• このエントリーをはてなブックマークに追加

イベント

Twitter

ブログ・メルマガ

  • 「便利さというのは僕にとって何番目くらいに大切なものなんだろう」

     便利か、不便かというのは今の僕にとって何番目くらいに大切なものなんだろう。    先日、湘南界隈への移住を考えている方々と話した際にふとそんなことを思った。美容文藝誌『髪とアタシ』編集長のミネシンゴさんがモデレーターを務める「近い将来、鎌倉・逗子で暮らしたい学」の打ち上げでのことだ。移住にあたって気になることを訊いていたら、駅までのアクセスであるとか、大きなスーパーはあるかなど、都会で暮らしているのと変わらない便利さが湘南でも享受できるかどうかというのが条件面においてそれなりの比重を占めている印象があったからだ。否定するつもりはないけれど、少なくとも僕自身は便利さというのは都会にしかないもので、都会を離れるというのは不便さを受け入れる代わりに、自然環境であるとか、新鮮な海の幸や山の幸などの豊かさを手に入れるものだと考えていた。とはいえ、僕のような自由業ではない人たちが、毎日都会に通勤しながら湘南で暮らすことを考えるとそこに最低限の便利さを求めてしまうのも仕方がないのかもしれないと、話を訊いていて思った。  不便さを受け入れるというか、それを人生の味わいとして楽しむには絶...

    2日前

    • 0 コメント
    ダウンロード
  • 「よく笑い、よく泣いて」

     生まれたときは嘘みたいに柔らかかった娘の足の裏がだいぶ硬くなってきた。這い這いや掴まり立ち、柔道の受け身みたいな遊び ( 仰向けに寝転がった姿勢で両足を床に叩き付けるのに合わせて「どん、どん」と声を掛けてやると嬉しそうな顔をする ) なんかをするようになって足の裏に筋肉がついて来たのだ。自分の足で立って歩くのに必要な筋力が。  小柄だけど髪の毛が多いせいか、もう赤ん坊という印象じゃない。洋服を着ると見た目だけは立派な幼児だ。年を聞かれ「9ヶ月です」と答えて驚かれることも少なくない。僕らもついつい幼児扱いして泣かれてしまい「ごめんごめん、まだ赤ん坊だよな」と反省することもあるくらいだ。    ところで、夏になると我が家には都会から海水浴客がしばしば訪れる。泳げる海が近く、バーベキューができ、おまけにシャワーも使えて、荷物置き場や無料の駐車場にもなるからだ。  先日は母が妹夫婦と叔母を連れて遊びに来た。僕と妻は娘を母に見て貰って久し振りにのんびりできればと画策していたのだけれど、そうは行かなかった。  娘が突然、妻か僕以外に抱かれることを拒み、母を含む僕ら意外を警戒する...

    5日前

    • 4 コメント
    ダウンロード
  • 「海と毒薬」

     浅瀬で仰向けになって波に揺られていた時のことだ。ひとりの男がじゃぶじゃぶと波を掻き分け歩いて海に入ってきた。思わず見てしまったのは男が火の付いた煙草を咥えていたからだ。身につけているものは水着だけで、首などに携帯灰皿を下げている様子もない。灰が当たり前のように海に落とされていく。声を掛けて注意しようとした瞬間、男が誰かの名前を呼んだ。その笑顔の先にいたのは浮き輪に掴まって波と戯れている男の子だった。おそらく男の子供なのだろう。男は息子を抱きかかえようと、短くなった吸い殻を足下の海に捨てた。そのしぐさには1ミリの躊躇もなく、まるで呼吸をするのと同じくらい自然だった。 「今、海に煙草捨てたの、子供が見てたよ」僕は言った。 誰もが分かりきっていることをわざわざ声に出して注意する学級委員が嫌いだった僕が許せるギリギリの台詞だった。男は一瞬だけ僕を見たけれど、何も言わず息子を連れ涼しげな顔で浜に上がって行った。行き場を失った僕の言葉だけがクラゲみたいにぷかぷかと波間に浮かんでいた。やはり男は煙草を捨てたことも、ましてや吸っていたことさえ息を吸うのと同じくらい無意識だったのだと理解...

    1週間前

    • 8 コメント
    ダウンロード
  • 「夏草」

     それにしても雨が降らない。福岡や大分ではむごい土砂崩れを引き起こすほどの局地的豪雨だというのに、三浦半島は田畑の水も枯れるほどの空梅雨だ。日本の梅雨はいつからこう両極端なものになってしまったのだろう。  とはいえ長期予報で雨の少ない夏になりそうだと訊いていたので、今年はキュウリを植えるのは早々に諦めた。空梅雨の露地畑でキュウリを育てるには朝晩大量の水を欠かさず散布しなければならないからだ。というわけでキュウリは近所のプロ農家さんたちのお世話になっているけれど、やはり例年に比べてぱりぱりと実が堅い。今のところ地元で買う分にはそうでもないけれど、今年関東ではキュウリが例年に比べて値上がりするかもしれない。    畑にはキュウリの代わりに乾燥を好むトマトを例年より多く植えた。大玉トマトとミニトマトよりもひと回り大きい中玉のミディトマトだ。雨が降らないおかげで病気にもなることなく、今のところ順調に収穫できている。しかも甘い。天気読みが的中したみたいで嬉しいけれど、やっぱり適度に雨は降って欲しい今日この頃だ。  そんな空梅雨にもかかわらず相変わらず勢いが良いのは夏草だ。朝に...

    2017-07-17

    • 2 コメント
    ダウンロード
  • 「流木の旅」

    「この流木はどこから来たのかな?」  もうひとりの僕が訊く。当たり前のように海を歩く生活をするようになって、自然に漂着物について考えることが多くなった。    海辺暮らしを始めるまで考えたこともなかったけれど、拾い集めて棚に飾ったり、アート作品に仕立てたりする人もいる流木は最初から流木だったわけじゃない。もともとは葉を茂らせる大木の枝だったのだ。山に根を張っていた大木が折れたか伐られたかして、川に流され、バラバラになりながら、やがて海に出た。そこからまた波に揺られ、波に揉まれ、折れたり削られたり磨かれたり、時には魚や貝の隠れ家になったりという長い長い旅を経て、やがて打ち上げられた浜辺で太陽に灼かれ、流木という残骸になったのだ。  その途方もない時は流木がかつて生き生きとした命だったという事実さえ消し去ってしまったように感じる。たとえばかつて火星に高度な文明が存在していたのだとしても今の〈虚無の砂漠〉からはその匂いすら感じ取ることができないように。  思えば海というのは、生命の源であると同時にやさしい墓場でもあるのかもしれない。流木もそうだし、珊瑚礁もそうだ。そして...

    2017-07-14

    • 2 コメント
    ダウンロード
  • 「確かなもの」

     彼女はどんな思いで黄昏の空を見つめているんだろう。どんな思いで寄せては返す波を見つめているんだろう。今はまだそんな風に腕の中にいる娘の気持ちを想像することしかできない。いや、言葉を話せるようになったからといって掴めるものは心の中のほんの一握りの感情に過ぎないのだろうけど。  娘の気持ちを想像するようになったのと比例して、自分が子供だった頃のことがふと甦る瞬間が増えた。と言っても具体的なエピソードではなく、当時の気持ちと一緒に記憶の底に仕舞い込まれていた断片的なものだ。    そのほとんどがたとえば、学校から団地に続く長い坂道をとぼとぼ下ってゆく時の擦りむいて血が滲んだ膝小僧に象徴されるような「心細さ」だ。  子供は誰しもそうなのかもしれないけれど、僕は物心ついた頃からずっと茫漠とした心細さを抱えていた。それはこの世界でひとりぼっちであるという生まれて来た直後に感じたような叫びたくなる絶望だ。自分の人生なのにいつも誰かが用意した道を目隠しで歩かされているような不安だ。そしてそれが永遠に続くのではないだろうかという底無しの恐怖だ。  鼓動のたびに痛む膝小僧を庇いなが...

    2017-07-12

    • 4 コメント
    ダウンロード
  • 「7月7日の宵祭り」

     数日前、母から小包が届いた。開けると小さな甚平が入っていた。母は裁縫が得意で手作りの布製品を浅草の外国人客向けの土産として売ったりしているのだ。 「2年前から取っておいた布があったのでつむぎちゃんに縫ってみました」と手紙が添えられていた。「お祭りにぴったりだね」と妻が娘に見せて喜んでいた。母がまた少しおばあちゃんらしくなっていたことがとても嬉しく、でも少しだけ切なかった。  7月7日、海が黄昏に包まれ始めた頃、お囃子が響き渡り始めた。地元神社の宵祭りだ。毎年7月二週目の週末に行われているものが今年は七夕と重なったのだ。甚平を着た娘を抱いて自宅裏の神社に向かう道すがら、妻に近所で見掛けた七夕飾りのことを話した。 「今年の大賞は何だったの?」と妻が訊く。僕は毎年目にした短冊の中から一番印象に残ったを勝手に「大賞」として選んでいるのだ。 「『おかあさんがやせますように』」  毎日痩せたい痩せたいと言っているお母さんを影ながら応援している子供の顔が浮かんだ。痩せたいと言いながらも食べてしまっているお母さんの顔が浮かんだ。 「子供って見てないようですごく見てるんだね、親...

    2017-07-10

    • 8 コメント
    ダウンロード
  • 「シエスタ」

     波打ち際を歩いていた。抱っこ紐の中では娘が小さな寝息を立てている。眠いのにうまく眠ることができずぐずっていたので海に連れ出したら、波の音を子守歌にようやく眠りに落ちたのだった。    7月最初の週末だった。夕暮れまでまだ少しある海岸は昼間の暑さと宵闇の肌寒さの間の過ごしやすい世界だった。穏やかな浜辺では水着姿の子供たちが波と戯れていた。大人たちがSAPなどのマリンスポーツを愉しんでいた。海開きした近隣の海岸に比べるとアクセスの悪いここの人出はたかが知れている。だから抱っこ紐をした僕も誰かにぶつかったりすることなく、波打ち際をのんびりと歩くことができるのだ。ビーサンを脱いでさらに数歩、波打ち際にコースを寄せると裸足の上を清冽な波が通り過ぎていく。汗ばんでいた身体が心地良く冷やされていく。これなら当分歩いていられそうだ。  ゆるやかな弓形を描く四百メートルほどの海岸線をかれこれ三往復していた。とはいえ時間にして十五分足らずだ。昼寝にしてはまだ短い。さきほどまでのぐずりっぷりを思い出すともう少しの間眠らせておいてあげたい。娘がベビーベッドでぐずっていた時間何もできなかった...

    2017-07-07

    • 4 コメント
    ダウンロード
  • 「鏡の中には僕らの歪んだ醜い貌が映っていた。」

     海岸というのは自由使用が原則だ。本来は誰のものでもない。みんながお互いを尊重し合い、譲り合って利用できれば何の問題もないのだけれど、哀しいかな人間の中には余裕がなくなると自分さえ良ければいいという我が強くなる人たちもいる。だから日本では人が押し寄せる夏場を中心に一定のルールを敷いている海岸がほとんどだ。これにより海水浴客、マリンレジャー客及びその事業者、そして漁業関係者と地域住民の公平性を生活を行政が守っているのである。    そんな日本の海岸の現実と理想を僕は2001年に「早乙女タイフーン」というドラマの脚本を書いた時に学んだ。くじらいいく子さんの漫画を原作とする、海と人間の命を守るライフセーバーたちの物語だ。  こう見えても性善説で無政府主義者の僕が達した結論は「海岸にルールなんかなければいいのに」。そして十年の時を経て出会ったのが今暮らしている集落の海岸だ。数年前に海水浴場としては閉鎖した ( アクセスの悪さでは集客が激減したのだろう。組合が撤退した ) この海岸にはルールがない。だからライフセーバーもいない。ゴミの片付けも命の保護もすべては利用者の自己責任だ。その代わり...

    2017-07-05

    • 2 コメント
    ダウンロード
  • 「秩序が生まれた日」

     万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。哲学者ルソーは著書「エミール」にそう記している。たとえば、トマトの苗を自然のままではなく剪定したり、誘引したりして自分たちの都合の良いように(たくさんの実が収穫できるよう)育てるように。そんな不自然な行為が地球に様々な弊害を及ぼしていることを否定する人間は誰もいないだろう。    「エミール」は彼の自然礼讃、人為排斥の哲学を教育論に落とし込んだ小説だ。教育学部生の必読の書と訊いて僕も最近読み始めた。なにしろ子育てなんて始めてのことで、たとえ自己流になってしまうにせよ、何かよすがのようなものが欲しかったのだ。何を隠そう親になるずっと以前の僕は「生まれた子を誰とも会わせずに育てたらどんな人間になるかな?」などと酒場で面白がっていたような人間だ。周囲からも「小原さんは子供持たない方がいいよ。危険過ぎる」などと言われていた人間なのだ。もちろん実際に親となった今はそんな実験的な深夜番組の企画みたいなこと思ってもいないけれど、自分でも気づかぬ心根にその火種が燻っていないとも限らない。  教育学部...

    2017-07-03

    • 4 コメント
    ダウンロード

生放送

放送済みの番組はまだありません。

動画

動画が見つかりませんでした。