ヨルムンガンドのラストで考える「世界の救済」の問題
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ヨルムンガンドのラストで考える「世界の救済」の問題

2019-08-21 16:37

     ヨルムンガンドというアニメがあって、なかなかおもしろく見た。原作の方は読んでいないので、あくまでもアニメ版の感想を記す。また以下はネタバレありで書く。


     ヨルムンガンドというアニメは武器商人の話で、主人公はココという武器商人の少女だ。この少女がいわば「無双」のような形で色々な難題をクリアしつつ、武器商人の活動をしていくのだが、作者は銃火器に対する偏愛があるらしく、そのあたりの描写なんかに真があって、なかなか面白く見られる。


     キャラクターとしては、主人公のココという少女が、少女なのに冷徹な武器商人をやっているというギャップ、また、常に生死の駆け引きをするような立場にありながらもいつも陽気で笑顔を絶やさないオラオラ系の女子を装っているというギャップ、そういう所が魅力になっている。最も、あくまでもこのあたりの魅力はアニメ的なもので、そんなに深刻なものではない。


     ココは手元にヨナという少年兵を従えている。ヨナは、武器商人グループ(ココをリーダーとする)の中では一番純真で、可愛い少年兵で、それ故みんなに愛されている。作品内のキャラクター的な面白さは、このココとヨナの二人が中心になっている。


     さて、話を飛ばすが、作品のラストで、ココは武器商人をやりながら、実はある目論見があったという事が明かされる。それは「世界平和」であって、世界はあいも変わらず戦争をやってお互いを殺し合っているが、ココは天才科学者と組んで特殊なロケットを打ち上げて、コンピュータ制御の武器の使用を不可能にさせようとしていた。(このあたりは自分もよくわからないのだが、そんなに突っ込む所でもないのだろう) そのロケット(?)の名前が「ヨルムンガンド」となっていて、これが打ち上げられると強制的にミサイルなどの武器は使用不可能になるらしい。


     それで世界平和になるのか?と誰しもが思うだろうが、その疑問に関しては作品内でも多少言及はされている。また、さらなる問題としてはこの強制世界平和の為に、空を飛んでいる飛行機はみな墜落して、そこの人は死んでしまうという事で、その数は七十万人程度らしい。つまり、七十万人を犠牲にして世界平和を取るか、否かというのが究極的な選択として最後に現れている。


     しかしこういう風に、自分で書いていても嘘くさいというか、それは無理な話じゃないかと誰しもが思うだろう。この「世界平和」の問題の掘り下げの浅さというのは、今のセカイ系作品一般にも共通する問題なので、本腰を入れて考えてみたい。


     ※


     まず真っ先に考えられるのが、なぜ、一介の武器商人が、世界のあり方を自分一人で決められるようになるのか?という点である。これは、現代の色々な物語に共通する問題点だと自分は思っている。つまり、主人公(達)がすぐにメタな視点に立って、世界を救うだの救わないだの言い始める、またそのことにさして疑いを抱かない、という点である。


     これは、大きく言えば、現代の資本主義に根拠があると自分は見ている。この資本主義社会では、それこそ、ネットに何かを投稿するというような事で、急に「スター」「ヒーロー」になれたりするという物語が人口に膾炙している。人は、この自由とされている社会で、世界の中のほんの一部分という居場所を捨てて、いきなり世界の頂点に立つのを夢見る。これを物語は模倣し、急に与えられた謎の力で無双するとか、急にどこかの大金持ちに好かれるとか、そういう筋立てを愛好する。現代の人間は絶えず、自分をメタな視点に置こうとして逆にますます凡庸化していく。誰しもがそれを望んでいる為に、その競争に参加する者は同じ価値観の小さな存在になっていく。


     また、この物語を成立させる為に「才能」という言葉が使われたりする。どんな個人にも「才能」さえあれば、世界の山の上に立つと思われている。ヨルムンガンドも普通の漫画・アニメ作品なので、こうした道具を使っていく。ココには才能があった、ココは天才科学者と組んで誰にもできない事を成し遂げた、ココは神をも越える力を手に入れた……これはエンタメ作品の通常の道筋だろう。


     ヨルムンガンドは漫画・アニメなので、別にそういう組み立てでもちろん構わないわけだが、ラストの世界救済の話は、せっかくそれまでの物語にある程度心地よく乗っていた身としてはやや残念に思った。急に主人公がメタな立場に立ってすべてを解決する……これは「まどかマギカ」でも見たが、あまり良い解決法とは思わない。ただ、結局の所、なんやかんやあっても色々な問題は円満に解決する、という幻想を与えるのがエンタメ作品なのだから、それしか終わり方はない(それ以上やると、エンタメから逸脱する)とも言えるかもしれない。


     いきなりメタな立場に立って、与えられた才能やら偶然やらで、世界を救うか救わないかという大きな話を持ち出して、実際に世界を救ってしまうのが今流行っている物語であるし、「ヨルムンガンド」もまたそれに則って作られている。ただ、それ以上に、掘り下げ方に疑問を感じたのは、七十万人を犠牲にして平和にするかどうか、という二者択一の場面である。


     この問題というのは当然、簡単な問題ではない。何故、簡単な問題ではないのか。


     例えば、この問題に対して、「私は数学的正しさを主張する。七十万人よりも人類全体の方が大切である」と言う立派な人間がいて、そいつ(ココのような)がヨルムンガンドを打ち上げるとする。七十万人は死ぬ。ミサイルや核などは使えなくなる。


     しかし、ここでそう言い切る人間の問題は自分が七十万人の中に入るかもしれない、という危惧が全然ないという事にある。例えば、この人物の家族が今丁度、飛行機に乗っているところだと知っていたら、彼はヨルムンガンド打ち上げのボタンを押すだろうか。


     現に、ココは、自分は正義をするのだという主張をしているわけだが、ココはヨナという少年を愛している。この時、その犠牲になるのがヨナだとして、彼女はそれでも己の正義を堂々と宣言できるだろうか。自分一個の死に関しては平気だとしても、自分の愛する者が死んだ後の世界平和に意味があると思えるだろうか。ヨナが、その七十万人の中の一人だと仮定して、その後の世界を彼女は堂々と、正義を成したという顔で生きられるだろうか。


     ここまで書いていくと、読者は思われるかもしれない。(じゃあ、どうやって問題は解決すれば良いんだ) もちろん、その答えは一つしかない。答えの解決方法などない。答えがないというのが答えだろう。ただ、人は心の痛みを感じて生きる他なかろう。自分の死を受け入れるか、他人の死を受け入れるか。


     それを、自分以外の関係ない誰かを殺して自分達が生きる、そういう答えを選んだ時、世界は闘争の渦に巻き込まれる。ヨルムンガンドが打ち上げられ、七十万人の一部として自分の家族を殺されたと知った遺族が、ココの元にたどり着き、ココへの復讐としてヨナを殺すとしたらどうだろう。ココは仕方ないと、諦められるだろうか。家族の復讐をした人間は間違っているだろうか。彼は(世界平和の為に犠牲になったたかだか七十万人うちの中に自分の家族は入っただけだ)と達観すべきだろうか。


     こういう問題は現実にも起こっている。例えば、自分のたった一人の子供が交通事故で死んで、その後生きる気力がなくなった母親がいるとする。その母親が、生きる甲斐なしとして自殺する。この母親にどんな言葉をかけるのか。ヨナを失ったココは、成し遂げられた世界平和の中で、こういう鬱状態に陥らないとも限らない。


     だから、思うのだが、このあたりで、エンタメ作品を突き破って、芸術作品に突入する必要がある。「ヨルムンガンド」という作品がそのあたりの部分、つまり、ココは世界平和を成し遂げようとして、七十万人の人間をも殺す。するとその復讐として、ヨナが殺され、ココはそれに対して更に復讐しようとするが……という感じで、徹底的に人間の業の部分を描いていき、メタな視点から成し遂げられた「世界平和」が何であるのかとその底に至るまで描いていけば、もっとすごい作品になっただろう。だが、そんな事をすれば、日本の漫画業界・アニメ業界では受けいられなかっただろうというのも容易に想像はつく。


     このあたりを徹底的に描いているのが「ウォッチメン」というアメコミだという話を聞いた。自分はまだ読んでいないのだが、あらすじだけ検索して見ても、かなり納得できそうな気がした。ただ、あくまでも未読なので、そこにはもっと嘘がない形での掘り下げがあるのだろう、と期待を持つにとどめておく。


     さて、色々書いたが、最後に自分の簡単な結論だけ書いておく。自分も色々考えてみたが、「ヨルムンガンド」という作品も含めた結論としては『そもそも正義などない』という事である。正義というのは妄想だと言った方が良いかもしれない。人間にあるのは業のみ、意志のみ、欲望のみ、という風に割り切った方が良いと思っている。


     具体的には、今、正義と言われているのは悪に対する悪、暴力に対する暴力であって、ナチスに対抗したチャーチルが、国内統制に関してはナチスと同じような方法を使ったというのをなにかの本で読んだのがヒントになっているが、結局、正義と呼ばれているものも悪の変化型に過ぎないと考えている。それもまた暴力の一種であるし、だから、正義を掲げて軍事作戦を始めてみても、関係のない無垢な家族を惨殺するなどは頻繁に起こってしまう。


     自分なりに考えてみると、例えば、目の前に極悪人がいるとする。そいつを僕が運良く殺せる立場にいるとしよう。そいつは強姦・殺人、あらゆる犯罪を犯し、僕がそいつを殺さなければ、そいつはまた犯罪を犯すとする。いわば、僕は簡単に絶対的な正義を執行できる立場にいる。


     僕がもしその立場にいたら、多分そいつを殺すだろと思う。だが……それは少しも気持ちよくないだろう。そいつの首を絞める時、ナイフで首筋に切りつける時、鮮血がほとばしったり、うめき声が上がったり、場合によっては命乞いをしてきたり、抵抗してきたり…そいつがいかに極悪人とわかっていても、その嫌悪感は拭いきれないだろう。その後、自分は重大な精神疾患にかかる可能性も考えられる。やった事は百パーセント正義なのだが、その正義は僕にとっては吐き気のする行為でしかない。


     しかし、人間はそういう行為をも必要と考え、人を殺せる人間を育ててきた歴史もあるので、そういう場合はそういう人間の感受性を非人間化する事に努めてきた。それによって殺人というものを可能にしてきた。ナチスがガス室を作ったのは、ユダヤ人を銃で殺すのは精神的に耐えられないからというのをどこかで読んだ覚えがある。ガス室は「ヒューマニスティック」な政策だったわけだ。


     自分は人間というのはそういう存在だと考えている。そうして人間の根底を描いてみせるのが文学とか芸術としての物語作品だと考えている。例えば、ヒーロー物で悪者を「やっつける」場面にグロテスクな描写はされない。されたとしても戯画化されている。人殺しもまた人間である、と言うのは正しいがこれが偽善に陥らないようにする為には、〈人間は動物より動物的になれる存在だ〉という事も考慮に入れなければならない。


     人間のやる事は暴力であって、殺人鬼を殺す行為もまた殺人であろう、と思う。これは別に偽善的ヒューマニズムが正しいと言っているわけではなく、殺人鬼を殺す時、やはりそこに「生身の人間を殺す嫌な感覚」があるという話である。人は自らの業を持って生きており、それを潜在的なものとみなすとキリスト教の「原罪」となるのだろう。自分は現代を覆う幻想体系よりも「原罪」や「業」の概念の方が正しいと思っている。


     「ヨルムンガンド」という作品も、それなりに痛みを感じながら描かれていたと感じていたのだが、最後では、世界救済の安易な方法に行ってしまった。世界平和がいくらやってきても、人間のやる事にそれほど変わりはないだろうし、暴力もなくならないだろう。そうして人間が人間でなくなろうとすると、そこはもう想像の埒外である。どうしても、現実の底を認識する為には我々にとって都合の良い作品ではなく、都合の悪い、真実を見せる作品が必要となる。少なくとも、そういう作品を自分は欲している。



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