• 芸術の有用性と無用性 (映画「悪の法則」から考える)

    2019-12-23 19:021

     「悪の法則」ネタバレあり
      

     コーマック・マッカーシーという作家に興味を持って、その過程で「悪の法則」という映画を見ました。この映画はコーマック・マッカーシー脚本で、監督はリドリー・スコットです。


     作品的には、結構変化球な作品というか、最初は私も普通に見ていたんですが、最後まで見てかなり特殊な映画だと感じました。非常に良い作品だとも思いましたが、普通のハリウッド映画だと思って見ると肩透かしを食うだろうから、それで賛否両論になっていると思います。


     話としては、ごく普通の、ちょっといい暮らしをしている弁護士が、一度限りの事と思って金目当てで麻薬ビジネスに手を出すけれど、それが仇になって次々とおそろしい目に遭うというような話です。弁護士には美人の婚約者がいて、この婚約者も、キャラクターとしては尖っておらず、凡庸な人です。だから、話的には凡庸な人がちょっとしたきっかけで恐ろしい目に遭うというもので、これだけ読むとあんまり面白くない気がするんですけど、コーマック・マッカーシーの作家性が加わると、大分イメージと違うものになってきます。


     作品のテーマそのものは意外に簡単で、「現実とは不条理なものである」という事です。これがテーマです。これだけ見ると、やはり、そんなに面白くないような気がすると思いますが、このテーマの深め方が優れているので、奥行きのある作品になっている。


     作中では黒幕であるキャメロン・ディアスが、裏で全ての段取りを組んでいて、数々の悪行を成していくんですが、このキャラクターは象徴的に描かれている。キリスト教的に言えば「悪魔」に相当するようなキャラクターで、要するに、現実の不条理さの権化として描かれている。このキャラクターは人間味がない描き方をされています。


     それで、弁護士はキャメロン・ディアスの策略もあってどんどんひどい目に遭うんですが、婚約者を麻薬組織にさらわれてしまう。麻薬組織は見せしめで殺すのを決意している状態です。弁護士は麻薬組織と関係するメキシコの有力者と取引して、解放してもらおうと電話で話しますが、相手は哲学的な話で返します。有力者の男は、弁護士に「お前は今、始めて現実に出会ったのだ」という事を諭す。


     ここの箇所がこの文章で言及したい事なので、詳しく話します。その男は要するに、弁護士はそれまでそこそこにいい暮らしをしてきて、これまで危機とか苦難、あるいは凄惨な現実というものがあっても、いつもテレビの向こう側の出来事のように他人事と生きてきた。(当然、これは、先進国で「そこそこ」の生き方を良しとしている我々全体の比喩でもあるわけです) しかし、今は、一回限りの麻薬ビジネスに欲に目がくらんで手を出してしまい、偶然も絡んで、もう二度と取り返しのつかない状態に陥っている。


     奪われた恋人は帰ってこない。殺されるのは確実だし、殺されるだけではなく、それよりももっともっとひどい目に遭わされた後、死ぬかもしれない。だがその現実にしてしまったのは弁護士、お前だと。


     さて、そこで男はマチャードという詩人の名前を挙げて弁護士に教訓を垂れます。この話が興味深い。


     マチャードというのは実在した詩人です。男が言うには、マチャードはある時、若くて美しい女性と結婚した。(wikiを見るとマチャード34才の時に16才の少女と結婚したとある) マチャードは少女を溺愛し、どんな物語、詩、それら全てよりも遥かに大切なものとして少女を扱った。偉大な詩人になるよりも、愛する少女と一時間でも長くいる方がずっとずっと大切な事だった。


     ところが、少女は若くして病気で死んでしまう。マチャードは悲しみ、そして偉大な詩人となった。有力者の男はそういう話をする。


     この話は、弁護士に向けられたものなので、弁護士の愛する女性が亡くなる事の「意味」について話しています。弁護士は「私は偉大な詩人になんかなりたくない」と言う。つまり彼女に生きていて欲しいという事です。まあ当然の感情でしょう。


     ここで印象に残ったのが「不可逆的」という事です。悲しみは不可逆であって、何かが失われる事で悲しみが生まれるが、悲しみそのものは何とも取り替えが効かない。たとえ、あらゆるものを差し出したとしても、もう死んだ人間は戻ってこないのです。


     この不可逆性という観点からマチャードの詩について考えてみます。要は芸術論に持っていきたいわけですが。マチャードの詩は読んだ事はないんですが、彼が歴史に残る詩人になったのはおそらく、彼自身が大切なものを失ったという現実を受け入れたからでしょう。だからこそ、マチャードは偉大な詩人になった。


     しかし、マチャードはそんなものは望んでいなかった。それよりも愛する女性と一時間でも、一分でも長く一緒にいたかった。それが文学そのものよりもずっと大切だった。にも関わらずーーこの「にも関わらず」が人生ですがーー彼女は消えてしまった。死んでしまった。そして偉大な詩人が生まれた。


     ここには不可逆的な関係があって、興味深い。詩人は現象の最後に現れる。文学・芸術・歌というのは、我々を奮い立たせて事物に突入させる…もちろんそういう効果もある。しかし、もう一度効果がある時がある。それは、全てが終わって、悲しみだけが支配した場所。そこで芸術は歌になる。鎮魂の歌となる。鎮魂、という現象が芸術と宗教の深い根としてあった事も想起する必要があるでしょう。


     例えば、今、小説を書いている人と話すと「作家になりたいから書いている」という人が多い。ほとんどと言ってもいい。彼らの作品に感じる不満は、おそらくマチャードが「偉大な詩人になるしかなかった」という事実と真逆であるように思う。作家になりたい、偉大になりたくて、褒められたくて、いい地位を手に入れて何かを行う人間は事物の内部にいて、その中で上昇しようとしている。


     これをマチャードの経験として考えれば、美しい少女と「一時間でも」長く一緒にいたい、と願っている状態に似ている。そういう風に現実、現象の内部において幸福になる。その為に詩も小説もあるとされる。マチャードもまた、文学全部を代償にしても、少女と一緒にいたかった。


     しかし、そうはならなかった。だからこそ、詩が生まれた。ここに芸術の根源的な意味があると考えたい。


     マチャードが偉大な詩人になったのは、人生の不可逆性を受け入れ、それが悲しみに包まれていると「知った」からであって、しかしそれを知る事は彼の人生の目的ではなかった。あったのは愛する人と一緒にいたいという事。この現実が終わる所から詩が、芸術が始まる。


     現代の芸術の問題点はおそらく、現実の内部に芸術が組み入れられている事にあると思います。芸術は現実が終わった場所から始まる。また、誰だって現実は終わって欲しくない。現実の不条理さは受け入れたくはないわけです。エンターテインメントはだからこそ、終わらない現実を描く事にシフトする。そこでは、詩は生まれない。


     しかしーー「しかし」と何度も言いますがーー現実はそうではない。どれだけ幻想を塗りたくろうと、現実は我々を襲う。不条理な、悲惨な現実が我々に襲いかかる。あらゆる悲惨な事柄が決して他人事ではないと気付く時がやってくる。この映画が繰り返し訴えているのはそういう事なわけです。


     先に言ったように、この現実が終わる所から芸術は始まります。ここに芸術の有意味性と無意味性が同時にある。


     このポイントで芸術が有意味なのは、それがあらゆる利益、価値といった拘束を脱して、ただ己自身を歌う美しい歌となる事にある。それは現実全般に対する鎮魂の歌なわけです。そこに「意味」が発生する。


     しかし、この意味は、現実が絶対的に耐えられないものとして、どうにも抗えないものとして目の前に現れた人間への有意味性です。逆に言えば、現実の内部にいて、上昇しようとしている人にとっては芸術はつまらないものに見えるに相違ない。あるいは良くて、ただ自分を楽しませるもの、余技として、娯楽として心地よくさせてくれるという以上の意味はない。


     最近では有用性、利益というものがほとんど絶対的な価値として君臨しています。役に立つものがいいという考え方です。この「役に立つもの」の中に組み入れられて芸術もまた弱まっているのが今の状態でしょう。最近の作家のインタビューを読んでいたら「今の時代に追いつきたいから話題のものを作品に盛り込んだ」というような事を言っていましたが、こんな考え方では、文学は最先端を競う流行りの中の駄馬に成り下がるでしょう。せめて駄馬であって欲しいとでも考えて書いているんでしょうか。


     繰り返し強調しておきたい事ですが、現実の内部、つまりマチャードが、美しい女性と一緒にいたいと願っている間は文学はむしろ不要なものになります。吉本隆明もよく「どんな素晴らしい恋愛小説も、現に恋愛にはまり込んでいるカップルを振り向かせる事はできない」と言っていました。この時、文学とか芸術は現実に対する色褪せた現実の代用物に過ぎません。


     しかし、現実は必ずどこかで終わります。現実が終わった、もう自分には「先」はない、と思う時は必ずやってきます。それがマチャードにとっては愛する人の死だった。


     詳述はできませんが、この瞬間は必ず来るのか、これを回避する方法はないのか、と言われれば、私は必ず来ると思います。必然であると思います。更に突っ込んでいくと、むしろそれは「望ましい」事とすら言えるでしょうが、さすがに私も「望ましい」と言える境地にはないので、その言葉は今は控えておきます。


     現代は、役に立つとか有益とか言うものの中に芸術を組み込もうとしており、芸術はそういうものとは相性が悪いので疎外されていく傾向にあります。今は現実の内部における模索時代とも言えるでしょう。


     しかし、日本では戦争に負けた後(あくまでも「敗北」の後)、優れた映画作品が沢山輩出されました。それは芸術の根本に、終わった現実に対する鎮魂という作用があるからではないかと思います。芸術は現実の外に出て、外部からもう一度それを眺めるのです。


     整理すると、芸術の有用性とは、現実内部の有用性が終わった後から効力を発揮するという事です。現実の内部、実際に幸福で満ち足りた人からすれば、芸術は色褪せた現実に過ぎない。


     だから、今の風潮では芸術は端に追いやられますし、軽蔑もされます。「アート」という語でおもちゃ扱いもされます。現実の中でいかに楽しくやっていくか、心地よく生きていくか、それが絶対とされているような世界だからです。この世界は、愛する少女と結婚しようとしている男(後の詩人)のようなものです。


     この現実が、この世界が破綻した時、芸術はおそらく再び必要とされるようになるでしょう。その時は近づいているのかもしれません。そしてそれは我々にとって不幸な時代かもしれません。


     我々もまた、マチャードと同じように、別に詩人である事を望んでいません。現実の外に出た詩人である事を望む人間はいません。内部でチヤホヤされたいのがむしろ普通です。ですが、現実がそのようにうまく行かない時、必然的にその外に連れ出され、人として、時間の終端のようなものに出会う時、その現実を受け入れざるを得なくなってようやく詩は始まります。詩人が詩人となる時はそこです。そこに芸術が有用である空間が設立されます。


     この有用性こそが、芸術が芸術である空間だと思います。この場所は今は疎外されていますが、その内、また盛り返す事に「なってしまう」でしょう。というのはいくらエンターテインメントで世界を上塗りしても世界の本質を変える事はできないからです。その時に再び、詩人が生まれる場所が発生する事でしょう。芸術というのは本来、そういうものだと思います。そういう事を、「悪の法則」という映画を機縁に私なりに考えてみました。これだけこちら側の思考を触発してくれたのだから、やはりコーマック・マッカーシーの脚本は良いものだと感じています。「悪の法則」という映画をきっかけに自分なりの芸術観を披露してみましたが、この話はここで終わる事にしたいと思います。


     



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  • ヨルムンガンドのラストで考える「世界の救済」の問題

    2019-08-21 16:37

     ヨルムンガンドというアニメがあって、なかなかおもしろく見た。原作の方は読んでいないので、あくまでもアニメ版の感想を記す。また以下はネタバレありで書く。


     ヨルムンガンドというアニメは武器商人の話で、主人公はココという武器商人の少女だ。この少女がいわば「無双」のような形で色々な難題をクリアしつつ、武器商人の活動をしていくのだが、作者は銃火器に対する偏愛があるらしく、そのあたりの描写なんかに真があって、なかなか面白く見られる。


     キャラクターとしては、主人公のココという少女が、少女なのに冷徹な武器商人をやっているというギャップ、また、常に生死の駆け引きをするような立場にありながらもいつも陽気で笑顔を絶やさないオラオラ系の女子を装っているというギャップ、そういう所が魅力になっている。最も、あくまでもこのあたりの魅力はアニメ的なもので、そんなに深刻なものではない。


     ココは手元にヨナという少年兵を従えている。ヨナは、武器商人グループ(ココをリーダーとする)の中では一番純真で、可愛い少年兵で、それ故みんなに愛されている。作品内のキャラクター的な面白さは、このココとヨナの二人が中心になっている。


     さて、話を飛ばすが、作品のラストで、ココは武器商人をやりながら、実はある目論見があったという事が明かされる。それは「世界平和」であって、世界はあいも変わらず戦争をやってお互いを殺し合っているが、ココは天才科学者と組んで特殊なロケットを打ち上げて、コンピュータ制御の武器の使用を不可能にさせようとしていた。(このあたりは自分もよくわからないのだが、そんなに突っ込む所でもないのだろう) そのロケット(?)の名前が「ヨルムンガンド」となっていて、これが打ち上げられると強制的にミサイルなどの武器は使用不可能になるらしい。


     それで世界平和になるのか?と誰しもが思うだろうが、その疑問に関しては作品内でも多少言及はされている。また、さらなる問題としてはこの強制世界平和の為に、空を飛んでいる飛行機はみな墜落して、そこの人は死んでしまうという事で、その数は七十万人程度らしい。つまり、七十万人を犠牲にして世界平和を取るか、否かというのが究極的な選択として最後に現れている。


     しかしこういう風に、自分で書いていても嘘くさいというか、それは無理な話じゃないかと誰しもが思うだろう。この「世界平和」の問題の掘り下げの浅さというのは、今のセカイ系作品一般にも共通する問題なので、本腰を入れて考えてみたい。


     ※


     まず真っ先に考えられるのが、なぜ、一介の武器商人が、世界のあり方を自分一人で決められるようになるのか?という点である。これは、現代の色々な物語に共通する問題点だと自分は思っている。つまり、主人公(達)がすぐにメタな視点に立って、世界を救うだの救わないだの言い始める、またそのことにさして疑いを抱かない、という点である。


     これは、大きく言えば、現代の資本主義に根拠があると自分は見ている。この資本主義社会では、それこそ、ネットに何かを投稿するというような事で、急に「スター」「ヒーロー」になれたりするという物語が人口に膾炙している。人は、この自由とされている社会で、世界の中のほんの一部分という居場所を捨てて、いきなり世界の頂点に立つのを夢見る。これを物語は模倣し、急に与えられた謎の力で無双するとか、急にどこかの大金持ちに好かれるとか、そういう筋立てを愛好する。現代の人間は絶えず、自分をメタな視点に置こうとして逆にますます凡庸化していく。誰しもがそれを望んでいる為に、その競争に参加する者は同じ価値観の小さな存在になっていく。


     また、この物語を成立させる為に「才能」という言葉が使われたりする。どんな個人にも「才能」さえあれば、世界の山の上に立つと思われている。ヨルムンガンドも普通の漫画・アニメ作品なので、こうした道具を使っていく。ココには才能があった、ココは天才科学者と組んで誰にもできない事を成し遂げた、ココは神をも越える力を手に入れた……これはエンタメ作品の通常の道筋だろう。


     ヨルムンガンドは漫画・アニメなので、別にそういう組み立てでもちろん構わないわけだが、ラストの世界救済の話は、せっかくそれまでの物語にある程度心地よく乗っていた身としてはやや残念に思った。急に主人公がメタな立場に立ってすべてを解決する……これは「まどかマギカ」でも見たが、あまり良い解決法とは思わない。ただ、結局の所、なんやかんやあっても色々な問題は円満に解決する、という幻想を与えるのがエンタメ作品なのだから、それしか終わり方はない(それ以上やると、エンタメから逸脱する)とも言えるかもしれない。


     いきなりメタな立場に立って、与えられた才能やら偶然やらで、世界を救うか救わないかという大きな話を持ち出して、実際に世界を救ってしまうのが今流行っている物語であるし、「ヨルムンガンド」もまたそれに則って作られている。ただ、それ以上に、掘り下げ方に疑問を感じたのは、七十万人を犠牲にして平和にするかどうか、という二者択一の場面である。


     この問題というのは当然、簡単な問題ではない。何故、簡単な問題ではないのか。


     例えば、この問題に対して、「私は数学的正しさを主張する。七十万人よりも人類全体の方が大切である」と言う立派な人間がいて、そいつ(ココのような)がヨルムンガンドを打ち上げるとする。七十万人は死ぬ。ミサイルや核などは使えなくなる。


     しかし、ここでそう言い切る人間の問題は自分が七十万人の中に入るかもしれない、という危惧が全然ないという事にある。例えば、この人物の家族が今丁度、飛行機に乗っているところだと知っていたら、彼はヨルムンガンド打ち上げのボタンを押すだろうか。


     現に、ココは、自分は正義をするのだという主張をしているわけだが、ココはヨナという少年を愛している。この時、その犠牲になるのがヨナだとして、彼女はそれでも己の正義を堂々と宣言できるだろうか。自分一個の死に関しては平気だとしても、自分の愛する者が死んだ後の世界平和に意味があると思えるだろうか。ヨナが、その七十万人の中の一人だと仮定して、その後の世界を彼女は堂々と、正義を成したという顔で生きられるだろうか。


     ここまで書いていくと、読者は思われるかもしれない。(じゃあ、どうやって問題は解決すれば良いんだ) もちろん、その答えは一つしかない。答えの解決方法などない。答えがないというのが答えだろう。ただ、人は心の痛みを感じて生きる他なかろう。自分の死を受け入れるか、他人の死を受け入れるか。


     それを、自分以外の関係ない誰かを殺して自分達が生きる、そういう答えを選んだ時、世界は闘争の渦に巻き込まれる。ヨルムンガンドが打ち上げられ、七十万人の一部として自分の家族を殺されたと知った遺族が、ココの元にたどり着き、ココへの復讐としてヨナを殺すとしたらどうだろう。ココは仕方ないと、諦められるだろうか。家族の復讐をした人間は間違っているだろうか。彼は(世界平和の為に犠牲になったたかだか七十万人うちの中に自分の家族は入っただけだ)と達観すべきだろうか。


     こういう問題は現実にも起こっている。例えば、自分のたった一人の子供が交通事故で死んで、その後生きる気力がなくなった母親がいるとする。その母親が、生きる甲斐なしとして自殺する。この母親にどんな言葉をかけるのか。ヨナを失ったココは、成し遂げられた世界平和の中で、こういう鬱状態に陥らないとも限らない。


     だから、思うのだが、このあたりで、エンタメ作品を突き破って、芸術作品に突入する必要がある。「ヨルムンガンド」という作品がそのあたりの部分、つまり、ココは世界平和を成し遂げようとして、七十万人の人間をも殺す。するとその復讐として、ヨナが殺され、ココはそれに対して更に復讐しようとするが……という感じで、徹底的に人間の業の部分を描いていき、メタな視点から成し遂げられた「世界平和」が何であるのかとその底に至るまで描いていけば、もっとすごい作品になっただろう。だが、そんな事をすれば、日本の漫画業界・アニメ業界では受けいられなかっただろうというのも容易に想像はつく。


     このあたりを徹底的に描いているのが「ウォッチメン」というアメコミだという話を聞いた。自分はまだ読んでいないのだが、あらすじだけ検索して見ても、かなり納得できそうな気がした。ただ、あくまでも未読なので、そこにはもっと嘘がない形での掘り下げがあるのだろう、と期待を持つにとどめておく。


     さて、色々書いたが、最後に自分の簡単な結論だけ書いておく。自分も色々考えてみたが、「ヨルムンガンド」という作品も含めた結論としては『そもそも正義などない』という事である。正義というのは妄想だと言った方が良いかもしれない。人間にあるのは業のみ、意志のみ、欲望のみ、という風に割り切った方が良いと思っている。


     具体的には、今、正義と言われているのは悪に対する悪、暴力に対する暴力であって、ナチスに対抗したチャーチルが、国内統制に関してはナチスと同じような方法を使ったというのをなにかの本で読んだのがヒントになっているが、結局、正義と呼ばれているものも悪の変化型に過ぎないと考えている。それもまた暴力の一種であるし、だから、正義を掲げて軍事作戦を始めてみても、関係のない無垢な家族を惨殺するなどは頻繁に起こってしまう。


     自分なりに考えてみると、例えば、目の前に極悪人がいるとする。そいつを僕が運良く殺せる立場にいるとしよう。そいつは強姦・殺人、あらゆる犯罪を犯し、僕がそいつを殺さなければ、そいつはまた犯罪を犯すとする。いわば、僕は簡単に絶対的な正義を執行できる立場にいる。


     僕がもしその立場にいたら、多分そいつを殺すだろと思う。だが……それは少しも気持ちよくないだろう。そいつの首を絞める時、ナイフで首筋に切りつける時、鮮血がほとばしったり、うめき声が上がったり、場合によっては命乞いをしてきたり、抵抗してきたり…そいつがいかに極悪人とわかっていても、その嫌悪感は拭いきれないだろう。その後、自分は重大な精神疾患にかかる可能性も考えられる。やった事は百パーセント正義なのだが、その正義は僕にとっては吐き気のする行為でしかない。


     しかし、人間はそういう行為をも必要と考え、人を殺せる人間を育ててきた歴史もあるので、そういう場合はそういう人間の感受性を非人間化する事に努めてきた。それによって殺人というものを可能にしてきた。ナチスがガス室を作ったのは、ユダヤ人を銃で殺すのは精神的に耐えられないからというのをどこかで読んだ覚えがある。ガス室は「ヒューマニスティック」な政策だったわけだ。


     自分は人間というのはそういう存在だと考えている。そうして人間の根底を描いてみせるのが文学とか芸術としての物語作品だと考えている。例えば、ヒーロー物で悪者を「やっつける」場面にグロテスクな描写はされない。されたとしても戯画化されている。人殺しもまた人間である、と言うのは正しいがこれが偽善に陥らないようにする為には、〈人間は動物より動物的になれる存在だ〉という事も考慮に入れなければならない。


     人間のやる事は暴力であって、殺人鬼を殺す行為もまた殺人であろう、と思う。これは別に偽善的ヒューマニズムが正しいと言っているわけではなく、殺人鬼を殺す時、やはりそこに「生身の人間を殺す嫌な感覚」があるという話である。人は自らの業を持って生きており、それを潜在的なものとみなすとキリスト教の「原罪」となるのだろう。自分は現代を覆う幻想体系よりも「原罪」や「業」の概念の方が正しいと思っている。


     「ヨルムンガンド」という作品も、それなりに痛みを感じながら描かれていたと感じていたのだが、最後では、世界救済の安易な方法に行ってしまった。世界平和がいくらやってきても、人間のやる事にそれほど変わりはないだろうし、暴力もなくならないだろう。そうして人間が人間でなくなろうとすると、そこはもう想像の埒外である。どうしても、現実の底を認識する為には我々にとって都合の良い作品ではなく、都合の悪い、真実を見せる作品が必要となる。少なくとも、そういう作品を自分は欲している。



  • 谷崎潤一郎 「細雪」 感想

    2019-07-20 16:40

    1 萌え

     
     日本近代文学の大御所であるところの、川端・三島・谷崎に自分はあまり興味を覚えてこなかった。日本の近代文学を考える時、漱石・鴎外を頂点に徐々に下がっていく系列を自分の中で想像する。更に言えば、漱石を頂点として、太宰治と小林秀雄の三人で三角形を作り、その範囲が一番、文学の本質に響くと考えている。
     
     これは何故そう思うのかと言うと長くなるので省くが、とにかく谷崎潤一郎も川端康成も、世評と違って自分の興味の網にかかってこなかった。しかしどういうわけか、谷崎潤一郎の「細雪」だけは別らしい。これは他の作品と違って愛好できるものになっている。これは不思議だが、事実だ。
     
     「細雪」とはどういう作品か。まだ読んでいない読者に紹介するなら、『日常系萌えアニメ』と思ってもらえばよろしい。え? ふざけんな?と言われるかもしれないが、実際、美人の四姉妹を出して、そこに作者・谷崎が萌えながら書いているのは明白だ。文豪が我々に送ってくれた、立派な日常系萌えアニメとしての「細雪」。そういう見方をしてもそこまで悪くないと思っている。もちろん、それだけには収まらない部分もある。
     
     例えば、序盤で、最重要キャラクターの雪子が足でうさぎの耳をパタンと閉じるシーンがある。このシーンなどは明らかに「萌え」的場面だと思う。美しい姉妹を出してその姿に作者(=おじさん=谷崎)が萌える、そういう書き方をしている。
     
     ただ、その萌えがただのオタク的萌えなら、「細雪」が傑作にはなるはずはない、と誰もが思うだろう。これはそのとおりで、この一家のような安定したブルジョア的性質が失われていく事、その事に対する作者の鋭敏な感覚が背後で光っているから作品全体が象徴としての価値を帯びてくる。作者は、関西の富裕な家が次第に落ちていく様子を描きながら、そこに失われていく日本の美があるのだと感じていた。
     
     ただ、偏狭なナショナリズムに陥らないように「日本の美」というものが確固としてあるものではないと思い返す必要があるだろう。「日本の美」というのも概念で弄んでいる内はいいが、中に入ってみると、西洋的なものがあったり、近代的なものがあったり古代的なものがあったり色々だ。そういうものが絶対的にあるわけではないだろう。
     
     谷崎がこの作品に込めた思想というのは明瞭だ。この本に興味のある人は序盤の、みんなで桜を見に行くシーンに目を通せばいい。そこが気に入れば間違いなく買いだろう。谷崎は次のような感性を登場人物に代弁させている。

     
     (桜の花について述べる)
     
     「少女の時分にはそれらの歌を、何という月並なと思いながら無感動に読み過ごして来た彼女であるが、年を取るにつれて、昔の人の花を待ち、花を惜しむ心が、決してただの言葉の上の「風流がり」ではないことが、わが身に沁みて分かるようになった。」
     
     
     最初月並に見えていた桜の花が、年を取って、真に美しいものに見えてきたーー言われている事はこれだけだし、作品の背後の哲学も究極的にはこれに尽きている。だから、これだけなのか、これだけで偉大な長編小説の骨格になるのかと問われれば首をかしげたくなるが、それが、なるわけである。ここには概念的に分析してもわからないものがあって、それは、谷崎潤一郎自身のエロスに対する偏愛が年を取って、良い加減に萎びて、「細雪」のような傑作に昇華するーーそこには樹木の成長を見守るような、不思議な枯淡な味わいへと年輪が変化していく自然の作用がある。
     
     これが作者の思想なのか生理なのか、そのあたりが微妙にぼやけているのが日本的なものの良い部分であり、苛立たしい所でもあるが、とにかく「細雪」はそのように成ってしまった作品である。これは、美事に枯れた樹を見るような味わいがあり、概念で分析すると内容は乏しいようだが、生理的には馬鹿にできないものが沢山入っている。だから、吉本隆明のように「こういうものは認められない」という気持ちもわからないのではない、という事になるだろう。

     
    2 雪子

     
     もう二点ほど言及したい箇所がある。一つは実質的な主人公の雪子だ。
     
     雪子は姉妹の中で一番美しく、おとなしいが、秘められた意志が一番強いキャラクターとして設定されている。「細雪」という作品の中心にいるのは雪子だろう。彼女のお見合い話が作品の中心点だ。
     
     雪子には何度もお見合いの話が来るがいつもうまくいかない。トラブルが起こったり、雪子の方で拒否したりする。雪子の見合いはズルズルと先延ばしになる。ラストでは、うまくいったかに見えるのだが、雪子は結婚式の直前で下痢になり、汽車の中でも下痢は止まらない…という所で作品は終わっている。
     
     作品のこの終わらせ方は見事だと思う。源氏物語の終わり方に学んだのだろうと自分は見ているが、余韻を残しつつ、先の運命を暗示してそっと終わる。ここも、西洋の作品のようにはっきり結論を出すわけではない日本的な感性が入り込んでいる。絵巻物のように生活を広げておいて、その両端は淡くぼかさせて自然の中にそっと溶け込ませていく。ふーむ、見事な、と思う。
     
     雪子に戻る。雪子は最後、汽車の中でも下痢が止まらない、となっている。ここでは、彼女の表層的な意識と無意識が乖離している、と見ていいかと思う。つまり、雪子は本心では嫁に行きたくないのだが、表面的には行きたいと思い込んでいる。
     
     僕は、雪子というキャラクターは、「主体」に位置するような人物と見ている。イプセンの「人形の家」では、ノラは家を飛び出るのだが、雪子は飛び出たりしない。イプセンに影響を受けた漱石も、「それから」で主人公代助を安穏とした生活を捨てるように仕向けている。ここには主体としての活動が社会秩序と矛盾するというドラマが描かれている。
     
     では雪子はどうなのだろう。そのあたりも微妙な均衡でもって作品は作られていく。この均衡がどちらの方向に転んでも、作品は違う雰囲気のものになってしまうだろう。
     
     つまり、ただ生活を描いただけの、完全風俗描写に偏ったものか、それとも西洋近代文学のような、主体性ある個人の葛藤などが問題となっていく。谷崎はどちらにも行かず、真ん中に雪子というキャラクターを置き、雪子が遂に自分の主体を発揮する事はないが、その周囲に自然や人間の様々な生活相が置かれていく。フローベール「ボヴァリー夫人」などと比較するとそれははっきりする。ボヴァリー夫人は破滅まで行くが、「細雪」はそこまでは描かない。長く棚引く雲の行く末が地上の人間には遂に見極められないのと同じように、それぞれの運命は生活や自然の中に静かに巻き取られ、遂には淡いピンク色の中にぼやけて消えていく。
     
     このあたりの微妙な均衡の上に作品は作られていく。ここに、作品に対する不満と満足が同時に発生する。ドラマをとことん突き詰めない所に不満が生じ、また、様々なものを包み込んだ自然の中に個人の運命を巻き取らせていく点に、我々の中の日本人的生理が満足する。
     
     
    3 戦争の最中に書かれた作品

     
     言及したいもう一点は「細雪」が戦争中に書かれた作品だという事だ。
     
     最初に言ったように、自分は谷崎潤一郎という作家を、世評ほど尊重していない。感心もしていないのだが、にも関わらず「細雪」には心惹かれる。それはどうしてかと言うと、これが戦争中に書かれたという事実と関係しているのではないかと勝手に推測している。
     
     考えてもみてほしいのだが、どっちかと言えば細々とした生活を描く「日常系」な作品を、谷崎は戦争中に書いていたのである。戦争というのは太平洋戦争だから、日本が破滅するか否かという大戦争だったわけで、谷崎の私生活については僕はよく知らなくて、もちろんそれなりに富裕だし恵まれてもいたのだろうが、それでも時局が真っ暗な状態でこういう作品を黙々と書くのは大した作家魂というか、変態もここまでくれば清潔な意志に変わったと言っていいかと思う。
     
     戦争というのは、どうやら文学者にとってはあまりありがたいものではないようで、優れた戦争文学もあるが、僕の感じでは、文豪はみんな戦争を心の中では回避したように見える。戦争、特に二十世紀の戦争などは大雑把な現実であり、人間はただの数単位となって、大きな政争の中に巻き込まれる。政治学の本を読んでいると、領土を取るとか取らないとか、でかい話ばかり出てくるので、細やかな人間の内面なんてどうでもいいし、不倫だ恋愛だのを細かく書いている文学なんて馬鹿馬鹿しいという気持ちになってくる。しかし、些細な内面に固執しなければ文学は存在できないし、一般に、人間そのものも中身のない機能人間になってしまう。
     
     谷崎は戦争の「恩恵」を受けたと言うべきだろうか。少なくとも、僕のような読者にとっては、谷崎が戦争という巨大な現実の中で、細かな生活に固執したというのが、良かったようだ。「細雪」は時局に合わない、と官憲に言われたそうだが、大抵傑作というのは時局に合わないものである。
     
     バッハは「奇妙な演奏をする」と上の人間に言われたそうだが、現在の我々にとっては、彼が奇妙な演奏に固執しなかったら、バッハでもなんでもないものになってしまう。我々は常に何らかの形で闘う必要がある。良いものは大抵、時局に合わないからだ。「細雪」はそんな作品として、僕らの目の前に現れた。僕はこのほのぼのしているように見える作品の背後に、谷崎が描かなかった巨大な現実がある事を思うと、彼が描いた以上のものが作品の中に存在していると想う事ができる。

     この路線から、古くも新しい次の文学を続ける事は可能だろう。現在の現実も、戦時とよく似ていて、吹き荒れている大衆の意見や広告、人間の数量化に汚染されている。我々は取りようによって、古典を、どのような状況にあっても新しいものとして読む事が可能だろう。