又吉直樹の芥川賞受賞から振り返る文学界
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又吉直樹の芥川賞受賞から振り返る文学界

2015-07-18 04:31

     芸人の又吉直樹が芥川賞を取ったという事で少し文章を書いたが、もう少しきちんと書く事にする。


     僕は本屋で、「火花」という作品を手に取ってパラパラ見たが、大した感想も覚えなかった。いいとも悪いとも思えなかったし、さほど興味の湧くものではなかった。


     一応、僕個人も作家志望なので、芥川賞を取った作品などは、本屋でパラパラと見たりする。しかし、その場合、僕が「いいな」と思う作品はほとんどなかった。唯一、「少しいいな」と感じたのはいとうせいこうの「想像ラジオ」だ。(賞は取れなかったが) この作品には、珍しく文体というものが感じられた。


     以前から言っている事だが、基本的に現代においては芸術というのは形骸化している。僕が今一番優れたアーティストだと確信している神聖かまってちゃんというバンドは、世界に対して逆説的にしか接触できない。おそらく、その事は、この世界そのものが形骸化している事を示している。つまり、健全な一般人からすれば、神聖かまってちゃんは異端な、頭のおかしなロックバンドに見えるが、しかし、本当にそうであるのか、というのが問題だ。


     パスカルは「真に哲学をするものは哲学をバカにする」と言った。神聖かまってちゃんというバンドもまた、「ロック」というジャンルを再定義した存在として考える事ができる。つまり、神聖かまってちゃんはロックというジャンルの中で歌っているのではなく、そのジャンルを越え、そしてそれによって、ロックを再び現代に蘇らせようとしたのだ。その逆に、いかにもロックっぽいが、少しもロックではないバンドというのもたくさんある。(あえて名前はあげないが) そうしたバンドは「っぽい」のであって、ロックではない。もっと言うと、ロックとは何か、という定義を越えなければ、真のロックにはならない。


     そこから翻って、今の文学の状況は何か。どうなっているか。はっきり言ってしまうと、僕は、今、サブカルチャー系の人達の中に優秀なシナリオライターや作曲家などが現れているという状況に対して、「文学はどうしてこの程度なんだろう?」などと考えてしまう。今の文学の世界において、「まどか☆マギカ」とか「シュタインズゲート」に匹敵する作品があるだろうか? あくまでも僕個人の意見だが、少なくとも、両村上くらいの作家が二、三人、若手として出てこなければ、文学としては、アニメやゲームの優秀なクリエイター達と頭を並べる事はできないと思う。


     例えば、高橋源一郎、村上春樹、村上龍らの全盛期を想起すれば、これらの人を坂本龍一とか、中島みゆき、忌野清志郎などの優れた音楽家とくらべても、僕にはそれほど問題はないように思える。しかし、今の文学の状況はそうではない。今の文学の世界はどうなっているのか、よくしらないが、傍から見れば「文学っぽいもの」が文学の代用をしているように見える。つまる所、文学界そのものが行き詰まっている。これはクラシック音楽などでも同じではないかと思う。再三、言っている事だが、「っぽい」という事と、本物である事は似ても似つかないのだ。しかし、本物は、理解するのに時間がかかるし、力も必要になってくる。何故なら、本物はいつも、本質的な意味で「新しい」からだ。過去の天才達がその当初認められなかった例が多いのは、そういう事情による。


     それでは、今度、芸人の又吉直樹が芥川賞を取ったという事をどう見ればいいのか。僕個人としてはやはり「っぽい」作品だと思うし、それ以上は特にないと思う。では何故これだけ騒がれるかと言うと、それは、大多数の人が又吉直樹という芸人をテレビを通じて知っているからだ。おそらく、「又吉直樹受賞おめでとう!」という人は、知り合いが有名な賞を取ったような感情があると思う。逆に言うと、それ以上の事はない。


     僕個人、余りに力がなくて、無理なのだが、もし現代にドストエフスキーの「罪と罰」のような作品が現れれば、世界は一変するだろう。あるいは、ソ連が実際にやったように、この世界はその作品に塗り込められた真理に恐れをなして、それを禁書扱いにするかもしれない。本物の芸術というのは、短期間であれば毒のように作用する事がある。しかし、それは最終的には人類の為になるものだ。しかし、我々が今、即時的な時間の中にいるか、究極的な時間の中にいるか、誰が知る事ができるだろう?


     話がずれたが、又吉直樹が芥川賞を取ったという事は、全てがタレント化され、映像化されている現代社会の考察には持ってこいであろう。しかし、それは文学の状況を微動だに変えないどころか、文学の「いかにも文学っぽいものが文学」というよくわからない性質を強化するに留めるだろう。実際、何も変わらないだろう。もっと言うと、又吉直樹が賞を取ったという事で面白いのは、芸人が芥川賞を取ったという事象であり、それを評価している人々それ自体である。はっきり言うと、作品以上に、作品に付随する現象の方が面白い。これは作家と世界との力関係の問題である。


     もし、ここに、シェイクスピアのような真の作家が一人いるとすれば、この人物はおそらく、そうした事象そのものが何であるかを徹底的に解明する作品を生み出してしまうだろう。つまり、こうした本物の作品においては、人々が起こす事象そのものを作品の内に取り込んで、なおかつそれを解明する事によって、世界を越えるのである。そういうわけで、シェイクスピアやドストエフスキーは真に恐ろしい作家である。例えば、神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」という曲でも、まさに、それに対する批判、アンチ的な言葉そのものをあの楽曲が取り込んでいるという事に一つの特質がある。あの楽曲は、ああした曲を批判しようとする人達めがけて書かれたものだから、あの曲を既存の方法で批判するなら、それはまさに、あの曲の支配下に置かれている事を、批判者が自ら証明してみせるようなものだ。傑作と呼ばれものは常に、このように現実に打ち勝つ素質を秘めている。


     そうした観点から考えて、今回の、芸人が芥川賞を取ったという話はまさに、大衆がちょっとした話題に持ち出すにあたっては格好の話題である。そこで問題になるのは作品ではなく、作品の外側の現象である。言ってみれば、こういう場合、作家や作品は人々によって「描かれている」と見たほうが見やすい。よく売れるかどうかなんて事を熱心に議論している人を見るが、本質的な事はそこではない。こうした場合、作家や作品が価値を帯びるのは、人々が話題に持ち出す限りである。しかし、本物の作家や、思想家の場合はそうではない。本物の作家はまさに、人々を描くのである。人々によって描かれるのではなく。人々はその事に、一瞬嫌な感情を覚えるだろう。自分の背後、自分達が隠していたものを暴露されたような、嫌な感じがするだろう。…しかし、最後には人々はその作品を認めるだろう。何故なら、それは人々そのものを描き、なおかつそれを越えているから。つまり所、それは真実だからである。そして真実というのは、我々の脳髄がいくら頭だけで否定しても、最終的にそこに戻ってくる、そのようなものだ。


     そういうわけで、今求められているのは真の、本物の作家、アーティストであると思う。しかし、それが世の人々に求められているかどうかは僕は知らない。世の人々が欲するのは、仕事の休憩中に適当に話題とする事ができる軽い事柄かもしれないし、あるいは人々が酔う事のできるわかりやすい作品かもしれない。しかし、真の作品はそれら全てをひっくるめたものとして現れる事だろう。


     そして今の文学の状況からは、そういうものが生まれる気配はほとんど感じない。そこで、この世界で何事かを思考し、自らの理想を持つ者は、再び自分の孤独に戻らなければならない状況が生まれてくる。未知の明日は、それぞれが秘めた孤独から生まれる事だろう。


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