資本主義・社会主義・共産主義・民主主義
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資本主義・社会主義・共産主義・民主主義

2020-08-08 13:29
     資本主義の原動力は、市場参加者と市場関係者の行動、企業のミクロ経済上の行動は、資本主義体制においては当然のことですが、最大利益の追求です。
     資本主義を正当化する根本の論拠は、利潤の追求という人間の悪しき本能から出発して人類の福祉に至る、というものです。
     資本主義の基本である市場原理または市場メカニズムの「市場」とは、企業や個人が、商品・サービス・労働力を自由に売買する場を指す。
     この原理の長所は、人々が自分の利益のために生産・販売・労働するとしても、市場での競争に勝つには、良い商品やサービス・労働力を適正な価格で供給しなければならない点にある。
     自己利益(私益)の追求が、社会全体の利益(公益)に自動的につながるという、このメカニズムを、経済学者アダム・スミスは「見えざる手」と名づけた。
     しかし、この市場原理ではうまく解決できない事柄も増えてきて、それは「市場の失敗」と呼ばれる。
     この資本主義体制の経済が円滑に行われている社会においては、一方では経済上の自由主義による自由企業制度が発達しつつ、他方では自由企業制度の行き過ぎを戒める独占禁止の措置が採られる。
     それと並んで、業者や農民は協同組合を、消費者は消費組合を、労働者は労働組合を作ってそれぞれの地位の向上を図り、経済生活を安定せしめて行くことができる。
     その上に、国家としてもいろいろな社会政策を実行することによって、失業や貧困や不安を防止し、もしくは少なくともそれを緩和する道がある。
     すすんだ資本主義の国では、このようにして、私企業ののびのびした活動をいたずらに押さえつけることを避けつつ、過度の自由経済に伴う弊害を是正し、政治を民主的に運用することによって、経済生活における民主主義を着々として実行している。
     資本主義は、このように時代とともに次第に進歩もし、改善もされ、資本主義の大筋のたてまえを変えることなしに、経済的民主主義の方向に向かって、発展しつつある。
     しかし、先進資本主義の国々では自由経済の行き詰まりがかなり強く現れ、その結果としてだんだんと資本主義から社会主義の方向への転換が行われるようになった。
     それでは、社会主義とはどのようなものであろうか。
     資本主義の社会では、個人や社会が生産手段を私有し、資本家の経営する私企業が経済の中心となる。
     そうして資本を持たない人々の多くはこれに雇われて、労働によって得た賃金でその生活を維持して行く。
     その場合、労働者は自由に職場を選ぶことができるのであって、封建社会のように、因襲や身分によって一定の仕事にしばりつけらていることはない。その意味では、経済上の自由主義の中には「労働の自由」が含まれている。
     したがって、資本主義は、その点でも自由を重んずる民主主義の要求に合致するものと考えられて来た。
     しかし、それでは、労働者に真の自由があるであろうか。
     資本主義の下では、労働者の生活費は労働によって得た賃金でまかなわれる。もっとも、ひろく労働者というと、農民や一般の給料生活者も含まれるが、ここでは主として工場等で働く労働者について考えてみることにする。
     それらの労働者は職にありつけなかったり、失業をしたいりすると、たちまち生活に窮することになるから、何はともあれ仕事を与えてくれる所をさがして、そこで働く。
     働く場合に、賃金などについていろいろと言い分はあっても、そこで雇ってもらえないと生計を維持することができなくなるから、経営者側の申し出る条件に甘んぜざるを得ない。
     職業の自由とか、契約の自由とかいっても、名ばかりで、経済生活の自由は、主として資本家にとってのみ有利に用いられる傾きがあった。
     かくして資本主義は、生産力の増大によって、国民生活の水準を向上させるには役に立ったが、そのもたらす利益は、一方的に資本家にかたよることを免れなかった。
     もちろん、資本主義は企業の自由を保障するから、労働者に対しても、機会さえあれば、資本家になる道が閉ざされているわけではない。
     しかし、機会だけはあっても、資本がなければ資本家にはなれない。したがって、無統制の資本主義の下では、資本を私有する人々と、それに雇われて働くほかはない人々との間に、はっきりとした区別ができてしまう。
     これでは、経済上の不平等がますますはなはだしくなることを免れない。しかも、労働者階級は社会の大多数を占めているのであるから、自然のいきおいに放任された資本主義は、できるだけ多数の人々の幸福をできるだけ向上させて行こうとする民主主義の根本精神と矛盾することになる。
     資本主義に伴うこのような欠陥を是正するためには、二つの方法が考えられる。
     その一つは、資本主義のしくみそのものは変えないでおいて、資本家と労働者とのへだたりを緩和するための「社会政策」を実行するというやり方である。
     すなわち、賃金やその他の労働者の労働条件を、経営者と労働者の間の約束だけに任せておかないで、あらかじめ最低賃金を法律で定めたり、労働時間の最大限を限ったりして、労働者が不当に不利な地位に立つことがないような措置を講ずる。
     しかし、それだけではもとより不十分である。そこで、労働者が団結して経営者側と団体的に交渉しうるような組織を作ることがくふうされる。
     働く手を持っているおおぜいの労働者が団結すれば、非常に大きな力になる。したがって、団体的に経営者と交渉するようにすれば、労働者の立場はよほど有利になる。
     また、憲法によって労働者の団結権や団体交渉権が保証され、また労働基準法、労働者災害保険法、失業保険法が設けられて、労働者の生活に伴う不安を取り除くための努力がなされつつある。
     それと同時に、組合が発達して自らの力で自らの利益を守るようになれば、資本主義の大筋を変えることなしに、経済生活における民主主義の目的を達成することができるであろう。
     これに対して、資本主義の欠陥を取り除くためのもう一つの方法は、社会主義を実行することである。
     この考えを主張する人々によれば、今述べたような社会政策を行っても、生産手段の私有を認める資本主義の原則を変えない限り、労働者の地位はとうてい根本からよくはならないし、資本家と労働者の争いは容易に解決しえない。
     そこで社会主義者は、経済上の平等をほんとうに実現するためには、生産手段の私有を許す資本主義を廃して、資本を国家または公共団体の所有に移すほかに道はないと主張する。
     つまり、それによって資本家と労働者の対立をなくするとともに、公企業の形で生産力の増大を図るべきだというのである。
     このように、社会主義者は、経済上の配分を平等にするための最も進んだ方法は、資本主義の経済組織を根本から変えてしまうにあると論ずる。
     しかし、資本主義の立場からいうならば、そのようにしてすべての生産が国営に移されると、資本家が自由競争によって利益の追求に一生懸命になっていた時のような刺激が失われるから、果たして資本主義の場合と同じように生産を高めて行くことができるかどうかがあやぶまれる。
     社会主義的な経営方法を採用することは、経営者と労働者とを同じように取り扱う点で、社会主義の要求にはかなう。しかし、資本主義の長所を生かして行こうとする立場からみるならば、そのような組織の下では、各人がそれぞれの利益のために生産に励むという強い原動力を減退させるおそれがある。
     そこで、「仕事に精を出せば出すほど利益があがる」という資本主義の強みを発揮しつつ、勤勉によって得られた収穫に対しては、労働者もまた高い賃金という形でその分けまえにあずかるようにして行くならば、生産の向上とあわせて、資本主義経済の枠内で社会主義にかなった経営が行なわれることになるであろう。
     各人がそれぞれの利益のために生産に励むという強い原動力が減退して生産が下がり、資源の高度の利用や費用の節減への熱意が減ると、配分は平等になっても、勤労大衆の生活水準が全体として低下するおそれがある。
     また、自由競争による経済の「需要と供給の自動調節作用」(価格によって市場が自己調整される、競争によって生産性が上昇する)、がうまく行かないために、社会主義経済では何をどれだけ生産すればよいかを判断する確かな手がかりがなく、その結果として多くの生産力をむだにするおそれがある。
     その他、いわゆる官僚統制や国営事業にみられるような、実情にそぐあわない企業の経営が行なわれやすいところに、この種の国家社会主義的な行き方の弱点がある。それが資本主義の側から社会主義に対して下される批判の要点であるといってよい。
     これに対して、社会主義の論者は、そういう心配はないと言って、次のように説く。
     なるほど、社会主義では利潤の追求という刺激は失われるが、労働者は国民に対する義務と責任とを感じて、大いに生産に努力するであろう。(ソ連で運営された計画経済下では、組織や労働者に課される生産のノルマを達成できなかった責任者と労働者に対して、厳しい罰など時には命に関わる制裁があった、祖国の献身または恐怖によって労働するといえるかもしれない)
     また、国営の生産事業の内部でも、いろいろの方法で競争をすすめることができるから、社会主義を実行したからといって競争がなくなったり、生産を低下させるとは限らない。
     更に、社会主義経済では、資本主義経済の特色だといわれる需要と供給との間の自働的な調節作用に代わって、国家が全体の生産を総合的に計画し、それによって合理的に経済を運営して行くから、むだや浪費ははぶいて、国民生活に必要なものを、必要な量だけ生産して行くことができる。
     その点では、資本主義の自由競争の方がずっと生産力を浪費することになる。なぜならば、必需品よりも贅沢品が生産され、競争のための広告費とか、品物の保管費などが大きくなり、それだけ無駄が行なわれる。それは、社会主義の「計画経済」によってのみ除かれるであろう、と。
     資本主義がよいか、社会主義によるべきかについては、このように大きく議論が分かれている。
     しかし、この問題について判断する場合によく注意しなければならないのは、資本主義といい、社会主義といっても、決して普通に本に書いてあるように、また、実際問題から離れた議論の中に出て来るように、はっきりと二つに区別されてしまうようなものではなく、その間に幾つもの中間の形態があり、さまざまな程度の差があるということである。
     すなわち、公式論的にいうならば、資本主義は、生産手段の私有を基礎として経営される経済組織であるのに対して、社会主義は生産手段の私有を認めない。
     しかし、生産手段の私有を認めないといっても、それはどのような種類の生産財を意味するか。すべての生産手段の私有を禁じ、すべての産業を公企業化してしまえば、それはもちろん完全な社会主義に相違ない。
     しかし、たとえば単に土地を国有とし、鉱山その他二、三の重要産業を国営としただけでも、十分に社会主義的な政策であると認められうる。
     けれども、その時には、依然としてその他の生産財の私有が認められているのであり、したがって、社会主義的だといわれる経済の中でも、それらについては資本主義の、または資本主義に近いしかたでの生産が行なわれているのである。
     逆に、全体として資本主義的な経済組織が行なわれている社会であっても、特に国民の福祉に関係の深い幾つかの企業に統制を加え、これに対する国家の管理を実施した場合には、既にそれだけ社会主義的な要素が加味されているのであるということができる。
     それなのに、第19世紀的な無統制の資本主義と極端な社会主義とだけを比べて、どちらがよい、どちらが悪いと議論してみたところで、実際にはなんの役にも立たない。
     だから、実際問題としてたいせつなのは、このようなさまざまな社会経済の運営のしかたの中で、どういう方針を採用し、どの程度に二つの要素を結びつけて行くのが、国民経済の民主化のために、ほんとうに適当であるかを考えることである。
     それには、自分たちの社会がどのような経済条件の下にあるか、自分たちの国が現在どんな国際環境の下におかれているかを、十分に考え合わせてみなければならない。
     現実の具体的な条件を度外視して、空な理論だけで事を決めるぐらいむだな、いやむしろ危険なことはない。
     また、今日のような複雑な世界において、外国との関係を無視して経済の再建や国民生活の向上を図りうるはずはない。
     民主主義の政治が行なわれているところでは、われわれは、多数決の原理にしたがって、資本主義の長所を発揮していくこともできる、大なり小なり社会主義的な政策を行なうこともできるし、両方を併用して行くこともできる。
     自由競争の利益に重きをおく政党が政治の中心勢力となれば、資本主義の根本の組織は動かさずに、経済の民主化を図ろうとするであろうし、国会の多数を占めた政党が、重要産業の国有法案を通過させたとすれば、それだけ社会主義の線に近づくことになる。
     ゆえに、われわれは、日本のおかれた内外の情勢を冷静に見きわめ、各政党の動きをよく注視して、どういう政策を支持すべきかを判断しなければならない。
     ただ、その場合に特に注意を要するのは、全体主義的な方法によって社会主義を実現しようとする、「共産主義」の態度である。
     共産主義は、まず社会主義を徹底させることを目ざしているのであるが、その特色は、資本主義を最初から根本的に悪いもの、もしくは、歴史とともにまもなく滅びてしまうものと決め手かかっている点にある。
     したがって、多数決の方法によってその時々の具体的な事情に適した政策を採ることに飽き足らず、暴力革命や、いわゆるプロレタリアの独裁などという非民主的な方法に走ろうとする傾きがある。
     我々は、民主主義の根本の政治原理たる多数決によって、自由企業制度の長所を生かすこともできるし、自由経済の弊害を除き、行き過ぎを是正して、高度の経済的民主主義を実現して行くこともできる。
     ゆえに、この弾力性に富んだ政治のやり方に疑念をいだき、暴力や独裁によって他の人たちの意志を鑑みることなく抑圧し、少数の意志を貫こうとする全体主義の誤りに、陥ることがないように、深く戒める必要がある。

     資本主義の経済生活における民主主義を実現するためには、消費者の利益を考えるにあたって、最も大切なことは、できるだけ「消費の自由」を与えることである。
     何が一番必要か、真っ先に何を買いたいかは、原則としてその人が最もよく知っている。
     人にはそれぞれ好みがあり、また、生活上の必要も異なるから、これを一律におさえることはなるべく避けなければならない。
     もちろん、物資の少ない時には、消費の割当や制限を行なうこともやむをえないが、それでも、「消費の自由の精神」はなるべく生かさるべきである。
     消費者生活をささえるものは、根本においては生産である。生産が向上して来ない限り、消費生活の向上は望まれない。
     あらゆる生産は、決して生産者だけの利益のために行なわれるのではなく、国民全体の生活を豊かにし、その福祉を増進するために、欠くべからざる意味を持っている。
     わが国の生産はどこまで発展するであろうか、国民すべてに仕事を与え、その生活を維持させることができるであろうか。日本の経済が果たして十分に民主化されるかどうかは、結局、すべてここにかかって来る。
     生産がふるわないために、国民の生活水準が低くなり、いたるところに失業者があふれるようでは、経済生活における民主主義はとうてい現実されえない。
     それどころではなく、経済の不振と混乱とは、やがて政治上の民主主義をも危うくし、民主国家としての歩みを困難ならしめる。
     経済政策の失敗と不況が全体主義や共産主義などの擬似国家社会主義の台頭を招き、結果的に全体主義政権を生んでしまう。日本経済のこれからの見通しの前途は決して安心してはいられない。
     人は弱いので、淡い希望にでもすがりたいもの。いつかは少しはよくなるという希望がなければ、人は生きていけません。
     大恐慌による資本主義経済の混乱では、知識人やエリートは共産主義に希望を見出し、労働者は社会主義(ニューディールなど)またはファシズムに希望を見出した。
     資本主義諸国で多くのエリート・知識人たちが、資本主義に不振と絶望を感じ、民主主義には失望を感じた、そして共産主義の「資本主義体制の搾取と阻害から人類が開放される未来」という理想的イメージの誘惑に魅了されていった。その背景には、大恐慌による経済の混乱があった。

     民主主義の反対者が一番強く非難する点は、多数決の原理である。それは、「頭かずの政治」であり、「衆愚政治」である、民主主義に反対する者は、そういって民主政治をたたきふせてしまおうとする。
     民主政治に対するこのような非難から導き出されるのは、「独裁主義」である。多数決によって行なわれる民主政治を衆愚政治であるといって非難する立場は、それに代わるべき政治の根本として、「指導者原理」を主張する。
     最も有能な最も賢明な、最も決断力に富んだ、ただひとりの人物を押し立てて、その指導者に政治の絶対権を与え、国民は指導者の命令通りに足並みをそろえてついて行くのが一番よいというのである。
     独裁主義が民主主義に対して非難を加えるもう一つの点は、「個人主義」である。民主主義は、すべての人間を個人として平等に尊重し、他人の自由を侵さない限り、公共の福祉に反しない限り、各人の自由を保障する。
     しかし、独裁主義者にいわせると、各個人がそれぞれその自由を主張し、かってに自分たちの利益を求めることを許すと、社会全体の統一が乱れ、国家や民族の利益がないがしろにされる。
     独裁主義者によると、重んぜられるべきものは、個人ではなくて、国家全体であり、民族全体である。個人は全体の部分であり、全体の部分としての価値しか持たない。そのように論じて個人主義や自由主義を攻撃し、その代わりに「全体主義」を主張する。
     各人は自己の利益も、あるいは自己の生命さえも、喜んで全体のために投げ出さなければならないと要求するのは、このような全体主義の結論にほかならない。
     全体主義の特色は、個人よりも国家を重んずる点にある。
     世の中で一番尊いものは、強大な国家であり、個人は国家を強大ならしめるための手段であるとみる。独裁者はそのために必要とあれば、個人を犠牲にしてもかまわないと考える。
     かくして、政治に対する国民の批判を封じ、政党の対立を禁じ、議会政治を否定して、絶対の権力を握った独裁者にすべてを任せ、まっしぐらに一つの政策を貫いて行こうとする。
     過去ではこのような独裁主義は悲惨な運命のどん底に国民をおとしいれた。民主政治が「衆愚の政治」であるならば、独裁政治は、ひとたびあやまちを犯した場合には取りかえしのつかない「専断の政治」ではないのか。
     「人間の理性」の強みは、誤りに陥っても、それを改めることができるという点にある。しかるに、独裁政治は、失敗を犯すと、必ずこれを隠そうとする。そうして、人間の理性をもってこれを批判しようとする声を、権力を用いて封殺してしまう。
     だから、独裁政治は、民主政治のように容易に、自分の陥った誤りを改めることができない。
     これに反して。民主主義は「言論の自由」によって政治の誤りを常に改めて行くことができる。絶えず政治を正しい方向に向けて行くことができる点に、「言論の自由」と結びついた「多数決原理」の最もすぐれた長所がある。
     独裁主義は、個人主義を攻撃し、自由主義を非難する。そうして、その代わりに国家全体の発展を至上命令とする全体主義の哲学を提唱する。
     部分たる個人に全体のためへの犠牲を求めるのは、全体の権威をかさにきて発せられる命令をもって、国民をむりやりにひきずっていくためにほかならない。
     そこには、国民の個人としての自由と幸福とを奪っても、社会主義の「計画経済」などの独裁者の計画を思い通りに強行しようとする底意がひそんでいるのである。
     民主主義は、個人を尊び、個人の自由を重んずる。けれども、民主主義の立場は、正しい意味での個人主義であって、決して利己主義ではない。
     民主主義者は、国家を重んずるべきことを心得ている。祖国の愛すべきことを知っている。しかし、国家のためということを名として、国民の個人としての尊厳な自由や権利をふみにじることに対しては、あくまでも反対する。
     国家は、社会生活の秩序を維持し、国民の幸福を増進するために必要な制度であってこそ、重んぜられるべきである。国民がともに働き、ともどもに助け合い、一致団結して築き上げた祖国であればこそ、愛するに値する。

     社会主義という場合には、それは独裁主義とは関係がない。
     生産手段の私有を廃しするという意味での社会主義は、議会政治によっても実現されうるし、もとより暴力革命を必要とするものではない。
     過激な共産主義によると、「議会政治を利用して社会主義を実行しようというのは、資本主義がどんなに強い地盤の上に築かれているかを知らない者の考えである」とする。
     支配階級であるブルジョア階級は巨大な資本の力をもって政治権力を握っているから、金と権力にものをいわせて、被支配階級であるプロレタリア階級など社会主義勢力の拡大を防ぎ止めようとするに相違ない。
     したがって、過激な共産主義の指導者は議会政治を否定して、支配階級に対して武力闘争によって起こされる暴力革命こそが古い支配階級に対して被支配階級がとどめをさすと力説した。
     この共産主義の立場は、議会政治を通じて社会主義を実現しようとする立場を排斥し、そのためには暴力革命に訴えるのもやむをえないとし、革命が成就した後も、いわるゆ「プロレタリアの独裁」を必要とした。
     共産主義者は、なぜ、「プロレタリアの独裁」という政治組織を必要とするのであろうか。
     この問いに対する共産主義者の立場からの答えは、こうである。すなわち、プロレタリアの革命は決して一度で完成するものではなく、それが一応は実現された国でも、まだまだブルジョア階級(ブルジョア思想)との闘争を続けて行かなければならない。
     したがって、純粋に無産勤労大衆だけの世の中になって、階級の対立(思想の対立)が全くなくなってしまうまでは、プロレタリアが政治の独裁権を握って、革命の精神を徹底させて行く必要がある。これが共産主義の考え方である。
     また、独裁政権が長期間にわたり国民を支配する体制を維持するために、外国勢力による脅威を訴え、大衆の愛国心を喚起することで、国内(内側)の不満を外国(外側)へ向けて、政府に対する国民の求心力を保つ方法もとられる。
     共産主義は、一つの絶対主義である。絶対主義は、自分の立場だけが絶対に正しいとする考え方であるから、もとより反対の立場が存在することを許さない。
     ひとたびいわゆる「プロレタリアの独裁」が確立されるならば、そこでは、もはや共産主義に反対したり、計画経済などの政府の計画や政府の政策を批判したりすることは許されない、国内メディアを厳しく統制し、言論の自由を弾圧し、人権侵害を是認し、政府へのいかなる批判を認めない。
     もしも、ある人の言論が共産主義のわくを越えたり、その理論と対立したりした場合には、その人はたちまち「反革命主義者」や「ブルジョア思想」という烙印を押されて、強制収容所に入れられ再教育や奴隷労働を強制したりして、弾圧されて社会から排斥されてしまう。
     それでも支配体制は経済状況によって動揺するために独裁体制は十分とはいえない、そこで国民を団結させる共有されたイデオロギーが必要となり、「国民が自国以外の世界に対して対抗する」というストーリーを内包した愛国教育が進められた。
     子供の思考には、大人よりもはるかに大きな影響を与えることができ、幼児教育は大人への再教育よりもはるかに効果がある、だからこそ幼稚園から大学まで、社会主義の核心的価値・国家のあるべき歴史とその目指す方向についての教育を通じて、体制にとって有害なアイディアを排除しつつ、効果的かつ効率的に国民の思想や考えを愛国教育によって長期間拘束した。そういった国内で常に実践している思想戦を国内だけに留めずに国境を超えて、介入主義的な学術面や思想面などでの警察活動をも輸出し始める。
     いわゆる「プロレタリアの独裁」の下では、存在しうる政党はただ一つ、共産党あるのみである。共産党以外の政党は、すべてブルジョア政党として、禁止されてしまう。
     さらに、恐怖により抑圧する体制も敷く、体制への批判的な表現や言論や活動の告発と密告を奨励し、告発の文化を根付かせることで人民を相互に監視させる。彼らは自国民の声を抑圧するだけにでは満足せず、国境を超えて民主国家をも黙らせようとする、いわば恐怖政治とデジタル監視の輸出である。
     意見や利害が対立している限り、その中の秩序を維持するためには集団の構成員を従わせる強制的な力が政治には必要となる、この強制力を権力(政治権力)という。民主制では三権分立させることで、権力を法律により規律するが、独裁政治では法体制が独立なものではなく、権力が法律を作り、権力が司法を行い、権力が法律を行使するため、独裁政治では法律とは人民を支配するツールである。
     謀略や陰謀を含む暴力によって得られた一党独裁権力の下では、「自国と共産党への謀略や陰謀が存在すること」が前提とされ、反革命勢力から革命を守るためにインテリジェンス機関(秘密警察、情報機関など)を必要とした。
     民主国家では警察や軍隊と同じく、インテリジェンス機関(秘密警察、情報機関など)もまた、国民の理解と支持のもとで運用されるべきであるが、共産主義一党独裁の政治支配体制下では、インテリジェンス機関も警察も、国民を弾圧するツールになる。
     共産主義の一党独裁国家は法治国家ではない、そのため法で個人の権利や私有の財産が守られることはない、それらは権力により剥奪されたり守られることになるので、共産主義の組織は権力による均衡を保つ必要がある、組織内で権力の衝突を繰り返す権力闘争状態が絶え間なく続く。国境を超えて国際社会と民主国家をも権力で強制できる影響力を浴す、いわば権力闘争の輸出である。
     共産主義一党独裁権力に市場経済が加わると必然的に汚職が発生する、私有の財産や企業資産と市場影響力を守るのは権力だからである、すべての実業家たちの政治権力と結びついていない民間の富は、捕食者的な権力支配体制の下では必然的に不安定になる。
     もし市場経済を、汚職の比較的少ない政府と両立させたいのであれば、経済を動かす実業家たちには独立した司法体制によって守られる法的権利が必要になる。ところが共産主義の一党独裁国家では、まさにこれこそが決定的に提供できないものだ。なぜならその定義からして、党は法の上に存在するものだからだ。
     共産主義の一党独裁国家の実業家たちは、独裁組織の政治の方向性に極めて好意的であると判明しているが、これは結局、彼らが富と影響力を蓄積できたのは権力支配体制下であることを考えれば当然だろう。国境を超えて金で政治権力・影響力を買う賄賂腐敗文化を輸出する。
     共産党は、国民に対してプロパガンダによって自国と共産党(政府)を同一視させる、つまり「共産党(政府)」と支配下にある「自国」という国家を同じものと考えるよう国民に信じ込ませる。
     そうすることで「共産党(政府)を批判することは祖国の裏切り者」という罪悪感を国民に持たせるとともに、「自国を愛しつつ共産党(政府)を批判する」ということを防ぐねらいがある。
     しかし、「政府」と「祖国(政府の支配下にある自国)の"区別"は、政府が行なう政治を正しい方向へ国民が政府を批判することで向けて行くには、根本的に重要な概念である。

     政治的な自由に立脚しつつ、それによって国民全体の経済的福祉を実現しようとするのは、経済的民主主義の立場である。
     国民自らの意志によって経済的民主主義を実行し、その方法について自由に意見を戦わせ、多数決で政治の方針を決めて行くというのは、確かに暇がかかるであろう。
     人によって価値観や求める利益は異なる、そういった複数の人々から構成される集団においては、考え方の違いや利害の対立は避けられない、こうした状況の中で、多様な意見や利害の対立を「絶えず調整し続ける」ことで、社会全体の秩序が維持される。すなわち「考え方の違いや利害の対立は絶えず続く」ということである。
     共産主義者の立場は、独裁によって一挙に問題を解決しようとするのである。
     しかし、その代償として政治上の自由を放棄し、批判を許さぬ「上からの命令」によって動かされるようになるとするならば、果たしてそれは「人間の理性」によって行動するゆえんでありえようか。
     自分が暴力によって革命を成したので、相手も暴力によって自分を転覆させようとするに違いないと恐れ、自分が工作で謀略・陰謀を仕掛けたので、相手も謀略・陰謀をやってくるに違いないと恐れる、「自分が暴力や謀略・陰謀をすればするほど、相手も自分にやってくるに違いない」とする病的な猜疑心は人間の理性に反する愚かしさがある。
     民主主義を採用する国家においては、国民は主権者である。国家の制定する法律や、そのもとで内閣がおこなう決定は政治であり、そうした決定は国民がおこなった決定とみなされる。主権者として国民は、政治を監視するだけでなく、より良い政治を実現する責任を負っている。すなわち民主政治は国民全員の「人間の理性による行動」にかかっている。
     民主主義の原理にてらしてみれば、自由を重んじ、平和を愛しつつ、政治的民主主義、社会的民主主義、経済的民主主義を築き上げて行く以外に、賢明な民主国家の国民の進むべき道はない。
     闘争と破壊とによってではなく、平和と秩序と理解の上に、少数の特権を持つ人々のためではなく、生きとし生けるすべての人々にとっての幸福な社会を打ち立てて行こうというのが、民主主義の理想である。
     (民主主義──文部省著作教科書 文部省(著) 引用編集)

     (目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画 クライブ・ハミルトン(著) 引用編集)
     (詳説 政治・経済 改訂版[平成30年度改訂]文部科学省検定済教科書 引用編集)
     (ミトロヒン文書 KGB(ソ連)・工作の近現代史 山内智恵子(著) 引用編集)

    ■トランプ大統領、共産主義犠牲者の国民的記念日を宣言
     トランプ大統領は2017.11.7、共産主義犠牲者の国民的記念日を宣言した。
     本日の共産主義犠牲者の国民的記念日は、ロシアで起きたボルシェビキ革命から100周年を記念するものです。ボルシェビキ革命は、ソビエト連邦と数十年に渡る圧政的な共産主義の暗黒の時代を生み出しました。共産主義は、自由、繁栄、人間の命の尊厳とは相容れない政治思想です。
     前世紀から、世界の共産主義者による全体主義政権は1億人以上の人を殺害し、それ以上の数多くの人々を搾取、暴力、そして甚大な惨状に晒しました。このような活動は、偽の見せかけだけの自由の下で、罪のない人々から神が与えた自由な信仰の権利、結社の自由、そして極めて神聖な他の多くの権利を組織的に奪いました。自由を切望する市民は、抑圧、暴力、そして恐怖を用いて支配下に置かれたのです。
     今日、私たちは亡くなった方々のことを偲び、今も共産主義の下で苦しむすべての人々に思いを寄せます。彼らのことを思い起こし、そして世界中で自由と機会を広めるために戦った人々の不屈の精神を称え、私たちの国は、より明るく自由な未来を切望するすべての人のために、自由の光を輝かせようという固い決意を再確認します。

    ■福祉国家①
     社会主義勢力は「資本主義経済の下で、貧しい人や社会的弱者を救うのは、政府の役割である」という社会主義的発想に立って、資本主義経済の自由競争を規制し、政府の統制を強めることで、「福祉国家」を実現しようとした。
     しかし、社会福祉によって働かずとも人並みの生活ができると分かれば、労働意欲や自主独立の気概は後退していく。
     一方、社会福祉を行なうにために政府機関を多く必要とするから、政府は必然的に肥大化する、しかも福祉の資金調達を名目にして、国民の資産を税金と称して合法的に奪っていくことになる。
     福祉国家の路線を歩めば、その肥大化した権力に溺れる者がいずれ現れて、社会福祉を餌に国民の私生活にまで干渉し、自由を抑圧する全体主義国家となっていく危険がある。
     すなわち、市場の自由競争や個人の自由を否定する政府の規制や統制による計画経済政策が結局、独裁体制をもたらし、その経済活動の方向は必然的に「国民の自由、自主独立の抑圧」を意味する。

     しかも、この福祉国家の体制は国家社会主義、官僚統制主義を拡大させる、その延長線上に、共産党一党独裁の共産主義体制がある。

    ■福祉国家②
     国民が国家による不当な支配から解放され、自由をめざす自由権(自由権的基本権)が中心であった時代には、個人の権利に国家が干渉すべきでないとされ、財産権は不可侵とされるほど強く保証されていた。
     しかし、資本主義経済が発展し、貧富の差が拡大したことから貧困の増加と社会不安が広がり、国民生活の秩序を乱す深刻な社会問題に発展した。
     国民が国家に対して人間らしい安定した生活を要求する、社会権(社会権的基本権)の必要性が主張された。国家が社会権を補償することで、個人の自由は実質化する。
     財産権は一定の制限をうけるべきだとの考えが広まり、日本国憲法は経済的自由権を保障した条項において、「公共の福祉」による制約を認めている。
     経済活動の自由については、他の人権との調整という観点だけからではなく、福祉国家を実現するという社会政策的な観点からの制限も認められている。
     日本国憲法では生存権、労働基本権、教育を受ける権利が保障され、社会的弱者の救済や医療、福祉、教育の充実を任務とする福祉国家がめざされている。


    ■暴力に基づいた秩序とアンドロポフ
     後の1967年にソ連のKGB議長に就任することになるアンドロポフは、1956年のハンガリー動乱のときにブタペスト駐在大使だった、そこでの動乱時にアンドロポフはハンガリーの秘密警察幹部らが国民に憎まれ、街頭に吊るされる光景を目の当たりにした。
     一見磐石に見えたソ連共産党の一党独裁体制があっという間に倒されそうになったハンガリー動乱の記憶が、一生頭から離れなかった。
     少しでも民主化を認めれば、民衆を抑え切れなくなって、真っ先に殺されるのは自分たち秘密警察だ、と。
     アンドロポフは、その後、チェコスロヴァキアでも、アフガニスタンでも、ポーランドでも、共産主義主義体制が危機に陥ると、軍事力だけが自らの生存を保障できると信じて強硬手段を使い続けた。

     (ミトロヒン文書 KGB(ソ連)・工作の近現代史 山内智恵子(著) 引用編集)

    ■愛国教育~国民的屈辱の歴史教育~
     この「屈辱の歴史」という考え方や、現在の「国家の偉大なる復興」が、今日の世界における中国の役割を理解する上で最大のカギとなる。
     中国共産党は、愛国教育運動を通じて「中国の独特な社会主義の建設という偉大な目標」のために国民を団結させて「大衆の愛国的な情熱を煽った」。
     中国は外国列強の手によって百年の屈辱を受けた。「19世紀半ばのアヘン戦争から百年間にわたり、中国は外国人によって脅され、屈辱を受けた」というものだ。
     中国共産党は長年にわたり、封建的勢力に対する階級闘争や、人民を抑圧する反動的な勢力の影響力は中国国内でいまだにある、とのストーリーを編み出してきた。そして今度は「外国勢力による脅しと屈辱に対する戦い」というストーリーを語り始めた。
     中国共産党は人民の拡大成長への願望を具現化しつつ、屈辱の「悔しさと恥」を決して忘れず、もう一度偉大な国家になる道を示すことで、国民の目から見た正当性を復活させようとした。
     愛国教育や教化運動を通じて新たに形成された、強力な中華ナショナリズムの歴史観による自国優位主義または例外主義いわゆる"中国の国家的誇りの感覚"のおかげで、中国共産党への忠誠の要求から国家への忠誠の要求へのシフトが可能になった。
     このような迷惑な愛国主義に関する話に気づいた中国系の識者の何人かは「中国人の中には強力だが隠された、自分たちの持つ劣等感によって突き動かされている者もおり、この感情は外国からの承認によってしか緩和できない」と論じているほどだ。
     もし外国の承認が限定的なものであれば、当初のプライドは憤りや怒り、そして強い不安感に突然変わる。このような制御不能の感情は、中国共産党自信にとっても脅威となる。

     (目に見えぬ侵略 中国のオーストラリア支配計画 クライブ・ハミルトン(著) 引用編集)
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