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  • 警視庁 IT特別捜査官(上) パズルのピース 二つ目

    2014-09-03 18:40

    間合いを計ったように絶妙なタイミングで、彼女のしなやかな身体がアスファルトを蹴って跳んだ。柔軟な身体つきが速度を倍加させた。

    なにか格闘技をしているのか、ブラジル人はけん制の右フックではたき落とそうとした。しかし相手の攻撃が届くスピードの方が一足速く、膝がカウンター気味にそのあごを捉える。車にはねられたように、ブラジル人は真後ろに倒れこんでいった。

    硬いアスファルトに後頭部をぶつけた彼に、反撃の余力はなかった。分厚いタイヤを鈍器で殴ったような不気味に籠もった音を立てて、ブラジル人は約一秒半で意識を失った。

    死ぬほどの勢いで倒れた、男に見向きもしない。そのままの余力で振り返りもせず、着地した彼女は走って逃げようとする。

    「止まれよ、フカマチ・マヤ」

    銃声が響いた。彼女はぴたりと動きを止めた。夕空に向けて威嚇射撃を放った真田が、角から出てきた。銃口の照準は彼女の胸にぴたりと、つけられている。でも、と薫は聞き間違いを疑った。真田は、違う名前で彼女を呼んだ。彼女は、北浦真希じゃない? まさか、そんなはずはない。本当に、彼女は別人だったのか。

    聞き間違いではない。真田はもう一度、別の名前を呼んだ。

    「おれは本気で撃つぞ、フカマチ・マヤ。君を預かった機関から、許可されてる。どうだ、試してみるか?」

    黙って、フカマチ・マヤは両手を上げた。観念したように息をつき、なぜか、薫の方にも手のひらを見せる。

    「やめるのか?」

    「やめとく」

    真田とマヤは同じタイミングで微笑した。彼女が薫に言った。

    「命の駆け引きは、一日一回で十分よ」

     

    フカマチ・マヤ 彼女が追うのは

    真田は彼女に手錠をかけるように、薫へ指示した。戸惑ったが、彼女の方ですすんで両手を差し出した。さっきのことといい、見た目は小娘の癖に、こうしたことに慣れきっている感じだった。

    (何者なの、この子)

    「君のお守りはもううんざりだって、担当者がぼやいてたぞ」

    真田は言った。かなりブロークンな文法の英語だった。彼女もそれに流暢な英語で答え、しばしなにかのやり取りをしていた。雰囲気からして、彼女は純日本人だが、こちらの言葉にもともと慣れないらしい。英語の会話の方が自然に聞こえる。そう言えば、会話に独特の、変な間があった。

    向こうの法制用語などが混じって全容は掴めなかったが、二人は足元のブラジル人の処遇について、議論しているようだった。真田はやがて、日本語で薫に言った。

    「澤田森田も、確保したそうだ。まずは、戻ろう。・・・・・・・顔合わせも済んだし、一息入れるか」

    怪訝そうな顔で二人の様子を見ていると、マヤと目が合った。たぶん向こうも同じ気持ちで薫を見ている。

    「君らは同じ、補充要員だ。不満があったら先に言ってくれ」

    「彼女は、何者なんですか?」

    ずばりと、薫は聞いた。奇妙だがそれしか聞きようがなかった。真田は返事の変わりに、苦笑して、

    「そいつは車の中で説明する。まずはここを出よう」

    と、ふと、下でのびているブラジル人に目を移した。

    「こいつにも手錠をかけておいてくれ。トランクに押し込む。このブラジル人はサンパウロと、アメリカの二つの州で窃盗、強姦で二桁近い容疑が掛かってるそうだ」

    さっさと、真田はいなくなった。薫は、手錠をかけられた偽の女子高生と怪しいブラジル人と所在無く、置き去りにされた。

    「かけたら?」

    マヤが、真田から預かった手錠を差し出してくる。自分だけ、不公平だと言うように。ひったくるように受け取って、薫はそそくさとブラジル人をうつぶせにすると、後ろ手に回して手錠をかけた。

     

    「・・・・・君たち」

    助手席ではなく、後部座席に座ることを薫は要求された。気まずい二人は、会話もなく横並びになった。背後から無数のヘッドライトの列に照射されながら、棺桶のようなトランクに一人を載せて夜の明治通りを三人は走っていた。

    「どっちも黙ってないで、自己紹介位したらどうなんだ?」

    「・・・・・・わたしは」

    と、声を出したのは薫だった。隣ではなく、バックミラーに映る真田の鼻から上と額に向かって言う。

    「不審な点は一切ありません。説明が必要なのは、彼女だけじゃないんですか?」

    「あたしも、あなたにとってなんの不審もないと思うけど」

    見ての通りの女子高生だと言う風に、手錠つきの少女は言った。

    「どうも、君らは自己紹介の趣旨を理解してないようだな」

    「わたしは警察官です。説明しなくても身分は証明されています」

    「手帳を見せて」

    歌うように、マヤは言った。手錠をした彼女を薫は睨みつけた。見かねて、真田が割って入る。

    「先に言っとくが、薫、おれの班での君は、彼女と動いてもらわなくちゃならない。君も知っての通り、菅沢を使って動いていたのは彼女だ。事件の裏表の情報交換は、十分にしといてもらわなくちゃ困るぜ」

    「彼女が何者か、真田さんが納得いく説明をしてください」

    「分かったよ。じゃあ、三つ、確実なことを教えてやる。一つ、彼女は分類上、警察官でもなければ日本人でもない。二つ、北浦真希は実在するが、彼女は北浦真希ではない。三つ、北浦真希について以外でも重要なことは、彼女から聞け。以上だ」

    「ねえ、あたしからも質問していい? 彼女が新しいお守り役?」

    「捜査のパートナーだ。誤解しないでくれ。君も知っての通り、彼女は君と同じ事件を追っていた。だから、君の邪魔をしたりはしないし、むしろすすんで協力を仰いでくれて構わない。彼女は、水越薫。美琴の事件を担当した警視庁捜査課の人間だ」

    「だからあたしを追ってたのね?」

    マヤは、いたずらげに薫を見て、言った。

    「よろしく、薫。・・・・・あなたとなら、話が合いそう」

    「大人をからかうのもいい加減にしなさい。ふざけてるの?」

    薫は言った。運転席の真田が苦笑して肩をすくめた。

    「確かに、薫、君のが年長者だし、この国では常識人だ。彼女は北浦真希よりは年上かもしれないが、まだ、未成年ではあるだろうからな。君が折れるべきだぜ、マヤ」

    「分かったわ。祖国の諺ね。郷に入っては・・・・・」

    「郷に従え」

    理解したと言う風に、マヤは肯いた。

    「と、こんな感じだ。生まれて初めてきた、祖国の常識を彼女に色々と教えてやってくれ。・・・・・これ以上彼女に、数ある重要な日本の法律を破られないうちにな」

     

    ブラジル人を引き渡した後、味のない会食をして二時間、薫はいつもの自分の部屋に戻ってきた。いつもと同じでそこは、とても静かだった。

    「・・・・・これから、しばらくはここね?」

    マヤは当たり前のように言って、さっさと上がりこんできた。

    どうして、こんなことになったのだろうと、薫は考える気力もなかった。何者とも分からない人間を、泊める羽目になるなんて。

    「シャワーを借りるわ」

    言うと、場所も聞かずに彼女は、シャワールームに直行しようとした。

    「ホテル暮らしだと浴びれないときもあるから、本当に助かるわ」

    「あなたの泊まってるホテルに、どうして帰らないの?」

    「無駄なお金がないわ。それに」

    モデルのような早さで服を脱ぎながら、マヤは言った。

    「毎晩泊めてくれる人を探すのも、大変でしょう?」

    「どう言うこと?」

    「来る前にリサーチした通り」

    脱いだ服を広げてみせて、マヤは言った。

    「この服を着て、夜中まで歩いてると、誰かは泊める場所をくれるって声をかけてくれる。・・・・便利だけどその都度、代価を要求する相手を、黙らせる方法を考えなくちゃいけないでしょう? 脅すのも縛り上げるのも、さすがに疲れたし」

    ・・・・・・家出少女か。しかも、送られ狼。

    マヤの所持品は、薄いショルダーバッグがひとつ。中には、フラッシュメモリに身分を偽ったと思われる完全なパスポート数枚、携帯電話の他は、怪しいものは何も入ってはいなかった。ただ、明らかに女性のものには見えない、何枚もの空の財布を除いては。

    (・・・・・日本のどころか、普通の人の常識を持ってるかどうかも怪しいわ)

    まったく、なにを考えて、真田が言う、海外の連絡機関は彼女みたいな危険人物を派遣したのだろうか。皆目分からない。そうだ、金城に・・・・・こんなこと、相談できるはずがなかった。

     

    「かいつまんで概略だけ、説明しよう」

    二人の女性に食事を取り分けながら、真田は、言った。

    「彼女はうちと繋がりのある、米国の連絡機関が派遣してきた、特別捜査員だ。とある極秘システムの捜索、秘密の保持、それに関するすべてのデータの破却がその任務になっている」

    「特別捜査員?・・・・・彼女が?」

    怪訝そうな顔で、薫はマヤを見た。真田に言われるまでもなく、どう見ても彼女は未成年だ。

    話の途中だ、と言うように、真田はそれには触れず、

    「詳細は言えないが、向こうの国防総省が開発した、内外の情報収集のための極め付けのプログラムと言っておこう。悪用されれば、世界の情報システムに、壊滅的な打撃を与えることも可能な代物だ」

    「もう、実際一度、本国では悪用されてるけどね」

    皮肉げな口調でマヤが口を挟む。

    「・・・・・ああ一年前、このシステムは不正に使用され、全米の国民のあらゆる個人情報にハッキングして改ざんすると言う、前代未聞の情報テロ事件が起きた。プログラムの名前をとって、国防総省のデータには、TLE事件とファイルされているケースだ。・・・・・簡単に言うと彼女は、そのとき、現地CIAとFBIの合同捜査チームに参加して、事態の収拾に努めた経験のある、関係者の一人なんだ」

    真田の言うことはすべて冗談だと言うように、マヤは薫に思わせぶりな視線を送った。

    「彼女は、この未曾有の事件の解決に非常に重要な役割を果たした人間だ。このシステムの悪用がどれほど深刻で危険なことなのか、彼女に聞けばなんでも分かるだろう」

    仕向けられて仕方なく、マヤも口を開き、

    「当時そのプログラムはさまざまな組織に悪用されて、電子化した個人資産や金融情報を盗まれたり、マフィアやカルト教団などが殺害した人間の身元を消し去ることなどに使われたわ。・・・・・・流用した人間は、もともとシステムの開発者のチームで、最初から別の、ある計画のためにこのプログラムを作ったんだけど」

    「事件でそのチームの人間は残らず死に、データは回収された。しかし、彼らの活動によって無数のデータの断片が特殊に暗号化されて、全世界に流出していたことが、最近分かったんだ」

    「あたしたちはプロジェクトチームを立ち上げて、事件後ずっと研究、監視活動を続けている。・・・・・・流出したそのデータについてはそれ自体にまったく意味はなくて、プロテクトを取り去ってすべてを再構築したところで、そのプログラムの復活は理論上不可能だと言う結論が出てたものなんだけど」

    「・・・・・どうもこの日本に、プログラムを復活させた人間がいるかも知れないんだ。その人間は無意味に散乱した無数の破片から、もとの形の器を創り出してしまった可能性が高い」

    「そんなこと可能なんですか?」

    「理屈はいつまで経っても、理屈さ。理論上構築されえないものは、芸術と同じように、人間の感性ひとつで突然、誕生させられるものだ。マヤ、おれは可能性と言ったが、君の予定外の単独調査の結果で、結論は出たんだろう?」

    ええ、とマヤは、こともなげに肯き、

    「可能性は確信に変わった。でも詳細は、後日」

    「おれの考えでは成田空港で取り逃がした神津良治が、そのプログラムの再生に一枚噛んでる。やつは、五年前、三つの広域暴力団の資金三百億円をさらって、ずっと行方を晦ましてたんだ」

    「じゃあ、真田さんの考えではその神津はそのシステムの再生に、持ち出した莫大な資金を注ぎこんだ、ってことですか?」

    「ああ、そうだ。マヤを派遣した機関からの情報提供で、やつはこの莫大な情報量のシステムの断片を回収することが目的で、三百億をさらったってことが分かったんだ。一ヶ月前の成田空港の貨物係の殺人もそのデータ絡みで起きたらしいってこともな。ちなみにそんときパクられたデータは、泰山会が神津をおびき寄せるために、香港人のハッカーから五億で買ったものだったそうだ」

    「泰山会はそこまでして神津を?」

    「ああ、三百億さらわれた三つの組の中で、もっとも損害を被ったのが、東日本最大の広域暴力団、泰山会だった。東南アジア諸国のどこかに逃げ込んだらしい神津を追い続けていたのは、ここの直系だけだったらしいからな。うちが確保した例の若頭は、五年ぶりに入国する神津を、どうにか押さえようとしたところだったみたいだ。誰かの下らない捜索に時間を取られずに、おれが直接指揮をしてれば、二人ともパクれたんだけどな」

    揶揄する真田の視線に、澄ました顔でマヤは、食事を続けている。真田はため息をつくと、次の一言で話をしめた。

    「日本中のやくざから奪った三百億だけで途方もない話に聞こえるだろうが、もしシステムの完全な運用が再び可能になれば、三百億ほどの資金なら、すぐに回収できる。おれたちが追ってるのは、馬鹿げた話だが、本当に、そう言う代物でね」

     

    「タオル、借りたわ」

    洗い髪をタオルで拭いたマヤが、顔を出した。

    「あと、シーツや着替えも借りられたら、うれしいんだけど」

    「待って」

    と、薫は、言った。

    「ソファも貸して欲しかったら、わたしの質問に答えて」

    「なにを?」

    濡れたままの足で堂々とフローリングを徘徊しようとするマヤを水際で押し止めて、

    「あなたが何者でなにをしたいのか、まだ答えてもらってないわ」

    「真田が話したと思うけど」

    「あなたの口から聞いた憶えはないの」

    タオルで髪を拭きながら不思議そうに、マヤは首を傾げた。

    「あなたは北浦真希じゃない。それは分かった。でもそれ以外にはすべて、わたしが抱いていた疑問は解決されてない」

    「彼女は無事よ。ちゃんと保護してある。明日、案内しながら、説明するわ。どこかに埋めたりしてないから安心して」

    「嶋野美琴と野上若菜は、あなたのせいで死んだの? 本当にあなたは殺人事件に関与していない? わたしに納得いく説明が出来るのね?」

    「答えはノー。ここですぐ詳しい説明をしろと言うのにも、あたしが二人を死に追い込んだ張本人だと言うあなたの説にもね」

    「ここで身の潔白を証明するのは無理だけど、明日になったら出来るって、あなたは言ってるの? この事件について、あなたの知っていることを、すべてわたしに話す?」

    「イエス」

    はっきりと言ってから猫のようなあくびをして彼女は肯き、

    「約束する。でも、今は出来ない理由はもう一つあるの。眠くて、これ以上難しい話はしたくない。ベッドも着替えもいらないわ。・・・・・シーツだけ貸してもらったら、もう寝ていい?」

     

    「大丈夫?」

    闇の中、マヤの声がささやくように響いた。彼女は本当にソファを使わず、部屋の入り口辺りの壁を背にして、膝を抱えて眠っていた。ベッドサイドのかすかな明かりに照らされて、マヤの影が、薫を見下ろしていた。

    「あたしの目をみて。・・・・・この前と同じ。すぐ、楽になる」

    と、彼女は言った。悪夢の余韻に鼓動を持て余しながら、薫は指示に従う。

    「・・・・・どうして」

    なぜ。彼女の言うとおりにすると。悪夢はなりをひそめる?

    「・・・・・話が合うって言ったでしょ?・・・・・あたしたち、色々な意味で、話題が尽きなそう。朝まで話しててもいいけど、今日はもう、寝るわ。・・・・おやすみ」

    「ねえ、これだけ答えて。・・・・・イズム」

    薫は、言った。マヤの口にした、言葉だ。

    「もしかして、それがあなたの追ってるプログラムの名前?」

    「正解は半分。残りはさっきも言った・・・・・また、明日」

    入ってきたときと同じく、なんの音も気配もみせずにマヤの影は立ち去っていった。

     

    もう一人のマキ 生贄ゲーム

    『北浦真希を確保した?』

    金城の、怪訝そうな声が耳に刺さる。

    『それよりお前、本当に大丈夫なのか?』

    「なんとかね」

    薫の処分についての件は、真田が処理してくれたらしい。呼び出しの話が、知らぬ間に有耶無耶になっていた。

    『お前、公安と動いてるんだろ』

    「事件からは降りてないわ」

    『無茶はしてないだろうな』

    「・・・・・今のところ、わたしはね」

    起きだしてきたマヤを見やって、ため息をつきながら薫は言った。

    「・・・・・前に言ったとおり、彼女が事件について有力な情報を握ってることは確かだから、彼女を連れていく。指定の場所で合流しましょう」

    困惑気味ながら、金城は承知してくれた。

    「で、そっちはなにか、変わったことはない?」

    『満冨悠里が姿を晦ましたぞ。・・・・・野上若菜の病室にも一回も、顔を出さなかったそうだ』

    「ほんと?・・・・・・困ったわ。彼女の自宅は押さえた?」

    『・・・・・いや、それは無駄骨だった。悠里は両親の都合でマンションにほぼ一人暮らしらしいんだが、若菜が手首を切ったあの日に前後してマンションを引き払って、その後の彼女の足取りも判らなくなってるんだよ』

    「・・・・・彼女の両親と、連絡はつかないの?」

    『実は悠里の両親は、医療関係のシステムを開発するベンチャー企業を経営しているんだが、資金繰りのため頻繁に海外を飛び回ってるらしくてな。まったく連絡が取れない状態だ』

    「・・・・・ついに満冨悠里までも、行方不明とはね」

    薫の不審な視線をよそに、マヤは勝手に用意を整え、コーヒーを淹れている。すでに薫が買ったことも忘れていた、ブルーマウンテンブレンドのパックをどこからか見つけてきて、念入りに豆を挽いている。通販で買ったあの挽き器も、その気になったのは一回だけで、面倒くさくなって仕舞った場所すら忘れた品だ。

    『お前の読みではその真希って子が、犯人かも知れないんだろ?』

    「うん・・・・・実は、それなんだけど、もしかしたらそうじゃないかも知れないのよ」

    『なんだよ、自信ないのか?』

    「そうじゃないんだけど・・・・・なんだか、よく分からないのよ、これから自分でも、どうしたらいいか」

    『・・・・ともかく、北浦真希って子から話は聞けるんだな?』

    「うん、それはなんとかね」

    ただ問題は。ここに一年も住み着いたような顔をして、あそこでコーヒーを淹れている女の子は北浦真希じゃない。どう言うわけか、似てるけど違う。しかも、事件の張本人ですらないらしいことだ。

    「接触に成功したら、折り返し電話する。・・・・・・話はともかく、そのときにね」

    『次は、あんなことにならないように気をつけてくれよ』

    「・・・・努力する」

    電話を切った薫の鼻先に、コーヒーカップが突き出された。

    「あ、ありがとう」

    釈然としない何かを抱えながら、薫はそれを受け取った。

    「満冨悠里が消えた? 本当に?」

    突然、マヤは聞いてきた。

    「ええ・・・・・なんと自宅ごとね」

    「・・・・・そう、不思議」

    そのつかみ所のない反応からは、相変わらずなにも読み取れない。

    「埋めたりはしてないのよね?」

    彼女は肯いた。湯気の立った自分のカップに口をつける。

    「薫と池袋で待ち合わせた日、彼女も来ていたはずよ」

    「野上若菜と一緒に、あなたが呼び出した?」

    「ええ」

    と、彼女は言った。

    「本当に上手く、二人には逃げられたわ」

    「若菜は昨夜の真夜中、亡くなったそうよ」

    「そう」

    「なんとも思わないのね」

    「どうしてそうなったのか分かるし。今さら驚くこともない」

    「あなたに責任がまったくないって言える?」

    「自分の命に責任を持つのはどんな場合も、自分しかいない」

    マヤは静かな口調で言うと、肩をすくめた。

    「・・・・・朝食は諦めるわ。もし、あたしと感性が合わないと思ったら、ルームシェアも諦めてもいいけど」

    別に絡む必要もなかった。苦笑して、薫は首を振った。

    「そこまで言ってないし、朝食はわたしが作る。・・・・・それと、着替えが間に合わないなら、貸してあげるから、下着くらい替えなさい」

    「ありがとう。武士道ね、薫」

    「あなたには助けられたから、昨夜も。それにあなたを追い出したりしたら、援助交際と居直り強盗を認めることになるでしょ?」

    「・・・・・『敵に塩を送る』?」

    「あなた、わたしの敵なの?」

    答えを言わずに、マヤはクローゼットのある部屋に引っ込んだ。

    マヤの淹れてくれたコーヒーは、最後の一口がもったいなくなるほど、美味しかった。薫が淹れたものとどうしてこれほど違うのか、不思議だった。薫は何年ぶりかで二人分の食事を作った。

     

    時間通りに、金城はやってきた。

    「思い切って、貯まってた有給取ったよ」

    若菜の事件で、マスコミが騒いでいる。警察は動きを封じられていると思ったが、遺留品や事件現場の捜索など仕事は多いのだ。

    「ごめんね」

    薫は言った。薫が紹介する前に、マヤが手を差し出す。

    「フカマチ・マヤ。・・・・・よろしく」

    「彼女が北浦真希じゃないのか?」

    金城は昨夜、薫がしたような顔をした。

    「説明すると長いんだけど、実はそうなの。彼女が・・・・・その、本当の北浦真希の居所を知ってるそうよ」

    マヤは普通の高校生の少女のように、メールをチェックしていた。

    「真田は遅れるって。たぶん、なにか緊急事態ね」

    「なんだよ、あいつも来るのか?」

    まったく、最悪のタイミングで真田の名前が出た。

    「あたしは彼に報告義務がある。薫と、あなたが持っているほとんどの疑問にも答えられると思うわ。真田には居場所を返信したから、先に行きましょう。真希が入院してる病院に、案内するわ」

    「なんだって、入院?」

    声を上げながら金城は、マヤが告げた電話番号をカーナビに入力した。当たり前だと言うように、マヤは答えた。

    「彼女、レイプされそうになったのよ。ダメージは大きいわ」

    「君じゃなくて、本当の北浦真希がか?」

    「ええ。・・・・・薫、昨日、実行犯を確保して真田が送検したでしょ? あなたも立ち会ったはず」

    「え、ええ、でも確保したのは澤田と森田の二人でしょう?」

    「ブラジル人もね。あと、一人も、すでに確保してある」

    検索完了した地図は、確かに病院の住所を示している。金城は車を走らせた。シートに座った途端、マヤは眠そうな顔になる。

    「あなたが、彼女を助けたの?」

    「そうよ。わけあって、うちのチームが早くから嶋野美琴をマークしてたの。・・・・・こんなことになったから、北浦真希になりすまして捜査しようって言うのは、あたしのアイディアだけど」

    「つまり事件が起きてから、わたしが会っていたのは、ずっと、あなただったってことね?」

    「そう。楽しかったわ。学校なんて行ったの、生まれて初めてよ」

    「この子、何者なんだ?」

    「わたしにもよく分からないから、聞かないで」

    金城は近眼になったような顔で助手席のマヤを見る。

    「しかし、本当に写真の北浦真希とそっくりだな」

    「念のため言うと、顔はいじってないわ。あたしも驚いてるの。あたしがしたことは、身分と制服を借りたことだけ」

    誰も想像もしないだろう。まさか本当に、別人だったのだから。

    「例の七人ってやつかな」

    「・・・・・自分だったらと思うと、ぞっとするけどね」

    「七人って?」

    「こっちの話」

    「この世界には最低七人は自分とそっくりな人間がいるんだと」

    言わなくてもいいのに、金城が言い添えた。

    「それって、日本の諺?」

    「どうなのかな」

    「なんでわたしに聞くの?」

    怪訝そうな薫に比べて、マヤはひどく嬉しそうに言った。

    「へえ・・・・・それならあたし、もう二人も見つけたわ。薫もあたしに、よく似たところがあるの」

    「どうかな、それ・・・・金城、変な目で見るのやめてよ」

    真に受けたのか金城は薫とマヤの顔を交互に見て、しきりに難しい顔で首を傾げていた。

    それほど時間もかからずに、ナビが案内したのは救急医療にリハビリセンターのある都内の病院だった。

    「なあ、彼女、本当に話を聞ける状態なのか?」

    薫が言い出すより先、金城が心配になってきたようだった。

    「平気よ。たぶん、発見が早かったから」

    マヤは、そっけなくこう答えただけだった。薫と金城は、顔を見合わせた。

    北浦真希の病室は空だった。ちょうど、精神科に診察に出ているところらしい。怪我よりもむしろ、精神の傷がまだ深いことは、間違いなさそうだ。マヤの話では未遂とは言え、複数の大人の男たちにら致されて乱暴されかかったと言う事実は、すぐには癒えがたいものだ。やがて、リハビリ担当のOT(作業療法士)に付き添われて、入院着姿の北浦真希が歩いてくるのが見えた。

    「真希、元気にしてた?」

    「マヤちゃん、来てくれたの?」

    遠くからマヤが声をかけると、真希は嬉しそうに駆け寄ってきた。手を握り合って親しげに近況を話し合う様子は、同じ年頃の女の子たちがしているのと、そう変わりはない。

    「マジかよ・・・・なんか、気味悪いな」

    「・・・・・ちょっとね」

    確かに一見したところ、服装が違うだけで、二人の背格好はびっくりするほどそっくりだ。ただ、薫が同性の目でよく見ると、マヤの方が身体つきも身のこなしもしなやかな感じで、大人っぽいのに対して、真希はまだ固さが残り、下手すると年より幼い印象を与えた。入れ替わっても誰にも気づかれなかったのはもしかすると、よっぽど普段、真希の存在感が稀薄だったからかもしれないとも思う。

    似た種類の花でも、野生のものと地下室の蛍光灯でひっそりと栽培したものでは、雰囲気は大分変わるものだ。

    マヤにはこの年頃の少女にはまったく不似合いな、まったく違う経験を経て培われた、厳しい、なにかがある。

    そこまで分かるはずもない金城は唖然とした表情のまま、鏡に映したような二人が親しく話している不思議な場面を見守っている。

    「大丈夫、心配しないで。・・・・・眠れるようにはなったし、大分気持ちも楽にはなってきたんだ」

    と、真希は言ったが、もともと血の気の薄そうな顔は、青白く、表情も伏し目がちに見えた。

    「今朝、電話で話したとおり、刑事さんを連れてきたわ。警視庁の水越さんと、金城さん」

    同じ、唇がしゃべる。

    「北浦真希です・・・・・・あの、みこちゃんの事件を調べ
  • 警視庁 IT特別捜査官(上) 命を賭けたギャンブルゲーム

    2014-09-03 18:37

    この二人から、彼女は、決定的な情報を菅沢にリークしようとしている。正確には、菅沢を通してマスコミに、表の世界に、嶋野美琴を含む三人が関わっていた裏の事実を暴露しようとしている。彼女は三人に恨みを持っている。しかし、美琴の事件があるから、この事実の暴露に関して、直接表には立てない。彼女が「マキ」=北浦真希である可能性は高い。

    残念ながら学校側にファイルを返却してしまったため、今は手元に北浦真希の顔を確認できる資料はない。菅沢なら知っているだろうが、彼を再び捕まえている時間的余裕は今、さすがにない。

    三十分早く、薫はJR池袋駅に到着した。朝早くにもかかわらず、南口の広場は待ち合わせに時間を潰す集団で賑わっていた。卒業式のシーズンで、集まっているのは近くの立大生だ。至るところに彼らはいて、待ち合わせにめぼしい席はほとんど埋まってはいたが、晴れ着のスーツや着物の中にあの学校の制服は目につくはずだ。とりあえず、目標を見失うことはなさそうだった。

    約束の時間まで残り十分・・・・・五分。四方に気を配ったが、それらしい影は見当たらなかった。式が始まるのか、地上、西口公園前に通じるエスカレーターに、大学生が移動し始めている。彼女からの電話はまだ、来ない。やがて、時間を過ぎた。

    すると、突然、薫のバッグの中から振動音が響きだした。菅沢のではない。自分の携帯だ。あわてて、薫は中身を探った。ディスプレイには知らない着信が入っている。怪訝そうに首を傾げながら、薫は電話をとった。辺りに気を配り、それらしい人影を依然探しながら。

    「・・・・・もしもし」

    『・・・・・・なんででないんだよ』

    押し殺したような切迫した声が・・・・・突然聞こえてきた。

    「あなた誰? わたしに何の用?」

    『電話しろって・・・・・言ったじゃんか・・・・なんだよ、全然でないじゃんか・・・・・』

    後半は、乱れた不規則な吐息と泣きじゃくる声が混じった。

    「あなた・・・・・もしかして・・・・・」

    薫は思わず息を呑んだ。まさか、野上若菜?

    「野上さん?」

    息を切らしながら、彼女はそうだと言った。やっぱりだ。

    『なにやってんだよ・・・・・今、どこにいるのぉ・・・・?』

    どうも、様子がおかしい。若菜はなにかに追い立てられているように、腹立たしげな泣き声を立てた。

    「ごめんなさい、移動中だったの。・・・・・どうかしたの? 朝から、どこか様子がおかしいみたいだけど」

    『今すぐ来て。すぐ。話したいことが、あるから・・・・・』

    「話したいことってなに?・・・・・電話ではまずいこと?」

    『いいから、すぐ来てよ!』

    若菜は叫ぶように、言った。

    (どうしよう)

    今、ここを離れるわけにはいかない。しかし若菜の今の様子からも、そちらも放っておくわけにはいきそうにもない。

    「あなた今、どこにいるの? もし、なにか切羽詰ってることがあるなら、本署の方に」

    『あんたじゃなきゃだめなの! いつでも連絡してって言ったじゃん! 来いよ!・・・・・来て、お願い、やばいの・・・・』

    菅沢の携帯が、鳴り出した。周囲を見渡す。それらしい誰かが来る気配はない。

    「すぐ行くわ。どこにいる?・・・・・・わたし今、池袋にいるの。あなたは」

    『西口公園・・・・・おっきなエスカレーターのある劇場の下、トイレ・・・・早く、急いで・・・・・』

    最後は消え入りそうな声になった。小さく、咳き込む。彼女の身になにが、起こってる? 迷っている暇は、なかった。エスカレーターに群がる人並みを掻き分けて、西口公園を目指す。話からして、新芸術劇場の地下トイレだ。

    菅沢の電話が鳴り響く。

    「五分ほど席を外すわ。緊急の用事よ。・・・・・少し待って」

    相手は返事をしなかった。否も応もない。薫は電話を切った。

    将棋台を囲んだホームレスと、大学生がたむろする公園。薫は走った。どうして彼女はトイレにいる? トイレから、どうして薫に助けを求めている?

    新芸術劇場は、一階のフロアから最上階に直通でのぼる長いエスカレーターと、地下のギャラリースペースに降りるエスカレーターに分かれている。若菜が呼んでいるのは、地下、その奥にあるトイレだ。打ちっぱなしのコンクリートの壁を伝いながら、薫はどうにかそこにたどり着いた。この早い時間、使用中のトイレは入り口側の一室だけだった。

    薫はさっきから、何度も電話をかけなおしているが、彼女は着信に応じない。

    ブーン、ブーン、と熊蜂が漂うような、低いうなり声のバイブ音が、そのドアからかすかに響いてきていた。

    「野上さん」

    ドアには鍵が掛かっている。薫は彼女の名前を呼びながら、トイレのドアをノックした。中からはすでに返事がない。上から中を覗き込んで、薫は、はっと息を呑んだ。

    若菜が、倒れている。辺りに血を、撒き散らして。

    白いセーターの袖。赤黒く濡れた手首。血まみれの指で、彼女は力なく、それを握っていた。

    「野上さん!」

    薫はすぐに、携帯で応援を呼んだ。

     

    野上若菜はトイレの中で、右の手首を切って倒れていた。

    それが自分でやった傷だと言うことは、状況から考えても明らかだった。彼女がもたれていた便器の脚の下に散らばった数枚の替え刃があった。呼び出し音とディスプレイを光らせて床で時計回りに回転していた携帯電話、そのいずれも、血にまみれた若菜の指紋がついていた。

    自殺者が恐怖に思い余って、電話で助けを求めることはよくある。生と死を分ける二つのツール。その両方に若菜の手があったということは、それがそのまま彼女の混乱と不安の深刻さを表していた。

    意識不明のまま、搬送された。手首を切って、薫の携帯電話にコールするまでの間、かなりの時間が経っていたらしく、薫が抱き上げたときには、その身体から体温はほとんど失われていた。

    所持品の生徒手帳で、若菜の血液型が判った。若菜は薫と同じ、B型。彼女の名前を呼びかけながら、薫は救急車に乗り込んだ。

    「水越」

    薫の報告を受けて間もなく搬送先の病院に現れた金城は、唖然とした顔になって彼女に聞いた。

    「大丈夫か」

    「ええ、わたしは・・・・・大丈夫、平気よ」

    そう言ったが、薫はほとんど放心状態に近かった。

    「手首を切ったのは、亡くなった嶋野美琴の同級生だったらしいじゃないか。お前・・・・・まさか、偶然通りかかったわけじゃないよな?」

    「・・・・・ええ」

    薫は、静かに肯いた。今となっては遅いかもしれないが、もう話すべきだと、彼女は思った。

    「どう言うことなんだ?」

    薫は金城に、今までの動きすべてを話した。塚田、菅沢からあぶり出した、嶋野美琴の裏の顔。満冨悠里と野上若菜の二人のこと。そして、菅沢の情報提供者で、事件に深く関わっているはずの最後の関係者・・・・・北浦真希。

    「なんだよそれ・・・・・・」

    さすがに金城も顔色を失うくらいの戸惑いを見せて、言った。

    「どうしてそんな重大なこと、今までみんなに隠してたんだ?」

    「マキの正体が分かるまで、あなたにも伏せておきたかったのよ。・・・・・実は、わたしが見た悪夢が、わたしに『マキ』の存在を気づかせる、最初のきっかけになったから」

    もはや、呆れられてもいい。薫は夢の話もすることにした。事件発生から、ここ何日にも渡って、執拗に薫を脅かした、美琴の死の悪夢のこと。現実との不思議な符号。そして、ついに接触を果たすことになっていたかもしれない、「マキ」のこと。

    金城はそれを、余計な相槌ひとつ挟まずに聞いてくれた。長い間背負っていた荷を、やっと降ろせた気がしただけでも収穫だった。

    薫の話の切れ目に、眉根を寄せて深くため息をついてから、金城が最初に口を開いた一言は、

    「お前がなにか悩んでたのは、察しがついてたよ。どっか様子もおかしかったしな・・・・・だがなぜもっと早く、おれだけにでも話してくれなかったんだ」

    「ごめんなさい。・・・・・わたしも最初は半信半疑だったの。悪夢に導かれて・・・・・調べるとそれがどんどん、本当のことになっていって、それを認めるのも怖かったからかもしれない」

    「昨夜、お前が式場下のトイレの前で、誰かと騒いでたのを上から見てたよ」

    突然、金城は言った。薫は、はっとして金城を見返した。

    「相手は今日、手首を切った例の女の子か?」

    金城は処置室のほうにあごをしゃくった。薫は無言で肯いた。

    「その件は、黙っておいたほうがいいだろう。・・・・・ことによっては、証拠もない違法捜査で、関係者を脅迫したせいだと思われるかもしれないからな。ただ、それがなくてもまずいぞ。一課長は夕方から緊急記者会見を開く予定だと。あのとき現場にいたお前は、間違いなく事情を聴かれる。そのとき、どう答えるかだな」

    若菜と自分との関係について聴かれることは、うすうす、覚悟はしていた。しかし迷っていたのは、今までの経緯をどう説明したらいいのか、と言うことだ。

    「おれは・・・・・お前が今した話は、かなり信じられる線だとは思うよ。あの子と、もう一人いた満冨悠里って子、それにもう一人が深く事件に関わってるって言う、お前の話も筋が通ってると思う。だがもし、お前が追ってた子が死んで、違法捜査でお前がその槍玉に挙げられるとなると、たぶん、その線で事実関係を洗うことも、難しくなってくるはずだ」

    「・・・・・そうね」

    金城の言うことはいちいちもっともだと、薫も思った。

    「ともかく、お前の話は出来る範囲でおれの方でも洗ってみるよ。怨恨がもとになってるとしたら、ネット仲間より人間関係は洗いやすいからな。話では主犯は、その北浦真希って子なんだろ?」

    「・・・・まだ全然、自信持って言える範囲じゃないんだけどね」

    「上出来だよ。手が空いてる仲間に声かけてみる」

    「ありがとう」

    金城はなにか他に、薫にかける言葉を捜そうとしたが、見つからなかったのか、頭を掻いてから、

    「ちょっと休めよ、薫。早くそれ、着替えたほうがいいぜ」

    「あ・・・・・・うん」

    今、気づいた。若菜を搬送してきたときのまま、薫はずっと、血まみれだったのだ。

     

    病院を出た直後に上司から電話があった。無期限の自宅待機。上司が直接、薫に事情を聞くのは後日と言う。若菜が手首を切った状況についての事実は、初動捜査を担当した刑事に話をしてある。そうなった詳しい経緯は別として、今は、目の前の事態を収拾しなければならないのだろう。

    被害者の親友が、葬儀の後に自殺を図ったのだ。

    緊急のニュース速報を伝える声の中を、どこか他人事のように聞きながら、薫は帰途に着いた。

    いつのまにか、夕陽が赤く射していた。ドアを開けて中に入ろうとした瞬間、菅沢の携帯電話が鳴った。「非通知」だった。すぐに薫は通話ボタンを押した。

    『・・・・・もしもし』

    相手は今日の、若い女の声ではなかった。男だった。薫は怪訝そうに眉をひそめる。

    「誰なの? 菅沢?」

    『・・・・・ああ、菅沢ね』

    ? 相手は言った。

    『君のお陰でやつには迷惑してるよ。・・・・・昨日も会ったが、電話を返してくれ、ってしつこくおれに、泣きついてきてな』

    トントン、と背後から肩を突かれ、びっくりして薫は背筋を立たせた。反射的に距離をとって身構える。

    「大変だったな」

    いつのまにか真田が、電話を持って立っていた。

    「なにか用ですか?」

    「様子を見に来た。あれから、どうしてるのかと思ってね」

    「・・・・・・・・・・・」

    「君の同僚に聞いた。どうやら、君のせいで、嶋野美琴の関係者が自殺したらしいな」

    無言で、電話を切ると、薫は真田にそれを投げつけたい衝動に駆られた。それでもどうにか無視して、ドアの鍵を探す。

    「死んだのは、野上若菜か。彼女は死んだ嶋野美琴と、もう一人、満冨悠里って子と、つるんで、やばいことしてたんだろ。若菜が死んで、菅沢はがっかりするだろうな。これでまたしばらくは、誰もやつの原稿を買ってくれる編集者はいなくなる」

    鍵が見つかった。強引に、薫は鍵穴にねじ込んだ。

    「・・・・・彼女はまだ死んでいません。輸血もしたし、まだ五分の状態だと医者は言ってました」

    「どちらにしても失態は、接触を図りながらみすみす彼女を自殺に踏み切らせてしまった、君の責任になるだろう。菅沢の言うことを信用して、君は野上若菜を追い詰めた」

    「責任は甘んじて受けます。主張すべきことは主張して」

    ついに耐え切れずに、薫は口火を切った。

    「でも、それが今、あなたになんの関係があるんです?」

    「・・・・・今日の野上若菜を含む三人は、人に頼んである夜、自分の同級生をさらわせたそうだ」

    真田は、急に違う話を始めた。

    「集団でバンに押し込めて、山奥に連れて行って、レイプしようとした。犯行に参加したのは、上は二十八歳、下は十六歳まで合計四人。中には森田勝行って言う、横浜で路上強盗の前科のある少年も含まれてる。下北沢でクラブをやってる、澤田由紀夫って男が人数を集めたそうだ。・・・・・・ちなみにこの澤田って男は、売春クラブの一件で菅沢があげてた奥田の高校の同級生らしい」

    「・・・・・・・・・」

    「計画が実行に移されたのが、三月の六日。嶋野美琴が塾からの帰宅途中になにものかに拉致され、殺害後、自宅近くのゴミ捨て場に遺棄される事件が起きる、ちょうど二日前だ」

    「・・・・・どうして」

    今。なぜ。

    「真田さんはそのことを?」

    「これは菅沢から聞いた話だ。だから君にも、聞く権利がある」

    真田はスーツのポケットを探ると、煙草を取り出して、

    「その日、狙われた同級生は進学塾へ行く途中におびきだされ、四人にバンでさらわれた。だが不思議なことに、次の日、無事に登校してきたし、暴行を受けた様子も見えない。普通に学校に通っていたそうだ。さらに事件後、森田はじめ、犯行に参加したメンバーは全員行方が分からなくなっている。・・・・・ところでこの同級生だが彼女が誰だか、君には心当たりがあるか?」

    「マキ」

    思わず事実が判明したショックに半ば自失して、薫は答えた。

    「・・・・・北浦真希」

    答えた、と言うより、ほとんどつぶやいた印象だった。

    「そう、北浦真希だ。どうも同級生の証言によると、そのことがあった夜以来、彼女は様子がおかしくなっていたらしい。だがそれが、精神に傷を負ったり、塞ぎ込んだりした感じではなくてね。奇妙な話なんだ。・・・・・・多くの人は彼女が、別人のような印象になった、と証言している」

    「・・・・・・・・・」

    「奇妙な符号だろう? ちょうど、一年半前、嶋野美琴が言われていたことと、同じことを、彼女は言われているんだ。なぜ、彼女は変わったのか・・・・・」

    「真田さん」

    真田の言葉を遮るようにして、薫は言った。

    「分かりません・・・・・あなたの目的は一体、なんですか? どうしてこの事件に・・・・・わたしに深く肩入れするんですか?」

    「君に肩入れしてるつもりはない」

    意外そうな顔をして、真田は首を傾げた。

    「仕事は違うが、君とおれは同じ方向を向いている。中々、いい目の付け所だと言っただろう? おれは、嘘は言わない。まあ君は近々、今の事件の担当を外されるみたいだが」

    「真田さんには関係ない・・・・・何度も言わせないで」

    「捜査を続ける気があるなら、おれは君を救うことが出来る。ただ、今の捜査課でなくこっちに入っておれの指示に従ってもらうが」

    「・・・・・・・・」

    「弱みにつけこむ気はない。好きにすればいいさ。君の処遇も、近日中には決まってくるだろうし、その間少し休むのも、決して悪い考えじゃない」

     

    マキの正体

    ついに、野上若菜の意識は戻ることはなかった。もともと、そんな予感がしていた。今となってはあのトイレの記憶は遠く感じられたが、彼女の自殺は追い詰められて決意したもの、と言うよりは、誰かに強制された色合いが強いように思えてならなかった。

    あの場には、二人の人物がいなかった。言うまでもなく、満冨悠里と北浦真希だ。少なくとも一人は、近くまで来ていた。

    あれは緊急事態にあわてて薫に電話したものか、それがどう言う意図のものかは分からなかったが、若菜だけがあの場に残された。彼女は誰かのスケープゴートにされたのだ。薫は彼女を救えなかった。どんな処分を受けても不服はなかった。

    ほどなく、事件の担当から正式に薫は外された。処分が決定するまで扱いは、自宅謹慎になった。

    処分を受け、自宅へ帰ると電話に、母からの伝言が入っていた。兄の晴文が戻ったらしい。無言で、自室に引き籠もっているという。父親との冷戦状態が解消したわけではないので、一件落着と言うわけにはいかないが、一応、安心はした。

    受話器の奥で父親がなにか話したがっていたが、事件の捜査があるということで、先に切った。たぶん、薫が単独捜査で処分を受けた件を小耳に挟んだのだろう。別に何も、意見を求めることはない。 

    菅沢の携帯には、二度と着信は入らなかった。若菜の事件が騒がれている。魚は、逃げた。捜査線上にもまだ、満冨悠里の名前は浮かんではいないようだった。

    金城とは不定期に二、三度、連絡を取り合っている。

    『野上若菜の件で、彼女の両親から警察に事情を聞きたいと申し出があったよ。今度の件で学校側も捜査協力に難色を示すようになってる。ほとぼりが冷めるまで、こちらとしては大人しくしているしかないな。お前が言ってる線を探るのは、しばらく無理だ』

    「北浦真希の件は?」

    『お前が聞いた、レイプ監禁云々の話は漏れてはこないな。もう学校は春休みに入って、彼女は自宅から二駅先の進学塾に通っているが、別に変わった様子はない。それは本当に確かな情報なのか?』

    真田から聞いた情報だとは言えず、薫は口ごもってしまった。

    北浦真希の生徒証の写真が、薫のもとに届けられた。そこに写っている黒髪ショートの女子高生は、確かに薫が学校と美琴の葬儀場で二度も接触した、あの少女だった。

    やはり彼女が、北浦真希だ。彼女が、「マキ」。二人の少女の死に、関わった。たぶん、あの場にもいた。

    不思議なことに悪夢は、その夜から再び復活した。

    薫もこのままでは、引き下がる気にもなれなかった。ある日、真田の指定した番号に彼女はコールすることにした。

    『分かった。・・・・・じゃあ、早速仕事にかかろう』

    真田は言った。オフィスに来いとも言わず、いきなり待ち合わせの場所と時間を指定してきた。

    『初仕事だ。君の働きを期待している』

    「なにをするんですか?」

    『そうだな』

    と真田は歌うように言い、

    『まずは、柄を押さえる』

    「・・・・・誰のですか?」

    『決まってるだろ』

    愚問だと言うように笑うと、真田は言った。

    『「マキ」のだよ』

     

    指定された場所に、真田は現れなかった。いいようにあしらわれたのではないかと、正直、薫は思っていた。

    界隈はひどく、物騒な場所だった。盛り場と言うでなく、抜け道のような裏通りでもない。寂れた駅の沿線にある、荒れ果てた裏路地だ。シャッターの下りた店舗が目立つ一本道に通じたT字路の境は、潰れた駐車場になっている。唯一営業しているように見える個人経営の楽器屋の店先まで、五百メートルはあるだろうか。

    夕暮れどき人気は極端に少なく、明かりもない。風景が、無人の暗室にいるように赤黒く暮れなずんでいる。人目につきたくない取引や接触を果たすのには、絶好の場所だった。

    真田は車でやってきた。フィルムを張った黒のセダン。こんなところに長く停めてあると、職質されそうな怪しい車両に見えた。

    ミラー越しに真田が隣に乗れと、指示していた。薫は助手席に乗った。真田一人だった。ここからどこでなにをするかは分からないが、夕日も落ちきって、大分冷えてきている。真田を疑った十五分で身体はかなり固まっていた。

    「合図があったらすぐ出るぜ。準備は出来てるか?」

    わけが分からないまま、薫は肯いた。

    「ここで・・・・・なにをするんですか?」

    「言った通りさ。身柄を確保する。『マキ』のな」

    「ここで? 『マキ』を捕まえる?・・・・・こんなところでですか?」

    薫は不審そうに辺りを見回した。

    「君の言いたいことは、大体分かる」

    真田は、平然として言った。

    「北浦真希の身柄を確保したいなら、彼女の自宅に行けばいい。それで済むはずだ。ただそれはもし、今、拘束できる理由があったなら、だろう?」

    困惑している薫をどこか楽しむように、

    「君はおれの指揮下に入った。ちゃんと、君の上司にも話は通してある。おれの指示に従って、まずはそれなりに役目を果たしてくれないと、困るな」

    真田は言った。ちょうど、無線機に入電した。

    「入ったか?」

    真田が聞く。真田の班員がどこかで張っているのか、対象者が動いた、と言う知らせがノイズとともに返ってくる。

    「よし、そのまま目を離すな。いいか。・・・・行くぞ」

    薫の返答も聞かずに、真田はドアを開けた。

    「君はあっちだ」

    ? まごまごしながら真田について出た薫に声が飛ぶ。

    「反対側の路地から中に回ってくれ。早く。君はあの、角の通りを塞ぐんだ」

    と、指示通り走ろうとする薫に、真田は小さな塊を投げて寄越した。二十二口径リボルバー、実弾の入った拳銃だった。

    「これは?」

    「護身用さ。・・・・・・場合によっては撃ってもいい。迷うな。始末書の心配は、無しだ」

    こともなげに言うと、真田は走り出した。薫もそれに従う。拳銃を携帯した経験はほとんどなかった。まして、発砲が許されたことなど。大体、捕まえるのは、ただの女子高生のはずだ。そもそも、こんな時間、こんなところにいるはずのない。どうして? 薫に答えをくれるものは、鈍い夕闇の中、すでに誰もいなかった。

    路地からは、暴走族でも暴れているのか、若い男たちの怒号が聞こえてくる。捜査員たちはその声を頼りに、なにか右往左往しているようだった。

    真田に指定された角を曲がると、そこは古びたラブホテルが建ち並んでいるだけだった。声だけが聞こえてきた。囃すような声、笑い声。そして、たまにあれは・・・・・悲鳴か。女のものではないように思えた。

    (どうすればいいの?)

    真田は無線機を与えてはくれなかった。緊急で間に合わなかったのだろう。それほど、薫には期待していたわけではないのだ。

    やがて、ホテルの裏から何者かが飛び出してきて薫と鉢合わせた。茶のブレザー、紅いリボン。チェックのスカート。北浦真希だ。

    「あなた・・・・・・!」

    声をかけて、薫は二の句が告げなかった。本当に、現れた?

    「・・・・・刑事さん?」

    不思議そうに、彼女は小首を傾げた。

    「待って・・・・・待ちなさい」

    その姿はこんな場所では、ひどく違和感あるもののように薫には映った。「マキ」も、薫の姿に気づいて一瞬、びっくりしたようだった。盗みをして走り出てきた猫のように、彼女は立ち止まった。

    「なにか用?」

    相手は言った。=電話口の声。感情の抑揚の少ない、真水のような声音だった。

    「こんなところで一体、なにをしてるの?」

    あなたこそ。と言うように、「マキ」は薫を見た。

    「あの日、待ってたわ・・・・・池袋駅の南口で」

    薫は、余計な駆け引きなしで「マキ」にぶつけた。

    「菅沢の情報提供者はあなたでしょう? あなたは、あのとき、野上若菜と満冨悠里を証言者として同席させようとした」

    そうだとも違うとも言わずに、彼女は黙っていた。怒号が遠くに聞こえる。

    「あなたのせいで二人死んだ。それは、疑いない事実よ。あなたは彼女たちにどんな恨みを持っていたの?・・・・あなたの目的を教えてちょうだい」

    「恨みなんか、別にないわ。・・・あなた、勘違いしてる」

    彼女は言った。薫の剣幕に比べると、道端で盛り上がらない話をしているようなテンションだった。

    「二人が死んだのは、自分たちの責任よ。彼女たちが、たぶん、ゲームに負けたから。つまり、そう言う仕組みなの。美琴も若菜も、死ぬべくして、死んだ」

    「ゲーム? ふざけてるの? あなた、おかしいわ」

    「そう? あたしが言ってることは・・・・・ただの事実なんだけどな」

    薫の目の前に、彼女の指が突き出された。とっさに薫は身構えた。

    「あなたも見たはずよ」

    どこかで。と、彼女は言った。その指は彼女自身のこめかみにいって、そこを軽く、二、三回、突いた。彼女は薄く微笑んだ。

    「悪夢は消えた?・・・・・よく思い出して。美琴は、・・・・・あの子は、どんな風に死んだのか?」

     

    気がつくと、また同じ風景の中にいた。毎夜毎晩、薫を誘い込む風景の中に。男たちが、笑いさざめている。携帯電話を持ち寄り、吊るされた少女の遺体の写真を撮りつつ、「ゲーム」について話している。やつらは、言う。口々に。

    そう。これは、ゲームだ。それに従って彼女は殺された。ゲームには、事実を正確に管理するために厳格なルールがある。彼女は、たぶん、それに則って殺されたのだ。

    「いいか、これはフェアな、ゲームなんだ」

    誰かが言う。彼を知っている。彼は、鶴見だ。もう一人が言う。

    「ハズレを三回引けたら、助けてやる」

    「再開の合図を受信したら、第二ラウンド再開だ」

    男たちの手には、携帯電話が握られている。その憑かれたような眼差し。物欲に燃えた目、餓鬼の亡霊。ぼんやりとしていた男たちの顔が、はっきりと吊るされた薫の目に映りこんでいく。

     

    「止まりなさいっ!」

    薫は拳銃を構えた。両手で、狙いがぶれないように。反動を覚える。射撃訓練で教わった、基本中の基本をまず思い出した。マキは、はっとした顔ひとつ、しなかった。

    まるで弾丸など、自分を殺す力はない、とでも言うように。

    「手を上げて!」

    薫の声には殺気が籠もっていた。なぜこうなったか分からない。悪夢。悪寒。そして憎悪。繰り返し刷り込まれた感情の高ぶりが、怒りが、一気に噴出して、彼女にぶつけられたのか。それでも平然と、彼女は銃口を睨んでいた。

    「止まらないとあなたを撃つ・・・・・あなたを確保するわ」

    「そう」

    と、彼女は言った。マキとの間は、いつの間にか十メートル近くも離れていた。

    「撃てばいいわ。たぶん、当たると思う。・・・・・・ちゃんと、人を撃った経験があるなら」

    「撃てないと思ってるの?」

    ぎりぎりの、はったりだった。撃たない理性くらいは残っている。それに日本の警官は無闇に拳銃を携帯しないし、発砲しないという前提で、厳然たる規則に縛られている。真田は無造作に拳銃を渡したが、薫には元来、街中で発砲すると言う意識それ自体がなかった。

    端から威嚇だと思っているのか、まるで動じる気配がない。ただの女子高生が? そんなはずはない。まさか。

    「聞かせて」

    銃口を下に向けながら、薫は聞いた。

    「あなたや、嶋野美琴になにがあったの?・・・・・どう見ても普通じゃないわ、あなた。・・・・・まるで」

    「別人みたい?・・・・うん・・・・ほんと、そうかもね」

    マキは言った。冗談を言ったようには、聞こえなかった。

    「みんな、変わるみたい。しかも、本人も予想もしなかった方向に。イズム・・・・これは、そう言うゲームなの」

    「イズ・・・・・ム?」

    イズム? なにを言っているのだ、彼女は。

    その瞬間、マキの背後から、誰かが走り出てくる気配がした。応援か。薫は、そこで初めて我に返って顔を上げた。そこにいたのは、どう見ても、スーツ姿の応援の捜査員ではなかった。

    身長、一八〇センチ以上の。目を血走らせた、外国人の男だった。南米系、見たところブラジル人。罵り声は英語ではない。紫色のパーカーに、ジーンズ。普通ではない興奮の様子から、薬物を使用している独特の雰囲気がうかがえた。

    追ってきたのは、やはりマキだ。彼女の姿を見つけて、男はなにか卑猥なスラングをわめき立て、襲い掛かってくる。

    止めないの? と言う風に、彼女は肩をすくめた。一呼吸遅れて、薫は拳銃を構えなおした。


    ブラジル人は、殺到してくる。このまま両足を引っこ抜いて、マキを身体ごとさらって行きそうなスピードだった。止めないの? 彼女が仕草で薫に合図したのは、自分自身のことらしかった。

    この二人から、彼女は、決定的な情報を菅沢にリークしようとしている。正確には、菅沢を通してマスコミに、表の世界に、嶋野美琴を含む三人が関わっていた裏の事実を暴露しようとしている。彼女は三人に恨みを持っている。しかし、美琴の事件があるから、この事実の暴露に関して、直接表には立てない。彼女が「マキ」=北浦真希である可能性は高い。

    残念ながら学校側にファイルを返却してしまったため、今は手元に北浦真希の顔を確認できる資料はない。菅沢なら知っているだろうが、彼を再び捕まえている時間的余裕は今、さすがにない。

    三十分早く、薫はJR池袋駅に到着した。朝早くにもかかわらず、南口の広場は待ち合わせに時間を潰す集団で賑わっていた。卒業式のシーズンで、集まっているのは近くの立大生だ。至るところに彼らはいて、待ち合わせにめぼしい席はほとんど埋まってはいたが、晴れ着のスーツや着物の中にあの学校の制服は目につくはずだ。とりあえず、目標を見失うことはなさそうだった。

    約束の時間まで残り十分・・・・・五分。四方に気を配ったが、それらしい影は見当たらなかった。式が始まるのか、地上、西口公園前に通じるエスカレーターに、大学生が移動し始めている。彼女からの電話はまだ、来ない。やがて、時間を過ぎた。

    すると、突然、薫のバッグの中から振動音が響きだした。菅沢のではない。自分の携帯だ。あわてて、薫は中身を探った。ディスプレイには知らない着信が入っている。怪訝そうに首を傾げながら、薫は電話をとった。辺りに気を配り、それらしい人影を依然探しながら。

    「・・・・・もしもし」

    『・・・・・・なんででないんだよ』

    押し殺したような切迫した声が・・・・・突然聞こえてきた。

    「あなた誰? わたしに何の用?」

    『電話しろって・・・・・言ったじゃんか・・・・なんだよ、全然でないじゃんか・・・・・』

    後半は、乱れた不規則な吐息と泣きじゃくる声が混じった。

    「あなた・・・・・もしかして・・・・・」

    薫は思わず息を呑んだ。まさか、野上若菜?

    「野上さん?」

    息を切らしながら、彼女はそうだと言った。やっぱりだ。

    『なにやってんだよ・・・・・今、どこにいるのぉ・・・・?』

    どうも、様子がおかしい。若菜はなにかに追い立てられているように、腹立たしげな泣き声を立てた。

    「ごめんなさい、移動中だったの。・・・・・どうかしたの? 朝から、どこか様子がおかしいみたいだけど」

    『今すぐ来て。すぐ。話したいことが、あるから・・・・・』

    「話したいことってなに?・・・・・電話ではまずいこと?」

    『いいから、すぐ来てよ!』

    若菜は叫ぶように、言った。

    (どうしよう)

    今、ここを離れるわけにはいかない。しかし若菜の今の様子からも、そちらも放っておくわけにはいきそうにもない。

    「あなた今、どこにいるの? もし、なにか切羽詰ってることがあるなら、本署の方に」

    『あんたじゃなきゃだめなの! いつでも連絡してって言ったじゃん! 来いよ!・・・・・来て、お願い、やばいの・・・・』

    菅沢の携帯が、鳴り出した。周囲を見渡す。それらしい誰かが来る気配はない。

    「すぐ行くわ。どこにいる?・・・・・・わたし今、池袋にいるの。あなたは」

    『西口公園・・・・・おっきなエスカレーターのある劇場の下、トイレ・・・・早く、急いで・・・・・』

    最後は消え入りそうな声になった。小さく、咳き込む。彼女の身になにが、起こってる? 迷っている暇は、なかった。エスカレーターに群がる人並みを掻き分けて、西口公園を目指す。話からして、新芸術劇場の地下トイレだ。

    菅沢の電話が鳴り響く。

    「五分ほど席を外すわ。緊急の用事よ。・・・・・少し待って」

    相手は返事をしなかった。否も応もない。薫は電話を切った。

    将棋台を囲んだホームレスと、大学生がたむろする公園。薫は走った。どうして彼女はトイレにいる? トイレから、どうして薫に助けを求めている?

    新芸術劇場は、一階のフロアから最上階に直通でのぼる長いエスカレーターと、地下のギャラリースペースに降りるエスカレーターに分かれている。若菜が呼んでいるのは、地下、その奥にあるトイレだ。打ちっぱなしのコンクリートの壁を伝いながら、薫はどうにかそこにたどり着いた。この早い時間、使用中のトイレは入り口側の一室だけだった。

    薫はさっきから、何度も電話をかけなおしているが、彼女は着信に応じない。

    ブーン、ブーン、と熊蜂が漂うような、低いうなり声のバイブ音が、そのドアからかすかに響いてきていた。

    「野上さん」

    ドアには鍵が掛かっている。薫は彼女の名前を呼びながら、トイレのドアをノックした。中からはすでに返事がない。上から中を覗き込んで、薫は、はっと息を呑んだ。

    若菜が、倒れている。辺りに血を、撒き散らして。

    白いセーターの袖。赤黒く濡れた手首。血まみれの指で、彼女は力なく、それを握っていた。

    「野上さん!」

    薫はすぐに、携帯で応援を呼んだ。

     

    野上若菜はトイレの中で、右の手首を切って倒れていた。

    それが自分でやった傷だと言うことは、状況から考えても明らかだった。彼女がもたれていた便器の脚の下に散らばった数枚の替え刃があった。呼び出し音とディスプレイを光らせて床で時計回りに回転していた携帯電話、そのいずれも、血にまみれた若菜の指紋がついていた。

    自殺者が恐怖に思い余って、電話で助けを求めることはよくある。生と死を分ける二つのツール。その両方に若菜の手があったということは、それがそのまま彼女の混乱と不安の深刻さを表していた。

    意識不明のまま、搬送された。手首を切って、薫の携帯電話にコールするまでの間、かなりの時間が経っていたらしく、薫が抱き上げたときには、その身体から体温はほとんど失われていた。

    所持品の生徒手帳で、若菜の血液型が判った。若菜は薫と同じ、B型。彼女の名前を呼びかけながら、薫は救急車に乗り込んだ。

    「水越」

    薫の報告を受けて間もなく搬送先の病院に現れた金城は、唖然とした顔になって彼女に聞いた。

    「大丈夫か」

    「ええ、わたしは・・・・・大丈夫、平気よ」

    そう言ったが、薫はほとんど放心状態に近かった。

    「手首を切ったのは、亡くなった嶋野美琴の同級生だったらしいじゃないか。お前・・・・・まさか、偶然通りかかったわけじゃないよな?」

    「・・・・・ええ」

    薫は、静かに肯いた。今となっては遅いかもしれないが、もう話すべきだと、彼女は思った。

    「どう言うことなんだ?」

    薫は金城に、今までの動きすべてを話した。塚田、菅沢からあぶり出した、嶋野美琴の裏の顔。満冨悠里と野上若菜の二人のこと。そして、菅沢の情報提供者で、事件に深く関わっているはずの最後の関係者・・・・・北浦真希。

    「なんだよそれ・・・・・・」

    さすがに金城も顔色を失うくらいの戸惑いを見せて、言った。

    「どうしてそんな重大なこと、今までみんなに隠してたんだ?」

    「マキの正体が分かるまで、あなたにも伏せておきたかったのよ。・・・・・実は、わたしが見た悪夢が、わたしに『マキ』の存在を気づかせる、最初のきっかけになったから」

    もはや、呆れられてもいい。薫は夢の話もすることにした。事件発生から、ここ何日にも渡って、執拗に薫を脅かした、美琴の死の悪夢のこと。現実との不思議な符号。そして、ついに接触を果たすことになっていたかもしれない、「マキ」のこと。

    金城はそれを、余計な相槌ひとつ挟まずに聞いてくれた。長い間背負っていた荷を、やっと降ろせた気がしただけでも収穫だった。

    薫の話の切れ目に、眉根を寄せて深くため息をついてから、金城が最初に口を開いた一言は、

    「お前がなにか悩んでたのは、察しがついてたよ。どっか様子もおかしかったしな・・・・・だがなぜもっと早く、おれだけにでも話してくれなかったんだ」

    「ごめんなさい。・・・・・わたしも最初は半信半疑だったの。悪夢に導かれて・・・・・調べるとそれがどんどん、本当のことになっていって、それを認めるのも怖かったからかもしれない」

    「昨夜、お前が式場下のトイレの前で、誰かと騒いでたのを上から見てたよ」

    突然、金城は言った。薫は、はっとして金城を見返した。

    「相手は今日、手首を切った例の女の子か?」

    金城は処置室のほうにあごをしゃくった。薫は無言で肯いた。

    「その件は、黙っておいたほうがいいだろう。・・・・・ことによっては、証拠もない違法捜査で、関係者を脅迫したせいだと思われるかもしれないからな。ただ、それがなくてもまずいぞ。一課長は夕方から緊急記者会見を開く予定だと。あのとき現場にいたお前は、間違いなく事情を聴かれる。そのとき、どう答えるかだな」

    若菜と自分との関係について聴かれることは、うすうす、覚悟はしていた。しかし迷っていたのは、今までの経緯をどう説明したらいいのか、と言うことだ。

    「おれは・・・・・お前が今した話は、かなり信じられる線だとは思うよ。あの子と、もう一人いた満冨悠里って子、それにもう一人が深く事件に関わってるって言う、お前の話も筋が通ってると思う。だがもし、お前が追ってた子が死んで、違法捜査でお前がその槍玉に挙げられるとなると、たぶん、その線で事実関係を洗うことも、難しくなってくるはずだ」

    「・・・・・そうね」

    金城の言うことはいちいちもっともだと、薫も思った。

    「ともかく、お前の話は出来る範囲でおれの方でも洗ってみるよ。怨恨がもとになってるとしたら、ネット仲間より人間関係は洗いやすいからな。話では主犯は、その北浦真希って子なんだろ?」

    「・・・・まだ全然、自信持って言える範囲じゃないんだけどね」

    「上出来だよ。手が空いてる仲間に声かけてみる」

    「ありがとう」

    金城はなにか他に、薫にかける言葉を捜そうとしたが、見つからなかったのか、頭を掻いてから、

    「ちょっと休めよ、薫。早くそれ、着替えたほうがいいぜ」

    「あ・・・・・・うん」

    今、気づいた。若菜を搬送してきたときのまま、薫はずっと、血まみれだったのだ。

     

    病院を出た直後に上司から電話があった。無期限の自宅待機。上司が直接、薫に事情を聞くのは後日と言う。若菜が手首を切った状況についての事実は、初動捜査を担当した刑事に話をしてある。そうなった詳しい経緯は別として、今は、目の前の事態を収拾しなければならないのだろう。

    被害者の親友が、葬儀の後に自殺を図ったのだ。

    緊急のニュース速報を伝える声の中を、どこか他人事のように聞きながら、薫は帰途に着いた。

    いつのまにか、夕陽が赤く射していた。ドアを開けて中に入ろうとした瞬間、菅沢の携帯電話が鳴った。「非通知」だった。すぐに薫は通話ボタンを押した。

    『・・・・・もしもし』

    相手は今日の、若い女の声ではなかった。男だった。薫は怪訝そうに眉をひそめる。

    「誰なの? 菅沢?」

    『・・・・・ああ、菅沢ね』

    ? 相手は言った。

    『君のお陰でやつには迷惑してるよ。・・・・・昨日も会ったが、電話を返してくれ、ってしつこくおれに、泣きついてきてな』

    トントン、と背後から肩を突かれ、びっくりして薫は背筋を立たせた。反射的に距離をとって身構える。

    「大変だったな」

    いつのまにか真田が、電話を持って立っていた。

    「なにか用ですか?」

    「様子を見に来た。あれから、どうしてるのかと思ってね」

    「・・・・・・・・・・・」

    「君の同僚に聞いた。どうやら、君のせいで、嶋野美琴の関係者が自殺したらしいな」

    無言で、電話を切ると、薫は真田にそれを投げつけたい衝動に駆られた。それでもどうにか無視して、ドアの鍵を探す。

    「死んだのは、野上若菜か。彼女は死んだ嶋野美琴と、もう一人、満冨悠里って子と、つるんで、やばいことしてたんだろ。若菜が死んで、菅沢はがっかりするだろうな。これでまたしばらくは、誰もやつの原稿を買ってくれる編集者はいなくなる」

    鍵が見つかった。強引に、薫は鍵穴にねじ込んだ。

    「・・・・・彼女はまだ死んでいません。輸血もしたし、まだ五分の状態だと医者は言ってました」

    「どちらにしても失態は、接触を図りながらみすみす彼女を自殺に踏み切らせてしまった、君の責任になるだろう。菅沢の言うことを信用して、君は野上若菜を追い詰めた」

    「責任は甘んじて受けます。主張すべきことは主張して」

    ついに耐え切れずに、薫は口火を切った。

    「でも、それが今、あなたになんの関係があるんです?」

    「・・・・・今日の野上若菜を含む三人は、人に頼んである夜、自分の同級生をさらわせたそうだ」

    真田は、急に違う話を始めた。

    「集団でバンに押し込めて、山奥に連れて行って、レイプしようとした。犯行に参加したのは、上は二十八歳、下は十六歳まで合計四人。中には森田勝行って言う、横浜で路上強盗の前科のある少年も含まれてる。下北沢でクラブをやってる、澤田由紀夫って男が人数を集めたそうだ。・・・・・・ちなみにこの澤田って男は、売春クラブの一件で菅沢があげてた奥田の高校の同級生らしい」

    「・・・・・・・・・」

    「計画が実行に移されたのが、三月の六日。嶋野美琴が塾からの帰宅途中になにものかに拉致され、殺害後、自宅近くのゴミ捨て場に遺棄される事件が起きる、ちょうど二日前だ」

    「・・・・・どうして」

    今。なぜ。

    「真田さんはそのことを?」

    「これは菅沢から聞いた話だ。だから君にも、聞く権利がある」

    真田はスーツのポケットを探ると、煙草を取り出して、

    「その日、狙われた同級生は進学塾へ行く途中におびきだされ、四人にバンでさらわれた。だが不思議なことに、次の日、無事に登校してきたし、暴行を受けた様子も見えない。普通に学校に通っていたそうだ。さらに事件後、森田はじめ、犯行に参加したメンバーは全員行方が分からなくなっている。・・・・・ところでこの同級生だが彼女が誰だか、君には心当たりがあるか?」

    「マキ」

    思わず事実が判明したショックに半ば自失して、薫は答えた。

    「・・・・・北浦真希」

    答えた、と言うより、ほとんどつぶやいた印象だった。

    「そう、北浦真希だ。どうも同級生の証言によると、そのことがあった夜以来、彼女は様子がおかしくなっていたらしい。だがそれが、精神に傷を負ったり、塞ぎ込んだりした感じではなくてね。奇妙な話なんだ。・・・・・・多くの人は彼女が、別人のような印象になった、と証言している」

    「・・・・・・・・・」

    「奇妙な符号だろう? ちょうど、一年半前、嶋野美琴が言われていたことと、同じことを、彼女は言われているんだ。なぜ、彼女は変わったのか・・・・・」

    「真田さん」

    真田の言葉を遮るようにして、薫は言った。

    「分かりません・・・・・あなたの目的は一体、なんですか? どうしてこの事件に・・・・・わたしに深く肩入れするんですか?」

    「君に肩入れしてるつもりはない」

    意外そうな顔をして、真田は首を傾げた。

    「仕事は違うが、君とおれは同じ方向を向いている。中々、いい目の付け所だと言っただろう? おれは、嘘は言わない。まあ君は近々、今の事件の担当を外されるみたいだが」

    「真田さんには関係ない・・・・・何度も言わせないで」

    「捜査を続ける気があるなら、おれは君を救うことが出来る。ただ、今の捜査課でなくこっちに入っておれの指示に従ってもらうが」

    「・・・・・・・・」

    「弱みにつけこむ気はない。好きにすればいいさ。君の処遇も、近日中には決まってくるだろうし、その間少し休むのも、決して悪い考えじゃない」

     

    マキの正体

    ついに、野上若菜の意識は戻ることはなかった。もともと、そんな予感がしていた。今となってはあのトイレの記憶は遠く感じられたが、彼女の自殺は追い詰められて決意したもの、と言うよりは、誰かに強制された色合いが強いように思えてならなかった。

    あの場には、二人の人物がいなかった。言うまでもなく、満冨悠里と北浦真希だ。少なくとも一人は、近くまで来ていた。

    あれは緊急事態にあわてて薫に電話したものか、それがどう言う意図のものかは分からなかったが、若菜だけがあの場に残された。彼女は誰かのスケープゴートにされたのだ。薫は彼女を救えなかった。どんな処分を受けても不服はなかった。

    ほどなく、事件の担当から正式に薫は外された。処分が決定するまで扱いは、自宅謹慎になった。

    処分を受け、自宅へ帰ると電話に、母からの伝言が入っていた。兄の晴文が戻ったらしい。無言で、自室に引き籠もっているという。父親との冷戦状態が解消したわけではないので、一件落着と言うわけにはいかないが、一応、安心はした。

    受話器の奥で父親がなにか話したがっていたが、事件の捜査があるということで、先に切った。たぶん、薫が単独捜査で処分を受けた件を小耳に挟んだのだろう。別に何も、意見を求めることはない。 

    菅沢の携帯には、二度と着信は入らなかった。若菜の事件が騒がれている。魚は、逃げた。捜査線上にもまだ、満冨悠里の名前は浮かんではいないようだった。

    金城とは不定期に二、三度、連絡を取り合っている。

    『野上若菜の件で、彼女の両親から警察に事情を聞きたいと申し出があったよ。今度の件で学校側も捜査協力に難色を示すようになってる。ほとぼりが冷めるまで、こちらとしては大人しくしているしかないな。お前が言ってる線を探るのは、しばらく無理だ』

    「北浦真希の件は?」

    『お前が聞いた、レイプ監禁云々の話は漏れてはこないな。もう学校は春休みに入って、彼女は自宅から二駅先の進学塾に通っているが、別に変わった様子はない。それは本当に確かな情報なのか?』

    真田から聞いた情報だとは言えず、薫は口ごもってしまった。

    北浦真希の生徒証の写真が、薫のもとに届けられた。そこに写っている黒髪ショートの女子高生は、確かに薫が学校と美琴の葬儀場で二度も接触した、あの少女だった。

    やはり彼女が、北浦真希だ。彼女が、「マキ」。二人の少女の死に、関わった。たぶん、あの場にもいた。

    不思議なことに悪夢は、その夜から再び復活した。

    薫もこのままでは、引き下がる気にもなれなかった。ある日、真田の指定した番号に彼女はコールすることにした。

    『分かった。・・・・・じゃあ、早速仕事にかかろう』

    真田は言った。オフィスに来いとも言わず、いきなり待ち合わせの場所と時間を指定してきた。

    『初仕事だ。君の働きを期待している』

    「なにをするんですか?」

    『そうだな』

    と真田は歌うように言い、

    『まずは、柄を押さえる』

    「・・・・・誰のですか?」

    『決まってるだろ』

    愚問だと言うように笑うと、真田は言った。

    『「マキ」のだよ』

     

    指定された場所に、真田は現れなかった。いいようにあしらわれたのではないかと、正直、薫は思っていた。

    界隈はひどく、物騒な場所だった。盛り場と言うでなく、抜け道のような裏通りでもない。寂れた駅の沿線にある、荒れ果てた裏路地だ。シャッターの下りた店舗が目立つ一本道に通じたT字路の境は、潰れた駐車場になっている。唯一営業しているように見える個人経営の楽器屋の店先まで、五百メートルはあるだろうか。

    夕暮れどき人気は極端に少なく、明かりもない。風景が、無人の暗室にいるように赤黒く暮れなずんでいる。人目につきたくない取引や接触を果たすのには、絶好の場所だった。

    真田は車でやってきた。フィルムを張った黒のセダン。こんなところに長く停めてあると、職質されそうな怪しい車両に見えた。

    ミラー越しに真田が隣に乗れと、指示していた。薫は助手席に乗った。真田一人だった。ここからどこでなにをするかは分からないが、夕日も落ちきって、大分冷えてきている。真田を疑った十五分で身体はかなり固まっていた。

    「合図があったらすぐ出るぜ。準備は出来てるか?」

    わけが分からないまま、薫は肯いた。

    「ここで・・・・・なにをするんですか?」

    「言った通りさ。身柄を確保する。『マキ』のな」

    「ここで? 『マキ』を捕まえる?・・・・・こんなところでですか?」

    薫は不審そうに辺りを見回した。

    「君の言いたいことは、大体分かる」

    真田は、平然として言った。

    「北浦真希の身柄を確保したいなら、彼女の自宅に行けばいい。それで済むはずだ。ただそれはもし、今、拘束できる理由があったなら、だろう?」

    困惑している薫をどこか楽しむように、

    「君はおれの指揮下に入った。ちゃんと、君の上司にも話は通してある。おれの指示に従って、まずはそれなりに役目を果たしてくれないと、困るな」

    真田は言った。ちょうど、無線機に入電した。

    「入ったか?」

    真田が聞く。真田の班員がどこかで張っているのか、対象者が動いた、と言う知らせがノイズとともに返ってくる。

    「よし、そのまま目を離すな。いいか。・・・・行くぞ」

    薫の返答も聞かずに、真田はドアを開けた。

    「君はあっちだ」

    ? まごまごしながら真田について出た薫に声が飛ぶ。

    「反対側の路地から中に回ってくれ。早く。君はあの、角の通りを塞ぐんだ」

    と、指示通り走ろうとする薫に、真田は小さな塊を投げて寄越した。二十二口径リボルバー、実弾の入った拳銃だった。

    「これは?」

    「護身用さ。・・・・・・場合によっては撃ってもいい。迷うな。始末書の心配は、無しだ」

    こともなげに言うと、真田は走り出した。薫もそれに従う。拳銃を携帯した経験はほとんどなかった。まして、発砲が許されたことなど。大体、捕まえるのは、ただの女子高生のはずだ。そもそも、こんな時間、こんなところにいるはずのない。どうして? 薫に答えをくれるものは、鈍い夕闇の中、すでに誰もいなかった。

    路地からは、暴走族でも暴れているのか、若い男たちの怒号が聞こえてくる。捜査員たちはその声を頼りに、なにか右往左往しているようだった。

    真田に指定された角を曲がると、そこは古びたラブホテルが建ち並んでいるだけだった。声だけが聞こえてきた。囃すような声、笑い声。そして、たまにあれは・・・・・悲鳴か。女のものではないように思えた。

    (どうすればいいの?)

    真田は無線機を与えてはくれなかった。緊急で間に合わなかったのだろう。それほど、薫には期待していたわけではないのだ。

    やがて、ホテルの裏から何者かが飛び出してきて薫と鉢合わせた。茶のブレザー、紅いリボン。チェックのスカート。北浦真希だ。

    「あなた・・・・・・!」

    声をかけて、薫は二の句が告げなかった。本当に、現れた?

    「・・・・・刑事さん?」

    不思議そうに、彼女は小首を傾げた。

    「待って・・・・・待ちなさい」

    その姿はこんな場所では、ひどく違和感あるもののように薫には映った。「マキ」も、薫の姿に気づいて一瞬、びっくりしたようだった。盗みをして走り出てきた猫のように、彼女は立ち止まった。

    「なにか用?」

    相手は言った。=電話口の声。感情の抑揚の少ない、真水のような声音だった。

    「こんなところで一体、なにをしてるの?」

    あなたこそ。と言うように、「マキ」は薫を見た。

    「あの日、待ってたわ・・・・・池袋駅の南口で」

    薫は、余計な駆け引きなしで「マキ」にぶつけた。

    「菅沢の情報提供者はあなたでしょう? あなたは、あのとき、野上若菜と満冨悠里を証言者として同席させようとした」

    そうだとも違うとも言わずに、彼女は黙っていた。怒号が遠くに聞こえる。

    「あなたのせいで二人死んだ。それは、疑いない事実よ。あなたは彼女たちにどんな恨みを持っていたの?・・・・あなたの目的を教えてちょうだい」

    「恨みなんか、別にないわ。・・・あなた、勘違いしてる」

    彼女は言った。薫の剣幕に比べると、道端で盛り上がらない話をしているようなテンションだった。

    「二人が死んだのは、自分たちの責任よ。彼女たちが、たぶん、ゲームに負けたから。つまり、そう言う仕組みなの。美琴も若菜も、死ぬべくして、死んだ」

    「ゲーム? ふざけてるの? あなた、おかしいわ」

    「そう? あたしが言ってることは・・・・・ただの事実なんだけどな」

    薫の目の前に、彼女の指が突き出された。とっさに薫は身構えた。

    「あなたも見たはずよ」

    どこかで。と、彼女は言った。その指は彼女自身のこめかみにいって、そこを軽く、二、三回、突いた。彼女は薄く微笑んだ。

    「悪夢は消えた?・・・・・よく思い出して。美琴は、・・・・・あの子は、どんな風に死んだのか?」

     

    気がつくと、また同じ風景の中にいた。毎夜毎晩、薫を誘い込む風景の中に。男たちが、笑いさざめている。携帯電話を持ち寄り、吊るされた少女の遺体の写真を撮りつつ、「ゲーム」について話している。やつらは、言う。口々に。

    そう。これは、ゲームだ。それに従って彼女は殺された。ゲームには、事実を正確に管理するために厳格なルールがある。彼女は、たぶん、それに則って殺されたのだ。

    「いいか、これはフェアな、ゲームなんだ」

    誰かが言う。彼を知っている。彼は、鶴見だ。もう一人が言う。

    「ハズレを三回引けたら、助けてやる」

    「再開の合図を受信したら、第二ラウンド再開だ」

    男たちの手には、携帯電話が握られている。その憑かれたような眼差し。物欲に燃えた目、餓鬼の亡霊。ぼんやりとしていた男たちの顔が、はっきりと吊るされた薫の目に映りこんでいく。

     

    「止まりなさいっ!」

    薫は拳銃を構えた。両手で、狙いがぶれないように。反動を覚える。射撃訓練で教わった、基本中の基本をまず思い出した。マキは、はっとした顔ひとつ、しなかった。

    まるで弾丸など、自分を殺す力はない、とでも言うように。

    「手を上げて!」

    薫の声には殺気が籠もっていた。なぜこうなったか分からない。悪夢。悪寒。そして憎悪。繰り返し刷り込まれた感情の高ぶりが、怒りが、一気に噴出して、彼女にぶつけられたのか。それでも平然と、彼女は銃口を睨んでいた。

    「止まらないとあなたを撃つ・・・・・あなたを確保するわ」

    「そう」

    と、彼女は言った。マキとの間は、いつの間にか十メートル近くも離れていた。

    「撃てばいいわ。たぶん、当たると思う。・・・・・・ちゃんと、人を撃った経験があるなら」

    「撃てないと思ってるの?」

    ぎりぎりの、はったりだった。撃たない理性くらいは残っている。それに日本の警官は無闇に拳銃を携帯しないし、発砲しないという前提で、厳然たる規則に縛られている。真田は無造作に拳銃を渡したが、薫には元来、街中で発砲すると言う意識それ自体がなかった。

    端から威嚇だと思っているのか、まるで動じる気配がない。ただの女子高生が? そんなはずはない。まさか。

    「聞かせて」

    銃口を下に向けながら、薫は聞いた。

    「あなたや、嶋野美琴になにがあったの?・・・・・どう見ても普通じゃないわ、あなた。・・・・・まるで」

    「別人みたい?・・・・うん・・・・ほんと、そうかもね」

    マキは言った。冗談を言ったようには、聞こえなかった。

    「みんな、変わるみたい。しかも、本人も予想もしなかった方向に。イズム・・・・これは、そう言うゲームなの」

    「イズ・・・・・ム?」

    イズム? なにを言っているのだ、彼女は。

    その瞬間、マキの背後から、誰かが走り出てくる気配がした。応援か。薫は、そこで初めて我に返って顔を上げた。そこにいたのは、どう見ても、スーツ姿の応援の捜査員ではなかった。

    身長、一八〇センチ以上の。目を血走らせた、外国人の男だった。南米系、見たところブラジル人。罵り声は英語ではない。紫色のパーカーに、ジーンズ。普通ではない興奮の様子から、薬物を使用している独特の雰囲気がうかがえた。

    追ってきたのは、やはりマキだ。彼女の姿を見つけて、男はなにか卑猥なスラングをわめき立て、襲い掛かってくる。

    止めないの? と言う風に、彼女は肩をすくめた。一呼吸遅れて、薫は拳銃を構えなおした。

    ブラジル人は、殺到してくる。このまま両足を引っこ抜いて、マキを身体ごとさらって行きそうなスピードだった。止めないの? 彼女が仕草で薫に合図したのは、自分自身のことらしかった。

  • 警視庁 IT特別捜査官(上) パズルのピース1

    2014-09-03 18:36

    「だからなに? マキがなに考えてるかは分からないけど、わたしたちにどうこう出来るわけないし、あいつがなにを言おうとしたって、誰も信用するはずないでしょ。これは、そう言う話なの。・・・・・あんただって、それくらい分かるでしょ?」

    若菜は泣きべそを掻いているのか、半ば嗚咽している。さすがに悠里の方も万策尽きたようだ。

    「そうやってびびってると、今に本当にあんたの言うとおりになるかもね。そしたらどうする?・・・・・そのときは若菜、あんたに責任はとってもらうからね」

    捨て台詞。悠里は、若菜を置いてトイレを飛び出してきた。

    「待ってよ、あの子・・・・・本当にやばいんだってば・・・・」

    遅れて、若菜が追いすがる。悠里は振り向かない。とっさに男子トイレの入り口に隠れた薫を顧みようともしなかった。

    「待って・・・・・・」

    今しかないと、薫は思った。続いて出ようとする若菜の肩を、薫は急いで引き止めた。

    「待って」

    「・・・・・や・・・・・何?・・・・・・」

    反射的に若菜は薫を振り切ろうとして、愕然とした。誰に話を聞かれていたのかを、若菜は瞬間的に理解したのだ。振り返ったみるみる、若菜の表情に明確な驚愕の色が広がった。落とせる。反応だけなら、これだけでも十分なように思えた。

    「わたしの顔、憶えてる? 野上若菜さん」

    「知らない」

    間髪いれずに胸元から取り出した手帳が、彼女の次の動きの絶好の牽制球になった。

    「あなたたちが、今していた話に興味があるの。・・・・どこかでお話うかがえるかしら?」

    若菜は片頬を吊って、無理に笑った。混乱が、去っていない。

    「なに言ってるの、刑事さん。・・・・・あたし、別に悠里となにか話してたわけじゃないし」

    「二階のトイレは空いてるわ、野上さん。たぶん今もね。葬儀の真っ最中に誰も席を立つ人はいない。すぐに戻らなくちゃ。こんな遠くのトイレに籠もって満冨さんと二人で一体、人に聞かれて困るような、どんなことを話してたの?」

    「は? なに言ってんの、あたし別にそんな話とかしてないし」

    若菜は薫を振り切って歩き出そうとした。ここで話を流されたり、応援を呼ばれたりすると困る。薫は一気に切り込むことにした。

    「調べれば分かることよ。あなたたちが今話した内容をたどっていけばね。『マキ』についても、あなたたちがその子に何をしようとしたのかについても」

    「・・・・・・・・・・・」

    「あなたたちが奥田と言う男を使って、渋谷の真篠、と言う男が仕切っていた売春クラブの縄張りを取り仕切っていたことも、あらかた調べがついてるわ。・・・・・・あなたと満冨悠里、故人の嶋野美琴が、どうやらそれに積極的に関わっていたと言うこともね」

    若菜の腫れぼったい顔に、動揺の色が走った。もともと、彼女は迷っていたのだ。満冨悠里がここにいたなら、手こずっただろうが、彼女だけなら、根拠の薄弱なこのネタも効果を発揮した。

    「『マキ』と言う人物が、この事件に深く関わっていることも、わたしたちは掴みかけているわ。美琴を殺したのは確かに複数の男性グループの変質者かも知れないけど、彼らを集めて指示を下した人間は別にいて、そいつが主犯だと推定している。わたしたちの目的はその人物で、あなたたちが不法な行為に関わっていたことに興味はない。ことによっては不問にしてもいい。それにあなたたちがその人物に脅威を感じているのなら、話し次第では、あなたたちを保護することも出来るし」

    保護。その言葉に、若菜は明らかに心動かされたらしい。

    「聞くわ。まずはこれだけ答えて。美琴を殺したのは、『マキ』?」

    かすかに。ぶるぶると、若菜は首を左右に振った。

    「違う?」

    彼女は泣いていた。もう一度同じ仕草をして、

    「分かんない・・・・・分かんないよ・・・・・」

    と、言った。

    「分からないってどう言うこと?」

    薫は辛抱強く聞いた。頭を抱えて、若菜は答えた。

    「はっきりそうだって言えない・・・・・・見たわけじゃないから。でも・・・・・たぶん・・・・・」

    彼女は脅威を感じているのだ。だからこその動揺のはずだった。

    「あなたの意見でいいわ。『マキ』が美琴を殺した?」

    若菜の答えを聞くのには、しばしの時間が掛かった。葛藤を振り切って告白に踏み切る人間の沈黙の綱が切れるのを、薫は辛抱強く待った。

    こく、と若菜は肯いた。

    許して、マキ。

    美琴の絶叫が、再び、薫の脳裏に木霊す。

    「どうして・・・・・あなたはそう思うの?・・・・・あなたたちがその子・・・・・『マキ』になにかしたから?」

    若菜は答えなかった。躊躇の理由はなんとなく分かる。

    「話は聞かせてもらった。何か、法に触れるようなことなのね?」

    法に触れる、と言う言葉に若菜は反応した。今から、硬く口を閉ざす決意をしようとしたかのように。機先を制するかのように、薫は急いで言い足した。

    「あなたたちがその子になにをしたかはこの際、問題じゃないし、わたしには興味もない。答えはイエスかノーよ、それだけ答えて。あなたたちは、『マキ』に何か、復讐されるようなことをしたのね? だから、彼女が美琴を殺した、張本人だと思ってる」

    長い沈黙の後、ようやく若菜は肯き返した。ふーっ、と二人は同じタイミングで大きく息をついた。若菜は胸に溜まったものをついに吐き出してしまった脱力感、薫はようやくここまでたどり着いて一息ついた疲労感。若菜は目を反らし、薫は彼女を睨みつけた。再び、事実に立ち向かうために。

    「あなたたちと『マキ』の諍いはなんとなく察しがついてる。だから話したくないことは話す必要はない。まず、どう言う経緯であなたたちがそうなったのか、その関係を話して」

    「・・・・・あたしたちと」

    若菜は言った。虚脱したような表情だった。

    「あたしたちとあの子はなんの関係もない」

    「なにも話さないのは通らないわよ。一から話してほしい? 亡くなった嶋野美琴を含めた、あなたたちが法に触れる行為を取り仕切っていたということと・・・・・」

    「あの子とあたしたちは、もともとなんの関係もないっ!」

    辺りに響くような震える声で、若菜は言った。

    「ただ・・・・・ただ、美琴がマキならいいって。あの子なら、意気地なしだし、存在感ないし、どんなことしたって黙ってるし、周りの誰も気にしない・・・・・・そうやって言うからっ」

    彼女の胸のうちを一瞬にして、激情がほとばしり出ていった。白いセーターを着た小さな肩がぶるぶると震えていた。落ち着け。

    (・・・・まず、わたしから)

    自分に言い聞かせるように薫は心の中で唱えると、われを失った若菜の嗚咽が落ち着くのを待って、慎重に話しかけた。

    「・・・・・じゃあなぜ、あなたたちはなんの関係もない子にそんな、ひどいことをしようとしたの?」

    「そんなこと、あんたに話しても分かるわけないでしょ」

    「事実以外のことはね。なら、わたしから聞くわ。こう言うのはどう? あなたたちは『マキ』に無理やり売春をさせた」

    「馬鹿じゃない・・・・・そんなことしてるわけない」

    「・・・・・・なら」

    若菜は首を振った。薫と同じ。悪夢を、振り払うように。

    「あたしはこれ以上、なにも話さない。話す気はない」

    「『マキ』の報復を受けてもいいのね? あなたが恐れていることが、これから現実になっても?」

    「・・・・・・・・・」

    応えはない。感情の鬱積を放出しつくしたせいか、今度は一転して硬い表情になり、そこから何も読み取れそうになくなった。取り乱してまとまった話が出来ないのも困るが、冷静になられるのもそれはそれで困る。若菜を落とすことで、聞き出すべき最低限の一点を、薫はまだ聞き出していない。

    「そう」

    と、薫は、一旦、呼吸を外すことにした。

    「頭を冷やすことはなにも悪いことじゃないわ。必要なら、もう少し考えてから、結論を出してもいい。罪を得ても、最低でも命があるうちに。二人でよく相談するといいでしょう。・・・・・・ただ言っておくけど、そう遠くないうちに、わたしも、あなたたちのことを助けられなくなる時が、必ず来るわ」

    薫の最後の脅しはそれなりに、効果を発揮したようだった。それはまだ、若菜が五分五分の地点に立っていることを明らかにした。

    「一応、渡しておくわ。選択肢は増やしておくだけでも、安心出来るでしょ?」

    薫が差し出した、番号のメモを若菜は無言で受け取った。

    「・・・・・もう、行く。いいでしょ」

    メモに目を落としてから、若菜は上目遣いで薫を見た。

    「ええ、もちろん。・・・・でも、最後にひとつだけ教えて。『マキ』のことを。彼女はあなたたちの、なに?」

    「同級生。同じ学校の」

    「クラスとフルネームは?」

    「・・・・・キタウラ。キタウラ・マキが本名。クラスは・・・・知らない。あたしはなにもあの子のこと知らないの。本当に」

    若菜は言った。そして、それ以上は本当に何も話さない、と言う姿勢を示すために、顔を背けた。

    「もういい?」

    「ええ、ありがとう。手遅れにならないうちに、あなたからの電話、待ってるわ」

    若菜は手で払うような仕草をして、薫を振り切ると、虚脱したような雰囲気で、ふらふらと去っていった。

     

    (・・・・・同じ学校の同級生)

    そして、やはり女の子だ。「マキ」の正体が判った。口ぶりでは、美琴がよく知っている様子だった。キタウラ・マキ。しかも彼女には、美琴たちに復讐するなんらかの動機があったと言う。ついに、尻尾を掴んだ。

    もちろん、喜ぶのにはまだ早い。若菜の話の裏づけを取らねばならない。「マキ」の周辺を洗うことが次の仕事だ。幸い、美琴と同じ学校の「マキ」のプロフィールは、事前に押さえてある。キタウラ・マキ=北浦真希。これだ。すぐに発見することが出来た。

    北浦真希、美琴とは同学年のG組。A組の特進クラスにいる美琴とは一見、なんの接点もなさそうだ。【被害者(美琴)との関係】についても、一行だけ。

    「美琴とは一学年のとき、D組で同クラス」

    としか、書かれていない。

    若菜はさっき、「マキ」と自分たちとは、なんの関係もない、と言っていた。だがもしかしたら、それは若菜と悠里に限ったことで、美琴だけが、「マキ」と深い関わりを持っていた? そもそも、事件発生時の美琴の交際範囲には、浮上しなかった人物なのだ。だからこそ、薫は「マキ」を美琴の裏の顔の関係者と睨んだのだが。

    上が騒がしくなってきた。出棺が始まるのだ。

    「・・・・・あっ」

    しまった。薫は、はっとした。そう言えば大分時間が経っている。若菜と同様、自分も持ち場をそう長くは離れてはいけない立場にいたのだ。会場に戻らなくては。金城にまた、迷惑をかけてしまう。薫が一歩、引き返そうとしたそのときだった。

    ドン、と重たく突き上げるような衝撃が、薫の胸を襲った。悪夢がやってきたのだ。まさかこんなところで、こんなときに。吐き気を催すほどの強い力は一瞬で、薫の抵抗力を奪い去った。もしかしたら、今度こそ、ここで死ぬのではないか。そんな恐怖が、薫の脳裏を何度もかすめた。

    (・・・・・待って!)

    せっかくここまで、あなたを殺した「マキ」のことを突き止めたのに。どうして? こんなところで。

    苦しさに、薫はついに膝を突き、床に伏せた。

    (誰か)

    声を上げることが出来たなら、なんのためらいもなく、薫は激痛に絶叫していたろう。

    無惨な爆死を遂げた、美琴の断末魔が耳朶の奥に蘇った。

    (死ぬのはいや・・・・)

    いやだ。死にたくない。誰もがそう思う。だが、誰もが、その一縷の望みをかなえられるわけではない。

    薫が死を覚悟した、まさにそのときだった。

    「苦しいの?」

    (・・・・・・誰?)

    霞のように薄い声が、薫の頭上に降った。誰? 続いて、ふわりと、なにか暖かいものが身体を包んでくるような気配がした。

    誰か呼んで。そう、薫は言おうとしたが、当然、それが言葉として形作られるはずもなかった。どうやら若い女の声と気配だが、その雰囲気は不思議と落ち着いていて、こんな状況にもかかわらず、なぜかそこを動く様子もない。なにやってるの早く。

    薫が訴えようとした瞬間、ごく自然な所作でその手で彼女の裾を探って、ブラウスの中に差し入れられた。薫がはっとする間もなく、相手は双つのふくらみの間にある患部を見つけ出し、乳房ごとそこをぎゅっと握った。

    「顔を上げて」

    その声は、ERで処置する看護士のように明確な意思で、薫に指示を下した。苦しい呼吸の中で、薫はなすすべもなくそれに従うしかなかった。しかしなんとか顔を上げて、相手が誰か知ると、再び薫は愕然とした。

    高校生なのだ。彼女は、美琴と同じ学校の制服を着ている。

    「動かないで」

    彼女は言った。それは依然、断固とした意思を持った声だった。

    (この子)

    喘ぎながら、薫は思った。

    (知ってる・・・・見たことある。・・・・・確か美琴の学校で)

    すれ違った。廊下で。そのどこか浮世離れした空気感がどこか印象に残っていた。そうだ。あのとき、悪夢に捕えられた。わたしの手帳を拾ってくれた、あの、女の子だ。

    「おねがい・・・・・救急車を呼んで。胸が、苦しいの」

    「心配ないわ。・・・・・このまま、静かに呼吸を整えて」

    彼女は言った。ここを動くつもりはないと言う意思表示のため左右に振った。何を言うのだと、薫は思った。彼女はここを、動く気はまるでない、そう言うのだから。自分だけでどうにか出来ると思うの? なにを根拠に? そんなことは、絶対にありえないのに。

    ふと、薫の呼吸に不思議な変化が兆した。空気が胸に入ってくる。呼吸が出来る? 信じられない。薫は目を見開いた。どうしたことか、手を当てられていただけで、胸の激痛もみるみるうちに治まっていったのだ。悪夢の起こる予兆は去って、すでに影も形もない。驚きに心乱して、薫は彼女を見返した。

    「・・・・・・・・」

    その様子を見て取ったのか、彼女はすぐに支えていた手を離した。薫は深い息を一回、大きく吐いて自分を取り戻した。

    「あ・・・・ありがと」

    彼女は、取るに足らないことだという風に、小さく息をつくと、ちょっと肩をすくめた。やっぱりだ。あのとき廊下ですれ違った、薫の電話を拾ってくれた、あの不思議な空気の女の子。

    「悪夢を見た?」

    彼女は、有無を言わせない口調でこう言った。

    「見たのね」

    「ええ」

    「・・・・・やっぱり」

    彼女は言うと薄く唇を緩めて、笑った。違いの少ない連続写真を見せられているように、変化はかすかだった。

    「見た・・・・嶋野美琴。あの子が、どうして死んだのか?」

    反射的に肯いてから、薫は、はっとした。

    「どうしてそのこと?・・・・あなたが知って・・・・」

    「見れば分かるよ。・・・・・だって、そんな感じだったし」

    彼女は意味の通らないことで薫をからかっているかのように、悪戯げに首を傾げてみせると、

    「よくあることだし」

    (・・・・・どう言うこと?)

    意味を答えずに、去っていった。

     

    その夜、薫は何日かぶりに夢も見ずに熟睡した。意識を失うほど深く眠ったのは、本当に久しぶりだった。まるで台風一過の夜明けのように、悪夢は影も形もなく、薫の中から立ち去ってしまった。開放されてはじめて、その恐ろしさが分かる。断続的に、突然、繰り返し襲ってくる美琴の死のイメージは、確実に薫の神経を研ぎ澄まし、確実にその芯まで蝕んでいた。昨夜のようにひどくなる前に、精神科に行くことも真剣に考えていたのだ。

    薫は倒れこんだベッドのシーツを直しながら、立ち上がった。甘く快い、疲労感の残滓がまだ身体にまとわりついている。鈍磨した神経の物憂い温かさが気持ちいい。昨夜深夜、シャワーを浴びずに寝てしまった不用意さを、後悔する間もないくらいに。

    ダイニングテーブルの上の飲みかけのビールの缶を、薫は苦笑しながら流しに移した。

    熱いシャワーが、健全な判断力を回復させる。単独捜査の進展が、実を結んだことを今は、単純に喜ぶべきだった。

    マキ=北浦真希に、なんとかたどり着いた。まだはっきりしないながら、野上若菜の証言はかなり有力だ。

    動機のあるこの同級生が、犯行の張本人の可能性は高い。彼女が美琴たちとなんらかのトラブルを起こし、ネットで参加者を募って、事件を起こさせた。これで一応の筋は通っている。主犯を取り押さえる証拠さえ得れば、解決まではあと、ほんの一歩だ。

    金城には今日中にでも、相談を持ちかけようと思っていた。

    鮭茶漬けにインスタントの貝の味噌汁で朝食をとりながら、携帯電話をチェックする。まだ、どこからも着信はなかった。昨日、若菜は確かにかなり動揺してはいたが、それほど早く転びはしないだろう。帰ってから満冨悠里に相談したとなると、まだ落ちるまでは時間が掛かりそうだが、別にこっちが焦る必要はない。北浦真希と彼女たちの背後関係を洗えば、おおよそのことは分かってくるはずだ。それにしても、彼女たちは、真希になにをしたのだろう?

    そうだ。ふと、気づいて薫はバッグから菅沢の携帯も取り出した。予感めいたものでなく、失念したことを思い出した。それがまさか、薫が爆睡しているうち、着信が入っているとは思わなかった。

    午前二時から五分の間に二件。二つとも、「非通知」。

    薫は自分のうかつを恥じた。他人の電話を持っているということは、どうしても意識の外に置かれやすい。そのために着信音もバイブもマックスにしておいたのに、気づかないとは大失態だ。あわてて、薫は中を確認した。

    二件目には留守録メモが入っている。薫は急いで再生した。

    『・・・・・菅沢さん』

    ピーッ、と言う受信音の後、出てきたのは、若い女の声だ。

    『寝てる?・・・・珍しい・・・・いいネタを掴んだの。起きてからでもいいから、折り返し電話をちょうだい。待ち合わせ場所を指定する。折り返しのナンバーを言うね・・・・』

    録音にもかかわらず、薫はあわてて手帳とペンを引き寄せた。女は機械的にナンバーを二回、繰り返した。連絡のそつのなさは、簡潔で無駄のない、実に馴れた手際だった。有無を言わさない感じ。菅沢が手玉にとられていたのが分かる。声は若いが、一体、何者なのだろう。

    「マキ」。そうかも知れない。菅沢はそんな名前の女は知らない、そう言った。過剰な反応の否定だった。今思うと不自然だったかもしれない。

    薫は迷わず、そのナンバーにコールしてみた。朝早すぎるかもしれないと思ったが、その心配は無用なようだった。ものの数回のコールで電話がつながった。出たのは、やはり連絡してきた若い女の声のようだった。

    『・・・・・もしもし』

    薫は黙っていた。

    『あなたにしては上出来・・・・・朝早いけど。おめでとう、ちゃんと間に合ったね』

    朝早いせいか、心なしか声には籠もった響きが感じられる。シーツを動かす音。たぶん、向こうも今、目を覚ましたに違いない。

    『とっておきのネタよ。有力な証言者を同伴する。取材用のテープレコーダーを必ず持ってくること。今から詳しい、待ち合わせ場所を指定する。・・・・・・メモを用意して』

    「OK」

    声をひそめて薫は言った。相手はそのまま話した。池袋西口・・・・東部デパートの地下、噴水広場の腰掛。・・・・・エスカレーターのちょうど裏側のカフェの前。

    『今から約二時間後、午前九時に。・・・・・絶対遅れないでね』

    そのまま電話が切られそうな気配になった。

    「待って」

    思い切って薫は言った。切られるなら、もともとだと思った。

    「緊急時の連絡方法は?」

    案の定、電話口から漏れてきた女性の声に相手は戸惑った。

    『あなたは誰?』

    「菅沢の代理よ。わけあって同じ件を追ってる。彼はまだ・・・・眠ってるの。その間にメッセージが入ったら・・・・・わたしが代わりに出るように、そう、言われてて」

    『へえ』

    我ながら、つたないアドリブ。しかし、大した不審も持たずに相手は納得した。あまり、興味もないような言い方だった。

    『それなら彼にも伝えておいて。緊急時にはこちらから連絡する。あなたが指定の時間に現れなかった場合、こっちは、あなたはこの件にもう興味はない、そう判断すると思って』

    「あなたたちは何人で来るの? 特徴は? 本人だと確認する方法は?」

    『人数は二人か・・・・・場合によっては三人になる。後の二つの質問については答えるまでもないと思う。あなたが分からなくても、菅沢が見れば、あたしたちが誰だかは分かるはずよ』

    「それはあなたのこと? それとも、その有力な証言者のこと?」

    あくびをする気配がした。眠たげなため息も。相手は、朝早い時間からそんな愚問にどうして答える必要がある、そう言っている。

    『・・・・あなたが来ようが、菅沢が来ようがこちらにはあまり関係のないことよ。情報を提供する。取引の条件や方法については、あたしが決める。取り交わしたルールはそれだけ。・・・・後、残された問題は、あなたがそれを買えるか、買えないかってこと』

    「お金が欲しいの? あなたがこうする目的は一体・・・・・」

    ブツリ。電話は、突然、しかも一方的に切られた。

     

    ふりかかった悲劇

    二時間後、菅沢の情報提供者が現れる。しかも、とっておきらしいネタを持って。それは恐らく、同伴する有力な証言者のことに違いない。

    相手は二人か、場合によっては三人で来ると言った。少なくとも一人を証言者とすれば、彼女はその証言者になにを話させる気なのだろうか?

    考えるまでもなく、薫はすぐに準備を始めた。金城に連絡して、今朝は事情で出勤が遅れる旨を伝えておいた。後から考えれば、本当なら彼女はこのとき正直に事情を仲間に打ち明けて、対応策を検討すべきだった。しかし今。それをする手間すら物憂いほどに、薫は自分の考えに没頭しきっていた。

    彼女は。自分たちについては、見れば分かると言った。なぜ? 彼女たちはひと目で分かる。答え、たぶん制服を着てくるから。

    それに菅沢が調べている事件の有力な、最後の証言者と言えば、薫の知る限り、あの二人しかいない。=満冨悠里と野上若菜。