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山田玲司のヤングサンデー【第97号】シン・ゴジラの正しい叩き方
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山田玲司のヤングサンデー【第97号】シン・ゴジラの正しい叩き方

2016-08-15 07:00
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    山田玲司のヤングサンデー 第97号 2016/8/15

    シン・ゴジラの正しい叩き方

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    この夏の最大の祭りは何か?
    何て言うと、本当の所「人それぞれ」なんだろうけど、どうにも僕の周りの「オタク界隈」の人達にとっては今年の夏は「ゴジラの夏」になったみたいだ。

    シン・ゴジラなる映画は確かに圧倒的だった。
    その圧倒的なる理由は「私の好きなことだけしか描かない」という、総監督庵野秀明氏のブチ切れんばかりの「利己的情熱」に支えられているのは間違いない。

    もちろん「核」や「官僚組織」などにに対する辛辣な風刺や、隠されたメッセージなんかも「世の中のため」みたいな感じではあるんだけど、僕が受けた印象は「うるさい黙れ、これがゴジラだ」という強烈な「庵野専用ゴジラ」に見えた。

    ファミリーだのカップルだの「お客の層」の問題など、おかまいなしで、「自分が観たいゴジラ」を全力で(楽しみながら)作ってる。なんだか「爽やか」でさえある。

    今回のシン・ゴジラの興行的成功の原因は「そこ」にあるだろう。
    お客やらスポンサーやら「どこどこの偉い人の意見」なんかは切り捨てなければ「面白いもの」なんかできない、という「当たり前の話」を庵野総監督は証明してみせたわけだ。

    はるか昔に「この問題」に気がついたルーカスやスピルバーグは、自分たちの会社「ドリームワークス」を立ち上げて、作品を台無しにする「その他の人達(スーツ野郎)」を排除している。そうやって彼らは自分達の映画を守ることに成功していたのだ。

    これは、正しい意味で「大人(スーツ)は信じない」というマインドだ。

    とは言え、今回の「シン・ゴジラ」は、多くの「スーツ」の協力がなければ完成しない状況が垣間見え、その中でいくつかの「苦渋の決断」もあったのだろう、とも感じた。


    そもそも庵野総監督のヒーローは「ウルトラマン」と「仮面ライダー」だと聞く。
    学生運動の挫折が産んだ時代の空気の中で生まれたそれらのヒーロー達は、基本的に組織に属さない。
    ウルトラマンに関しては「仮の存在」として科特隊にいるだけで、ウルトラマンは恐ろしく孤独な存在だ(後にファミリーが合流するけど)
    仮面ライダーやデビルマンも、小さなサポーターはいるものの(矢吹ジョーも)かなりの孤独を抱えて戦っている。
    彼らの敵は、自分でものを考えれれない「組織のものたち」だった。
    これはまさに「スーツ」(サラリーマンや役人)の象徴だったのだ。

    今回のシン・ゴジラはそんな「組織」の内部が描かれている。
    仕方なく入った問題だらけの組織だけど、ここでしか物事は解決できないじゃないか、という大人の視点がそこにはある。
    男女関係や親子関係など、「暮らし」や「情念」に関する多くの要素を思い切り切り捨てて、総監督が描こうとしたのは「その部分」だと思う。

    そういう意味では「大人はみんな汚い!」と叫ぶだけのステージを超えて「次の具体的な戦い」について描いたとも言える。

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    面白いのは、庵野氏の「庵」という字は「隠遁(いんとん)者また僧尼の住む家」という意味がある。庵(いおり)なので「世捨て人の仮住まい」という意味でもある。あの方はもう名前からして「世の中」を捨てているのだ。
    そういう意味では、妻になる人が同じ世捨人稼業の漫画家なのは腑に落ちる。世捨人の気持ちは世捨人でなければわからない、なんて話はよく聞くからだ。

    「庵」が「引きこもり」だと解釈するならば、彼はまさに90年代以降のクリエーターだ。
    90年代以降の日本には、リアルな「暮らし」も「共同体」も消えてしまっていて、考えなければならないのは「その先」だからだ。
    だとすると、シン・ゴジラのゴジラが「海街ダイアリー」の舞台の鎌倉を破壊しまくるのは象徴的で興味深い。あの作品は「暮らしそのもの」が描かれているからだ。0年代に流行った「仮の家族」のささやかな暮らしを無言で踏み潰すのがシン・ゴジラなのだ。
    「そんなのウソウソー」とばかりにゴジラは容赦なく「ささやかな暮らし」をぶち壊すのだ。


    それはともかく、「庵野総監督が、やりたいようにやった(感じに見える)シン・ゴジラ」は、日本中で絶賛されている。
    これを観た多くのクリエーターは激しい嫉妬をしているだろう。もちろん僕もその1人だ。
    おまけに「言いたいこと」が沢山あっても、自分が「作り手」の1人である以上、何を言っても「負け犬の遠吠え」になってしまう。
    なので、今回の「シン・ゴジラ考察」をするべきか、実はかなり悩んでおりました。
    叩きたい人は叩けばいいけど、作り手の人間がそれをしたら嫉妬にしか見えないし、欠席裁判みたいなのもしたくない。
    そもそも言いたいことが言えない状態で「考察」なんてできないのだ。
    まあ、そんな青臭い自意識を優先して「シン・ゴジラ語ってよ」と言ってくれてる人達の期待を無視するのも情けないんで、やったわけですけどね。


    正直な話「シン・ゴジラ」で叩きたくなる部分は沢山ある。
    では、この場合の「正しい叩き方」は、どんなものだろう?
    どうしてやりがちなのは、そんな状況に至った「今日までの自分」を叩くことだろう。
    「あいつ(庵野秀明)はやり遂げた、なのになぜ自分はできなかったのか?」という、一見建設的な検証だけど情けないヤツだ。
     
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