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  • 【編集長:東浩紀】ゲンロンβ10【うごめく「もの」に目を凝らす】

    2017-01-13 00:00
    540pt

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    ゲンロンβ10 2017年1月13日号

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    10
    2017年1月13日号
    編集長:東浩紀 発行:ゲンロン


     目次 

    1. 観(光)客公共論 #12 東浩紀
    2. 「ポスト」モダニズムのハード・コア――「貧しい平面」のゆくえ #16 黒瀬陽平
    3. ポスト・シネマ・クリティーク #13 草川啓造監督『劇場版 艦これ』 渡邉大輔
    4. アンビバレント・ヒップホップ #6 ラップ・ジェスチャー論~手は口ほどにモノをいう~(前編) 吉田雅史
    5. 浜通り通信 #46 忘れやすい日本で、福島の観客を取り戻す 小松理虔
    6. 人文的、あまりに人文的 #9 山本貴光×吉川浩満
    7. 批評再生塾定点観測記 #6 文芸・文学 横山宏介
    8. ゲンロン友の会総会フォトレポート ゲンロン編集部
    9. メディア掲載情報
    10. ゲンロンカフェイベント紹介
    11. 編集部からのお知らせ
    12. 編集後記
    13. 読者アンケート&プレゼント
    14. 次号予告
       

    ゲンロン友の会第7期総会(2016年12月17日開催)にて行われた、カオス*ラウンジ×サエボーグのアートパフォーマンス「動物農場の子どもたち」より。
    撮影=丸尾隆一

     


    観(光)客公共論 #12
    東浩紀
    @hazuma


    「観(光)客公共論」と題したこの連載、連載とは名ばかりで休載が続いていた。バックナンバーを遡ってみたところ、昨年8月の『ゲンロンβ5』を最後に掲載が途絶えていたようだ。しかもその最後の回は「批評とはなにか(3)」と題した尻切れトンボの文章で、次回は柄谷行人について語るなどと続きが予告されているのだが、実際にはその続きは『ゲンロン4』の巻頭言で書いてしまった。なんとも手詰まりの雰囲気である。

    というわけであらためて仕切りなおしたいのだが、そもそもなぜこんな混乱に陥ってしまったのか。その理由は、ぼくがこの半年ほど『ゲンロン0』の書き下ろしに捕まっていることに尽きる。『ゲンロン0』の原稿を書く、それが最優先の仕事で、どうしても連載は後回しになる。おまけに内容も被っている。本連載は「観(光)客公共論」と題されているが、『ゲンロン0』のサブタイトルは「観光客の哲学」である。それでも連載開始当初は、こちらの連載をうまくまとめて『ゲンロン0』の一部に組み込むなどとムシのいいことを考えていたのだが、実際に執筆が始まってみればそんなことができるわけもない。結果的に、『ゲンロン0』を書き進めれば書き進めるほど、連載ではなにを書けばよいのかわからなくなり、迷走するというテイタラクになってしまった。

    とはいえ、その混乱も終わりが近づいている。『ゲンロン0』の制作が大詰めを迎えているからだ。本誌配信の翌週には、某所で2回目のカンヅメに入る(1回目のカンヅメは昨年秋に行った)。会社経営をしていると雑事が多く原稿に集中できないのだが、カンヅメのあいだは社内メーリングリストからも外され、否応なく原稿だけに向き合わなければならなくなる。うまくいけば2月はじめには原稿が完成し、3月中旬にはみなさんのお手元に本が届けられるはずである。

    ところでこの『ゲンロン0』だが、いったいなんのことだかよくわからんという読者も多いかもしれない。そこで軽く説明しておきたい。

    『ゲンロン0』は、要はぼくの新著である。形式的には『ゲンロン』の創刊準備号という位置づけで雑誌の体裁で出版されるが、掲載されるのはぼくの文章のみであり、実質は単行本と考えてさしつかえない。つまりは、『一般意志2・0』(2011年)、『セカイからもっと近くに』(2013年)以来の新著が、この3月に出るのである。しかも今回は完全な書き下ろしだ。

    書き下ろした長さは原稿用紙300枚ほど。主題は「観光客の哲学」。目次は第1部と第2部にわかれ、前者はどちらかと言えば哲学論文を意識した文章で、後者は文芸批評に近い文章で書かれている。出てくる固有名は、第1部では、ヴォルテール、カント、シュミット、アーレント、ネグリ、クリプキなど、第2部では、フィリップ・K・ディック、ジジェク、トッド、ジラール、ドストエフスキーなどだ。さまざまな時代のさまざまな内容のテクストが自由自在に登場し、それを横断してひとつの「批評」を紡ぐというこのスタイルは、柄谷行人の『探究』を強く意識している。ぼくはかねてより、いちど『探究』のような本を書きたいと思っていた。そしてまた、『ゲンロン4』の巻頭言でも記したように、最近は、いまこそ『探究』のような思弁的なスタイルの本が必要だとも考えるようになった。それゆえ自分で書くことにした。それが『ゲンロン0』である。

    具体的な内容としては、『ゲンロン0』は、「グローバリズムが世界を覆い尽くしたこの時代に、新しい政治思想の足がかりはどこにあるか」をテーマとしている。あるいは、別の角度から言い換えれば、「世界中で多くの人々が他者とつきあうのはうんざりだと言い始めた時代に、それでも他者への寛容を政治思想に組み込むためにはなにを手がかりとすればよいか」をテーマとしている。そのまわりに、「動物化」「ポストモダンの二層構造」「観光客」といったこの数年散発的に述べてきた概念や、ゲンロンカフェの座談会で口頭で述べるだけだったドストエフスキーの読解などが配置されている。ぼくのむかしからの読者は、ぼくがあちこちでばらばらに展開してきた話がこのように繋がるのかと、いろいろ発見があるはずである。『ゲンロン0』は、『存在論的、郵便的』『動物化するポストモダン』『一般意志2・0』のすべてを統合しつつも、その3冊のいずれよりも普遍的なテーマを追求した、公衆に開かれた本を目指している。ご期待いただきたい。
     


     

    というわけで、いまのぼくは『ゲンロン0』で頭がいっぱいなのだが、それにしても、ぼくはなぜこんな本を書こうとしてしまっているのか。

     
  • 【編集長:東浩紀】ゲンロンβ9【異界と接続する批評】

    2016-12-10 04:102
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    ゲンロンβ9 2016年12月9日号

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    9
    2016年12月9日号
    編集長:東浩紀 発行:ゲンロン


     目次 

    1. 『観光客の哲学』第2部「家族の哲学(断片)」より断章 東浩紀
    2. ポスト・シネマ・クリティーク #12 片渕須直監督『この世界の片隅に』 渡邉大輔
    3. 「ポスト」モダニズムのハード・コア――「貧しい平面」のゆくえ #15 黒瀬陽平
    4. 日常の政治と非日常の政治 #8【最終回】 「POST-TRUTH」の時代に 西田亮介
    5. 人文的、あまりに人文的 #8 山本貴光×吉川浩満
    6. 浜通り通信 #45 小名浜のヤンキーが見た「小名浜竜宮」 小松理虔
    7. フクシマ・ノート #11 戦後津島とDASH村、失われたふたつの浪江町「開拓史」 二上英朗
    8. 批評再生塾定点観測記 #5 状況・社会 横山宏介
    9. メディア掲載情報
    10. ゲンロンカフェイベント紹介
    11. 編集部からのお知らせ
    12. 編集後記
    13. 読者アンケート&プレゼント
    14. 次号予告
       

    カオス*ラウンジ新芸術祭2016 市街劇「小名浜竜宮」に出品された村井祐希の作品《Omelet Embankment Section》の一部。中之作の海沿いにある清航館の前庭に展示された。スーパー堤防にヒントを得た大きくいびつな箱のような構造物で、シリコン樹脂で固めた絵の具を綱のように手繰りつつ、構造物の上に登ることができる。村井は『美術手帖』2016年12月号のアート界注目の新人100人を紹介する特集でも取り上げられている。
    撮影=小松理虔

     


    『観光客の哲学』第2部「家族の哲学(断片)」より断章
    東浩紀
    @hazuma


    下記に掲載するのは、ぼくが現在執筆中の新著『観光客の哲学』こと『ゲンロン0』の第2部から抜粋した断章である。『ゲンロン0』は、『ゲンロン』の創刊準備号という立て付けになっているが(そしてそれが出ないあいだに『ゲンロン』はすでに4号が刊行されているが)、実質的にはぼくの書き下ろしの新著である。いまのところ2017年4月刊行の予定で動いている。

    同著の一部は、本誌のバックナンバーですでに紹介したことがある(『ゲンロン観光通信 #3』『ゲンロン観光通信 #7』および『ゲンロンβ4』)。そちらを読まれた方はご存じのとおり、その時点では同著には「ですます」体の文章が採用されていた。というよりもぼくはこの数年、「ですます」での表現に強く傾いていた。しかし今回、あらためて、本誌に求められるもの、いまのぼくに寄せられている期待を熟慮した結果、完成稿は「だである」体に統一することとした。そのためにまた少なくない修正作業が発生しており、そのせいで刊行が遅れているが、そのぶん内容は読者の期待には応えていると信じている。

    ぼくがこの本で試みているのは、ひとことで言えば、『存在論的、郵便的』以来の――『動物化するポストモダン』以来のではないことに注意してほしい――新たな主著を書くことである。ぼくはそんな本は書きたくなかった。ひとことで言えば面倒だし、だれが読むのかもわからないからである。けれども、たぶんそれがないと、というよりもだれかがそういう時代錯誤なことをやらないと、批評はもうさきに進まない。『ゲンロン4』の巻頭言を書き、「現代日本の批評」の共同討議を修正しながら、ぼくはそんなことを考えていた。

    刊行を期待されたい。
     


     

    第1章「家族の脱構築のために」より

    第1部では、(1)21世紀の世界が、単数のリバタリアンな市場のうえに無数のコミュニタリアンな国民国家が乗っかっている二層の世界として捉えられること、したがって(2)現代の政治哲学の問題の多くが、その二層の原理の衝突として解釈できること、そして(3)そんな時代の「新しいよき市民」のモデルとして、ふたつの原理を往復する「観光客=郵便的マルチチュード」が想定できること、以上3点を明らかにした。「観光客」の存在から新たな哲学を構想するという本書の目的は、ここまでの議論であるていど達成されたことと思う。

    第2部では、以上の結論のうえで、「不気味なもの」や「子ども」について考えるふたつの草稿を掲載する。ただし両者はあくまでも草稿で、第1部のようにはまとまった議論になっていない。

    (……)

    ふたつの草稿は、いっけんかなり離れた主題を扱っている。一方は情報社会の新たな主体について論じ、他方はテロリズムの罠からの脱却を扱っている。けれどもその両者は、本書のここまでの議論から必然的に導かれる、同じひとつの問いに関係している。それはすなわち、この二層構造の世界において、もしかりにリバタリアンな市場に生きる「ビジネスマン」の拠りどころが「個人」であり、コミュニタリアンな国家に生きる「国民」あるいは「市民」の拠りどころが「国家」あるいは「共同体」であるとすれば、観光客=郵便的マルチチュードの拠りどころはいったいなにになるのか、という問いである。

    人間のアイデンティティをどこに求めるかは、政治思想の性格を大きく決定する。個人を出発点にすれば資本主義を肯定することになるし、共同体を出発点にすれば国家主義を肯定することになる。かつて共産主義なる政治思想が、個人でも国家でもない第三のアイデンティティとして、「階級」なる概念を提示したことがあった。というよりも、共産主義の革命性は、本当はこのアイデンティティの発明にこそあった。共産主義は階級に依拠していたからこそ、国家の存在を否定しつつも、個人の無秩序な自由の集積=資本主義を批判することができたからである。けれども、その共産主義は冷戦崩壊とともに影響力を失った。それゆえぼくたちはいま、リバタリアニズムとコミュニタリアニズムが正面からぶつかる、二層構造の世界に生きることになっている。

    この状況を脱するためには、個人でも国家でも階級でもない、第四のアイデンティティの発明あるいは発見が必要である。ロシアの思想家、アレクサンドル・ドゥーギンは「第四の政治理論」の必要性を訴えている。彼によれば、自由主義は個人の思想で、全体主義は国家の思想で、共産主義は革命の思想であり、それぞれ一長一短があるがいずれも現代に役立たない。それゆえいまは「第四の政治理論」として、ハイデガーの「現存在」の再解釈に依拠した新しい思想が必要なのだという。

    ドゥーギンは極右の体制派として知られ、この主張もロシアの地政学的拡張主義(ユーラシアニズム)と深く結びついており、ぼくはけっして彼の立場に同意するわけではない。そもそも「現存在」は、すでにいちど全体主義(ナチズム)にイデオロギーの要として利用されている。

    しかし彼のこの整理そのものは有益である。(……)
     

     
  • 【編集長:東浩紀】ゲンロンβ8【チェルノブイリと想像力への旅】

    2016-11-12 01:40
    540pt

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    ゲンロンβ8 2016年11月11日号

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    8
    2016年11月11日号
    編集長:東浩紀 発行:ゲンロン


     目次 

    1. 【特別掲載】チェルノブイリへの旅は想像力への旅である 東浩紀
    2. 「ポスト」モダニズムのハード・コア――「貧しい平面」のゆくえ #14 黒瀬陽平
    3. ポスト・シネマ・クリティーク #11 黒沢清監督『ダゲレオタイプの女』 渡邉大輔
    4. 浜通り通信 #44 2016年11月の浜通り、そしてそのリアル 小松理虔
    5. アンビバレント・ヒップホップ 番外編 「後ろめたさ」のフロウ 吉田雅史
    6. 人文的、あまりに人文的 #7 山本貴光×吉川浩満
    7. 日常の政治と非日常の政治 #7 安倍昭恵氏との「対談」から考える総理夫人の政治性・権力性 西田亮介
    8. SF創作講座レポート〈夏〉 情報・遊戯・論理 溝口力丸
    9. 批評再生塾定点観測記 #4 音楽・音響 横山宏介
    10. メディア掲載情報
    11. ゲンロンカフェイベント紹介
    12. 編集部からのお知らせ
    13. 編集後記
    14. 読者アンケート&プレゼント
    15. 次号予告
       

    ※今号は東浩紀「観(光)客公共論」は休載し、チェルノブイリツアー事後ワークショップでの講演内容を特別掲載いたします。

    表紙:旧チェルノブイリ原発衛星都市プリピャチの小学校の廃墟に落ちていた国語の教科書。表紙には埃が厚く積もっていたが、開くと綺麗なページが出てきた。この写真は2016年度チェルノブイリツアーの参加者、神田理枝さんの作品で、事後ワークショップで写真家の新津保建秀さんから高い評価を受けた。神田さんは下北沢で「ほん吉」という古書店を営んでいる。長年古書と付き合ってきた彼女ならではの、本が持つ時間性への意識が見える。
    撮影=神田理枝

     


    チェルノブイリへの旅は想像力への旅である
    東浩紀(談)
    @hazuma


    (編集部より)
    2016年10月7日から13日にかけて、今年で4回目となる〈ゲンロン H.I.S. チェルノブイリツアー〉(監修:ゲンロン、主催:H.I.S.)が行われた。チェルノブイリ原発では現在、廃炉作業を進めるための「新石棺」の建設が急ピッチで進められている。新石棺はこの冬に完成し、事故を起こした4号機をまるごと覆うことになる。事故後30周年となる今年のツアーには、事故現場の姿を目の当たりにできる最後の機会ということもあり、30名を超える参加者が集まった。以下は、ツアー終了から約半月後、11月5日にゲンロンカフェで開催されたセミナーにおいて、東浩紀が行った講演の記録である。来年のツアーへの参加を検討されている方にもぜひ参考にしていただきたい。

     


     

    このたびはチェルノブイリツアーへのご参加、ありがとうございました。この講演では、ツアーに参加いただいたみなさんに、あらためて、ツアーのプログラムがどのようなねらいのもとで企画されたのかをお話したいと思います。

    まずお伝えしておきたいのは、このツアーは、たとえば反原発のような特定のイデオロギーのために行っているものではないということです。原発に対しては、どのようなスタンスで参加する人がいても構わないと考えています。では、ぼくはみなさんになにを伝えたくて、ツアーを続けているのか。

    それは、ひとことで言えば、原発事故の問題とは想像力の問題であり、チェルノブイリについて考えることは想像力について考えることなのだということをお伝えしたいからです。どういうことでしょうか。3つの観点からお話します。
     

    第一に、チェルノブイリは、すでに想像力に囲まれた場所です。未曾有の原発事故を起こしたこの地域(ゾーン)は、放射能恐怖と結びついた一種の文化的なアイコンとなっています。「チェルノブイリ」は世界中で知られている地名であり、20世紀の巨大事故を象徴する名前です。そのイメージを糧に、廃墟化したゾーンを舞台にした『S.T.A.L.K.E.R.』のようなゲームをはじめ、さまざまな作品も生み出されている。プリピャチは、いまや世界中の廃墟マニアのあこがれの土地です。

    つまり「チェルノブイリ」の名は、「ヒロシマ」や「アウシュヴィッツ」と並び、たんなる地名ではなく、近代文明や科学技術をめぐるサブカルチャーのひとつの中心になってしまっています。みなさんのなかにも、その重力に惹かれてツアーに参加されたかたがいらっしゃると思います。ダークツーリズムを推進するぼくは、そのような動機を歓迎します。けれどもその代償もあります。チェルノブイリの町には、事故のまえにも1000年以上の歴史がありました。教会もあれば墓場もあった。けれども、いまやそれを思い出すひとはほとんどいない。周囲の村々もそうです。ツアーでは、サマショール(自主帰還者)の住む小さな村に行きました。ある土地が、ある事件を契機にして文化的アイコンに変わってしまうとはどのようなことなのか。現実のチェルノブイリに行くことで、みなさんもいろいろと考えられたのではないかと思います。
     

    第二に、そもそも1986年のあのチェルノブイリ原発事故そのものが、想像力の不足もしくは過剰ゆえに起きたと考えられるという問題があります。