おすすめの本「民主主義──文部省著作教科書」
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

おすすめの本「民主主義──文部省著作教科書」

2020-08-05 22:21
    民主主義──文部省著作教科書 文部省(著)
    単行本: 379ページ
    出版社: 径書房
    言語: 日本語
    ISBN-10: 4770501447
    ISBN-13: 978-4770501448
    発売日: 1995/8/26


     民主主義が完全で賢明であると見せかけることは誰にも出来ない。実際のところ、民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。
     これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが。
    【ウィンストン・チャーチル/下院演説 1947年11月11日】


    ■民主主義
     多くの人々は、民主主義とは単なる政治上の制度だと考えている。
     民主主義とは民主政治のことであり、それ以外の何ものでもないと思っている。
     しかし、政治の面からだけ見ていたのでは、民主主義をほんとうに理解することはできない。
     政治上の制度としての民主主義ももとよりたいせつであるが、それよりももっとたいせつなのは、民主主義の精神をつかむことである。
     なぜならば、民主主義の根本は、精神的な態度にほかならないからである。
     それでは、民主主義の根本精神はなんであろうか、それは、つまり、人間の尊重ということにほかならない。
     人間が人間として自分自身を尊敬し、互いに他人を尊重しあうということは、政治上の問題や議員の候補者について賛成や反対の投票をするよりも、はるかにたいせつな民主主義の心構えである。
     そういうと、人間が自分自身を尊重するのはあたりまえだ、と答える者があるかもしれない。
     しかし、これまでの日本では、どれだけ多くの人々が自分自身を卑しめ、ただ権力に屈従して暮らすことに甘んじて来たことであろうか、正しいと信ずることをも主張しえず、「無理が通れば道理引っ込む」と言い、「長いものには巻かれろ」と言って、泣き寝入りを続けて来たことであろうか。
     それは、自分自身を尊重しないというよりも、むしろ、自分自身を奴隷にしてはばからない態度である。
     人類を大きな不幸におとしいれる専制主義や独裁主義は、こういう民衆の態度をよいことにして、その上にのさばりかえるのである。
     だから、民主主義を体得するためにまず学ばなければならないのは、各人が自分自身の人格を尊重し、自らが正しいと考えるところの信念に忠実であるという精神なのである。

    ■独裁主義
     歴史の教えるところによれば、一部の者に政治上の権威の独占を許せば、その結果は必ず独裁主義になるし、独裁主義になると戦争になりやすい。
     だから、「国民のための政治」を実現するためのただ一つの確実な道は、「政治を国民の政治」たらしめ、「国民による政治」を行うことである。
     政治が国民のものとなるならば、国民はそれを各人の権利を守りその生活程度を高める方法として用いるであろう。
     国民が、国民のためにならない政治を黙って見ているということは、道理としてありえないはずである。


    ■全体主義
     全体主義の特色は、個人よりも国家を重んずる点にある。
     世の中で一番尊いものは、強大な国家であり、個人は国家を強大ならしめるための手段であるとみる。
     独裁者はそのために必要とあれば、個人を犠牲にしてもかまわないと考える。
     もっとも、そう言っただけでは、国民が忠実に働かないといけないから、独裁者といわれる人々は、国家さえ強くなれば、すぐに国民の生活も高まるようになると約束する。
     あとでこの約束が守れなくなっても、言いわけはいくらでもできる。
     もう少しのしんぼうだ。もう五年、いや、もう十年がまんすれば、万事うまく行く、などと言う。
     それもむずかしければ、現在の国民は、子孫の繁栄のために犠牲にならなければならないと言う。
     その間にも、独裁者たちの権力欲は際限もなくひろがって行く。
     やがて、祖国を列国の包囲から守れとか、もっと生命線をひろげなければならない、とか言って、いよいよ戦争をするようになる。
     過去の日本でも、すべてがそういう調子で、一部の権力者たちの考えている通りに運んで行った。
     つまり、全体主義は、国家が栄えるにつれて国民が栄えるという。そうして、戦争という大ばくちを打って、元も子もなくしてしまう。
     これに反して、民主主義は、国民が栄えるにつれて国家も栄えるという考え方の上に立つ。
     民主主義は、決して個人を無視したり、軽んじたりしない。それは、個人の価値と尊厳とに対する深い尊敬をその根本としている。
     すべての個人が、その持っている最もよいものを、のびのびと発展させる平等の機会を与えられているにつれて、国民の全体としての知識も道徳も高まり、経済も盛んになり、その結果として必ず国家も栄える。
     つまるところ、国家の繁栄は主として国民の人間としての強さと高さとによってもたらされるのである。

    ■人間の平等
     人間の平等とは、すべての人々にその知識や才能を伸ばすための等しい機会を与えることである。
     その機会をどれだけ活用して、各人の才能をどこまで向上させ、発揮させて行くかは、人々それぞれの努力と、持って生まれた天分とによって大きく左右される。
     その結果として、人々の才能と実力とに応じた社会的地位の相違ができる、それは当然のことである。
     だから、民主主義は人間の平等を重んずるからといって、人々が社会的に全く同じ待遇を受けるのだと思ったら、大きなまちがいである。
     すぐれた能力を持ち人、学識経験の豊かな人と、無為無能で、しかも怠惰な人物とが、全く同じに待遇されるというようなことでは、正しい世の中でもなんでもない。それは、いわゆる悪平等以外の何ものでもない。
     公正な社会では、徳望の高い人は、世人に推されて重要な位置につき、悪心にそそのかされて国法を破った者は、裁判を受けて処罰される。
     むかし、ギリシアの哲学者アリストテレスは、人間の価値に応じて各人にそれぞれにふさわしい経済上の報酬と精神的な名誉とを分かつことが、正義であると説いた。
     民主主義的な正しい世の中は、人間のねうちに応じた適正な配分の上にうちたてられなければならない。

    ■権力を法律により規律する
     現実の社会では、人々の間に意者の対立が生じ、利害の衝突が起こる。
     その場合、すべての人々の言い分を通すわけには行かない以上、その多数が支持する考えを実行することと定め、それに反対の、もしくはそれとは違う意見を持つ他の人々も、その考えに従うべきものとし、あくまでも反対する人々に対しては、その決定を強制して行かなければならない。
     かのように「社会的な強制力」のある、すなわち「権力」を持った組織が政府である。
     専制政治や独裁主義では、ひとりの専制君主やひとりの独裁者と、それをとりまく少数の人々が、絶対の権力を握っている。
     そうして、自分たちの思うがままにその権力をふるって、国民の生活を圧迫し、国民の権利をふみにじる。
     そういう弊害を防ぐために、あらゆる「権力を」、あらかじめ定めてある「法律により」道筋からはずれることがないように「規律する」のは、民主政治の大きな眼目である。
     法律を作るのは国民自身である、そこでは、国王でも、大統領でも、総理大臣でも、公務員でも、国民の作った法律には従わなければならない。
     ただ、国民が直接に法律を作る仕事をする代わりに、それを、国民の代表者たる国会に任せるのである。
     国会の仕事がいかにたいせつなものであるか、有能で忠実な国会議員を選ぶことが国民にとってどんなに重要であるかは、これによってよくわかるであろう。
     国会によい人々を送るためには広く国民に選挙権が与えられ、その選挙権を国民が正しい判断によって用いるようにならなければならない。

    ■多数決
     民主主義の政治を行う場合には、多くの人々の中からいろいろな意見が出て、活発に議論がたたかわせられることになる。
     各人が自分の判断を主張し、自分の正しいと信ずることを行おうとするであるから、当然の結果として、さまざまな見解の対立が起こり、利害の衝突を来たすことを免れない。
     それは、見方によっては好ましくない、不愉快なことであるかもしれない。
     しかし、そこに民主政治の鼓動があり、活力がある。
     それが止まってしまえば、民主主義は死んでしまうであろう。
     対立する問題を解決するために、民主主義は多数決という機械的な方法を用いる。
     みんなで十分に議論をたたかわせた上で、最後の決定は多数の意見に従うというのが、民主政治のやり方である。
     原則として過半数が賛成ならばその案を採用し、賛成者が少数ならばこれを否決する。
     そうして、一度決めた以上は、反対の考えの人々、すなわち、少数意見の人々もその決定に従って行動する。それが多数決である。
     多数による決定には、反対の少数意見の者も服するというのが、民主主義の規律であって、これなくしては政治上の対立は解決されず、社会生活の秩序は保たれえない。
     国民の間から国会議員を選ぶにしても、最も多くの投票を得た人が当選する。国会で法律を作る場合にも、多数でその可否を決する。内閣総理大臣を指名するのも、国会での多数の意向によるのである。
     したがって、民主政治は「多数の支配」である。多数で決めたことが、国民全体の意志として通用するのである。
     しかしながら、多数の意見だから必ず正しいと言いうるであろうか。少数の賛成者しか得られないから、その主張は、当然まちがっていると考えてよいものであろうか。そうは言えないことは、もとより明らかである。
     実際には、多数で決めたことがあやまりであることもある。少数の意見の方が正しいこともある。
     多数決の結論が時にまちがうことがあるからといって、多数決の方法を捨ててはならない。
     多数決の結果を絶えず経験によって修正し、国民の批判と協力とを通じて政治を不断に進歩させて行くところに、民主主義のほんとうの強みがる。
     少数の声を絶えず聞くという努力を怠り、ただ多数決主義だけをふりまわすのは、民主主義の堕落した形であるにすぎない。
     多数決の方法を捨てれば、必ず独裁主義になる。
     多数決の犯したまちがいを、更に多数決によって正していくのが、ほんとうの民主主義である。

    ■人任せの政治と自分たちの政治
     政治上の民主主義を実現するには、各個人が政治に参与することが、不可欠の要件であることもまた、疑いのないところである。
     たいせつな政治を、人任せでなく、自分たちの仕事として行うという気持こそ、民主国家の国民の第一の心構えでなければならない。
     政治のやり方が悪いために、一番ひどい目に合うのは、ほかならぬ国民自身である。政治のよしあしを身にしみてかみ分けることのできるのは、国民であるから、その国民の手で政治を行うのが、政治をよくする唯一の確かな方法である。

    ■上からの命令
     民主主義の政治は、「国民のための政治」である。しかし、「国民のための政治」ならば、どんな方法で行われてもよいというのではない。
     「上からの命令」によって国民の幸福が増進されえたとしても、それは民主主義ではない。
     人間の社会には秩序がなければならないが、命令や強制によって秩序を保とうとすれば、支配と服従の秩序になってしまう。
     人間としての責任と尊敬とを基礎とする民主的な秩序でなければならない、国民自らの力により、国民自らの手によって、国民のための政治を行うのが、真の民主主義である。

     人間の共同生活の最小単位としての家族生活には、秩序がなければならない、ただ、生きた家族生活をむりに法律で規律することは、いろいろ弊害が生じるし民主主義の精神と合わない。
     法律が、みだりに干渉することをさしひかえたあとに、新しい民主的な家族生活の秩序を築きあげていくことは、日本国民全体の任務であるが、愛情と理解と道徳とによって結ばれた明るい家庭を建設するには、個人の尊厳を重んずる本質的に平等な人間の関係を基礎とする、家庭内の民主主義の実現が大切である。

    広告
    コメントを書く
    コメントをするには、
    ログインして下さい。