文学の人間観
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文学の人間観

2019-07-01 02:01

     

     最近の文学がつまらないのは、今の作家が人間にそもそも興味がないからだ、という事を書いていた人がいて、なるほどなあと思っていた。その事について簡単に書いておこうと思う。


     先日、哲学者のミシェル・フーコーの著作を久しぶりにパラパラめくっていて、この難解と呼ばれる哲学者も今であれば感覚的によくわかる気がした。そうして、フーコーがよくわかるというのは、明らかに現代という同質的な時代にフーコーも僕らもいるからだろう。フーコーのした事は他人事ではない。


     フーコー論を長くしても仕方ないので短くするが、フーコーの問題意識にあったのは、正常と異常の対立であり、また、人間というものを定義し、その枠からはみ出たものを排除する、そういう近現代のドグマそのものについてだった。フーコー自身は同性愛者というのもあって、自らを疎外されたものと感じていた。そこから彼の問題意識が発している。


     現代の作家が人間に興味がない、関心がない、というのはその通りだと思うが、それは次のように言い換えられるのではないかと思う。つまり、彼らの思考において既に「人間」というものは決定されている。決定されていない存在は、異端者であり、異常者で、そもそも人間ではない。こうした区別の為に、今の文学作品に盛られた人間達は単純なものになっている。それというのは、我々が我々の在り方を先んじて定義したが為だろう。


     先日、タレントの松本人志が、通り魔事件の犯人を「不良品」と評したそうだ。そういうニュースを見た。僕はこの発言が長く引っかかっていたが、ある時、スルスルとほどけるようにスッと飲み込めた。(そうか、みんなは内心ではそう思っているのか) こうして僕は、僕自身が人間ではなく、不良品であるというのを知った。フーコーもまた、己が人間ではない、ある党派に属したり、あるアイデンティティを持っていないものは人間ですらなくなる、という残酷な真実をはっきり見たのではないか。


     例えば、川上弘美の「センセイの鞄」というのは、認可された内部の人間だけがひたすらイチャイチャする話だ。よしもとばななもそんな感じだし、女性作家のほんわかふんわり系作品というのは、実際の所、その内部に入れないものに対しては過酷な態度を取る。しかし、外部に対する過酷な態度を取る所を見せると、作品内部のほんわかふんわりが壊れてしまうので、それは見せない。それを補完するのは、露悪的な男性作家なのだろう。


     今は単純化しているので、もちろん例外はあるわけで、それは一言しておく。…露悪的な男性作家、中村文則なんかが思い浮かぶが、こうした作家が「悪」を描いても、別に本気で悪を理解する気があるわけではない。それは、安全な「内部」にいて、興味範囲で外部の犯罪行為を覗いて、モチーフに使ってみるという風である。村上春樹も悪を描くの描かないのという話をしていて、僕はそれを読んで違和感を抱いたのだが、どうして違和感を抱いたかと言えば、彼らが自分の中にもそうなる可能性を十分見ていないように感じたからだ。つまり、自分の中の悪に十分目を注いでいないように感じたからで、そうなるとどうしても欺瞞的になってしまう。


     悪というのは、キリスト教における原罪とも絡むし、仏教では業というものとも関わってくる。僕はやはり、古代の優れた宗教家などは、現在の作家よりもよくわかっていて、それは何かと言えば自分の中に悪があってそれは他人事ではないとよく知っていたのではないかと思う。ただ、このあたりは古代においても、通俗的な見解と本質的な見解が常に闘争を繰り広げていた。何か宗教的儀式、形式的行為さえすれば、自分が悪や業から免れうるという考えが、雑草がはびこるようにいつの時代もはびこってきた。


     最初の話題に戻ろう。今の作家が人間に関心がない、とはどういう事だろう。現在の閉塞感とも関わるが、異常であるとか、不良品とか、狂人とか、その他色々な方法で人間の外部を定義する行為は、逆に「正常」な人間を定義する事にもなる。こうして人はなんとか自分を正常と思い込みたいわけだが、衰退しているこの社会においては、かつてのその定義もうまく当てはまらない。


     作家が人間に関心がない、という時、それは、「人間ではない人」=異常者、で括るからではないかと思う。内部のアイデンティティを狭く閉じ、人間の在り方を狭め、自分をその中に放り込む。これは当然、社会的認可と関わる。簡単に言えば、文学とか文学者も、経済と社会に取り込まれたので、その時に社会が規定する人間定義を同時に受け入れたが為に、文学は死滅した。こうして狂気もなければ洞察もなく、形式だけはひねくりまわして文学臭く見せる作品が繁茂した。彼らが人間に興味がない、人間というものの枠を狭めたいと思うのは、彼らが自分(達)を正常な人間であると信じている為だろう。


     では、何故そう思う事は良くないのだろう? 別にそれでいいではないか? …これに関しては理論で答えるよりも、実例で答えた方がいいかもしれない。過去の古典文学を覗くと、そこにいるのは狂人、人殺し、色魔の類である。そんな人間がわんさかいる。そうして、正常な人間が正常に事を進めてそのまま偉大な文学作品となった…そういうものはないではないが、数は少ない。どうしてこんな事になるのだろう?


     これは難しい疑問だったが、一つには「正常」であるというのも結局は、ある傾向性に過ぎないから、というのが僕には考えられる。正常な人間とは自己を意識せず、多数派であるという理由で、自らを疑ったりはしない。ところが、歴史を見れば明らかなように、人間の集団的な在り方がいつも正しいとは限っていない。また、我々は自分で自分の在り方や思考の経路を定めたわけではない。我々がたまたま苦難に合わずに済む人生を送ったとしても、それはただ偶然の作用に過ぎない。


     もう少しわかりやすく考えてみよう。正常な人間は異常者に対して憤り、とっとと死刑にしろ!と言う。ところで、この正常な人間が子供の頃から虐待を受け続けた人間であったかもしれないという可能性を考えてみれば、彼の正常さというのはそれほど確固としたものに見えないのではないか? 人は先天的に大きな差異にさらされており、我々は常に偶然を必然と思い込むしかないのだろうか? …いや、ここで問題としているのは、そもそもこういう正常な人は自己の因果を意識すらしないという事である。そうして現在、危機に合っているのは正常な人達のアイデンティティそのものなのだろう。彼らが疑いもしない所から、彼らを掘り崩す何かはやってくる。


     別に僕は犯罪者を擁護しようとしているわけではない。ただ犯罪者も人間であろう、と思っているだけだ。人間であるからには、過去の因果や内面の葛藤が、犯罪の行為に結びついていると考えられる。それともそれは考えられないというのだろうか。


     おそらく優れた文学作品において、犯罪や悪が問題となるのは、それが人間の根っこを考えさせる原因になるからだろう。最近、源氏物語を調べていてそういう事を思った。光源氏は過去の因果、小西甚一の言う「宿世」というものに囚われて行動している。源氏は、悪というほどではないが、悪に近い行動を起こし、その因果を身に受ける。その時に、人間というものの中にある奥深いものを彼は体験せざるを得ない。人間が自らの必然と偶然、その運命を感じるのは自分が異端になった時のみである。世界と離れた自己、そこではじめて自己は自己を知る。世界と一つに溶けた偶然性、あらゆる偶然から受けた恩寵、人生の幸福というのは人が思うほど価値のあるものではないだろう。ウィトゲンシュタインはこう書いている。



      仮に我々の望む全てのことが起こったとしても、このことはやはりいわば運命の恩寵にすぎないであろう。



     運命の恩寵の中にいるものは、自らの運命を意識しない。旧約聖書にある人間の自覚が罪と共に始まったというのは極めて示唆的だ。


     現代においても同じ事が言える。定義された人間の中にいて、内部の人間性を称賛する薄っぺらい作品群、その反対に、自分を正常な人間の立場に置いて、小窓を開け、悪を趣味的に描写する作品群、その二つは裏と表で一つの世界を成しており、それは我々の世界と一致するものだろう。ただ、この表層的な世界は、自覚というものを欠くために軽薄な正義の主張や、仲間意識の称賛に終わるだろう。多分、人間というものは人間が考えているものよりももっと根深いものなのだろう。ところが、それを意識し、考える運命を持った人間は稀である。現在ではあらゆるものが資本と、大衆の価値観に吸い込まれていき、絶えず正当化され、評価される中で自分について思惟する時間もない。自己のない世界であるからこそ、人はみな自分を認めてもらおうとする。そこにおそらく自分はないし、人間もない。


     人間に関心を持って作品を作るとは、フーコーが哲学でやったように、現代の通俗的な人間観を打破する事から始めなければならないだろう。もともと自分は宮崎駿や手塚治虫ら巨匠のヒューマニズムに疑問を抱いてきた。ああしたヒューマニズムは、戦後の安定した大衆と共に成り立ったものだが、その大衆が瓦解している今、それとは違う見識を見つけなくてはならないだろう。それにしても、過去に優れた文学作品が出た時期はわずかであるのと同様、人間が人間を認識するとはいかに困難な事か、と自分は思わずにはいられない。


     現代においては全ての事柄に答えが出ている為に、問いを発するのが禁じられている。人間に関心を持とうとすれば、まず人間というものの見方を粉砕しなければならない。人間というのはこの世の中に沢山いる。ところが、これを観察し、思考するというのが難しい。見識というものを一番妨げるのはおそらく、「自分は正しい人間だ」という『妄想』だろう。


     


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