わしは安保法案には反対である。
だが、国会前のデモ集団と、わしの考えには実は
深い溝がある。
彼らは「立憲主義」と言っているが、本音は単純な
「反戦平和」のサヨクであり、「憲法9条護持」の者たちだ。
わしが最も違和感を覚えるのは、あのデモ集団や、
そこに参加する知識人・著名人たちは、
「デモこそが民主主義」と勘違いしていることである。
週刊朝日の北原みのりのレポートを読むと、デモの中で
シュプレヒコールが起こり、「民主主義って何だ!」
と叫ぶと、「これだ!」と応えると言う。
やっぱり馬鹿なのだ。
「デモ」を「デモクラシー」の「デモ」と同じだと
思っているのだろう。
「デモクラシー」は「デモ」+「クラシ―」であって、
「民衆」の「統制・支配」のことである。
だが「デモンストレーション」は「デ」+「モンストレーション」
であって、「強い」+「示威行動」のことだ。
「デモ・クラシ―」と「デ・モンストレーション」は違う。
国会前に集まって鳴り物入りで抗議の声を上げる
というのは、いわば「脅迫」である。
「モンストーレ」というのは「モンスター」の語源である。
怪物と化した群衆が、怒声を上げ、騒音を出して、
間接民主主義を「脅迫」しているのだ。
ではあのデモ集団は、直接民主主義を望んでいるのか?
小熊英二などもやたらデモに感情移入しているが、
直接民主制を支持しているのだろうか?
わしは、デモこそが民主主義と妄信する連中とは、
やはり一線を画す!
わしも20年前、薬害エイズ運動でデモを煽ったが、
あれは薬害エイズの被害者である子供たちが、
次々に死んでいくという切羽詰まった状況で、
やむおえず「情の連帯」と大義を立て、行動したものだ。
すでに被害を受け、死んでいく子供がいた
薬害エイズ運動と、まだ被害はなく、被害があるか否かは
人によって予測が違う安保法制反対運動では、
切迫感も当事者意識も大きな隔たりがある。
安保法制はイデオロギー闘争の側面が強い。
この手の問題は冷静に「議論」すべきであって、
大騒ぎのデモに頼るべきではない。
「デモ」は脅迫である。
「議論」こそが民主主義なのだ。
ただし、政府与党も結論ありきで、
「議論」をする気がないのは確かだ!
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