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既存のやり方にとらわれず、頼まれたらとりあえずやってみる【常盤響INTERVIEW】
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既存のやり方にとらわれず、頼まれたらとりあえずやってみる【常盤響INTERVIEW】

2015-03-29 16:00
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    日々の生活や仕事のスタイルを一新するには、周囲のススメや衝動、誰かの成功事例など、なんらかのきっかけが必要だったりする。しかし、そのきっかけは必ずしもよい結果を生むとは限らない。それを懸念して行動を起こさない人も多いが、やり方や考え方をちょっとだけ変えてみると、思ってもみなかったユニークな人や仕事と出会えることだってあるのだ。

    写真やグラフィックデザインなど、ボーダーレスな活躍で知られる常盤響さんは、数年前から福岡に移住している。東京-福岡を行き来する生活を続ける中、常盤さんの視点にはどのような変化が生まれたのだろう。これまでの変遷を織り交ぜつつ、お話を伺った。

    ――福岡に移住したきっかけはなんだったのですか?

    マネージメントしてくれてた事務所が福岡に移転したことが一つのきっかけかな。サーバーを扱ってる事務所だったから、震災後、東京が拠点だと停電なんかのとき危ういってことで。僕を担当してくれた人も引っ越して「すごくいいとこだから常盤さんも来ませんか?」って。ちょうどそのころ雑誌の仕事も減ってきてて、かといってガツガツ仕事するのも得意じゃないから、地方に行くのもいいのかなあって。

    僕、すごく荷物が多くて家はある程度の広さが必要なんだけど、ターミナル駅の徒歩圏内で100平米以上になるとバカ高くて。都心だと40、50万とかでしょ? それで、東京近郊の郊外も考えたんだけど、そういうとこって100平米以上だとほぼファミリータイプとか二世帯用で。僕が一人で越してきて、しかも業界の人間がしょっちゅう出入りするとなると付近の住民も嫌だろうなあって思って。で、東京にこだわらなきゃ、今まで住んでたとこみたいな繁華街で、家賃が激安なとこがあるかもしれないって考えたんだよね。

    最初に考えたのは仙台。僕、USTREAMでレコ部ってやってるんだけど(=いつもレコードのことばかり考えている人のための番組!)、震災直後に電気が止まって電池の残量も僅かな中、聴いてくれてた青年がいてね。彼が震災の瓦礫撤去のバイトで稼いだ金で呼びます! って連絡くれて、震災から少し経ったころ、出張レコ部をやったんだよね。仙台ではそれまでにもいろいろ仕事をやったことがあって、友人や知人も多かったし、父親の地元も山形なんで近くていいかなって。

    そんなこともあって住むなら仙台と思ってたんだけど、調べたら家賃が高くて。それで、北海道から金沢、名古屋、広島、鹿児島、沖縄まであらゆるとこに行って家賃相場を調べてみたんですよ。DJで訪れたついでに住宅情報誌とか見てね。結果、札幌と福岡は、街のでかさと家賃の安さが群を抜いてた。でも北海道は母親の出身地で小さいころに一時預けられてたこともあって、向こうに結構知り合いも多くて。どうせ住むなら友だちが誰もいないところがいいよなーって思って福岡に決めたんです。

    アップルストアから徒歩5分圏内の家賃が世界で一番安いのは福岡

    ――東京と比べてどのくらい安いんですか?

    繁華街に限って言えば、実感としては1/4くらいかな。アップルストアから徒歩5分以内の家賃が世界で一番安いのは福岡だと思ってる。上海でもホーチミンでも、そういうとこだけはやたら高いんだけど、福岡だけは強烈に安い。オートロックじゃないけどエレベーターはある6、7畳のワンルームマンションで2万6,000円くらいからあるんだよね。

    僕は東京生まれ川崎育ちで、18歳からしばらくは渋谷か新宿近辺にしか住んでなくて、代官山に住んでたときはマンションの最上階ワンフロアに住んでたんだけど、そんときは確か70、80万くらいの家賃。今思うとほんとバカだけど、そういうもんだと思ってたんだよね。でもそこはすぐ撤退したの。渋谷だと、若者もいれば老人もいて雑多な感じがしたんだけど、代官山・中目黒あたりって24時間業界人が溢れてて、それがとても苦手だったんだよね。「スタイリストのアシスタント経てやっと中目に住めましたー!」みたいなエネルギーに満ち溢れてる感じがしてね。

    そっから信濃町に7、8年住んだあと福岡に越したんだけど、住んでみて、福岡って80年代の東京みたいな雰囲気もあるなって。80年代ってまだ子どもで交友範囲も限られてて出歩く範囲も狭かったから、街に出ると知り合いに会えてたんだけど、だんだんと原宿に住んでたやつが結婚して文京区に移ったりして。サークルは広がっていったけど、ふらっと街に出て誰かに会うことはなくなってきたよね。でも、福岡は今でも当時の感覚を味わえる場所。

    あといいなと思うのは、それぞれの店のオーナーと気軽に話せるとこ。例えば外苑前のカフェを撮影とかで使いたいと思って、仲がいい店長とかに「撮影で使いたいんだけど」っていうと「多分大丈夫だと思うんですけど一応オーナーに訊いてみます」ってなるし、特別扱いしてもらうのも悪い気がするわけ。これが福岡だと、店の家賃が安いから20歳くらいのやつでもオーナーだったりしてね。知り合いのマンションの一階の店もさ、値段訊いたら、狭いとはいえ家賃3万5,000円っていう安さで。もちろん単価も安いから儲かるわけじゃないかもしれないけど、でも飲食が元気あって自分の店やってる若い子が多いって楽しいよね。

    しかも、みんな近所に住んでるのがいいよね。外苑前のカフェでDJやってると、23時半過ぎると人がさーっといなくなってDJと店員だけになったりするんだけど、福岡だとみんな眠くなるまでいるんだよね、平日でも。もちろん東京でも中野とか高円寺とか阿佐ヶ谷あたりだとそういうのあるかもしれないけど、福岡はそれに比べるともうちょっと範囲が広いのがいいなって。

    現役で打席に入れるうちに移住したかった

    ――移住を機に、仕事に対する考え方も変わりましたか?

    これまでは、仕事でも人を押しのけないといけない部分も大きかったですよね。まずパイが小さくなってるから、「この雑誌でやりたい」って思っても誰かを押しのけないとできないとか。福岡に移る前に、一生実家の近くに住むのもつまんないけど、60過ぎてからの移住ってなるとリタイヤ後の暮らしだからそれも違うよなって思っててね。まだぎりぎり現役で打席に入れるうちに移住したいって。そういう感覚ですね今は。

    でも、もともと僕は何かの専門家ではなくて、グラフィックデザインにしても写真にしても文章にしてもイラストレーションにしても、「頼まれればやる」って感じで、何一つ自分からやろうとしたことがないんですよ。10代のころはぼんやりとバンドとかやってて、20歳くらいになると他の人たちはプロでやっていこうと腰を据えるんだけど、僕にはその覚悟がなくて。それで、友だちのバンドのチラシ作ったりちょこちょこイラスト描いたりバイトしたりっていうフリーター的な生活を送ってたんです。ペインティングとかもやってたけど、自分の作品は全然気にいってなくて、自分の中でもやもやしたものがあったんです。

    で、90年代のはじめ、バッファロードーターのムーグさんたちと宝島で連載やるようになったことがきっかけで、ヤン富田さんのアルバム関連のちらしデザインを頼まれたんです。ヤンさんが僕ん家きて、あーしてこーしてって言うんですけど、そのとき「常盤君、変なレコードいっぱい持ってんだねー、次のレコードのデザインもやってくんない?」って。「僕デザイナーじゃないんでそんなの無理ですよ」って答えたら「別に予算がなくてデザイナーに頼めないわけじゃなくて、デザイナーに頼みたくないんだよ。レコードが好きな人に頼みたいんだよ。デザインとして間違ってても、レコードジャケットとして合ってたらOK」って言うんでなんとなくやったんです。そしたらそれを見たまりん(電気グルーブ時代の砂原良徳)が自分のソロアルバムのジャケットデザインを頼んできて、さらにトラットリアっていう小山田君がやってたレーベルのコンピ、スチャダラパーのベスト盤(一部)と続いて。当時みんなすごく人気があったから、4枚しかやってないのにもう売れっ子みたいなニオイがしだしてね。

    デザイン的にはご法度かもしれないけど、僕がやる分にはいいだろうと思ってやっていろいろやってましたね。レコードって中身が名盤だったら「これいいジャケだなー」って思うじゃん。それが僕に向いてるなって。で、最初はCDジャケットかそれにまつわる雑誌広告しかやってなかったんだけど、あるとき小説の装丁をやってって話がきたの。新潮社から。小説家は後に芥川賞獲る阿部和重なんだけど、阿部君は、日本映画学校に通ってるころからうちに遊びにきてたの。

    で、その依頼が「CDジャケットみたいなデザインにしてほしい」。とはいえ、そう思ってデザインしても、正方形ならジャケットっぽく見えるけど、四六版にするだけで"ぽく"なくなるんですよ。それで本屋行っていろんな本の装丁を見比べたけど全部グラフィックで、五木寛之も大江健三郎も町田康もそんなに違わなく思ったのね。でもCDジャケットだったら、北島三郎と町田町蔵で全然違うわけですよ。

    それで考えたのが、写真使うと目立つなって。写真が表紙の本ってそれまでは映画のノベルとかしかなかったわけですよ。小説って読み手が自由にイメージするものなのに、具象のものが入るとそれを阻害しちゃうから。でもやっぱり目立つよな~~、と。それで阿部君に電話して、「作家としてさすがっていう装丁と、むっちゃ売れる装丁とどっちがいい?」って訊いたら即答で「売れるやつ」って言ったから、これはもう写真だと。で、カメラマンフィーは10万を考えてるって切り出したら「そういう予算はないです。常盤さんのギャランティ―が全てです」。それで自分で撮ることにしたんだよね。

    カメラを買って15分後に撮影した一枚が人気小説の表紙に

    ――もともと撮るのが好きだったんですか?

    全然。カメラ持ってさえなくて、撮影した日の午前中に買いに行ったんだよね。

    その小説は主人公の妹が少し出てくるぐらいで、基本、登場人物は男ばっかだったの。だから野郎を出すと「このキャラクターはこんなやつなんだな」ってなっちゃうから、主人公のストーリーとは異なるけどなんとなくニオイが似てるもの作ろうと、女の子を主人公にって考えたの。でも僕のイメージ通りの、はすっぱでおっぱいがおっきくて危うげな子が周りにいなくて。で、昔、僕とリリーさん(=リリー・フランキー)を担当してくれてた、エロ本の出版社にいたゾノネムっていう東大出の編集者がそのとき編集してた風俗雑誌の写真見てピンときた子をスカウトに行ったの。風俗店で指名して「そこに寝てください」って段になって「ちょっといいですか」って資料出してプレゼンスタート。そしたら運よくその子がOKしてくれて、高円寺のレコード屋さんで撮影することになるんだけど、待ち合わせ場所に向かう前にカメラ買って、撮影場所で説明書見ながらフィルム入れて撮影したんだよね。カメラを箱から取り出して15分後くらいに撮ったものを、表紙に使ったんだよね。テスト撮影をしようっていう考えもなかった。

    その日のうちに渋谷のラブホテルで裏表紙用のヌードも撮ってね。さらに、当時、三島賞の選考委員だった石原慎太郎が「阿部の小説にはおっぱいが足りない」って言ったら困るからって、帯にもバストのアップ写真使ってね。で、これがえらく売れたんですよ。それでJ文学の新しい流れとか言われたけど、その分、文学系の人から悪くも言われたね。「常盤がこういうの作るから文学界が軽く見られるんだ」って。

    でもそのあと、新潮社のビジュアル編集室の宮本さんから「写真集作らない?」って声がかかって、カメラ買って1年半後には写真集を出せてね。発売日の午後、青山ブックセンターに行ったら一冊も置かれてなくて、やっぱ1,500部しか刷らなかったらこんなとこに置かれないよなって思ったんだけど、電話がかかってきて「常盤さん、青山ブックセンター、午前中100部完売です」。すぐに増刷かかって、大きな書店のその年の写真集の売上ランキング2位になったんですよ、へったくそな写真集が。普通カメラマンならある程度いってから写真集出すから、うまくない写真集ってなくて、それが珍しくてよかったのかもね。

    考えてみると、僕は社会に何も貢献してないけど、唯一これは貢献だって言えるのは、小説の装丁を作るにあたって写真の撮影予算が出るようになったことかな。今は、いろんな小説が写真を装丁に使ってるし、売れてる本もあるけど、当時は新潮社で大問題になってね。でも営業が本屋に持ってったらすごく反応がよくていっぱい取ってくれるからこれでいこうってなって。それも、僕がデザイナーじゃないからなんだよね多分。作ったときも、怒られてもいいやと思ってたしね。

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    【常盤響プロフィール】

    1966年東京生まれ。80年代半ばからバンド活動の傍ら雑誌を中心にライター、イラストレーターとして活動を開始。90年代に入りヤン富田氏の依頼でASTRO AGE STEEL ORCHESTRA『ハッピー・リビング』のデザインを手がけたことによりCDジャケットを中心にデザインを始める。1997年旧知の作家、阿部和重氏の依頼で『インディビジュアル・プロジェクション』を装丁。この装丁のためカメラを購入し初めて写真を撮ったことがきっかけでフォトグラファーとしての活動を始め、既存の概念にとらわれない作風で人気を得る。

    RSSブログ情報:http://www.tabroid.jp/news/2015/03/hibiki-tokiwa.html
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