悠木碧論  ~まどか☆マギカ十話の演技を通じて~
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悠木碧論  ~まどか☆マギカ十話の演技を通じて~

2015-07-06 10:09

     


     結構前に声優オタの友人が「悠木碧っていう新人すごいよ」みたいな事を言っていて、僕はその時、「ふーん、あ、そうなんだ」と適当に流していたが、実際、まどか☆マギカ十話の演技を見て、確かにこれは凄い役者だと思い知った。

     元々、自分は演技の事などよく知らないし、こういう文章を書く気はなかったのだが、演技に関する本格的な論評というのはネット上ではほとんど見当たらない。大抵、「うまい」「へた」「才能がある」「才能がない」「声きれい」みたいなフレーズで終わってしまうコメントばかりなので、自分のような門外漢も一言言ってもいいのではないかと思い、こうしてキーボードを叩いている。一応、それを言い訳としてから、この小論を始めたい。

                                ※

     まず、演技の話から始めよう。先に言ったように、僕は芝居に関してはよく知らないのだが、大雑把に言って、芝居というのはキャラクターに対する役者の批評であると考える事ができる。それは、丁度、ピアノやバイオリンの演奏者が譜面(曲)に対する批評家であるのと同じような意味にあたる。

     役者はまず、自分が演じるキャラクターと向き合わなくてはならない。もちろん、自分が演じるキャラクターを通して、作品全体とも向き合わなくてはならない。しかし、今のアニメ作品は大抵、わかりやすい萌えアニメやハーレムアニメや、腐女子向けアニメだったりするので、作品に「向き合う」というところまで行かなくても済むのだと思う。つまり、キャラクターの内面が単純であるから、役者もそれほど複雑な技巧を必要としない。逆に言うと、ここで、極めて生々しい演技をすると、逆に良くない効果を生む恐れがある。

     後できちんと言うつもりだが、悠木碧は、「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」のオーディションで落ちたそうである。その際、悠木の演じるキャラクターがあまりに生々しい(妹が兄貴をなめている芝居で、本当になめているような、怖い芝居をした)という事で落ちたらしい。正確かどうかは知らないが、そういう話をラジオで聞いた。僕の理解だと、この際、悠木碧はあまりに「リアルな」演技をしてしまったのだろう。しかし、「俺の妹が~」くらいの作品なら、もう少しテンプレート的な演技が求められるのではないかと思う。だから、悠木碧は他の役者と違って「生々しい」芝居ができる。そういう所は、他の若手役者とは違うのではないかと思う。

     この点に関しては後で戻ってくる事にして、今は元の道に戻ろう。まず、役者というのはキャラクター、そして作品自体と向き合わなくてはならない。まず、その事について考えてみよう。一般的に、声優は「うまい」とか「へた」とか色々言われる。またプロになるのは「声が綺麗でないといけない」とか、「ボイトレが~」みたいな事が言われるが、そうした事は全く本質とはずれた議論だと僕は思っている。例えば、ここにジョジョの空条承太郎というキャラクターがいる。あなたはこの原作を読んだ事がある、としよう。この主人公は、強面の、ガタイの良い、きっぷの良い高校生である。何ものにも物怖じししない、そして自らの力を信じていると共に仲間を信じている、どちらかと言うと寡黙型の主人公である。では、あなたはこの人物をどう演じるか。あなたは、この人物をどう批評し、理解するのか。あなたは一体どのようなプランを立てて、録音室(きちんとした名前は知らない)に入るのだろうか?

     こう考えただけで、「うまい/へた」という二項対立がそう簡単に機能するわけではないという事がはっきりとするのではないかと思う。(言っておくが、僕は現実に声優が録音の時どうしているとか、事務所の力関係がどうとか、そんな事は全く知らない。僕は原理的な事についてだけ言っており、その他の事についてはどうでもいいし、論じる価値はないと思っている) 問題は、声によってその人物を表す、という事である。つまり、ある声音がある人物、キャラクターを十全に表す事ができるのかどうか、という問題である。

     例えば、「わかった」とセリフ欄に一言書いてあったとしても、その「わかった」とは一体どういう「わかった」なのだろうか。こういう事を、おそらく声優は考え無くてはならないだろう。例えば、そこに書いてある「わかった」は、もしかして、わかっていないのにわかった振りをして言う「わかった」なのかもしれないし、あるいはそれは、「わかった」という一言で主人公が、ある重要な決断をした証となるのかもしれない。そういう事をおそらくは、監督とか音響監督などと詰めていくのだろう。しかし、再三言っているように、普通のアニメ作品では、そこまでごちゃごちゃと考える必要はないのだろうと思う。しかし、良い脚本であり、内面が複雑なキャラクターが出てくると、そう安穏な事も言ってられなくなる。そこで、「魔法少女まどか☆マギカ」を取り上げる。

                                 ※

     魔法少女まどか☆マギカでは基本的に、役者とキャラクターのバランスは取れているように感じる。喜多村英梨が演じるさやかは、喜多村英梨にぴったりだし、斎藤千和演じるほむらは斎藤千和にぴったりだと思う。いずれも、過不足なく僕は文句ない。

     ただ、そこで例外を上げると(別にディスるのが目的ではないが)、野中藍ではないかと思う。野中藍演じる杏子というキャラクターは僕の目には、野中が演じる以上に複雑なキャラクターと見えた。杏子は決して一枚岩のキャラクターではなく、複雑な内面を持っているが、野中藍の演技はその複雑性に届いていないように見えた。野中藍の演技は、全体を通して、杏子というキャラクターに対して平板と聞こえる。ただ、これは野中藍がダメな役者と言いたいわけではない。そうではなく、あのポジションはミスキャストだったのではないかと思っているだけである。

     さて、やっと話を悠木碧に移そう。悠木碧のまどか☆マギカ十話の演技に関しては、僕は本当に驚いた。そこでは、お互い敵にやられたほむら(斎藤千和)と、まどか(悠木碧)が会話を交わす場面がある。この場面で、もちろん、斎藤も悠木も共に良い演技をしている。どちらも、熱の籠もった素晴らしい演技をしている。しかし、悠木と斎藤ではその意味合いが違ってくる。

     僕の見た限りでは、斎藤千和はあくまでもほむらというキャラクターを演じている。そこで現れている感情はあくまで、暁美ほむらというキャラクターの内面であり、その苦しみであり、哀しさである。これに別に文句があるわけではない。しかし、悠木は更にその先を行く、と僕には見えた。悠木碧は、まるで彼女自身が痛み、苦しんでいるかのように演じているのである。言ってみれば、この点で悠木碧は自分自身のもっとも弱く脆い部分を演技という表現行為を通じて、聴衆にさらけだしているのである。これは簡単にできる事ではないと思う。

     もっと言えば、あの十話の演技には、悠木碧のこれまでの人生が詰め込まれているのだろう。斎藤千和の演技があくまでも、暁美ほむらというキャラクターに忠実な良演技だとすると、悠木碧のあの演技は、鹿目まどかというキャラクターを通じて、悠木碧という人物の魂をさらけ出しているのだ。……ちょっと言い過ぎたかもしれないが、しかし、僕はそういうものだと思っている。もう少し言うと、あの場面では、悠木の魂とまどかの魂が一つに溶け合っていると言っても良い。そこまで行けば、逆に、悠木碧はまどかというキャラクターを否定していると考える事もできる。つまり、あまりに自分本位の演技ではないか、と。

     しかし、本当はそうではない。あの場面ではーーー悠木はあくまで、鹿目まどかの内部に深く降りる事によって、自分の内部を世界に向かってさらけ出しているのである。そこまで行って役者ははじめて、キャラクターの傀儡たる事を免れて、己を表現する事ができる。その時に、はじめて、鹿目まどかというキャラクターの内部に何があったのかが視聴者に理解できるようになると共に、また、悠木碧という個人が痛み、傷つきやすい資質を持ってこの世を渡ってきた事を知るのである。

     だから、悠木碧という役者は、適宜な役を与えられれば、「自分の核を露出させられる事のできる」本格的な役者だと僕は思っている。そういう事ができるというのは、演技の巧拙の問題ではなく、悠木碧という一人の表現者が、キャラクターの内面にどこまで肉薄できるのか、というそういう問題である。もちろん、その点に関しては、脚本家とか監督とか色々な問題が関わってくるだろう。しかし、そういう「自らの核をキャラクターを通じて露出されられる」役者というの本当に稀有だと思っている。しかし、悠木碧がその演技と個性を発揮するには、そこに良い脚本や、その演技を抑制しない監督が必要とせられるだろう。

     今の所、悠木碧はアイドル活動やら何やらをやっているが、おそらく少し経てば、そういう事では満足できなくなるのではないかという気が(キモオタの一人としては)している。おそらく、悠木自身、自分の中にあるものをさらけ出す機会をもっと求めるのではないか。そういう時、アイドル活動や今のような無難な歌手活動では不満が出てくるだろう。…そういう点、表現者としての悠木碧に期待はしているが、しかし、業界には色々な事があるだろうし、何がどうなるかはさっぱりわからない。ただ、おそらく、自らに自覚的となる事を通して人は大人になるのだろうと思う。すると、あのような表現が可能な人物が、それに見合った形式を探してどこかへ飛び出すのも、必然ではないかと僕には思える。

     以上のような事で、僕の拙い声優論は終わりにしたい。自分自身、役者とか演技の事はそれほど知らないし、きちんと分かる人からしたら笑うべき評論かもしれない。しかし、声がどうとか、かわいい声がどうとか、うまい/へたとか言う事ばかりよく言われるので、少しはそういう事を言う人間がいてもいいだろうという事でこのような小論を書いた。サブカルチャー論に関しては、暇があれば、また開拓してみたいと思う。とりあえず、この小論はここで終わる事とする。


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