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山田玲司のヤングサンデー 第98号 2016/8/22
「ロック」を知らないと何がヤバいか?
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熱狂のライブでは、混沌のエネルギーがMAXになると、ミュージシャンはフロアを埋め尽くしたお客の上に「ダイブ」する。
そんな弱い「人間」というものに生まれると、人生の予期せぬ不幸が怖くて、沢山の武装をするようになる。
ところが皮肉な事に、そんなふうに「安全な未来」のためにした武装(保険)は、毎日を「いつものやつ」に変えてしまい、自分の中の「情念」や「衝動」を檻に閉じ込めてしまう。
ミュージシャンでも「NHK交響楽団」とか「劇団四季」みたいな安定した(感じの)仕事に就ける人もいるけど、音楽をやる人のほとんどが「不安定な人生」を生きている。
先週の放送は、ロックの世界ではちょっとした「事件」でした。
「KING BROTHERS」のマーヤがあんなに喋るような放送は前代未聞なのです。
おまけに聞き手がドレスコーズの志磨遼平っていうのもかなり贅沢な組み合わせで、後半出てくれた柿内君のような「現役ロック野郎」には奇跡のような時間でした。
僕もその奇跡の瞬間を味わいつつ、実は「この価値が伝わるんだろうか」と、内心不安でもありました。
頭をよぎるのは、岡田さんの「俺、ロックとか全然興味ないんだよね」という言葉でした。
そもそも自分が好きでもないミュージシャンの話なんか聞いても面白く無い、というのもわかる。
僕だって、全然好きじゃないミュージシャンの話なんか3時間も聞きたくはない。
しかも、番組のMC2人がそのミュージシャンのファンだったりしたら、ものすごく「置いてけぼり」の気分になるだろう。
そんなの、わざわざ課金までして観てくれているファミリーの人に申し訳ない。
それでも「マーヤと3時間の放送」をしたかったのは、まぎれもなく「ロックの価値(ヤバさ)」と「ロックンロールの人生における効果、効能」を伝えたかったのと、その世界の「生き証人」マーヤの持っている「恐ろしいまでの純粋な魂」を感じて欲しかったのだ。
「ライブ」って何だ?
熱狂のライブでは、混沌のエネルギーがMAXになると、ミュージシャンはフロアを埋め尽くしたお客の上に「ダイブ」する。
このノリがもう着いて行けない、という人もいる。
それは僕もわかるので、ライブには行くけど最前線のダイブ祭りが行われている場所には行かずに、少し離れた所からその「混沌」を味わっている。
人は音楽を聴くと心が動く。笑顔になったり、体が動いたり、踊りたくなったりする。
音楽には人間の中の「何か」を目覚めさせ、活発にする力があるのだけれど、ロックはまさに、自分の中に閉じ込められた「エネルギー」を開放するためのものだろう。
なので、現場でそれを全身で感じた人はもう踊らずにはいられない。叫んで、跳んで、一緒に歌う。
そんな力が極まった最前線の場に飛び込むミュージシャンは、彼らと1体化するために、自らが生み出した「混沌」中に飛び込むわけだ。
着いて行けない人はそこに行かなくても少し離れて観ている事ができるのもライブのいい所で、誰も何も強制はしない。極まった人は「そこ」にいけば、彼らと1つになったりできるわけです。
ライブはそんな「音楽による開放」を体験する「場」だ。
「人生なんて、どうせこんなもんだろ」とか「今日もいつもと同じ」とか「全部わかってる」みたいに、固まった心は「見えない檻」の中で死にかけている。
そんな「固まった心」を檻の中から引っ張りだして、自由に躍らせてくれるのが「ライブ」だ。
だから「ロック」は「恋」を歌う。
恋は人間の衝動だからだ。好きな人ができて自分がコントロールできなくなる。いつもの気取った「外面の自分」ではいられなくなって、夜中に突然「好きな人」に会いたくて死にそうになって、迷惑なのを承知で家の前で待っていたり、突然の別れに耐えられず何駅も歩いて帰ったりするのが「恋」だ。
それは蝉の叫びであり、上流に這い上がるボロボロの鮭のうねりであり、メスに食われるオスカマキリの狂気の覚悟だ。
ロックは「人生」や「夢」も歌うけど、その中心にあるのは常に「情念」や「衝動」だ。
それは「心」であり「感情」だ。
人は「理解できないもの」が怖くて、すぐにで理屈なんとかしようとするけれど、「感情の類」は理屈ではどうにもできない。
「わかったつもりでも涙が出る」というのが人間なのだ。
「自分はこれで大丈夫」という檻
そんな弱い「人間」というものに生まれると、人生の予期せぬ不幸が怖くて、沢山の武装をするようになる。
「人にバカにされないような服や髪型」「安定した収入のある仕事」「保険」「婚姻」・・
そして沢山の「不安」をやっつけて「これでもう自分は大丈夫」とか思おうとする。
ところが皮肉な事に、そんなふうに「安全な未来」のためにした武装(保険)は、毎日を「いつものやつ」に変えてしまい、自分の中の「情念」や「衝動」を檻に閉じ込めてしまう。
確かにそれらは「心の中のモンスター」だ。迂闊に開放してしまうと、人生が「ヤバいこと」になることだってある。
でも、私たちは人間だ。「心」があって、それを抑えて生きていくのは不自然なことなのだ。
人生を「安全な檻」に入れたり、自分で自分を「自分だけの世界」に閉じ込めてしまうと、人はだんだん踊れなくなる。
くだらない事ではしゃげなくなって、「それって何の得になるんだよ」と、経済効果で何もかもを測ろうとする。
青臭い言い方をすれば「腐った大人」になるわけだ。
野生の王国
ミュージシャンでも「NHK交響楽団」とか「劇団四季」みたいな安定した(感じの)仕事に就ける人もいるけど、音楽をやる人のほとんどが「不安定な人生」を生きている。
漫画家や画家もそうだけど、基本的に「明日をも知れない野生動物」みたいな人生だ。
「野生動物」は「檻の中の動物」に本来の「生き物としての自分」を思い出させてくれる。
僕の周りはそんな「野生動物」が沢山いて、ヤンサンはそんな人が沢山出てくれるので、まるで「野生の王国」みたいな番組になっている。
自分も含めて人間は「不安」に弱い。
すぐに「保証」が欲しくなるし、すべてを「理解できる」と思ってしまう。
ところが本当の意味で、それは不可能だ。人間である以上、明日はどうなるかわからないし、世界の仕組みなんか理解できるは「ほんの1端」だろう。
バブル崩壊からの20数年で思い知らされたのは「安全な檻などどこにもない」ということだった。
あやゆる「不沈空母」は妄想で、「終わらない愛」も「時代の英雄」も「その瞬間」にしか存在しない。「諸行無常」なる世界の定めからは逃れることはできない。
人はそんな「変わってしまうこと」の厳しさから目を背け、「自分の心」にすら向き合うのを止めようとする。
そんな時に「ロック」は「本当にそれがしたいのか?」と言ってくる。
そして、同時に「それでいい」とも言ってくれる。
理屈で考えるな、身体を揺らせ、手を上げろ、叫べ。
思い出せ、生きている事を。
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