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やがて来る(はずの)83歳に向けて
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やがて来る(はずの)83歳に向けて

2014-10-27 09:18



     ドラッカーの「ポスト資本主義」という作品はドラッカー83才の時に書かれた本だそうだ。そう考えると、ドラッカーの信じられない慧眼と若々しさが身に染みる。

     最近、(馬鹿馬鹿しい話だが)自分の育ててきた思考とか知性とかは、そんなに馬鹿にならないものじゃないか、という気がしてきた。こういう感慨は実は、太宰が三十くらいの年に漏らしている。太宰は「こんな男がこんな所でごろごろしているのはもったない。冗談で言っているのではない」みたいな感じで書いていたと思う。僕もそういう感じが自分に対してしてきており、「なかなかやるじゃないか」などと自分で思ったりもしている。要はうぬぼれてきたという事だ。

     …とはいえ、真面目な顔をして話すと、人間の知性には様々な方向性があると考えられる。例えば、ケインズ経済学に対するドラッカーの批判は極めて鋭い。それを僕なりに解釈すると、知というのが現実という基盤を離れている、というそういう批判に見える。ドラッカーというのは誰よりも、極めて深い意味での現実主義者だった。彼が戦ったのは経済的現実であったが、その向こうに見えていたのはおそらく、マルクス、ルソー、ヘーゲルなどの、近代の、極めて強固な「真理主義者」達であった。彼らは真理によって、生きている個人を閉じ込める事に成功したかに見えたが、そののち、実存主義者達がその殻を破った。ドラッカーもまたキルケゴールという実存主義者から影響を受けている。ドラッカーは現実に対して流動的に自らの知性を柔軟に動かしている。だからドラッカーの目からは世の経済学者達は、現実を蔑ろにした空疎な数学理論の塊に見えたのだろうと思う。この事にもう少しつけたすならば、経済理論は常に、経済外の現実によって撹乱され、干渉を受ける。にも関わらず、相変わらず経済学者達は、その現実を自分達の理論外のものとして、理論の内に取り込もうとはしなかった。したがってそこには狭隘で、学者的で、なおかつ無価値な無数の理論が生まれる事となる。おそらくケインズは当時、経済学の絶対性を再び覚醒させたかに見えたのだろう。しかし、それに対してドラッカーは強烈に批判する。現実は常に理論を越えて存在する、という点におそらくは、ドラッカーの思想の核が存在したのだろう。

     人間の知性というものも、まあ様々な方向を取る事ができる。ここでは大仰な事は言えないがーーー僕は二十歳の年齢から自分で勝手に勉強をしようと決めて、独学で勉強してきた。従って、僕の勉学は、他者に対しても、また社会的価値観においてもほとんど何の意味もないものとして存在してきた。僕の勝手な学びは、社会の価値観とか学歴とか資格試験と一切の関わりがないし、これまでそれで金儲けをした事も、自分が社会において得をしたという事も全くと言っていいほどにない。しかし僕がそれを見捨てず、それを続けてきたのは何故だろうか?、と考えると、自分でも滑稽だし、笑いがこみ上げてくる。どうしてこんな事になったのか。どうしてこんな無益な事をやってきたのか。しかし、おそらくは、知性、知識というものも、この社会現実に則したものと、そうでないものとに分割できると考えられるならーーー僕のやってきた事はそう無意味ではなかったと言えるだろう。なぜなら、現在、知識、知性とされているものは現状にそぐわないものがその大半を占めているからである。芥川賞を取った作品を読むと、そこにはありもしない風俗が書かれている。あるいは文学らしさを出す為に、そのほか全てーーーというより、最も大切なビビッドな僕達の存在を忘れている。そしてその反対側には、通俗的な、僕達の薄っぺらい、メロドラマみたいな作品が流れている。僕はその二つの流れの間で長い事逡巡し、その二つでない道を探ってきた。そしてようやく、そこに一つの方向性を見つけつつある。あるいはそのような予兆がある。それが哲学になるか文学になるかは分からないが、とにかく僕という人間はその方向を辿る他ないようである。

     自分の来た道を振り返ると、そこには何らの道がないという事がわかる。これは現代人共通の問題だろう。僕に青春はなかったし、「青春の不在」以上の青春はなかった。僕に道はなく、ただ混沌と泥濘があるばかりだった。これは現代人に共通の事例なので、誰も思い当たるのではないかと思う。ふと気が付くと、誰もが年を取っている。しかし、年齢に見合った成熟さが自分には全く欠けている。年を取って、急に何かの宗教に入ったり、イデオロギー団体に入ったとしても、それで救われはしない。ドラッカーの言うとおり、憎悪は絶望を解決しはしないのである。我々には時間という最も大切なものが欠けている。この世界はその時間の場所に、快楽という現象を置こうとするが、それは結局、時間を生み出しはしない。それは時間から逃げ出すための方便に過ぎない。そしてこの無為そのものを僕らは、自分達の人生そのもので感じ取っているのだ。そういう事が現代の問題であると思う。また、ドラッカーが取り組んだ、疎外された個人と社会との結びつきとしての倫理性、時間性もその辺りに問題がある。こういうことはまた色々な形で展開していきたいと思う。僕もドラッカーのように83歳になった時に、もっとも若々しい代表作を書きたいものである。



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