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  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき〈リニューアル配信〉第三章 オープンワールドと汎用人工知能(2)

    2020-08-14 07:00  
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    (ほぼ)毎週金曜日は、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんが日本的想像力に基づく新しい人工知能のあり方を展望した人気連載『オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき』を改訂・リニューアル配信しています。今朝は第三章「オープンワールドと汎用人工知能(2)」をお届けします。一般的な人工知能は「問題に立脚して」作られていますが、三宅さんは問題に立脚しない、汎用人工知能に人類の「他者」となる可能性を見出します。
    (2)人工知能の持つ虚無
    問題特化型人工知能
     「人工知能は稠密に作られる」というのは、人工知能は人間が設定した目標に達成するように、最適に作られていくことを意味しています。問題特化型の人工知能はその問題に向かって、というよりも、その問題を土台として築かれる人工知能です。つまり、問題特化型の人工知能は、問題を対象として構築されるというよりは、問題を立脚点として構築される、といった方が正しいでしょう(図3.15)。

    ▲図3.15 問題の上に構築される人工知能
     たとえば、工場のベルトコンベアでネジを締めるロボットを考えてみましょう。ロボットは目の前に来る部品のネジを締めるために、画像でネジを入れる位置を確認してアームでネジを締めるとします。このロボットアームはベルトコンベアで部品が流れてくる、という前提の上に固定されて設置されているわけですので、なぜ部品がそこに来るか、なぜネジを締めなければならないか、という問題は、人工知能が考える問題の外にあります。このロボットアームは問題の上で初めて成立する人工知能になっているのです。ベルトコンベアから外されればこのロボットは何者でもなくなってしまうのです。
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  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき〈リニューアル配信〉第三章 オープンワールドと汎用人工知能(1)

    2020-08-07 07:00  
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    (ほぼ)毎週金曜日は、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんが日本的想像力に基づく新しい人工知能のあり方を展望した人気連載『オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき』を改訂・リニューアル配信しています。今朝は第三章「オープンワールドと汎用人工知能(1)」をお届けします。東洋的な思想を通じて「存在としての人工知能」について論じた前回を踏まえて、今回はビッグデータやアルファ碁を例に取りながら、高度化していく人工知能の現状と未来について考察します。
    (1)果てのない世界のための人工知能
     前章までは、人工知能の内部構造について、東洋的知見に基づいて議論を展開してきました。要点としては、西洋的な問題特化型が機能的な性質の実現を目指すことに対して、存在としての根を持とうとする人工知能を、東洋的な人工知性という言葉によって表現したい、ということでした。この章では、その議論を踏まえつつ、方向を変えて、世界に人工知能を展開していくことを考えてみましょう。  2010年代前半から始まる、第三次人工知能ブームの特徴は、インターネットを通じて蓄積された膨大なデータ、ビックデータと呼ばれる集積されたデータを使って人工知能を学習させることで、人工知能のクオリティを向上させることです。しかし、それでも、人工知能はフレーム問題が解決されたわけではありません。フレームとは人工知能が物事を考える設定のことであり、たとえば将棋のような要素とルールからなります。しかし、人工知能は自らがフレームを作り出すことはできず、拡大して行く人工知能の活躍の場に際しても、問題ごとに一つの人工知能を割り当てているのが現状です。  現在のビックデータの解析においても、大変なのはビックデータ解析そのものよりも、ビックデータとしてデータをきれいに整備する、いわゆる「洗浄」(前処理)という操作です。解析そのものはアルゴリズムですから、いったん開始すれば人間は待つしかありません。知的な解析と解釈をアルゴリズムが実行してくれるという意味で、特にビックデータ解析は人工知能に向いた分野と言われるわけですが、しかし、その人工知能に与えるデータは、その人工知能がきちんと解析できるように、余計なデータを省いたり、データを簡単な関数で変換したり、結合したり、スケールを変えたりする必要がある場合が多くあります。最終的には、そういった操作自体も、解析プログラムの中で仕込んでしまえば良いのですが、そのデータが作られた「人間的な事情」があり、それを加味してデータを整備することもあります。たとえば、あるデータはその日、8分間の停電があったため、時刻が飛んだデータになってしまったとします。せっかくナンバリングしているファイル名も変える必要があり、そのように時刻が飛んだデータを解析することによる影響がどのくらいあるか、といったことはそのアルゴリズムを実行する人工知能ではなく、アルゴリズムの性質を知る人間にしか判断できないという問題があります。そうやって純粋なアルゴリズムの周囲に、アルゴリズムをうまく動かすための「工夫」を積み重ねていくときに担当者が感じるのは「世話がやけるなあ」ということです(図3.1)。

    ▲図3.1 人間、人工知能、人間という処理の順番
     かつて画像処理のアルゴリズムは、画像の特徴に応じてさまざまな手法を人間が組み合わせて探求する分野でした。色々な前処理、アルゴリズム、後処理などです。ディープラーニングは、そのような画像の特徴を自動的に抽出する「折り畳みニューラルネットワーク」という技術が織り込んであるために、自動的に特徴を抽出する機能を持っています。ここではニューラルネットが画像や映像の特徴を自動的に、マルチスケールで抽出してくれます。これを行動決定に使うと、画像処理のプログラムから人工知能のプログラムになります(図3.2)。

    ▲図3.2 画像処理から人工知能
     このように、人間が、世話をする部分が減り、人工知能の担当する部分が増えると便利になります。世話をするのは人工知能の実行前だけでなく、人工知能の実行後の部分も同様です。前の部分に対しては、人間は「準備が面倒だな」と思いますし、後の部分に関しては「ここまでやってくれたらなあ」と思うわけです。お掃除ロボットのために、最初にロボットが掃除をしやすいように家具を片付け、掃除の後に家具を元の位置に戻したりしながら、そう思われた方も多いかと思います。つまり、人工知能はできることが決まっており、また行う領域も決まっており、その舞台は人間が整えなければなりません。人工知能を運用するには、人間がした方がよい領域と、人工知能がした方がよい領域をよく知って運用する必要があります。そして、人工知能技術の発展はその境界を変化させます(図3.3)。

    ▲図3.3 人間、人工知能の住み分け、そしてその拡大
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  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき〈リニューアル配信〉第二章 キャラクターに命を吹き込むもの(2)

    2020-07-31 07:00  
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    (ほぼ)毎週金曜日は、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんが日本的想像力に基づく新しい人工知能のあり方を展望した人気連載『オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき』を改訂・リニューアル配信しています。今朝は第二章「キャラクターに命を吹き込むもの(2)」をお届けします。効率的な情報検索と正しい推論によって解答にたどり着くための「機能」を追い求める、西洋的な人工知能と、「存在」を奥深く探求しようとする、いわば東洋的な人工知性。前回に引き続き、東洋哲学の視点を参照しながら人工知能の構造を捉え直します。
    (3)混沌が持つ人工知能における意味
     こうした東洋的な混沌など引き合いに出さず、機能的な人工知能で充分ではないか、という意見もあります。しかし、「一つの自律した知性を作り出す」という目標は西洋の夢でもあり、同時に人工知能研究の上でも重要な方向の一つです。たとえ辿り着くことが遠くても、その道程には重要な知見と技術が横たわっているはずです。そして、その探求は人工知能という概念そのもの、あるいは知能という概念そのものさえ打ち破っていくことになるかもしれません。
    自律型カオス力学系
     「機能を突き詰めて存在へ至ろうとする」という方法もあります。現在の人工知能の枠の中で、知能を存在として作ろうとすれば、環境と人工知能の機能的相互連関の中で混沌を獲得するという手法、「自律型カオス力学系」と呼ばれる手法が適しています(図5)。

    図5 多数の要素が相互作用し発展する「力学系」のイメージ
     力学系とは「絡み合う複数の要素が時間と共に変化するシステム」のことです。特にこの力学系が「繰り返す動的な運動をボトムアップに持つ」場合には「自律型力学系」、さらに、外界からのインプットに関してセンシティブ(鋭敏)に運動を変化する場合に「自律型カオス力学系」と言います。イメージとしては、天井から吊り下げられたたくさんの振り子がお互い細い糸でつながれている場を想像しましょう。いくつかの振り子を力強く動かすと、力が伝搬して全体として複雑な振り子運動が生成されます。振り子は現実の物理空間の中にありますが、「自律型カオス力学系」の法則性を数学的に解析するためには、より抽象化された物理量で構成される位相空間を用いて記述する必要があります。これが、自然界に存在する一般の力学系のモデルです。  これと同様、私自身も知能を「外部環境と内部構造の相互作用による情報の混沌の中から自律生成されるカオス力学系」とみなして人工知能を構築するという試みに長い間関わってきました(これは私の博士課程の頃からのテーマでありました)。現在も続けていますし、またこれからもこの手法が最も有望であると感じています。
    人工知能のカオス存在理論
     ところが、このアプローチは人工知能の中に閉じている限り、とても数学的でトリッキーなものに見えてしまいます。このアプローチにしっかりとした基盤を与えようとするならば、まず哲学の領域から土台を築く必要があります。それもより深い基盤として、東洋的な思想の上に構築することが自然です。 というのも「混沌からすべてが生まれる」という思想は、東洋哲学においてこそ根源的なものであるからです。知能を作るという試みの中では、東洋と西洋の二つの知見がおのずと必要になります。なぜ、そうなるのかはわかりませんが、人工知能を作ろうとする行為は、まさにこの二つを世界の潮流を結び合わせる役目を持っているようです。 それは我々の見方を逆転させることでもあります。混沌を人為的に構成する、という見方ではなく、まず知能とは混沌であり、その表現として、「自律型カオス力学系」があるという見方です。ですから知能の根底である混沌を知ることこそが、知能を形成するための最大のヒントであり、それを「自律型カオス力学系」の力を借りて描き出す、ということでもあります(図6)。

    図6 人工知能と混沌、そして力学系
    ニューラルネットワークと混沌
     混沌は人工知能に存在を与えます。一つの混沌からの人工知能の作り方は、「リカレント・ニューラルネットワーク」を用いることです。ニューラルネットワークとは脳の神経回路を模した「電気回路シミュレータ」です。通常、ニューラルネットワークは多層構造を持っており(パーセプトロン型)、入力(感覚)から出力(判断)に向かって信号が進んでいきますが、リカレント・ニューラルネットワークは出力を入力にもう一度戻します。出力と入力が混じり合います。つまり感覚と判断が混じり合います。つまり客観と主観が混じり合います(図7)。  判断と感覚が混じり合うのがリカレント・ニューラルネットワークの特徴です。リカレント・ニューラルネットワークを動かしていると、次第に、このリカレント・ニューラルネットワークを構成する要素の間に「自律型カオス力学系」が出現します。正確には、その場合、ニューラルネットワークは少し複雑な構造を持つ必要がありますが、本質的には自己ループバック構造と世界とのインタラクションの中からカオスが生まれます。

    図7 リカレント・ニューラルネットワークと自律型カオス力学系
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  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき〈リニューアル配信〉第二章 キャラクターに命を吹き込むもの(1)

    2020-07-17 07:00  
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    (ほぼ)毎週金曜日は、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんが日本的想像力に基づく新しい人工知能のあり方を展望した人気連載『オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき』を改訂・リニューアル配信しています。今朝は第二章「キャラクターに命を吹き込むもの(1)」をお届けします。現在、学問的に研究されている実際のAIと、エンターテインメントで描かれるような理想の人工知能。遠く離れて見える両者の橋渡しと相互補完を、東西哲学の融合によって試みます。
    (1)機械論の果て
     サイエンスは常に機能を問い、哲学と宗教は存在の在り方を問います。サイエンスはあるところから存在云々の議論に拘泥するのをやめました。物が四大要素からできているとか、世界にエーテルが満ちているとか、そういう存在論をやめて、物事の性質と関係性を定量的・定性的に見出すことに専念することによって成功しました。それはちょうど十九世紀から二十世紀へ向けて起こった自然哲学から自然科学への完全な変化です。たとえば量子力学の黎明期には「物は波動か粒子か?」という議論がありました。この問いには現在においても答えがありません。ある場合には、たとえば電子がガイガー管などの実験機器に捕まえられる場合には「粒子」と捉えた方が便利ですし、トンネル効果など物質が物質を透過する現象の場合には「波」と考えます。物質(ここでは量子)とは、粒子としての性質と、波としての性質を持つ、と捉えるのです。これを「波と粒子の二重性」と言いますが、そこにあるのは解釈のモデルであって物事の本質に対する哲学的な思索ではないのです。そうやって物理学はソリッドな学問になり、まさにそれゆえに成功を続けてきました。  「自然界を最も単純に説明できるモデルを採用する」というのが自然科学の原理です。これを「オッカムの剃刀の原理」と言います。サイエンスは現象を説明するモデルの中で最も簡単なモデルを採用する、という原理です。  一方、エンジニアリング(工学)は本来「なんでもあり」の分野ではありますが、サイエンスの影響を受けて、物や、物と物との関係性の中から人間に有用な機能を見つけ出す、新しい物質を見つけ出す方向に発展しました。人工知能もまた、このようなエンジニアリングの流れの中にあります。  エンジニアリングは常に機能を追い求めます。「人工知能というエンジニアリングはいかなる知的能力を機械の上に実現できるか」を探求します。人工知能の能は「能う(あたう)」、つまり能力の能であり、そこでは機能的(ファンクショナル)なものが志向されます。例えば、自動翻訳、自動運転、自動リコメンドなど、社会で実装される知能とは常に機能的なものです。ところが、そこに欠けているものは、人工知能という存在の根、あるいは主体(サブジェクティブ)です。 では、機能ではなく、存在としての人工知能とは何なのでしょうか?
    人工知能の存在論をもとめて
     人工知能は「知能を作る」という大それた、工学としてはいささか突飛な角度から来たために、多くの批判と蔑視を受けてきました。そこで学問としての人工知能は、「きちんとした学問」と認知されるまでに、特に日本においては30年以上の年月を費やしました。ただ、その間に、人工知能が本来的に持っていた「学問らしくない部分」、知能の存在論は削ぎ落とされ、スタイリッシュで、アルゴリズムを基本とする「情報処理としての人工知能」へと変貌していきました。それは人工知能を誰もが学問として受け入れられるものにするために行われてきた、長い時間にわたる研究者の意識的・無意識的な努力の賜物と言えるでしょう。 たとえば、自然言語処理という分野は、自然言語の記号的側面から研究します。発話者の人格、立場、状態、生理といった発話の起源に踏み込むことなく、発話された結果、書かれた結果のみを対象とすることで、工学的な発展を遂げています。しかしその結果、背後にある知能の発露の起源である混沌は隠されてしまうのです。
     我々人間は、自分たちがこの世界に根を下ろしているように、人工知能にもまたこの世界に根を下ろしていることを期待してしまいます。しかし通常のエンジニアリングに表れる人工知能は知能の機能的側面であり、存在から見ると一番表層的な部分です。しかし、存在がなければ機能はなく、また機能のない存在というものも考えられません。機能を追い求める人工知能と、さらに存在を奥深く探求しようとする、いわば東洋的な人工知性は、人工知能という分野に横たわる時間に沿った横糸と、時間を超えようとする縦糸なのです(図1)。

    図1 人工知能の二つの軸、時間に沿った機能と時間を超えた構造
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  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき〈リニューアル配信〉 第一章 西洋的な人工知能の構築と東洋的な人工知性の持つ混沌

    2020-07-10 07:00  
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    (ほぼ)毎週金曜日は、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんが日本的想像力に基づく新しい人工知能のあり方を展望した人気連載『オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき』を改訂・リニューアル配信しています。今朝は第一章「西洋的な人工知能の構築と東洋的な人工知性の持つ混沌」をお届けします。今日の人工知能を生み出すに至った、機械論的な知能の構築を試みる西洋の思想。混沌から知性を「削り出す」東洋の発想との相互補完によって開かれる、人工知能の次の可能性について提案します。
    1. 東洋的な人工知性の在り方
     荘子の名言の一つに、

    斉人之井飲者相守也。(列御冠篇 二) (斉人の井に飲む者の相いまもるがごときなり。) ちょうど凡人が井戸の水を飲むのに、自分の水だからお互い飲ませないと言って、お互い守りあっているようなものだ

    という一節があります。「井戸の水は井戸を掘ったものが自分で作ったものと思い込んでしまうが、自然から湧いているものだということを忘れている」、という意味です。同じように、人工知能を作ることは、作ったものが設計に基づいて実現したと思っています。しかし、東洋的な考えではそうではない。最初からそこにあったものを掘り出している、と考えるのです。オーギュスト・ロダン(1840-1971)が、石の中に眠っているものを掘り出す、と言ったごとく、電子の海から人工知能を掘り出すのです。  しかし、東洋から人工知能は生まれませんでした。東洋でもおそらく時間が経てば、自然発生的な存在として人工知能を生み出すことができたでしょう。おそらく、まずは人工生命があり、その次に人工知能を生み出す、ということになっていたでしょう。しかし急速な西洋の人工知能の発展がそれを許しませんでした。東洋において自然発生的な人工知能が育つ前に、西洋的な人工知能が世界を席巻してしまった。歴史に「もし」はないにせよ、もし東洋から人工知能が生まれる可能性があったとすれば、西洋的な構築による人工知能ではなく、プログラムと電子回路とノイズの混沌とした空間から、知能の形をしたものを抜き出す、という方法に依ったことでしょう。あるいは、混沌をそのままに、そこからエレガントな思考を引き出す仕組み、として人工知能を作ったことでしょう。歴史がそうならなかったのは、そのような混沌を作り出すまでの計算パワーと手法がそれまでに生まれなかったことによります。 逆に考えれば、これからそういった創造と研究が推進されることで、西洋のカウンターとしての「人工知性」が生まれることでしょう。日本や中国のコンテンツには、ネットの海から人工知能が自動的に生成するというストーリーがよく見受けられます。そこには、東洋においては人工知能ですら、自然発生的なものであるはずだ、という強い八百万的思想が潜んでいるのです。
    2. 構築と混沌(I)思考とノイズ
     人間は脳も身体も同じニューロン(神経細胞)から構成されています。身体のニューロンにはほとんどノイズがありません。だからこそ身体を正確に動かすことができます。一方、脳のニューロンはノイズだらけです。アクティブに活動していないニューロンでさえ、さまざまなノイズの中で活動しています。脳の活動の90%は「無駄な」活動をしていると言われています。おそらくノイズによって、至るところで微弱なニューロンが発火しているのでしょう。  脳は決して、一つの問題に対してたった一つのエレガントな解答を実現する器官ではありません。さまざまな可能性の思考を同時に走らせたり、あるいは次に来るべき思考を準備してバックグラウンドで走らせたりしています。複数の思考が、顕在的にも潜在的にも走っていて、それぞれが競争と共創の中にあり、主導権を取ろうとしています。正確には、環境の多様な変化に最もマッチした思考が勝者となり、主導権を握ります。その柔軟性の高さの代償として、ほとんどの思考は戦いに敗れて無駄な思考として終えることになります。あるいは果たせなかった役割を夢の中で実現しようとします。夢は現実に適さず用いられてなかった思考が現れる場です。  一つの勝ち残った思考が意識に上っていると、それ以外の思考は無駄になったように見えます。しかし、雷が雲から生まれるように、混沌という母体がなければ、一筋の思考は生まれません。我々は困難な場面や問題に直面し、考え続け、己を混沌そのものにし、己の中の混沌を活性化させ、そこからエレガントな思考を生み出します。それは思考のドラマなのです。  しかし、現在の人工知能に与えられているのは、そうした混沌から立ち上げるドラマチックな思考ではなく、筋道のついた出来上がった後の思考を、うまく工学的に再現する思考です。現代の人工知能では、問題がなければ思考はない。そして、現在の人工知能には問題を自ら作り出す力も必要もない。人間が、考えるべき要素とそれに対する操作を教えて、設定したゴールへ向かって計算させるのが、現代の人工知能の姿です。「考えるべき要素、それに対する操作、設定されたゴール」のセットはフレームと呼ばれ、これに関して人工知能は3つの制限を受けます。

    1. 人工知能は自らフレームを作り出すことはできない。 2. 人工知能はフレームの外に出ることはできない。 3. 人工知能は与えられたフレームだけしか解くことはできない。

     人工知能が得意なのは「閉じられた問題」です。それは未知の要素がない、という意味です。「閉じられた問題」としてフレームが与えられる時、人工知能は問題を解くことが出来、また人間よりも圧倒的に優秀な答えを出すことができます。将棋、囲碁、自動翻訳、リコメンドシステム等、データの世界の閉じた問題に対しては、人工知能は遅かれ早かれ、人間より圧倒的に優秀になります。 ところが、フレームの外へ一歩出ると、人工知能はまるで無力になります。たとえば、コンビニの店員のロボットを作ったとして、その人工知能を搭載しても、想定外の出来事に対しては何もできません。犬がコンビニに入って来た時の対処法がもしプログラムされていなければ、動きようがなく、完璧なお料理ロボットも鍋の取手がいきなり壊れたらストップするしかない。お掃除ロボットが動く前に部屋を片付けておく必要があるように、人工知能ができることは想定したフレームの中の課題です。ディープラーニングによる強化学習では、学習の仕方には自由度がありますが、囲碁AIが囲碁以外の何かを出来るようになることはありません。人工知能がフレームの外に出ることができない。これが「フレーム問題」です。
     人工知能はフレームの中で動作します。そして、その問題をできるだけエレガントな思考で、できるだけコンパクトな計算とメモリで実現することが人工知能でもあります。そこには無駄があってはならない。それは通常のプログラムの宿命です。プログラムの完成には、できる限り無駄をそぎ落とそうとする力が働きます。それは先に指摘したようにオートメーションの延長としての流れの中に人工知能があるからでもあります。  そうやって西洋の人工知能は、徐々に閉じられた問題の中に限定されていくことになります。閉じられた狭いサーキットの中で、無駄のない、隙のない、高速なプログラムとしてやせ細っていくことになる。それを解放できるのは東洋的な人工知性の考え方です。この章では、西洋的な人工知能と東洋的な人工知性がいかなる対立をなし、お互いを解放できる力を秘めているかを示していきます。
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  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき〈リニューアル配信〉 第零章 人工知能を巡る夢

    2020-07-03 07:00  
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    今回から(ほぼ)毎週金曜日に、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんが日本的想像力に基づく新しい人工知能のあり方を展望した人気連載『オートマトン・フィロソフィア──人工知能が「生命」になるとき』を改訂・リニューアル配信します。イントロダクションとなる第零章では、人工知能はいかにして誕生したのか。その背景となった西欧世界における医学・工学・哲学の発展史を踏まえつつ、人工知能と東洋的思想との接続の可能性について考えます。
    1. 知能とは何か?
     「知能とは何か?」という問いは人間の最も深淵な問いです。しかし、この問いを思索のみから探求することはできません。この問いの答えを得るためには、思索し、行動し、仮説を立て、実験し、実際に作ってみて、再び反省する、という哲学、科学(サイエンス)、工学(エンジニアリング)の絶え間ない連携した活動が必要です。それが人工知能という試みです。 本連載では全十章にわたって「知能とは何か?」を探求します。その方向は三つあります。一つは「知能を解明する」という純粋なサイエンスの探求、一つは「知能を作る」というエンジニアリングの探求、一つは「知能とは何か?」を探求する思弁的な哲学探求です。この三つの探求を同時に行うというのが、人文科学、自然科学、哲学を横断する「知能学」そのものの姿です、この3つを少し詳しく見ていきましょう。

    図 人工知能をめぐる活動
    2. 三つの探求のクロスロード
     「知能とは何か?」という問いは哲学的な思弁の深淵へ向かって軌道が伸びている一方で、実際に知能を作り出そうとするエンジニアリングの可能性の平野が広がっています。また作ることで知るのがエンジニアリングなら、知るために分解していくのがサイエンスです。知能を知ろうというサイエンスは、多面的なサイエンスであり、一つの分野の形を取らず心理学、精神医学、生物学を横断しています。また社会学や人類学など、あらゆる人文科学は、「知能とは何か?」という問いの周りに展開された科学である。これが知能をめぐる学問「知能学」の持つ地平です。  人工知能を生み出す人間の欲求は、科学、工学、哲学の三つの衝動に起因しています。

    科学的衝動 「人間や動物の知能を分解して理論を作りたい」 工学的衝動 「人工知能を作り出し、実際に世の中を変革したい」 哲学的衝動 「知能と人工知能の探求から、生きている意味を解明したい」

     人工知能に関わる人々がこのような欲求を持つのは、人工知能が人間から独立した対象として生み出す機械やソフトウェアと異なる傾向があるからです。知能とは我々自身であると同時に、探求し作り出す対象です。この二重性を持つという事実が、通常の科学と人工知能の探求の様相を大きく異なるものにする要因なのです。

    図 人工知能をめぐる三つの欲求
     我々は知能を内側から生きている存在です。人間という(自然)知能が(人工)知能を作り出そうとするというトートロジーの中に「人工知能」の開発の運動はあります。人工知能を作ろうとする者にとって、知能は対象であると同時に、我々自身をもう一度作り出そうとする「鏡像構造創造的な体験」です。常に自己を見つめつつ、その写し姿を電子回路の中に掘り起こしていく。そこで人工知能という分野は、知能を対象化することでサイエンスとなり、 自らを探求するという意味で哲学的となり、それを作り出そうとする意味で工学的となるのです。
    3. 知能感受性
     知能には知能を感じ取る力があります。これを私は知能感受性と呼びます。知能を感じ取る力、この人はこんな知能があるな、この熊はこんな知能を持っているな、このキャラクターはこれぐらいの知能を持っているな、という総合的に知能を感じ取る力です。誰もが持っている力ですが、適切な言葉がないので、こう呼ぶことにします。これはゲームAI開発の現場で私が作り出した言葉です。ユーザーにこのキャラクターをどんなふうに知能として感じてほしいか、という点を実現することにデジタルゲームのAI開発は終始すると言ってよいでしょう。  知能感受性は五感を基にしていますが、より高次の総合的な感覚です。知能は知能に対して厳格です。動物にせよ、生物にせよ、相手の知能を感じ取ることは自分の生存に切実に関わる問題だからです。初めて会った相手に、森で出会う動物に、敵に、どのような知能を感じ取るかということで、動物は行動を決定します。  この鋭敏すぎる感覚は、時にあらゆるものに知能を見出すことになります。風に、森に、川に、あらゆる森羅万象に知能を感じ取る。この知能感受性のありようをめぐって、人類は大きく二つの文化圏を形成してきました。  一つは、あらゆるものに平等に知能を見出す「森の文化」です。いわゆるアニミズムや多神教における「八百万の神」感であり、あらゆる生命を横のつながりの中で捉える感覚です。もう一つは、ユダヤ教やキリスト教といった一神教の文化圏に特徴的な、極めて対象化され序列化されたかたちで知能を捉える「砂漠の文化」です。この文化を土壌にして、「神―人間―機械」という縦の知能の序列を与える人工知能という発想が生まれました。 この二つの文化は、必ずしも特定の地理的・歴史的概念に結びつけられるものではありませんが、便宜上、前者の森の文化を東洋的、後者の砂漠の文化を西洋的と本連載では呼ぶことにします。
    4. 擬人化・自動化・知能化
     「擬人化」という言葉があります。世の中にあるいろいろなものを人に見立てて、話しかけたり聴き入ったりすることです。人は人の似姿を求めます。ファンタジーや神話ではいろいろなものが人の似姿を取ります。コンピュータが出現する以前から、人は自らの知能と良く似たものを作り出したいという欲求を持っていたのです。  一方で、「自動化」という思想があります。人間が行ってきた肉体労働・知能労働を機械に代行させるという思想です。そういった欲求は当初は産業革命で「オートメーション(自動化)」という形で明確化され広められました。まずは身体の「自動化」がなされ、たくさんの機械たちが人間の代わりに力仕事を、ロボットは物理的な組み立ての仕事をするようになりました。その本質的延長として、人間の頭脳の中の活動も、同じ動力で再現できたら、というアイデアが出てきたのでしょう。「フランケンシュタイン」(メアリー・シェリー、1818年)、「R.U.R.」(ロボットの語源、カレル・チャペック、1920年)、が書かれたのも、そんな産業革命以来の「自動化」の流れの中であったと考えられます。  さらに、「知能化」という概念があります。これは現在、第三次AIブームと呼ばれている2010年代以来の潮流の中で、「ディープラーニング」と並ぶ最も大きな特徴です。「知能化」とは、ロボットやゲームキャラクターのように、一つの新しい知能をまるごと生み出す、のではなく、既にあるものに知能を付与する、というアプローチのことです。 ドアに知能を付け登録した顔の人にのみ開く、デジタルサイネージ(電子ポスター)にカメラを付け前に立った人物を認識して広告を変える、自動車に知能をつけて自動運転をさせる、家電に知能をつけて入れたものを判定して自動的に食料や調理をアレンジする、などの事例が、これに該当します。このように環境に「知能」的なプログラムを付加することで、現実を変革していくというのが「知能化」です。  人工知能はこの「擬人化・自動化・知能化」の三つを内包しており、「エージェント化、オートメーション、インテリジェンス化(スマート化)」と呼ばれます。それぞれの背景には、人間の人工知能への錯綜した欲求が隠れています。
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  • 【特別寄稿】三宅陽一郎「解題『正解するカド』」【PLANETSアーカイブス】

    2020-06-12 07:00  
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    今朝のPLANETSアーカイブスは、2017年放送のアニメ『正解するカド』について、ゲームAI開発者の三宅陽一郎さんによる寄稿をお届けします。『2001年宇宙の旅』や『スタートレック』といったSF作品の系譜を継ぐ、正統的な「ファーストコンタクトもの」である本作。異方存在ヤハクィザシュニナの現代性、そして、この物語が最後に辿り着いた「正解」とは?(※注意:本記事には作品に関するネタバレがあります)※この記事は2017年7月12日に配信した記事の再配信です。
    カド
     『正解するカド』は、大ヒットとなったフル3D劇場アニメーション『楽園追放』(2014年)を放った東映アニメーションが、同作品の野口光一プロデューサーの指揮のもと、ユニークな作品群で注目を集める野崎まど氏を脚本に擁し、満を持して放つフル3Dテレビアニメーションである。ゲームエンジンUnity3Dを用いた計算による表現が「カド」の時間結晶運動の表現に用いられている。
     『正解するカド』は彼方からやってくる存在「異方」との出会いの物語である。それは極めて仕組まれた出会いであり、「ファーストコンタクト」と言ってもまったく一方的な出会いである。それは降臨と言ってもいいし「押しかける」と言ってもいいし、あるいは「取り立てる」と言うべきかもしれない。何百億年と異方から長らく宇宙を見守っていた存在が、満を持して会いに来た、そんな出会いなのである。

    図 「正解するカド」設定見取り図
     出現する異次元からの立方体は「カド」と呼ばれる、多次元の存在が幾重にも折りたたまれたフラクタル立方体である。第一話で飛行機をまるごと飲み込んでしまうが、乗客の安全は保障される。飛行機は一つの比喩であり、いつでも地球全体を飲み込めることを暗示している。「カド」は人類を超えた圧倒的な存在であることを証明したのだ。「カド」は3次元の空間ではなく、この宇宙とは異なる物理法則を持つより高次元の存在(3+37次元)である。「カド」によって「異方」より来たりしは「ヤハクィザシュニナ」一人である。その高次元の存在体は、人間の警戒心を抑えるために白い装束に身を包み、真っ白い髪を持つ男性として顕現する。人間の言語を一瞬で学習し、人間とのコンタクトを始める。物語はこのカドを代表する「ヤハクィザシュニナ」と、人類を代表して外務省 国連政策課の交渉官(ネゴシエーター)である「真道幸路朗(しんどう・こうじろう)」との交渉を軸として展開される。

    ヤハクィザシュニナ(1)
     ヤハクィザシュニナの東洋的な姿、そして彼がそこから来た場所である「異方」はその根底に東洋的神話を思わせる。一つの世界に、その世界に属さない客人(まろうど)、あるいは「まれびと」として現れる存在である。世界に新しい兆しをもたらし、去って行く存在である。
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  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第十章 人と人工知能の未来 -人間拡張と人工知能-(後編)

    2019-06-04 07:00  
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    ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。第十章の後編では、人工知能が人類の芸術や歴史に及ぼす影響について考えます。ネット空間で人間に代わり活動を始めるAIたち。そして「余暇」を得たAIが文化を生み出す可能性とは――?
    (5)時代と文化に干渉する人工知能
    これまで歴史や文化を作ってきたのは人類だけでした。シュールレアリスム(超現実主義)のように無意識の領域さえ使って、我々は人類の歴史、人類の意思による芸術を作り上げて来ました。 しかし、大袈裟な言い方をすれば、人工知能を作るということは、人工知能を起点としてもう一つの文明を作り上げることでもあります。なぜなら、人工知能に息吹を与えようとする根源的な欲求の中には、我々人間全体をそこにコピーしておきたい、という本能的なものがあるからです。個人、集団、そして文明は、長い目で見れば「人工知能社会に写されていく=人工知能に模倣されていく」ことになります。 人工知能を作り出すことは、人間の内にあるものを一度外部化することで眺めてみたい、ということでもあります。外部化の究極の形は、人工知能の自律化であり、人工知能と人間の対等化です。人工知能開発者にとっては、人間を超えるまで開発を進めるということになります。 個人の知能を人工知能に移した次は、人間社会を人工知能社会に移すことになります。この分野は、前章で説明したように「マルチエージェント」とか「社会シミュレーション」と言われる分野です。この分野の成果はやがて、現実世界に人工知能社会を実現するために用いられることになります。我々は自分自身を知るために、人工知能を作り続けます。デジタルゲームが作られる動機の一端もそこにあります。画家が風景を写すように、ゲーム開発者は世界の運動(ダイナミクス)をゲームに移し、人をプレイヤーとして招き、人間の行為をゲームのプレイヤー行為として再現するのです。 既に物理世界とネット世界の二重世界を生きる我々は、二つの世界が分かち難く結びついていることを知っています(図9)。しかし、我々はデジタル世界ではあまりにも無力です。そこで人工知能エージェントの助けを借りて活動しているのが現在のネットの在り方です。しかし、本来ネットワークの世界は人間よりも人工知能が活躍しやすい世界です。ここからは人工知能開発者の中でも意見が分かれるところですが、私は最大限の自由度を人工知能に与えたい、と思っています。人工知能が作る社会、人工知能社会が生み出す文明を、そして芸術を見たい、という欲求があります。そして、それを自分自身の手で生み出したい、と思っています。
    ▲図9 物理空間とネット空間の二重構造
    (6)人工知能エージェントの作る世界
    ネットの世界が人工知能エージェントの世界になるのは、それほど遠い先ではありません。それはネットの世界においても、エッジ(個人の端末)においても、です。人間の手によってようやく保たれているネットの世界もエージェントたちよって保たれるようになります。荒れ放題のSNSも人工知能の介入により見えざる手によって調停され、目の離せないソーシャル・ゲームの運営も、エージェントたちに任せることができるようになります。 現在は、人がネット世界に張り付いてネット世界を動かしています。人は今、直接ネットの世界に参加しているような感覚ですが、それはインターネットの過渡期の一時的な状況に過ぎません。やがて、自分の分身であるエージェントを介して、ネットに参加するようになるでしょう。そして、物理世界はネット世界とますます連動の度合を高め、現実世界と同等のスケールのネット世界ができることで、あらゆる場所は物理世界とネット世界の座標を持つことになります。現実世界を変えることはネット世界を変え、ネット世界を変えることは現実世界を変えることになる、そんな未来が待っています。 2010年以降、IT企業がネットビジネスで得た資金で、ロボット企業を買収しています。工場ロボット以外のロボットはビジネスの目算が立てにくかったところに、ITネット産業がドローンやロボットの企業を買収することで、ネット世界から現実世界へと干渉の領域を広めつつあります。エージェントという視点から見れば、ネットやアプリ内の見えないネットエージェントから、現実世界の見えるエージェントへと変化したことになります。人工知能という視点から見れば、チェス、囲碁、将棋、デジタルゲームという揺籠で育まれて来た人工知能が、いよいよボディを持って現実世界に進出する、ということになります。 現実世界への人工知能エージェントの進出は、たどたどしい一歩です。しかし、ロボットやエージェントたちは単なる労働力にとどまりません。人工知能を持った存在として、現実の中で知的活動を果たすことができます。スマートシティという観点からすれば、それは街全体を管理する人工知能の手足となります。人間が目指す社会のデザインは、人間だけで成し得るのではなく、人工知能と共にデザインして行く必要があります。 人工知能企業の中にはエージェント技術を前面に出す企業も現れるでしょう。実はこの動きは00年台前半にも「エージェント指向」という名前で盛り上がろうとした分野でした。しかし、あまり世間では流行ることなく基礎技術の一つとしてブームは終わってしまいました。「エージェントアプローチ 人工知能」(1997年、第二版2008年、Stuart Russell 、Peter Norvig 著、古川 康一監訳)をはじめ、たくさんの良書も出ましたが、ユーザーのレベルまでは人口に膾炙することはありませんでした。しかし、どんな技術にも周期があります。だからこそ、エンジニアは技術を公開し積み上げておく必要があります。エージェントはこれからの人工知能社会を構築する単位となります。
    (7)芸術と人工知能
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  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第十章 人と人工知能の未来 -人間拡張と人工知能-(前編)

    2019-05-08 07:00  
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    ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。最終章となる第十章では、人間と人工知能の未来の関係について考えます。人間を拡張するAIと、自律的な知性として存在するAI、両者は相互に影響を与えながら、より高度な社会を構築していきます。
    (1)人工知能と人類の未来
    人工知能は人類の未来に深く干渉しようとしています。ここでは、人工知能がいかに人間の文明を変えていくかを考察して行きます。 この300年近くの人類の技術の歴史を振り返ってみましょう。それはあるレベルの技術の飽和と、そこからの飛躍の歴史です(図1)。まず機械の蔓延が、それを制御するコンピュータを生みました。コンピュータの蔓延はそれをつなぐネットワーク世界を呼び寄せました。ネットワークの上の膨大な情報の海が人工知能の温床となりました。飽和は質的な変化を生み出す土壌です。量が質を生みます。では人工知能の蔓延は次に何を生み出すのでしょうか?
    ▲図1 技術の階梯
    人工知能の飽和は、いたるところ(ユビキタス)に人工知能の機能が飽和することです。ちょうど機械がいたるところにあるように、コンピュータがいたるところに置かれているように、ネットがあらゆる場所でつながるように、人工知能があらゆるところで機能するようになります。それは次の二つのものを生み出すと予想されます。 人工知能の技術が実装される場所は、大きく分けて二つあります(図2)。一つは身体に付随する場所・空間・社会へ「知的機能」(インテリジェンス)として実装されます。それは人の身体から始まって、人を囲う空間に人工知能を埋め込み、人の行為と知覚を拡大します。それは人の身体を拡張すると同時に、人の作用する空間を変容させ、最後に人の意識を変化させます。例えば、遠くにあるものを瞬時に認識し操る、靴が行き先の方向へ導いてくれる、本の表紙を見ただけで要約が表示される、視線を動かすだけでコンピュータを動かす、スケッチしただけできちんとした絵に修正される、全ての言語が瞬時に訳される、などです。それはあたかも、人間の知的能力(知能)と身体能力が拡張されたように思えます。これを「人間拡張」(Human Augmentation)と言います。つまり人間を中心として世界に向かって人工知能が実装されていきます。それは現在から見れば、人間と人工知能が融合して人間が拡張されることを意味します。 もう一つは人間とは関係ありません。これまで蓄積されて来たあらゆる技術が結晶し、人工知能として結実します。人間以外の存在として、新しい知的擬似生命が生まれます。これを「ロボット」と名付けることにすれば、人工知能を集約した人格ロボットたちを人は生み出すことになります。それは、人工生命と人工知能の融合の先にあります。つまり、人間の外に人間とは違う知能が出現することになります。つまり純粋な人工知能の自律的結晶体です。
    ▲図2 人工知能と人間の未来
    人工知能時代の先には、技術を人間側に集積し人の知能を拡大した「人間拡張」と、技術を人間と対照な位置に集積し、一つの自律した知的擬似生命体として人工知能技術が集積した「ロボット」(自律型知能)があることになります。そこでは、現在の「人間-人工知能」のたどたどしい関係が、「拡張された人間(Augmented-Human)-自律化した人工知能(Autonomous AI)」という関係にアップデートされます。実はこの関係のアップデートこそが、レイ・カーツワイル氏の著作「ポスト・ヒューマン誕生」(2007年、NHK出版)にあるように、人間と人工知能が新しい関係に移る、という本来の意味のシンギュラリティなのです(図3)。 そこでは世間で流布しているような、人工知能が人間を超える、という議論が意味をなくします。拡張された人間と、人工知能の集積であるロボットがあり、人工知能はそのどちらの文脈にも吸収されることになります。人工知能技術は人間をより高次の存在へ押し上げると同時に、もう一方で、その巨大な蓄積を結晶させ、自律した一つの高度で有機的な人工知能を生み出すことになります。 人間と人工知能はこれから、一旦は乖離しつつも、シンギュラリティのラインを超えた場所で再び新しい関係を結ぶことになります。それは、現在の人間と人工知能のたどたどしいコミュニケーションではなく、超高速で密度の濃い、かつ抽象度の高いコミュニケーションとなるでしょう。テニスに喩えるなら、現在の人間と人工知能のやりとりがゆるやかなボールの打ち合いだとすれば、シンギュラリティを超えた場所での拡張人間と人工知能のやり取りは、現在の人間の目には留まらない速さでラリーを続けているようなものになるでしょう。
    ▲図3 人間と人工知能の関係のアップデート
    「BLAME!」(弐瓶勉、月刊アフタヌーン、1997-2003)では、遠い未来で、人間は自らに埋め込んだ「ネット端末遺伝子」によって人工知能と対話していました。しかし感染症によってその遺伝子が次第に失われて行くことで、人類は人工知能と対話ができなくなります。そして人工知能が管理する都市世界で異物として排除されながら、逃走しつつ生き延びざるを得なくなります。残された数少ない「ネット端末遺伝子」を持つ人間を主人公は探し続けます。これはディストピアではありますが、人間と人工知能の高度な関係性を前提としています。
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  • 三宅陽一郎 オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき 第九章 社会の骨格としてのマルチエージェント(後編)

    2019-03-06 07:00  
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    ゲームAIの開発者である三宅陽一郎さんが、日本的想像力に基づいた新しい人工知能のあり方を論じる『オートマトン・フィロソフィア――人工知能が「生命」になるとき』。前編に引き続き、役割を与えられた人工知能・エージェントについての議論です。人工知能に欠落している社会的自我と実存的自我の統合による「主体性」の獲得、そしてその先にある、人間の代わりに人工知能によって構成された社会のあり方について構想します。
    (5) 社会的自我(me)と実存的自我(I)を持つ人工知能エージェント
    マルチエージェントとして外側から役割を与えられたエージェントと、自律した世界に根付く人工知能には乖離があります。これは、社会の側から要請する知能と、存在としての根を持つ知能には乖離があるからです。人間誰しも、外側から期待される自分と、個として内側から実存する自分の間のギャップに苦しんだことがあるかと思います。   ジョージ・ハーバード・ミード(1863-1931)はその論文「社会的自我」(1913年)の中で、社会に対して持つ自我を社会的自我、それを meと名付けました。また、個として深く世界に根ざす自我をIと言いました。 社会的自我(me)と実存的自我(I)は常に緊張関係にあり、混じり合わず、その間に溝があります。知能の持つ自我には、この二つの極があり、その極の緊張関係によって、我々の知能は巧みなバランスの中で成立しています。  社会的自我と実存的自我は知能に二面性をもたらします。しかし、どちらも自分の真実の姿なのです。二つの自我は衝突しながらも、緊張関係を生み出します。一つは存在の根源から、一つは社会的・対人的な場から生成されます。我々は時と場合により、どちらかを主にしながら、さまざまな局面を乗りきります。そのような二つの自我はお互いを回る二重惑星のように回転し、とはいえ、外から見れば一つのシステムとして機能します。
    ▲図8 社会的自我(me)と実存的自我(I)
    人工知能の開発においては、自律型知能としては「実存的自我」(I)を、マルチエージェントの研究としては「社会的自我」(me)を探求して来ました。人工知能の研究はこの二つを無意識のうちに別々に研究して来ました。歴史的にはこれはある程度は計算パワーやメモリの制限によるものでしたが、現在ではそれを言い訳にすることはできません。この乖離は実際の知能の像とは遠いものです。人の知能はある程度自律的に育ちつつ、社会や他者から影響を受けながら形成されるものだからです。そして、まさにそのことこそが、人工知能の研究の進捗を阻害している一因でもあります。乖離している二つの自我を統合しつつ、総合的な知能を作ることが、これからの人工知能を導くことになります(図8)。 自律型エージェントが自律型知性に至るということは、単に外側から与えられた役割を遂行する人工知能ではなく、内面からの人工知能と外面からの人工知能をつなぐことになります。  エージェントの役割は外から与えられます。まさにそのことによって、エージェントは最初から社会的な存在です。エージェントを社会に、そして世界にどれだけ食い込ませることができるかが、マルチエージェントとしての知的機能の高さということになります。そのような社会的自我を持つエージェントに、実存的自我を融合させるということは、与えられた役割による人工知能を脱することではありますが、それを放棄する訳ではありません。また単に独立した存在となることでもありません。社会に連携した存在であると同時に、世界に自律した根を持つ存在となることでもあります。無意識から立ち上がる実存的意識と、社会的自我の意識から押さえ付けられる社会的自己の意識の相克を人工知能に持ち込むことが、新しいステップへ人工知能を導くことになります。
    (6)人工生命とエージェント
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