時代の裂け目、漱石と鴎外
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時代の裂け目、漱石と鴎外

2019-07-19 02:19

     今考えている事についてメモしておきます。思考メモ……ただのブログです。


     大まかに言って自分は今は悪い時代だと考えています。二十世紀全般が低調だと見ています。ただ、日本の場合は近代化が遅れたので、二十世紀初頭に近代化の時代が来ました。近代化するのが良い事とは単純には言えませんが、こと文学・芸術に関しては、日本の場合はそのあたりの方が今より質が高いというのは普通に見える事かと思います。


     日本近代文学の両巨塔は漱石・鴎外という事になっていて、自分もこの二人が日本近代文学では一番優れた文学者だと思っています。更に絞ると漱石だと思いますが、とりあえず漱石・鴎外で良いと考えています。


     では漱石・鴎外は何故、それほど優れた作家になったのでしょうか。小西甚一の「日本文芸史」という長い本があって、そういうものを読んでいるとイメージが少しづつ浮かんできたのですが、要するに二人は、時代の一番深い切れ目にいたわけです。江戸と明治、封建社会と近代社会の間にいて、その矛盾をこの二人はそれぞれ自分の運命として受け止め、それぞれの文芸を展開させていった。つまる所、彼らの偉大さはそこにあると思います。だから個人の「才能」だけではなく、そこに歴史的なものがあると思うわけです。


     村上春樹なんかは文豪になろうと頑張っていると思いますが、いかんせん歴史の風が吹いていないという気がします。しかしその事と村上が「世界的にヒットした」というのはまた別の事象です。世界そのものがなんだか良くないものになっているのではないか、と自分は思っているのですが、現代は文豪も大芸術家も、それどころか様々な分野で優れた才能が生まれにくいという気がしています。


     漱石や鴎外は、今から振り返ると、想定される以上に遥かに江戸時代の強烈な倫理が染み込んでいます。その、自我を縛る倫理との闘いが壮絶なものとして作品上に展開されるわけです。現在は資本主義一強で、自我というものも、社会的様式の上に則ってなされると考えられています。この思考が続く限りは葛藤は発生しないでしょう。


     村上春樹からよしもとばなな、川上弘美らに至る自己充足した顔は、敗戦後の日本が経済的にはそれなりの地位になったという事と関連しています。ここで、人は自我を資本主義の様式の中で確認します。自分を人々に認めてもらい、また自分も人々に何らかの価値を与えるという互恵関係は整然としたものとして考えられています。一般人と話していても話にならないと感じるのは、彼らにとってのこの互恵関係は疑う事すら許されない整然としたものだからです。彼らは、存在の深淵を感じた事がないのだと僕は感じるのですが、そんなもの感じない方が幸せだと人は言うでしょう。


     漱石も鴎外も、近代化し、解き放たれた自我の危険性というものを承知していました。ロシアのドストエフスキーも、同じように自我意識の主張がラスコーリニコフの血塗られた斧にまで到達すると分析していた。ドストエフスキーは、近代への処方箋としてキリスト教、それもロシアの土着的な、古代的にも思えるキリスト教を持ってきました。実際に、キリストや神の存在が答えになるかは疑問だったりするのですが、ドストエフスキーはとにかくそういうものを持ってきた。鴎外は、過去の封建時代の倫理性の中に帰っていったと思います。漱石も案外、鴎外と近いのでしょうが、小説の中では自我意識の強い人間の陥る苦境を描き続けました。


     何が言いたいかと言うと、今まで漠然と疑問に感じていたもの、自分を包んでいた空気のようなもの、つまり近代性というものがようやく自分の意識に上ってきたという事です。色々本を読んで考えると、どうもこの近代性というものは禁断の果実のようなもので一度食べるともう元に戻れないものではないかと思います。過去を回顧してももう遅い。今更過去に帰る事はできない。その果実を人間は食べてしまった、それを一番最初に食べたのは西洋人だった、という気がしています。


     小西甚一の「日本文芸史」に鴎外の「雁」の解説がされています。ヒロインのお玉はある事情で金貸しの妾をしている。しかし、ふとしたきっかけから学生の岡田に恋をする。お玉と岡田との悲恋が作品のテーマになっています。


     今の人がこの小説を読んだら普通の恋愛物と思って読むでしょう。しかし、小西甚一の言うように、鴎外の視点の中では、お玉が岡田に恋をするというのは新時代の新現象だったわけです。つまり、お玉が知るともなく、彼女自身、個我の意識を持って、本来恋をしてはいけない相手に恋をする、そうしてその判断を自らの中で肯定しさえする、これは全く新しい事柄だーーこれは、現代からするとわかりにくい事かと思います。近代が到来する前には「恋愛」はなかったが「性」はあった。しかし、昔の人間も動物のような性を営んでいたわけではありませんから、現代から過去を想像するというのは普通考えられているよりはるかに難しい事だと思います。


     「雁」という小説においては、旧時代の倫理と新時代の自我との葛藤が問題になっています。これは漱石とも共通の問題意識ですが、今ではわかりにくくなっている。現代では、自我の主張は「当たり前」です。ネットにおけるそれぞれの個我の主張、これほどありふれたものはない。現代は、近代においては人間の美しさ、神から解き放たれた自我の自由というものが強く宣言されたのですが、そうしたものが堕落し、むしろその弊害が目についてきた時代ではないかと思います。


     もう少し他の観点を入れると、ドストエフスキー「罪と罰」で「この時代、ナポレオンを目指さない奴なんていませんよ」というようなセリフがあります。これは資本主義の流入、社会の無秩序化に伴い、個人の栄達や、社会制度をひっくり返そうとする個人が一般化してきたという社会背景を受けてのセリフだと思います。こういう状況は現在に似ていると言ってもいいかと思います。


     さて、そろそろまとめますが、現在というのは、文学者は割と何にも考えず小説を書いたりしているという段階です。そういう人が「純文学作家」だったりします。何故このような状況が可能かというと、一つの統一的な価値観が支配的になったので、もう考えたり苦しんだりする必要がなくなった(ように見える)からだと思います。


     これをさっきの小説「雁」に戻してみると、川上弘美のような人は鴎外の位相ではなく、主人公のお玉の位相で小説を書いていると考えられると思います。お玉は自分の感情は自分のものと思っているのですが、鴎外はそこに時代や社会の価値観が個人を変えていく様を見ている。このズレは大きいかと思います。ネットのエッセイでもいいし、最近の通俗作品の主張でもいいですが、見ていると大抵「どうでもいいな」と自分は感じてしまいます。何故なのかと言うと、お玉の自己主張を聞かれされているような感じで、それに対する客観視点が感じられないからだと思います。しかし、現代、客観視点という足場は持てるのか。漱石・鴎外は時代の裂け目に位置したからこそ、人間を俯瞰的に見る目を得たと言ってもいいでしょう。現代はどうなのか。


     希望的に、あるいは絶望的に考えるとすると、現代においてもまた時代の裂け目が現れていると見てもいいんじゃないかと自分は思っています。現代を覆っているイデオロギーはアメリカのもので、唯物論・大衆化・拝金主義といったものが一体になった姿です。しかしアメリカが凋落しつつある今、もう一度、その根源にある近代ーー自我・自己の主張、自己礼賛、そういうものの価値を見直してみてもいいのではないかと思っています。


     僕自身は古いものに還っていく予定ですが、「新しいもの」というものもおそらくは現代に組み込まれたイデオロギーの一つに過ぎないでしょう。人が問う様々なもの、人が発する様々なメッセージ。それらを直接相手にするのはもうやめようと思っているのですが、その根底にあるものには目を注ぐ必要があると感じています。


     現代は近代というものが辿るルートの一番終点に位置しているのかもしれません。その終わりはアメリカの失墜、というエピソードで飾られるのかもしれません。それぞれの人間が解き放たれ、自我を主張し合うというのは当然、それぞれの対立・闘争を予感させます。これからまた戦争か、あるいはそれに類するものが始まるかもしれません。


     しかし異常な時代は次のより良い時代の為の準備期間と考え、心慰め、平静に生きようとする他ない気がします。この社会は再びその深層を開こうとしているのかもしれません。その時、表皮で踊っていた人は全てひっくり返って、深層を見つめて仕事をする人が現れるでしょう。


     その時に効いていくるのはテクノロジーでも科学でもなく、人々の底に眠っていた「歴史」ではないかと思います。西欧の近代化も、古代ギリシアへのリスペクトが大きく物を言っていました。時代の深層が開く時、無秩序になった時、新しいものが全て瞬間的な変化で変わっていく時、むしろ古代に眠っていたなにものが大きな力になる気がします。ドストエフスキーなどはそのようにして彼特有のキリスト教にたどり着いた。自分はそんな風に考えています。

     


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