取材者:渋井哲也
取材日:2011年3月21日
荒浜東地区は、県道137号を荒浜小学校から深沼海岸に向けて進み、貞山運河を越え、同県道の北側だ。大久保さんの家は天保時代から続いていた伝統的な家系だ。
震災当時まで娘夫婦と孫2人と一緒に6人で住んでいた。しかし、同避難所では夫婦のみの避難生活をしている。娘夫婦と孫2人は妻の実家で暮らしていた。
大久保さんは3月11日の地震があったとき、テレビを見ていた、という。
「何の番組を見ていたのか?たしか、スカパーだったと思うが、何を見ていたのか今は思い出せない。たぶん、中国のアニメみたいなものだった」
地震はかなり強い揺れだった。食器棚は倒れないようにロックしていたものの、茶の間にある食器は崩れ落ちていた。ワイングラスも落ちてしまっていた。額縁も全部が斜めになっていた。
津波警報が出された後、大久保さんは近所に声をかけて、荒浜小学校へ避難するように呼びかけた。町内会長であれば、地域の住民を守る立場だ。自身も避難しなければならないが、周囲にも声をかけて、避難を促していたのだ。
「町内は95戸あるんですよ。海岸通りを回って、中通りに来て、貞山堀(貞山運河)ところまで来たんです。約80%くらい回ったかな。地震があってすぐに飛び出したので、消防車よりも早く回ったんです。道路に出ていた人もいたし、シャッターを修理していた人もいた。窓を治していた人もいた。そんなことしてないで、すぐに逃げろ、と声をかけたんです」
地震後、その揺れによって崩れた家屋はなかったという。ただ、大久保さんが言うように、家の窓ガラスが壊れたり、窓が斜めになったりして、窓が外れていたり、シャッターがしまらなっくなっていた人たちがたくさんいた。そんな中で、声かけをしたために多くの人が助かった。
(2011年3月23日)
住民の多くは荒浜小学校へ避難できた。しかし、大久保さんの知る限りでは、直接声をかけた人の中で亡くなった人が一人いた、という。
「顔見知りだった。部落の人は、顔見ればだいたいわかります。犬がいなくなったというので、家に戻った人がいた。結局、その人は(津波に)飲まれました。表通りに出ていたので、“そんなことをする暇があったら、すぐに避難しなさい”と言ったんですが……」
大久保さんは津波襲来の直前に声をかけた顔見知りの人が亡くなったことは残念がる。
「残念の一言です。その娘さんが一人暮らしだったんです。昨年、母親が亡くなったんですよね。今日も遺体確認に行って来たんです。親戚の方も遺体確認に来てくれましたけど、おまわりさんも泣き崩れてしまって……」
荒浜東地区の住民に声をかけた大久保さんだが、親戚、知人、友人への声かけはどうしていたのだろうか。
「それが、携帯電話やバックなど全部、家に置いて来てしまったんです。みんなのやつ、全部入っていましたがから。だから、連絡が取れなかったので、本当に大変だったですよ」
大久保さんは声かけをしていたために、自身が必要なものを持って避難する時間がなかったのだ。そのため、当初は新類縁者とは連絡が取れなかった。
■「悲しいとか言ってられない」
家族はどうだったか。6人暮らしだが、全員が無事だった。地震があったときに、「すぐに逃げろ」と言っていた。そのため、避難所で安否を確認することができた。すぐに確認できた。
しかし、救助ヘリが来て、トリアージの順番通りに運ばれる。そのため、一旦、家族はバラバラになる。
「私は一番最後までいたんです。救助される人を見送って、最後に寝たきり老人を担架で運ぶ手伝いをしていた」
最終的に運ばれた先は自衛隊の霞目駐屯地だった。
「駐屯地に着いたら、(家族は)体育館にいるよ、と言われたんです。でも、体育館はいっぱいだったもんですから、一旦、自衛隊の宿舎で休んで、すぐにバスでここに来たんです」
避難生活は一時ではあるが、離ればなれになる。6人暮らしだったことを考えると、不便さや悲しさがあるのではないか。
「いやー、こうした避難生活ですから、悲しいとか言っていられませんわ。だいたい、こうして親切にしてもらっていてですね、町内会の役員の方、会長、副会長、みんなのために残って、我々のために親身になってくれている。感謝ですね。そんな中で、我々の家族がどうのこうの、って感じではないです。ここにいる仲間と、まだ続く避難生活です。元気よく立ち直ろうと思っています」
続く避難生活の中で、不安も感じているだろうが、自分たちにも何ができるか探している。大久保さんは町内会長だったことから、きちんと意見をまとめていた。
「今、昨日あたりから、心ののゆとりが出て来たんです。だから、学校(避難所の本部)に、『我々も何かできないか』と申しこんだ次第です。少しでもみんなの役に立ちたいと思っているんです。そういう方向に進んでいますね」
家々が津波に飲まれ、流されてしまった
(2011年4月27日)
心にゆとりが出て来て、これからの行く末を案じながらも、前に向きな気を持ちを持とうとしている。では、きちんと睡眠はとれているのだろうか。睡眠は、震災後のストレスを図るバロメーターでもある。
「ちゃんと寝るというか、なんかよぎるものがあるんでね。また、体のほうも調子悪くて、大変です」
頭の中が不安でよく眠れないようだ。避難生活にいても次のように話す。
「避難生活について感じることというか。何かを感じないと言えばウソになる。ただ、避難生活で感じるのはまだ小さいことなんですよね。これからみんなが散り散りバラバラになったときに、どういうことになるかを心配している。ここでは、一つの組織として活動している。みんなに役を分担して、責任者を決めてやっていく」
まだ、ここで集団で避難生活をしている分には不便さよりも、むしろ、これから先に、バラバラに生活するようになったことを考えたほうが心配の種は尽きない。
「バラバラになったときに、どうなるか。そっちのほうが...」
生まれ育った場所が災害にあったことについては、
「盆栽が好きだった。先輩からもらったものがあったが、自分が死んだから、次宇の航海へと、趣味を持っている人に譲るはずだった。30、40年ものがいっぱいあった。見つかっても、枝は折れている。枝が折れないように、足場を組んだりして、手入れをしていた。みんな流れてしまった。そういうのが残念だな」
と話していた。震災によって故郷や家族に対する想いを口にする人もいたが、
「そういう段階ではない。行政の対応がどうなるか。それ次第では以外に早く復旧できるか。そうではないのか。そっちのほうで頭がいっぱい。どっから手を付けて、組織対応できる人がどれだけ残るのか、どのくらいの人が残るのか、町内会として立ち直れるのか。そっちのほうがいろいろ考えないといけない。みんなでともかく、努力できる環境を整備しないといけない。思い出とかはその後じゃないか。“ここはこうだったな”、“ああだったな”と思うのは落ち着いたときのことだね。思い出のことはまだ考えていない」
1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーションなどに関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」(河出書房新社)など。ビジネスメディア「誠」( http://bizmakoto.jp/ )で、「東日本大震災ルポ・被災地を歩く」を連載。
■渋井哲也の「てっちゃんネル」
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