__さん のコメント

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>>40
確かに過去改変に対して「代償」があるというのは、ある種定番ですし新海監督ならやりかねないとは思いますね。

ただ、個人的には代償がないことに対してはむしろ良いところだと思いました。

だってそもそも、2人の心が入れ替わって、それをお互いが気づいて、やり取りをする方法を確立して、次第に互いを意識し始めて、入れ替わりできなくなった片方を探すために行動を起こして、薄れ行く互いの記憶の中でもう片方が決死の思いでやり遂げたんですよ。
お前ら何個奇跡積み重ねてんだよと。

まさしく、奇跡から愛が生まれて、その愛が奇跡を起こした。
一つの愛からこんなでかいことをやり遂げたのに、そのあとさらにつっつくのはやぶ蛇というものです。

こんな二人には最後にもうひと奇跡くらいがちょうどいいなと、私は思いました。
No.44
51ヶ月前
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東京に住むタキと田舎に住むミツハの身体が入れ替わってしまいます。 お互いの生活と人間関係を崩さないルールを決めます。 ミツハの住む地域では彗星が接近するニュースが流れていました。 ネットをみてると『君の名は。』はこう感じました。 ウェイ系は「泣けるぅ」といって、オタクは「言うほどじゃねえなあ」といい、新海誠という人間の生き様として作品を辿っている人は「よくやった新海!」という印象。 この映画、デートで見ていいと思いました。 理由は大きく3つあります。 1つ。まずはラッドウィンプスです。「ゼンゼンゼンセー!ハー!」って歌ですね、CMで流れています。 ラッドウィンプス、いつの間にか10代や20代のウェイ系な人たちに人気になっていたんですね。若者に当たる歌を作り続けているのは彼らの力強さだと思います。 劇中でもやはり彼らの曲は重要な場面で流れます。印象的なのは、流れ星が空にみえるときです。もっとも美しい場面です。そこにもっとも良い曲が流れます。こんな良い組合わせを見せつけられれば気が悪いワケがありません。 さらにもう1つ。気まずくなる性的描写がないところです。 恋愛といえば、キスです。ただ、これとっても気まずいですよね。デートで2人で見てるときには「おいおい…」なんてなりそうです。 安心してください。『君の名は。』はキスはありません。岡田麿里の脚本『心が叫びたがっているんだ』は不意にキスが出てきましたから、油断してたら爆破テロ受けたみたいなものですが、この映画は安心してください。 ただ、1点いうなら、身体が入れ替わってますからタキは女性の身体です。朝目覚めると「いれかわってるうーー!」と驚きます。自分の胸を揉みます。 その胸揉みくらいでしょうか。性的なものといえば。 3つ目です。絵が良いです。誰も嫌わない絵というんでしょうか。貞本義行デザインでもジブリでもない、アニメ映画の新しい波になるかもしれないですね。 以上なことからデートに適した映画です。 さて、ここまではエヴァンゲリオンでいうところのアスカが壊れてないほのぼの話ということで。 ここからはもう少し『君の名は。』について踏み込んでみたいと思います。 ネタバレあります。 さて、私は先週栃木県の宇都宮ベルモールで『君の名は。』観に行きました。もう少し遅らせてもよかったのですが、ネットではどんどん「観に行った」というツイートが流れてきます。なるほど、大衆にウケてるらしい。ならすぐ行った方がいいと思いました。 上映が終わりました。客電がパッとつきます。私のとなりにいたウェイ系風味の女子高生2人組のうちの1人がボソッと言いました。 「 言うほどじゃねえなあ…」 私もまったく同じ感想でした。 これほどこの映画の本質を言い当ててる言葉はないと思いました。 この映画、盛り上がりがあるんだけど盛り上がってないんです。物語がしっかりあるのにフワッフワッとしています。 結論から言います。ラッドウィンプスが悪いと思いました。 いえいえ。彼らの曲がすこぶる良いです。劇中歌としても宣伝として300点の仕事をしたと思います。 それが逆に作品を落としているのではないかと感じました。 物語の後半、彗星が空に流れる場面です。ミツハは全速力で走ります。お父さんもできてきます。テッシーはお祭り会場に行きます。物語で1番盛り上がるところです。 そこで音量MAXのラッドウィンプスの歌が流れるのですが、キャラクターたちの声はそのままのボリュームです。ラッドウィンプスの歌のボリューム下がるかと思ったら、これが下がらない! キャラクターが喋れば音楽はBGM化し音量は下がるはずです。映像作品に音楽を乗せるときのルールです。たとえば海外の映画の場合、歌が流れると会話音量が0になり歌われている歌詞がキャラクターの心情を示すことだって多いです。 それくらい映像と歌は気を使い合っています。しかし、この映画なぜかお互いがボリュームMAXなんです。 作品が面白くなくなるわけではありませんがピーク部分でそれをやるとせっかくのピークが弱くなる気がしました。 映画の制作陣、この良い歌をどこで流そうかとずっと考えたんだと思います。もちろん1番盛り上がる場面で使いたいはずです。 ピークをみせるなら音楽とセリフは気を使い合うべきだと思いました。たとえば、キャラの声を消して歌だけにする。もしくは、音量を下げて歌をちゃんとBGMにするべきだと思いました。それか音量を場面で調節するかでしょうか。 考えてみました。こうだったらどうでしょうか。 ミツハが走ってるときはBGMと歌は100歩ゆずって音量両方MAXでいい。 ミツハはつまずいて転んでしまいます。ここでラッドウィンプスの歌の音量がぐっと下がります。 彼女はもうボロボロです。傷だらけの顔と体で一言つぶやきます。 「タキ…くん…」 ふいに手の平を見ます。さっきまでタキと触れていた手です。そこにはタキが残したメッセージがありました。 「あっ…(泣)!」 ここで、BGMのボリュームに最大どーん!! 見ている人の感情を立ち上がらせるために、作中では何かを引っ込ませる。作品とはそういうものの気がします。 しかし、カレーの中にマグロもトンカツもピザも入ってる感じでした。 とはいえ、良い絵なので、「あ、良いもの見てるなあ」という気になってしまうんです。恐ろしあです。 もう1つ。 この映画、軸がブレてないか?という事です。 家族の関係を描きたいのか、タキとミツハの恋愛を描きたいのか、よく見えませんでした。 ミツハと父親は仲が悪いです。母親が亡くなり、父親は家を出てしまっているからです。ミツハは妹とおばあちゃんと暮らしています。そこを冒頭に出しているなら父親との何かしらの和解や修復があるはずです。 タキは父親と二人暮らしのようです。仲は良くも悪くもないといった感じです。いや、良くはない感じがします。冷めているといいますか。タキが起きる頃に父親は朝ごはんを食べ始めています。 たとえば、ミツハの場合は朝ごはんは必ず家族で一緒に食べ始めています。それを先に描いているので、見ている私たちはタキ親子に妙な冷えを感じてしまいます。 つまり、お互いが両親との関係に問題を抱えている。それをあえて示したのなら、必ず最終的には和解や修復が描かれるはずです。 しかし、最後までそれは無かったように思いました。うやむや~と。良い絵に見せられていると良いもの見てる気になってキレイに誤魔化されたような気がします。 終盤にタキとミツハはやっと出会います。おそらく、そこが物語の1番のピークに思いました。なぜなら、出会うはずのない2人が同じ時間軸で出会ったんだから、それはもう最大のピークであるべきです。 しかし、まだ物語は結構続きます。なぜならミツハは父親を説得して村人を避難させなくてはいけません。 タキとミツハが出会って自身の親子の関係もまた変化する。それを描こうとしているのだなと思いました。 しかし、なんだかやっぱりどうもそう感じれません。タキとミツハの出会いのピークがあって、すぐ次に彗星の村人避難ピークがある。 ピークは2つあっていいのですが、ラッドウィンプスの歌によってピークが繋がらずに分断されている気がしました。 歌が印象強く使われることによって物語がスムーズな1本の線でピシーッとなっていない気がします。 たとえば、宮崎駿の『もののけ姫』だって説明されていない気になる部分がたくさんあります。 しかし、それでもたいして気にならずにいられるのは物語がちきんと出るとこは出て、出ないところは出なくてピンと結末まで視聴者を導くってことができているからに思います。 つまり、何が云いたいかというと、この映画はラッドウィンプスありきの作品づくりだったのではないかということです。プロットだけみたら面白い作品でも、存在の大きな「歌」がつくことが材料になったときに肝心な作中の演出が弱くなったのではないかと思います。 新海誠はそんな抜けたことをしない作家だろう!と信じてます。だから、私はラッドウィンプスの作中の強い使い方はプロデューサーの川村元気だと思います。 ヒット作を数多くプロデュースしているということですが、そういう変なカンが働いたんじゃないでしょうか。「新海さん、ここにラッド使おうよ!!BGMじゃダメなの!!セリフとぶつかっても良いんだよ!作品の強度?そんなのだれも気にしちゃいないって」って感じに思います。 たとえば、サスペンス映画の王様アルフレッド・ヒッチコック監督がいます。彼はこう言ったそうです。 「セリフはBGMのように考えるべきだ」 セリフは状況を説明できるけどそれをしないことで演出の力が増して作品の強度が強くなるらしい。さらに彼は「私は日本人を想定して作っている。言語が違う人が観ることを考えている」とも言っているそうです。 私は新海誠をよく知らないので、もしかしたら元々すこし演出が抜けるアニメ作家なのかもしれません。しかし、私は彼の作品を一作しか見てないのでそこはどうだかわかりません。 終盤はこうしたらどうでしょうか。 先ほど書いたように、ミツハとタキは両親にたいして問題を抱えています。 2人はお互いが入れ替わりました。相手の家族や友人たちと関わりをもちます。まったく関わることのなかった価値感を知ることです。それは、自分の家族や友人を再認識することにもなります。 彗星落下の被害を知らせるためにタキはミツハと同じ時間軸に出会います。しかしお互いが元の世界に戻れば2人は記憶を失うことが示されていました。2人は惹かれ合っています。ここで別れてしまったら二度と出会えません。 選択肢はひとつです。2人が甘酒を飲んで同じ時間軸に生きることです。 ミツハは言います。 「みんな信じてくれないの。何をやってもダメ。忘れたくないの、だからタキくんの世界で一緒にいよう」 2人は抱き合います。 タキはミツハの肩をつかんで言います。 「オレ、分かったんだ。ミツハのばあちゃんと妹と暮らしてて。母親はオレが小さい頃に家を出て行ってさ…。親父とも、あんまり仲良くなくてさ、家族ってあーこんなものなのかなって。でも、ミツハの村にいていろいろ分かったんだ。大切な人がいてくれてる大切さが。ミツハのことは大切だ。でも村のみんなもオレは大切なんだ。だから、ミツハは村へ行ってみんなを救うんだ」 もちろんそれは2人が2度と会えないことを意味する。ミツハは涙をこぼしながら肩を震わせて言います。 「未来で待ってる!」 2人はやっと会えたのですが、自分の周りにあった大きなものに気づいてしまっているので自分だけが幸せになる結末よりも大切な多くの人を救う決断をします。 それが入れ替わりの後の彼らの精神的な成長をしめすことになります。 惹かれ合ってやっと出会ったのに別れてしまうという悲しさ。自分たちの意思でそれを決定する辛さ。せつねーですね。 劇中、2人が同じ時間軸で初めて出会って別れるあの瞬間ってあんまり悲しさを感じなかったんです。だから、自分たちの恋を自分たちの手で幕を引くっていうくらいにしないと悲しくないと思いました。 ミツハは関係が悪かった父親と対峙します。ここで何らかの説得・和解をしめせば、タキの別れがミツハにとって大きな意味あるものとして働きます。 ここまですれば、まるっと作品の冒頭から最後まで糸の繋がりができるような気がします。 なにが云いたかったかというと、ラッドウィンプスの歌という強い材料をもつことによって作品が落ちてしまったのではないかと思いました。
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ロックフェスに出禁になった若手バンド。CD売るよりケンカ売れ。「ももこ」とゆーバンドを栃木を中心にやってます。