ニコ生チャンネルがスタートし、折角なのでみんなでブロマガもやろうということで始まりましたが格闘ゲームが苦手な私としては攻略記事を書く事は出来ないのでゲーセンの昔話やレトロゲームについて色々と書いていこうと思っています。
私とゲーセンとの出会いはインベーダー時代にまで遡ります。そもそもインベーダー誕生まではゲーセンという物はほとんど存在せずブロック崩しやピンポールやエレメカがデパートの屋上や旅館やボーリング場などの一角にゲームコーナーとしてあった程度でした。
そんな時代に突如として現れ、瞬く間に爆発的な大ヒットをしたのがあのインベーダーゲーム。
※写真を見て欲しいのだが初期の純正アップライト筐体はなんとレバーレスで左右の移動はボタンだった。パチンコ屋の店頭になぜか駄菓子屋のネオジオ筐体みたいに外に1台だけ置いてあったのでゲームセンターではないので小学生でもプレイ出来たのでこのレバーレス筐体でよく遊んでいたのだが、もしかしたらかなりレア筐体だったのかもしれない。
話は変わりますがこのインベーダーというゲームがなぜ大流行したのか、背景には団塊世代の競争意識が大きく関わっていたと私は考えています、戦後のベビーブームで生まれたいわゆる団塊世代は学校に入るのも就職するのもすべて過酷な競争があり常に同世代どうしであいつよりは上になりたいといった感じで争っていたのです、インベーダーゲームが登場したときには団塊世代は部長・課長や係長クラスになっており多少のお金は使える立場にありその団塊世代がライバルに勝つために大量の100円玉を投入したという訳です。
私はインベーダー以降もパックマンやドンキーコング、平安京エイリアン、などゲームそのものが好きになっていたのですがゲーセンに行くことができないのです。荻窪オスローバッティングセンターや西友の屋上などのゲームコーナーで遊んでいましたがやっぱり専門店に行きたい「ゲーセンに行きたい!」
私が考え付いた方法・・・
中学2年の時でしたのでリアル厨二病って感じでしょうか、ダボダボのズボンにエナメルの白いベルトしてカッターシャツのボタンはずして赤いTシャツ覗かせて原宿で買ったクリームソーダのサイフにチェーン繋げて場末のゲーセンで「マジメ」にゲームやってました。
・・・(次回につづく)
私とゲーセンとの出会いはインベーダー時代にまで遡ります。そもそもインベーダー誕生まではゲーセンという物はほとんど存在せずブロック崩しやピンポールやエレメカがデパートの屋上や旅館やボーリング場などの一角にゲームコーナーとしてあった程度でした。
そんな時代に突如として現れ、瞬く間に爆発的な大ヒットをしたのがあのインベーダーゲーム。
初めはテーブル筐体が喫茶店に置かれたり、アップライトがボーリング場に置かれていたのですが、あまりの人気となりインベーダーだけで店にしてしまう所も出てきました。
インベーダーハウスなどと呼ばれる場所が全国に出来たことにより、ゲームコーナーではない「ゲームセンター」が誕生したのです。
※インベーダーゲームとは?
正式名称は『スペースインベーダー』(Space Invaders)。
株式会社タイトーが1978年(昭和53年)に発売したアーケードゲーム。
雑誌「ポパイ」1979年4月25日号
※インベーダーゲームとは?
正式名称は『スペースインベーダー』(Space Invaders)。
株式会社タイトーが1978年(昭和53年)に発売したアーケードゲーム。
雑誌「ポパイ」1979年4月25日号
※写真を見て欲しいのだが初期の純正アップライト筐体はなんとレバーレスで左右の移動はボタンだった。パチンコ屋の店頭になぜか駄菓子屋のネオジオ筐体みたいに外に1台だけ置いてあったのでゲームセンターではないので小学生でもプレイ出来たのでこのレバーレス筐体でよく遊んでいたのだが、もしかしたらかなりレア筐体だったのかもしれない。
話は変わりますがこのインベーダーというゲームがなぜ大流行したのか、背景には団塊世代の競争意識が大きく関わっていたと私は考えています、戦後のベビーブームで生まれたいわゆる団塊世代は学校に入るのも就職するのもすべて過酷な競争があり常に同世代どうしであいつよりは上になりたいといった感じで争っていたのです、インベーダーゲームが登場したときには団塊世代は部長・課長や係長クラスになっており多少のお金は使える立場にありその団塊世代がライバルに勝つために大量の100円玉を投入したという訳です。
その団塊の世代である私の父もインベーダーにハマっており地元のインベーダーハウスに付いていって100円玉タワーからコインをもらって遊んだのが私のゲーセン人生の始まりになります。
インベーダーブーム自体は1~2年の一過性のものでしたがその間に大儲けしたメーカーや新規参入のメーカーが色々なゲームを出しインベーダーハウスはだんだんと色々なゲームのある「ゲームセンター」になって行きます
また当時はいわゆる脱サラのブームでもありサラリーマンやめて一旗あげようと喫茶店やラーメン屋など独立開業店が沢山出来ました、その選択肢の中にゲーセンもありインベーダーブーム後の数年で日本中に小さなゲームセンターが沢山登場しました。
大量にゲームセンターが誕生したのはいいのですが肝心のメイン顧客の団塊世代はインベーダーのあとに出たゲームはほとんどやらずそのまま引退してしまったのです、折角オープンしたのに小さなゲームセンターはいきなりピンチになり50円に値下げしたりして子供や学生にターゲットを変えて行きます。
さてインベーダーブームの数年後は今で言うヤンキーとでも言うのでしょうか横浜銀蝿みたいな「ツッパリ」ブームであり値下げしたゲーセンはツッパリの格好のたまり場になってしまいました
※横浜銀蝿とは?
リーゼントの髪形にサングラス、ライダー革ジャン、白いドカン(ズボン)という独特の服装をギミックとして登場。
「ツッパリ」、「暴走族」といった当時の時代風潮に乗り1980年代前半に一気に若者の人気を獲得した。
その独特な存在からデビュー以来現在に至るまで幅広いアーティストに影響を与えている。
リーゼントの髪形にサングラス、ライダー革ジャン、白いドカン(ズボン)という独特の服装をギミックとして登場。
「ツッパリ」、「暴走族」といった当時の時代風潮に乗り1980年代前半に一気に若者の人気を獲得した。
その独特な存在からデビュー以来現在に至るまで幅広いアーティストに影響を与えている。
なにせ入場料が要らないし椅子もテーブルもあり今のような年齢による入場制限もなく夜中でも遊べるので、町に何軒もあるゲーセンはツッパリグループが居座っていきました。
当然社会問題となり学校ではゲーセンに行かないように指導されPTAによるパトロールなど強化されゲーセンに遊びに行けなくなっていきます。
私はインベーダー以降もパックマンやドンキーコング、平安京エイリアン、などゲームそのものが好きになっていたのですがゲーセンに行くことができないのです。荻窪オスローバッティングセンターや西友の屋上などのゲームコーナーで遊んでいましたがやっぱり専門店に行きたい「ゲーセンに行きたい!」
私が考え付いた方法・・・
それは「自分も不良になればいい!」ってことでした(笑)
中学2年の時でしたのでリアル厨二病って感じでしょうか、ダボダボのズボンにエナメルの白いベルトしてカッターシャツのボタンはずして赤いTシャツ覗かせて原宿で買ったクリームソーダのサイフにチェーン繋げて場末のゲーセンで「マジメ」にゲームやってました。
・・・(次回につづく)