ユーザーブロマガは2021年10月7日(予定)をもちましてサービスを終了します

【追記有】イギリス初の吸血鬼叙事詩「タラバ、悪を滅ぼす者」は、中二心を刺激する超大作ファンタジー叙事詩!
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

【追記有】イギリス初の吸血鬼叙事詩「タラバ、悪を滅ぼす者」は、中二心を刺激する超大作ファンタジー叙事詩!

2017-12-10 21:16
    今回は、今年2017年10月に作品社より発売された、1801年のイギリスのロバート・サウジーの一大エンターテイメント叙事詩「タラバ、悪を滅ぼす者(amazon)」の簡単な解説と感想を紹介します。
     本当に現代でも通用する、ファンタジーな物語です。選ばれし勇者と幼馴染ヒロイン、ヒロインを喰いかねないサブヒロイン、ラストダンジョンやラストダンジョンで手に入れることが出来る最強の剣(手に入れた時の演出も実にゲーム的)も有ったりと、本当にRPGゲームが創れそうな物語を紹介していきます。いやホント、中二病患者ほど楽しめると思います。

     今回なぜ紹介するのかというと、以前「ゆっくりと学ぶ吸血鬼 第10話前編」にて簡単な解説をしたのですが、その時は全訳がなかったので簡単に紹介しただけでした。今回全訳が発売されたので、それなら補足もかねてレビューしようと思い立ったわけです。

     感想を主体にしようと思っていましたが、この作品を知らない人からすれば、まずこの作品に取り巻く背景から説明する必要があると思い、物語の感想よりも作品自体の解説が多くなってしまいました。やはり私の動画を知らずに読まれる方もいらっしゃること、動画の内容を忘れたよ…なんて方も結構いらっしゃるので、作品を取り巻く背景の解説も、冗長なると分かりながらも入れさせて貰いました。私の動画とブロマガ記事をご覧になってる方にはもう見飽きたよ、という人もいらっしゃると思いますが、どうかご容赦下さい。

     あまりネタバレしないようにしていきますが、話の都合上、どうしてもネタバレがあることをご理解の上、この記事をご覧ください。とくにラストに関するネタバレもありますのでご注意下さい(事前に警告します)



    1.破壊者タラバの来歴

     まずはサウジーの「タラバ、悪を滅ぼす者」(以下、「タラバ」と表記)がどんな立ち位置な作品であるのか、簡単に説明していこう。早くレビューだけ読みたい方は、次の「2.」の項目(次の水平線)までスクロールして下さい。

    ~ドラキュラ以前(1897年)に出版された吸血鬼作品一覧~
    (鍵括弧はの作品・二十鍵括弧は小説作品を表す)
    (下記は主要なものを抜粋して掲載した。本当はもっとある)

    1748年 「吸血鬼」           オッセンフィルダー
    1773年 「レノーレ」         ゴッドフリート・アウグスト・ビュルガー
    1797年 「コリントの花嫁」      ゲーテ
         「クリスタベル」        サミュエル・テイラー・コールリッジ
    1800年 「破壊者タラバ」       ロバート・サウジー
         『死者を起こすことなかれ』   ティーク
    1801年 『吸血鬼』          イグナーツ・フェルディナント・アルノルト

    1805年 『O侯爵夫人』        クライスト
    1810年 「吸血鬼」          ジョン・スタッグ
    1813年 「異教徒(異端者・不信者)」 バイロン卿
    1819年 「つれなき美女」       ジョン・キーツ
         『吸血鬼』           ジョン・ポリドリ
    1821年 『セラピオンの兄弟』     E.T.A.ホフマン
    1823年 『死者を起こすことなかれ』  エルンスト・ラウパッハ
    1828年 『骸骨伯爵』         エリザベス・グレイ
    1838年 『ライジーア(リジィア)』  エドガー・アラン・ポー
    1847年 『吸血鬼ヴァーニー』     J・M・ライマー(異説あり)
    1860年 『謎の男』          作者不詳
    1872年 『吸血鬼カーミラ』      シェリダン・レ・ファニュ
    1897年 『吸血鬼ドラキュラ』     ブラム・ストーカー

     上記はマシュー・バンソン「吸血鬼の事典」から引用し、少し手を加えている(加えた箇所は過去の記事参照)。表記もこの年表においては「吸血鬼の事典」に倣った。吸血鬼の事典では「タラバ」の1800年に完成したとある。だが英語wikipediaによれば、初版は1801年となっている。道家英穂氏の解説でも1801年となっているので、一般的に出版日は1801年としたほうが良さそうだ。

     「タラバ」は、吸血鬼の題名的存在のブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」が出版される96年前に出版された作品だ。一般的に西欧文学の最初の吸血鬼作品は、も含めれば1748年、ドイツのオッセンフィルダーの詩「吸血鬼」となる。だが前の記事でも解説したように、この作品は吸血鬼自体は登場しない。

     1773年の「レノーレ」は、それ自身はドラキュラに影響を与えたが吸血鬼自体は登場せず、吸血鬼とはまるで関係がない作品だ。1797年のゲーテの「コリントの花嫁」は、本文には「吸血鬼」という単語は出てこないが、ゲーテの日記には「吸血鬼の詩」であることが記されていた。この2作品はドイツの作品だ。

     同じく1797年、サウジーの友人であるコールリッジの「クリスタベル」も「レノーレ」と同じく、「吸血鬼ドラキュラ」「吸血鬼カーミラ」に影響は与えたはしたし、吸血鬼を彷彿させるものはあるが、吸血鬼自体は登場しないから厳密に言えば吸血鬼作品とは言い難い。以上からロバート・サウジーの「タラバ」は、イギリス初の「吸血鬼」を登場させた文学作品であると言えるだろう。
    (そもそも神話や民話も一種の創作であるから、厳密には「最初の吸血鬼」の創作作品というものは定義できないが、ここでは「近代的な西欧文学」というくくりで考える。何より海外でも一応この認識に乗っ取り、最初の吸血鬼創作作品というものを定めている。このあたりの事情は過去の記事を参照して頂きたい)

     サウジーは、親友のコールリッジワーズワースと合わせて湖水詩人と呼ばれる詩人の一人に数えられる。コールリッジはサウジーの義理の妹セアラと結婚するも、後に負担になって離婚する。コールリッジの3番目の妻・サラ・フリッカーは、サウジーの妻となるエディス・フリッカーとは姉妹である。(2番でなくて3番目の妻で間違いない。しかし何なんだ、この人間関係…)

     サウジーはコールリッジ、ワーズワースと比べるとどうしても陰に隠れがちになるものの、彼の詩は現在のイギリスの学童にも好まれて読まれる物が多い。また当時のイギリス王朝から桂冠詩人のポストを与えられている。日本で当て嵌めると、詩人限定の人間国宝と言えばイメージし易いだろうか(勿論厳密には違う)。桂冠詩人の制度は今なおイギリスで残っており2017年現在、2009年より初のスコットランド人&女性桂冠詩人となったキャロル・アン・ダフィーが10年の任期で務めている。

     さてそんなサウジーの「タラバ」であるが、今回紹介する「タラバ、悪を滅ぼす者」の翻訳者・道家英穂氏の解説によると、イギリス本国においても忘れられていた作品だそうだが、近年再評価の流れにあるらしい。
     そんなサウジーの「タラバ」の邦訳だが、今回道家氏が出版するまでは、抄訳しか存在していなかった。一つ目は1984年、高山宏翻訳による夜の勝利〈2〉―英国ゴシック詞華撰」に収録された「破壊者サラバ」である。実はその高山訳の存在は、今回の道家訳の巻末解説にて初めて知った次第である。詳細は不明だが道家氏によれば、全訳ではないものの格調高い文であり、ページ数も多く取ってあるなど、詞華撰のなかでは破格の扱いであるという。
     もうひとつの翻訳はcygnus_odile氏が、主人公タラバの妻オネイザが吸血鬼として蘇り、吸血鬼の呪いから解き放ってやるシーンだけを抜粋して翻訳・Webで公開している。なぜそのシーンだけなのかというと、海外のサイトでは「タラバ」の紹介するとき、ほとんどがこのシーンだけを抜粋していたからだそうだ。
     
     吸血鬼好きの間ではバイブルとなっているだろうマシュー・バンソンの「吸血鬼の事典」では、「タラバ」は吸血鬼作品として紹介されている。後は仁賀克雄の「ドラキュラ伝説」に、ちょっとした解説があるぐらいか。ところが肝心の本文は、cygnus_odile氏が抜粋翻訳したものぐらいしかなかった。高山訳は「タラバ」ではなくて「破壊者サラバ」としていたので、道家訳が出るまでは「タラバ」で検索してもまず引っかからなかった(今はamazonの道家訳のレビューにおいて、高山訳に言及している人がいるので、そこから辿ることができる)。

     このように日本においてはイギリス以上に非常にマイナーな作品であった。そしてcygnus_odile氏の一部抜粋翻訳を見る限りでは、どうもイスラム教の物語であるということが伺えるだけであった。そんな状況の中、今年2017年10月により、道家英穂氏により「タラバ、悪を滅ぼす者」という題名で、全訳が出版されたいう流れだ。吸血鬼好きの方なら、以前から読んでみてみたいという人は、私以外にもいらっしゃったことだろう。ということで早速、道家訳「タラバ、悪を滅ぼす者」をレビューしていこう。
    (ちなみに今回この本の出版は、視聴者さまより連絡を頂いて知りました)


    2.タイトルの翻訳は意訳だけど、そちらの方が断然良い!
     
     まず邦訳のタイトルだ。これまで日本語タイトルは「破壊者タラバ」「破壊者サラバ」のどちらかだった。ところが今回の道家訳では「タラバ、悪を滅ぼす者」となっている。さて英語の原題名は「Thalaba the Destroyer」(英語wikipedia)だ。なので「破壊者タラバ」という訳は直訳になる。ということは道家訳のタイトルは、日本の出版業界に良く有りがちな、「売る為に本筋からかけ離れた、目を引くタイトルにしたのか!」と、穿った目で見る方もいらっしゃるかもしれない(翻訳物では結構有りがち)。だが、本文を読めばお分かりになるが、今回の道家訳のタイトルは実に内容に沿ったものであった。

     簡単にストーリーを解説すると、イスラム教の神の意思を背負った青年タラバは、ドムダニエルの悪の魔術師一団と戦っていくという単純明快なストーリー。ドムダニエルの魔術師は悪霊を使役するなど神の意思に反し、時には簡単に人を殺すという分かり易い悪の一味だ。そしてタラバは非常に分かり易い、正義の主人公だ。なので原著の直訳である「破壊者タラバ」では、「破壊者」という言葉がどうしても悪役(ヒール)というネガティブなイメージがついてしまう。道家氏がつけた「タラバ、悪を滅ぼす者」というタイトルは、これだけで正義が悪を裁くということが伺える。この作品を読み終えた後では、この意訳したタイトルの方があっていると思われることだろう。

    3.「タラバ」は、吸血鬼作品として見るとがっかりする!

     さて「タラバ」は、これまでマシュー・バンソンの「吸血鬼の事典」を筆頭に、吸血鬼が登場する作品であると、紹介されてきた。一部抜粋して翻訳されたcygnus_odile氏のサイトで読めるものは、ちょうど吸血鬼が登場し滅ぼされるシーンのところだ。とくに「吸血鬼の事典」による記述は、「タラバ」は吸血鬼の作品だ、という認識を持ってしまう。同書の解説だが、サウジーがこの物語を作るとき、17世紀末の植物学者ジョゼフ・ピトン・ド・トゥルヌフォールの吸血鬼に関する報告書や、1731年に神聖ローマ帝国領で起きた、吸血鬼の事件史として初めて近代国家に公的記録が残った(つまり世界初の吸血鬼事件)アルノルト・パウル事件をかなり参考にしたとマシュー氏は述べている。

     それぞれを簡単にだけ説明しよう。トゥルゥヌフォールはギリシアを旅しており、そこで目にしたギリシア人の吸血鬼退治法について詳細に記録を残している。学者であるトゥルゥヌフォールは、生々しいほどに吸血鬼退治法を記録した。そしてそれは現地民に迷信だと説き伏せても聞いて貰えず、突如首を突っ込んできた小賢しいマケドニア人には「分からないのですか、悟りの遅い人よ」と、小ばかにされながら役に立たない吸血鬼退治のアドバイスを聞かされたことも記録している。この報告書は、当時のギリシアの吸血鬼退治を伺うことが出来る、貴重な資料となった。このあたりのことはポール・バーバーの「ヴァンパイアと屍体」に詳しい。

     アルノルト・パウル事件ペーター・プロゴヨヴィッチ事件と共に、吸血鬼を語る上では絶対に欠かせない出来事であるが、詳細を語ると長くなるので簡単に説明する。1731年に発覚し、翌年に国家の公的記録として残されたアルノルト・パウル事件は、キリスト教の価値観とはかけ離れた風習であったことや、それ以前に神聖ローマ皇帝吸血鬼の存在に興味を示したこともあって、サロン等を通じてあっというまに西欧で話題となった。実はそれまでに「ヴァンパイア」という存在は西欧では存在していなかった。”vampire”という英語ができたのは、オックスフォード英語辞典によれば1734年であるというのが通説だ。ともかくこのアルノルト・パウル事件をきっかけに西欧に「ヴァンパイア:吸血鬼」という存在が公に知れ渡り、西欧中の科学者・啓蒙思想家・聖職者などあらゆる知識人が、吸血鬼の存在を肯定派、否定派にそれぞれ分かれて大論争を繰り広げた。その影響は、当時女帝として名を馳せたマリア・テレジアが対応に追われ、ローマ教皇ベネディクト14世までもが吸血鬼の存在について言及する論文を提出したほどである。この事件は、後の吸血鬼文学が発展していくきっかけとなったため、吸血鬼を語る上では絶対に欠かせない出来事である。それぞれの詳細は関連書籍を読むか、若しくは拙作動画をご覧頂きたい。

    アルノルト・パウル事件後述するダルジャン侯爵の研究も7.5話で解説有り


    トゥルヌフォールの研究について


     サウジーはこのように、トゥルヌフォールの報告書やアルノルト・パウル事件等を詳細に調べ、後にこれらの文書を自分で編集、その脚注にコメントを残したということが、マシュー・バンソンの「吸血鬼の事典」に書いてある。こう聞くと「タラバ」は吸血鬼が登場し、かなり関わってくる作品だと思うことだろう。だが実際作品を読んでみると、吸血鬼の登場はほんの少ししかない。あくまで「タラバ」の物語の根幹となるところは、イスラム世界を舞台とした、悪の魔術師軍団を打ち倒す物語だ。吸血鬼の登場は何の脈絡もないし、吸血鬼と言っても今の洗練された吸血鬼とは違って、東欧の民間伝承を元にした死霊系の吸血鬼だ。そもそも「吸血鬼」とは言及されているが、血を吸うシーンなんて一切ないcygnus_odile氏は吸血鬼が出てくるシーンを抜粋して翻訳されているが、本当にそのシーンしか吸血鬼が出てこないのだ。

     ではこの抜粋シーンの前はどんなシーンであったか。主人公タラバが悪の魔術師軍団を全て打ち倒したと勘違いし、王様から王次ぐ地位を与えられ富と名声を得ることになる。そして王様から、世界で一番美女でもある幼馴染のオネイザと結婚するように勧められる。
     だがオネイザはまだ神の使命を全うしたとは思えないから、メッカへ行き祈りを捧げたいというが、タラバはそれを聞き入れない。そのままオネイザと結婚式を挙げる。だが結婚式を終えた後、驕りたかぶったタラバを正す為死の天使アズラエルが、オネイザの魂を刈り取ってしまう、というところでこの章は終わる。
     その次の章からは、行方不明だったオネイザの父モアスが、オネイザの墓で嘆き悲しむタラバを見つけるところから始まる。この後の展開はcygnus_odile氏が翻訳した部分へと繋がる。再開したタラバとモアスの前に、悪霊に取りつかれて吸血鬼となったオネイザが現れる、という流れだ。
     
     ここは私の稚拙な解説を読むよりも本文を読んで頂ければお分かりになるのだが、本当に脈絡なく吸血鬼が登場してくる、そしてその登場も一瞬だ。
     こう聞くとサウジーは吸血鬼はただ登場させただけ、と思われるだろう。だが先ほど紹介しマシュー・バンソンの吸血鬼の事典にあったように、サウジーは「タラバ」を作成する際にあたって、民間伝承の吸血鬼について詳しく調査していたことに関しては事実だ。実は「タラバ」には、サウジーによるかなり細かい自註がついている。今回の邦訳も全体の4分の1のページが、サウジーによる注釈である。その注釈の中でサウジーは、吸血鬼に関してもかなり詳細な注釈をいれていたのだ。サウジーは18世紀のフランスの思想家・作家のジャン・バプティスト・ドゥ・ボワイエ、ダルジャン侯爵が残した「ユダヤ人の手紙」から、主に東欧の伝承である民間伝承の吸血鬼に関して詳しく紹介している。それまでにダルジャン侯爵の「ユダヤ人の手紙」の内容を紹介している日本語の書籍は恐らく、種村季弘の「吸血鬼幻想」だけだろう。ダルジャン侯爵は科学というよりかは錬金術的手法で、死体が吸血鬼となる原因を突き止めようとした。その理論は現代の科学では否定されるものの筋は通っており、それはそれで説得力のある理論を展開していた。このあたりは「吸血鬼幻想」を読まれるか、上記で紹介した動画「ゆっくりと学ぶ吸血鬼7.5話」を参照して頂きたい。

     さてサウジーは、その「ユダヤ人の手紙」で紹介されていたアルノルト・パウル事件について紹介している。アルノルト・パウル事件の内容は公的記録から不足なく紹介されている。サウジーの自註は本文よりかなり小さい字で、上下二段組という構成なのだが、それで3ページも費やして民間伝承の吸血鬼について紹介していたのだ。サウジーは吸血鬼以外にもイスラム教の民話や伝承、習慣について事細かに注釈をいれている。吸血鬼に関することも、その注釈の内の一つ、とういうだけだ。マシュー・バンソンの「吸血鬼の事典」など吸血鬼解説本では、吸血鬼に関することだけが(当然ではあるが)、クローズアップして紹介されため、この作品は「吸血鬼文学」というイメージが一部の吸血鬼マニアの間で蔓延したようだ。最初に述べたように、吸血鬼作品として期待していた人にとっては、この作品は非常にがっかりさせられるだろう。だがそこは堪えて、ぜひ一度読んでみて頂きたい。

    4.超便利!ドラクエ11の「勇者の力」ならぬ、「信仰の力!」

     それでは「タラバ」の内容についてレビューしていこう。といっても先ほども言ったように「タラバ」のストーリーは単純明快だ。アッラーの神より選ばれたアラブ人の若者タラバが、悪の魔術師軍団ドムダニエルの一味を打ち倒していくという、完全懲悪ストーリーだ。まず一通り読んで思ったことは、これは日本のRPG(ロールプレイングゲーム)のようなストーリーだなぁ、と感じたことだ。日本のRPGに例えたが、本当に現代のRPGやマンガの内容を彷彿とさせる、現代でも通用するこれぞザ・王道というストーリーなのだ。
     
     主人公の生い立ちを説明しよう。主人公一族が、自分達を何れ滅ぼす存在と知った悪の魔術師軍団であるドムダニエルの一味たちは、先手を打って主人公一族を皆殺しにする。予め芽を摘むという対処の速さは評価できる。だがよくありがちな、主人公(+母親)だけを取り逃がしてしまうという大失態をおかしてしまう。一族を滅ぼされた幼い主人公タラバは復讐を誓うのであった。このあたりは、主人公を取り逃がすという詰めの甘さからも、ドラクエ4のピサロと勇者のエピソードによく似ていると感じた。

     主人公を取り逃したドムダニエル一向は、主人公の居場所を聞き出すために、タラバの父、ホデイラの死体を魔法で呼び寄せ、死体に降霊術を行いタラバの居場所を吐かせようとする。だがホデイラは最後まで抵抗して吐かず、自分の剣を敵の本拠地に置き、炎を纏わせて悪の魔術師たちが手に取れないようにする。これは最終決戦でタラバがこの剣を手に入れた時、周りの炎はタラバのローブを包み、そして頭の周りに集まって花冠となってタラバの栄冠、命として輝くという演出がなされている。これもRPGにはお約束の、ラストダンジョンに最強の武器があるのと酷似している。しかも演出までもが、現代でも通用する非常にかっこいい描写がなされている。ここは本当、心が燃え上がったシーンだ。

     主人公の性格も実に、RPGの主人公らしい性格だ。正義感に溢れて人を疑うことを知らない。基本的にドムダニエルの魔術師たちは、親切を装ってタラバに近づき、その人の良さを利用してタラバを貶めていく、というのが大抵使われる手段だ。タラバが糸を紡いでいる女に、何の疑いもせずに女に指を指し出して指を拘束されるシーンは、間抜けを通り越してもはやシュールの賜物である。こうしてタラバは窮地に陥るわけだが、大抵の窮地はドラクエ11でいうところの「勇者の力」ならぬ「信仰の力」で難所を切りぬけていくのだ。ドラクエ11をプレイしたことある人なら分かるだろうが、「勇者の力」とか何か今一よく分からない、ご都合主義の賜物の力で、万事全て解決させていくわけだが、「タラバ」においては本当に「信仰の力」で何とかしていくのだ。まあこれはイスラム教という一神教がベースとなっているし、この物語のは主題のひとつは「いかなる時もアッラーの神を信じよ」というものがある。逆にアッラーの神やその力を否定する存在が、ドムダニエルの悪の魔術師軍団だ。例えば、RPGに良く有りがちな、強力な精霊やあるいは武術の達人などに、新たなる力を求めて訪ねていくというエピソードが、実は「タラバ」にもある。ハールートマールートという天使に、護符となる力を求めて訪ねていくエピソードがあるのだが、苦労してたどり着いた時、タラバは問う。「魔術師たちに対抗するための護符を教えてくれ」と。だが2名の天使は次のように返す。

    「お前は既に証明した。信仰こそが護符なのだ」と。

     これもRPGというか創作にはお約束の「試練を乗り越えてようやく力を授かろうとしてたら、その試練を乗り越えたことで既に力を得ていた」というオチだ。
    この信仰こそが神の祝福を得る何よりの手段だ。ドムダニエルの魔術師たちは神が気に入らないので

    「アッラーが何かしてくれるのか!」「神よりも精霊(ジン、つまり悪霊)の力を頼れ!」
    「強者が正義!」

    などと、タラバを執拗に神の威光から背くように唆していく。
    このように信仰の力は一神教における信仰を試すものであるから、ドラクエ11の「勇者の力」よりかは、ご都合主義とは言えない(と思う…宗教の知識が足りない故…)。
    だが、一神教に馴染みのない日本人である私には、やはりドラクエ11の「勇者の力」の如く、ご都合主義の塊に感じてしまったのも事実だ。あと「タラバ」にはもう一つ、「指輪の力」というのもある。これも万能(ご都合主義)な護符と言ったところで、この「信仰の力」か「指輪の力」でタラバは都合よく窮地をなんとかしていくのだ。

     敵の方も、「アッラーの神や指輪がなければ、何もできないじゃないか!」って言うぐらい、タラバにとっては非常に都合のいい展開ばかりが続く。このご都合展開が受け入れられるかどうかで、この作品の好き嫌いの評価が決まるだろう。ちなみにドラクエ11の「勇者の力」も「タラバ」の「信仰の力&指輪の力」も、ご都合主義であると思っているが別に嫌いでもなく、「なんだか知らんがとにかくよし!」というのが、私の率直な感想だ。

    5.メインヒロインを喰いかねないサブヒロインの存在!

     さて今のゲームやマンガに似ているところは他にもある。それはメインヒロインを霞ませる魅力的なサブヒロインの存在だ!いや、サウジーはサブヒロインという感覚で登場させたわけではないだろうが、それでも今の創作によくある「メインヒロインよりも魅力的」なサブヒロイン的存在が「タラバ」には登場するのだ。ドムダニエルの魔術師には、オクバという魔術師がいる。実はこのオクバこそが、タラバの一族を皆殺しにした張本人だ。つまり主人公タラバの宿敵と言える存在なのだが、このオクバにはライラという娘がいる。ただ通常と違うのは普通の男女の営みで生まれたのではなく、オクバが人工的に作り上げた存在という点だ。つまり存在そのものが神の意思に反している。さてライラが登場するときは、既にメインヒロインのオネイザは死んでいて退場しているから、必然とライラの存在が浮き彫りになる。

     ライラがなぜ魅力的なサブヒロインなのかということが、一つ目は主人公の最大の宿敵の娘という点だ。宿敵の娘なわけだから、その後の展開がサスペンスに満ちたものになることが、この時点で読者は察することができる。そしてそんなライラに関わる展開は実に面白い…のだが…申し訳ない、ここの展開は非常にドラマチックであるので、気になる人はぜひとも買うなり図書館で借りて中身を確かめて頂きたい。一つ言えることは、ライラを巡ってタラバは、究極の選択を迫られることになる。その時、死の天使アズラエルもいたのだがアズラエルは

    「お前の言うことは皆、審判の為に書きとめられる。全ての言葉が裁きの天秤で量られることになるのだ!」

    と言われる。つまり「口を慎め。神の意思をさっさと遂げろ。さもなくば地獄行きになっても知らないぞ」と脅される訳だ。

    ライラを巡って、タラバが取った行動と結末は如何に!?

    それはぜひとも本書を見て確かめてみて欲しい。一つ言うならこれも「ああ、今の創作によくありがちなベタな展開だが、それでもいい!」というのが私の感想だ。
    (ここまで言ってしまうと何となく察せてしまうが、まあ明言するよりかは良いと思う)

     ライラの存在は日本のRPGなら、2周目ライラエンドルートへ進めるという展開があったり、後日ライラルートの追加コンテンツが販売されたりするだろう。内容を知った方からは、同意を得られる例えだと思っている。それほどまでにライラの存在は魅力的であった。

    6.ラストダンジョンもあるよ!

     ドムダニエルの魔術師たちのアジトは、海底にある洞窟にある。そこに行く展開が、やはりRPGのラストダンジョン、最終決戦を彷彿させる。そして敵地での展開も実にRPG的だ。幹部の強力な女魔術師の存在、一度死んだはずの敵が何故か生きていてラスボスとして復活、前述したように敵地に存在する最強の剣、これらが本当に王道ファンタジーRPGを思い起こさせる。

     以上の様に「タラバ」が王道ファンタジー叙事詩であることは、分かって頂けたかと思う。では「タラバ」が通常のファンタジーとはどこが違うのか。
    それは日本では殆ど馴染のない「イスラム教」を主体とした物語であるということだ。

    7.面白い!だけど矛盾も多いし難点もある!


    物語のラストのネタバレがあります。
    どうしても気になる方は、ここは飛ばして下さい!

     さてここまでのレビューでは非常に好意的に紹介してきたが、当然難点もある。まず一つ目、この作品の舞台は日本人にはなじみのないイスラム教の世界を描いたものであるということだ。普段あまり題材にされる宗教であるから、新鮮に感じる部分もあれば、馴染めない部分もあった。この作品を受け入れられない一番最大の要因、それはイスラム教、いや一神教故の神の残酷さ、というものだと思う。一神教は「神は唯一なもの」という考えが根底にある。だから敬虔なイスラム教徒であるタラバは、「アッラーの神をとにかく信頼すべし」を信条としていし、神の方も「信仰する者ほど」救いを与えている。そこがどうしても一神教を信仰しない日本人には共感を得にくいだろう。実はドムダニエルの魔術師たちの言い文の方が、共感を覚えた。

    「毒蛇が住処に入ってきたら、お前だって殺すだろう!」
    「支配者はたんまり報酬を約束しても口だけ。民衆を搾取しているではないか!」
    「我々(ドムダニエル)の方は、世界中の快楽が我々のもの!富と支配、地上の王国が!」

     要するにドムダニエルの魔術師はタラバに、「綺麗ごと抜かすな!神が何かしてくれたか?力ある物が支配してるじゃないか!強い奴が正義!」などと言ってる訳だ。このように、敵の言ってることのほうが共感を覚えることもあった。

     この作品を読むうえで受け入れられないであろう最大の要因は、一神教故の神の残酷さであるということは前述した通りだ。主に死の天使アズラエルが時折タラバを導くのだが、アズラエルの行動はかなり残酷だ。驕り高ぶったタラバを正すためだけに、タラバの最愛の人である幼馴染のオネイザを殺している。この時はタラバも「神に見捨てられた」と狂人のように狂っていた。ここで「神に見捨てられた」と言い、決して神を恨まない当たり、敬虔な一神教徒の考えは合いなれないと思った。

     上述したが、ライラに纏わるシーンもアズラエルは無慈悲に思えたし、冒頭のタラバとタラバの母ゼイナブのエピソードにしても、タラバに対して酷なことをしている。「神の意思を遂げる為にお前は選ばれたのだ!」と言ってるが、何だか人の良い奴を選んで自分たちの都合のいいように操り人形にしてると受け取る人も出てくるかもしれない。というか数々の奇跡をタラバに施したり、逆にタラバに残酷なことをするぐらいなら、アズラエルが魔術師軍団を滅ぼせばいいじゃないか!なんて身もふたもない感想が出てきてしまった。

    【ラストのネタバレ注意】
     このようにアズラエル酷い仕打ちをされているとも取れる主人公タラバであるが、最後は死んでしまう。だが天国でフーリー(houri)となった幼馴染のオネイザが出迎えてくれて幸せに暮らす、というハッピーエンドで締めくくられる。フーリーというのはイスラム教の間で信じられている、死後出迎えてくれる処女の美女のことだ。現代でもこれは信じられており、イスラム過激派が自爆テロを恐れないのは、死後数十人のフーリーが出迎えてくれると信じているからである、というのは有名な話だ。(なんだか二次元の嫁を作るオタクと同じメンタリティな気がするのは、私だけであろうか…)
     
    このようにタラバは死んでしまうが、敬虔だったゆえに死後幸せになった、というラストで締めくくられる。イスラム教の教義から言えばかなりのハッピーエンドであるだろう。確かにフーリーやイスラム文化をちょっとでも知っていればこのエンドも理解できる。だが死後幸せになるのではなくて、生きてオネイザと幸せに暮らし、そして寿命を迎えた後も幸せに暮らすという方がよかったと感じたのは、やはり私が日本人であるからだろうか?
    【ラストのネタバレここまで】

     とこのように王道をいくファンタジーストーリーでありながらも、根幹には(キリスト教とからみたサウジーの)イスラム教の思想がベースとなっているので、イスラム文化が興味深く感じるかどうか、イスラム教(一神教)の思想が受け入れられるかどうかが、評価の分かれ目だろう。

     2つ目。道家氏の解説によれば「タラバ」によくある批判点として、章と章の繋がりがよわいことにある。また現代の洗練された小説とは違い叙事詩であるので、どうしても矛盾があったりご都合展開が続いたりと、プロット上の難点がよく指摘されるという。あと非常に間抜けというかシュールなシーンがあるのも、ストーリーが台無しになる感じる人もいるだろう。先ほども述べたように、見るからに怪しい女に言われるがままにホイホイ指を指しだし、魔法の糸とは気づかずに指に糸が巻かれた後に実は拘束された!と気づくシーンは間抜けそのものである。
     敵の方も間抜けではないが実にシュールな死に方をする人物がいる。少年タラバの暗殺に向かったドムダニエルの魔術師の第一の刺客、アブダルダールの死にざまだ。その死因はタラバも巻き込まれる可能性があったのだが、ギャグじゃないかと思わんばかりの方法で運よく助かっている。この死因だが、これはサウジーによる注釈を見ないと、まずその死因が分からない。アブダルダールの死にざまは是非本文を確認して頂きたい。

     以上のように現代の小説なんかと比べるとどうしても荒が目立つ。洗練された小説に馴染んだ方や、展開の矛盾が少しでも気になる方には評価が低くなってしまうのは間違いない。この物語は「こまけえことはいいんだよ!!」という気持ちを持てた人ほど、この作品の評価が高くなるだろう。王道をいく王道作品なので、王道展開が嫌いな方は自然と評価が低くなる。またイスラム教の思想や中東の民話・風習・風俗を知りえなければ、理解できない描写も多い。大抵は註釈がついてあるが一つの注釈の量がとても多いこともあるので、本文と同時に見るとなると読書のテンポが崩れるのも、マイナスポイントに感じる人も出てくるかもしれない。

    8.サウジーはイスラム教に実は否定的だった?

     日本においてキリスト教文化の創作は、ゲーム、漫画、ラノベなどあらゆる機会で目にすることができる。武器だったり登場人物の名前だったり神様や天使や化け物など、ありとあらゆる場面で登場する。だがイスラム教や中東の伝承に基づくものは、かなり限られてくる。グールやイフリート(アフリート)、ジンなど精霊に関するものはまだ目にするが、イスラムの神や天使なぞは日本の創作ではまず見られない。これは下手にイスラム教を蔑む内容にしてしまえば、最悪命の危険があるからだろう。日本でも1991年、『悪魔の詩』を翻訳した筑波大学助五十嵐助教授が暗殺された(悪魔の詩訳者殺人事件)このようにイスラム教を蔑むと、日本においても一歩間違えれば死に繋がってしまう。イスラムの神や預言者は絵にしてはならないということは、どこかで聞いたこともあるだろう。このようにイスラム教を題材にするということは、日本においても非常に気を使わなければならない。だからイスラム教はどうしても創作の題材にしにくく、日本では目にする機会は限られてくる。
    (よくイスラムの神や預言者は絵にしてはならないと言われるが、原則はそんな決まりはない。あくまで神や預言者を蔑むような行為が憚られる。ただ、絵にするということは禁止ではないもののグレーゾーンであることは間違いない。またどこの世界にも煩い人物はいるので、もめごとを避けるために自主規制しているというのが実際のようだ。)

     さてそんなちょっと間違うと危ない、イスラム教を題材にした「タラバ」である。ここまでの解説でおおよそ分かるように、「タラバ」はイスラム教を好意的に捉えた物語だ。そしてキリスト教によく有りがちな信仰の違いによる確執を描いたものではない。あくまで主人公はイスラム教徒であり、そこに悪の魔術師軍団が存在して、それと戦うという、イスラム教がヒーローとなった勧善懲悪ストーリーだ。イエメンの英文学者シャラッディンは「イスラムに寄り添い、西欧のイデオロギーを押し付けていない」と好意的に捉えている。だがサウジーの注釈にはところどころ、イスラムに否定的な言説が散見されるし、後年、保守化したときの1814年の作品「ロデリック、最後のゴート人」では、イスラム=悪で捉えているという。「タラバ」を作った時はあくまで文化の興味に惹かれ、物語の面白さ優先した部分が多かったのであろう。

    10.物語の背景を知ろうとすると途端に難しくなる

     「タラバ」は2つの側面を持っている。一つは単純明快なエンターテイメント物語であることだ。読んだことがないのでなんとも言えないがこの「タラバ」、 あの「ハリーポッター」と類似しているそうだ。ハリーポッターでは両親を殺された主人公が、意地悪な叔父夫婦に育てられるが、やがて自分の使命を知って魔 法界に旅立つ、という点で類似している。作者のローリングはサウジーと同じくイギリス出身であるから、「タラバ」から着想を得た可能性があるだろうと道家氏は述べている。

     さてここまでの解説やレビューはエンターテイメントな面ばかりを紹介してきた。それはそれで間違いないのだが、「タラ バ」がもつもう一つの面が綿密にイスラム文化を描いた作品であるということだ。そして随所にイスラム教の文化、中東の民話・伝承・習慣が事細かに描写され ている。物語の随所に、実は元ネタは中東に伝わる伝承からの引用であったりすることが多い。そしてサウジーは自ら詳細に注釈をいれている。このイスラム文化に関する注釈は、この当時のオリエンタリズムの実像を知ることが出来る、貴重な資料でもあるのだ。注釈を読むだけでも、別の面白さがある。本文はどうしてもイスラム文化を理解する必要があるので、最初は本文と注釈を同時進行で読んでいった。だが物語と同時に注釈を読んでいこうとすると、とたんに骨の折れる作業となる。私も途中で嫌になって、まずは純粋に本文を読み、二度目に読むときは注釈を見つつ本文を読むというスタイルに変えた。この道家訳ではサウジーの自註は全体の約4分の1を占める。高山訳には注釈の翻訳はなく、今回が本邦初となる。といっても関係がありそうなところとか、道家氏が面白そうなところだけの翻訳したので全てではない。言い換えると、サウジーはどうでもいい注釈も入れていたということにもなるが。それでも凄い分量である。当時のイギリスにおいてもイスラム文化は、詳細に注釈を入れなければならないほど、馴染の薄いものであったようだ。サウジーが参照したものはコーランから始まり、当時の中東やアフリカの旅行記からかなり引用している。サウジーの引用したテキストは、海外ではほぼすべてネット上で閲覧できるそうだ。

     少し余談気味になるが、サウジーの注釈で笑ったのが、私の動画でも紹介し、前述の吸血鬼作品の一覧で紹介したビュルガーの「レノーレ」についての言い訳である。レノーレの物語の詳しい内容はcygnus_odile氏のサイトか拙作動画をご覧いただきたい。とにかくレノーレは当時かなり有名になった韻詩であり、その一節は吸血鬼ドラキュラの冒頭においても引用された、非常に有名な作品だ。日本の文壇にも影響を与えている。
     「タラバ」にはその「レノーレ」と非常によくにた表現があったようで、突っ込まることを想定したサウジーが注釈として予め言い文を乗せていたのである。
    読者は「レノーレ」を想起するだろう。意図せぬ類似が生じたのは、主題のせいである。私はビュルガーが同じ道を先に行ったからといって、道を逸らすことは出来なかった。「バークレーの老婆」は、馬鹿げたことに、そのまねの出来ないバラッドを模倣したものだと言われている。この2つが似ているというのは、マケドニア(ギリシアの隣国)とモンマス(イギリス・ウェールズの町)に似ているというのに等しい。どちらもバラッド(韻詩)であり、どちらにもが出てくる。
    サウジーのイライラっぷりが非常によく現れており、思わず吹き出してしまった。
    これは下手に言い訳しなかったほうがよかったのではなかろうか?

    レノーレの紹介動画



    まとめ.中二病患者(中高生)程、おすすめできる!

     以上が今回のレビューとなる。レビューというよりかは、解説が主体になってしまったのは否めないが。今回のレビューはいささか好意的なことばかり書いたかもしれない。荒も目立つが、多少のことはどうでもいいんだよ!って気持ちにさせて楽しませてくれる物語であった、というのが率直な感想です。

     この作品でネックになるのは、イスラム教という日本人にはなじみのない宗教が舞台であるので、その当時の背景や思想を知っておかないと分からない描写が出てくるので、そこがネックになるひとも出てくることだろう。吸血鬼の登場は一瞬であるから、吸血鬼作品だとして期待していた人は、非常に肩透かしを食らうのは間違いない。

     だが根幹となるストーリーは、現代人でも楽しめる王道なものとなっている。あくまで高級文学でなくて、これぞB級!というエンターテイメントに特化した作品だ。それが1801年に既につくられたのであるから、少なくとも新鮮に感じた。この作品は何度も述べているように、頭を空っぽにして楽しむ物語だ。イスラム教の事とか分からないことも多く出てくるだろうが、理解できなくても十分楽しめる。エンタメに特化してるが、作成にあたっての豊富な資料は、当時のオリエンタル文化を伺える貴重な資料なので、そちらの方面に興味がある人にもおすすめできる。とにかくまるで王道RPGかのようなストーリー展開は、中二病患者にこそおすすめできる。現役の中高生の方々も楽しめるのではないかと思います。
     
     以上、稚拙で冗長な解説となりました。ここまでお読み下さりありがとうございました。
    広告
    コメントを書く
    コメントをするには、
    ログインして下さい。