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山田玲司のヤングサンデー 第92号 2016/7/11
気持ちが乘れなくなった時の対処法
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「人間は機械のようなものである」なんていう考え方がある。
すべては遺伝子の設計図から出来ていて、その行動も欲求も全ては「より良い(強い)自分のコピー」を沢山増やすためだ、なんていうやつです。
時代が殺伐としてくると、理想主義だのロマン主義やら「人類は皆兄弟」みたいなものは「いい気なもんだぜ」みたいに言われてしまうものです。
そんなこんなで「人間なんて遺伝子に支配された機械だ」なんていう人が出てくる。
まあそういう側面もあるのだけれど、世界はそんなに単純にはできていない。
「機械なんだから決めたことは絶対にやれ」なんていわれても困る。
昨日は「私はやります!」なんて言っていても、今日になったらやる気がしないし、何も出来る気がしない、なんていうのも人間だ。
人間は何か?と、考えてみると「それは出来の悪い機械だ」というより「人間は高性能で繊細な機械的側面のある何かだ」とかいうあたりだろう。その程度しか適宜なんかできない。
それなのに少し前の世代の人達は、少しばかり人間の構造(遺伝子とか、素粒子とか)を見つけただけで「おお!やはり人間なんかただの機械のようなものではないか!」なんて言ってしまったわけです。
これは放射能を発見した「キュリー夫妻」が、これはすごい、放射線を使って病気を治せるはずだ、なんていう乱暴な発想で研究を進め、そのせいで2人とも病気になって亡くなったのを思い出す。
科学者の言うことの99・9%は仮説、とか言うけれど、その時に見つかった情報は「真実のほんの1部」なので、これが正解!なんていうのはいつも「その時の思いつき」に過ぎない。
イグアノドンという恐竜の親指の骨は、発見当時何だかわからず、勝手に「鼻の上の角」にされていた、とか聞くけど、全ての事が「そんな感じ」で、人間はいつも「証拠の断片」を見つけては「これが真実だ!」なんて言っているわけだ。
そうなると、人間は機械なんかではないし、機械みたいに正確に行動はできない。
機械みたいに約束は守れないし、機械みたいに「つまらない」ことをいつまでもやれない。
それでも、産業を支える労働力として子供の頃から育てられている我々は、どうしても「正確で正しい、いつものこと」をしなければいけない、と思ってしまいがちだ。
「正確で正しい、いつものこと」が出来なければ価値が無い、なんて思ってしまうように育てられている。
でもそんなことはできない。
機械じゃないからだ。
先週の「ダダイズム」の話の本質はこのあたりにある。
ダダの起こった100年前は、産業革命と戦争と科学の発展で、人間を「機械」として扱おうとした時代の始まりだった。
それまでの人間は例外はあれど基本的に「神の子供達」だったのだけれど、それが「機械」になってしまうのは勘弁して欲しい。
ダダの起こした「意味の解体」の本質はここにあると思う。
植民地時代の恩恵で、新しい科学と情報、知識、莫大な富でいい気になって「世界はこういうもの」だなんて決めつけてくる「19世紀の先輩(パイセン)」に1発食らわせたのがダダイズムなのだ。
もちろん、当時の若者はそういう豊かさの恩恵で幼児的万能感(中2感)が肥大していた事も大きいけれど、彼らは彼らなりのやり方で「決めつけんなよ!」とやったわけだ。
そんなこんなを考えていたら、こんな相談をもらいました。
Q
はじめましてこんばんは。
最近ファミリーになった絶賛スランプ中のものです。
私は脚本家を目指してコンクールに応募しているのですが、突然書けなくなりました。
書いていてもプロット通りに進まないというか、何を書きたいのかわからなくなってしまったのです。山田先生の言う、あんなことあったらいいなを書いてみたり、自分の興味あるものを書こうとしても、何だか気持ちが乗れないのです。
書こうと思いすぎるから、書けないのかと距離を置いてみたりもしました。そうしてから、そろそろ書こうとすると、やっぱり迷子になってしまうのです。こんなことをぐるぐるとしていて、コンクールにも間に合わないと焦って、その焦りが更に書けなくさせてしまいます。
だったら、もう止めろと言われるかもしれませんが、書いてない時の自分は全く生きた心地がしません。書いているときだけ、生きていると思えるのです。
こ
のスランプどうしたら抜け出せるのでしょうか?
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