北野武「ソナチネ」感想
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

北野武「ソナチネ」感想

2015-09-05 12:35



     

     北野武の「ソナチネ」を見た。

     これまで僕は北野武映画には肯定的ではなかったが、「ソナチネ」は傑作だと言えると思う。逆に言えば「ソナチネ」以外の作品(きちんと他の作品を見たわけではないが)では、北野武の芸術性や通俗性がそのまま真っ正直に出過ぎているとも言える。とにかく「ソナチネ」という作品は、北野武が自分の剥き出しの資質をうまい具合に理性で抑えこみ、計算して一つの作品に落とし込める事ができた、そういう意味で重大な作品だと思う。映画的に傑作だと思うし、こんな作品を作れる人は(今の北野武も含めて)なかなかいないと思う。

     「ソナチネ」を見て、すぐ気付く点はふたつある。一つはユーモア、もう一つはバイオレンスである。この二つは対比的に用いられている。また、殺したり殺されたりという惨状、その赤い血の色と、沖縄の青い海、空の美しさもまた、対比的に用いられている。この点は常に対照的に用いられていて、その塩梅、バランスは監督北野武がかなり意図的に作りこんでいる。

     昔見たのでぼんやりとしか覚えていないが「3-4X10月」などは暴力シーンが前面に出すぎていて、北野武が自分の剥き出しの資質をきちんと理性で押さえ込めていないという印象を受ける。芸術というのは、「剥き出し」である事が必須要件だが、しかしただ剥き出しであってはならない。それはきちんと、芸術的に計算されていなければならない。

     例えば、自分がよく名前をあげる神聖かまってちゃんなどはまさにそういう好例に当たる。神聖かまってちゃんの楽曲は一見、荒々しい荒削りなものに聞こえるが、の子というアーティストがネットに上げるPVは芸術的にきちんと計算され、考えられて作られている。そこでは確かに荒削りなものはあるが、しかしその荒削りをどう見せるかという点で、神聖かまってちゃんのの子はアーティストとして正しい選択方法、制作方法を選んでいると思う。
     
     北野武の場合はの子と違い、「ソナチネ」以外では色々なバランスがとれていないような気がする。しかし「ソナチネ」では過度に暴力的に、エロス的になる事もなく、ただ単に残虐さや冷酷さに走る事なく、血と海とのバランス、美しいものと醜いものとを巧みに使い分けて、芸術的に計算された作品を作り上げている。この作品が一般的には全然ヒットしなかったという事は、北野武にとって一つの不幸として働いたが(この後、北野武は自殺未遂とも言えるバイク事故を起こしている)、芸術家として北野武はこの作品を正当に作り上げたのだと僕は思う。これだけの傑作を作って世に評価されず、落ち込んでバイク事故まで起こしたと考えると、その正当性は北野武の方にあると思う。おそらく、北野武はこの作品にはかなりの自信があっただろうし、それは全く正当な事だ。

     作品に話を戻すと、この作品において重要になるのはユーモアとバイオレンスの二つである。というか、この二つを交互にペダルように押していく事で、作品は進んでいく。(それは沖縄の美しい風景と、殺人の描写が交互に進むのと全く同じ事だ) では、この二つの異なる要素は何かと言われれば、それこそが北野武の本質だと言わざるを得ないだろう。北野武という芸術家の特徴的な点の一つは、彼が人間を描く気はほとんどないという事にある。北野武に出てくる人物は、そのほとんどが内面的な葛藤を持たない。だから、死とか殺人は、人形をなぎ倒していくような、ただそれだけであるような、そういう印象を受ける。

     しかし、だからといって北野武のキャラクターが人形そのものであるという事ではない。それは北野武の人間観だと言った方が正当だろう。通常、人は知人や恋人が死ねばむせび泣いたり悲しんだりするが、そういう芝居やシーンは北野武がもっとも嫌う所である。だから、死は淡々として処理される。しかし、淡々として処理されるその背後に、死の悲しみは余韻として残される。この余韻、空白としての感情は北野武がどれほど意図しているのか、それを想像するのは難しい。(あるいはこれは僕が読みすぎている可能性もある)

     この映画で最も印象に残るシーンはやはり、北野武演じる村川が、ロシアンルーレット的な遊びで自分のこめかみに銃を当て、引き金を引くシーンだろう。僕はこのシーンが北野武のもっとも奥底にある心象風景だという気がしてならない。

     村川は、ここで部下二人にロシアンルーレットの「遊び」を強要する。三人でじゃんけんして、負けた方がリボルバーのピストルを向けられ、引き金を引かれる。そして最後の一発というところで、村川が負ける。村川は自分のこめかみに銃を当て、押しとどめる部下二人に対してニヤッとした微笑を送りつつ、引き金をひく。しかし、銃は発砲されない。銃にもともと弾は入っておらず、それは村川が弾を入れたかのように見せたトリックだった。

     この場面ーー村川…北野武が部下二人に笑いかけながら引き金を引くシーンというのは、まさに北野武が描きたかった場面だという風に見える。もっと言うと、この場面を描くためにこの映画全編があると言ってもいいほどだ。この場面では、北野武のユーモアと残虐性とが交差している。ここでは、死に対する欲望と、それをユーモアでいなそうという欲求の二つが同時に垣間見えている。元々、北野武の「笑い」は自分の死に対する恐れ、怯えから来ていたと言ってもよいかもしれない。あるいは北野武自身が、三島由紀夫と同様に、自分が死の方向へ絶えず傾斜していくという事を知っていたからこそ、それを避けるようにユーモアでなんとかその場をつないでいたとのかもしれない。

     笑いは死に対する特効薬なのか?という点は一度考えてみる必要がある。例えば、テレビでは「ドッキリ番組」というものがやっている。そこでは例えば、タレントの一人がヤクザに絡まれたり、という事がある。この時、視聴者は、このヤクザが偽物だという事を知っているが、このタレントはヤクザが偽物だとは知らない。だとしたら、このタレントの恐怖は本物の恐怖ではないのか?と、テレビを見ている人間は決して考えない。彼らは物事を滑稽と見る立場に慣れている。そこで、タレントが怖い目にあっているのを見て、健全に笑う事ができる。しかし、この笑い…視聴者の笑いとは実は、あまりにも酷く残酷な立場ではないのか、という事が、事実を知らされないタレントの立場からは出てくる。しかし、傍観者である人々はこの視点を無視する。

     北野武のこの場面、頭にピストルを当て、引き金を引くシーンでは、視聴者は、ピストルの弾倉が実は空だという事を教えられていない。だから、見ていてものすごく怖くなる。もし、このシーンの前にそれがトリックだという事を先に知らされていたら、視聴者は安心してこの場面を見れただろう。しかし、実際はそうではない。

     では、この場面で北野武は何を見せたかったのか? それは北野武自身の死への欲望と、またそれに対するユーモアによる回避の両方だとしか言えないだろう。もっと言えば、北野武というのが何かというのは、この場面に凝縮されているとも言える。

     北野武の映画を見ればわかるが、北野武は明らかに人間の内面を掘り下げる資質は持っていない。彼は内面を掘り下げるのはかなり苦手である。そしてその変わりに、両極にユーモアと死とが現れる。そしてその反復が北野武映画の本質となっていると思う。この「ソナチネ」という作品は、北野武が自分のそうした資質に真剣に向かい合い、それを作品の形として結晶化させられた稀有な作品だと思う。そういう意味で、この作品は北野武の映画の頂点を示すものではないかと思う。そしてこの死とユーモアがどのような意味を持つのか?という点は、またもっと巨大な尺度を持ってきて計るしかないと思う。しかしとりあえずの所は、これほどの映画を作れる人はそうそういないという事を指摘しておけば、十分であるように思う。


    広告
    コメントを書く
    コメントをするには、
    ログインして下さい。