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  • 與那覇潤 平成史ーーぼくらの昨日の世界 第8回 進歩への退行:2003-04(後編)

    2019-12-10 07:00  

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第8回の後編をお届けします。『冬ソナ』のヒットや日韓W杯を経て、日本と韓国の関係の変化が誰の目にも明らかになった2000年代前半。2ちゃんねるの普及などにともないインターネットの影響力が増す一方、いよいよ著しくなった知的文脈の衰微は、人文思想の再編を促します。
    韓国化する日本?
    「一言でいえば、×××××にあるのは、我々はみんな違うと思いたがっているが、日本は本当は韓国と同じだ、というメッセージである。  日本の文壇は、日本は韓国と同じだ、アメリカなしにはやっていけない、といわれて腹をたてたのである」[16]
     この一節だけで出典を当てられる人は、かなりの読書家でしょう。季刊『文藝』の韓国文学特集(2019年秋号)がベストセラーになるなど、目下の第三次韓流ブームがらみの記事にもありそうな文面ですが、正解は加藤典洋の処女作『アメリカの影』で、当該部分の初出は1982年の夏。伏字に入るのは「田中〔康夫〕の小説」で、2年前に発表されてセンセーションとなっていた『なんとなく、クリスタル』を指しています。
     2000年代の前半は、日韓関係の大きな屈折点でした。2001年春の「つくる会」教科書の検定通過と、同年夏以降「毎年」の小泉首相の靖国神社参拝の結果、政府間の関係が悪化の一途をたどる反面、03年4月からNHK-BSで放送された韓国ドラマ『冬のソナタ』(本国での放送は前年)が爆発的な評判を呼び、地上波でも再放送が繰り返されるロングランに。05年の『宮廷女官チャングムの誓い』(韓国では03年)に至る、第一次韓流ブームに火がついてゆきます(ちなみに第二次ブームは2010年前後で、KARAや少女時代などのK-POPが中心)。
     小室哲哉がニューヨークやロンドンのクラブシーンを紹介していた平成の前半までは、先進国といえば「欧米」と同義であり、進んだ国の先端的なカルチャーを追いかけるのがクールだとする価値観は自明のものでした。しかし、近代以来長らく「遅れた」国とみなされてきた韓国のドラマが大ヒットし、ロケ地へのツアーやファッションの模倣が流行するとは、どういう事態なのか。同時代の解説の多くは、韓国の遅れゆえにこそ、一昔前の「日本のトレンディ・ドラマを彷彿とさせ」「懐旧の念を誘う」[17]からだといった説明に終始しましたが、ほんとうにそうなのでしょうか。
     先に引いた加藤さんの評論は、欧米のブランドで着飾りながら暮らす80年代初頭の日本のノンポリ学生を描く『なんとなく、クリスタル』を、よりにもよって文壇で唯一、この頃からGHQ批判などの反米保守的な論説を書き始める江藤淳が激賞した謎を解こうとして、同書が(いまだ軍政下だった)韓国でも数種類の海賊版が出回るヒットになったことに注目します。家父長的なマッチョさとは無縁の恋人とのセックスを、女性主人公の視点であたかも相手に従属しない対等な関係のように描写する『なんクリ』は、「もし、米国とそのようにつきあえたら……」という日韓に共通の淡い希望こそを隠れた主題にしている[18]。そこが江藤の琴線に触れたのだ、とする解釈ですね。
     こうした目で『なんクリ』ブームから四半世紀ほど後の『冬ソナ』のヒットを眺めなおすと、驚くほど類似の構造を見出すことができます。「ヨン様」と呼ばれて日本の主婦を熱狂させた、ペ・ヨンジュン扮する伏し目がちな男性主人公は序盤でトラックに跳ねられて退場するも、まったく性格の異なる「米国育ちの社交的な実業家」として再登場。実は、母子家庭ゆえの影のある暮らしを悔やんでいた母親が、「父親のいる幸せな家庭で育った」人生を息子に与えてあげたくて、交通事故を機に別の人格を刷り込んでいたのだった――。ヨン様一家の「不在の真の父親」に北朝鮮、母親が捏造した「記憶上の父親」にアメリカを読みこむことは、さほど難しくありません。
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  • 與那覇潤 平成史ーーぼくらの昨日の世界 第8回 進歩への退行:2003-04(前編)

    2019-12-05 07:00  

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第8回の前編をお届けします。小泉ブームも停滞し、政治的にはつかの間の無風状態が訪れた2003年~2004年。その一方で、平成初頭から断続的に続く凄惨な事件は、人間の理解力の限界を説く『バカの壁』をベストセラーに押し上げ、心理学の隆盛は、人の心を投薬によって操作可能とする「脳と身体の一元化」の風潮をもたらします。
    凪の二年間
     ちょうどこの連載の折り返し地点にあたる、平成15~16(2003~04)年ほど描きにくい時代もないかもしれません。いま振り返ってもこの時期が、たとえば「激動の時代」と「弛緩した時代」のどちらだったのか、生きてきたはずなのにうまくつかめないのです。
     たとえば2003年3月に米英豪などの有志連合が侵攻して開戦したイラク戦争への自衛隊派遣が、ついに同年12月から始まります(撤収は麻生太郎政権下の2009年2月)。憲法上の疑義もあり国民の支持は薄かったのですが、都市部で反戦デモが見られたものの、いまひとつ盛り上がりに欠けました。70年安保以降の新左翼の系譜と完全に切れた、「“デモ”を“ウォーク”、“ビラ”を“フライヤー”などと言い換えたり」「“既成運動用語”を忌避する」世代が街頭に出始めたのは、2015年のSEALDsなどへと続く走りでしたが、原点となった2001年の「9.11テロへの報復反対」の渋谷デモの参加者は300名程度[1]。地上戦が展開中の地域への海外派兵は「いいことだとは思わないけど、まあしかたないかな」――それくらいのゆるい空気が、平均的な世論だったように思います。
    「小泉改革への熱狂」が国民に派兵を黙認させたというのも、同時代の体験に照らすとやや無理のある説明です。2003年の9月、小沢一郎氏の自由党を吸収して民主党が勢力を拡大(民由合併)。11月の衆院選では比例区の得票数で自民党に競り勝ち、翌年7月の参院選ではわずか一つの差ながら獲得議席数でも同党を凌駕して、「小泉人気は過去のもの」とさえ言われていました。このとき「衆参両院議員の任期を考えれば、2007年までは国政選挙をする必要がない。……しかし、それは自民党にとってつかの間の、そして最後の安定でしかあるまい」[2]と書いたのは、平成前半の政治改革論から社会民主主義に転じ、後半にはリベラル派の「出ると負け軍師」となってゆく山口二郎氏(政治学)です。
     一方でこの小泉ブームの停滞を、「新自由主義への批判の高まり」と捉えることもできません。2003・04年の衆参の選挙では民主党の躍進の裏で、正面から小泉改革を批判した社民・共産両党は大敗。当時の民主党はむしろ、自民党よりも「スマートで大胆な改革」を掲げており、政権に批判的な勢力の呼称が「左翼」から「リベラル」に移行するのもこの時期でした。『パイレーツ・オブ・カリビアン』(ゴア・ヴォービンスキー監督)の第一作と『ONE PIECE』(尾田栄一郎の原作は97年から)の最初の長編映画が公開されたのも、ともに2003年。「仲間どうしで勝手にやるから、国は余計なことをしなくていい」というネオリベラルな気風を、野放図な海賊の冒険譚の背後にみることもできます。
     一日のうち、海岸部で海風と陸風が入れ替わるあいだの無風状態を凪と呼びますが、小泉政権中盤にあたる2003~04年とは「平成史の凪」だったのかもしれません。前回論じたように、コラージュ的な原文脈の捨象によって成立した小泉改革のスタートにともない、「戦後」という歴史の重たさが薄らいでゆく平成前半の動向は、すでに極限まで行き着いていた。しかし、過去からの系譜をもはや参照できない「歴史なき時代」には、いったいなにを頼りに「あるべき政治」や「公正な社会」をイメージすればよいのか。その答えが誰にとっても見えていないがゆえに、民意のありかたもふわっとして、いまひとつぼんやりした像しか結ばない。
     そうした雰囲気を象徴するのが2003年4月に出て、小説以外(評論やノンフィクション)では平成最大のベストセラーとなった養老孟司さん(解剖学)の『バカの壁』でしょう。新潮新書の創刊ラインナップの一冊でしたが、わずか2年半で400万部を超す記録的ヒットになり、養老氏も初めてだったという「語り下ろしを編集部がまとめる」形式が好評を博したと言われました。以降、有名人や話題の人の「口述筆記」で本を作るのは、ベストセラーを仕掛けるうえで王道の手法になってゆきます。
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  • 與那覇潤 平成史ーーぼくらの昨日の世界 第7回 コラージュの新世紀:2001-02(後編)

    2019-10-17 07:00  

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第7回の後編をお届けします。「9.11」で幕を開けた2000年代。政治・言論の領域では「歴史の失効」と「運動への回帰」が進行します。インターネットの大衆化と2ちゃんねるの隆盛にともない、変化する社会の力学。それを利用したのは、昭和期には非主流派だった「異形の父たち」でした。
    崩壊するアソシエーション
     2001年9月11日、イスラム原理主義のテロ組織がハイジャックした旅客機を世界貿易センター(ニューヨーク)とアメリカ国防総省(ワシントンDC)に激突させた事件は、日米関係においても大きな転機となりました。報復として翌月からアフガニスタン空爆に踏み切ったアメリカを、小泉政権は全面的に支持、後方支援のためのテロ対策特措法を一か月で成立させます。あえて軽薄にいうなら、目下の事態への対応という「イシュー・ドリヴン」なプロセスが、憲法に照らした際の整合性という原則論をすり抜けて進行してゆく。そこから2003年末、名目上は非戦闘地域に限ってのイラク戦争への自衛隊派遣までは一直線でした。
     換言すると、それは「現在」の存在感が突出し、すでにやせ衰えていた「歴史」(連載第5回)の形骸化を確認する儀式だったとも言えます。大東亜戦争を肯定的にとらえ、欧米の植民地主義と戦った日本の戦争を評価せよと唱えてきた「保守論客」が、次々と親米路線(対テロ戦争支持)を表明して現状追認に転じる姿に失望し、2002年春に小林よしのり・西部邁の両氏が「つくる会」を去りました。運動体が掲げた「新しい歴史教科書」がじっさいのところ、反左翼・反戦後を示す記号にすぎず、そこで語られている物語を本気で生きている人はほぼいなかった[19]。平成後半の西部・小林は、戦後を否定し憲法改正を唱えながらも、目下の自民党政権による対米従属(とその現れとしての立憲主義の空洞化)を批判する、ややこしい反米保守の隘路へと入ってゆきます。
     そして小林氏の『ゴー宣』とほぼ同時に始まり、左派かつ高等的な形で平成の新しい言論を担ってきた『批評空間』も(連載第2回)、対をなすかのように現実の政治情勢のなかで翻弄され、終焉を迎えてゆきました。きっかけは、中心人物だった柄谷行人が2000年6月末に立ち上げた社会運動NAM(New Associationist Movement)の失敗でしたが、物語論的には翌年頭の文芸誌での村上龍(作家)との対談で、同氏がこんな発言をしていることが目に留まります。
    柄谷 台湾の候孝賢の『非情城市』〔1989年。日本公開翌年〕を見たときに、このひとははっきり主題をもっていて、この映画で台湾の運命を描いている〔のに……〕パンフレットみたいなのを見たら、蓮實重彦が、ここのアングルは小津の引用だとか、そういうことしか書いていないんですよ。村上 本当ですか。柄谷 監督はあきらかに、そのような主題なしにこの映画をつくらなかっただろう。〔……〕しかし、蓮實重彦は主題などを見るのは素人だ、俺はそんなバカではないという感じで書いていた。[20]
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  • 與那覇潤 平成史ーーぼくらの昨日の世界 第7回 コラージュの新世紀:2001-02(前編)

    2019-10-16 07:00  

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第7回の前編をお届けします。2001年、小泉純一郎が内閣総理大臣に就任します。新自由主義の潮流に乗り、高い支持率を背景に構造改革、規制緩和を推し進めたその政策の伏線は、90年代にありました。
    エキシビジョンだった改革
     元号が替わったいま、遠からず各種の入試でも平成史から出題される事例が増えてゆくのでしょう。それは同時代が「過去」になることの徴候ですが、せっかくですので本連載でもひとつ、問題を出してみようと思います。
    問い 以下のA・Bそれぞれについて、発言者である平成の政治家の名前と、いかなる状況での発言であったかを簡潔に答えよ。 【A】もちろん改革には痛みがともなう。痛みのない改革は存在しない。しかし、人はなぜ痛みを覚悟で手術台に横たわるのであろうか。生きて、より充実した明日を迎えるためである。明日のために今日の痛みに耐え、豊かな社会をつくり、それを子や孫たちに残したいと思うのである。 【B】いままでの自民党の党内手順というのは、調査会とか部会でまず全会一致で了承を得る、政審も全会一致、そして総務会も全会一致、これで初めて正式の党議となったわけです。しかし、今度の……にかぎっては、どこでも了承を得られていない。それを『これには××内閣の命運がかかっている』と言って無理やり国会に出そうとしている。
     多くの方が連想するのはやはり、Aは平成13(2001)年4月に組閣し、5年半におよぶ長期政権をスタートさせた小泉純一郎首相。Bは2005年の郵政政局で、彼に自民党を追われた亀井静香氏あたりでしょうか。たしかに「……」に郵政民営化、「××」に小泉と入れれば、それでもとおります。
     しかし正解は、Aは小沢一郎で、細川非自民政権への引き鉄を引く直前だった1993年5月に刊行され、ベストセラーとなった『日本改造計画』の末尾の一節[1]。むしろBが小泉純一郎で、「……」に入るのは小選挙区比例代表制、××はその小沢氏が(自民党幹事長時代に)担いでいた「海部〔俊樹〕内閣」です。1991年10月の『文藝春秋』誌上、田原総一朗さんの司会で小選挙区制導入の可否を論じる座談会での発言でした[2]。このとき反対で歩調を合わせたのが、YKKと呼ばれた加藤紘一・山崎拓(ともに、のち自民党幹事長)。逆に推進派を代表したのは、小沢の盟友でやがてともに新生党を創る羽田孜でした。
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  • 與那覇潤 平成史ーーぼくらの昨日の世界 第6回 身体への鬱転:1998-2000(後編)

    2019-09-04 07:00  

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第6回の後編をお届けします。90年代後半、機能不全に陥った「父殺し」の原理を乗り越えるべく、新しい世代の批評家たちが次々と登場します。思想や批評の「情報化」が進む一方、政治の世界では公明党と共産党が、00年代の権力基盤を着々と準備していました。
    届かない郵便
     政治を構成する表現から言語が退潮し、フロイト的な精神分析すらも無効になって、すべてが身体感覚を通じた同一化に埋没してゆく。最初にそうした転回を見抜いて危機意識をもったのは、おそらく『批評空間』を主宰していた柄谷行人氏でしょう。そもそも柄谷さんは1969年、選考委員の江藤淳に読ませたくて漱石論を投稿し、群像新人賞を受賞してデビュー。しかし『成熟と喪失』には「一つの図式に強引に推し込もうという意図」を感じ、「わりとシンプルに精神分析学を応用したと見られてしまう」として批判的に読むようになっていたと、江藤没後の福田和也氏(文藝批評家)との対談で語っています[25]。
     そうした柄谷さんの観点からすると、ベタなアイデンティティ論に寄りすぎてむしろダメになった「負の江藤淳」の後継者が、1995年に評論「敗戦後論」で護憲/改憲、戦前否定/肯定に引き裂かれた日本国民の自我の再統一をとなえた加藤典洋(連載第4回)でした。成熟を拒否するスキゾ・キッズだった浅田彰氏も同調して『批評空間』は大バッシングを展開し、個人のものである人格概念を「日本人」へと拡張して使う加藤の主張は、フロイトとは無縁で評論家の岸田秀をコピーしただけの「インチキ精神分析」だと罵倒します[26]。――ちなみに小林よしのり氏のほうは、「『戦争せずにすんでいる自分たちは汚れていないし、今後も絶対汚れやしない』という高所から『〔兵士だった〕祖父たちの死は汚れている』と評価する」「尊大な物言いだな」と苦言を呈しつつも、加藤さんの議論に一目置いていた節がありました[27]。
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  • 與那覇潤 平成史ーーぼくらの昨日の世界 第6回 身体への鬱転:1998-2000(前編)

    2019-09-03 07:00  

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第6回の前編をお届けします。90年代末に進行した「言語」の退潮と「身体」の前景化。それは精神分析的な思想の凋落を促すと同時に、石原慎太郎や小林よしのりに象徴される、身体と国家が直接的に結びついた「平成の右傾化」の始まりでもありました。
    自殺した分析医
     絶対的な価値観が失われたいま、言葉で議論を尽くしても結論は出ない。だったら結局のところ、圧倒的なカリスマが体現する説得力に頼るしかない――。1999(平成11)年は、こうした「言語から身体へ」の巨大な転換が動き出した年でした。それを象徴するのが、旧制中学で同窓だった二人の「保守派の文学者」が刻んだ明暗でしょう。すなわち、同年4月に東京都知事に初当選した石原慎太郎(のち連続4選)と、逆に7月に自殺する江藤淳です。
     忘れられて久しいことですが都知事選以前、石原さんは昭和の政治家として一度「オワコン」になっています。小沢一郎との確執から、1993年の解散時には(小沢ら改革派の新党ではなく)社会党との連立を唱え[1]、じっさいに村山富市を口説いて94年の自社さ連立実現に協力するも、自身の書いた政策ビジョンは自民党内で店晒しに。翌年4月、国会議員在職25年の表彰を受け演説した際、「日本は、いまだに国家としての明確な意思表示さえ出来ぬ、男の姿をしながら、実は男としての能力を欠いた、さながら去勢された宦官のような国家になり果てています」[2]と慚愧の念を述べ突如辞任。その姿に三島由紀夫の最期を感じたとは、ハト・タカの別はあれど妙に馬の合った野中広務の回想です[3]。
     その老政治家が「どうも。石原裕次郎(俳優、1987年死去)の兄です」という自虐ジョークで出馬会見を開き、鳩山邦夫(民主党が推薦。のち自民党入りして総務相)・舛添要一(このときは無党派)・明石康(自民・公明が推薦。元・国連事務次長)らの有力候補に無所属のまま圧勝。いっぽうで竹馬の友の江藤は、98年11月の妻の死もあり情緒不安定で、見かねた石原さんは都知事就任後に東京都現代美術館――2012年の「館長庵野秀明 特撮博物館」などで知られる――の館長就任を打診しています[4]。しかし快諾の電話を返してから数日後の1999年7月21日、江藤は自宅の浴室で手首を切り、帰らぬ人となりました。
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  • 與那覇潤 平成史ーーぼくらの昨日の世界 第5回 喪われた歴史:1996-97(後編)

    2019-07-09 07:00  

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第5回の後編をお届けします。1997年の「つくる会」発足に端を発する右傾化、その背景には、基軸なきポスト冷戦期における相対主義の浮上など、複雑な世相がありました。一方、カルチャーの世界では、安室奈美恵が女子高生のカリスマとなり、宮崎駿が国民的映画監督としての地位を固めます。
    死産した「歴史修正主義」
     私が歴史修正主義(者)という用語をはじめて耳にしたのは、高校2年生だった1996年ごろだと思います。歴史ではなく英語の授業で、文脈を思い出せませんが“revisionist”という単語が登場し、「日本でいうと藤岡信勝とか、西尾幹二のような人だね」と解説された記憶があるのです。もっともそのときはさほど気に留めず、まさかこの語彙が――2001年9月11日の後のterroristのように――「市民社会が忌むべき対象」として平成日本で普及してゆくとは、想像もしませんでした。
     97年の「つくる会」発足へといたる平成初期の歴史修正主義の台頭は、これまで歴史の「軽さ」がもたらしてきたものとして、いささか浅薄にあしらわれてきたように思います。日本におけるrevisionismが最初に世界で問題視されたのは、1995年初頭のマルコポーロ事件。歴史学は素人の著者(医師)が、極右思想というより純粋に推理ゲームのような筆致で「ナチス・ドイツの収容所にガス室はなかった」と唱える論考が雑誌『マルコポーロ』に載ったもので(注19)、ユダヤ人団体をはじめ海外から非難が殺到。発行元の文藝春秋は同誌を廃刊とし、花田紀凱編集長の退社につながりました。
     お察しのとおり、直後の95年3月には地下鉄サリン事件が起こり、仮想戦記や陰謀史観をつぎはぎしたオウム真理教の「偽史」的世界観に注目が集まります。教団の広報担当としてテレビに反論した上祐史浩(現・ひかりの輪代表)の狂信的な熱弁は話題を呼び、「ああいえば上祐」(こういう、との掛詞)なる流行語を生むほどでした。話の内容(歴史観)じたいはチープでも、パフォーマンスで圧倒すればいい。つくる会の発足後、こうしたディベート的な心性とのつながりを最初に批判したのは、サブカルチャーと社会問題の接点で評論活動を展開していた大塚英志さんです(注20)。
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  • 與那覇潤 平成史ーーぼくらの昨日の世界 第5回 喪われた歴史:1996-97(前編)

    2019-06-26 07:00  

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第5回をお届けします。1996年、日本の戦後史を象徴する3人の歴史家(丸山真男、高坂正堯、司馬遼太郎)が逝去。以降「歴史の摩耗」は止めどなく進行します。今回は「歴史」が生きていた最後の時期――自社さ連立政権時代を振り返ります。
    「戦後の神々」の黄昏
     後世にも歴史学という営みが続くなら、平成9年(1997年)は「右傾化の原点」と記されるかもしれません。同年1月、西尾幹二会長・藤岡信勝副会長の体制で「新しい歴史教科書をつくる会」が発足(創立の記者会見は前年末)。5月には既存の保守系二団体が合同して「日本会議」が結成されます。また96年10月の最初の小選挙区制での衆院選に自民党(橋本龍太郎総裁)が勝利して以降、社民党と新党さきがけは閣外協力に転じていましたが、新進党からの引きぬきにより97年9月に自民党は衆院で単独過半数を回復、社さ両党の存在感が消えました(翌年に正式に連立解消)。
     しかし一歩ひいた目で眺めると、「つくる会」とその批判者が繰りひろげた論争にもかかわらず、この平成ゼロ年代の末期は歴史が摩耗していく――「過去からの積み重ね」が社会的な共通感覚をやしなう文脈として、もはや機能しなくなる時代の先触れだったように思えます。その象徴がいずれも1996年に起こった、3人の「歴史家」の逝去でしょう。すなわち東大法学部に日本政治思想史の講座を開いた丸山眞男(享年82歳)、京大で独自の国際政治学をうちたてた高坂正堯(62歳)、小説のみならず紀行文や史論でも知られた歴史作家の司馬遼太郎(72歳)です。
     戦後の前半期、思想史家としての本店のほかに「夜店」として数々の政治評論をものし、60年安保の運動も指導した丸山は「戦後民主主義の教祖」のイメージが強く、かえって生の肉声が知られていないところがあります。近年活字化された録音テープを基に、平成初頭の彼の発言を聞くと、そうした先入見とは違った意外な姿が見えてきます。
    「マスコミはひどいですよ、『社会主義の滅亡』とか『没落』とかね。……第一に理念と現実との単純な区別がない。これは戦後民主主義〔の場合〕と同じです。現実の日本の政治のことを戦後民主主義と言っているわけだ。どこまで戦後民主主義の理念というものが現実の政治の中で実現されているのか、現実政治を測る基準として、戦後民主主義で測っているのか、というと、そうじゃないわけです」[1](1991年11月)
     これ自体は「教祖」らしい発言です。戦後民主主義というとき、たんに実態として戦後、いかなる政治が展開されたかを追うだけでは意味がない。そうではなく価値の尺度――言語化された理念として、むしろ批判的に現実と対峙してきた思想の営みこそを「戦後民主主義」と呼ばねばならない。しかし重要なのは、当時盛んに言われた「社会主義の滅亡」に対しても、同じ態度が必要だと丸山が主張している点です。眼前に崩壊しつつあったソビエト連邦の現実とは異なる、理念としての社会主義をみなければ意味がないというわけですね。
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  • 與那覇潤 平成史ーーぼくらの昨日の世界 第4回 砕けゆく帝国:1995

    2019-05-09 07:00  

    今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第4回をお届けします。時代の転換点と言われる「1995年」。55年体制の終焉、オウム真理教事件、サブカルチャーの爛熟ーーその背景にあったのは、かつて江藤淳が「ごっこ遊び」と批判した、戦後日本の欺瞞を覆い隠していたアイロニーの機能不全でした。
    エヴァ、戦後のむこうに
    「それは今すぐにも切り裂かれる空の、告別の弥撒(ミサ)のようだ。パイプ・オルガンの光りだ、あれは。  ……この銀いろの鋭利な男根は、勃起の角度で大空をつきやぶる。その中に一疋の精虫のように私は仕込まれている。私は射精の瞬間に精虫がどう感じるかを知るだろう」[1]
     1995(平成7)年10月4日に初回が放送され、97年7月公開の旧劇場版(Air/まごころを、君に)での完結まで一大旋風を巻き起こしたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のノベライズにある一節です――と書いたら、ひっかかる人はいるでしょうか。もちろんそうではなく、三島由紀夫が1968年に発表した自伝的な随想『太陽と鉄』の末尾にある、自衛隊機F104への搭乗記の一部です。
     『太陽と鉄』の鉄とは、ボディビルディングに使用していたバーベルのこと。同書が刊行された68年10月に三島は民兵組織「楯の会」を発足させ、70年11月25日の割腹自殺へと歩みはじめます。この大文学者の想像力のなかでも、性的なマッチョイズムが軍服と私兵と機械(戦闘機=銀いろの鋭利な男根)に形象化されていたことが[2]、よくわかる美文と言えるでしょう。
     『新世紀エヴァンゲリオン』(旧エヴァ)が平成前半の日本で社会現象となった理由は、さまざまに語られてきました。主人公・碇シンジら中学生の心の闇(家庭崩壊やコミュニケーション不全)を描くシナリオと、95年のスクールカウンセラー事業開始にみられる心理主義的な風潮との合致。キリスト教(敵キャラクター=使徒)と異教との対立をモチーフに人類全体の浄化(補完)をめざす闇の組織ネルフが、やはり95年の春から大問題となるオウム真理教を連想させたという偶然[3]。ブルセラショップが街にあふれる時代とシンクロした、青少年向けのTV番組としてはきわどい性描写など。
     しかし高校生だった当時エヴァをまったく見ておらず、2007年に大学教員になって日本文化史を講じるためにようやく鑑賞した私には、この作品がむしろ違うことを訴えていたように思えます。『旧エヴァ』は14歳の碇シンジの失敗し続けるビルドゥングス・ロマン(成長物語)である以上に、つねに軍服に身を包み悪役然として登場するその父・ゲンドウが、いかに「父になれない」存在かが主題だったのではないか、と。
     総監督の庵野秀明さんは1960年生なので、本人の体験ではないのでしょうが、ゲンドウには全共闘時代(70年安保)の過激派学生を思わせるところがあります。主要人物の過去が描かれるTV版のなかば、傷害事件で収監されたゲンドウが釈放されるシーンがありますが、引受人は善人そうな大学教授の冬月コウゾウ。この冬月は結局ゲンドウに、事実上自分の研究室(と女子学生・碇ユイ――シンジの母)を乗っとられるわけですが、その後一時はもぐりの医者をしてセカンドインパクトの被災者に尽くしたという描写にも、冷戦下の「良心的知識人」の戯画としての性格がうかがえます。
     温厚で理知的だが、暴力をためらう冬月のような甘っちょろい(または、平和ボケした)インテリ教授の権威を転覆して、権謀術数に手を染め「解放区」のように治外法権が許される特務機関ネルフの支配者におさまったゲンドウ。しかし、彼の内面は空疎です。亡妻ユイの思い出にいつまでも執着し、その似姿としての人造人間・綾波レイをクローンのように量産しては溺愛する。いっぽうで実の――かつ同性の――子であるシンジとは向きあい方がわからず、世話役を部下の葛城ミサトに丸投げ。
     そうした目で見ると「全共闘世代は父になれるか」こそが、『旧エヴァ』の命題ではなかったかという気がしてきます。全共闘の担い手は団塊の世代(終戦直後の1947~49年生まれ。命名者は堺屋太一)と重なりますが、「団塊親」こそは放映当時、宮台真司氏が「かれらの世代がかつて〔学生運動で〕世間や道徳を否定した実績ゆえに、親本人が絶対的な道徳を信じていない」[4]ため、ブルセラ女子高生を叱る権威をもちえないと指摘していた世代でした。叱ったところでゲンドウのような「厳父のコスプレ」にしかなりえない人びと、ということですね。
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  • 與那覇潤 平成史ーーぼくらの昨日の世界 第3回 知られざるクーデター:1993-94(後編)

    2019-03-27 07:00  

    今朝のメルマガは、昨日に続いての連続配信、與那覇潤さんによる「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第3回(後編)をお届けします。1993年の政変の内部で行われていた「父殺し」。その中心となったのは、左翼運動からの転向経験を持たない世代の学者たちでした。そして同時期、「女(少女)」という論点から旧守派を批判する、2人の若手社会学者が登場します。(この記事の前編はこちら)
    転向者たちの平成
     ほんらいの細川ブレーンだった香山健一や、佐藤誠三郎らのビジョンの相対的な穏和さを考えるとき、鍵となるのは彼らが昭和の「転向者」の系譜を引くことだと思います。じつは香山は、60年安保で活躍した共産主義者同盟(一次ブント、非共産党系)の創立者で、つまり中沢事件で佐藤とともに東大を去った西部邁の先輩格。佐藤も都立日比谷高校で民青同盟(共産党系の学生組織)のキャップを務め、東大文学部の在学中には反共的な教員への抗議運動を組織して大学院に落第、法学部で学士からやりなおした硬骨漢でした[11]。
     転向とは、もとは昭和戦前期、激しい弾圧のもとで共産主義の思想を放棄することを指す用語ですが、戦後の場合はむしろ、左翼運動への「失望」を契機とする点に特徴があります。そうした「戦後転向」のピークは、ざっくり言って3つあげられるでしょう。
     ひとつめは戦後初期で、渡邉恒雄氏(のち読売新聞主筆)や氏家齊一郎(日本テレビ会長)に共産党への入党歴があるのは有名ですね。彼らと旧制高校・東大時代の親友で、終生左翼の立場をつらぬいた網野善彦(日本中世史)も、朝鮮戦争(1950~53年)のもとでの武装闘争路線の惨状をみて、党の活動から離れました。逆に、強固な反マルクス主義の実証史家になる伊藤隆さん(昭和政治史)のほうが、むしろその後の武装闘争の放棄を機に党中央と対立し、ハンガリー動乱(56年)に際して離党、やはり転向した佐藤誠三郎と生涯の盟友になるのも、この時代の不思議な綾でした。
     ふたつめは60年安保の挫折によるもので、香山・西部ら左翼組織の幹部のほか、市民派との共闘を見切って「完全に保守化した」という意味では、江藤淳や石原慎太郎さん(作家。のちに自民党の国会議員をへて東京都知事)も広義の転向者に入るでしょう。みっつめはご想像のとおり、70年安保とも呼ばれた全共闘世代の転向組です。
     転向者とは「一度は自分もまちがえた」体験をもち、そのことを公にしている人たちなので、その後の行動パターンは2つに分かれます。西部邁のように、異なる立場にたいしても一定の鷹揚さを示す「懐の深い人間」としてふるまうか、1995年春に自由主義史観研究会を組織して以降の藤岡信勝さん(教育学者)のように、かつての「汚点」の払拭を期してもう一方の極端へと歩みを進めるかですね。
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