2012年6月26日公開記事を、編集・修正して再掲載します。
王国に騎士にドラゴンに魔法。子どもから大人まで、多くの人に愛されるファンタジー小説。欧米ではフィクションのメジャーなジャンルとして、毎年多くの本が出版されています。
しかしここ最近、ある異変が起きているようです。それは、読者がストーリーのおもしろさや登場人物の描写よりも、魔法の「システム」がきちんと作られているかどうかで批評するようになったこと。 魔法がどういう仕組みで働き、そこにどんな原因と結果があるか、まるで物理学のような説明をファンタジーに求める必要があるのでしょうか?
以下に、米ファンタジー作家で『空の都の神々は』の作者であるN・K・ジェミシン氏が、「魔法」と「魔法を変えたもの」について書いたコラムをご紹介します。
充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。
―アーサー・C・クラーク充分に分析された魔法は、科学と見分けが付かない。
―米コミック『ガール・ジーニアス』のアガサ・ヘテロダイン(クラークをもじったSF作家ラリー・ニーヴンの言葉をさらにもじったもの)ラララーなんにも聞こえない。これは愚痴であって、文句ではない。私は怒ったときは文句を言うが、今は不満で不機嫌なだけだ。ファンタジー作家には面倒なことに、どうしても従うべきルールがあるらしい。従わなければファンタジー警察に捕らえられて、冷鉄の鉱山で重労働をさせられるのだ。たとえば、魔法には法則がなくてはならないという声がよく聞こえてくる。論理的でなくてはならない、制約や結果がなくてはならない、エネルギーの交換が、物語内での一貫性が、明確な因果関係が、徹底的に検証された法則と、それに伴う反復可能な結果が... ちょっと待った。
―私
私たちは魔法の話をしてるんだよね? 神秘の力、ビヨーンとかボワワーンとか、人智を超えたアレだよね? 何よりもまず、科学ではないよね? 私は時々わからなくなるのだ。ファンタジー小説の読者が厳格に作られた魔法システムを褒め称える(「システム」という言葉については後述)、その時々に私は考える。なぜこの人たちはファンタジーを読んでいるのだろう? と。 もし彼らが科学に似ているかどうかで魔法の良し悪しを判断したいなら、素直にサイエンス・フィクションを読めばいいのではないか? サイエンス・フィクションでも魔法っぽいネタ(超能力など)は充分楽しめる。ファンタジーは体裁だけでなく、基本的前提においても、もっと違うものを目指すべきではないのか?
なぜなら、これが魔法の話だからだ。それは科学では行けない場所に行き、論理をねじ曲げ、テクノロジーにウィンクし、私達がフィクションの世界を覗き込んで自分の世界とは全く違った何かを見たときに感じる「センス・オブ・ワンダー」(不思議な感覚)で私達をいっぱいにしてくれるもののはずだ。世界の多くの文化において、魔法は生と死にまつわる信仰と密接に結びついている。生と死を理解する者はいないし、できると思う者もまずいない。
魔法とは神または神々の成せる業だ。 それは大地の息吹であり、世に在るものの副産物であり、森の奥で人知れず木が倒れるときに働く力だ。誰もがそれに触れる幸運を、または不運を得られるわけではない神秘だ。人の信念や、眼に見えないものの気まぐれや、無慈悲な言葉によって乱されるものだ。そして、筋が通っていなくてもいいのだ。実際筋が通っていない時の魔法のほうが、私はかっこいいと思う。 昔、英語のファンタジー小説はそれがわかっていた。昨年、ル=グウィンの『ゲド戦記』の読書会に参加する前に同シリーズを読み返してみたら、ゲドがロークで学んだことのどれひとつも全く筋が通っていないことに、私はショックを受けた。彼らの魔法は名前がすべて。
物の名前を知るために、魔法使いは充分な経験を積んでそれらを理解し、自らを先入観から解放し、そして...あとはうまくいくよう願いながら一生懸命祈るしかないらしい。なぜなら魔法は、同じ結果が繰り返されることも予測できることも決してない、いちかばちかの実験だからだ。 魔法が使われる度毎に何が起きるのか、最も経験を積んだ魔法使いでさえ、それまでの知識から見当をつけるだけで精一杯なのだ。しかも、使用する者が変われば魔法も変わる。それは経験的ではなく直感的なもので、直感の強い魔法使いならその場の思いつき以外の何物でもない、推測や飛躍した信念で呪文を編み出してしまう。それに感情も重要だ。魔法に間違った感情を持ち込めば、すべては槍に姿を変える。ル=グウィンはそれを美しく描いて見せ、私はその虜になった。
なぜなら、魔法とはきっとこうだと私が思う感覚がそこにあったからだ。 また、行き当たりばったりな奇妙さがあったトールキンの魔法も然りである。『指輪物語』の魔法は、ある時は魂を溶かし込んだ合金で指輪を作ること。ある時は暗黒の言葉を身につけ、暗黒の種族に話しかけること。ある時は特殊な棒を特殊な方法で振りかざし、大きな声で叫ぶこと。または、尖った耳を持って生まれること。魔法に抵抗できるとは、毛に覆われた足で生まれること。それは有機的で世界に溶け込み、まったく捉えどころがなく、そして素晴らしかった。
トールキンやル=グウィンから現在までの間に、何が起こったか。「ダンジョンズ&ドラゴンズ」(以下D&D)だ。D&Dは現代のファンタジー読者に多くの責任がある(私はこれをD&Dファンの一人として言う)。システム化する必要のない、してはいけない実に多くの物をシステム化してしまったのはD&Dだ。種族、人種、性別による差別と決めつけ主義、キャリア選択、死亡率。もちろんD&Dは長年の間に良くなっているし、これらすべてはD&D以前のこのジャンルにも確かに見られた。
だが少年少女とその他の諸君には覚えておいてほしい。システムは馬鹿げた考えに拍車をかけるのに極めて効果的な手段だということを。 なぜならシステムには自己を補強する力があり、何かが論理的または倫理的に疑わしいときでさえ、その内部では整合性が保たれるからだ。
人間の脳はそう働くようにできている。ある事象があるパターンで充分な回数発生すると、私たちは考えるのをやめてマクロ・モードになる。すると突然、「もちろんオークは悪者に決まってる。だってオークなんだから」と言うことに何の疑問も感じなくなるのだ。または、「もちろん魔法は論理的であるべきに決まってる。だってそうでなければ、どうやって数値的に、しかも良いチーム作りを促す公平な方法で、魔法の効果をシミュレーションするの?」 数量による公平さとチームの育成を気にかけるのは、ゲームの論理だ。魔法にゲームの論理を当てはめてはいけない。だってこれは魔法なんだから。
(中略)
私の苛立ちのきっかけになったのは、最近、複数のイベントで作家のタマゴたちと一緒にワークショップを手伝ったときの出来事だ。私が見た未来のファンタジー作家の彼らは、魔法システムについて自ら進んで苦しみもがき、ルールやら力の供給源やら魔法保存の法則やらに、細心の注意を払っていた。もしいつか作品が出版されることになったとき、魔法システムをファンタジー警察にボロクソに言われるのを恐れているのだ。
なかにはプロットやキャラクターを考えたときよりも、ずっとずっと多くの時間を魔法システムに費やす者もいる。悲しいことにプロの作家でも、すべてをなげうって仕組みだけに集中しました的な作品をたまに見る。さらに悲しいことに、それに大喜びする読者がいる。まるでストーリーにとって大事なのは、魔法システムだけであるかのように。
ファンタジーとはそんなものか? プレイヤーガイドに薄っぺらく書かれた物語でいいのか? それがファンタジーのあるべき姿か? きっちり構成された魔法と公式と数字なのか? もちろんそんなはずはない。ファンタジーにはもっとずっと多くのものがあるし、あり得るし、あるべきなのだ。だから神秘的で、馬鹿げていて、奇妙で、めちゃくちゃカッコいい魔法を見せてほしい。それで論理はほどほどに。私たちは科学をやってるわけじゃないんだから。
(N・K・ジェミシン)
魔法にシステムは必要か ― 西洋ファンタジー界に起こりつつある異変【コタクベスト】[Kotaku Japan]
But, but, but -- WHY does magic have to make sense? [N.K. Jemisin]
Why does magic need so many rules? [io9]
(さんみやゆうな)
コメント
コメントを書く個人的な嗜好の話になってしまうが、
逆に自分がシステム化された魔法世界が好きになれない理由として、魔法の神秘性が失われるということの他に
理解できない物事に無理矢理もっともらしい理由をつけて「理解したつもり」になるのが嫌だ、というのがある。
そういう事象の理由付けに使われる「神」と「科学」に差はない。
にもかかわらず、神や霊では駄目で、科学や科学に類似する何かであれば理解できるし、理解したことになるという感覚(錯覚)が受け入れられない。
ちなみに、不思議な魔法の存在自体がご都合だと思うのに、それに附属する創作科学のような設定はその設定自体がご都合だとは感じないのだろうか?
そういう人はそもそもファンタジーなど読まないのだろうか?
161でも書いたように、私はご都合が嫌いであるし、人にはよく細かいこと気にしすぎと言われる部類の人間だ。かといって魔法のような仕組みや原理が明かされていない存在そのものをご都合であるとは思えない。
とすると、むしろ一体何が「ご都合」なのか、その解釈の違いがこのズレの原因なのだろうか?
ともあれ、根本的に同じものであるのだから、長々と無理な理由をこじつけられるより、不思議なものは不思議なままに描いてくれるほうが私は潔いと思うし好感が持てる。
おそらく私は魔法というものを一種のブラックボックスとして捉えているのだと思う。そして、だからこそ良いのだと。
しかし、同じファンタジーの括りでもこれだけ好みの差が出るのだからジャンルを分けてしまったほうがいい気もする。SFとSFファンタジーみたいな感じで。
ただ現時点ですでにその辺の線引き曖昧だけどね。
これ以前も話題になった記事だよね-。作者の凝った魔法理論設定を延々説明されるの正直ウザイし、魔法は不思議で神秘的なもので科学理論じゃない!って気持ちは分かるけど、ルールは絶対に決めるべき。じゃないと魔法が作者のご都合主義の道具になるから。それだと読者は、どうせまた便利な魔法の設定が出てくるんだろ?ってなっちゃう。
おはなしに登場する魔法と一纏めにしても、歌や踊りを要求するものから、文字や図形を必要としているもの、相手に薬を飲ませないと効果が発揮しないもの、中には使うだけで"相手は頭をかち割られて死んだ"といった便利(?)なものまである。とか何とか言おうと思ったけどもう上で色々言われてるしもういいや!設定に矛盾がなければ"変態に魔法を使わせた結果がこれだよ!"も魔法として正しいと思うよ!
>>1
ダンジョンズ&ドラゴンズにおいては魔法全般は呪文学、一部物理学や薬学等は錬金術、魔方陣やシンボルは宗教学に分類されてましたね。
>>7
そしてそれは『料理』に変えても成り立つ(゜д゜)
>>18
体系化された魔法は科学の一部って考えであれば概ね同意できる。でも話に出てくる魔法って基本的に手作業だからね。体格も視力も指の太さも違う人間が同じようにやったって同じにならないのは当たり前。うちの工場で手作業で作ってる部品なんて精度バラバラだし、下手すると手順も違う。大体、全自動の機械からですら全然形の違うものが出てくるぞ。科学技術の再現性なんて現場レベルではこんなもん。
「読者=語り部の立ち位置」の問題じゃないかなあ。
指輪物語では魔法は無知なホビットからみる世界の神秘。ゲドは魔法に畏敬を払う学究の徒。
いうなれば自然科学→学者の立ち位置。
でも今の読者は「魔法のアラを探してハッキングで勝つ」というJoJoスタイルがお好き。
いうなればComputer API→プログラマの立ち位置。
まあ、ハッキング=世界を変えられる、という傲慢なポジションだから、自然に畏敬を払って生きる本来の「ファンタジー」みたいにはならんわな。
>>172
いるよね、あんたみたいな「どうせ魔法自体ご都合主義なんだからいいだろ」って言っちゃう人
そもそもシステムが存在しないのならルールも存在しない。
「システムの存在しない魔法」ではなく「システムを理解していない魔法を行使している」だけに過ぎない。
デウス・エクス・マーキナーって知ってる?ギリシャ・アテナイとか都市国家が一般的だった時代の演劇に登場していた、物語の最後に登場して全てを都合よく丸く収めてしまう存在。日本語訳では「機会仕掛けの神」なんて呼ばれてる。
なんで魔法に法則性を作るのかって言うと、この「デウス・エクス・マーキナー」が発生するのを阻止するため。何でも魔法でご都合主義的に解決!になってしまったら、そもそも世界が存在する意味自体がなくなるんだよ。そもそも魔法で、問題が発生しないように「最良の状態」にしとけばいいんだから。そこにドラマなんて生まれると思う?いや、そもそも人間の営みとか文明とかすらいらなくなるよ?未来も何もかも魔法で都合よく作っちゃえばいいんだから。
実際、アテナイの演劇で物語の最後にこれが出てきて都合よく解決させてしまう展開が多かったため、観客がしらけてしまった。なので、早々にこの概念は使われなくなったそうな。2000年以上前に、あなたと同じような事を考えた人がいたわけw だから魔法にルールなんて必要ない!という主張は、デウス・エクス・マーキナーを認めるようなものなんだよ。
なお、「神秘性」なんてものは「知らない」から発生する事であって、魔法使いにとって魔法はただの道具であって、別に神秘な存在ではない。中世の人から見れば、私たちが使ってるスマフォは神秘の存在だけど、私たちからすればただの日常道具。魔法のルール化は、世界そのものが矛盾なく存在するために必要ってこと。
魔法システムが科学に似ているのは、そもそもSFのサブジャンルとしてファンタジー小説が生まれたからだよ。それまでの童話・伝説などの魔法は海を割ったりカボチャを馬車にしたり自由自在。しかし魔法があるならば主人公は努力せず魔法で楽々問題解決できる訳で、そうなると物語として面白くもなんともない。
城の前に魔王軍が来たら魔法で隕石を落として解決!なんて事もまかり通る。だからSF作家は魔法を書かなかった。
だが魔法に法則性・制限=システムを与える事によって、主人公は制限の中でいかに工夫して魔法を使うか?
が問われるようになり様々なシチュエーションが生まれる。
例えば魔王軍に隕石を落とそうとすれば、魔力が足りないから何とかしようとか、
魔術師の数が少ないから集めに行こうとか、星の位置が良くなるまで籠城しようなど、落とすに至るまでの物語を作れる。
ただシステムばかりに気を取られ本来楽しむべき物語を綴れないのであればシステム偏重は見直すべきとは思う。
魔法のシステムや大系、原理自体に魅力を感じてしまうことは否定できません。しかし、魔法とはもっと魔法であるべきだということを拝読して気づかされました。素晴らしい警鐘だと思います。
別に科学的な視点に立てば「魔法に魔力だのを持ち出して理由づける必要性」なんて全くないのよね。
なぜかって?物理学者が魔法を研究するなら、まずやることは要請から理論を作ることだからだよ。
魔法がシステム的なものである必要はない。むしろ、古代のファンタジーのような「念じれば起こる」レベルの話を理論化するのが物理学だ。
ちょうど、情報科学や統合情報理論、言語学や論理学が「古典的な魔法」の理論化に有効そうじゃないか。
……つまりはだね、「空気中のマナを集めて放出」などというとって付けたようなメカニズムは、ファンタジーに持ち込まれた歪なSFであると同時に、我々のSF作家としての部分の敗北を意味するんだ。