下という作家が撮り続けていたのは、自意識の問題だけが肥大せざるを得ない世界(何もない、何も起こらない世界)を受け止めながらも、自分の自意識語りでその欠落をすら埋められない、決して自分自身は主人公になり得ないという感覚だったと言える。もはや自分の人生と自意識しか語るべきことはない世界に放り出されていながらも、山下の描く世界の住人たちはその主人公としてドラマチックに自らを語る権利を与えられないのだ。山下の映画に登場する人々は、「カッコ悪い自分/何ものにもなれない自分の自意識を語る」ことでその無様さを引き受けている自分という最後のナルシシズムの砦すらも奪われている。
     たとえば「リアリズムの宿」(03)の二人組の佇まいそのものがそうだし、「どんてん生活」(99)のラストシーンで示される滑稽で不格好な「気まずい現実」でさえも他人事としてしかコミットできないという諦念がそうだ。「その男・狂棒に突き」(03/短編)の他人の滑稽さを通してしか世界を眺めることのできない寂しさの背景にあるのも、こうした諦念だろう。
     矮小で滑稽なものにすぎない個人の自意識の問題に開き直り、それを語り続けることでしか当事者になることができない(「平坦な戦場」を生き延びることができない)のが90年代のサブカルチャーに仮託された若者の感覚だとするのならば、そこから半歩ずれた山下敦弘の映画が切り取っていたのは、その矮小さと滑稽の当事者にすらなれないという絶望未満の諦念だったのだと僕は思う。
     
     
    ■撃つべき対象が見つからない
     
     だから「松ヶ根乱射事件」(06/同作はある時期までの山下映画の集大成と言える)の結末で主人公が「乱射」するのは、彼が撃つべき対象を見つけられないからだ。撃つべき対象(たとえば大文字の「政治」)を失い、自分自身しか撃てなくなった世界が90年代だとするのなら、山下が描いていたのは自分自身すら撃てない世界だ。だから松ヶ根乱射事件の主人公・光太郎は銃を「乱射」するしかなかったのだ。そう、「乱射」とはターゲットを持たない狙撃のことをいう。自分という物語すら信じられない光太郎は撃つべき対象をどこにも(自分の内面にすらも)見つけられず、「乱射」するしかなかったのだ。
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  • 土屋恵一郎×門脇耕三×宇野常寛 「知」のリブランディングーー人工知能時代の「人知」と「身体」、そして大学の意味を考える(後編)

    2019-11-07 07:00  
    550pt

    今朝のメルマガは、土屋恵一郎氏、門脇耕三氏と宇野常寛の対談の後編です。インターネットとマーケットによって変貌しつつある「知」を、大学はいかに取り込むべきか。新たな公共圏として都市に開かれた空間、アジールとしての大学のあり方を考えます。 ※本記事は「明治大学アカデミックフェス2018」(2018年11月23日開催)での各種プログラムを収録した電子書籍『知を紡ぐ身体ーー人工知能の時代の人知を考える』(明治大学出版会)の一部を転載したものです。※前編はこちら
    2019年11月23日に「明治大学アカデミックフェス2019」が開催されます。学生・一般の方を問わず無料でご参加できますので、ぜひご来場ください。
    自分で自分を見る視線
    門脇 誰しもが漂流していくようなイメージになったとしても、ただ流されていればいいというわけではないはずです。われわれはどのように知的な漂流をすればいいのでしょうか。
    宇野 これは僕の一方的な大学に対する思いですが、大学には正しく漂流ができる場であってほしいと思っています。 たとえば、「“人文知”対“工学知”」という話題が人の口にのぼることもあります。まず現代は工学的な知が台頭してきている時代だという認識がある。要は、コンピュータの性能の向上によって、いろいろなことができるようになり、世界中の情報産業が次々と新しいサービスを発表してきています。それによって、人間はいままで体験しなかったさまざまなことを体験できるようになっていて、彼らはその膨大なデータをもっている。 しかし、彼らはそれをマーケットに最適化するだけなんです。彼らは確かに新しい人間性を結果的に発見し、切り開いているのかもしれませんが、それが人類にとってどういう意味をもつのか、人間という存在にとってどういう意味をもつのかについて考察することは基本的にありません。マーケットに最適化するだけです。それに対して、かつての人文知を中心とした大学アカデミズムや出版ジャーナリズムは軽蔑の態度を表明するだけで、何らアプローチしてこなかった。ろくに知りもしないで、情報技術と資本主義は人間を幸せにしない、的な「物語」を語るだけで済ませてきた。そういう不毛な二項対立があったわけです。逆に、工学知の人々の側では、あいつらは何をいまだに古き良きカビの生えた教養を守っているんだと考えているでしょう。そんなふうにお互いに軽蔑しあっている状況が、いまあるのだと思います。 しかし、大学は、本来そういうものが越境する場であるはずです。いまのある種の情報工学知の時代に、大学はそこに対して背を向けるのではなく、工学優位の時代であるからこそ批判的向学心の場であるべきでしょう。工学主導の人類のイノベーションを基本的には肯定的に受け入れつつ、それを批判的に検証することが新しい場の構築につながっていくのだと思います。
    土屋 企業が最近、大学スポーツのなかに情報機器を導入したらどうですか、と提案してくることがあります。たとえば、ドローンを飛ばしてラグビーの試合全体を情報化して、フォーメーションを分析してはどうかといったことですね。それは面白いなと私は思っています。体育会にも提案して、スポーツを情報化していくことはできるでしょう。 ただ、あえて歴史を振り返ってみると、実はそのようなことは昔から言われているのではないかとも思うのです。 たとえば、4~5年前にMITのメディアラボに行った時のことです。そこには日本人の研究者がいて、ドローン技術を説明する際に、世阿弥の「離見の見」という言葉が出てきました。おそらく彼は、私が能の専門家であるということは知らずに、「自分は知っているぞ」と思って言ったのでしょうね(笑)。しかしいずれにせよ、日本人が考えた「離見の見」という概念がアメリカで言及されたことには大きな意味があると思います。 「離見の見」とは、能の演者が自分の身体を離れて、観客の視点から自身の姿を見ることを言うのですが、それが意味するのは、自分を省みる時に、外側の目から見ることの大切さです。舞台で舞う時に、自分が舞うという意識だけでなく、自分が回されている、あるいは違う力によって抑えられて自分が回っているという意識が大事なのです。世阿弥はこれを常に説いていました。 ドローンを飛ばしてラグビーの試合を上から見て分析するということと「離見の見」とがどう違うのかと言うと、私はそれほど違わないと思うのです。そこにはやはり自分の身体を離れたところから見るという視点があり、このような視点は「自分がよそからの力に動かされている」という見方を生むはずです。 現在の学問は専門化が進み、その分野に精通した人間にしかわからないようなものになっている。つまりブラックボックス化しているわけですが、それを過去の知識に照らしあわせて捉え直していくと、もう少し話の広がりが出てくると思うのです。
    宇野 昔、吉本隆明が『ハイ・イメージ論』を80年代の終わりに出しましたね。あれはふつうに考えたら思いつきのエッセイで、ほぼ中身のないものと思われているようですが、いま読み返すと面白いんです。 あそこで吉本は「普遍視線」と「世界視線」と言っています。「普遍視線」というのは、われわれが水平のアイボールで見ている現実世界で、「世界視線」というのは、衛星写真のようなものであると。吉本は、これから情報技術が発展していくと、われわれはこの普遍視線と世界視線の両方をもつようになっていくだろうと80年代のうちに書いています。これ、完全にいまのGPSやライフログの話ですよね。 人間は、自分の身体を見ることが基本的にはできない生き物でした。コンピュータの発展によって何がいちばん変わったかというと、自分の身体を常に見ながら行動できるという点です。SNSだって、そうかもしれない。SNSはヴァーチャルな世界での一つの身体ですが、自分が常に見ているわけですね。つまり、いちばん変わったのは身体観のはずなんです。 いま世阿弥の話が出たように、どちらかというと、これは東洋的・日本的な世界観で、実際に吉本隆明がそこで引用しているのも、臨死体験の話です。臨死を体験する時、なぜかみな同じようなことを言う。死にそうになっている自分の身体を自分が外側から客観視しているという夢を見るんです。この自分が自分の身体を見るという経験は、宗教的な想像力や、われわれの死生観のようなものとも結びついています。 しかし、この状況はいまや日常化しています。それまでは宗教的な訓練を積んだ者だけが行けた高みが、カジュアルにGPSを実装している現代では、われわれの日常になっているわけです。そんな時代にわれわれの世界認識はどう変わっていくのか。この枠組みが、情報技術時代の身体の核にあると思います。
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