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山田玲司のヤングサンデー 第81号 2016/4/25
「楽しむ権利」はどこに行った?
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なんだかわからないもののために「楽しむ」ことを禁止される事に抵抗していた人もいた。
人に会った時に「お前は何のために生きるのか?」という質問をするのが僕の中で「流行り」だった時期がありました。
確か30代の序盤の頃だったと思う。
自分はそんなことばかりを考えて生きてきたので、そんなのは「普通の感覚」だったのだけど、アシスタントや友人なんかは、突然そんな質問をするのだからそんな質問をされた方も迷惑な話だったと思う。
後におっくんや志磨遼平のような「年中そんな事を考えて議論している連中」と合流するので、今は本当に居心地がいいのだけれど、世の中そんな奇特な人間ばかりではない。
それでもアシスタントなんかは日々僕に影響されていくので、潜在的に相性の合う人は僕に応えてくれるようになる。
その時代に多かった答えは「楽しむため」だった。
色々考えて行くとどうもみんなそんな感じの答えになってしまうのだ。
「お前は何のために生きてるんだ?」
「楽しむためさ」
なんて。バカな映画のワンシーンみたいだけど、悪くない。
その頃そんな質問につきあってくれていた当時のアシスタントの1人が番組に出てくれた漫画家のきらたかし君で、彼は時代がどうであろうと相変わらず好きなバイクでレースに出たりしている。もう1人は格闘技が大好きで未だに試合に出ているし、格闘漫画でずっと漫画家を続けている。もう1人は会社勤めしながらミュージシャンとして活動している。
みんなお金に余裕があるわけではないけど、楽しむ事は止めない。
なのでいつ会っても「ご機嫌」だ。いや、実際はギリギリなんだろうけど、ご機嫌に振る舞うくらいの人生を送っている。
それもこれも「楽しむこと」を捨ててないからだと思う。
時代が荒れてくると「楽しむ」のが大変になってくる。
「こんな時に楽しんでいていいのか?」という空気が支配的になるのだ。
でもその空気の正体はどうも「怪しい」
「それどころじゃない」というけど、何のために「それどころじゃない」のかが怪しいのだ。
「自分の身体のため」とか「環境のため」とかならいいけれど、「会社のため」とか「みんな(?)のため」とか「日本(アメリカ)のため」なんてことになってくると話が違ってくる。
謎の禁欲と戦え
なんだかわからないもののために「楽しむ」ことを禁止される事に抵抗していた人もいた。
忌野清志郎は「授業をサボって屋上でラジオを聴くんだ」という抵抗運動を歌っていた。
水木しげるさんは戦場のジャングルで「綺麗なオウム」に見とれていて爆撃を逃れたと言っていた。
僕の憧れている人にはそういう人が多い。
「それどころじゃない」と言われたら人は楽しむのを止めるのか?といえば、そんな事はない。
隠れて楽しむのだ。誰にも言わずにゲームをしたり、お気に入りの定食屋を探したり、内緒の人に連絡したりするのが人間なのだ。
逆にそういう「楽しみ」が出来ない真面目な人は危うい事になる。
親や教師などに「楽しむことへの罪悪感」を植え付けられると、隠れて楽しむこともできなくなってしまう。
僕はこういう人がネットで「楽しんでいるように見える人」を叩いたりしているのではないかと思うのだ。
自分が我慢ばかりしてきた人は、他人が楽しんでいるのが許せないのだ。
こうなると「何について我慢しなくてはいけないのか?」という議論はないがしろになり、なんとなく感情的に「気に入らない」という理由で炎上が起きたりするので、なんとも不毛だ。
「楽しむこと」の効果効能
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