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僕らの足元をサブカルチャーがうごめいている 『スニーカー文化論』(川村由仁夜/日本経済新聞社)【読書日記5】
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僕らの足元をサブカルチャーがうごめいている 『スニーカー文化論』(川村由仁夜/日本経済新聞社)【読書日記5】

2014-07-14 22:44


    どんなクソダッサイ格好をしたおっさんも、着飾って街を歩くことをアイデンティティとしている原宿とかの女子たちも、パチンコするだけが趣味の冴えないリーマンも、青春を謳歌してTwitterについコスプレ露出画像を出して炎上するJKも、ラジオ体操が生きがいとなっているおじいちゃんですら、今や必ず一足は持っているのが、スニーカーだ。

    プーマ、アディダス、コンバース、ナイキ…
    別に靴に興味のない僕でも靴メーカーの名前を挙げることができる。
    スニーカーに年齢差はほぼない。スポーツをやっている人はそれ用に特化したスニーカーを、ちょっとオシャレな人は街歩き用のそれを買うくらいの差だ。もちろん、こだわっている人はとことんこだわっているし、ファッションとして何十足も買い集めている友人もいる。

    しかし、もともとスニーカーはニューヨークのストリートのいわゆる“悪そうな友だち”が広め始め、スポーツ、ヒップホップ文化と深くつながりながら全世界に輸出され、現在の価値にいたったことを意識して履いている人たちはどれだけいるだろうか



    『スニーカー文化論』川村由仁夜日本経済新聞社は、スニーカーが世界的に普及していく過程を詳細に追おうとした評論集だ。アメリカ在住の著者は、大学でファッションについて教鞭をとっているが、とある学生がもってきた『JUST FOR KICKS』というDVDを観て、スニーカーがただのファッションアイテムではないことに興味を覚えたのだという。
     マニアによって形成されるスニーカー集団も、明らかにサブカルチャーのつだ。実用性や機能性を満たすために作られた履物は、ある時期から高額な値が付くほど価値がある商品になった。その価値は、サブカルチャー集団内部の仲間同士だけが理解できるものだ
     彼らは自分たち特有の価値観を共有することに多大な満足感を得て、外部の人間からの評価や非難にはまったく関心がない。「自分の履いているスニーカーの価値は、わかる人が見て、わかってくれればいい」と。
    そんなスニーカーが、世界的なムーブメントとて、どうして広がったのか。そして、そのことがスニーカー文化自体にどんな影響を与えたのかを、スポーツ、ヒップホップ、ソーシャルメディアの観点から分析していくのである。

    もちろん、多少ヒップホップやバスケについて詳しい人であれば、知っている事実の叙述に過ぎなくなる本書だが、それを多角的に捉えているためにスニーカーがどのような変遷をたどったのかを確実に抑えていくことができる。

    例えば、ヒップホップの章では、Run-D.M.C.が紐なしで履いたアディダスの話題から、企業、アーティスト、デザイナーの動きを綿密に解説している。だから、全く文化に精通していなくても、アーティストやデザイナーの名前をパソコン片手にググりながら読みといていけば、かなりのスニーカー通になり、なおかつヒップホップ通、バスケ通になるはずだ。

    興味深かったのは、『スニーカー文化は悪か善か』という章だ。
    ここでは、限定のスニーカーをめぐって若者たちの間で盗難、殺人が相次いだことや、メディアが麻薬ディーラーが好むファッションとしてマイナスイメージを大衆に紹介したこと、貧しい子どもたちに大手メーカーが売りつけようとしている現状などを指摘している。
    黒人文化の研究者マイケル・エリック・ダイソンは、「スニーカーは、歴史的なラップ文化とアンダーグラウンドの麻薬経済という現実のシンボルでもある。スニーカーは、黒人文化のクール、ヒップ、シックなものをニュアンス的に表現している、それがより広いアメリカ社会に受けたわけだ」と説明している。
    ここで痛感するのは、アメリカでのサブカルチャーという言葉の背景に、あまりに根強く差別意識、弾圧意識が強いという点だ。世界に広がるまでに、あらゆる偏見や抑圧を文化の成熟によって克服していこうとするその"うごめき”は、前回紹介した『クレオールとは何か』とも通底しているものだ。

    そうしたカルチャーが世界的な地位を勝ち取った現在はたしかに華々しいことなのだけれども、普遍化することによって、スニーカー自体にあった独自の哲学や文化的価値が逆に見えづらくなっているのが現状だ。その現状をいかに打破するのかを考えるためにも、この本は必要ではないだろうか。



    【付記】
    ただ、この本には、残念な点もある。
    それは、ほとんどのアーティスト、デザイナーの名前や、靴の名称が、カタカナ表記であることだ。たしかに縦書きであるためにその表記法は仕方ないのだが、それのせいで、全部が全部ダサく感じてしまうのだ。しかもカタカナばかりで逆に読みにくいここは、洋書方式で構成してくれていれば、もっとスニーカー文化を語った本としてもクールだったのにな、とは思う。また、黒人文化の広まりという点から語る点は刺激的であったけれども、「ハイカルチャーとポピュラーの境界線の消滅」という章における、ハイカルチャーとポピュラーカルチャーの境界線が消滅したポストモダンとなったためにスニーカーがハイカルチャーとも手を結ぶような状況が起こったという論旨は、あまりにも黒人文化の広まりの運動のそれをないがしろにしてはいないかと個人的には感じた。そもそも、黒人のストリートカルチャー運動とポストモダンの関連性がよく読み取れないことが問題なのだけれども、ここはもっと踏み込んだ議論が必要なのかもしれない。









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