Netflixの「ドラキュラ伯爵」は『公式が』ゲイでもバイでもないと断言、海外の批判事情と個人的感想
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

Netflixの「ドラキュラ伯爵」は『公式が』ゲイでもバイでもないと断言、海外の批判事情と個人的感想

2020-01-28 22:56
    BBC OneとNetflixによるオリジナルドラマ『ドラキュラ伯爵』のシーズン1の全3話が、イギリス国外では2020年1月4日より、Netflixで配信開始されました。以前もブロマガでお知らせしたので、興味がある方はご覧になられたことでしょう。


    Dracula | Netflix Official Site
    The Count Dracula legend transforms with new tales that flesh out the vampire's gory crimes -- and bring his vulnerability into the light.

     1897年のブラム・ストーカーの小説「吸血鬼ドラキュラ」をドラマ化したもので、大胆なアレンジを加えられていることは事前情報としてありました。そのアレンジで話題に上ったことは何といっても、このドラマのドラキュラ伯爵が”ゲイ、バイ、ホモ”であることで、特に海外では物議を醸していました。私がドラマを見たのは放映開始から半月後ぐらいのことで、視聴前にツイッターのTLでこの噂は目にしていました。日本では所謂「腐女子」の方々が好意的な反応をしていたようですが、海外ではドラキュラのバイセクシュアル化について批判されているようでした。これは最初、同性愛に厳しい海外の保守層が、原作にはないバイセクシュアル要素を足しこんだために批判しているのかと思っていました。ところがドラマ視聴後よく調べてみると、そう単純な話ではないことが分かりました。ツイッターでは既に、私よりもいち早くその事情を掴んだ人がいらっしゃったので記事にしようか迷いましたが、せっかく調べたことだし、一連の流れまでをまとめた人はいなかったので、普段私の吸血鬼解説動画を見ている方向けに、解説していくことにしました。

    解説の都合上、ネタバレしていきますので、気になる方はご注意下さい。

    また、ホモという言葉も出てきますが、参考にしたサイトや書籍でそのように書かれており、正確に伝えるために、あえてそのまま書いていきます。


    ~原作のドラキュラ伯爵のセクシュアリティ~

     原作小説のドラキュラ伯爵は、ゲイやバイといった描写は見当たらない。特にミナ・ハーカーの血を吸うあたりは、レイプの暗喩であると評価する人もいる(ソースは忘れた)。むしろゲイ要素のある吸血鬼は、ドラキュラよりも古い吸血鬼で最初の吸血鬼である、ジョン・ポリドリの小説「吸血鬼」に登場する吸血鬼ルスヴン卿だ。こちらは平井呈一が「吸血鬼ドラキュラ」の巻末解説にて、「ルスヴン卿にはホモ・セックスの匂いが漂っている」と紹介している。ただ、ブラム・ストーカーとヘンリー・アーヴィングは同性愛カップルだった、だからドラキュラもバイセクシュアルだ!なんて唱える学者もいると、どこかの掲示板で見たことがある。だがそんな情報は本では見たことがないので、今は無視していく。

     さてドラキュラであるが、人物像の元ネタはルーマニアの串刺し公ヴラド・ツェペシュであることは有名だ。その元ネタのヴラド三世のことを考えると、むしろドラキュラは”ゲイ”や”ソドミー:肛門性交”は嫌悪するとした方が自然である。

     History Behind Game of Thronesというサイトや、英語wikipedia"ルーマニアのLGBTの歴史"という記事を見ると、オスマン帝国の捕虜時代、弟のラドゥ美男公と共にヴラドはメフメト2世に強姦されていたようだ。
    【2020年2月17日追記】
    メフメト2世に強姦されたという情報は、根拠はないがちょっと怪しい気がする。ただ、人質時代に誰かしらに強姦されたことには間違いないだろう。

     これを創作で生かした例の一つ目は、漫画「HELLSING」8巻のアーカードの旦那だ。ヘルシングは吸血鬼ドラキュラの後の話であるので、当然作中のアーカードの旦那が人間だったときはヴラド三世である。少年時代、十字架を握り「神様には慈悲を乞いません」と思いつつ、オスマンのお偉いさんに強姦されてしまう。作者のヒラコー先生も巻末で「(アーカードは)アラブ人にカマを掘られたりして大変だったひと」と、いつものヒラコー節で紹介している。

     2つ目の例は、キム・ニューマンの小説「ドラキュラ紀元」だ。この小説はヴァン・ヘルシングがドラキュラに敗れた後の時間軸の物語で、実在の人物や色んな吸血鬼小説の登場人物を登場させた、スターシステムを採用した小説。ドラキュラは大英帝国を支配している。そこでドラキュラは「男色の罪を犯したものは、正式裁判を待たずして即刻処刑。方法はもちろん串刺し刑」という布告を出す。これを受けて最初の吸血鬼ルスヴン卿は、アーサー・ホルムウッド(ゴダルミング卿)に次のように説明する。

    忘れてはならぬよ、ゴダルミング。ドラキュラに英国人の寛容さはない。彼は幼いころ、人質としてトルコで数年をすごしているが、おそらくはそのときにしばしば強要されあのだろう。事実”美男公”として知られる弟のラドゥは、性癖として男を好んだ。
    (中略)
    プリンセス・コンソートは、ホモセクシュアルに対し激しい憎悪を抱くようになったのだよ。

    ※作中のドラキュラの呼び名。
    文章は「ドラキュラ紀元1888」よりそのまま引用。

     このように、この小説中のドラキュラは過去の経験から、ソドミー(肛門性交)に激しい憎悪を抱いているという設定になっている。実際男色に関しては人間はおろか、自分の配下ですら容赦はなく、美少年を犯していた配下の吸血鬼は、別の配下の吸血鬼に串刺刑で処刑されてしまった。
     このように元ネタのヴラド三世のことを考えれば、ドラキュラの男色に対する感情は、ヘルシングやドラキュラ紀元のように、悲しい過去だったり、憎悪すべきものと描写する方が自然であろう。

     こうしたことから、ドラキュラ伯爵をあえて”ゲイ:同性愛者”や”バイ:両性愛者”に描写をするのならば、かなりの説得力が必要になる。そこら辺の描写が甘ければ、原作重視する層や歴史考察を重視する層からは、評価が著しく落ちることは分かって頂けただろう。先ほどの英語wikipedia記事「ルーマニアのLGBTの歴史」の記事を見る限りだと、ヴラド三世は人質時代男に強姦されたのにも関わらず、その後はオスマン帝国の囚人を逆に強姦、これを”反ソドミー”を掲げる協会が告発したとある。こうした要素を盛り込んでいたのであれば少しは評価はされのだろうが、無かったがゆえに、ドラマのドラキュラ伯爵のゲイやバイセクシュアルに反発が起きているものと思っていた。


    Dracula: Gay or Not Gay?
    I almost titled this one another in the series of “Your Weekly Dose of Stupidity.”

     上記は私がフォローしているVmapires.comの「(ドラマの)ドラキュラ伯爵はゲイ、それともゲイじゃない?」という記事。これが、ドラマを見る前の私のツイッターのTLに流れてきた。これを最初に見たときは、ドラキュラを原作にはないゲイに変えたから、海外の視聴者が反発しているものと思っていた。私もヘルシングやドラキュラ紀元は見ていたから、ドラキュラ伯爵を同性愛者にするのはないな、と思っていた。だが、どうもそんな単純な事情ではないことを、後に知ることになった。


    ~ドラマ「ドラキュラ伯爵」のバイセクシュアル描写~

     ドラマを視聴する前に、ツイッターで軽く検索してみると、あのドラマのドラキュラはゲイでもバイでもない、と呟く腐女子も見受けられたが、やはりゲイやバイであると思う人の方が多かった。そして実際に見てみると次ような感じだった。このドラマではエイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授が、修道女アガサ・ヴァン・ヘルシングと、女性に変わっている。

     始まって五分ぐらいでシスター・アガサは、ジョナサン・ハーカーに次のように聞く。
    それは「ドラキュラ伯爵と性行為しましたか?」と。なぜそんなことを聞くのですかとハーカーが言うと、「大事なことなのです。伯爵とは性行為をしましたか?」と再度念を押す。これは吹き替えでも日本語字幕でもこのように出てきた。この記事を見ている皆様は今のアガサのセリフ、よく覚えていて欲しい。

     この時点で私は、「ああ、やはりバイセクシュアル要素あるんだな」と思った。そしてハーカーの回想。ハーカーは恋人のミナとセックスする夢(幻覚?)を見る。ミナが上に乗っかっている。その官能的な夢においていきなりその相手が、舌なめずりするジジイのドラキュラ伯爵へと変わり、ハーカーは驚愕して飛び上がる、という描写がされる。そらいきなりセックスの相手がジジイに変わる、しかもそのジジイがネグリジェ着て舌なめずりしているのならば、飛び上がってしまうのも無理はない。ここは悍ましさもあるが、それ以上に滑稽で思わず笑ってしまった。

     先ほどのアガサのセリフと、あからさまなジジイファックの描写から、多くの視聴者はドラキュラは男色も嗜むと思うことは間違いない。その後も逃げたハーカーを追うドラキュラは「逃げた花嫁を迎えに来た」という言い回しをする。花嫁は何も女には限らず、男でも構わないという性癖があることが伺える。少なくとも私はそう受け取った。

     こうして見るとドラキュラのバイセクシュアルは、個人的には気になるほどのものでもなかった。まずドラマでは、かつてはヴラド三世であったというような描写や言及がないので、過去のトラウマなんてなかったという設定でも良いと思えたのが一つ。それ以前にこのドラマは原作から滅茶苦茶設定を変えまくっており、ヴァン・ヘルシングは男の大学教授から、教会のシスターへと性別と職業が変わるわ、ハーカーは不死者になった挙句死ぬ。第3話なんて原作から逸脱しまくりで、舞台が21世紀に移るわ、そこでハーカーの友人たちが出てくるわで、3話の改変ぶりはすさまじいものがあった。ドラキュラのバイセクシュアル化なんて、改変の一つにしか過ぎないので、これだけを批判するのはお門違いというものもあって、気にならなくなった。
     むしろ実際視聴した後だと、単純にストーリーのダメさ加減の方がよほど目についた。とくに舞台が21世紀に移る第3話なんて、国内外で多くの批判が見受けられた。


    ~海外ではなぜドラキュラのバイセクシュアルが話題になったのか~

     先ほど紹介したvampires.comの記事をみると、ドラキュラのバイセクシュアル化は、海外のインターネットbottom feeders(他人の不幸の楽しむやつのこと、まとめサイトのコメント欄に現れる煽りカスが近いか)が、放映前から色々と議論しているようだ。バイセクシュアル描写は、放映前に既に情報が公開されていたようだ。だがこのドラキュラのバイセクシュアル化論争は、原作とは違うからという理由だけではないことが分かった。それは原案者の一人であるマーク・ゲイティスという人物を知れば理由が分かる。都合のいいことに、日本語wikipediaに彼の記事が作成されている。リンクはこちらへ。そこの私生活の欄に次のようにある。

    ゲイであることを公表しており、2010年と2011年にインデペンデント紙のイギリスで影響力のあるゲイの人物に選ばれている。

    あー…これは…
    これで皆さんもお判りになったことでしょう。そう、ドラキュラ伯爵のバイセクシュアル化は、原案者のゲイティスの自己投影、もしくは自分の性癖を押し付けたものだというが海外では取り沙汰されていたのだ。


    BBC's new Dracula is”bi-homicidal”; not bisexual. Yes, really
    In the BBC One version of Dracula, the count is, according to the series' co-writer Steven Moffat, bi-homicidal not bisexual.

     上記の記事でも、ゲイであるマーク・ゲイティスが、自分の性癖嗜好を吸血鬼ドラキュラに適合させたのではないか、ファンの間ではそのように推測されていた、というようなことが書かれている。つまり海外のファンの間では、「ドラキュラを原作から逸脱してバイセクシュアルにしやがったと」いうよりも、「原案者のゲイティスが原作を私物化した、しかも同性愛にするなんて」、という論争であったようだ。ゲイティスのセクシュアリティからいらぬ憶測を呼び、海外のネットユーザーたちの間で議論が巻き起こっていた、というのが事の始まりだったようだ。


    ~公式は、ドラキュラ伯爵はバイセクシュアルではないと明言~

     さてこの騒ぎは海外では大きかったようで、もう一人の原案者であるスティーブン・モファットが、英国のタイムズ紙に声明を発表する事態となった。タイムズ紙のリンクがこちら。だが、イギリス国外からだと月額購読料が必須。登録しようと思ったが、解約が結構ややこしいこともあったので、記事の内容は、先ほどの上記記事から引用されたものを確認した。こちらのサイトの方が要点だけ書きだしている。

    モファットの言い分を要約すると次の通り。

    ドラキュラはバイセクシュアルではない。”bi-homicidal(両性殺人)”だ。
    同じことではない。彼は誰ともセックスはしていない、ただ血を飲んでいるだけだ

     ええ…もう一人の原案者の返答は、まさかのバイセクシュアル完全否定。これまで解説してきたように、ドラマを見た多くの人は、ドラキュラはバイだのゲイだのホモっぽいといった感想を漏らしている。作中でもアガサがハーカーに、「ドラキュラ伯爵とは性行為しましたか?」とはっきりと質問している。しかも2度も念押しして。ここまでの描写があるのに、バイセクシュアル否定はかなり無理がある。これは一体どういう意図で言ったのか。それを分かり易く解説している海外ライターさんの記事がある。


    ~極めて卑劣なマーケティング手法「クィアベイティング」~


    Why BBC and Netflix's Dracula Was So Disappointing
    Steven Moffat and Mark Gatiss tried to replicate their Sherlock magic with an adaptation of Dracula but the end result was highly disappointing.

     上記は映画作家Kayleigh Donaldsonさんによる「BBCのドラキュラが、なぜとても期待外れだったのか」というタイトルの記事。タイトルで分かるように、Netflixのドラキュラをかなり批判している記事だ。色々と批判しているが”Dracula's Endless Queerbaiting:ドラキュラの無限のクィアベイティグ”にて、今回のドラキュラのバイセクシュアル化について触れている。要約する次の通り。

    モファットが、ドラキュラはバイセクシュアルではなく、バイ殺人だと言ったことは、”No homo”を免罪符にしているとしか思えない、最初の5分でドラキュラはジョナサン・ハーカーとセックスしている。またジョナサンを「花嫁」と呼び、性別問わず被害者とのあらゆる接触の瞬間は、深い性的関係を匂わせている。

    「ノーホモ」とは英語圏のスラング。こちらのサイトによると、英語圏では最近ツイッターでよく見かける単語だそうだ。同性愛を疑われるような行動をしたときに、同性愛じゃないことを示すときに使ったりするそうだ。元阪神タイガースのマートン外野手が「西岡サン、アイシテル、ノーホモ」と言ってたりする。ここのノーホモは「恋人じゃないよ」という意味らしい(参考サイト)。こちらはスポニチの記事

     とまあこのように批判しているが、項目のクィアベイティングに関しては触れていない。クィアベイティングに関しては、海外のセレブやトレンドを紹介するサイト「フロントナウ(リンク先記事)」の解説が分かり易い。

     恥ずかしながらクィアベイティングに関しては今回初めて知った英語wikipedia記事はあるが日本語の記事にはないあたり、日本では浸透しているとは言えないだろう。クィアベイティングとは、わざとゲイやバイセクシュアルを予感させるような表現を使い、LGBTQ+の視聴者や消費者を釣るが、実際にはゲイやバイではないとする行為のこと。製作者側は、保守的な視聴者や顧客を過度に刺激せず、一方でLGBTQ+を含む幅広い層にアピールできる便利な戦略として、長年クィアベイティングを使ってきたという。だが権利運動が盛んになった昨今では、LGBTQ+を食い物にするようなこのマーケティング戦略は批判されてきているという。つまり簡単に言えば、ゲイやバイ描写を入れておきながら、「同性愛嫌悪者の皆さん、ご安心ください。あれはゲイやバイじゃありませーん!」と宣言して、どちらにもいい顔をする戦略だ。具体的な例は、先ほどのフロントナウの記事を見て欲しい。

     今の解説でわかるように、モファットの「ノーホモ」という言い訳は、まさにクィアベイティング行為そのものだ。どう考えてもドラマのドラキュラはバイセクシュアルで、明らかに男とセックスをしている。これは世の中のLGBTQ+の関心をあからさまに買うための内容だ。日本においても腐女子と言われる方々が、このドラマに興味を持ったり、バイ描写を喜んでいたりするのは、ツイッター上で今も見かける。
     だがモファットは「ドラキュラはバイセクシュアルでなくて、バイ殺人者、男どころか誰ともセックスしていない」などと抜かし、保守層に媚びてLGBTQ+達の梯子を外すという、卑怯極まりない真似をしている。一言で言えばモファットは同性愛騒動を受けて日和ったのだ。このタブスタぶりをKayleigh Donaldsonさんは痛烈に批判してるわけだ。このモファットの発言で、同性愛嫌悪者、LGBTQ+両者ともに、誰も得しないものとなった。実際私より先にKayleigh Donaldsonを見ていた(恐らく)腐女子の方は、「最初は同性愛だったのに、ラストのオチは異性愛、しかもバイセクシュアルでないと原案者が明言するとか、誰が得するんだよ!」と、ツイッターで怒りの声を上げていた。どちらにもいい顔をして結果的に嫌われてしまう様は、イソップ物語の「卑怯なコウモリ」そのものだろう。とくに今回の話題は吸血鬼であるから。


    ~斜め上な考察をするLGBTQ+も出てきた~


    Dracula: Gay or Not Gay?
    I almost titled this one another in the series of “Your Weekly Dose of Stupidity.” There are Internet bottom-feeders complaining at hints that Dracula, as

     先ほども紹介した「ドラキュラはゲイ、それともゲイではない?」という記事。最初は見落としていたが、こちらにもモファットの「バイ殺人者」の言い訳が紹介されていた。この記事で気になるのは、LGBTQ+擁護派の記者がバイセクシュアル化したドラキュラをみて、斜め上な考察をしていることである。要約は次の通り。

    ドラキュラが日光が苦手なのは、ヴィクトリア朝時代の同性愛者が暗闇の中で、社会の厳しい目を避けて出会うことを余儀なくされていた。LGBTをモンスターとみなしていたんだ!

     つまり、吸血鬼ドラキュラはLGBT迫害の寓話なんだ!と叫んでいる人がいたようである。だがこれを紹介したザ・チーズマン氏は、「こいつら、原作の小説読んでない。日光弱点になったのは映画からだぞ」と、発言者のにわかぶりを批判している。さらにこの記者(LGBTQ +)は、ゲイであるドラキュラが、異性愛のヒーローに敗れたことに不満を抱いているようだ。だが悲しいかな、原案者のモファットははっきりと”No homo”を突き付けた。つまり同性愛とか両性愛という意図は、「建前上」一切意図していない。このようにLGBTQ+を擁護する内容であるのに、モファットの一言はLGBTQ+の主張を、一切合切切り捨てる形となっている。

    ここまでの流れを総括すると次の通り。

    ①ネトフリ版「ドラキュラ伯爵」放映前に、今回のドラキュラはゲイであるという情報が出る

    ②原案者の一人ゲイティスはゲイを公言している。イギリスで最も影響力のあるゲイとしても知られている。これが海外のネットユーザーの間で、「今回のドラキュラは、ゲイティスの趣味嗜好を押し付けたもの、原作を私物化した!」などと様々な憶測を呼ぶ。

    ③実際の内容は、「伯爵と性行為した?」「ジョナサン・ハーカーは花嫁」というセリフが出てくる。男同士によるあからさまなセックスシーンも出てくる。ドラキュラはどう考えてもバイセクシュアルであるとしか思えない内容だった。

    ④だがもう一人の原案者であるモファットは、「ドラキュラはバイセクシュアルではない、バイ殺人だ、誰ともセックスしていない」、つまり「ノーホモ」と言いきる。これは明らかにクィアベイティング行為。保守層とLGBTQ+の両方にいい顔をしたため、日和りやがったと批判される。

    ⑤原作をろくに読んでない人が、「ドラキュラが日光が弱点なのは、LGBT迫害の寓話だからだ」と斜め上の考察をして、海外の吸血鬼警察のマジツッコミを受ける。

     以上の流れだ。海外におけるドラキュラのバイセクシュアル騒動は、原案者が日和ったおかげで、誰も得しないものとなった。原案者のゲイティスとモファットは、保守層にもLGBT層にもいい顔をしようとした。彼らには作品に対する矜持もなければ覚悟もない。いくら否定しようとも、そうとしか思えない。そんな言動をモファットはしてしまったのだから。モファットはとんだコウモリ野郎、というのが私の率直な感想になる。


    ~個人的な感想~

     最後に個人的な感想を書いていきたい。今回のシーズン1は全3話。前評判として「ドラキュラがバイ」であるということは知っていた。普段吸血鬼解説をしているし、バイ云々は抜きにして結構期待していた。実際ツイッターのTLでは、よい評価ばかり流れてきたからだ。
    だが実際見た感想は、かなりがっかりしたの一言につきる!
    それを語っていこう。

    かなり批判的に書いていきますので、その点はご注意を。

    ~よかったのは1話の途中まで~

     1話の途中まではよかった。原作を知っていると、予想とは違う方向に物語が進み、ドキドキさせられた。ハーカーは、吸血鬼ではないが不死者となり、死人のようになってしまったので、一体この後どうなってしまうんだ…と思ったし、血を吸われつくされた者は、不死者として永遠を生きるようになってしまう。体が腐ってもなお意識はあり、痛みもある。たとえ灰になったとしても、痛みが消えることはない。実際、折りたたまれるかのように柩に入れられていた人は死にたがっていた。このようにドラマのドラキュラは、原作よりもえげつなくなってドキドキした。そしてジョナサン・ハーカーは、原作よりもひどい目に遭いながらも、さらに勇気のある人物へと変貌していた。絶望の中でもドラキュラのちょっとした言葉から、脱出の糸口をつかむ。アガサは、頭がキレるのねという。だがハーカーは「そうではない。でもだからこそ、人の話は注意深く聞く」というあたり、ハーカーのヒーロー性を高めている。そして中盤のクライマックス。原作では自力でドラキュラ城の壁を伝って脱出するハーカーだが、このドラマでは生気を奪われ、老人のようになってしまい、もはや立つ体力すらろくにない。ドラキュラも来てしまい、殺されそうになる。そこでドラキュラは言う。

    ドラキュラ「私はお前の愛する者も全部殺す。それを邪魔しないと誓え」
    ドラキュラ「誓えば助けてやろう」

     ここはドキドキした。なにせここは最初の吸血鬼小説ジョン・ポリドリの「吸血鬼」のリスペクトにしか思えなかったからだ。以前の記事で言ったように、ポリドリの吸血鬼に登場するルスヴン卿こそが、いまの貴族的な吸血鬼の始まりであり、ドラキュラもルスヴン卿の亜流でしかない。事前のキャスト情報でルスヴン卿が登場することが明言されていたことだし、このシーンは、シチュエーションは違えどポリドリの吸血鬼リスペクトを匂わせている。ポリドリの吸血鬼では、主人公はルスヴンと誓約を交わしてしまう。当然結果はろくでもないことになる。それを知っているからハラハラドキドキした。

    ハーカー「頼むから、殺さないでくれ」
    ハーカー「助けてくれたら、ありとあらゆる手段でお前を阻止してやる!」

    これはポリドリの吸血鬼を知っている人からすれば興奮するしかない!
    ポリドリの吸血鬼から、まさか真反対の返答!
    ジョジョ4部の岸部露伴の如く「だが断る!」というとは思わなかった。
    このハーカーの絶望的でも強者に屈しない強靭な精神力はほんとかっこよくて、次の展開がどうなるのだと期待させられた。

    それがどうしてああなった…

    ~1話後半からはクソ~

     ハーカーは不死者になってしまった。それゆえに脱出することができた。ここまではよかった。だがこの後、ハーカー、ミナ、アガサ・ヴァン・ヘルシングがいるハンガリーの教会に、ドラキュラが攻めてくるシーンから私の評価は一気に落ちた。
     コウモリや狼が教会に大量に押し寄せてくる。修道院長は慌てるが、アガサは当然来ることは予想していた(重要)。
     修道女たちはいっせいに杭を向けて臨戦態勢を取る。吸血鬼は招かれないと敷地内に入れない弱点がある。だからドラキュラは口八丁手八丁を使って、修道女に「私を招き入れろ」と脅す。入ってこれないことをいいことに、煽りまくるアガサ。フラグ建てるなぁ…。原作のヘルシングとは違い、アガサは吸血鬼の知識はあるものの退治の経験はなくて、調べたことに対しての確証はなく、吸血鬼の伝承が本当なのかいろいろと試していく。そうこうしているとドラキュラはあきらめて、一旦引く。その間ハーカーは、不死者から吸血鬼になろうとしており、ミナの血を見て、吸血鬼の衝動に駆られる。だがミナを愛しているハーカーは、強靭な精神力で思いとどまり、ミナに杭で刺し殺すように頼む。だがミナは当然できない。だからハーカーは杭を自分で刺して自殺する。そしてドラキュラが引いたあとに戻ってくるアガサ。そしてミナを慰める。ここまではいい。だがこの後のアガサの行動が駄目過ぎる。まずミナを礼拝堂へと連れていき、他の修道女たちと一緒に院長の説法を聞くという、普段通りの生活に戻る。ハーカーの死体を床に置き去りにしたまま

    …いや、もうありえんでしょ!
    まずなんでドラキュラが引いたからといって、普段通りの生活に戻るんだ!?
    あのまますごすごと引き下がると思うなんて危機感なさすぎ!
    次攻めてくるかもしれないんだし、せめてその日は朝まで寝ずの番したり、さらに防御を固めるとか、いろいろやることあるやろ!
    そしてなんでハーカーの死体、そのまま放っておくのかな?
    ミナはあれだけ愛していたのなら、その日はずっとそばにいるほうがいいやろ。
    なんでアガサは連れて行ったりする?それについていくミナもミナだけど。
    そして案の定、これが悲劇を生む。まずハーカーは死んでなかった。窓辺からドラキュラが語りかける。

    ドラキュラ「他人に刺してもらったら死ぬけど、自分で杭を刺しても死なないぞ」

    いや、後付け設定にもほどがあるやろ!

    伝承にあったり、原作にその設定があるのならまだわかる。あとはそれまでの物語のなかで匂わせていたりとか。けど「自殺では死ねない」なんていうのは、後出しじゃんけんにも程がある。
    そしてドラキュラの「殺してあげるから、私を招きいれるんだ」という甘言に負けて、ハーカーはドラキュラを教会内に招き入れてしまう。

     これはありえんやろ!それまでどんな絶望的で、老人のようになっても「お前を止めてやる!」と言った勇気あるハーカーの行動じゃない。それにハーカーのそれまでの行動から、彼の察しの良さが描写されている。招き入れた後、ドラキュラがどのように行動するかは、これまでのハーカーなら絶対に予想できたはず。それをあっさり屈してしまうというのは、それまでのハーカーの行動からするとおかしい。あのハーカーなら断って、様子を見に来たミナやアガサに、改めて殺してもらう選択が取れたはずだ。これが全く身動きできないとか、想像を絶する痛みがあると言うのならば別だが、そんな描写ない。それ以前に自殺じゃ死ねないというが、そもそも後だしじゃんけん過ぎるが…

     そしてドラキュラは教会に侵入、修道院長を殺して修道女たちが一斉パニックに陥る。そこでアガサはミナを連れて、真っ先に地下の隠れ家へと逃げていく。もう一度言います。他の修道女は放っておいて、ミナだけ連れて一目散に逃げていった…

    いくらなんでも無責任すぎるやろ!!!!!!!!!!!!!

    アガサは最初対峙したとき、ドラキュラを散々煽っている。調子に乗りすぎた。それなのに自分の命優先で、他の修道女は置き去りにして、一目散に逃げるとかクソすぎる。煽らなければ一目散に逃げても何も思わなかったけど、あれだけ挑発した後だと、流石に無責任すぎるという感想になる。

    地下に隠れたアガサは、聖体でバリアを作り始める。聖体は乱暴に言えば神が宿ったパン。なぜパンを蒔くのか聞くミナ。

    アガサ「聖体でバリアを貼って、ドラキュラが入ってこれないようにする。伝承通りならうまくいくはず」

    あのさぁ…それならドラキュラが一旦引いたあとすぐに、やっておくべきやったやろ!!!


    危機感がなさすぎる!自分でも「吸血鬼に関しては分からないこともある」とか、本当に伝承どおりか、最初に対峙したときいろいろ試していた。それならいっそう、一旦ドラキュラが引いた後に、聖体バリアを作っておくべきやった。そしてその日は後退で寝ずの番をおくぐらいやってもよかったはず。あと2話でやっていたように聖書バリアも。教会ならふんだんに用意できる。自分でも「ドラキュラが攻めてくることは予測済み」なんて言ってんだから尚更。最初に修道女全員に杭を持たせていたぐらいの危機感はあったんだから、聖体バリアを最初から用意しないのは、あまりにもアホ過ぎる。

    逃げ遅れた修道女たちは、ドラキュラやドラキュラの配下の狼に次々と惨殺されていく。地下にその悲鳴が聞こえてくる。

    ミナ「よく悲鳴なんて聞けるわね。」
    アガサ「この事態を生んだのは私。だから罪滅ぼしのために聞く義務がある」

    はぁっ!!?このクソアマいい加減にせんか!
    それなら刺し違えてでもドラキュラに向かっていかんか!!
    挑発したのは、あんただろうが!
    どの口でそんなことほざくかなぁ…アガサがもう少し危機感持ってれば、これほど大惨事になってない。

    そうこうするうちに、地下に降りてくる人がいる。それはハーカーだった。ミナは無事だったと喜び、聖体バリアの中に招き入れようとするが、アガサは罠だと言う。その聡明さ、なぜ直前で発揮できなかったのですかねぇ…
    そしてミナはハーカーを招き入れるが、目の色が違うといって怪しむ。
    そう、ミナが招き入れたのはハーカーではなくて、ハーカーの顔の皮を被ったドラキュラだったのだ!皮が破れていく様子を見て叫ぶミナとアガサ。
    ここのミナの叫び方がとにかく大げさすぎたのが萎えた。なんか安っぽいホラー映画の被害者女性みたいな叫び方だった。あのミナなら、絶望で悲鳴すら上げられないといった描写ができなかったのか。あとアガサがも情けなく悲鳴を上げていたのもね…
    もう殺されるしかない、といったところで1話が終わり。
    2話ではいきなり話が飛んで、デメテル号乗船の話へと移り、2人がどうなったかはすぐには分からない。
    それで結局ミナはドラキュラに「早くどっかいけ!」と言われて逃げ、アガサは食料として確保されていたことが、2話の途中で分かる。

     ミナはこの後「ジョナサン・ハーカー財団」をつくり、21世紀へと舞台がつくる第三話にてそれが明かされる。

     ここまで主にアガサを批判してきたが、彼女も可哀そうな立場だ。アガサを筆頭に1話の後半からは、ストーリーの展開の都合で各キャラクターのINTが露骨に下がってしまっている。よく漫画やゲームであるあの現象だ。あと究極の後出しじゃんけん。ストーリー展開の為だけに、アガサは危機感のないキャラに変わってしまい、ミナはジョナサン・ハーカー財団を作るというストーリーの為だけに、ドラキュラに殺されずに済んでいる。あれだけ勇気があって頭の切れたハーカーも、最後の最後でストーリーの展開上、愚かな選択をする人物に成り下がった。ドラキュラが攻めてくるまでは、原作を知っている人の予想を裏切るものでワクワクさせられたのに、後半からは一気にダメさ加減が露呈してきた。

    ~2話のアガサはまあまあよかった~

     2話はデメテル号のお話。ここのアガサは、2話だけ見るならよかった。ドラキュラとお互い口八丁手八丁で対決していく様、最後の散り際はかっこよかった。1話さえなければな…
     2話の不満は、ルスヴン卿の扱い。ルスヴン卿は何度も言ってきたように、最初の吸血鬼小説ジョン・ポリドリの吸血鬼に登場する最初の吸血鬼だ。ここから貴族的な吸血鬼が始まり、後の吸血鬼ヴァーニーに影響を与え、さらにその吸血鬼ヴァーニーからドラキュラは影響を受けていると多くの研究者が述べている。ドラマに登場するルスヴン卿も、明らかにポリドリの吸血鬼リスペクトであると紹介している(参考サイト)(英語wikipedia記事、ポリドリの吸血鬼へのリンクがある)。一体どんな感じで登場するのかワクワクしていた。まず日本語吹き替えや字幕ではルヴァン卿とされていたRuthvenなのでルスヴェンとかルスヴンなら分かるが、ルヴァンとするのはいかがなものか。それよりも不満だったことは、ドラマのルスヴンはただの人間であったこと!しかも不死者に憧れる小者として描かれた!

    これ、一体どこの層に向けてのサービスなんですか!?


    ルスヴン卿は”悪のカリスマ”に溢れた吸血鬼。主人公の初恋の人を殺し、主人公の妹と婚約して、周りからは狂人扱いにされた挙句、ルスヴンは妹と結婚、自分が死ぬ前、どうか妹を守って欲しいと頼むものの、ルスヴンは妹を殺して血を飲んで姿を消すという、悪が勝つという内容だ。むしろ原作だけで見れば、ドラキュラの方が小者だろう。それを人間にして、挙句の果てにドラキュラに利用されて殺されるという小者に仕立て上げるなんて、だれが望んでいるんだろうか?少なくとも私はこんなルスヴンは見たくなかった。
    唯一の原作要素は、ルスヴンのバイセクシュアル要素ぐらいだった。そこは残すんですね…

    ~評判の悪い3話~

    3話だけは微妙という件を視聴間にツイッターで見かけることがあった。それもそのはずで、舞台が21世紀の現代に移るからだ。まさに「思ってたんとちゃう」というやつだった。
    ここで原作のハーカーの友人であるセワードたちが登場する。ここでもまたストーリー展開の都合により、弁護士が「人権侵害!ドラキュラ釈放せよ」とか宣ってくる。3話はもう突っ込むのも馬鹿らしくなるほど、ついていけなかった。原作では脇役のルーシーとドラキュラがラブロマンスする。火葬でルーシーは死なないのも、よく知られる吸血鬼の設定からすれば、これも後付け設定だし、ショッキングに見せたいだけにしか感じない。最後のオチは、ドラキュラも実は苦労していたというもの。

     総評すると、最初は意外に思えた展開も、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い理論で、最初の予想を裏切る展開も全て脚本家による「逆張り」にしか思えなくなった。とにかく脚本家の「お前らの予想通りにはしないから!ほらすげー展開でしょwww」と言っているような気がしてならなかった。序盤の「不死者は灰になっても痛みが続く」という設定も、「とにかくえげつなくすれば怖いだろ、ほらほら!」みたいな幼稚な考えでやったように思えてきた。最後のオチも漫画やゲームによくある「実は悪い奴じゃなかった、可哀そうな奴」みたいで、気に食わない。あれだけ人殺しまくってていきなりそんな感情にはなれない。現代アレンジをしたかったのは分かるが、展開が唐突すぎて「逆張りしたかった」としか思えなかった作品だ。たしかにドラキュラは今まで多くの映画が作られているから、やり辛いのは分かるが、それでももう少し何とかならなかったのかと思う。ところどころ光るものはあった。ドラキュラが原作通り、老人から壮年へと変わる様子、イケメンではないがどこかセクシー、ドラキュラの口八丁手八丁、甘言…ハーカーの高貴なる魂…これらをもっと生かせなかったのかと思うと、非常に残念でならない作品だった。

     最初ドラキュラがバイセクシュアル化したと聞いたときは、それはないなと思ったが、実際見た後は気にならなった。それよりもストーリー展開の稚拙さや第3話の方がよっぽど批判対象だった。ヘルシング教授も女になったし。この記事を書いた本日、「ラーメン才遊記」の有能なラーメンハゲが女優になったことで話題になったが、今は国内外でこんな動きが活発しているのだろうかとふと思った。


    Dracula: Season 1
    Synopsis:The Count Dracula legend transforms with new tales that flesh out the vampire's gory crimes -- and bring his vulnerability into the light.

     上記は、海外の有名な映画批評サイト「Rotten Tomatoes」による、ドラキュラ伯爵のレビューページである。Rotten Tomatoesは最近5ch、とくに「なんj」とかでも話題になるから、ご存知な方も多いだろう。有名レビュアーと一般レビュアーのスコアが分かれており、有名レビュアーの批評は別サイトにて見ることができる。見て貰えればわかるが、有名レビューの得点はフレッシュトマト、つまり好評であり、一般レビュアーの評価はポテトが倒れている、つまり不評が多いことが伺える。一般レビュアーのレビューを見ていくと、意外にもドラキュラのバイセクシュアル化を批判する人は少なかった。というか数えるぐらいしかなかった。それよりも目についたのは、舞台が現代に移る3話だ。一般レビューは5段階評価で、4と高めの評価を付けている人でも、3話だけは批判しているという人がかなりいた。国内外で3話はダメと評価する人が多いように見受けられる。それはそうだろう。ゴシックなものを求めていたところに、現代に移るなんて、意外性をついたとは誰も思わない。「とにかく視聴者の予想通りにさせたくなかったんだろ」という感想が先に出てくるだろう。2話までは認め、3話はダメと言う評価が一番多い感じだ。私のように1話から批判する人は見受けられなかった。


     以上が、海外の批判状況と、私の感想でした。ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました。海外におけるドラキュラのバイセクシュアル化についての議論については、もっと調べたかったのですが、そもそもどういった場で議論されているのかが分かりません。ツイッターで思いつく単語で調べても、感想を言う人は少ない。「ブラム・ストーカーとオスカーワイルドは、お互い愛し合っていたのは間違いない!」とか、それどこ情報だよ?ソースあるなら教えてくれ、というツイートぐらいしか見つからなかった(両者の関係はいずれ解説する予定)。

     私の感想に関してはかなり批判的になりましたが、率直な感想ゆえにそのまま紹介させて頂きました。
     今連載中の「ポリドリの吸血鬼」の解説の続きはもう少しかかる予定です。動画の方は大分あとになる予定です。よろしければ動画のほうもご覧ください。



    連絡先
    メール:y.noseru.vamp●gmail.com ●を@に変えてください。
    ツイッター:https://twitter.com/y_noseru

    投げ銭サービスのOfuse、ユグドアを始めました。支援頂けると大変喜びます。
    ofuse→https://ofuse.me/#users/5131
    ユグドア→http://www.yggdore.com/ ツイッターのURLを入力ください。


    広告
    コメントを書く
    コメントをするには、
    ログインして下さい。