ユーザーブロマガは2021年10月7日(予定)をもちましてサービスを終了します

  • ブロマガからはてなブログ移転のおしらせ

    2021-05-01 10:421
    今まで「ゆっくりと学ぶ吸血鬼」の参考文献や、貴重な吸血鬼解説情報は、ニコニコのブロマガで発信してきました。ですが、2021年10月7日をもってブロマガサービス終了というアナウンスを受けたことにより、ブログを引っ越すことになりました。
     今回はてなブログで「吸血鬼の歴史に詳しくなるブログ」を立ち上げました。
    今後はゆっくりと学ぶ吸血鬼の参考文献や吸血鬼解説は、移転後のはてなブログで行います。当然、ニコレポで更新が表示されなくなりますので、各自でブックマークなどして頂くようお願い申し上げます。
     現在連載中の「最初の吸血鬼解説」は、今後移転先ブログで続きを連載していきます。

    移転先➡「吸血鬼の歴史に詳しくなるブログ」

  • 広告
  • 最初の吸血鬼小説と当時の出版事情の闇、それに翻弄される者たち【吸血鬼の歴史解説⑤】

    2021-04-04 23:16
    移転しました
    最初の吸血鬼小説と当時の出版事情の闇、それに翻弄される者たち【吸血鬼の元祖解説⑥】 - 吸血鬼の歴史に詳しくなるブログ (vampire-load-ruthven.com)

    【目次】

    ①吸血鬼の元祖はドラキュラではない!吸血鬼ルスヴン卿こそが吸血鬼の始祖!
     →吸血鬼ドラキュラ(1897)以前の、吸血鬼小説が読める本一覧と簡単な解説
    最初の吸血鬼小説の作者ジョン・ポリドリと詩人バイロン卿、その運命の出会い
    詩人バイロン卿と吸血鬼の詩「異教徒」、最初の吸血鬼の作者との出会い
    『最初の吸血鬼と怪物』が生まれた歴史的一夜「ディオダティ荘の怪奇談義」
    ⑤この記事


    ~当時の出版事情:作家の力は弱かった~


     前回”最初の吸血鬼””フランケンシュタイン”が同時に生まれるきっかけとなった歴史的一夜、ディオダティ荘の怪奇談義について解説した。今回からはいよいよ、その怪奇談義によって生まれた”最初の吸血鬼小説”について解説していこう。

     前回説明したようにポリドリが書いた「吸血鬼」は、どういう訳か作者はポリドリではなく、ポリドリが侍医として仕えていた主人のバイロン卿の名で出版されてしまった。この事情を知るには、わき道に逸れてしまうが当時の出版事情について、ざっくり知っておく必要がある。アンソロジー「怪奇文学大山脈Ⅰ巻」において、荒俣宏氏が当時の西欧における出版事情について詳しく解説している。そしてせっかくなので、興味深いエピソードもついでに紹介しておこう。

     19世紀に入ると、一般庶民にも読書という文化が根付こうしていた。次第に同趣向作品をまとめようとする動き、つまり専門誌化するようになる。それに伴い本の出版を手掛ける編者、あるいは編纂者という職業や、出版社が生まれてくるようになる。当時は著作権なんてものはまだ希薄で、著者名を明記しないということが割と普通だった。例えば最初のゴシック小説とされるホレス・ウォルポールの「オトラント城奇譚」は、初版は無記名だった。ベストセラーを出す作家も出てくるようになるが、版権を守り、印税や原稿料を確保する闘争の成果は、ようやく19世紀末に至ってチラホラ見えてきた程度だった。SFの父とも呼ばれる有名作家ジュール・ヴェルヌですら、豪腕の版元エッツェルに対してほぼ無力であって、有名な「海底二万里」をエッツェルの雑誌に連載した時ですら、月給制で書かされる「サラリーマン作家」だったという。このように、基本的には19世紀末までは、版元は著作権という意識が薄く、作家の力が弱かったことが伺える。だがウォルポールより数十年後の人物、「吸血鬼カーミラ」の作者、シェリダン・レ・ファニュはちょっと事情が違っていたようだ。彼は当時から大物という認識であったが、彼の有名な作品「緑茶」でさえ、当時は無記名で発表された。日本語訳もされたこの名作は、後にレ・ファニュ自身が自身の名前を公開して自著に収録したからよかったものの、彼の死去とともに埋没する可能性もあった。そもそもレ・ファニュは、政治臭の強い刊行物「ザ・ダブリン・ユニヴァーシティ・マガジン」の権利を買い取り、自身が編集人となって自身の小説を発表していたが、どれも無記名で発表している。政治的発言を自由にするために本名を隠したのではなく、単にそういう習慣がなかったと荒俣は見ている。だがレ・ファニュはやはり小説で自身の名を明らかにしたい気持ちがあったはずで、作家に専念してからは単行本に必ず本名を使うようになった。(1)


     このように説明すると出版社があくどいように思えるが、出版社側としても相応の理由はあった。そのあたりの事情は、あらゆる文士は娼婦である:19世紀フランスの出版人と作家たち」を紹介したダヴィンチ・ニュースの記事が簡潔にまとまっている。たしかにあくどい出版社も多くいた。だから、作家や詩人から才能を搾取する極悪人として描かれることもあるし、なかには本書に登場するヴァニエ書店のレオン・ヴァニエのように、人殺しと後ろ指を指される出版人もいたそうだ。「悪の華」で有名なボードレールも、ずいぶんと足元を見られたらしい。だが出版業者は出版業者の側で必死であった。本を売って利益を出さなければ会社は潰れてしまうし、同業他社との競争もある。場合によっては、自社に利益をもたらしてくれるはずの作家も敵になりうる。看板作家が出版業者を鞍替えするようなことは当たり前にある。ヴィクトル・ユゴーのようにいくつもの出版業者を手玉に取った、やり手の大御所作家もいた。ヴェルレーヌやゾラのように、金の無心や印税の前借りをもくろむ連中もいた。作家イコール善玉とは限らないのである。(2) それに当時は本は多売するものではなく、貸本屋に太く短く売るものであり、庶民は貸本屋からレンタルする、というのが主流だった。こうした背景も、出版社が慎重にならざるを得なかった理由の一つだろう。

     このようにポリドリが「吸血鬼」を出版した19世紀初頭という時代は、例外はあれど作家の力は基本的に弱かったのである。それこそポリドリの「吸血鬼」と同じきっかけでうまれたメアリー・シェリーの世界的名作「フランケンシュタイン」ですら、初版は無記名だった。学術的な本から引用できていないので鵜呑みにはして欲しくないが、メアリーの場合はテクスチュアル・ハラスメント、つまり「女にこんな偉大な作品が書けるわけないだろ!夫(男)が書いたのだろう!?」が原因だったようだ。女というだけで出版が断れられ、夫のパーシー・シェリーが序文を書かないと出版しないと言われたという(3)(註1)(註2)

    (1) 荒俣宏編「怪奇文学大山脈Ⅰ 西洋近代名作選【19世紀再興篇】:東京創元社(2014) pp.15-21
    (2) ダヴィンチ・ニュースより「出版社vs.作家!? 名作誕生の裏にバトルあり」:2017.11.12更新分 

    (3) 映画「メアリーの総て」のパンフレットより
    (4) 「怪奇文学大山脈Ⅰ」 pp.23-24

    註1
    学術論文でなくても、せめて出版日が明確な出版社を通じて発行された書物から引用すべきであるが、映画「メアリーの総て」のパンフレットでしかこの解説が見当たらない。初版に著者名を無記名にさせられたという事実は本当であること、映画のパンフレットも何かしらの資料を見て解説しているはずなので、見当違いなことは言ってないだろうと判断したこと、後に本文で紹介するが、メアリーはフランケンシュタイン以降の著作物では「シェリー夫人」か「フランケンシュタインの作者」と名乗り、自身の名前「メアリー・シェリー」を公開することがなかったという事実を踏まえて、今回パンフレットの記述を紹介することにした。もし他によい典拠をご存知の方は、ご一報ください。

    註2
    テクスチュアル・ハラスメントは現代でもある。その最たる例が世界的名作小説で映画にもなった「ハリー・ポッター」シリーズの作者・J・K・ローリングである。彼女は本名ジョアン・ローリングだが、本のターゲットとなる男の子が女性作家の作品だと知りたくないだろうと心配した出版社が、イニシャルを用いるように求めたためJ・K・ローリングと名乗ることになった。ローリングは受け入れおり、この件については詳細なことは言及が見当たらないが、これもテクスチュアル・ハラスメントの一例といっていいだろう。(参考:JKローリングwikipedia記事)



     メアリーは確かに初版は無記名にされてしまったが、どうもメアリー自身もフランケンシュタインにおいて自身の名前を公開することには、当初はそこまで拘っていなかった節がある。メアリー・シェリーがバイロンに送った「フランケンシュタイン」初版の献呈本、三巻本の内の一巻目が、2011年に奇跡的に発見された。翌年ニューヨークでお披露目された際の記録によれば「ロード・バイロンへ、著者より」とあるばかりで、献辞にすら実名は書かれていなかった。(4) このあたりの事情を、幻想画家・イラストレーター山田維史氏が自身のサイトで、より詳しく解説されているのを発見した。そこによると、この本を発見したのはロンドンの稀覯本古書店ピーター・ハーリントンの若き研究員サミー・ジェイ。彼は、これが偽の献辞ではないかという疑念を一方に抱きながら研究をした結果、「To Lord Byron」の「T」の筆法が、メアリーの他の直筆と明らかに同じであることから、メアリー本人が送ったものであると断定した。こうして世に一つしかない「作者メアリー・シェリーがバイロン卿に送った献呈本」が発見されることとなった。そしてニューヨークでのお披露目会だが、ピーター・ハリントンがその様子をYoutubeで公開していた。





    "To Load Byron from the author"
    「バイロン卿へ、著者より」

     上記がそのお披露目会の動画とメアリーの直筆部分の画像。確かに「著者より」としか書いていない。以上を踏まえるとメアリーは、名前の公開に関してはどうも無頓着だったように見受けられる。だがやはり自身の名前は公開したい思いはあったようで、コルバーン・アンド・ベントリー社から出版されたフランケンシュタインの第三版にて、ようやくメアリーの名前がはっきりと明示された。(5)(註3)これは娘の可愛さあまりに刊行に動いた父ウィリアム・ゴドウィンのの力があってからこそである。余談だが、フランケンシュタインの初版本は状態が良いと2千万の値がつくという。(6) そしてこの世界に一つしかない、メアリー・シェリーがバイロンに送ったフランケンシュタインの献呈本は、ピーター・ハリントンは£350,000の値を付けた。日本円にしておよそ5千万円ほどである。オークションになればもっと跳ね上がるだろう。こうしてフランケンシュタインの第三版にて、ようやくメアリーは自身の名前を公開することができたが、名前を公開できたのはフランケンシュタインだけだったようだ。これ以後、夫パーシー・シェリーの詩の編集・出版する際は「シェリー夫人」と名乗り、その他の自身の作品では匿名か、「フランケンシュタインの作者」という肩書を使うことがほとんどだった。(7)

    (5) クリストファー・フレイニング「悪夢の世界 ホラー小説誕生」:訳・荒木正純他/東洋書林(1998) pp.86-87

    註3
    フランケンシュタインにてメアリーの名前が公開されたのは、1823年の第二版からだとする説もある。荒俣宏氏は第二版だと説明している(怪奇文学大山脈Ⅰ p.24)。映画「メアリーの総て」のエピローグでも第二版としていた。


    (6) 「怪奇文学大山脈Ⅰ」 p.24
    (7) メアリー・シェリー「マチルダ」:市川純・訳/彩流社(2018) p.188

    ~盗作疑惑をかけられるポリドリ、そして自殺~

     ということで本題のポリドリの話題に戻ろう。ポリドリの「吸血鬼」がなぜバイロン作とされてしまったのか。その原因を紹介する本は、日本では長らくなかったが、2000年代に入りようやくその経緯を紹介するものが出てきた。ポリドリの「吸血鬼」の作者をバイロンと偽ったのは、最初に掲載した「ニュー・マンスリー・マガジン」誌の編集者(経営者)であったヘンリー・コルバーンの策略だった。彼は日本では全くもって知名度はないが、コルバーンは英語圏ではwikipedia記事が作られるほど、歴史に名を残した編集者である。銀のフォーク小説(ファッショナブル小説)というジャンルで、特に手腕を発揮したようだ。そのコルバーンは、当時自身の雑誌の売り上げが落ちてきたこと、そしてライバルである「ブラック・ウッズ・マガジン」誌の成功に焦りを感じていたことで、ポリドリの「吸血鬼」をバイロン作と偽ることを思いついたようだ。(7)(8)(9)(10) 同紙はかねてからスイスへ逃亡したお騒がせ詩人バイロン卿のあとを追いかけており、愛人関係にあったメアリー・シェリーの血の繋がらない妹クレアとバイロンの醜聞を記事にしようとしていた。その過程でバイロンの情報を書き送っていた記者が、侍医ポリドリの書いた恐い小説をバイロンの作と誤って伝えてしまった。(11)
    クリストファー・フレイニングや森口大地の書き方を見るに、どうもポリドリは「吸血鬼」を、バイロンに雇われていたジュネーブ滞在中には作っていて、その手稿をそのまま置き忘れており、ニュー・マンスリー・マガジン誌で掲載されるまで、どうも2年間忘れていたようである。(12)(13)(14) 記者はポリドリの「吸血鬼」とともに「ジュネーブからの手紙の抜粋Extract of a Letter from Genev)」を添えてコルバーンに送ったのだが、この手紙も作者の取違えた原因となったようだ。この手紙は、手紙の書き手がレマン湖を訪れ、バイロン所縁の土地を回ったり関係のある人物に話を聞いたりして彼の足跡をたどるという内容で、「吸血鬼」の下敷きとなったバイロンの「断章」や、メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」にも触れている。だが手紙には「吸血鬼」の作者には触れておらず、読者が勘違いしてしまうのも無理はなかった。(15)(註4) この手紙を送った記者も「吸血鬼」の作者は、バイロンであると勘違いしていたようだ。荒俣宏、森口大地、細川美苗らは口をそろえて、作者の取り違えはコルバーンによる策略であると言っていることから、コルバーンが記者の誤報をそのまま利用することを思いついたのは、まず間違いなさそうだ。(16)(17)(18)


    (7) 「怪奇文学大山脈Ⅰ」 pp.25-26
    (8) 19世紀前半におけるヴァンピリスムス -E.T.A. ホフマンに見るポリドリの影響-
       森口大地 京都大学大学院独文研究室 2016/01 pp.70-71
    (9) 矮小化されるルスヴン卿 --1820年代の仏独演劇におけるヴァンパイア像--
       森口大地 京都大学大学院独文研究室 2020/01 p.2
    (10) ジョン・ポリドリの『ヴァンパイア』 ―― 出版の背景と英語圏における吸血鬼小説への影響――
       細川美苗 松山大学 言語文化研究第38巻第1-1号(抜刷)2018/09  p.55
    (11) 「怪奇文学大山脈Ⅰ」 pp.25-26

    (12) 矮小化されるルスヴン卿 森口大地 p.2
    (13) 「悪夢の世界」p.117
    (14) ジョン・ポリドリのヴァンパイア 細川美苗 p.56

    (15) 矮小化されるルスヴン卿 森口大地 p.2

    註4
    「ジュネーブからの抜粋の手紙」の作者は定かではないが、1828年に『バイロン卿の私生活(Private Life of Lord Byron)』を出した三流の雇われ作家ジョン・ミッドフォードではないかとされる。
    参考:矮小化されるルスヴン卿 森口大地 p.2


    (16) 「怪奇文学大山脈Ⅰ」 p.25
    (17) 矮小化されるルスヴン卿 森口大地 p.2
    (18) ジョン・ポリドリの「ヴァンパイア」 細川美苗 p.55


     1819年4月に「ニュー・マンスリー・マガジン」誌で掲載された、バイロン作と銘打たれたポリドリの「吸血鬼」は当時のヨーロッパで大層な人気を博し、ロンドンではその年の七版もの重版がかかる程、人気を博したという(註5)その人気は国内のみに関わらず、1830年までにフランス語、スペイン語、ドイツ語、スウェーデン語、イタリア語など、欧州各国で翻訳されるほどの人気を誇った。(19)(20) アメリカにもすぐさま伝り、そのポリドリの「吸血鬼」人気に乗っかって、「黒人吸血鬼-サント・ドミンゴの伝説-」という作品が、おなじ1819年に出版されるほどの影響を与えた。題名に吸血鬼と銘打たれてはいるが、この作品の主題はあくまでハイチ革命と黒人差別の諷刺にあり、それをポリドリの吸血鬼の人気に乗っかる形で作られた小説のようだ。(21)(22)

    ポリドリの「吸血鬼」の版の一つ
    バイロンの肖像画が描かれている。

    こちらは真ん中に「バイ・ロード・バイロン」のサインがある版。
    もちろん本人のサインではない。

     現在、吸血鬼の英語のスペルは"vampire"であるが"vampyre"となっている。これは18世紀においてヴァンパイアの英語が作られたのだが、その時は表記ゆれしていた。後にvampirが正式になるも、現在も英語圏の創作においてはvampyreの表記は使用される。マシュー・バンソンの「吸血鬼の事典」によれば、普通の吸血鬼とは違う、特別だったり強力な吸血鬼を表す場合に”y”表記のヴァンパイアを用いるという。日本の創作では「真祖」の設定が人気だが、乱暴に例えれば真祖みたいなものと思えば理解し易いだろう。(真祖という意味があるわけではないことに注意)


    註5
    ポリドリの「吸血鬼」が1819年中で重ねた版の数だが、ジャック・サリヴァン編「幻想文学大辞典」:翻訳多数/国書刊行会(1999) p.553では六版、森口大地の「19世紀におけるヴァンピリスムス」(2016)p.71では五版、同じ森口大地の「矮小化されるルスヴン卿」(2019)p.1では七版を重ねたとある。このように版の数が違うが、森口は2016年の論文では典拠を明示していないのに対し、2019年の論文では七版と訂正し、その上典拠を示していることから、近年では研究が進み七版存在したものと考えられる。森口が七版存在した根拠とした典拠:Cf. Baldick, Chris / Morrison, Robert: Introduction. In: id. (eds.): The Vampyre and Other Tales of the Macabre.Oxford 1997, pp. vii-xxii, here p. x.


    (19) マシュー・バンソン「吸血鬼の事典」:松田和也・訳/青土社(1994) p.341
    (20) 矮小化されるルスヴン卿 森口大地 pp.1-2
    (21) Vampires on the Margins: The Black Vampyre-WWAC
    (22) The Black Vampyre: A Legend of St. Domingo 英語wikipedia記事



     こうしてポリドリが作った「吸血鬼」はバイロン作として、欧州全土に広まった。バイロンは、パリの英字新聞ガリニャーニズ・メッセンジャー( Galignani's Messenger の広告で、ポリドリの「吸血鬼」の存在を初めて知り、バイロンは怒る。(23) その理由は、自分の名前を勝手に使われたことがいたく不愉快であったからだ。しかも、ポリドリに読み聞かせた、バイロン自身が作った散文「断章」のあからさまな剽窃シーンがある作品である。「断章」はバイロンが散文の冗長さに耐えきれず、途中で筆を置いた未完成であるが、それでも剽窃したとなるとバイロンの作家としての矜持からは、到底許せるものではなかったようだ。バイロンは早速行動を起こした。滞在先のヴェネチアから編集者のガリニャーリに、即刻本当の作者を明らかにし、バイロン作でないことを明示することを強く要望する手紙を1819年4月27日に書き送った。(24)(25) そしてバイロンは「おまけに私は、吸血鬼が個人的に嫌いであって、それは私が彼らを殆どしらないからだ」と付け加えている。ポリドリの死後も、バイロンは手ひどく傷つけられた私の名望を救うために、中傷から身を守らなければならないと、知人への手紙で訴えている。(26)(27)


     ポリドリの「吸血鬼」は、バイロンの「断章」のあからさまな剽窃シーンがある作品である。バイロンの友人で出版社でもあるジョン・マレーは気をきかせて、バイロンの詩の一つ「マゼッパ」に付録として「断章」も公開した。「断章」を「マゼッパ」とともに出版したという件については、メアリー・シェリーが「フランケンシュタイン」の第三版のまえがきでも触れている。それは数多の日本語訳でもまず紹介されている。「断章」は「(物語の)断片」と直訳されることが多い。フランケンシュタインの文庫をお持ちの方は、確認してみて頂きたい。

    (23) 矮小化されるルスヴン卿 森口大地 p.3
    (24) 種村季弘「吸血鬼幻想」:河出文庫(1983) p.169、薔薇十字社版(1970) p.129
    (25) 矮小化されるルスヴン卿 森口大地 p.3
    (26) 「吸血鬼幻想」 p.169、薔薇十字社版 pp.129-130
    (27) 「悪夢の世界」p.118

    マゼッパの表紙

    「断章」(直訳:断片)の1ページ目


     マレーは「マゼッパ」に付録として「断章」をつけて出版したのだが、どうもマレーの独断であったようで、バイロンは「お前は私の許可なく出版した。この大バカ者!」という非難の手紙を書き送っている。(28)(註6) 後にバイロンはマレーに対する不信感から、彼に出版を頼まなくなるのだが、恐らくこの出来事がきっかけだろう。

    (28) Fragment of a Novel 英語wikipedia記事

    註6
    フレイニングの「悪夢の世界」p.118では、「断章」をマゼッパに付けて出版することは、バイロン自身がマレーに直接依頼した旨の解説をしている。しかも「即刻出版するように」とまで言っている。だが「断章」のwikipedia記事では、マレーが勝手に出版したようで、マレーの勝手な行動に対してバイロンが激怒したとある。wikipediaを信じた理由は、記事の典拠がバイロンの手紙を書き写したものであったから。当事者の手紙には、断章を勝手に出版したマレーを大いに批判していた。手紙には「be damned to you!」とある。19世紀の英語と単純に比較はできないが、現代ではdamnedは直訳すると「呪われよ」「地獄へ落ちろ」という意味になる。だが「damned fool」で「大バカ者」という意味になるので、バイロンは「この大バカ者」というニュアンスで言ったものと個人的には思っている。



     ポリドリが作った「吸血鬼」がバイロン作として広まったことは、当のポリドリも青天の霹靂だった。ニュー・マンスリー・マガジン誌の1819年4月1日号で、「吸血鬼」がバイロン作として公開されたが、ポリドリは早くも翌日の4月2日にはニュー・マンスリー・マガジン誌の編集者ヘンリー・コルバーンに、4月3日にはモーニング・クロニクル誌の編集者ペリーに手紙を送っている。内容はコルバーンの勝手な行動と正当な報酬を求めたものだ。(29)
    コルバーンに宛てた手紙には次のように書かれている(註7)
    「怪奇文学大山脈Ⅰ」 荒俣宏 p.43
    土台は確かにバイロンの案だが、ある婦人の依頼によって書き上げたものである。この婦人は、本作品において、バイロンが自身の幽霊物語に使おうと公言した材料が流用された可能性を、一切否定している。

    ジョン・ポリドリの「ヴァンパイア」 細川美苗 p.56
    ヴァンパイアはバイロンの作品ではなく,ある貴婦人の要望に従ってすべて私が書いたものなのです。私はそれを何もすることのない午前中に二日間かけて書きました。

    ※内容の微妙な違いに関しては註7にて説明。

     ある婦人とは、メアリー・シェリーのことである。こうしてポリドリは「吸血鬼」は「断章」の剽窃ではないという反論を行っている。(30)(31)
     
     コルバーンは次号にポリドリからの手紙を掲載し、彼lこ小説の対価を払うということで合意したが、全額を支払わなかったどころか、前号に掲載されていた、副編集長のアラリック・ワッツによるポリドリの権利を仄めかすす但し書きまで削除した。ポリドリ、バイロン双方から正しい作者を公開するように要請があったのにも関わらず、コルバーンはのらりくらりとかわしていった。結局ポリドリが手にいれたものは、わずか30ポンドのお金と、盗作者、ペテン師の汚名だけだった。(32)(33)
     
     ポリドリは紆余曲折を経てイギリスへと戻る。1821年、バイロンの影響を受けて作った詩「天使の堕落"The Fall of the Angels"」を匿名で発表する。同年5月5日に公開されたものが唯一の既知のレビューだが、その内容は否定的なものだった。結局医者としても作家としても大成しなかった彼は、酒とギャンブルにおぼれて借金を背負う。その後馬車の事故により脳に損傷を負ってからというもの、身体的にも精神的にも衰弱してしまった。そして1821年8月24日、26歳の誕生日を目前とするときに、シアン化合物を煽って服毒自殺した。キリスト教では自殺は罪であり、現代でも自殺者と分かると埋葬を拒否される場合がある。だからか検視官は、死因は自殺とはせず「神の到来」と表現し、ポリドリに配慮した。敬虔なキリスト教徒である父ガエターノは、息子の自殺は信じなかったという。(34)(35)(36)(37)

    (29) 19世紀前半におけるヴァンピリスムス 森口大地 p.71

    註7
    「怪奇文学大山脈Ⅰ」p.43において荒俣宏は、1819年4月1日号において「吸血鬼」がバイロン作として公開され、その小説の前に、ポリドリが寄せた抗議文(ある婦人の依頼によるもの)も掲載したと説明しているが、どう考えても抗議文が4月1日号に掲載されていたというのはありえない。細川美苗はこの抗議文は4月2日に書き送ったものと説明、その日付の根拠となる典拠も紹介していることもあり、荒俣宏の解説の時系列はおかしいと判断した。
     また、この「ポリドリの手紙」の内容だが、細川は実物ではなく、Matthew BeresfordとFranklin Charles Bishopの論文からの孫引きしている。細川によれば、ベレスフォードとビショップでポリドリの手紙の内容がわずかに違っているという。但しポリドリが『ヴァンパイア』をバイロンではなく、自分の書いたものだとしている点では一致している。細川と荒俣で手紙の内容が微妙に違うのは、それぞれ孫引きした典拠が違うのだろう。細川はビショップのものから引用しているので、荒俣はベレスフォードの書籍から引用したものと思われる。(荒俣は典拠などは一切明示していない)

    (30) 「怪奇文学大山脈Ⅰ」 p.43

    (31) 19世紀前半におけるヴァンピリスムス 森口大地 p.71
    (32) 「幻想文学大事典」 p.553
    (33) 19世紀前半におけるヴァンピリスムス 森口大地 p.71
    (34) 「幻想文学大事典」 p.552
    (35) ジョン・ポリドリの「ヴァンパイア」 細川美苗 p.55
    (36) バイロンとポリドリ:ヴァンパイアリズムを中心に
       相浦玲子 滋賀医科大学基礎学研究 (9), 9-30 1998/03 p.12

    (37) "天使の堕落" 英語wikipedia記事


    ~バイロン卿と吸血鬼ルスヴン卿~

     編集者ヘンリー・コルバーンの策略により、ポリドリの「吸血鬼」は、バイロン作として発表されたが、当時の読者はバイロン作として疑いもしなかった。理由の一つは以前の記事で説明したように、バイロン的主人公:バイロニック・ヒーローの要素がある作品だったからだ。バイロン作品の主人公はバイロンの自己投影したキャラであることが多い。その点ポリドリの「吸血鬼」に登場するルスヴン卿は、女どころか男すらも魅了する色白の美形の貴族、女を破滅させる男であった。ルスヴン卿の外見はこの程度の描写しかないが、それがかえって読者の想像を膨らませることになった。バイロンも色白の美形で男すらを魅了していたことは、当時の人々からすれば周知の事実。マシュー・バンソンは、ルスヴンは単に偶然とはいえないほどバイロンに似ており、所謂文学におけるバイロン的吸血鬼のモデルとなったという点で、極めて大きな影響力を持つにいたったと評価している。(38) 他にもバンソンは、ルスヴンは様々な点でバイロンのパロディであり、ポリドリの吸血鬼は「吸血鬼」という存在にロマンティックなイメージと貴族性を付与した。そして大量の模倣作品を生み出し、これらがまた吸血鬼のバイロン的イメージを強めて、吸血鬼の一般的なイメージをそのように変えていったと解説する。(39)  何度も言ってきたが現在吸血鬼といえば、夜会服を身にまとった美形という造詣にされることが多い。このあたりから海外の評論家を中心に、ルスヴン卿こそが吸血鬼の始祖だと評価される所以だろう。


     ルスヴン卿のモデルがバイロン卿だと思われことは、ルスヴンという名前自体も大いに関係がある。ポリドリがルスヴンと言う名前を採用した理由は、二つの説がある。一つはバイロン家の借家人であったグレイ・ド・ルスヴンに由来するというもの。そしてもう一つが、バイロンのかつての愛人であったキャロライン・ラムが書き上げた小説の登場人物に由来するというものだ。こちらの方がどうも有力視されているようだ。以前の記事で散々解説したが、キャロライン・ラムはバイロンに捨てられた後、バイロンを呪うようになったかと思えば、愛も残っていたようで現在でいうストーカーになるなど、愛憎入り乱れた感情をバイロンに抱いていた。バイロンが祖国追放されたあと、キャロラインは一つの小説を書きあげていた。それは「グレナヴォン"Glenarvon"」という小説で、これはバイロンやキャロライン自身を登場させた私小説であり、バイロンを揶揄する意図で書かれたものだ。その小説でバイロンは、グレナヴォン卿クラレンス・ド・ルスヴンという名前で登場している。グレナヴォン卿(バイロン)が無邪気で若い花嫁のカランサ(キャロライン自身)を腐敗させ、相互破壊と死を招くという内容だ。当時バイロンはスキャンダルまみれであったこともあり、発表された当時は大いに話題になったという。こうした背景があるなかで、バイロン作として発表された「吸血鬼」に、ルスヴン卿という名の吸血鬼が出てくれば、当時の人がルスヴン卿のモデルがバイロンであると思うのは必然だろう。(40)(41)(42)(43)(44)


     何の因果かだろうか、「グレナヴォン」を出版したのは、ポリドリの「吸血鬼」の出版を手掛けた編集者のヘンリー・コルバーンである。というかコルバーンが出版事業を成功するきっけかとなったのが、キャロライン・ラムの「グレナヴォン」なぐらいだ。(45) そんな「グレナヴォン」の評価だが、当時は好評だったが、後世の評論家は「パルプ・フィクション(マガジン)」だと評した。パルプ・マガジンは簡単に言ってしまえば当時アメリカで流行した安っぽい雑誌のこと。つまりグレナヴォンは低俗だという評価がなされたのだが、あのゲーテは「真剣に文学的考察する価値がある」と評価したという。(46) 


     そんな「グレナヴォン」をバイロン自身も読んでいた。バイロンに「グレナヴォン」の存在を教えたのは、フランスの批評家、フェミニズム先駆者、そしてナポレオンと対立したスタール夫人である。スタール夫人は離婚したアナベラとの仲を取り持つべく、ディオダティ荘滞在中のバイロンを訪ねていた。その時にスタール夫人は「グレナヴォン」をバイロンに貸した。(47)(48) 当然、ディオダティ荘に一緒に滞在していたポリドリも、グレナヴォンの存在は知っていたものと思われる。ルスヴンという名前が小説「グレナヴォン」から取られたものと考えられるのは、こうした状況証拠があることも一因だろう。ちなみグレナヴォンは海外では色んな出版社が販売している。GlenarvonでGoogle画像検索してもらうと分かるのだが、バイロンの肖像画を表紙にして販売しているものが結構見受けられる。


     さて、ポリドリの吸血鬼はヘンリー・コルバーンにより、バイロン作ということで勝手に出版されたわけだが、ポリドリは作者が自身であることを示した第二版を出版しようと計画していた。その第二版では吸血鬼の名前をルスヴン卿ではなく、ストロングモア卿"Load Strongmore"に変えようとしていることを、妹に宛てた手紙に残している。(49)(50)(51) 変更しようとした理由は不明だが、ルスヴンという名前は、どうしてもバイロンを想起させてしまう。自身の小説であることを知らしめるために、バイロンを想起させるものは消してしまいたかったのだろうということは容易に想像できる。だがはポリドリは自身の名前で出版することはかなわず、「吸血鬼」はバイロン作ということで世に広まることとなった。


    (38) 「吸血鬼の事典」 p.95
    (39) 「吸血鬼の事典」 p.397
    (40) 「吸血鬼の事典」 p.341
    (41) "Glenarvon" 英語wikipedia記事
    (42) 「幻想文学大事典」 p.553
    (43) 19世紀前半におけるヴァンピリスムス 森口大地 p.70
    (44) バイロンとポリドリ 相浦玲子 p.24
    (45) ヘンリー・コルバーン 英語wikipedia記事
    (46) ”Lady Caroline Lamb” 英語wikipedia記事
    (47) バイロンとポリドリ 相浦玲子 p.24
    (48) アンドレ・モロア「バイロン伝」:大野俊一・訳/角川文庫(1968) pp.351-354
    (49) ”Lord Ruthven (vampire)” 英語wikipedia記事
    (50) アイオワ大学wiki ポリドリの解説
    (51) Frankenstein - Third Edition 左リンク先文章のGoogle翻訳




     今回はここまでにしたいと思います。今回はマニアックな話もしましたが、例えばルスヴン卿からストロングモア卿に変更しようとしていたエピソードは、日本の書籍では見たことがありません。こんな面白い情報を私一人で抱えていても仕方がないので、今回紹介させて頂きました。
     次回はポリドリの「吸血鬼」が生み出した、熱狂的な「吸血鬼ムーブメント」について解説していきます。

     と思っていたのですが、皆様もご存知のように、このブロマガサービスが、2021年10月をもってサービス終了となり、ブログを移行するようにとお知らせがありました。これまでの記事は参考文献の忘備録として私自身も活用していたので、消えてしまうと私自身も困っていまいます。よってしばらくは、他のブログサービスへ記事を移行させる作業を優先します。移行先は、はてなブログにしようと考えています。

     よって次回の記事からはブロマガではなく、移転先のブログで投稿していきます。なるべく早く投稿できるようにしていきたいと思います。


    連絡先
    メール:y.noseru.vamp●gmail.com ●を@に変えてください。
    ツイッター:https://twitter.com/y_noseru

    投げ銭サービスのOfuse、ユグドアを始めました。支援頂けると大変喜びます。
    ofuse→https://ofuse.me/#users/5131
    ユグドア→http://www.yggdore.com/ ツイッターのURLを入力ください。


  • 『最初の吸血鬼と怪物』が生まれた歴史的一夜「ディオダティ荘の怪奇談義」【吸血鬼の歴史解説④】

    2020-12-27 09:11
    ブロマガ終了に伴い移転しました。
    『最初の吸血鬼』と『醜い怪物』が生まれた歴史的一夜「ディオダティ荘の怪奇談義」【吸血鬼の元祖解説⑤】 - 吸血鬼の歴史に詳しくなるブログ (vampire-load-ruthven.com)

    【目次】

    ①吸血鬼の元祖はドラキュラではない!吸血鬼ルスヴン卿こそが吸血鬼の始祖!
     →吸血鬼ドラキュラ(1897)以前の、吸血鬼小説が読める本一覧と簡単な解説
    最初の吸血鬼小説の作者ジョン・ポリドリと詩人バイロン卿、その運命の出会い
    詩人バイロン卿と吸血鬼の詩「異教徒」、最初の吸血鬼の作者との出会い
    ④この記事


    ~最初の吸血鬼小説の作者とバイロン出会う~


     前回は、バイロンが祖国追放となり、姉オーガスタと涙のお別れをした11時間後に作った愛人・クレア・クレアモント(註1)に、スイス・ジュネーブへ行くことを示唆したところまで解説した。今回はいよいよ、「最初の吸血鬼」小説が生まれたきっかけであるディオダティ荘の怪奇談義について解説する。

     1816年4月、ついにバイロンが祖国を出る日がやってきた。随行者は、いつも身近に仕えていた忠僕フレッチャー、美少年の小姓ラッシュトン、雇ったスイス人の世話係、そして今回の主役、最初の吸血鬼小説を書くことになるバイロンの侍医、ジョン・ポリドリである。(1)

    註1 クレアは何度か改名しているが、この記事では分かり易くするため、最後に改名したクレアで統一する。
    (1) 楠本晢夫「永遠の巡礼詩人バイロン」:三省堂(1991) p.214


    ジョン・ポリドリ


     記事②で紹介したように、ポリドリはスコットランドにあるエディンバラ大学の医学部を20歳で卒業した。だが法律の違いにより、ポリドリの地元であるロンドン(イングランド)で開業するには26歳になり、さらにイングランドでの試験をパスしなければ、開業できないという事情があった。そこでポリドリは26歳になるのを待たず、バイロン卿の侍医となる道を選んだ。(2)

     バイロンは離婚前、下剤を乱用、脅迫的な接触、アルコールに溺れるなど、精神的にも肉体的にも変調をきたしていた。肝臓の病気から脳に変調を与えて狂気に陥らせたなどと診断されていたので、バイロンが侍医を連れて旅にでることは、極めて自然なことだった。(3) 一方、ポリドリは元々文学に興味があったので(4)、詩人として名高いバイロンの侍医になることは、渡りに船だったことだろう。

     バイロンがポリドリを選んだ理由は、下剤の乱用で苦しんでいたバイロンを治療した、ウィリアム・ナイトン卿の推薦が挙げられている。(5) 双方にとってメリットがあるように思われたが、バイロンの周り、特に大学からの友人ホブハウスは、ポリドリを連れていくことを強く反対した。というのも、ポリドリはおしゃべりで出しゃばりな性格だったので、何かと癇癪を起しやすいバイロンとは合うはずがないと思ったようだ。だが、バイロンは周りの反対にも関わらず、ポリドリを連れていくことにした。何らかの興味を抱いたことは確かだとされる。(6)以前の記事で散々触れたように、バイロンには男色趣味があり、ポリドリのことを知人のハリエット・マーティノーは「美男」と言ってるので、もしかしたら愛人を兼ねていたのかもしれない。(あくまで私の勝手な憶測であることに注意)(註2)

     祖国を出る前、ポリドリはバイロンの旅行記を公開可能な日記として記録しておくよう、バイロンの友人で彼の本の出版も手掛けたジョン・マレーから、500ギニーで頼まれることとなる。この件に関して、クリストファー・フレイニングは「バイロンはこの件はあずかり知らぬことだった」(7)と述べているが、相浦玲子は「バイロンは承知していた」としている。相浦は根拠として以下のように述べる。

    ポリドリが妹に宛てた次の一節
    "Some time you will either see my Journal in writing or print-Murray having
    offered me 500 guineas for it through Lord Byron”を読むと、バイロンもこのことを承知していたらしいことがわかる。(8)

     要約すれば、500ギニーはマレーからバイロンを通してポリドリに支払われたらしい。私の個人的な意見も交えるが、他の出版社ならいざ知らず、バイロンの友人であり、しかも借金苦で困っていたバイロンに無償で金を分け与えようとしたマレーが(前回記事参照)、バイロンをだまし討ちするような真似をするとは、考えにくい。

     さてそのポリドリの日記だが、後世の評論家からの評価は散々だ。フレイニングは、「『日記』を見ればよくわかることだが、彼(ポリドリ)はそれほど文才に恵まれた人物ではなかった」と言う。(8) その具体的な内容だが、バイロンのことを書くように依頼されていたのにも関わらず、ポリドリは自分の名前を高めることに熱心だったので、日記にはバイロンのことよりも自分のことに関してばかり書いていた。挙句の果てには妹に宛てた手紙には、「自分とバイロンとは対等の立場にいる」とまで書く始末。かなり調子に乗っていたようだが、その一方で日記には自分のことを「単なる装飾物に過ぎない」とか「月影に隠れた星」などと、バイロンには及ばないことも正直に吐露していたようだ。(9) 

     この日記はポリドリが早々とバイロンに解雇されたこともあって、ポリドリ存命中にはついに公に発表されることはなかった。この日記は以前紹介したポリドリの甥であるウィリアム・マイケル・ロセッティにより編纂され、1911年にようやく出版された。(10)(11) ウィリアムによる解説もついている。それは現在、日本のamazonでも購入できるほか、日本の青空文庫に当たるプロジェクト・グーテンベルクにて無料で閲覧できるので、興味がある方はぜひご覧頂きたい。

    (2) バイロンとポリドリ:ヴァンパイアリズムを中心に
       相浦玲子 滋賀医科大学基礎学研究 (9), 9-30 1998/03 p.11
    (3) 19世紀前半におけるヴァンピリスムス -E.T.A. ホフマンに見るポリドリの影響-
       森口大地 京都大学大学院独文研究室 2016/01 p.69
    (4) バイロンとポリドリ 相浦玲子 p.11
    (5) 19世紀前半におけるヴァンピリスムス 森口大地 p.69
    (6) バイロンとポリドリ 相浦玲子 p.11
    (註2) ちなみに、この記事後半で紹介する映画では、ポリドリは同性愛者にされている。詳細はその時に紹介する。
    (7) クリストファー・フレイニング「悪夢の世界 ホラー小説誕生」:訳・荒木正純 他/東洋書林(1998) p.10
    (8) 「悪夢の世界」 p.10
    (9) ジャック・サリヴァン編「幻想文学大辞典」:翻訳多数/国書刊行会(1999) p.552

    (10) 同上 p.552
    (11) ジョン・ポリドリの『ヴァンパイア』 ―― 出版の背景と英語圏における吸血鬼小説への影響――
       細川美苗 松山大学 言語文化研究第38巻第1-1号(抜刷)2018/09  p.50


    ~ディオダティ荘に集結するバイロン一行~


    バイロン卿と小姓ラッシュトン

     さてバイロンとポリドリの旅の話に戻そう。当初バイロンは、敬愛したナポレオンの国フランスに赴こうとしたが、フランス当局はバイロンを危険人物として入国を拒否した。当時のフランスは周辺国ではいち早く同性愛は罪ではなくなったが、敵国だったイギリスで極悪人扱いされているバイロンという火種を抱えたくなかったことは、容易に想像できる。そこでバイロンはドイツなどを経由した後、スイス・ジュネーブへ行くルートを選択、1816年5月25日、スイス・ジュネーブの街の手前のホテルに投宿する。そして後日、祖国を離れる前に愛人関係となったクレア・クレアモントが、バイロンを追いかけてこのホテルにやってきた。そしてバイロンはレマン湖が見渡せるディオダティ荘(ヴィラ・ディオダティ)へ移り渡っていた。(12)

    (12) 楠本晢夫「永遠の巡礼詩人バイロン」:三省堂(1991) pp.214-217


    2008年に撮影された、ヴィラ・ディオダティ(ディオダティ荘)

     このヴィラ(屋敷)は、ガブリエル・ディオダティが18世紀初めに建設を監督して以来、その家族の持ち物へとなっていた。だがバイロンが訪れた当時は、家主は別の場所に住んでおり、来訪者に賃貸していた。そこをバイロンが借りて住むことになった。ちなみにそのディオダティ荘は上記写真のように現存している。それは、当時から残ってるレマン湖畔の周りの大きな屋敷のなかで一番保存状態がよく、「詩人バイロン卿が『チャイルド・ハロルドの巡礼第三篇』を書いた」という記念の銘板が、誇らしげに掲げられているという。(13)

     そのディオダティ荘に滞在しているバイロンを追って、ついにクレアが追いつく。だが着たのはクレアだけでなく、血のつながらない姉であるメアリー・ゴドウィンと、そのメアリーと当時愛人関係であった、イギリスのロマン派詩人・パーシー・シェリーも一緒に連れだっていた。1816年5月27日、バイロンは初めてパーシーと出会った。(14)

    (13) 「悪夢の世界」 p.13
    (14) 「永遠の巡礼詩人バイロン」 p.218



    パーシー・ビッシュ・シェリー
    (1792~1822)

     後にイギリスの詩人・ロバート・サウジーに、バイロンと共に「悪魔派」と呼ばれることになるロマン派の詩人。前回記事で紹介したウィリアム・ゴドウィンに心酔し、彼の秘書となる。借金まみれのゴドウィンも、彼の一族の資産に目を付けて、金をたかる目的で秘書にしたようだ。妻はコーヒー店を経営している一家の娘であるハリエット・ウェストブルック。だが妻子がいるのにも関わらず、ゴドウィンの血のつながった娘メアリーと恋仲になる。これにゴドウィンは激怒、二人はクレアと共に駆け落ち、各地を転々としていたところ、ついにバイロンのところに行きついたという流れだ。バイロンのところに来た時、二人には2人目の子となる、生後数か月の息子ウィリアムも抱えていた。最初の子供は生まれて11日で死んでいる。(15)

     学生時代に「気狂いシェリー」とあだ名されたように、彼はかなりの変わり者だ。反時代的なオカルト思想に熱中していたほか、オックスフォード大学時代、宗教色の強い街オックスフォードで、無神論を説くパンフレットを販売して放校処分を食らっている。(16) そしてゴドウィンの「政治的正義(初版)」の中にあった「自由恋愛主義」を、自分の都合のいいように解釈する(ゴドウィンは後の版ではその個所を改定している)。その結果、友人のトマス=ジェファーソン・ホッグに「妻ハリエットを共有しよう」などと持ち掛けている。(17) そしてそのホッグにメアリー・ゴドウィンも言い寄られて(主に性行為を求められた)メアリーは泣いた。それをパーシーに相談するも「どうせなら関係を持ってみてはどうか」と逆に勧められてしまい、メアリーは人間関係に悩むことになる。(18)(19) そしてメアリーと逃避行に落胆する妻ハリエットに対しても、「メアリーを妻として、君は『霊の妹(心の友)』として一緒に暮らさないか」と大真面目に提案し、ハリエットに深刻なショックを与えた。(20)(21) こうして夫が原因の人間関係に苦しんだハリエットは、後に入水自殺するが、その時他の男の子種を宿していたという。(註3) 是非はともかくとして「自由恋愛主義」の思想に関しては一貫していたことには違いない。
     
    (15) "パーシー・ビッシュ・シェリー" 日本語wikipedia
    (16) 小池滋「ゴシック小説を読む」:岩波書店
    (17) 須永朝彦「血のアラベスク 吸血鬼読本」:ペヨトル工房(1993) p.102
    (18) オンライン・ジャーニーの記事より

    (19) ジャネット・トッド「死と乙女たち ファニー・ウルストンクラフトとシェリー・サークル」:平倉菜摘子訳/音羽書房鶴見書店(2016) p.219
    (20) オンライン・ジャーニーの記事より
    (21) 「血のアラベスク」 p.102

    (註3)
    パーシー・シェリーのwikipediaには、ハリエットは他の男の子種を宿していたとあるが、その相手はマックスウェル大佐(大尉)だとされる。だが夫パーシーの可能性も完全には否定できず、パーシーとの子の可能性もあるという。詳細は「死と乙女たち」pp.242-244と典拠を参照。p.242ではマックスウェル大佐となっているが、次ページでは大尉となっている。単純なミスなのか、それとも意図的に変えて紹介したのかは不明。



     バイロンはパーシーと会うのは初めてであったが、パーシーの「クイーン・マブ(1813)」を既に読んでおり、彼のことは既に知っていた。(22) そして瞬く間に二人は意気投合する。パーシーの愛人メアリーの日記には、バイロンはパーシーと二人きりで話すことを好んでいたようだ。パーシーがバイロンを優先したことに関して、メアリーはどうも困惑していたように思われる。ポリドリの日記にも、バイロンがパーシーとだけ食事をし、会話をすることを好んだことが明らかにされている。(23)


     こうした状況が面白くなかった者がいる。それはもちろん、バイロンの侍医であるポリドリである。マシュー・バンソンは「ポリドリはメアリー・ゴドウィンを一目見て、彼女が嫌いになり、劣等感を抱いた」と言っている。(24)(註4) だがオンライン・ジャーニーの情報では、ポリドリはアリーにほのかに想いを寄せるようになったが、当の本人に「兄のように思っている」と言われしまい、落ち込んだという。(25) 主人バイロンは、ポリドリがメアリーに恋していると思っていたようだ。実際ポリドリは、メアリーを救おうとして跳んだ時くるぶしをくじいてしまい、しばらく足が悪くなった。(26) また次回記事で述べるが、後年ポリドリは自分の「吸血鬼」に盗作疑惑が出たとき、メアリーを引き合いにして盗作ではないという言い分を述べた事実がある。本当に嫌っていれば、メアリーを引き合いにして言い訳するなど、ちょっと考えられないというのが個人的な意見である。


     ポリドリはメアリーを嫌っていたとは考えにくいが、メアリーの愛人パーシーを嫌っていたのは事実なようだ。主人バイロンを取られたような気がして嫉妬してたという。それに対しパーシーはあまり相手にしなかった。ポリドリは、些細なことでパーシーに決闘を申し込むようになるが、射撃が上手いバイロンが変わると言い出してようやく申し出を引っ込めるという有様だった。メアリーの日記にも「ポリドリは、バイロンとシェリー貴族的な親密さに嫉妬していた」と残されている。(27) ただ気に入らない相手とはいえ、パーシーへの医療行為はきちんとしていたようで、度々エーテルもしくはアヘンチンキを処方していた。ちなみにバイロンには前回紹介した当時人気のあったアヘン混合物ブラック・ドロップを度々処方していた。(28) ポリドリは決闘以外にも、機会をとらえてはパーシーを捕まえて生命観のようなことをたびたび議論していたようだ。(29) こうして過ごす中、1816年の6月初旬、クレアは自分が妊娠したことをバイロンに告げた。バイロンは「そのガキは俺の子か?」と言った。(30)(31) そしてバイロンはオーガスタに、クレアから執拗に夜の誘いのことで手紙で相談する。実はバイロンはスイスへ逃亡しても、芸能スキャンダルのために常に好奇の目で見られていた。ディオダティ荘に着いた直後は、「バイロンの連れた小姓は、(かつての愛人)キャロライン・ラムか、(腹違いの姉)オーガスタが変装しているのだろう」と噂された。レマン湖の向こう岸ではバイロンを一目みようと、イングランド旅行客が押し寄せた。そしてホテルは望遠鏡を貸し出すようになる。ディオダティ荘でのバイロンの暮らしぶりの情報が、英国へと逐一報告され、瞬く間にバイロンの噂が英国へと流れた。そして女性トラブルが起きたことが、まるで事実であるかのように、最愛の姉オーガスタの耳に届いてしまっていた。先ほどの手紙は、それを弁明するものでもあったようだ。(32)(33)

     ディオダティ荘滞在中のバイロンは、あることないこと噂された。例えば、バイロンは町中の処女を襲うと噂されたし(34)、テーブルクロスを干しているだけだけなのに、それは少女たちのニッカ―(婦人用のショーツ) であるなどとも噂された。(35) 極めつけは、英国からの旅行客グレンバーヴィー卿シューベスター・ダグラスの日記だ。次のように書いている。

    バイロンは今、ディオダティ荘に例の女性と一緒にいる。シェリー夫人というらしい。つまり、マウント・コーヒー店の経営者の妻だという。(36)

     滅茶苦茶である。バイロンの愛人はクレア・クレアモントであり、パーシー・シェリーとメアリー・ゴドウィンはこの時まだ結婚していない。そしてマウント・コーヒー店の経営者の妻は、パーシーの正妻ハリエット・ウェストブルックである。人の噂がいい加減で無責任なのは、昔も変わらないことが伺える。

    (22) 「永遠の巡礼詩人バイロン」 pp.218-219
    (23) 「悪夢の世界」 pp.14-16
    (24) マシュー・バンソン「吸血鬼の事典」:松田和也・訳/青土社(1994)
    (註4) ネタバレ防止の為、メアリーの苗字は旧姓にして紹介した。

    (25) オンライン・ジャーニーの記事より
    (26) 「永遠の巡礼詩人バイロン」 pp.219-220
       「死と乙女たち」 p.270
    (27) バイロンとポリドリ 相浦玲子 p.12,p.21

    (28) 「悪夢の世界」 p.28
    (29) バイロンとポリドリ 相浦玲子 p.12
    (30) 「悪夢の世界」 p.13
    (31) 「死と乙女たち」 p.271
    (32) 「永遠の巡礼詩人バイロン」 pp.227-228
    (33) 「悪夢の世界」 p.69
    (34) 「死と乙女たち」 p.267
    (35) 「悪夢の世界」 p.70
    (36) 同上 p.69(要約)


    ~歴史的一夜「ディオダティ荘の怪奇談義」~


     パーシーと意気投合したバイロンは、たびたび二人で議論していた。愛人のメアリーは二人の話を聞くだけだった。その一例をあげると、当時話題だったガルヴァーニ電気のこと、『進化論』で有名なチャールズ・ダーウィンの祖父であるエラズマス・ダーウィンが行った「電気を通してパスタを動かす」実験のこと、そして当時最先端科学であった生気論について、たびたび論議していたようだ。(37)(38)(39) また上記でも説明したが、ポリドリもパーシーを捕まえては、生命観についてパーシーと議論していたことが、メアリーの日記に残されている。

     一同が集った1816年の夏という時期だが、前年にインドネシアのタンボラ火山が大噴火した影響で、1816年は夏のない年と言われるほど北半球は寒冷化、欧州は夏にしては寒く雨が続いていた。ちなみに日本は、一般的には影響は少なかったとされる(冷夏程度)。(39) こうした事情があるので、ディオダティ荘にいる間のバイロン卿は外出できず、部屋の中に閉じこもる日々が続いていた。当然、暇を持て余す日々が続く。なので先ほど紹介した、生気論などについて色々談議していた。1816年6月16日の夜、バイロンはパーシーやポリドリらと共に朗読会を開く。手元にあったのは、ヨハン・アウグスト・アペルフリードリッヒ・ラウンが書いたドイツの怪奇譚集Gespensterbuch:幽霊の本をフランス語訳したFantasmagoriana:ファンタスマゴリアーナである。

    (37) 種村季弘「吸血鬼幻想」:河出文庫(1983) p.167、薔薇十字社版(1970) p.128
    (38) 「悪夢の世界」 p.51

    (39) オンライン・ジャーニーの記事より
    (37) ”夏のない年” 日本語wikipedia記事より

    「幽霊の本」の中にある挿絵
    幽霊の本(英wiki)(独wiki
    編者アペル(日本wiki)(独wiki
    編者ラウン(独wiki

     フリードリッヒ・ラウンは仮名で、本名はフリードリヒ・アウグスト・シュルツェ。「幽霊の本」は全7巻あり、最初の巻は1811年に出版。その1巻目の1つ目の作品がDer Freischütz:魔弾の射手である。これは、ヨハン・フリードリヒ・キーント台本、カール・マリア・フォン・ウェーバー作曲した有名なオペラ「魔弾の射手 作品77、J.277」(1821年初演)の元となった作品だ。オペラ「魔弾の射手」は吸血鬼関連の創作であれば、漫画「HELLSING」において、敵の人狼(吸血鬼?)リップヴァーン・ウィンクルの二つ名と能力として登場、実際、オペラの一幕が引用されるシーンがある。(HELLSING 5巻)


    ファンタスマゴリアーナ(英語wikipedia
    (1812年出版)

     上記の「幽霊の本」は1812年、ジャン・バプテスト・ブノワ・エイリエにより仏訳された。(38) 1巻と2巻から抜粋されて仏訳されたが、有名な「魔弾の射手」は翻訳されなかった。吸血鬼関連の本では「ファンタスマゴリア」と表記されることが多いが、「ファンタスマゴリアーナ」と言う方が、元のフランス語の発音に近い。この中の内、L'Amour Muet:ラムール・ミュエという作品は、ポリドリの「吸血鬼」やメアリーの超有名作に影響を与えたとして有名なようだ。"L'Amour Muet"は英語だとThe Spectre-Barber:理容師スペクターという題名になり、英語wikipediaに記事があるので、詳細はそちらを見て頂きたい。

    (38) 「悪夢の世界」 p.22


    テールズ・オブ・ザ・デッド(英語wikipedia
    (1813年出版)

     「幽霊の本」の英訳版。仏訳の「ファンタスマゴリアーナ」からの重訳となる。

     1816年6月16日の夜、バイロンはこの仏語の「ファンタスマゴリアーナ」を朗読した。朗読を終えた後、バイロンは一つの提案をする。それは「自分たちでも一つ、怪奇譚を書いてみないか?」というものだった。(39)(40) この戯れに一同は賛同する。そしてバイロンは早くも翌日6月17日に、一つの作品を皆の前で紹介する。それはFragment of a Novelという作品で、"A Fragment" や "The Burial: A Fragment"としても紹介される。日本においては「断片」という名で紹介されるほか、南条竹則により「断章」というタイトルで邦訳されている。

    (39) 「悪夢の世界」 pp.22-23
    (40) 「死と乙女たち」 p.268




     ”Fragment of a Novel”のwikipedia記事、相浦玲子、種村季弘らは、この「断章」を吸血鬼物語などと紹介しているが(41)本文中には吸血鬼では出てこず、またバイロンがこの後吸血鬼を登場させるようなことを言及したものを私は見たことがない。それはともかくとして、この作品は序盤までの未完成品で、バイロンはたった1日で筆を置いてしまった。後年のメアリーの回想では、バイロンは散文の単調さに嫌気がさしたようだ。では他のメンバーはどうのなかというと、パーシーも怪奇譚というのは性に合わず、少年時代の体験に基づいた話に取り掛かった。クレアはどうも最初から書こうとはしなかったようである。結局この日のメンバーで最初に作品を完成させたのは、パーシーの愛人メアリーだった。この朗読会が行われた2年後1818年、晴れてパーシーと結婚したメアリー・ゴドウィン改めメアリー・シェリーは一つの作品、いや、一匹の化物を作り上げた。その名は…

    (41) バイロンとポリドリ 相浦玲子 p.19、「吸血鬼幻想」 p.168
    ※ 英米文学における超自然 三浦清宏 金井公平 明治大学人文科学研究所紀要 (別冊10), 193-208, 1990-03-25 p.3においても、「断章」を吸血鬼小説として紹介している。



    メアリー・シェリー
    (1797~1851)

     彼女が作り上げた作品とは、「フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス」
    そう、西洋三大モンスターの内の一つ、最初のSF作品だとも言われている世界的超名作を、彼女は世に送り出したのである。



    ボリス・カーロフが演じたフランケンシュタインと、それに準じたコスプレセット

     バイロン卿の提案は二つの作品(化物)を生み出した。一つはドラキュラへとつながる、最初の吸血鬼、そしてもう一つがフランケンシュタイン。バイロン卿の一夜の提案により、2匹の偉大なる化け物が生まれることとなった。こうしたことからこの摩訶不思議な、運命とさえ言えるこの一夜は『ディオダティ荘の怪談談義』と呼ばれている。この呼び方は書評家や訳者によって違い、「ディオダティ館の幽霊会議」「ディオダティ館の夜」などと表記する人もいるが、wikipedia記事の影響もあってか、ディオダティ荘の怪奇談義が一般的に使われる。(註5)

    註5 ディオダディではなくディオダティと、最後は濁音にならないのが正しい。詳しくは後述する。


     第1回目の記事で私は、吸血鬼好きを名乗ったり考察するのであれば、ポリドリの「吸血鬼」は常識であると述べたが、それはポリドリの吸血鬼が出来たきっかけは、同時にフランケンシュタインも生まれたからである。色んな書籍を見ると、この出来事は文学史を見る上では当たり前の情報として扱われているようだ。先行してニコニコ動画で紹介したときも「怪奇文学を知る上では常識」といったコメントもあった。さらに言えば、平井呈一訳の「吸血鬼ドラキュラ」の巻末において、平井自身がこの出来事を簡潔に紹介しているのである。「吸血鬼ドラキュラ」は2014年に田内志文訳が出るまでは、実質平井訳しか入手できなかった。ポリドリの「吸血鬼」を知らないというのは、吸血鬼の常識たる「吸血鬼ドラキュラ」すら読んでない可能性が非常に高いことを示していた。だから吸血鬼の考察をしたり吸血鬼好きを公言するのであれば、ポリドリの「吸血鬼」は常識と言った次第だ。(ちなみにニコニコのコメントには、平井版読んだけど、解説までは見てないというひとも何人かいた)

    ~詩人バイロン卿と吸血鬼ルスヴン卿~


     話をポリドリたちに戻そう。さてメアリーは1818年にフランケンシュタインを作り上げた訳だが、現在は1831年に出版した第三版が基本的に出回っている。その第三版にメアリーは前書きを挿入したのだが、そこには作品を生むきっかけとなった、あのディオダティ荘での一夜についてもメアリーは触れている。それはいくつかある日本語訳においても、まず紹介されている。ダーウィン博士によるバーミセリというパスタを使った実験のこと(註6)、バイロンの提案により、みんなでお話を作ろうとしたこと、バイロンやパーシーは早々に諦めてしまったこと。そしてポリドリが作った作品についても言及している。

    亡きポリドリは、頭が髑髏にされてしまった女性について、恐ろしいことを思いついた。彼女がそんなことになったのは鍵穴から覗き見した罰なのだけれど、何を見たのだったかは覚えていない。
    (中略)
    処理に困ったポリドリは、しかたなく彼女に相応しいただ一つの場所、つまりキャピュレット家の墓所へと彼女をおくりこむことになった。

    メアリー・シェリー「フランケンシュタイン」森下弓子訳/創元推理文庫(1984)pp.8-9

     このことで分かるように、ポリドリが最初に作ろうとしたのは「吸血鬼」ではなく、「頭が髑髏にされてしまった女性」についての作品だった。それはErnestus Berchtold ; or, The Modern Oedipus:エルネスタス・バーチトルド 現代のオイディプス(1819年)という作品で、スイスを舞台とした近親相姦の物語だ。(42) ポリドリは、メアリーがフランケンシュタインの着想を得た晩に、この作品を書いたと主張している。1816年当時、ポリドリとメアリーの仲は良好だったのにもかかわらず、フランケンシュタインのまえがきでメアリーが、このポリドリの作品の酷評したことについての真意は分からないとされる。(43)

     ポリドリが「吸血鬼」を作るのは、バイロンに解雇されてからのことである。1816年9月6日のポリドリの日記には「LB(バイロン)は我々の離別を決めた。いかなる不和によるのでもなく、合わないというだけだ」書いている。バイロンに侮辱を受けて不仲だったので解雇されたと紹介するものもあるが(44)、当事者の日記を見る限りでは、あくまでそりが合わないからという理由だったようだ。(45)

     ディオダティ荘の怪奇談義から3年後の1819年4月、ポリドリの「吸血鬼」は「ニュー・マンスリー・マガジン」誌4月号(註7)にて掲載されたが、この時どういうわけか、作者はポリドリではなくバイロン卿として出版された。なぜ作者を取り違えたのかは次回の記事で説明する。ともかく、これに対してバイロンは怒った。理由の一つ目は、自分の名前を勝手に騙られたということ。二つ目は、内容がどうみても自分が見せて聞かせた「断章」を、明らかにベースにしていたということ。そして3つ目、「吸血鬼」のなかに登場する吸血鬼ルスヴン卿に不快感を示したことだ。以前の記事で紹介したように、吸血鬼ルスヴン卿は色白の美形で女を魅了するどころか、男さえも魅了するゲイセクシュアル的な要素を持っている。そして一方のバイロンはというと、色白の美形で女どころか男色にも手を染めている。染めたがゆえに祖国を追放された。ここまで言えば、御分かりになったことだろう。そう、吸血鬼ルスヴン卿はどうみてもバイロン卿がモデルであるとしか思えない吸血鬼であったのだ。実際、当時の人々たちは、ルスヴン卿はバイロンがモデルであると信じていた。(46)

    (42) 「血のアラベスク」 p.108 作品タイトルの邦題の表記は「血のアラベスク」に準じた。
    (43) ジョン・ポリドリの『ヴァンパイア』 細川美苗 pp.52-53
    (44) 「吸血鬼の事典」 p.340,p.397
    (45) ジョン・ポリドリの『ヴァンパイア』 細川美苗 pp.54-55

    註6 森下弓子 p.10
    森下によると、ダーウィン博士の実験というのは、博士が実際に行ったこと、あるいは行ったと自ら述べたことをいうのではなく、当時世間で言われていたことという意味である、としている。

    註7
    「吸血鬼幻想」p.169ではニュー・マンスリー・レヴェー誌としているが、他の書籍やwikipedia記事では、レヴェーではなくマガジンしており、マガジンと言う方が一般的だと思われる。

    (46) 「吸血鬼幻想」pp.169-170 このあたりは特に言及している参考文献が多く、残りは割愛するが、吸血鬼幻想がバイロンの心情を、端的に紹介したものだろう。但し、種村の憶測も多いことに注意。



     そう、バイロン卿こそが、今日におけるすべての吸血鬼のモデルといってよい。よくヴラド三世が吸血鬼のモデルであるかのように巷では言われているが、ヴラド三世は数多の吸血鬼作品のなかで後発も後発作品である「ドラキュラ伯爵」の元ネタでしかない。ましてや原作のドラキュラ伯爵は美形ではない。現在のステレオタイプな吸血鬼、高貴で貴族的、高慢、美形、男すらをも魅了するゲイセクシュアルな要素、これらはすべてバイロン卿に起因している。以前の記事で紹介したように、バイロンの「チャイルド・ハロルドの巡礼」に登場する主人公は、バイロン自身がモデルであることからバイロン的主人公:バイロニック・ヒーローと呼ばれ、wikipediaにも記事が存在している。そこからマシュー・バンソンはこうしたルスヴン卿のことをバイロン的吸血鬼の嚆矢と呼んでいる。ポリドリの吸血鬼はたちまちにして大量の模倣作品を生み出し、これらがまた吸血鬼のバイロン的イメージを強め、吸血鬼の一般的なイメージをそのように変えていったと、マシュー・バンソンは評価している。(47) それは遠く離れた日本でも同じだ。現在商業、同人問わず色んな吸血鬼作品があるが、大体がバイロン的吸血鬼の要素を何かしら持っている。多くの書評家や評論家が「最初の吸血鬼はルスヴン卿」というのも頷ける話だろう。気付いた方らもいらっしゃるだろうが、なぜここまでバイロンのことを詳しく解説したのかというと、今日の吸血鬼のモデルとなったバイロンという人物を紹介したかったからである。彼のことを詳しく知れば、おのずと最初に説明したルスヴンと似ているということが察せられるはずだ。実際、先行のニコニコ動画で紹介したときは、「吸血鬼ルスヴン卿って、もしかしてバイロンなのでは?」と、解説の途中で気づく人も何人かいらっしゃった。吸血鬼のモデルはヴラド三世ではなくバイロン卿である、ということをもっともっと広めていきたい。

    (47) 「吸血鬼の事典」 p.95,p.397

     きりがいいので続きは次回にします。この後は補足と、ディオダティ荘の怪奇談義にまつわる映画や創作を紹介したいと思います。


    【補足①】 ディオダディ、それともディオダティ?

     ディオダティ荘の怪奇談義だが、日本では長らくディオダディと、最後のティがディと濁音になって紹介されていた。元は”Villa Diodati”と最後が"ti"となっているので、ディオダティが正しい。これは種村季弘の「吸血鬼幻想」において間違われてから、長年この誤字で紹介され続けたそうだ。wikipedia記事では長らく本文中は正しかったが、タイトルは「ディオダディ荘の怪奇談義」と誤字のままだった。だが2020年にようやくタイトルも修正された。2019年7月18日、NHKプレミアムで放送されたダークサイドミステリー「不老不死!?吸血鬼伝説の真相~人類VS天敵~」においても、中田譲治のアナウンスと画面のテロップは誤字で紹介されていた。そこでNHKに間違っているのではないかと問い合わせたところ、NHKも間違いを認めた。それどころか早くも7月25日再放送分ではテロップを修正、ナレーションも修正して放送していた。下記画像は修正前と修正後のもの。




     上記で、現在のディオダティ荘には「詩人バイロン卿が『チャイルド・ハロルドの巡礼第三篇』を書いた」という記念の銘板が、誇らしげに掲げられていると説明したが、バイロンの名前しかなく、メアリー達の名前は一切ない。宣伝するのであればポリドリの「吸血鬼」はまだしも、「ここでフランケンシュタインが生まれるきっかけが行われた」とでも掲げたほうが、フランケンシュタインの知名度的に考えて、チャイルド・ハロルドの巡礼より宣伝になるだろうにと思う。ジャネット・トッドも、暗にそのことを疑問視している節の発言をしている。(48)

    (48) 「死と乙女たち」 p.368

    【補足②】怪奇譚を書くように提案したのはバイロンではない?

     平井呈一訳の「吸血鬼ドラキュラ」の巻末において、平井は今回の「ディオダティ荘の怪奇談義」についても簡単に紹介している。だが平井は、怪奇譚を書くように提案したのはバイロンではなく、イギリスの小説家マシュー・グレゴリー・ルイスであると紹介している。

    マシュー・グレゴリー・ルイス
    (1775~1818)

     代表作は「マンク(修道士)」で、彼は通称「マンク・ルイス」と呼ばれるほど彼のマンクは有名。マンクと言うよりモンクと言った方が、まだ通じるかたもいらっしゃるだろう。さて実はこのあたりを解説していた海外サイトが消失してしまったのだが、そこには確かに、ルイス提案説が主流だった時期があったと書いてあった。だが現在は、ディオダティ荘の怪奇談義が行われたのは1816年6月16日、それに対してルイスがディオダティ荘に来たのは、1816年8月18日であることが判明しているので(49)、現在はルイス提案説は否定されているということであった。平井呈一の解説は、そのルイス提案説が主流だったときのものだったようだ。それにきちんとしたソースではないが、バイロンはルイスと会った後、こんなことを言ったらしい。


     バイロンはルイスのことを、アホなブタ野郎呼ばわりしている。そんな風に評価した相手の提案に乗るとは思えない。

    (49) 「永遠の巡礼詩人バイロン」 p.231 ルイスがやってきた日に関して参照。

    【補足③】ディオダティ荘の怪奇談義の時系列について


     ディオダティ荘の怪奇談義では「コールリッジの『クリスタベル』を聞いたパーシーが、乳首が目になった女を思い浮かべた」という有名なエピソードがある。また怪奇談義行われた日と一行が読んだ本の順番は、参考文献によってまちまちだ。以下のそれぞれの本の要約を抜き出す。


    「吸血鬼幻想」 河出文庫版 pp.167-168  薔薇十字社版 p.128
     ガルヴァーニ電流やダーウィンの実験などの生気論にまつわる話をする。そして頃合いになった時、バイロンがコールリッジの「クリスタベル」を朗読する。すると神経過敏状態だったパーシーはこれを聞くと幻覚状態に陥り、全身冷や汗をかき、大声をあげながら突然部屋を走り出た。見つけると意識不明で昏倒していた。ひとしきりすると一同は気を取り直して、今度はフランス語訳されたドイツの幽霊怪奇譚を読み始めた。そして最後にバイロンが自分たちで怪奇物語りを書こうと提案した。

    クリスタベルを朗読 → パーシー倒れる → 気を取り直してファンタスマゴリアーナを読む → バイロンが怪奇小説を自分たちで書くことを提案する、という順番であり、しかもそれが1日の出来事として紹介している。


    「血のアラベスク」 pp.104-105
     ドイツの恐怖小説を回し読んで善し悪しをあげつらった後、コールリッジの「クリスタベル」を朗読する。するとパーシーが脂汗にまみれて部屋から逃げ出す。気絶した状態で見つかる。そして最後に、バイロンが怪奇小説を書こうと提案する。

    ファンタスマゴリアーナを朗読 → クリスタベルを朗読 → パーシー倒れる → 一連の騒動の後、バイロンが怪奇小説を書こうと提案する、という順番。こちらも1日の出来事として紹介している。


    「悪夢の世界」 pp.22-26,pp33-34
     pp.22-23でまず、一行が「ファンタスマゴリアーナ」を読んだことを説明、ここでは具体的な日付の紹介はなし。次のp.24、メアリーの回想、ポリドリがエルネスタス・バーチトルドを書こうとしていたことの解説。p.25-26、1816年6月18日、一同が集まって「クリスタベル」をバイロンが朗読すると、パーシーは突如叫びだし、両手を頭にのせローソクをもって部屋から飛び出した。気絶したパーシーの顔に水をかけ、エーテルをかがせた。するとかつて聞いたことのある女、なんでも乳首の代わりに目がある女を思い出したという。これはポリドリの日記に書いてあったこと。
     pp.33-34、ポリドリの日記にある時系列とクリストファー・フレイニングの考察について。ディオダティ荘の怪奇談義が行われたのは1816年の6月15日か16日のどちらかで、16日の方が可能性が高い。亡霊物語の会は6月17日と18日に行われたことになる。バイロンの断章は1816年6月17日という日付がついている。(以上の流れをフレイニングはあちこち話題を変えながら、分かり辛く書いている。)

    6月16日、ファンタスマゴリアーナを朗読、バイロンが怪奇小説を書こうと提案する。
    6月17日、バイロン「断章」を序盤まで書いて筆を置くも、みんなの前で披露する。
    6月18日、バイロンが「クリスタベル」を朗読するとパーシー発狂、話を聞くと「乳首が目になった女」を思い浮かべたという。


     以上のように各々時系列が違う。結論は、クリストファー・フレイニングの「悪夢の世界」で紹介している時系列が正しい。これは当事者であるポリドリの日記に正確な日付があるからだ。だが私は長いこと、種村の「吸血鬼幻想」の時系列が正しいものとばかり思っていた。最初に読んだのが種村のものだったことと、種村は断定的な書き方をしていた為に、私の中でバイアスがかかった。だから「血のアラベスク」や「悪夢の世界」の解説は間違っていると早計に判断してしまっていた。とくに「悪夢の世界」だが、非常に目が滑り読み辛い。著者のクリストファー・フレイニングは時系列をあちこちに飛ばして解説しているし、最初にファンタスマゴリアーナを朗読したと紹介したときは、具体的な日付も紹介していない。そしてこの本は、とにかく翻訳も悪く読むのが辛い。英文によくありがちな、本文中に長い注釈が入っているので、それをそのまま日本語の文法に当てはめると、話の腰を折られる文章が多々ある。そしてどうも直訳ばかりしているようで、意味が分からない文章も多い。外国人特有の小難しい言い回しが、それに拍車をかけている。この本を見るのは辛いということもあって、既知の情報は流し読みし、他の本には書いてないところだけを集中して読んでいた。


     「悪夢の世界」が正しいと分かったのは、ジャネット・トッドの「死と乙女たち」を読んでからのこと。pp268-269に分かり易く、当時の時系列が紹介されていた。これを見た後「悪夢の世界」をもう一度よくよく読んでみると、非常に分かりづらい書き方をしているが、ジャネット・トッドと同じ時系列で紹介していると、ようやく理解できた次第だ。その後、松山大学・細川美苗の「ジョン・ポリドリと『ヴァンパイア』」(pp.53-54)という2018年の論文においても、「悪夢の世界」と同じ日付で紹介していることが確認できた。しかもこちらは典拠付き紹介しているので、まずこれで間違いないだろう。「吸血鬼幻想」や「血のアラベスク」は参考文献一覧はあるものの、論文のような細かい引用はしていない。


     ついでなので、なぜパーシーが「乳首が目になった女を思い浮かべたのか」について解説しておこう。バイロンが「クリスタベル」中の「魔女の胸」のいくつかの詩を繰り返した時に、それを思い浮かべたそうだ。これはパーシーの最初の妻ハリエット・ウェストブルックの姉、(パーシー曰く)悪魔的なイライザ・ウェストブルックが胸をはだけ、「乳首の代わりに二つのぎらぎら輝く目」を以前見せてきたことがあるとパーシーを主張しており、これを思い出したようだ。ちなみにパーシーはイライザのことを「吸血鬼」呼ばわりし、「ひどく邪悪な力を持った完璧な悪霊」などと言ってたりもする(48) そこまでの恐怖を与える威力が「クリスタベル」にあるのだろうか。須永朝彦は、「クリスタベル姫」には今日の私たちにはさほど怖いものとも映らない、150年前あまりのことであるし、その場の雰囲気を推量すれば、繊細な神経の持ち主であったパーシーが、恐怖を覚えたというのも有りえたのかもしれないと述べる。(49) パーシーは、エーテルやアヘンチンキをポリドリから度々処方されていたので、その影響も何かしらあったのかもしれない。

    (48) 「死と乙女たち」 p.148,p.270
    (49) 「血のアラベスク」 pp.104-105



    ~ディオダティ荘の怪奇談義をモチーフとした劇や映画について~


     今回紹介したディオダティ荘の怪奇談義だが、これにまつわるエピソード自体が面白い。下手をすれば、「吸血鬼」や「フランケンシュタイン」以上に面白く感じる方もいらっしゃるだろう。それは海外でも同じであり、この出来事自体が映画や劇にされている。ということでそれを紹介しよう。現在、この出来事を描いた映画はいくつかあるが、今でも見ることができるものは映画「ゴシック」映画「メアリーの総て」だ。
    解説の都合上、ネタバレしていくので気になる方はご注意を。

     映画ゴシックのパッケージ

    映画「ゴシック」のパッケージのもととなった
    ヘンリー・フューズリー作「夢魔(悪夢)」

     まず有名なものは鬼才ケン・ラッセル監督による1986年のイギリスの映画「ゴシック」だろう。wikipedia記事もある。その内容だが…この映画は評価が難しい。というのもこの映画、ディオダティ荘の怪奇談義や人物の数々のエピソードを知っているという前提で作ってるとしか思えない内容だからだ。まずパッケージの絵だが、これは上記で見せたように、ヘンリー・フューズリの「夢魔」という絵が元。メアリーのフランケンシュタインはフューズリの絵から影響を受けているほか、実際にフューズリに出会ったこともある。それどころかメアリーの母、メアリー・ウルストンクラフトは18歳年上だったフューズリと当時不倫関係にさえあった(50)(51) 映画ではこの悪魔が出てくるシーンがあるが一切説明はない。リアル知識がないと「なんか変なサルが実体化してきたなぁ」という感想しか抱かないだろう。だがこの絵は映画「メアリーの総て」にも登場する、メアリーを語る上で重要な作品だ。

    (50) 「悪夢の世界」 p.37
    (51) 木村晶子「メアリー・シェリー研究―『フランケンシュタイン』作家の全体像」:鳳書房(2010) p.32


     次、バイロンが侍女に抱き着いて「オーガスタ、オーガスタ」と呟いて泣いているシーン。


     当時禁忌だった近親相姦をしてまで愛した実の姉オーガスタのことを思って泣いているシーンなのだが、それまでにオーガスタの説明は一切ない。一応後半にメアリーから「実の姉を犯した気分はどう!?」と罵られるシーンはあるものの、リアル知識がないとオーガスタって誰?となるだろう。


     このシーンのみで、唐突に名前が出てくるウィリアム。このウィリアムとはメアリーとパーシーの2番目の子、生後数か月のウィリアムのこと。この後「一晩乳母さえいれば」というのでそこから推測はできるものの、ウィリアム自身が出てこないこともあり、これもリアル知識がなければ誰のことだか分からないだろう。


     順番は前後するが、冒頭のシーン。イギリスから野次馬が襲来して望遠鏡でバイロンたちを盗撮するシーン。ここで紳士が聴衆に対して、バイロンとはどういう人物なのかを説明している。字幕ではその名前は一切表示されないが、この紳士は確かにキャロライン・ラムという名前を口にしている。そう、バイロンとかつて愛人関係にあり、その後ヤンデレになってしまったあのキャロライン・ラムのことだ。ここは実際には「キャロライン・ラムとの不倫関係で有名になり~」といったニュアンスなのだろう。このことで分かるように、字幕の邦訳はそこまで正確ではなさそうなことが伺える。

     実際の内容だが、中盤ぐらいまでは史実通りに話が進む。史実通り不自由な右足を引きずって歩くバイロン、バイロンに依頼されてポリドリはバイロンの伝記を書いていること、ポリドリの悪夢に関する論文の話題がでたりなど、妙に細かい部分で史実ネタがちりばめられている。ディオダティ荘の怪奇談義の時系列は、「悪夢の世界」の通り。つまり正しい順序で行われている。中盤で、クレアはパーシーとも性行為があったのだろうとバイロンがメアリーに問い詰めるシーンがある。一般的にクレアとパーシーは肉体関係になかったとされる。だがそういったうわさがあったのは本当で、メアリーの父ゴドウィンやバイロンはどうもその噂を信じていたようだ。なかにはそれが事実だと考える学者もいるようだ。そのあたりの詳細はジャネット・トッドの「死と乙女たち」やクレア・クレアモントの英語wikipedia記事を読んでいただきたい。


     史実とは違う展開ではあるが、パーシーが見たという乳首が目になった女が出てくるシーンもある。

     ディオダティ荘の怪奇談義のあとは、オリジナル展開になる。一行は降霊術を行い、幽霊を呼び出す儀式を行う。そこからどんどん奇妙なことが起きて、みんな狂っていく(特にクレア)
    終盤、メアリーは幻覚をみる。それは死産の子、死んだ男の子、死んだ赤子、ポリドリの服毒自殺、葬式で死んだ女の子を抱えるバイロンと、それを恨めしそうに見るクレア、そしてそれに対して不敵な笑みを浮かべて返すバイロン。夫のパーシーが水死してキリスト教ではありえない火葬されるシーン、そして最後、バイロンがベッドで、瀉血のため顔中にヒルをくっつけられて苦しみながら最愛の姉オーガスタの名前を連呼する。この情景をみたメアリーは絶望し自殺を試みるが、寸のところでパーシーに止められる。理由を聞くと今見た幻覚は未来だ、だから死んで未来を変えるつもりだったと告げる。そして翌朝、平和な日常が戻る。メアリーはフランケンシュタインを書くことを決意する。そしてポリドリは史実通り、この時は「吸血鬼」ではなく、頭が骸骨になった女性の話を書くことを思いつく。


     このメアリーの幻覚だが、メアリーの子の死とか、パーシーの葬式のシーンで一部史実とは違うところはあるものの、全て実際に起きたことである。リアル知識があれば「ああ、この後のメアリーたちの未来だな」と分かるが、何も知らない人たちは置いてけぼりの展開だろう。とくにバイロンが抱えた死んだ女の子と、それを恨めしそうにみるクレアは、史実を知らなければ到底理解できないと思う。この死んだ女の子は、バイロンとクレアの子アレグラで、私のな中ではバイロン卿の一番のクズエピソードだと思っている。(パーシー・シェリーがブチキレて、バイロンに決闘を申し込もうとしたほど。だが誤解を招いたパーシーも悪いが)

     この映画はホラー映画という位置づけのようだが、今見るには古臭すぎ、当時基準でも怖いものとは思えない。人間の狂気を描きたかったのかもしれないが、演出がエキセントリックすぎた。

     序盤、アヘンをキメたパーシーが地下へ行くと、へんてこな人形が変なBGMとともに変な踊りを披露する。パーシーが乳首を押すと衣装の一部がパージ、腰を振る人形の股間には取っ手が付いており、それをパーシーが触ろうとすると、触れるなと言わんばかりに手をはたく人形……ラッセル監督が鬼才と言われる所以が理解できるシーンである。ちなみにこの人形はインド産らしい。

    その後、裸になって変なポーズを取るパーシー・シェリー


    パーシー・シェリーを演じたジュリアン・サンズ
    左は演じたパーシー・シェリー、真ん中は若いころ、右は現在の姿

     ジュリアン・サンズは、アン・ライス原作の名作吸血鬼映画「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」において、原作者のライスが吸血鬼レスタト役に考えていた俳優だ。だがレスタトはあのトム・クルーズが演じることになり、ライスも絶賛したという。

     さてこの記事は吸血鬼に関することなので、吸血鬼を作ることとなったポリドリに関して気になる人もいるだろう。だがこの映画のポリドリは酷い。


     この映画のポリドリは、スキンヘッドのホモになっている。昔の映画なのでホモ呼ばわりである。普段はカツラを被っている。(何故だ!)史実のポリドリはお調子者とはいえ、ハリエット・マーティノーは「美男」といっているのだから、このキャスティングは一体何を考えてのことなのうだろうか。須永朝彦も「スキンヘッドの同性愛者に描かれていて、ちょっと気の毒に思われます」という感想を漏らしている(52) だがこのポリドリを演じられたティモシー・スポールは、映画「ゴシック」の出演者のなかでは、一番国際的に有名になった俳優である。

    (52) 「血のアラベスク」 p.105


    映画「ラスト サムライ」よりサイモン・グレアム



    映画「ハリー・ポッター」シリーズよりピーター・ペティグリューとそのフィギュア


    映画「ターナー、光に愛を求めて」より、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー

     ティモシー・スポールは、渡辺謙主演の映画「ラスト サムライ」に出演しているどころか、今や世界的名作小説と映画とで知られる「ハリー・ポッター」シリーズのピーター・ペティグリューを演じた俳優として世界的に有名。ティモシー・スポールが演じたピーター・ペティグリューのフィギュアが発売されるほど。名脇役として名を馳せていたが、実在した画家ターナーを演じた映画「ターナー、光に愛を求めて」では、ついに主役ターナーを演じ、第67回カンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞した。スポールは一般的に「ラスト サムライ」で一躍に有名になったと言われている。須永氏も今なら「あのハリー・ポッターに出演した名優による演技」と、少しフォローを入れた評をしたかもしれない。ちなみに実在のターナーは、バイロンの詩「チャイルド・ハロルドの巡礼」を元にした、その名も「チャイルド・ハロルドの巡礼」という絵を描いている。

    ターナー作「チャイルド・ハロルドの巡礼」(1832年)

     以上をふまえると、映画「ゴシック」はリアル知識ありきの作りであり、何も知らない人が見れば理解できないシーンが多いし、たぶん退屈すると思う。かといってホラー部分に目を向けても、当時基準だとしてもそれほど怖いものとは思えず、人間の狂気というよりは、ラッセル監督のエキセントリックな演出が目についてしまう映画だ。史実映画としてもホラー映画としても中途半端な印象を持った。中盤からのオリジナル展開はやめて、史実映画にしていればまだ評価は上がったかと思う。昔はレーザーディスク版もあったそうだが、現在はDVD版を中古で手に入れるしかない。DVD版はLD版と比べて画質が悪いので、その点においても悪い評価が目に付く。正直、視聴はそこまでお勧めできるものではなく、気になれば見る程度でいいかと思う。最後に一つ、キャスト一覧を見るとそこには、バイロンの小姓ラッシュトンも登場していたようだ。こういう言い方するのは、作中に名前は出てず、どこで出てきたのか分からなかったから。でもきちんとキャスティングするあたりが好印象だった。



     映画「メアリーの総て」は、サウジアラビア初の女性監督ハイファ・アル=マンスールが監督を務めた作品。原題はそのまま"Mary Shelley"である。公開は2018年と、メアリーが1818年に発表したフランケンシュタイン生誕の200周年を記念するかの如く上映された。この映画だが…私のなかで超クソ映画だった!いや、起承転結がきっちりしているので、なんの知識もない人がみれば、間違いなく先ほどの「ゴシック」よりはまだ楽しめるのは確かだ。実際、日本の女性たちを中心に好評である。だがメアリーの史実を知っている人、私もそうだが、とくに海外ではすこぶる評判が悪い。

    以前詳細なレビュー記事を投稿したので、そこで詳しく見て欲しいが、簡単にだけ理由を説明しておこう。

    以前のレビュー記事
    映画「メアリーの総て」、全然「総て」ではなかった!【批判的レビュー&解説】

     私が怒った理由は、、史実改変があまりにも激しいこと、とくに一番求められていたであろうディオダティ荘の怪奇談義の内容の改変は、許容できる範囲を超えた。とにかく女性蔑視を訴えたいがために、とにかくメアリーを悲惨に、事実を捻じ曲げて周りの男たちを悪くしたてあげたこと。監督や脚本家のイデオロギーの道具にされてしまったような印象をもったからだ。

     史実改変に関しては仕方がないと思う面もある。クレア・クレアモントの兄チャールズ・クレアモントやメアリーの種違いの姉、ファニー・イムレイを出す必要性は、正直あまり感じられない。特にファニーは幼いころ天然痘にかかった影響で、その影響が顔に残っているとされているから、出すとなると特殊メイクが必要になってくる。メアリーの第三子クララが、映画では第一子になっている。メアリーの子供たちの削除や一度駆け落ちしてまたイギリスにもどってきたエピソードを削除するのは、上映時間を考えれば仕方がないかなとも思えた。

     だが、史実では右足が不自由で生涯足を引きずっていたバイロンが元気よく歩くシーンは、一体どういうことなのか。ディオダティ荘でパーシーを出迎えるシーン、どう見てもバイロンの足は快活に動いている。ゴシックはここはきちんと演技をしていたというのに。こういった部分で監督や脚本家の人物考証が雑に感じられた。

     一番許せなかったのが、一番重要なディオダティ荘の怪奇談義のシーン。ファンタスマゴリアの朗読はなく、いきなりバイロンが「怪奇譚を書こう」と提案。一番求められていたであろうシーンを改変するとは何事か!しかもこの後の展開がさらに私の怒りを買う。なんとポリドリは「頭が骸骨になった女性」の物語ではなく、いきなり「吸血鬼」を書くと言い出す。しかもそれを聞いたバイロンが「吸血鬼なんて存在しない」と鼻で笑った。ふざけんな!なんでそこ改変する!バイロンは以前、自分の詩「異教徒」で吸血鬼の話題をしている。だから少なくとも「吸血鬼は存在しない」と、鼻で笑うようなシーンはありえない。このように、実在の人物に対する敬意を払わない展開に怒りを覚えた。一番求められていたエピソードなのに、この展開はあんまりすぎる。

     その後はメアリーにとって厳しい展開が続く。フランケンシュタインを書こうとするメアリーに対して、パーシーは「そんな物語書いてどうする」みたいな辛辣な対応をする。また女性を理由に出版を断られるシーンもある。これもふざけるなといいたい。史実ではむしろパーシーの方から、フランケンシュタインの執筆を促した。しかもパーシー自身が加筆してしまったものから、長年メアリーの文学的功績が評価されなかったぐらいだ。そして当時身重だったメアリー(映画では第一子となっていたクララを身ごもっていた)に変わって、出版してくれる出版社を探し回ったのも夫のパーシーである。そして唐突に挟まれる、ポリドリのシーン。ポリドリは「吸血鬼」を出版するも、バイロン作ということで出版されてしまい盗作疑惑が出てしまったと、メアリーに打ち明けるシーンがある。何も知らなければポリドリ可哀そうになるだろうが、実際はバイロンの「断章」からの明らかな剽窃があるので、盗作疑惑は残念だが当然なのである。そもそも唐突に出てくるので、正直ポリドリをここで出す必要が全く感じられなかった。最後のシーン、クレアはバイロンに捨てられるも、おなかの子に関しては養育費を払うと言われ、一方的に別れを告げられる。これバイロンが非道に見えるかもしれないが、史実を考えるとむしろかなりマシな対応している。それどころか史実があまりにも酷すぎるのでよかった、とさえ思ってしまったぐらいだ。史実ではすぐさま子どもから引き離され、クレアはその後一切自分の子アレグラに会うことが出来ず、アレグラは5歳で死んでしまったのだから。なぜここも改変したのか。史実通りで問題なかったはずだ。むしろバイロンの非道さが際立っただろうに。最後ナレーションで各人物のその後を説明していたから、「永遠に会えなかった」と一言入れておけば、それで展開上問題もなかったはず。

     「メアリーの総て」でも、ヘンリー・フューズリの絵画「夢魔」が登場する。こちらはメアリーの口から、母ウルストンクラフトとフューズリは、かつて愛人関係だったという説明がある。ちなみに映画のPVでもフューズリの「夢魔」の絵が出てくる。

     「メアリーの総て」をみて、思ったことは「ゴシック」は意外と史実に沿っていたんだなぁと認識できたことだ。確かに後半を中心にオリジナル展開はあるのだが、「リスペクト魂」は感じとれるのである。要所要所で、そして何気ないところでも史実ネタが散りばめられている。だから「ゴシック」はつまらないとは思っても不快には感じなかったのだとわかった。

     あらかた不満をぶちまけたところで、この映画のポリドリを紹介しておこう。

    「X-MEN: アポカリプス」よりアークエンジェル

    「ボヘミアンラプソディ」よりロジャー・テイラー

    「メアリーの総て」よりジョン・ポリドリ

     「メアリーの総て」でポリドリを演じたのは、イギリスの新進気鋭の俳優ベン・ハーディ。X-MENアポカリプスで映画デビュー。とくに、実在したロックバンド、クイーンのボーカルであったフレディ・マーキュリーの生涯を描いた2018年の映画「ボヘミアン・ラプソディ」で、クイーンのドラマーのロジャー・テイラーを演じて、一躍有名になった。見て貰えればわかるが、かなりのイケメンだ。史実ではポリドリは美男だとされているが、同時にそそっかしいだの、おしゃべりで出しゃばりだの、何かとパーシーと張り合うなどと言った面もある。だがこの「メアリーの総て」のポリドリは終始かっこよすぎる。むしろパーシーが嫉妬してポリドリに殴り掛かるも、逆に返り討ちにするほどである。彼のイケメンぶりは「ゴシック」のポリドリと比べると、特に顕著だ。


    左:史実のポリドリ:美男だがそそっかしい、お喋りで出しゃばり
    中:ゴシックのポリドリ:スキンヘッドのホモ、お喋り、お調子者
    右:メアリーの総てのポリドリ:見た目も言動もイケメン
    間を取ったポリドリは、果たして今後出てくるのであろうか…

     この映画のパンフレットやインタビュー記事なんかをみると、どうも監督や脚本家のイデオロギーの道具にされてしまった感がある。監督は女性という理由だけで殺害予告もされたことがあるそうだ。とにかくメアリーが不幸だったということが言いたいがために、パーシーやバイロンを、必要以上に悪く描写するのはいかがなものかと思う。二人は確かに史実ではクズエピソードは満載だが、少なくとも二人は文学に関してメアリーに真摯だった。バイロンはメアリーの文学的な影響を大いに与えたし、少なくともパーシーが死ぬまでは、クレアと違い関係は良好だった。パーシーもフランケンシュタインの執筆をメアリーに促し、これに関しては協力的だったのに、映画では否定的に描写するなど、一体何を考えているのか。

     日本では女性を中心に評価が高いが、海外ではどうなのか。最近は日本でも有名になったロッテン・トマトのレビューを見てみよう。ロッテン・トマトは評論家スコアと一般視聴者スコアに分かれており、それぞれ高評価ならフレッシュトマト、ポップコーンの評価となるが、低評価になると腐ったトマト、倒れたポップコーン評価となる。大衆映画にもなると低評価の評論スコアはあてにならないなどと言われている。では「メアリーの総て」ではどうか。


     意外や意外、一般どころか評論家スコアも低かった。評論スコアのレビューを見ていくと、評価を落とした理由として「史実とかけ離れている」という点で批判が集まっていた。メアリー・シェリーの伝記に、日本より触れやすい海外では、史実映画が求められていたようだ。ジャネット・トッドも「このディオダティ荘での一夜のエピソードほど、多く書かれたものはない」と言っている。だからメアリーのエピソードで一番重要なシーンが削られたこの映画が海外では低評価なのもやむなしというものだろう。

     以上から私のように、ある程度史実を知ってしまったら「メアリーの総て」は楽しめなくなるだろう。メアリー以外の人物に対してリスペクトを感じず、監督や脚本化のイデオロギーの道具にされてしまった映画というのが、私の率直な感想になる。そもそも「メアリーの総て」という邦題も気に入らない。メアリー・シェリーは生まれる前からしてかなりドラマチックだ。そこが一番面白いとさえ思っている。2時間程度の映画では「メアリーの総て」なんて、到底描写しきれるものではない。

     「メアリーの総て」はDVDやブルーレイがあるほか、amazonなどの各種VODで配信されている。正直あまりお勧めはしないが(正確にはお勧めしたくないが)、気になる方は見てみるといいかも。



     もう一つ、ディオダティ荘の怪奇談義を描いた映画がある。それは1989年の「幻の城 バイロンとシェリー」である。これは現在VHSのみでしか存在していないので、入手は非常に困難。私も見たことはない。須永朝彦氏が「血のアラベスク」で簡単にレビューしている。「ゴシック」と比べると美形をそろえている、だがポリドリは中年男になっていて、ゴシックのポリドリと同様に、ちょっと気の毒に思われる、幻の城では早々とポリドリは自殺し、これでは「吸血鬼」を書くことにならないので納得しかねる、というものであった。

     以上がディオダティ荘の怪奇談義を描いた映画だ。次は劇を紹介しよう。



     ディオダティ荘の怪奇談義を描いた劇にBLOODY POETRY:ブラディ・ポエトリーという有名な劇がある。1984年にイギリスで初演されたのを皮切りに、英米では幾度となく上演されている劇だ。英語wikipediaにも専用の記事が作られている。日本ではフランケンシュタイン生誕200周年となる2018年2月に、劇団:アン・ラト(unrato)により初めて上演された。この劇ではポリドリはミドルネームのウィリアム・ポリドリという名で登場する。これは元の英語の脚本からしてそうなっており、ポリドリのwikipedia記事によれば「脚本家のハワード・ブレントンが、何らかの理由でそのように呼ばせた」とある。理由はブレントンに直接聞くしかないようだ。

     私はのものを見に行った。後から知ったがその公演には、ロックバンドGLAYのTERUさんも見に来ていた。ツイッターリンク インスタグラムリンク

    観劇してきた感想は以前記事にしたので、詳しくはそちらをご覧頂きたい。

    「ディオダティ荘の怪奇談義」をモチーフとした舞台『BLOODY POETRY(ブラディ・ポエトリー)』を見てきました

     記憶を頼りに、簡単にだけ説明していこう。ディオダティ荘の怪奇談義からパーシー・シェリーが死ぬまでを描いた、パーシー・シェリー視点のセリフ劇。序盤はセリフ劇らしく、バイロンとパーシーが文学談議に興じる。正直、西洋文学には疎いので話の半分も分からなかった。ただ、史実のバイロンは同じ詩人であるロバート・サウジーを毛嫌いしていたのだが、劇ではそのサウジーをボロカスに貶していた。ここは迫真の演技も相まって、思わず笑ってしまった。後、印象てきだったのは、パーシーが例の「乳首が目になった女」を思浮かべて気絶するシーン。ここでバイロンはポリドリに「君は持っているのだろう!あの禁断の秘薬を!」と叫ぶ。この禁断の秘薬、アヘンチンキよりも強力なブラック・ドロップのことか!瞬時に分かり、思わずニヤリとしてしまったシーンだ。その他のレビューは上記のレビュー記事を参照して頂きたい。このブラディ・ポエトリーのパンフレットには、バイロン達に関してこれまでに聞いたことがない説が多くあり、困惑させられた。だがどうもその解説は創作のエピソードと混同して勘違いしているようであった。それに関してはまだ本文で解説していないこともあるので、次回の記事にて、話の流れに沿って説明しよう。



     非常に長くなりましたが、今回はこれで終わりたいと思います。このディオダティ荘の怪奇談義を広めたくて、私は吸血鬼解説を始めたようなものです。吸血鬼を知る上では常識と言っても過言ではないこの出来事が、もっと広く知れ渡るよう、これからも活動していく所存です。

     今年3月までは私生活で色々立て込んでており、なかなか時間が取れそうにないので、次回の投稿はかなり先になりそうです。それでもお付き合いいただければと思います。動画の方もなんとか頑張って投稿できるようにします。

    あと最後に遅れましたが、今年も無事新年を迎えることができました。今年もよろしくお願いいたします。

    連絡先
    メール:y.noseru.vamp●gmail.com ●を@に変えてください。
    ツイッター:https://twitter.com/y_noseru

    投げ銭サービスのOfuse、ユグドアを始めました。支援頂けると大変喜びます。
    ofuse→https://ofuse.me/#users/5131
    ユグドア→http://www.yggdore.com/ ツイッターのURLを入力ください。