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  • 終戦記念日だし、憲法でシコってみませんか?『たたかえっ!憲法9条ちゃん』(芝浦慶一produced by ノンポリ天皇/ぽりてん文庫)【読書日記7】

    2014-08-08 14:271

    知っているだろうか?
    児童ポルノ規制が厳しくなった現在でも、気軽に10代にも満たない幼女の無修正裸体写真を堪能することのできる実にけしからん本があることを。



    その本は小学館からでている『日本国憲法』である。
    1982年から出版され、92万部の大ベストセラーであるこの本には、なんだか明るい感じの写真が20枚以上使われており、その中の1枚に、家族で温泉を楽しんでいる写真がある。問題なのは、性器部分に全く修正がかけられておらず、タオルや洗面器で隠されているわけでもないので、モロに写っているのである。

    そう、僕らはためされているのだ。
    『日本国憲法』というおそらく我が国の中で最も真面目に読まれなければならない本で、まさかそこにエロスを見出すような不謹慎野郎はいないだろう、と。しかし、ページをめくれば、そこにはモロが写っているのである。興奮を覚えてしまうことの罪悪感は並のエロ本の比ではない。まさしく禁忌である。



    『たたかえっ!憲法9条ちゃん』は、その一線を超えた作品である。
    「ああ、ああああっ9条ちゃん、9条ちゃんいいよっいいよっああああああああっ」
    禁忌は冒頭一行目であっさり破られる。主人公の少年大和マモルは、日本国憲法でしか発情することのできない異常性癖の持ち主なのだ。
    「にほんこくみんは、はぁはぁ。せい……。せい……。ふひひ、せいぎ……。せいき、せいぎ、せいぎとちつ、ちつ、ちつ、うひひひひ、ち、ちつ、ちつじょをきちょうとするこくさいへいわをせい、せい……うへへへへ、せいじつにききゅうし。き、ききゅうし、しきゅう、しきゅうううううううううひひひひはぁはぁ。(以下略)」
    なるほど、異常性癖である。
    そんな彼が大理石に刻まれた憲法9条で自慰をしていると、発射した精子が条文に降りかかり、突然の虹と共に、全裸の美少女がその場に現れるのである。

    彼女が9条ちゃんだ。他人のケンカを観ると泣きだしてしまうくらいにか弱く、語尾に「ですうー」とつける頭の弱い子として、大和マモルの前に現れ、彼を慕うようになるのだ。

    かくして、自らを9条ちゃんと名乗る少女と、彼女を狙う謎の組織、「全国改憲部OB・OG連合」、さらに大和マモルの幼なじみで常にチェーンソーを担ぐメンヘラ美少女、智恵院左右を巻き込んだドタバタが展開していくというのが、この物語のあらすじである。

    ここまでを読まれた良識のあるお方なら、ようやく気づくことができたかもしれないが、この本はキ◯ガイである。ドタバタな展開、あまりに不謹慎な発言、政治的に意図の有り過ぎる文章が、全体的に精液臭い雰囲気に包まれた作品なのだ。

    しかし、そのキ◯ガイぶりを発揮する文章からも、はっきりと問題提起されているのが本書の魅力だろう。
    「バカな。今の日本以上に混乱した社会などあるものか。常識もモラルもまったくない。そして何より足りんのは、美学だ。“美しいもの”を愛でる心だ。散る花の美しさ。濡れる紫陽花の美しさ。誠実であることの美しさ。貞淑なる女の美しさ。そして、改憲の美しさ。そう、我々が注入しようというのだよ、この腐れた現代へ、”改憲という美学”を!」
    や、
    ”力”というものがいっさい存在しないところで、”正義”や”秩序”なんてものが果たして存在できるのか、とっても疑問だもの。もっともどっかの国みたいに、正義だの秩序だのを掲げているくせに、国際紛争を解決する手段としてどころか、国際紛争を作り出すために武力を用いるような場合もあるんだけどね
    など、現在の世相を考えるとますます笑えない(この本の初版は2009年、ちなみに当時は麻生→鳩山政権)発言が盛りだくさんであり、この物語が一貫して、9条ちゃんの存在意義に焦点を当てているという点では、(安倍政権の)今だからこそ読んだら勉強になるんじゃないだろうか。(多分)

    圧巻なのは、やはりラストに主人公が語る独自の憲法解釈だろう。
    僕はこれを読んで、憲法9条に関する見方が間違いなく変わった。そうか、そんな風に解釈したら、そしてその解釈のもとに運用したら、憲法9条は超恐いじゃん!と思った。
    詳しくは本書を読んでいただきたいが、右も左もドン引きするような展開が待ち受けていることだけは明かしておこう。

    そして、これを読み終わったあと、あらためて日本国憲法を手にとってみるといい。
    もはや、条文から感じられるものは、以前のそれとは全く違うものになっているはずだ。
    そこには、踏み越えたものの先にある”何か”が映っていることは間違いない。
    その”何か”は果たして観ていいものだったのかどうか、それは誰にも分からないのだろう…








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  • いじめは本当に悪だろうか? 【百合香のポエムノート1】

    2014-08-06 08:004


    今月、ひさしぶりに高校時代の友人たちと再会して遊んだ。
    北九州からわざわざ上京してくる人は少ない。だいたい、関西までの範囲で進学や就職をおさめようとするのが普通だし、地元愛が強いこともあって、東京で再会なんて珍しいことだ。

    4年ぐらいぶりの友人たちは、相変わらず馬鹿やってるボンクラで、実に気持ちのいいやつらだった。「本当変わってねえな!」とお互い指さして終電まで下ネタ話で盛り上がった。



    話しているうちに、いろんなことを思い出した。
    それこそロクな思い出が故郷にはないのだけど、今回はちょっと自分が受けてきた“いじめ”っていうものについて書いていこうと思う。

    僕がいじめられるようになったのは、だいたい小5くらいからだ。
    クラスの体育会系の女子たちに目をつけられて、女子トイレに閉じ込められ水をかけられたり、ノートや筆記具を盗まれたり、冷凍みかんの皮を無理やり食べさせられたり、給食のご飯に牛乳をぶちまけられたり、犬の糞のついた石を投げられたりしたことから全てがはじまった。

    中学ではヤンキーたちにサッカーボールをぶつけられ、やはり教科書は破られ、女子たちに、「臭い」「キモイ」「汚い」と陰口を叩かれ、塾も学校も居場所がなかった。一番こたえたのは、自分の机一面にエロマンガの切り抜きが貼り付けられ、ガムテープで目張りされた時だろうか。小学校の時はお互いの家で遊ぶくらい仲良かったやつだっただけに、結構辛かった。

    そこそこ勉強できる高校に入れば、もうこんな仕打ちはうけないだろうと思い、北九州では(当時)わりと上位の学校に入った。これでいじめも終わるだろうと安心していた。

    もちろん違った。
    入学して二ヶ月後の学校裏サイトには書いた覚えのない僕の書き込みがあった。掲示板の僕は明らかに偏見のあるオタクしゃべりで、完全に気持ちが悪かった。そうか、僕は他人にこう見えているのか、と少し悲しかった。

    高校生男子は、ともかく強い。
    殴られれば青アザがくっきりと浮かぶし、頭突きされれば漫画みたいなたん瘤が出来上がる。風呂の中で親にバレないように、ズキズキと痛む部分を鏡で眺めては、「あー明日はどう答えれば、殴られないで済むかなー」とか「学校で目を合わせたくないなー」とか考えていた。
    未だもって正解はわからない。

    ここまで、ずっと被害者ヅラをして書いてきたことを許してほしい。
    僕だって相当、人を傷つけてきたし、今もどう謝ればいいのか分からないようなこともしてしまっている。自分が許せない、自分が嫌いになる行為もたくさんやってきたし、そんなことを思い出しては、つい悲鳴をだしてしまうくらいにはダメなやつだ。

    そんな立場だからこそ、考えることがある。
    あの頃、僕はいじめを憎んでいただろうか?
    本当に悪いことをされていると思っていただろうか?
    ひょっとしたら、どこかで「いじめられたい」と思ってはいなかっただろうか? と。



    これまでの人生で一番“みじめ”だったことについて書こう。
    高校二年生の一学期のことだ。生徒には教材を置いておくためのロッカーが一人ずつに割り当てられている。そのカギは自分で管理しないといけない。だいたいは机の中に入れておけば済むのだけど、友人たちのために貸し出すこともしばしばだ。

    昼休み、そのカギがなくなった。
    クラスのこれまで貸した連中に聞いても知らない顔。
    「いつものことだろ」とニヤニヤして真面目に受け取るやつもいなかった。
    普段なら、放課後にひっそりカギがでてきてそれで終わりだ。
    僕も、午後の授業を教材ナシでやり過ごそうとしていた。

    やり過ごせなかった。
    突然、担任の教師が教室に入ってきて急きょ、学級集会が行われた。
    議題は、「僕へのいじめについて」だ。

    どうやら始終を見ていた女子のひとりが、先生に全て告口をしたらしい。
    まず、カギをとった人間の犯人探しがおこなわれ、誰も出てこないと、少しでも僕をいじめた自覚のあるやつは手を挙げろと指示された。

    クラスのほぼ全員が手を挙げた。
    中には普段僕が仲良くしていると思っている友達もいたし、ほとんど会話をしたこともないような女子ですら手を挙げていた。

    教室の壇上で、公開処刑されているような気分になった。
    その時の、みんなの目がどうしても忘れられない。その目は僕を憐れむような目だった。
    かわいそう、もうしわけない、もう弄るのは怒られるから止そう、そんな視線だった。

    これで本当に孤独になったのだと思った。
    そして、そこではじめて、僕は今までクラスの中でいじめられていたから、孤独にならずに済んでいたことに気づいたのだ。
    分かるだろうか? イジメという馴れ合いの心地よさを。僕がイジメられ、過剰なリアクションをとり、それが皆の笑いになる。その、どうしようもない間抜けさを面白がってくれることで、協調性が生まれていたのだということを。

    あの瞬間、僕はそんな立場すらも追放されたのだ。
    これからは、もうクラスの連中にはかまってもらえなくなる。笑われることもない。
    では、その後どうなる? 何もされない。ただ、かわいそうな人という目で見られる。
    それだけだ。

    ゆがんでいると思われても、かまわない。
    僕は、憐れみの視線を向けられるくらいなら、イジメられた方がはるかにマシだと思う。
    叩かれても、蹴られても、プールに落とされて水着を全部脱がされても、それでみんなの輪の中に入れるなら、はるかに良いと思う。

    憐れみとは、決して向けて欲しいものではない。
    それは、完全に弱い者、のけ者に向けられる差別の視線だ。
    可哀そうなどと口では言いながら、はれものに触らないようにして、クラスの輪から外そうとする手はずだ。それを学級集会のあの瞬間、痛いほど分かってしまった。

    みな、いじめは悪なのだという。
    いじめは無くさなければいけない、という。
    テレビで雑誌で漫画で、政治家や有名人、評論家、正義のヒーローたちは口をそろえて、そう言い続ける。

    でも、その後については誰も話さない。
    その後、向けられる憐れみの視線については誰も語りはしない。
    「元いじめられキャラ」は、その後どんなキャラになればいいのか、誰も教えてはくれない。

    「元いじめられキャラ」はクラスでどう立ち振る舞えばいいのだろう?
    ずっと被害者ヅラをしながら大人しく過ごしていればいいのか、無理やりイジメてきた人たちと何事も無かったかのように仲良くすればいいのか。それとも、今度は自分がイジメ側にまわればいいのか。僕の周りで、そのことに答えてくれる人はいなかった。

    いじめはコミュニケーションだ。
    人と人との間には必ず「イジる」側と「イジられる」側が発生し、それが笑いを生む。「イジられる」側が酷い仕打ちを受ければ受けるほど、笑いは加速度的に上がる。これまで僕が受けてきたイジメの数々を読んで、面白いと思った人もいるはずだ。誰もが人の酷い様を見て笑わずにはいられない。僕らが人を笑うのは、自分がそいつより優位に立っていると安心する時なのだから。

    あらためて考える。いじめは悪だろうか?
    もちろん、僕が受けてきたような仕打ちを皆が受けて欲しいわけじゃないし、もっと酷い仕打ちで自殺を選んでしまった人たちもたくさんいる。

    だからこそ思う。いじめは排除できるようなたぐいのものではなく、むしろ絶対に存在することを受け入れた上で、「その後」について考えた方がいいのではないか、と。
    やたらと悪のレッテルを貼り、無くそうという方向性にそもそも無理があるのだ。無くした先は結局、いじめの当事者をコミュニティから除外するという結果しか産まない。

    必要なのは、いじめが生まれてしまった時、複数の「その後」の選択肢がたくさんあることだ。学校を転校して別のコミュニティに入りやすいように手配する、暴力が起こらないように学級の編成を考える、部活やソーシャルメディアの集まり等で別のキャラクターがつくれるようにサポートする等、とにかく「その後」についてとことん話されるべきだし、それを当事者もよく考え、決断しないといけないと思う。あくまで、これは自分自身の人生なのだから。

    最後に、僕の「その後」を語っておこう。
    学級集会の時、手を挙げなかった数少ない人間の一人にT君がいる。
    T君は周りを見回してキョトンとしていた。そして、集会が終わって気まずい空気漂うクラスの中で、僕をトイレに誘ってきた。

    「お前はほんと、きもちわるいなー」とT君はニヤニヤしながら、僕とただ連れションをした。それから、何故かT君は何かと理由をつけて僕をトイレに呼び出した。そこには、いろんな奴らがいた。クラスからあぶれて退屈そうなヤツや、コアな洋楽の話でしか会話ができないヤツ、トイレのホースを使ってずっと校舎の庭に無心で水をまいているヤツ、話すことのほぼ全てに嘘をつくヤツ、みんなトイレで何をするでもなく、そこにいた。

    僕はその輪の中に入って、みんなと実にいろんなイタズラをした。じゃんけんで負けた奴が校舎で拾ったカミキリムシをパンツの中に入れるゲームや、知らない男子生徒に勝手にアダ名をつけてそれを定着させる遊び、クラス対抗の球技大会では応援を抜け出し空き教室でずっとCDの交換、野外清掃活動ではT君が指定の掃除区域じゃない場所を指さして「あっちに行った方が趣深くね?」と言ったのをきっかけにみんなでそちらに出発し、先生にバレるまでサッカーボールで遊んだりしていた。

    僕が高校を一番楽しいと思えた時期であり、はじめて居心地の良さを感じた場所だった。

    冒頭で語った友人たちとは、その頃のトイレ仲間だ。
    飲みの席で、僕はひさしぶりに再会したT君に、その時のことを語り本当に感謝してると、やっと口にすることができた。

    T君は笑いながら「あの頃は、なんも考えてなかったんよ」と答えた。
    なんも考えてくれなくてありがとう、と僕は思った。




    この文章は、結構前にいじめが話題になった時にどっかに投稿しようかなーと迷ったまま、あまりに過激なために放置していたものを、友人と会ったことをきっかけに書きなおしてみたものだ。
    読む人には不快にうつる話だろう。あくまで、個人の見解として読んで欲しい。
    いじめには様々なタイプがあり、こんなものだけではないと思うけれど、いじめの「その後」こそが語られるべきなのに、そこが一番抜け落ちているという構図は僕がずっと思っていることだ。
    また、いじめというのは、いじめが起きて誰かが自殺した時にしか問題にされない。多分、この文章も特に話題性がない今では対して多くの人の目をひくことはないだろう。
    だからこそ、言っておくけれど、問題になってからでは全てが手遅れである。自殺という選択を選ぶ前に「その後」が語られなかったことが一番マズイし、こうしたものは掃除と同じで定期的に部屋の埃の汚さを自覚しないといけないのだと思う。









  • “お笑い”の星座を観測する伝承文学 『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(てれびのスキマ/コア新書)【読書日記6】

    2014-07-27 07:24





    タイトルに騙されてはいけない。
    この本は、いわゆる芸能人の知られてない秘密を暴露してメディアの闇を突くものでも、ビジネスにすぐに使えるコミュニケーションの方法を芸能人の所作から学ぶというものでも、ただお笑いの世相を分析して社会学的に現代を鋭く分析したとかいうものでもない。

    これは、伝承文学である。
    しかも、今まで見たことない芸人たちの業を描きだす伝承文学である。

    僕の知る限り、テレビの中の芸能人について語られている言葉といえば、不倫、ドラッグ、金銭トラブル、暴力に満ちたゴシップ系の芸能雑誌や、ファンによる盲目的な愛を告白し続ける妄想ブログ、誰と誰が付き合っているから誰それとは仲が悪いといった恋愛の悲喜こもごもをのぞき見るおせっかいな女性誌・‥それくらいのものだった。

    もちろん、かつてナンシー関氏といったテレビと真正面から向き合い、あくまで外側からお笑いを厳密に批評し続けた怪物は存在したし、浅草キッドの水道橋博士マキタスポーツ氏のように、あくまで内側から芸能界の深層をこちらに届けてくれるような書き手は今なお活躍中だ。

    しかし、やはり樋口毅宏氏の『タモリ論』(新潮新書)がヒットするまで、テレビメディアの衰退とネットの隆盛を分析したという類の新書は溢れていても、テレビの個々のチャンネルや、芸能界そのものを外側から語るという本は特に注目されていなかったように思う。(ここは、僕自身の主観なので、それについて異論があっても許して欲しい)

    何故なのかといえば、難しいからだ。
    お笑い芸人について言葉にすることほど、困難なものはない。
    ぶっちゃけ小説や漫画の批評より大変だと思う。

    例えば、1人の芸人を追いかけようとする。
    その芸人が有名だと、毎週テレビのレギュラーで出演している番組が10本、一時間のラジオが1本、地方巡業ライブが週に1回なんてことも考えられる。さらには大型番組に突然発表もなくゲストで参加、映画にもちょい役で出演、ロフトプラスワンなんかで暴露トークまでもあったりすれば、全部追いかけるのは不可能だ。

    しかも、バラエティ番組ほどアーカイブを探すのが難しいものはない。
    最近話題となった場面ならYouTubeにアップロードされていたりするが、すぐに違反報告で消される。番組を録画予約しても膨大に貯まるアーカイブを目の前にゲンナリする。DVD化される番組はごく少数で、それも権利上の問題でカットされている場面が多数。

    芸人のプロフィールもウィキペディアでは薄っぺらい情報の集積ばかりで、その芸人の全体像が浮き上がってくるようなサイトも、ほとんどない。

    そもそも、”お笑い”の批評自体、難しい。
    芸人のテクニックや話法を研究するのは野暮という空気は今なお強く、それを理論的に紡ぐ言葉も体系化されているとは言い難い。いざ批評すれば、お笑い通からは「じゃあお前は面白くできるんか!」と野次が飛んでくるだろう。「そもそも笑いとは何か」「お笑いを批評したところで何になると言うんだ」と頭を抱え出すことは間違いない。

    そう、こんなにも難しいのだ。
    僕らが気軽にテレビを前にあーだこーだ言ってる気楽なお笑い論なんて、いざ本格的に取り組もうとすればこれだけの障害がある。さらに突き詰めればそれは番組のプロデューサーや芸能事務所の話にもなるだろうし、さらにテレビに影響を強くもつスポンサーの話にもなるだろう。あらゆる関係性に絡め取られて、窒息死してしまいかねない。



    このことを大前提として、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(てれびのスキマ/コア新書)を紹介しよう。

    本書は『水道橋博士のメルマ旬報』に連載中の「てれびのスキマの芸人ミステリーズ」の中から7篇を抜粋し、新たな書き下ろしを加えたものだ。有吉の他に、オードリー、オリエンタルラジオ、ダウンタウン、ナイナイ、爆笑問題、ダイノジ、マツコデラックスといった芸人たちについて書き綴っていく。
    本書で僕が書いているのはお笑い評論ではない。ただの美談や苦労話でもないつもりだ。もちろん、ここに書かれているのは都市伝説の類ではない。芸人本人や彼らに近い人物たちが様々なメディアで語った出典が明確なものである。(中略)しかし、散りばめられたエピソードをまとめ、構成し直すことで見えてくるものがあるはずだ。
    そう、これは「出典が明確」な証言をもとに構成した本なのである。
    さらに、なぜ表題に有吉弘行という芸人の名前を冠したのかについてこう語る。
    (有吉弘行は)もちろん現在のお笑い界にとって、もっとも重要な人物であるからに他ならない。そして彼の経歴の一つ一つは「テレビ」、あるいは「お笑い」を考える上で、重要な示唆を与えてくれる。現在のテレビにとって「芸人」とは何なのか、というまさに「芸人ミステリー」を解き明かすために、「有吉弘行」ほど最適な芸人はなかなかいないと思うのだ。
    僕自身、所属している文芸誌集団「放課後」の最新刊で、有吉弘行についてかなりの文字数で書き綴ったこともあって、彼がどれだけテレビ史の中で重要な立ち位置にいるのかを少しだけ理解したつもりでいるけれど、イマイチ最近テレビを観てないという人にはピンとこないことかもしれない。有吉弘行の凄さについてはニコニコで親切にまとめてくれた動画があるので、こちらを観ていただこう。




    気がつけば、テレビには有吉弘行という男が映るようになった。
    しかし、それはなぜだろう。毒舌が鋭いから、一時期のあだ名芸が功を奏したから、苦労話に事欠かないから・‥著者のてれびのスキマ氏は丁寧に彼の発言を集めていく。
    有吉は猿岩石ブームの間、ニコニコしたキャラを貫くのは「きつかった・‥・‥。自分の中になったから、感動要素」(『怒り新党(2013/8/28)』)と振り返っている。
    「常に考えるのは、あの旅は芸につながらないな~っていうことですよね。旅はよかったんですけど、お笑いとしてはよかったのかどうかっていうのがあって」(注1)と旅の直後から有吉は危機感を語っている。
    「何となく分かるのよ。(一発屋のレールに)乗っちゃったなぁって。でもそうなったら断れないのよ」(『怒り新党(2013/4/3)』)と、もはや自分ではその流れでは抗えない状況に巻き込まれていった。
    内容もさることながら、参照した発言の細かさについ目を奪われてしまう。『怒り新党』はマツコと有吉のマシンガントークを楽しむ番組だが、そんな口数が多い番組の中で、以上のような発言をいちいち見つけ出し、別の回の発言と結びつけていく。なんという丁寧さだろう。
    「有吉さんは今、キテると思いますから、一個一個大事にしていくんです、仕留めていきましょう。一個一個の仕事を仕留めていく!」(『内村さまぁ~ず(2008/7/15)』)
    その内村のアドバイスを胸に再ブレイクを果たした有吉はその言葉をそのまま自分の後輩にまた伝える。
    「こうやって先輩に言われた良い言葉を、こうやって伝えていく。これがやっぱりいいんですよ、これが先輩・後輩の関係を繋いでいくっていうことです」(『オトナへのトビラTV(2013/4/11)』)
    気づいただろうか?
    この参照された発言ふたつの時間のひらきを。
    5年もの歳月をかけてようやくつながったこの証言を接続し、ひとつの伝記としてまとめあげていく。そこからは、テレビの一端を追っているだけでは気づかない巨大で深遠な物語が眠っていることが読み取れる。あくまで自己主張は控え目に、ひとつの目となって芸能人の生き様を淡々と描写していく。そこから、なんとなく分かるようで分からないでいた個々の芸能人たちの抱えた業とその魅力が伝わってくるのだ。

    著者は、水道橋博士の影響でブログをはじめ、それが博士自身の目にとまりブロマガをすることになったのだという。
     博士さんは「コンステレーション(星座を作る)」の考え方に基づいて「星座が繋がる」とよく語っています。「一件、無関係に並んで配列しているようにしか見えないものが、あるとき、全体的な意味を含んだものに見えてくる」と。だから「偶然の一致」と思えることも、人生の中の“星座”として意味のある必然だと考えることができるというものです。
     博士さんの著書をきっかけに始めたブログが博士さんの目に止まったのです。
    「星座が繋がった!」
    おこがましくも僕はそう思いました。
    しかし、この本自体、ひとつの星座のようではないか。
    芸能人たちが何気なく、本人も覚えてないかもしれないようなふとした発言を読み取り、文脈としてつなぎ合わせ、僕らには見えてこなかった芸人たちの深層を読み取ろうとする。

    水のように流れ続け、決して滞留することのないテレビというメディア。
    しかし、その水の中に沈むものを覗き、言葉にしていくという途方もない挑戦に挑もうとしている人がいる。
    それもまた、ひとつの星座に秘められた物語なのだ。