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【第154回 直木賞 候補作】『羊と鋼の森』宮下 奈都
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【第154回 直木賞 候補作】『羊と鋼の森』宮下 奈都

2016-01-12 15:59
     森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。
     問題は、近くに森などないことだ。乾いた秋の匂いをかいだのに、薄闇が下りてくる気配まで感じたのに、僕は高校の体育館の隅に立っていた。放課後の、ひとけのない体育館に、ただの案内役の一生徒としてぽつんと立っていた。
     目の前に大きな黒いピアノがあった。大きな、黒い、ピアノ、のはずだ。ピアノの蓋が開いていて、そばに男の人が立っていた。何も言えずにいる僕を、その人はちらりと見た。その人が鍵盤をいくつか叩くと、蓋の開いた森から、また木々の揺れる匂いがした。夜が少し進んだ。僕は十七歳だった。

     そのとき教室に残っていたから、というだけの理由で僕は担任から来客を案内するよう頼まれた。高二の二学期、中間試験の期間中で、部活動もない。生徒たちは早く下校することになっていた。昼間からひとり暮らしの下宿に帰るのは気が進まなくて、図書室で自習しようかと思っていたところだった。
    「悪いな、外村」
    先生は言い足した。
    「職員会議なんだ。四時に来ることになってるから、体育館に案内してくれればそれでいいから」
     はい、と返事をした。普段から何かを頼まれることは多かった。頼みやすいのか、断らなさそうに見えるのか。暇そうにも見えたのだろう。たしかに、僕は時間を持て余していた。するべきことが思いつかなかった。したいこともない。このままなんとか高校を卒業して、なんとか就職口を見つけて、生きていければいい。そう思っていた。
     頼みごとをされることは多かったけれど、大事なことを頼まれるわけではなかった。大事なことはちゃんと大事な誰かがやってくれる。どうでもいいようなことを頼まれるのはどうでもいいような人間だ。その日の来客もきっとどうでもいい部類の客なんだろう、と僕は思った。
     そういえば、体育館に案内するよう頼まれただけだ。どんな客が来るのか聞かされていなかった。
    「誰が来るんですか」
     教室から出ていこうとしていた担任は、僕をふりかえり、調律師だよ、と言った。
     調律という言葉に聞き覚えがなかった。空調を直しに来るんだろうか。だとしたら、どうして体育館なんだろうと思ったが、それもべつにどうでもいいようなものだった。
     放課後の教室で、翌日の試験科目である日本史の教科書を読んで一時間ほど潰した。四時少し前に職員玄関へ行くと、その人はすでに来ていた。茶色のジャケットを着て、大きな鞄を提げ、職員玄関のガラス戸の向こうに背筋を伸ばして立っていた。
    「空調の方ですか」
     内側から戸を開けながら僕は聞いた。
    「江藤楽器の板鳥です」
     楽器? では、この年配の男性は僕が迎えるはずの客ではないのかもしれない。担任に名前を聞いておけばよかった。
    「窪田先生から、今日は会議が入ったとお聞きしています。ピアノさえあればかまいませんから」
     その人はそう言った。窪田というのは僕に来客を案内するよう言いつけた担任だった。
    「体育館にお連れするよう言づかっているのですが」
     来客用の茶色いスリッパを出しながら聞くと、
    「ええ、今日は体育館のピアノを」
     ピアノを、どうするのだろう。そう思わなくもなかったけれど、それ以上のことに特に興味はなかった。
    「こちらです」
     先に立って歩き出すと、その人はすぐ後ろをついてきた。鞄が重そうだった。ピアノの前まで連れていったら、それで帰るつもりだった。
     その人は、ピアノの前に立つと四角い鞄を床に置き、僕に会釈をした。これでもういいです、ということだと思った。僕も会釈をし、踵を返した。いつもならバスケ部やバレー部で騒がしい体育館が静かだった。高い窓から夕方の陽が差し込んでいた。
     体育館からつながる廊下に出ようとしたとき、後ろでピアノの音がした。ピアノだ、とわかったのはふりむいてそれを見たからだ。そうでなければ、楽器の音だとは思わなかっただろう。楽器の音というより、何かもっと具体的な形のあるものの立てる音のような、ひどく懐かしい何かを表すもののような、正体はわからないけれども、何かとてもいいもの。それが聞こえた気がしたのだ。
     その人はふりむいた僕にかまわず、ピアノを鳴らし続けた。弾いているのではなく、いくつかの音を点検するみたいに鳴らしているのだった。僕はしばらくその場に立っていて、それからピアノのほうへ戻った。
     僕が戻ってもその人は気にしなかった。鍵盤の前から少し横にずれて、グランドピアノの蓋を開けた。蓋―僕にはそれが羽に見えた。その人は大きな黒い羽を持ち上げて、支え棒で閉まらないようにしたまま、もう一度鍵盤を叩いた。
     森の匂いがした。夜になりかけの、森の入口。僕はそこに行こうとして、やめる。すっかり陽の落ちた森は危険だからだ。昔、森に迷い込んで帰ってこられなくなった子供たちの話をよく聞かされた。日が暮れかけたら、もう森に入っちゃいけない。昼間に思っているより、太陽の落ちる速度は速い。
     気がつくと、その人は床に置いた四角ばった鞄を開けていた。見たことのないさまざまな道具が入っていた。この道具を使ってピアノをどうするんだろう。ピアノで何をするんだろう。聞いてはいけないと思った。聞くという行為は、責任を伴う。聞いて、答えてもらったら、もう一度こちらから何かを返さなくてはいけない気がした。質問は僕の中で渦を巻くのに、形にはならなかった。たぶん、返すものを何も持っていないからだ。
     ピアノをどうするんですか。ピアノをどうしたいんですか。あるいは、ピアノで何をするんですか、だろうか。いちばん聞きたいのが何だったのか、そのときの僕にはわからなかった。今も、まだわからない。聞いておけばよかったと思う。あのとき、形にならないままでも、僕の中に生まれた質問をそのまま投げてみればよかった。何度も思い返す。もしもあのとき言葉が出てきていたなら、答えを探し続ける必要はなかった。答えを聞いて納得してしまえたのなら。
     僕は何も聞かず、邪魔にならないよう、ただ黙ってそこに立って見ていた。
     通っていた小さな小学校にも、中学校にも、ピアノはあったはずだ。ここにあるようなグランドピアノではなかったけれど、どんな音が出るのか知っていたし、ピアノに合わせて歌ったことだって何度もあった。
     それでも、この大きな黒い楽器を、初めて見た気がした。少なくとも、羽を開いた内臓を見るのは初めてだった。そこから生まれる音が肌に触れる感触を知ったのももちろん初めてだった。
     森の匂いがした。秋の、夜の。僕は自分の鞄を床に置き、ピアノの音が少しずつ変わっていくのをそばで見ていた。たぶん二時間余り、時が経つのも忘れて。
     秋の、夜、だった時間帯が、だんだん狭く限られていく。秋といっても九月、九月は上旬。夜といってもまだ入り口の、湿度の低い、晴れた夕方の午後六時頃。町の六時は明るいけれど、山間の集落は森に遮られて太陽の最後の光が届かない。夜になるのを待って活動を始める山の生きものたちが、すぐその辺りで息を潜めている気配がある。静かで、あたたかな、深さを含んだ音。そういう音がピアノから零れてくる。
    「ここのピアノは古くてね」
     その人が話しはじめたのは、たぶんもう作業が終わりに近づいたからだろう。
    「とてもやさしい音がするんです」
     はい、としか言えなかった。やさしい音というのがどういう音なのか、僕にはよくわからなかった。
    「いいピアノです」
     はい、とまた僕はうなずいた。
    「昔は山も野原もよかったから」
    「はい?」
     その人はやわらかそうな布で黒いピアノを拭きながら続けた。
    「昔の羊は山や野原でいい草を食べていたんでしょうね」
     僕は山間の実家近くの牧場にのんびりと羊が飼われている様子を思い出した。
    「いい草を食べて育ったいい羊のいい毛を贅沢に使ってフェルトをつくっていたんですね。今じゃこんなにいいハンマーはつくれません」
     何の話だかわからなかった。
    「ハンマーってピアノと関係があるんですか」
     僕が聞くと、その人は僕を見た。少し笑っているような顔でうなずいて、
    「ピアノの中にハンマーがあるんです」
     全然想像できなかった。
    「ちょっと見てみますか」
     言われてピアノに近づいてみる。
    「こうして鍵盤を叩くと」
     トーン、と音が鳴った。ピアノの中でひとつの部品が上がり、一本の線に触れたのがわかる。
    「ほら、この弦を、ハンマーが叩いているでしょう。このハンマーはフェルトでできているんです」
     トーン、トーン、と音がして、それがやさしいのかどうか、僕にはわからない。でも、森で、九月の上旬で、夕方の六時頃で、暗くなりかけていて。
    「どうかしましたか」
     聞かれて、僕は答えた。
    「さっきよりずいぶんはっきりしました」
    「何がはっきりしたんでしょう」
    「この音の景色が」
     音の連れてくる景色がはっきりと浮かぶ。一連の作業を終えた今、その景色は、最初に弾いたときに見えた景色より格段に鮮やかになった。
    「もしかして、ピアノに使われている木は、松ではないですか?」
     その人は浅くうなずいた。
    「スプルースという木です。たしかに松の一種ですね」
     僕はある確信を持って聞いた。
    「それはもしかして、大雪山系の山から切り出した松ではないでしょうか」
     だから、僕にも景色が見えるのだ。あの森の景色が。だから、こんなに僕の胸を打つのだ。あの山の森が鳴らされるから。
    「いいえ、外国の木です。これはたぶん、北米の木だと思います」
     あっけなく予想は外れた。もしかすると、森というのはすべて、どこにあってもこんな音を立てるのだろうか。


    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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