• ヒア・アフター感想

    2018-09-16 12:00
    プレミアム継続しながらブログ使わないのも勿体無いのでしばらく見たものとか読んだものの感想を書き溜めようかと。

    津波による水難事故にあい臨死体験で死後の世界らしきものをみてしまったフランスの人気女性ジャーナリスト、幼少時に触れた対象の身近な死者の声を聞き取れるが実直な性格のためその能力に苦しむ霊能力者、優しいがヤク中から立ち直れない母親を支えて生きてきたが、突如その相棒をなくしてしまった双子の弟の三者の視点で展開される。

    端的にいうと不思議な雰囲気の構成なのに見やすさも伴った変な映画。
    その理由はこの映画の「死後の世界」という中心要素を「多くの他人には理解されないけど、自分にはわかるもの」に容易に置換できる作りにあると思う。表現すれば多くの誤解を招く、自分も傷つく、大切な人間を傷つける、だから押し殺して隠そうとする。それでも自分に嘘はつけない、表現してしまう。そういったことはメジャーではないが、少なくない数の孤独を知る人間が体験してきたものだろう。
    で、そういう視聴者の知る孤独と深くはないが、簡単にリンクする構成なのがなんとも不確かで浮いたような共感を与えてくる。
    そしてラストの展開もカタルシスを得るようなものではなく、寸止めというかうまく視聴者を煙に巻くような言い切らない展開で終わらせてくるのもわかってやっているのだろう。


    様々な要素の実像をぼやかすことで独特な印象を与えてくる不思議な映画、静かな時間を過ごしたいときにでもどうぞ。
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  • 三年前を思い出しながら<革命機ヴァルヴレイヴ>感想

    2017-01-21 08:30
    三年前に放映された<革命機ヴァルヴレイヴ>についての今更ながらの感想です。長文を書くのは本当に久しぶりなのでそこらへんはご容赦を。

     ネットで何かをやるのは二年ぶりでいろいろなものを放置していたんだけど、たまたま調べ物でツイッターをつけたときに、ある方が革命機ヴァルヴレイヴ(以下ヴヴヴ)を見返して呟いていた。自分も当時一人で毎週放送時間帯に楽しんでいた。でも、情報をそこまで能動的に追うわけじゃなく、娯楽作品をみるようなパッシブな割合のほうが大きかったと思う。設定資料集や周辺創作物を追うわけではなかったし、ヴヴヴ本編内の情動のダイナミックな動きに心を任すのが好きだったからだ。まあ、展開に不安になることもそこそこあったのは否定しないけど。
     それで一期の最後までみて、この作品は最後まで観るべきものだな、とは思っていたけど、一期と二期の間でテンションは落ち着いてしまっていた。そんな矢先、二期の初期ぐらいにその方の熱のこもった感想ツイートを見つけて、それからはこの人のツイートを見るのも楽しみになって視聴を続けていた。アニメってここまで真剣にみられるものなんだなあと驚かされていた。そのような方が、丁度再視聴した感想を書かれていた。その人にとってのヴヴヴって本当に大きかったんだなと改めて感じさせられた。

     自分はアニメや映像作品自体はそこまで本数を見ないし、多くを記憶できるタイプの人間ではないのだけれど、当時のことを思い出すとヴヴヴの何を楽しんでいたかをわりかしするすると思い出せる。ということは、ヴヴヴに関して何かを書き留めておくのは自分にとっても宿題なんだろう。そう思った。そんな感じで、ブロマガを起ち上げました。
     通算で見た回数は三年前と今回の二回と気になるシーンの見返しのみで周辺創作物等の情報は入れていません。もっといろいろ見るべきなのかもしれませんが、これ以上みると自分のなかでまとめきれなくなるのと、ある理由で期限を決めていたので勢いで書き進めます。
     


    ■自分のスタンスとか

     もしも自分がサンライズのお偉いさんだったとしたら、一期を見たあとにスタッフに「面白い! やっぱり、君たちは流石だな。でも売れねーよこれ! どーすんだよ」と言っちゃうと思う。いきなりこんな書き出しかよ、という感じで申し訳ないけどやっぱり思っていたことなのでしょうがない。だからまあ、諸手を挙げて誰彼かまわず勧められるものじゃないと思っている。初見時は、2期はヴヴヴらしさを残しつつスタンダードな娯楽寄りに寄せてきたように見えたのは近いことを言われたんじゃなかろーか、と邪推していた。見返したときに二期予告もついてたけど、告知要素をかなり削ったようなので当初はもっと予定話数が多かったのを展開を削除、凝縮して集約したか内容を変更したのだろうなあと考えている。
     実際はお偉いさんではなく単なる視聴者なので、ワイヤードなどの露悪演出等から「サンライズからのネット世代への挑戦状」ぐらいに思って毎週楽しんでいた。その問題点になるであろう部分には大体創り手側の意図が介在していると見ていたからだ。
     
     見始める切っ掛けは、ツイッターで「ヴヴヴの展開がやばい」みたいな発言を目にしたのがきっかけだったと思う。それで、ガンダムSEEDでも始まるのかな、という舐めきった態度で一話をみていたら、撃たれて、蘇って、噛み付いて、のあの始末だ。「なんだこれwwww」とテンションが上がってしまった。
     幸運だったのは、そのまま2話も間断なく見られたことだ。何故かと言うと、あるシーンが自分の心に深く刻まれたからだ。エルエルフに取り付いたハルトを犬塚達がじゃんけんで中身をハルトだと認識するところだ。一週間空けてみていたら単なるシュールなシーンで終わっていたかもしれない。なぜこのシーンが印象に深く残ったかは以下のことをあの場面だけでやってのけてしまったからだ。

    ・カミツキの憑依能力の物語中でのウェイトが犬塚達の受け流し方によってそのまま視聴者に伝染する
    ・外見だけで判断するほど愚かではない柔軟な仲間たちの描写、ひいてはその関係性がハルトの性質描写を補強する
     
     この場面を見たときは、「えー、こんな簡単に流しちゃうのかよ」となったし、同時に憑依や吸血鬼という要素以上の展開をもっと仕込んでくるんだろうな、というのを予感できた。スタッフは場面場面にかなりの意図を詰め込んで臨んでいるということもなんとなく感じることが出来た。まあ、一番印象に残ったのは、気づきの瞬間だったからという主観的な理由でその実力と確信犯的な部分に興味が生まれたからだ。
     映像作品を細かく観ることが苦手な自分が、ヴヴヴを最後までずっと楽しめたのはここでスタッフを信じたからだと思う。そして、信じるという行為がこの作品においては大変重要な要素だったことがヴヴヴの面白さの一端に触れることができた理由だと考えている。

     そのように信じて受け身気味に大雑把に毎週そのジェットコースター的展開を楽しんでいた。ロボット物としての感想とかは普通に楽しかったなとか、硬質残光の軌跡や記憶の割れる演出、熱量の視覚化のためのギミックとかすごかったぐらいの感想になってしまうのでわざわざ書こうとも思わない。むしろロボットアニメはロボットに乗るまでのほうに関心が向くことが多いので、バクシンガーのように毎回合身バンクに見入ったあとに一太刀で終わるような構成も割りと好みだったりする。
      
     そんな自分が最終話まで見て抱いた最も大きなものは、時縞ハルトへの「尊敬」という感情だった。この感情は「このキャラが好き」みたいなものとはまた違って映像作品で抱いたことはほとんどないものだった。作品を通して作者に尊敬を覚えたことはあったが、キャラクターに対して抱いたのは初めてだった。このあたたかな感情は今でも思い出せる。これを三年間も言語化せずに放置していたのが宿題のメインだったりする。


    ■なぜハルトへの尊敬が生まれたか
     
     例えば、創作のなかのキャラに対しての想いは好き嫌いで表現する事が多いけど、それは性質や属性に対して使われる場合が多い。真面目だから好き、外見が好き、口調が嫌い、性格が嫌い、年代が近い、他。キャラクターを通して、その性質、属性に好感を抱いたり、人間的に近い、親しいものへの共感によって視点を共有したりする。そういった一体感というのは多くの創作において描かれているものだろう。それ故に自然と自分と近いもの、もしくは好ましいと思うものの引力には逆らえないというのもあるけど。
     それと自分のいう「尊敬」のどこが違うかというと、まずはその感情が産まれる土壌の条件を整理してみる。
     
    1,まず対象のことを人間として認識(するほどの)情報を受取り、自分とは違う考えの独立した個人として捉え、またその思考、行動を理解できなくても容認できる状態であること。
    2,別の存在として認識することで、そこには「関係性」という距離が産まれる。
    3,関係性が産まれることでそこには継時性、積み重ねの概念が発生する。
    4,継時性のなかでのその対象への印象を左右する要素の力関係は「行為、選択」>「性質、属性」になる。

     うまく伝えられただろうか。だから自分は時縞ハルトを通して自分の好きな、親しい性質に好感を抱いたのではなく、彼が選んだ選択を通して個人としての<時縞ハルト>に好感を抱いたことになる。一つ一つの選択肢自体が生むのは「信頼」だ。それの積み重ねが自分の中で尊敬へと昇華したのだ。
     ハルトは常にその「時縞ハルトとしての性質」内で最も誠実な選択肢を選んできたと思っている。自身が化物になったことをショーコに背負わせないとするハルト、カミツキの衝動故に襲ったサキに対する愚直な贖罪、化物は自分だけでいいという選択。もちろん、間違った選択肢はあるし、理解できない行動もある。やや神経症なきらいもある。だが、不誠実な選択肢を選ぶことはなかった。傷つけることから逃げることも多かった。でも、傷つくことからは逃げだすことはなかった。「誠実な時縞ハルト」が好きなのではなく、「誠実な時縞ハルトが裏切らなかったこと」がたまらなく豊かな気持ちにさせてくれるのだ。
     そして、自分の信頼が尊敬へと昇華したのは22話「月面の拳」だ。あの話に至るまでの二人の内部への熱量の蓄積、そして解放、昇華。あの殴り合いは当時泣き通しだった。今まで誠実に傷ついても傷ついても耐え続けたハルトが口にした罵倒。それがハルトらしい稚拙さを帯びていることがたまらなく好きだった。23話、24話については見守るだけの心境だった。ただ、彼が選んだ選択肢を見届けたいという想いだけだった。
     
     このハルトへの尊敬が生まれたのは、自分の個人的な指向性、性質に拠るものだけではないと思っている。先述した条件を作品側からも提供される必要がある。相手の全ては理解できないことを自然と受け入れさせるための創作としての確かさが必要だ。自然に時縞ハルトという個人を自分に認識させてくれたことについては、意識できていない多くの要素があるので全てを書ききるのは難しいけれど。
     

    ■ヴヴヴの「不親切」で「誠実」な構成とか
     
     そもそも、誠実だからこそ不親切なのであって並列するのは何か違和感を覚えるけども。

     ひとまず置いておいて、まずはそのメイン構成要素であるキャラクター達だ。彼らの特徴としては、「個人として」盤石に矛盾点が少なく造られている、その年齢相応の幼稚さや愚かさを含めて。だから、彼ら彼女らはどんなに話的に盛り上がる場面でもその性質以上の言葉は持てない。展開の都合で作者側が乗り移ったように急に賢いセリフなんか吐けないのだ。このキャラクターがしっかりと造られているということが自分がハルトを「時縞ハルト」として認識した大きな理由の一つと考えてくれていい。もちろん、キャラクターの確かさは視聴者側の主観に大きく左右されるので、ここでは自分が尊敬を覚えるほどよく出来ていたと仮定して話を進める。
     独立した個人として造ることを意識された彼らは、各々が勝手に自分の中の「良かれ」で行動する。彼らの行動の原因は物語の展開に拠るものではなく、彼ら自身に拠るものだ。例えば、先程挙げた月面の拳などは、どこまでいってもハルトの域もエルエルフの域も出なかった。とことん自分の中だけのもので相手とぶつかり合う。実際にやりとりした言葉は自分の中に隠してた相手の最もききたくないことだけなのに、各々が勝手に自分の中で「やりたいこと」を発見をして目覚める。だからこそ、異質な熱量のぶつかり合いがまるで目に映るように展開されたし、相手を傷つけようと、たとえその言葉がどんなものであろうと他人に届くかは相手次第ということが描かれた。
     そして、ヴヴヴはその彼らの行動に対して合理に落とし込んだ説明、詳細な心理描写、視点誘導、意図的な共感補助は行わない。ヴヴヴの表面的な唐突さの理由はこれだ。もちろん、そういった硬く造られたキャラクターの心理を巧みに描写し、画面上の展開の流れに加え、多くのものを与えている創作はいくつもあるだろう。
     
     では、なぜヴヴヴはそういった「親切」な描写を挟まないのか。それが、ヴァルヴレイヴの「誠実さ」だからだ。
     どこまでいっても、そのキャラクターの行動や選択に説得力をつけたり説明を行うような描写や展開構成には合理化や正当化の側面がつきまとう。つまるところ、欺瞞だ。このことを悪く言うつもりは毛頭ない。嘘と真実とどう付き合うかは生きている人間の永遠の課題の一つだし、そもそもその側面を抱えながら取り組んできたのが多くの名作達だ。それとのつきあいは創作においては大きな課題だ。もちろん、そういった面が全くないとはいわないが、ヴヴヴはそういった描写を極力抑え、視聴者に委ねることを選んだ。
     こういった描写を挟まないことはデメリットが大きい。例えば、4話でのショーコの独立や、5話の歌などはその幼稚性が視聴者にダイレクトに突き刺さり、反感を抱いた人も多くいるだろう。そういったものに対して嫌悪感をもつのは視聴者もまた「個人」なら当然な部分がある。すぐに理解できない、行動に対する理由が流れでわからないというのはそのまま不快感につながる人が多い。
     冒頭で自分が「売れねーよ」なんて書いたのは、このデメリットを多分に含んでしまうからだし、商業作品として広く世に出す以上容認できないものだからだ。

     それでもヴヴヴはやらなかった。むしろ、やってはいけなかったんじゃないかと考えている。だってさ、これだけ異種間、ひいては人間内ですらどんな場面でも全く別のものを見ていて、本質的には分かり合えないということを描きながら「ニンゲンシンジマスカ?」で締めくくるヴァルヴレイヴに於いては最も致命的な嘘――自己欺瞞だからだ。そう問いながら、キャラクターや出来事の捉え方を制作側の答えや意図に誘導したり、視聴者との間のみに共有する流れを作る。それを正当化できるなら、それは詐欺師の所業だ。
     
     ジェットコースターのように展開される結果の連続をどう捉えるかを、受け手を信じて委ねる。それこそが制作側がヴヴヴを作る上で絶対に守らなければいけない誠実さだったのだ。だから、ヴヴヴはちょっと突っ込んだところに理由や原因を置いておく。それは人間を信じているからだ。人間は常に別々のことを見ているというテーマを作品姿勢そのものが実践している様で、否定していた人間すら許容しているように思える。
     それに能動的に情報を見つけに行かなければ楽しめないわけではまったくない。初見時の自分のように受動的な見方をしていても楽しめるのは実感している。ただただ、伏線を各キャラクターの内部への熱量の蓄積、そして解放のために集中させた展開やギミックは大変見事だった。まあ本当に伏せたままのものも多いからそこがまたヴヴヴの唐突さに拍車をかけているとは思うけども。
     
     ただ、信じないものにはその門が開かれない。視聴者個人個人の心の壁が影響するのはどの創作でもそうだが、とりわけ誠実に視聴者に委ねる作品ほど影響が大きい。それが誠実さの宿命なのは、作品内ではなく信じ委ねるという行為に常にまとわりつく現実の法則だ。



    ■「嘘」と「エゴ」

     ここまでは三年前に感じたことがメインだったのだけれど、この先は現在見返したときに気づいたこと等。
     
     劇中でのエゴと嘘の描かれ方は大きく描かれていて「やりたいことをみんなやろう」「みんなじゃなく自分がやりたいと思うから」というエゴは繰り返し描かれているし、嘘は多くの重大な喪失を産んできたことからその扱いの大きさについては説明する必要もないだろうか。
     自分はそんなに鋭くないので最終決戦の対決構図でエゴ対嘘が明確に描かれたときにそれを実感した。月面の拳を経て、「誰かにどう思われるかでなく、僕がどうしたいか」と<エゴの化身>と化したハルエルフと、カインの皮をかぶり続けたまま自身らの正当性を主張し同胞を守るための壁を守り続ける<嘘の象徴>としてのマギウスとの対決に見えた。結局、カインマギウスも死ぬ間際に憎むことよりプルーのことに心を向けているあたり悪とは描いてないが、嘘の壁を突き崩すことが革命機ヴァルヴレイヴの終着点の一つだった。

     ここでやっとエゴと嘘の間に関係性を設定していると気づいたのだけれど、なぜここまで意識しなかったのだろう。なぜ気づかなかったのかは大変主観的なことなので申し訳ないが、当たりをつけた理由を一応書いておく。
     一つは、どちらも大きく描かれているときはその場面を専有しているからだろうか。
     あとは、よく描かれるのが人間関係上だろうか。例えば一期だと、嘘つきとしてわかりやすいサキやエルエルフにとっては、ハルトは大抵の場面で自分が背負えばいいと思ってる自分勝手な馬鹿野郎だけど、エゴイストの代名詞のようなショーコに対しては誠実な嘘つきだ。確かに一人一人をしっかり作っている以上、その関係性の上で表現される構図は流動的すぎるし、あまり意識することもないと思う。ここで重要なのは一個人の上で両方展開されていることだろうか。このエゴと嘘は絡み合いすぎているのと、様々な要素の裏にひそんでいるので正直追いきれない。


    ■「呪い」と「罰」と「祝福」

     エゴの象徴として最もわかりやすいものはロボットとしてのヴァルヴレイヴだろう。革命の力、熱量によって壁を突き崩す力、やりたいことをやるための力として描かれてきた。「自分が、自分自身の手で復讐したい」と最もエゴイストになった瞬間にパイロットになった人間が3人いるのもわかりやすい。
     そして、カミツキ化はやりたいことをやってしまった重責であり結果だ。まさにエゴイストへの呪いだ。呪いには「罰」がつきもので、例外はあるけれど大体の結末は正悪問わずやりすぎたための自身の破滅だ。これはだいたい死んだ人間のことを思い浮かべてもらえばわかりやすい。そもそも、カミツキになるということは「人間としての死」だ。 
     
     この罰は嘘のほうにも設定されていて、その嘘の大きさに比例した大事なものを失うというものだ。その嘘が誠実かどうかにかかわらない、むしろ誠実な嘘のほうが罰が重い。第2話でついたハルトがショーコを傷つけまいとしてついた誠実な嘘が一番大きいだろうか。ハルトはショーコとの絆を永遠に失った。ハルトがカインを嘘の壁を突き崩して倒す行為は、ショーコに対して、傷ついても、傷つけても、真実を話さなかったことの代償行為という面が大きい。嘘で失ったものを別の嘘を壊すことで拭い去ろうとするこの最終決戦の一面はただひたすらに悲しい。
     そして、カインとの対決時に「互いが傷つかないように嘘の壁をつくった!」とハルト自身が相手のための嘘なんて本当はまやかしであることを看破している(このセリフのときに第二話のハルトのショーコへの『誠実な嘘』の記憶が割れるのが大変悲しくひたすら美しい)。どんなに誠実であろうと、正しい理由があろうと、嘘や正当化は自身のためのものと描いていることは、エゴと嘘は表裏一体のものと捉えているのだろう。
     「ニンゲンシンジマスカ?」という言葉に帰結する本作のテーマは人間だ。そのなかでエゴと嘘が最も大きく描かれているなら(あと記憶とかもあるけど今回はパス)、それは人間、いや異種間であることも描かれているから意識ある存在への課題だ。自分は気づかなかったけど、嘘にも罰があるのなら呪いということを想起させる表現がどこかにあるのかもしれない。
     
     それで、劇中でもカミツキ化が呪いから祝福へ変遷したということを述べているので、エゴと嘘にも祝福が設定されているか考えてみた。
     
     エゴに関してはかなりわかりやすく描いていて、1期のショーコこそ<祝福されたエゴ>を体現した存在だからだ。「私がやりたいから助けただけ」「やりたいことを叶えよう」彼女はやりたいことをやろうと言い続け、やり続ける。そして、その責任も常に負い続ける。
     そして、彼女のエゴは周囲、身近な他者に承認されていく。というか、彼女自身が他人のエゴの明るい部分すら引っ張り出して承認していく。10話の演説はあの問題シーン(やりたいことをやってしまった結果)との対比でそちらに意識がいきがちだが、演説自体は素晴らしいものだ。
     そうやって、他人にどう思われるかじゃなく自分がどうしたいかという行動原理で、閉ざされたアキラの心の壁すら突破していく。これこそがエゴへの祝福だ。他者に承認されたエゴはもうエゴじゃない。これをなんて呼ぶかはわからないけど少なくても「破滅の力」ではない。「活かすための力」だ。個人のエゴの承認に値する部分を吸い上げ抽象化したもの――希望、それの化身が一期のショーコなのかもしれない。
     他人の承認を祝福と定義しているのは、カミツキ化の呼ばれ方の変遷でわかる。銀河帝国時にはカミツキになることは呪いではなく祝福と言われている。他者に認められ、ともに生きていく場所を見つけたからだ。
     
     エゴに関しては明るい面も多く描いているのに対して、嘘にはただただ重すぎる罰のみが残っていて。別にハルトとカインの対決の構図を考える前までは気にもならなかったんだけど、あのエゴ対嘘のぶつかり合いを見てしまうと、これだけ誠実な作品が嘘だけを一方的なものにするかな、と違和感を覚えていたのだがなかなか答えが見つけられなかった。もちろん、誠実故に嘘を全く救いのないものと描いている可能性も充分すぎるほどにあるんだけど。
     
     それで、24話をもう一度見返していたときにある場面にひっかかった。サキちゃんが、ハルトとショーコとの間に割って入ることができないのは重々知っているけど、それでも「諦めない」と静かな決意を口にするシーンだ。今まで嘘ばかりついていた彼女が初めて「前向きな嘘」をついた瞬間だった。
     ああ、そうか。なんでこんなことに気が付かなかったのか。ショーコが<エゴイズムのヒロイン>なら、サキは<嘘のヒロイン>だ。ヴヴヴの描くエゴ対嘘の構図で最も描かれてきた部分じゃないか。陽と陰の関係だから陰に目がいきにくいのだろうなあ。
     その彼女が嘘を現在の自分への言い訳から希望を見出すための第一歩に使ったとしたら、それはとても小さく思えるけども大変意味のある「未来への革命」だ。(諦めない、というフレーズは23話でもサキは言っているのだけれど、ハルトに言わされていたり、仲間を鼓舞するためだったりで本心から発せられるのは24話が初めてだと感じた)

     過去現在という揺るぎない真実に嘘をついて未来を信じるためのきっかけ、それが嘘の持つ明るい面「諦めない」事だということに気付かされた。
     この「諦めない」というフレーズは23話と24話で何回もリピートされた挙句、最終対決でもハルトの最も重要な言葉として何度も何度も繰り返す。「僕の友達も、大好きな女の子も、諦めてなかった!」「みんなみんな諦めてなかった、だから僕も!」と一番諦めてなかったやつが言い続ける。おまえどれだけ良いやつなんだよ。その最中に「みんな」の記憶がどんどん割れていく様の美しさをどう感じれば良いのか正直わからない。だから、自分の入ってない「みんな」なんてクソだっていってるじゃねーか……
     
     正直、現実においては諦めることの多くの場面で重要だ。それ故、エゴのときほど明るい要素とは感じないから祝福とも思えないけれども、それでもヴヴヴは嘘の別の面があることも教えてくれた。
     
     でも、実際この嘘の良い使い方も一期のショーコちゃんが示しているんだよね。父親が殺されても(実際は捕らわれていたが)諦めずに、周りに「やりたいことをやろう」と言い続け、多くの人間のエゴを吸い上げ、希望に変えた姿はヴヴヴが見せた理想の人間としての一つの答えだろう。結局「僕の大好きな女の子」が全部正解を出していたんだよね。嘘とエゴで未来への両輪だってことを。答えを先出ししてそれを失くすことの重みを描くことを優先するのがほんとヴヴヴだよなあ。それにもしハルトが記憶を全部失って生きていたとしても、サキちゃんが勝つ目はあったんだろうか……


    ■ヴヴヴの「大人」

     話は変わって。
     
     ヴヴヴに於ける子供と大人の対立構造って俯瞰して外からみると大きく見えそうだけど、実際戦う大人側は大体が自分で「ずるい」とか言っちゃう薄っぺらいやつらばかりだ。敵が弱いのは対決構造において弱点で、ヴヴヴの大きい欠点の一つだ――これを書き始める前まではこんなことを思っていた。何様だこいつ。
     
     でも、これだけ物語の裏に誠実という意図を貫いている作品がそこを考えていないわけはないよなあ、と思い、「なぜ大人を描かなかったのか」という理由を考えてみた。
     まあ、考えてみたとあらためてみたがすぐ答えはでた。結局、アニメであるヴヴヴは丁度ハルトと同じ年齢帯の少年少女達に向けられたものだからだ。今は本編から拾える情報のみで書いてるから、どこかのインタビューやらでこういうことは何度も強調されているのかもしれない。
     では、なぜ大人を薄っぺらく極力意識しないように描いたかというのは、そういった突如発生した危機のなかで子どもたちだけで考え、行動する姿に極力水をさしたくなかったのだろう。大人を厚く描写すれば、彼らが選んだ行動よりはマシなものがでてくるかもしれない。だが、何が正しいか、何が良かったかを描くのは、ヴヴヴの誠実さにとっては重要ではないのだ。
     そういった危機にあっている最中の人間にしか、そこでの必死な思考が生み出す行動は理解も予想もできない。それが幼稚だろうとなんだろうと。だから、ヴヴヴはその行動する力を否定しない。作品自体が全力で祝福しようとしている。君たちの喜びも悲しみも大人は関係ない、君たち自身のものだと。「やりたいことをやろう、欲張りになろう」と。
     もちろん自分たちが選んだ、やりたいと思ったエゴはより多くの他人に承認されない限りは必ず責任と報いが来るということもきっちりと書く。繰り返すけど、それがヴヴヴの誠実さの一つだ。
     
     実際に大人は描かれてないわけではなく、ずるい大人をスケープゴートにして黒子に徹しているだけで要所要所でいい働きしてるんだよね。やっぱり、ただ視聴者に委ねているだけでなくこういう部分も仕込んでいるのがヴヴヴの一筋縄ではいかないところだよなあ。
     特に最終話の七海先生の「話をするのよ……それだけ。本当の事って直接聞かないとわからないものなのよ」ってほんといいセリフだと思います。世界の真理です。七海先生に言わせるところがまたいい、もっと早く言ってくれとは思ったけど。現実は常に手遅れということすら含んでいる。ヴヴヴはこういう重要なことをさらっと入れてくるのでいつも気づかずに流してしまうので困る。



    ■最後に

     ここまでもかなり主観的だったけど、最後にもう少し正直にちょっとだけ書きます。

     自分は俗物で、そういった部分が自分に産まれたのは勧んでではなく、そういう人間だけしかいない場所に閉じ込められたのが契機なので、ちょっと強迫観念めいたところがある。だから、わざわざけなすためになにかを観るような人らの気持ちは流石にわからないけども、ヴヴヴが叩かれていた理由は想像がつく。その部分には、もう常識やら一般観念やらが積み重なっているので全てを否定したり排除できるわけでもないし。
     だから、ヴヴヴの一般評価が悪いのは充分承知している。というか、わざわざ見ないでもわかる。そして、どこかでそういう意見に無意識に引っ張られていた。おそらくこれが本放送時に中途半端に入れ込まなかった理由なのかもしれない。
     
     それにこうやって感想を書いていると、この誠実さに疑問をいだきたくなる。こんな剥き身で無謀な誠意が個人制作ならいざしらず、多くの人間と金が関わった作品として世にでることがあるんだろうか。冒頭で書いたとおり、自分は二期目が短縮orなにか転換があったのは当時は何となく察していたし、見返して確信してしまった。憶測にすぎないけれども、そういうことがあったであろう作品が本当に最後まで誠実でいられるのだろうか、と。書き進めていくほど、画面上での展開から離れていけばいくほど自分の妄想のような気がして不安が大きくなっていく。自分が経験してきた世界の価値観がどこかで否定したがっているのだと思う。感じられるけど信じられないような状態だ。
     
     こんな二つの観念が、エゴとか嘘とか書いているあたりで大きくなって、ずーっと頭のなかで鎮座していた。書こうと思ったきっかけは唐突だったのに、自分の中で色々なものが膨らんで大きくなって戸惑っていた。
     そのように悶々としながら、川原でぼけーっと呆けながら最後に書いたヴヴヴの大人の薄っぺらい描写について考えていた。先程書いたようにハルトと同じぐらいの少年たちに向けたものと言う答えはすぐ出た。――ん?
     
     その瞬間になんでヴァルヴレイヴはこんなに誠実なのか、その理由がすとんと腑に落ちたきがした。
     本当に伝えるべき相手が見えていたなら、その相手のためにやるべきことがわかっていたなら、なんら不思議な事じゃない。劇中でも「やりたいこと」が「誰かに向けて手をのばすこと」だった場合の強さは描かれている。アキラとショーコの関係や連坊小路兄妹などを思い浮かべるとわかりやすい。自分を閉じ込めている嘘の壁をこえて、相手のことが本当に見えている状態で発揮できる力の強さ、自分もそういうものがあると信じているし実感もしている。
     
     ずっとその誠実さの芯を創作者のプライドとか反骨心とかストイックなものと勘違いしてた。もちろんそういった気概は必要だけど、それが芯だったらこれだけの規模の作品ならどこかで折れる瞬間や矛盾が産まれたと思う。どうあるかのためだけに使われる誠実さは脆い。それにボヤケた視聴対象のためにつくられていたなら、あらゆる要素は必然性を失くす。すべての個人個人が常に違う精神と肉体を現実に展開していて、その全てに何かを伝えられる手段があるなんて思えるなら、その人は子宮のなかの胎児と同じ心をもっているのだろう。
     
     なぜ、少年少女のためということを強く意識してつくられていることが不親切な剥き身で無謀な誠実さに繋がるのか。これを理解してもらうには今の自分ではうまく伝える力もそうするための時間もない。けれども「やりたいことをやろう」という応援とそれに対しての破滅の描写。視聴者を信じて委ねて、切るものは切り、描くべきものは詰め込んだ姿勢。安易な親切で理解した気にさせないこと。伝えることと伝わった気にさせることは別物だ。正しい表現、親切な演出が誠意を伝えるとは限らない。誤解を恐れず、傷つくことを恐れず貫き通したものの裏にはそういうものがあると思えた。
     
     そう、ヴァルヴレイヴの裏には伝えたい人間への誠実さがある。おそらく、伝えたかった誰かには少年少女だけでなく、最終話でハルトが連呼していた「どんなに傷ついても傷ついても諦めなかったみんな」も入るのだろうか。傷ついても傷ついても信じ、委ね、「どう思われたいかではなく、どうしたいか」を貫くその作品姿勢。それが「あきらめてなかった、だから僕も」と言い続けるハルトの姿と重なって見えるような気がする。本当は自分はハルトを通して、<革命機ヴァルヴレイヴ>に尊敬の感情を覚えていたのかもしれない。

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     唐突だけど、自分は最後のショーコのシーンが大変苦手で。ショーコちゃんの場面で唯一、苦手と明言できるところだ。「時縞ハルト」という失った半身を永遠に求める、まるでゾンビのように思えたことが未だに頭を離れず、どうやってとらえたら良いのかわからない。「痛みも喜びもはんぶんこにできるから」というセリフを繰り返してるのもその印象に拍車をかけている。
     それでも、こうやって書きたいことを書いた今なら、あの手をとっても良い気がする。いや、とりたい。そのショーコの手がまるで傷ついても、傷つけても、諦めなかった、誠実だったこの作品の誠意に思えたから。そして、自分がその誠意を信じたいからだ。――「はんぶんこ」への返答はまだ決められてないけども。




     最後まで読んで頂き、ありがとうございました。革命機ヴァルヴレイヴの制作スタッフ様、そして書く上で参考にさせていただいた方々に感謝を。