• 空白とうろこ雲

    2014-10-12 06:38


     九月も半ば。曇りがちな空の下、朝のほの暗い居間でIAちゃんと2人。薄っぺらい画面の中で気象予報士が、今日も日中は暑くなるだろうということを、涼しい顔で言ってのけている。
     切り替わるニュース映像と、隣の壁にかけてあるカレンダーを見比べて、ふと、とある日が近づいていることに気付く。
    「そろそろ一年ですね」
     隣に話しかけても、すぐに打って響くということはなく、たっぷりの沈黙が訪れる。はじめこそ無反応に意味を求めて神経を尖らせたこともあったけれど、このテンポも1年ですっかり慣れてしまった。
     やっとこちらを振り返った彼女は、無表情のまま首を傾げる。
    「なにが?」
    「IAちゃんが、うちに来てからですよ」
    「そうだっけ」
     彼女は全く気にした風もなく、すぐに視線をテレビのほうへと戻してしまう。
     1年前の今頃、まだ日中は日差しの強さと影のコントラストの濃さに夏の暑さがずいぶんと残り、しかし、ふとそよぐ風に秋を感じ始めた頃。彼女は、正確には、ラピスちゃんも含めた彼女たちは、この家にやってきた。
     そう、ちょうど今日のような、高い高い空がうろこ雲に覆われ、秋風の吹く朝に。

     春先に家庭の事情から私とCULを迎えて、実家で1人と2体暮らしを始めたマスターは、あっという間にVOCALOIDの魅力に目覚めて、取り憑かれたように、大学生活もそこそこに、新しいVOCALOIDを迎えるために猛烈にバイトを始めた。有言実行を座右の銘とするなんともパワフルなマスターは、夏休みの半ばの給料日にはそれまでの給金と十数年分の手付かずのお年玉と合わせて、その目標額をほぼほぼ達成してしまった。高機能自律型有機アンドロイドの中でも高機能、かつ人気もあるVOCALOIDは、学生がそんな風にぽんぽん買える価格であるはずがないのだが、彼女はやってのけた。しかも、給料日の次の日には、ネットのレビューでの比較と各所の展示販売場巡りを終え、さらにその次の日には2体のVOCALOIDの新規所有契約を終えてくるという、なんともせわしくもめまぐるしい展開だった。
     さらに数日後の納品予定日の、面白いくらいにガチガチに緊張したCULの顔も、これ以上ないくらい緩みきったマスターの顔も、とても良く覚えている。私はといえば、極度の緊張や歓喜に満ちた興奮よりも、急に足場が不安定になってしまったような心許なさと居心地の悪さを強く感じていた。そこにあったのは、背中にべっとりと張り付いて拭えない居場所を追われるような焦燥感と、さらにそこから派生する緩やかな拒絶と恐怖。落ち着かない心を無理矢理覆うように、とにかく体を動かしていたくて、朝から掃除ばかりしていた。
     その日、3周目のの玄関掃除に没頭していたときに、彼女たちはやってきた。つまり、彼女に最初に出会ったのは、他でもない、私だったのだ。
    「はじめまして」
     凛として透き通った声に振り向くと、目を見張るほどに美しい真っ白な髪と強い日差しにいまにも溶けてしまいそうな滑らかな肌、光の加減で色味を深くする宝石のような碧い瞳をもった少女が、庶民的な住宅街のごく一般的な門先に、圧倒的な存在感で佇んでいた。
    「は、はじめまして」
    「こちらが武井さんのお宅ですか? 私、IAと言います。この子はラピス。このたび、こちらにお世話に――……」
    「や、あ、その、すみませんっ。そうです、うちです。うちなんですけど、今、マスター呼んできますので、少々お待ちください」
     私は玄関の戸を拭くために持っていた雑巾と履いていたサンダルを放り出して、慌てて奥の居間へと走った。
     こちらに真っ直ぐに向けられていた、射るような瞳と、綺麗な声と、感情の乗らない綺麗なだけの発音。直感的に、言わされている、と感じた。もしくは、用意されたものをただただ読み上げているだけ。そこにこめるべき何かをどこかに忘れてきてしまったような感じを受けた。例えば、私たちに人の感情に似せた何か、つまり心というものがあるとして、それが目に見える一本のネジのような形をとっていたら、それをそのまま取り付けるのを忘れて置いてきてしまったような。
     マスターが待つ奥へと通して、彼女たちが談笑するのを廊下からCULと並んで眺めていたけれど、談笑といってもにこやかに話しているのは主にマスターであり、たまにラピスと名乗ったドールのようなVOCALOIDが微笑む程度で。IAと名乗る少女は、マスターに初対面で指摘されてあっさりと敬語を改めたわりに親しげになったわけでもなく、始終ニコリとも笑わなかった。
     新しいおもちゃをふたついっぺんに手に入れた子どものようにはしゃぐマスターは、けれども興味のほとんどは15cmのラピスちゃんに注がれていて、その場から逃げ出す算段でいっぱいいっぱいなCULを横目に、私だけがいつまでも変化しない表情を仔細に観察するように彼女をいつまでも眺めていた。

     今思えば、その不完全さに吸い寄せられるように、私は彼女に惹かれていたのだ、と結論付けることができる。
     彼女の空白は、そのまま私の空白になった。
     しかし、何故だろう、彼女の心の空間をどうにかして埋めたいと想えば想うほどに、満ち溢れて、胸が詰まるのは私のほうなのだ。私の感情は今にも氾濫してしまいそうなほど、こんなにもたくさんたくさん胸の中で渦巻いているというのに、それでも、足りなくて。
     そしていつからか、強い願いに変わる。
     何かが欠けた彼女の、その“何か”に“私が”なれないだろうか、と――

    「ゆかり、ちゃん?」

     彼女の指が私の指に遠慮がちに触れて、思考がぷつりと途切れる。
     純真無垢な碧い瞳でもって、彼女は私にどうしたのかと訊ねる。内面までそっくり映し出すような鏡のような瞳に映りこんだ胡乱な瞳が、そのまま答えだ。
    「少し、ぼーっとしてしまいましたね。IAちゃんに出会った時の事を思い出していたんですよ」
     彼女は私の言葉ではなく、私の心の奥底まですっかりさらって見透かしているかのように私の目を見つめ続けるために、にわかに頬が熱くなるのを感じながら、私はそっと目線を落とした。
    「IAちゃんも変わりましたね」
    「そ?」
     こっそりと盗み見た、瞬きをひとつしてから小さく首を傾げる彼女の唇の端は、よくよく見ないとわからないほどに僅かではあるけれど、ほんの少し上がっている。
     その小さな笑みの意味を量りかねて、もてあます。一年前なら、そんなことはなかったのに。
     彼女の中に芽生えたものはなんだろうか。芽生えさせたものはなんだろうか。私はまた不完全な問いに囚われて、身動きが取れなくなる。
    「IAちゃんは、」
    「ん?」
    「いや、なんでもないです」
     私は、そっと、すぐ隣の肩に寄りかかる。
     髪がかかったのか、くすぐったそうに鼻を鳴らしたものの、IAちゃんは口を開くこともなく、大人しく前を向いている。
     ああ、私は、ずっと前からこうしていたかったのかもしれない。
     体温を分け合えるほどに近くに寄り添い、同じ方向を向いて、同じものを見ながら、同じ時間を過ごす。
    「ねぇ、綺麗だよ」
     液晶画面を彩る遠い北の地方の映像は、暖色のモザイクとなった広葉樹が稜線を描いていた。
     きっとあの紅や黄や橙は、もうしばらくすれば、近所の駅向こうの山や商店街の銀杏並木にもやってくるだろう。
     紅葉した葉が落ちれば、木枯らしが吹いて、じきに冬が来るだろう。また町を覆うような白銀を一緒に見られるだろうか。
     そして、春が来て。
     夏が来る。
    「ええ、そうですね」

    あなたの隣で、また季節が廻りだす。  

      fin.




    この物語は、2013/9/16 IA Revolution におきまして、
    あ~るわい@柚子之屋にて無料配布されましたssペーパーの加筆修正版です。


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  • 【結月祭】遠く聴こえる笛の音、太鼓【twitter連動企画】

    2013-10-05 23:502

    ※この物語は、Twitter上で@yukaia_botにて時間指定の予約投稿機能を利用してリアルタイム風に連投した会話文【ツイート】を、大幅加筆修正した
    ものです。
    (togetterまとめ


    『遠く聴こえる笛の音、太鼓』


     始まりは、いつものようにふらふらと一人で散歩に出かけたIAちゃんが大事そうに持ち帰ってきた一枚のチラシだった。おそらく、商店街の井戸端会議友達のおばちゃんにでももらってきたんだろう。
     私に無言でそのチラシを差し出したIAちゃんは、私が目を通し反応するのを待っている。
    「明日、秋祭り……ですか?」
    「そう、山の上の神社のお祭り」
     駅向こうの山のことを言っているらしい。確かに商店街の裏手に古くて立派な鳥居が佇んでいるのと、そこからひっそりと伸びる石段は見たことがあった。
    「そういえば、先週から商店街に提灯がかかっていましたね」 
     こくりと彼女は頷いて、珍しくやや意欲的な様子で私の袖を引いた。
    「ねぇ。行こう、行こう」
    「そうですねぇ……。マスターに相談してみないと」
    「いいよー」
    「うわっ」
     突然、私の右肩の後ろのあたりからマスターがひょこっと顔を出した。
     私が面喰って飛び退くと、そんなに驚くことないのに、と欧米スタイルでやれやれと肩をすくめる。
    「いつからそこにいたんですか」
    「え、いあぽんがゆかりんにチラシ渡してるときくらいから」
    「一部始終じゃないですか」
    「階段の前に突っ立ってるのが悪い。っていうか、いあぽんは気付いてたよね?」
     IAちゃんは何でもない風な顔で無言で首肯する。
    「そうですか……」
    「で、お祭り行きたいんでしょ。皆で行ってきなよ。うちはお祭り特別シフトでバイトだけどさ」
    「え、と」
    「そのぶんのお給料出るから、ゆかりん達にお小遣い渡せるしね。結果オーライだね」
     はは、と自嘲気味な乾いた笑いと、財布から無造作に抜いた一万円札を私の手の上に残して、マスターは私たちの間を抜けて階段を上り、自室へと去って行ってしまう。
     どこか疲れた背中が消えたほうをしばらく見つめてから、顔を戻すと、IAちゃんがやわらかそうな睫毛に縁どられた瞼を瞬かせることもなく、私の手元をじっと凝視し続けていた。
    「IAちゃん?」
     確かに、私たちにとっては気にならないほうがおかしいほどのなかなかの大金、ぽんと渡されはしたけど、なんと我が家の約半月分の食費相当だ。両手で押し戴くようにして乗せられている札は、紙切れ一枚の質量しかないのに、やたらと重く感じる。
    「これで、焼きそばとたこ焼きとお好み焼きと焼き鳥とじゃがバターといか焼きとフランクフルトとラムネとチョコバナナとりんご飴とかき氷が食べれる?」
     今日一日で仕入れたらしい膨大なお祭りグルメ情報を披露しながら、彼女は質のいいローマングラスのような瞳をきらきらさせながら私を見つめてくる。彼女が見ているのは私ではなく想像の中の露店の食べ物だとわかってはいても、期待と熱のこもった視線がこちらに向けられるのはとてもじゃないが落ち着かない。
    「全部は無理ですけど……、だいたいは買えると思います。でも、無駄遣いはだめですよ……?」
    「うん」
     いつの間にか明日の予定が行く方向で確定していたが、IAちゃんが楽しみにしているというだけで、もうどうでもよくなってしまっていた。
     


     目覚めてすぐにカーテンを引いて確かめた朝の空は、雲が占める面積が少し多いように感じたが、秋らしい空の高さを感じる晴れだった。
     昨晩見た天気予報も、日付が変わるくらいまでは降水確率はかなり低いようだ。
     催事や露店が準備を終えるのは昼過ぎからということで、それに合わせて家を出る予定になっている。というか、放っておくと朝一番で飛び出していきそうだったIAちゃんを昨晩から言い聞かせて止めたのは私だ。
     朝寝坊というほどでもないけどゆっくりめに起きて階下に向かうと、大あくびをしているマスターに出会った。
    「おはようございます、マスター」
    「おはよー。お、朝から気合入ってるね」
     なんとなく新しい服などおろしてしまって、せっかくなら買ったばかりのブーツも出して行きたいなどとこっそりと浮き立っていた心境をぴたりと言い当てられてしまい、急に恥ずかしくなって俯く。
    「お祭りって、何着ていいのかわからなくて……」
    「夏祭りなら、私の浴衣、貸してあげられたんだけどねー」
     浴衣。なるほど、そういう選択肢もあるのかと感心する。朝晩はだいぶ冷え込み、風も強くなってきた10月では季節外れになってしまうが、ちゃんと機会があるなら一度くらい着てみたいものだ。
    「そもそも、マスター、着付けなんて出来るんですか?」
     和服というものはよくわからないけど、よくわからないからこそ着るのが難しそうだなとは思う。
    「授業で習ってねー、きちんとした着物でなくて浴衣くらいならできるよ。自分一人では着れないけど。あと、髪のセットやれる人いないから、かるるんやいあぽんは難しいけど、ゆかりん、そもそもアップにできないから必要ないしね。最初からうなじ美人だし」
    「ひゃっ、変なとこ触らないでください!」
     マスターの意外な特技に見直したところで、このセクハラでプラスマイナスゼロに戻ってしまった。
     私はまだ両手をわきわきと動かしているマスターを牽制の意味で強くひと睨みしてから、話題を変えた。
    「で、IAちゃんは?」
     自室はもぬけの殻であったことは起きたときに確認済みだ。いつも、誰かが起こすまで、むしろ起こしに行ってもなかなか起きない彼女が私よりも早起きなことはなかなか珍しい。
    「ふふ、見たら驚くよ」
    「?」
     驚くようなIAちゃん、とは。訝しむ私に、マスターは、見たほうが早いよ、と面白がるような笑みを浮かべて顎をしゃくる。
     私が眉間の皺を深くしながら振り返ると、そこには話題の人物が立っていて。
     私は慌てて笑顔を取り繕い、できるだけ丁寧に朝の挨拶を交わす。
    「おはようございます、IAちゃん」
    「おはよう、ゆかりちゃん」
    「ちゃんと寝れましたか?」
    「うん、大丈夫」
     そこまで会話をしてから、私はIAちゃんの頭から足もとまでをまじまじと観察する。
    「……また、随分と気合の入った格好ですね」
     IAちゃんは恥ずかしがるどころか、逆に、誇らしげに胸を張った。
    「えーとね、股引に腹掛に鯉口シャツっていうんだって。あと、靴には地下足袋。靴下みたいなのに靴なの。お祭りに行きたいって言ったら町内会長さんが全部貸してくれたの」
    「それはそれは」
     昨日の今日で、朝も早くから、いつの間にとしか言えないような準備万端具合だ。もしかしたら、行くと決まる前から借りていたのかもしれない。
     似合っているかと訊かれたら、いつものふわふわした女の子らしい洋服とのギャップがありすぎてどうにも見慣れないが、何種類もの鉢巻の巻き方を教えてくれようとする彼女が纏う嬉々としたオーラは最高の衣装だ、とも思う。
    「でね、腰についてる巾着がお財布になる」
    「そうそうお小遣いは一人2500円までですからね」
     今、私の手元には、マスターから渡された一万円札から両替したお祭り用の4人分のお小遣いがある。IAちゃんの分を手渡すと、いそいそとしまい込んでから、なにやら難しい顔をした。
    「取捨選択が必要不可欠……」
     きっと彼女の頭の中では、まだ見ぬ美味しいものとその対価の計算が目まぐるしくなされているのだろう。真剣になれば真剣になるほど、その姿はとても微笑ましい。
    「ふふ、難しく考えないほうがいいですよ。ないものはないんですから。ある分だけ楽しめばいいんです」
    「そだね」
     あっさりと頭を切り替えて、すっきりとした顔で頷く。
    「なーにー、胸の話?」
     またも、突然現れたマスターは、的確に人の胸をえぐるような口撃をかましてくる。そんなことでいちいちえぐれていてはたまらないが。
    「さすがに怒りますよ、マスター。ほら、今日明日は朝からバイトなんですよね。さっさと行ってください」
    「やーん、冷たい」
     大袈裟に飛び跳ねて私のつっこみ(物理)の射程圏外へと逃げたマスターの背中にはショルダーバッグが揺れており、もう出かけようとしていたことがわかる。ちょっかいなんて出してる暇はないんじゃないだろうか。
    「居酒屋のバイトも楽じゃないんだよ。お祭りの時は店の前で焼き鳥焼いて、ビールと枝豆売ってさ。これがね、売れる売れる」
    「かきいれ時、ですか」
    「そ。あとで店に遊びにおいで、おまけしてあげるから」
    「あ、はい」
    「うちの分まで楽しんできてね」
     細く長く深呼吸のようなため息をついてから、吹っ切れたようにいたずらっぽく笑ったマスターは、そのままくるりと廊下の向こうにターンしていった。
     
     居間では、ジャージ姿のCULが、出したばかりのまだコンセントも入れていない炬燵を独り占めしていた。天板の上ではラピスちゃんがみずみずしい黄緑の早生みかんで大玉ころがしをしている。
    「で、CULは本当に一緒に行かないんですか?」
     昨日話を出した時からあまり乗り気でなかったような気もするが、今朝になって、朝一番でおはようの代わりにいきなり、今日は行かないから、と言われていたのだ。行きたくないのを無理やり引っ張って行っても仕方ないと承諾したのだが、一応確認しておかなければならない。
     もし一緒に行くならば、そろそろ着替えるなりの準備をしてもらわなければならないし。
    「うんにゃ、人込みはあんまり好きじゃないからなー」
    「僕も、人が多いところは危ないですしね」
    「あれ、ラピスちゃんもですか」
     虚を突かれる。昨日も、始終ダルそうなCULとは違って、にこにこしながら話を聞いていたので、IAちゃんにくっついてくると思い込んでいた。
    「2人で、楽しんできてくださいね」
    「ああ、せっかく2人っきりなんだからな」
     ニコニコ、というか、それを通り越してニヤニヤしている2人に、掛ける言葉を失う。
    「え、あの、その……」
     なにかとんでもない罠にはめられたというか、袋小路に追い詰められた感覚。
    「「行ってらっしゃい」」
     なんてことを言ってくれるんだという焦りと少しの憤りと、本当に目の前の二人を差し置いて自分たちだけが楽しんできていいのかという良心の呵責との間で困惑する。
    「……」
    「ここは、素直に行ってきますでいいんだよ。あたし達の分のお小遣いも渡すから、なんかお土産買ってきてくれればそれでいいし」
     それは、ますます悪い気がする。それでも、どうしようもなくて、私は深々と頭を下げた。
    「はい、わかりました。ありがとうございます」
    「だから、行ってきますで、いいんだってば」
     顔をあげなくてもCULがやわらかく苦笑しているのが雰囲気でわかる。私はしばらく頭を下げたままで、握ったハンドバッグの中の財布の重さを再認識していた。

     居間を出ると、うろうろしているIAちゃんに出くわした。早く出かけたくてしょうがないらしい。こういう時の行動力にはいつも心臓に悪いほど驚かされている。
     そしてきっと私が変な顔をしていたのだろう、ててて、と駆け寄ってきたきた彼女は首を傾げて私の顔をぐっと覗き込む。
    「どうしたの?」
    「随分気を遣われてしまいました……」
    「?」
    「いや、CUL達が留守番すると言っているので、皆の分まで楽しみましょう、って話です」
    「うん、もちろん」
    「……さて、行きましょうか」
    「ん」

     私は枯葉色のブーツをおろして先に履いて玄関を出てから、IAちゃんが苦労して慣れない地下足袋を履くのを待っていた。
     見上げた空は高く高く、日差しもやわらかく降り注いでいて、朝方の肌寒さは感じられない。
     遠くに伸びていく飛行機雲が光るのを眺めていて油断していたところに、IAちゃんが背後から突然飛びついてきて、慌てて抱きとめる。
    「楽しみだね」
     危ないと注意する前に、自然と笑みがこぼれてしまい怒るに怒れなくなってしまった。
    「そうですね」
     2人でちゃんと行ってきますを言ってから、戸締りをして、改めて家の門の前に並ぶ。
    「最初に、神社にお参りしてからがいいですかね」
    「うん」
     見慣れたなんの変哲もない住宅街の道路を往く。この辺りは提灯もなく、普段通りの装いのため、IAちゃんの祭り衣装だけが異彩を放っていた。
    「山の上のお社まで行くのは初めてですねぇ」
    「うん」
    「お賽銭用の小銭は、持ちましたか?」
    「あ!」
     電光石火の素早さで、慌てて踵を返し、玄関へと戻ろうとするIAちゃんの腕を辛うじて捕まえる。この猪突猛進の少女をここで逃がすと、あっという間に置いてかれてしまうだろう。
    「大丈夫ですよ。小銭ならわりと持ってますから」
     どうしてレシートと細かい小銭は財布にどんどん増えていくんだろうか。

     住宅街を抜け、駅前に出る頃には、独特の笛の音と鉦と和太鼓のリズムの祭囃子が聞こえ始める。
     バスロータリーから向こう側、商店街周辺の車道は、神輿や山車が通るために終日歩行者天国となっている。普段、車がせわしなく行き交う場所に車の姿がまったくなく、のんびりと人が歩いているのは、それだけで非日常感の演出になっていた。
     そのうえ、商店は各々テーブルやコンロや什器を店先へと並べ食べ物や飲み物を販売しており、売り子の呼び込みの声だけでもなかなかの活気となっている。
    「人、多いですね」
     普段の休日の昼間なら絶対に見ない人の数で、それでもまだ、お祭りが始まったばかりなことを考えれば、まだまだ人は増え続けるに決まっているし、マスターが言うには日が暮れる頃にはこの道路が人でぎっちりと埋まるらしい。
    「うん、すごいね。よくわかんないけど、お祭りって感じする」
    「ですね」
    「はぐれないようにしないと」
     そう言いながら、すでに角のお肉屋さんの前に並んだコロッケとフランクフルトにふらふらと誘われているIAちゃんは、髪の色を気を付けて見ていなければあっという間に人の波に紛れて見失ってしまいそうだ。
    「…………」
    「ゆかりちゃん?」
     ほら、人込みを歩くのに慣れていない私たちの距離はすでに手を伸ばしても届かないほどに離れ始めている。
    「……いえ、あの」
    「……?」
    「手、繋ぎませんか。はぐれちゃうと大変ですし……」
    「別に、大丈夫だよ」
    「え」
     なんの根拠があって大丈夫と言いきるのかは不明だが、さっさと前を向いて歩いて行こうとする後ろ姿に、勇気を振り絞って伸ばしかけた右手の行方を定められずにいるまま私は肩を落とした。
    「ゆかりちゃんはどこにいても私が見つけるし」
     前を向いたまま、彼女は言う。
    「……へ? わっ」
    「ほら、早く行こう。ご飯はお参りのあとなんでしょ」
     聞きかえそうとしたところで、くるりと髪をなびかせながら綺麗に振り向いた彼女は、無駄のない所作で手を伸ばして私の手首を捕まえて、いともたやすく連れ去ってしまうのだった。

     人と人の間を風のようにすり抜けながら、商店街のはずれまでやってきた。
     駅や商店街に向かいあうように切り立った山の断面に対して、その側面にあたる方に、立派な朱塗りの一の鳥居がある。
     静かな木陰がちょうどいいこの辺りは犬の散歩やランニングに訪れる人をよく見るが、今日は周辺にずらっと露店が並び、法被を羽織った幼い子どもたちが駆け回る賑やかさを見せている。
     そして、目の前には――。
    「この石段を上まで登るんですよね」
    「え、ちがうの?」
    「や、あってると思いますが、大変そうだなぁと」
     木々に隠れて頂上までは見通せず、どこまで登ればいいのかと、登る前から徒労感が増す。
    「千里の道も一歩から」
    「千里って約4000kmですよね、実際に千里もあったらさすがにそれは引き返したいのですが……」
     人の話を聞いているのかいないのか、彼女は元気よくその一歩目を踏み出し、二歩、三歩とほとんど駆け出していってしまう。
    「いくよー」
    「ちょ、まっ」
     彼女は白い一陣の風となって、私の制止の声すら振り切るようにその姿は深い緑の中をどんどん遠ざかっていく。
     仕方なく自分の体に言い聞かせるように気合を入れ、歯を食いしばってその背中を懸命に追った。

    「ひゃくにじゅーいち、っと」
     IAちゃんは最後の一段に足をかけ、達成感に顔を輝かせている。
     私は肩で息をつき、よれよれになりながら、やっとのことでその姿をぎりぎり見失わない位置を追いすがっていた。震える膝を叱咤しながら、頂上ではやくも祭りの覇者のような貫禄をかもし出している彼女の元に歩み寄った。 
    「何がですか」
    「この神社の石段の数」
    「ああ、そんなに登ってきたんですね」
     数えていたことにも驚きだが、一段一段がしっかりしたこの石段を登ってきた自分にも驚きだ。
     そもそも、地下足袋で走る者に、ヒールのあるおろしたての硬い合皮のブーツで追いかけたのが間違いだった気がする。
     振り返ると、今しがた自分の足で登ってきた石段がつづら折りになって木々に隠れ切れ切れになりながらずっと伸びている。そして、眼下にパノラマで広がる景色。それは、前だけ見据えて走っている間には目に入らなかったもので、はっとするほど鮮明だった。
    「高いところからの眺めはいいですね。自分たちの住んでいる町並みがこんなに綺麗だなんて知りませんでした」
    「うん」
     隣に並んだIAちゃんも、目を細めて、ミニチュアの町並みを楽しんでいるようだ。
     心地よい秋風が2人の間を吹き抜けていく。
     しばらくけして重苦しくない無言を楽しみながら佇んでいると、ご近所の顔見知りの老夫婦が境内の方からやってきたので、挨拶を交わす。それをきっかけに、どちらからともなく、足並みをそろえて二の鳥居をくぐった。
    「さ、行きましょっか」
    「うん」
     それほど広くない境内に、鳥居と狛犬と御神木と手水舎と社務所そして社殿などがたちならんでいる。
     お祭りということで、神社にはそこに詰める人と参拝者とで盛況であるらしい。拝殿とおみくじが引ける建物の前にはそれぞれ十人前後の列ができている。私たちは、年季の入った木製の立て看板に従い手水舎で両手と口を清めてから、拝殿の最後尾についた。 
    「にれー、にはくしゅ、いちれー」
    「その前に、鐘を鳴らしてお賽銭を入れるんです」
     こちらも、先ほどと同じような立て看板が、正式な神社の拝礼の仕方が書かれており、それに倣う。
    「おおー、がらんがらんいうー」
    「遊んじゃだめですよ……」
     ボーカロイドの願いをかなえてくださる神様がいるのかはよくわからないが、神社には八百万も神様がいるそうだし、楽器か機械の神様あたりが手を貸してくれてもおかしくないとも思う。まぁ、気の持ちようというやつだ。
     今来た参道を戻りすがら、何故かやや声を潜めてIAちゃんが私の耳元で訊ねる。
    「何をお願いしたの?」
    「えーと、無病息災、家内安全、とか」
     そう答えると、何故か一瞬きょとんとしたIAちゃんに、自分が何か変な事を言ったかと焦る。
     そういうIAちゃんは、と訊ね返す前に、関心したように頷きながらその答えを口にした。
    「あ、そっか。そういうのお願いすれば良かったのか。今日、ゆかりちゃんと楽しく過ごせますようにってお願いしちゃった」
    「え」
     それは、どういう意味で?
     もちろん直接訊けるわけもなく、心臓がむやみやたらとうるさくなっってどうしたらいいかわからない。
    「お願いし直してくる」
     すでに回れ右をして財布の中の500円を取り出してにらめっこしている彼女に追いついて、さりげなく10円玉を握らせる。
    「律儀ですね。あ、付き合いますよ」
    「うん」
    「今度は私も今日のことお願いしたいです」
    「ううん、いいの」
    「……どうしてですか?」 
    「だって、神様にお願いしなくても、ゆかりちゃんと一緒なら楽しいもん」
     爆音が鎮まり始めた心臓が、今度は止まってしまうかと思った。
     実際、思考とともに足は止まってしまい、結局IAちゃんは一人でもう一度大鈴を鳴らしに行ってしまった。
     満足げに戻ってくる姿を見て、私はいてもたってもいられなくなり、紅葉色のフード付のコートを翻し、駆け出していた。
    「ゆかりちゃん? あれ、どうしたの? まってってばー」

    「登るのは大変でしたが、下るのはあっという間ですね」
    「だって、ゆかりちゃんがどんどん行っちゃうんだもん」
     さっさと追いつかれてしまってバツの悪い私はそれを聞かなかったふりをして、ぐんと標高の下がった周りをぐるりと見回す。
    「さぁ、何食べましょうかねぇ」
     IAちゃんは小さなちりめんの巾着を両手で握り締め、きょろきょろとあたりを見回す。
    「えーと」
    「何でもいいですよ」
     周りはあっちもこっちも露店で、そのほとんどが飲食物を扱っており、まじめに目移りしていたら目を回してしまいそうだ。
    「えーとね、えとね、えとええと……」
    「もちろん、マスターにいただいたお小遣いの範囲でですが」
    「……」
     ついには黙り込み、美術展に飾られた彫刻のように微動だにしなくなってしまった。
     私はその肩をゆさゆさと揺す振り、硬直がとけたところで手を引いた。
    「とりあえず、ぐるっと見て回ってみましょうか。何か気になるのがあったら言ってください」
    「うん」
    「まずは、お好み焼きとか焼きそばとか、おなかにたまりそうなものがいいですかねぇ」
     お祭りの日は、空気にソースの成分が含まれている気がする。それは、とてもとても食欲を刺激する成分だ。
    「ヤキソバ食べたい、かも」
    「ふふ、いいですよー」
    「でも、おんなじヤキソバでも、あっちにもこっちにもあるんだね」
     露店はもちろん、鉄板一枚でできる焼きそばは屋台料理の定番であるらしく、商店街のほうでもたくさんみかけた気がする。
    「じゃあ、ぐるっと一周回って、一番おいしそうな焼きそば屋さんを探しましょう」
    「うん」
     山車や神輿は町内を隅々までまわっているらしいが、私たちが目当てにしている店が並ぶ“お祭り”の範囲は、商店街のアーケードの端から端と、隣接した公園、そして鳥居周辺の路地一帯。じっくりひとつひとつ見て回るのでなく、たとえば、焼きそばを販売している場所だけを探しながらなら、全部を見て回るのに半時間もかからない。
     アーケードのほう、共有地で商店街の青年部が出しているテントの前でIAちゃんは私の手を引く。
    「ゆかりちゃん」
    「はいはい、ここでいいんですか?」
     行列というものはそれ自体が人を呼ぶもので、人が並んでいればおいしそうに見えるものだ。IAちゃん的には、単純に、上に乗っている半熟の目玉焼きが決め手になったのかもしれない。列の後ろに並ぶ。
     次で自分たちの番となったところで、2人で同時にそれぞれ財布を出し、顔を見合わせる。
    「思ったんだけどさ、2人ではんぶんこずつしてけば、2倍の種類が食べられるよね」
     限られた金額の中でのやりくり的には、非常に有用な戦略であると思う。
    「まぁ、そうですね」
    「ゆかりちゃんはそれでいいの」
    「私も同じこと考えていましたから」
    「さすがゆかりちゃん! 大好き!」
    「……あ、ありがとうございます」
     私はIAちゃんに抱きつかれ、青年部の人たちに笑われながら、五百円玉と焼きそばのパックを交換して本日最初の戦利品を得た。もちろん、割り箸は二膳で。
    「はんぶんこー、はんぶんこー」
    「はいはい」
     列から離れて、輪ゴムをはずしたパックを割り箸ごと、やたらと上機嫌なIAちゃんに明け渡す。
     きっとお腹を空かせているのだろうと、先に食べていいように渡したのだが、彼女は何故か綺麗に割った箸でつかんだ一口めを、自分で食べる前に私の方に差し出した。
    「あーん」
    「あ、あの、自分で食べられますから……」
    「そ?」
     彼女は特に気にすることなく、そのまま自分の口に放り込んで、おいしいと満足げにつぶやいた。
     さらに、近場でたこ焼きとお好み焼きも買って、仲良く分けて食べることにした。露店のものより、商店街で出してるもののほうが、値段に対してボリュームがあってリーズナブルな気がする。
    「あと、お肉食べたいなー」
    「お肉屋さんのフランクフルト、おいしそうでしたね」
     ここにきて一番最初に目に入ったフランクフルトとコロッケを思い出す。
    「チキンステーキと焼き鳥もおいしそうなんだよ」
    「「あ」」
     焼き鳥、と言われて、唐突に思い出した。IAちゃんも自分で口に出して同時に思い当たったようで。

     向かった先は、駅前のロータリーを挟んだ向かい。市庁舎の並びのテナントビルの地下に、マスターのバイト先の一つであるフランチャイズの居酒屋が入っている。
     今は、ビルの前の遊歩道を、上階のイタリアンレストランと分け合って出店しているようだ。
     ちょうど目の前でお客さんが途切れたので、せっせと生ビールサーバーを操っている店名の入ったTシャツ姿のマスターを見つけて声をかける。
    「マスター!」
    「お疲れ様です」
     真面目な顔は、私達の姿を見て取ると、家の中で見せるふんにゃりした笑顔になった。
    「おー、いあぽん。ゆかりんも、よくきたね。あー、結局かるるん達は来なかったんだ?」
    「ええ、人込みが疲れるとかで」
    「あの子らしいね」
     けらけらと笑って納得しているので、それ以上の説明はしないでおこうと思う。
    「てんちょー、てんちょー。ほら、この子達がうちの子!」
     マスターは、隣で汗だくになって焼き鳥を焼き続ける体格の良い強面の男性に声をかけると、嬉々として私達を紹介した。
     ぐっと額の汗を拭ってこちらを振り向いた店長さんは、豪快に笑うとわりと人のよさそうな印象になった。
    「おう。これがボーカロイドってやつか。なるほど、別嬪さんだ! 武井ったら店でもいっつも、うちの子うちの子ってな、うるさいんだよ」
    「そんなことないですよー」
     ほんと下手なノロケよりたちが悪いからな、と、にやりと笑う店長さんとそれに同意する他のアルバイトスタッフさん達の言葉は、マスターが若干慌てている様に見えるので、あながち嘘ではないようだ。 
    「ほら、もってけ」
     焼きたての串を無造作に7,8本、耐油紙の袋に突っ込んだものを渡される。
     あつあつの袋は、強く持っていると火傷しそうだ。
    「あ、ありがとうございます。でも……」
    「大丈夫、大丈夫。武井の給料から引いとくから」
    「えー、てんちょー、ひっどーい」
    「ははは、冗談だ」
     さらにお隣のイタリアンレストランの店主さんからマルゲリータピッツァをふた切れとプロシュートの切れ端をもらい、大収穫に恐縮しながらその場をあとにした。

    「マスターって呼ばれていないマスターって不思議」
     IAちゃんが、ねぎまの串にかぶりつきながら呟く。
    「そうですねぇ。私達の知らないマスターの一端を見た気分です。私達の知ってるマスターはマスターの一部でしかないと知ったというか」
    「だねー」
     なんにせよ、家の外でもマスターが楽しそうにしていて良かった、と思った。
     
    「ねぇ、喉渇きません?」
    「あ、じゃあね、ビー玉入ってるラムネ飲んでみたい」
     大きなブロック状の氷に乗せられたラムネを2本購入する。
     2人ですぐそばの車道の縁石に座り込んで、口をつけた。こんなお行儀の悪い行動が許されるのも、お祭りという非日常だからこそ。
     あちこち歩き回って少し汗ばんだ身体に、シュワシュワと喉を通る甘酸っぱい液体は冷たくて気持ちいい。
    「初めて飲みました。ビー玉は栓の代わりになっていたんですね。面白いです」
    「今日ははじめてがいっぱいだね」
     強い炭酸飲料はそれほど得意でなかったが、舐めるようにゆっくりと口に含みながら、たまにはいいかなと思う。
     IAちゃんは、私が2口目を飲みこむ頃にはすっかり瓶を空けて、陽に透かしてビー玉をからころと鳴らしている。
    「ところでさぁ、ゆかりちゃん」
    「なんでしょうか」
     秋の陽光がラムネ瓶を通して青く染まり、IAちゃんの頬に落ちる。そんな横顔を眺めながら、私はのんきにちびちびとソーダ水を消費する。
    「足、痛い?」
    「え?」
    「その靴、新しい靴だよね。靴擦れ?」
     突然言い当てられて、瓶が汗で滑りそうになった。嘘はつけないと感じた。
    「あー、はい。いや、でも歩けないほどじゃないですよ」
     これは、本当。あと数時間くらいなら我慢できないほどじゃない。
     IAちゃんは無言で瓶から私の足、そして私の瞳へとそのまっすぐな視線を移動させる。
    「ほ、ほら、IAちゃんといれば痛みもやわらぐっていいますか」
     これも本当。隣にいるのがIAちゃんじゃなければ、我慢なんてしないしできなかった。そもそもかっこつけて秋服を一式揃えてお洒落なんてしなかったし、ましてや背中を追って急な階段を全力疾走なんてしなかった――あ。それを彼女に気づかれてたら? 彼女が自分のせいだと負い目に思っていたら?
    「……ゆかりちゃんが痛いなら、私も痛いけどなぁ」
     感情の乗らない声は、それでも、じゅくじゅくと皮の破けているだろう自分の踵より、痛々しかった。
    「や、えーと、そんな」
    「おんぶしよっか」
    「は!?」
    「だっこのほうがいい?」
    「……いや、遠慮しておきます」
     平坦な声は、冗談を言っているのか本気なのかさえわからない。
    「じゃあ、ちょっと待っててね」
    「え?」
     コロン、といい音がしてラムネの瓶が私のすぐ隣のアスファルトの上に残され、手ぶらになったIAちゃんは追いかけるという判断をする暇もなく、雑踏の中に吸い込まれてしまった。
     座り込んでいるために視線が低く、人込みの足元しか見えないために、真っ白な髪を目印にして姿を追うこともできない。
    「あれ、私、置いてかれ……」
     ずっと隣にあった体温や息遣いが離れて、途端に遠く意識の外にあったざわめきが近付く。日がだいぶ傾いていて、冬が近づいてきている秋の独特の寒々とした寂莫感も増す。
     雑踏の中、周りに人が多ければ多いほど、孤独は深いと知る。自分の部屋で一人でいるのとはわけが違う。
     一人で帰れないほど足が痛いわけでもなかったが、待たずにここを離れる選択肢は最初からなかった。
     自宅からすぐのよく知った町にいるのに、先ほどまではわくわくしかしなかった見慣れない人込みや絶えない耳慣れない音楽のせいで、見知らぬ遠い町で迷子になったような錯覚を起こしながら、体感時間を極限まで引き伸ばされた1分、1秒を、待った。

    「おまたせ」
     気づいたら、降って湧いたかのように、IAちゃんは目の前に立っていた。
     時計の針が数えられる時間なら、おそらく10分前後であったと思うが、体感的には一日千秋を身をもって知った感じだ。
    「あ、おかえり、なさい……」
    「?」
    「どこにいってたんですか」
    「これ」
     ここを離れるときは手ぶらだった彼女は、真っ白なレジ袋を提げていて、私に差し出す。 
    「ビーチサンダル、ですか」
    「ごめんね、あんまりちゃんとしたのじゃなくて。ゆかりちゃんの靴、かわいいしすごく似合ってるけど、ゆかりちゃんが痛いのはやだから、脱いで」
     IAちゃんはいつもの何を考えているのかわからない無表情でそこまで一息に言うと、すごく綺麗な姿勢のまま、すっと膝を折って、ためらうことなく私のブーツに手をかけた。
    「え、あ、うん」
     なんて自分勝手で優しい命令形なのだろうかとぼんやり思いながら、私はただただされるがままにブーツとソックスを脱がされて、サンダルを履かせられた。
    「大丈夫? いこっか」
    「はい」
     ぺたりぺたりとゴムが擦れる足音は、こつこつと鳴るヒールの音よりもずっと、隣で鳴る地下足袋の音と合っていて、どこにいても聞き分けられるような気がした。
     ずいぶん間抜けなシンデレラと和風な王子様だな、と自分で思いついて、自分だけでおおいにうけた。

     なんでもなかったように甘いものが食べたいというIAちゃんと、ラムネの空瓶を返しに行ってから、2人でチョコバナナを食べた。
    「日も暮れてきましたし、そろそろ帰らないとですねぇ」
    「最後にもいっこ甘いの食べたい。綿飴、りんご飴、あんず飴、ぶどう飴、べっこう飴……これは、迷う」
     すごく楽しそうに必死な様子に、笑みがこぼれる。
    「ふふ、迷いますねー。あ。あっちに飴細工のお店もありましたよ」
    「むぅ……」
     今度は彫像化することはなく、スパッと決まったようだ。
    「やっぱ、綿飴にしよっと」
     くるくると割り箸に巻き取られた白を、少しちぎっては口に運ぶ。
    「IAちゃんの髪の毛みたいですね」
    「ほんとだねー」
    「IAちゃんも食べたら甘いですか?」
    「?」
     ぽかんとした表情で見つめられてから、自分が何を言ったかに気付いた。
    「や、なな、なんでもないです」
     赤くなっているだろう顔は、夕日にうまく誤魔化してもらえているといいのだけれど。
    「ええと、じゃあ、あの、すみません、私はりんご飴買ってきます」
    「うん」
     その場を少しの間離れる口実で買ったつもりのりんご飴は、手元にきてからその色艶に心奪われた。
    「食べるのがもったいないくらい、綺麗な赤ですね」
    「食べなきゃもっともったいないよ」
    「それもそうです」
     透き通るような赤は舐めてもかじっても、甘かった。
    「ひとくちちょーだい」
    「はい、どうぞ」
     すぐになくなってしまう綿飴と違って、りんご飴はなかなか減らない。
     IAちゃんは豪快に真上からかぶりついて、飴とりんごをいっぺんに噛み砕いた。
    「甘い」
    「まぁ、砂糖の塊ですから」
     原材料だけ考えれば、ずいぶんとシンプルな食べ物だ。
    「ゆかりちゃんも甘い?」
    「え、なんでですか?」
     突然の問いに、内心首を傾げる。
    「ゆかりちゃんのくちびるとおんなじ色してるから」
    「……っ!! IAちゃん、それはいろいろと反則だと思います」
     爆弾発言の上に、目に入ったりんごについた彼女の歯型に、脱力して座り込まなかったのが奇跡なくらいだ。
    「?」
    「あれ、怒ってる?」
     靴擦れを察した機微はどこに置いてきたのか、彼女は不思議そうな顔をしている。
    「怒ってない、怒ってないですから、あとゆっくり100数えるまで話しかけないでください」
    「えー……。い~ち、に~、さ~ん――」
     素直に声に出して数え始めた横で、私は何度も深呼吸を繰り返した。
     ひゃく、まで言い終わると、彼女は子犬のような瞳で、数えたということを無言でアピールしてくる。
    「……さて、ずいぶんいろいろ見て回りましたけど、食べるものだけでよかったんですか?」
    「じゃあ、あれ、あれやりたい」
     すぐ目の前には、水風船。いや、指を通すゴムのついたそれは、
    「ヨーヨー釣り」
    「うん」
     何個取れてももらえるのは一個だそうで、すぐに釣り針を失った私も、4つ取れたところで飽きたIAちゃんも、それぞれ白いヨーヨーをぱしゃぱしゃいわせている。
    「おそろい」
    「はい」

     暗闇は濃くなり、対照的に、祭りの明かりは煌々としはじめた。
    「人、増えてきたね」
    「ああ、もう6時ですか。町中を練り歩いていた各々のお神輿が、神社に帰ってくるんですよ。見ていきますか、人が多くて大変かもしれませんが」
     言っているそばから、どこかの神輿が帰ってきたのだろう。団子になった人と祭囃子がすぐ背後まで迫ってきていた。
    「ゆかりちゃんと見るなら、なんでも楽しいよ」
    「え、そんな。あ、あの、ありがとうございます」
    「うん、いこ」
     大きなうねりとなった雑踏に、固く手を握り合って飛び込む。
     もう取り残されないように。

     人と熱気の塊が、大声を上げながら目の前を移動していく。
    「私、今日のこと、ずっとずっと忘れないと思います」
    「うん」
    「ずっとずっと、いつまでも」
    「うん」
    「……帰りましょっか」
    「うん」



    「ただいま帰りました」
    「ただいまー」
    「おかえりなさい」
    「おかえり。おみやげはー?」

    「「あ」」


    【終】