ボクタク
『ボクタク』第6回 「第一回〜第五回までを振り返る」対談最終回
INDEX
■イントロダクション
■ヒロシマからフクシマへ
■ファンタジー克服のためのクエスチョニング
■報道と学究のボーダレスな時代
■震災後2年の危機
■移ろいゆくメディアとオープンな思索への希望
■“ボクタク”響く終わりなき小径
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■イントロダクション
「第一回〜第五回までを振り返る」対談最終回
『ボクタク』第6回【最終回】
ボクタク半年間の歩みを振り返って
福島原発、メディア、ジャーナリズムと、混迷する3・11後の日本を縦横に読み解き、また語り合ってきたジャーナリスト・烏賀陽弘道と社会学者・開沼博。
濃密な半年間の歩みと、今後さらなる展開を見せるであろう、両者の知的渉猟の展望について語る、最後のボクタク。二人の新たなる旅立ちに立ち会おう。
◎この対談について
・この対談は、2013年6月20日にニコニコチャンネルの生放送で配信された対談です。当日の内容は、Youtubeにもアップされています。
こちら(http://youtu.be/J0nVS6AFxyk)からご視聴いただけますので是非ご覧下さい。
◎対談テキストについて
・対談内の人物表記は、(U)烏賀陽氏、(K)開沼氏 と表記しています。
・対談内容のテキスト化において、口語部分等内容の一部修正をしています。
◎対談音声の聞き方について
・今回は対談音声はありません。テキストとYouTube動画にてお楽しみください。
◎推奨環境について
・『ボクタク』のePubファイルは推奨環境として、下記のリーダーでの動作確認を行っております。 (※各URLよりダウンロードできます。)
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『ボクタク』第6回 「第一回〜第五回までを振り返る」対談最終回
烏賀陽(U)
開沼(K)
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■ヒロシマからフクシマへ
U「こんばんは。烏賀陽弘道です」
K「開沼です」
U「どうもこんばんは」
K「こんばんは」
U「今日はですね、何と我々がボクタクを卒業する、この二人がこうやってボクタクのレギュラーとして話すのは最後、ということで、どうも今までお疲れさまでした」
K「お疲れさまでした」
U「何回やったんでしたっけ。思えば早いような」
K「まあでも半年間、これで6回目になりますね」
U「ああもう半年ですか。済みません。こんな小うるさい親父の相手をしていただいて」
K「いやいや(笑)。でもそうですね、振り返ると、福島原発、メディア、ジャーナリズムと、話題が散ってるようでもあり…」
U「結構色々話したね」
K「…それでも軸もあって、という感じで」
U「そうなんですよね。で、偶然なんですけど、今日(2013年6月20日)は私が書いた『ヒロシマからフクシマへ』という本が発売になった日なんですよ。開沼さんのご自宅にも一部…」
K「献本ありがとうございました。今読みはじめたところですけれども、僕も一応歴史社会学をやっていて、(自分が)改めて原子力の歴史マニアだなと読みながら思いました」
U「やっぱり。興味の対象が僕らはちょっと…」
K「はい。(興味の対象が)似てて、いきなりちょっとマニアックな部分から行くんですね。日本の原子力史を文献的にまとめた人ってほとんどいない。吉岡斉さんとかですね。それは徹底的に文献で行っている。そういう中に当事者の声が出てくるだけで、やっぱり全然伝わるものが違ってくるんですよね」
U「僕は全部人にあたって、現場を訪ねてこれを書きましたから。ただね、今日最終回だから言うわけじゃないですけど、僕はこの本の執筆にあたって、開沼さんから一つヒントをもらっていることがあるんです。3.11が起きた時、最初に福島のことを知ろうとして買った本の中に、開沼さんの『フクシマ論』があったんですね。それを読んだ時、なぜ福島に原発があるんだという問いに出会ったわけです。この本はそこからヒントをもらっていて、じゃあどうして日本に原発があるんだろうということを自分は突き詰めてみようと思いました。なぜ原発が福島にあるんだろう、ではその前に、なぜ原発が日本にあるんだろうかと。そもそも日本は被爆国じゃないかと。そこから僕は日本を突き詰めて、その結果がその本になったわけですね。奇しくもフクシマをカタカナで書くという点で同じ事をしているわけですね。この本が出たのは開沼さんとの出会いがあったからでもあります。ありがとうございました」
K「フクシマをカタカナで。ヒロシマからフクシマへ」
U「僕の思いの中では、福島県と福島市って最初混同しやすかったので、カタカナで書こうとか色々考えたんですけれども、一方で僕がずっと唱え続けている意義というのは、福島第一原発事故で放射能が流れ出た下の被害地域ですよね。そこには例えば飯舘村があり、南相馬市があり、川俣町があり、福島市の東部があり…といっぱいあるんだけれども、皆同じ被害を受けているんです。僕はそれを市町村で区切るのはナンセンスだと思っていて、それこそカタカナでフクシマとしか言いようのない、新しい行政区域が設定されてもいいんではないかと考えているんです。そんな新しいフクシマ、カタカナのフクシマというものは、那須高原、栃木県とか、あるいは群馬の北部とかにも及んでいるわけですよね。実際には東京にも放射性物質が流れてきているわけで、そうした広い地域を含めて、何かこうカタカナのフクシマと呼ぶべきエリアが誕生したと、僕はそういう風に思っている。新しい歴史空間と言うか、そういうものが生まれた気がするんですよ。でも、なかなかそれは認めてもらえなくて、ヒロシマのようにフクシマをカタカナで書くのは差別だと、そういうことを言われたりします。今でもツイッターでよく言われるんですよ」
K「そうですね。一年目は特に(差別だと)言われなくて、2年目に入ったころかな。そういう話が出てきたと思います。ただ言語学的に言うと、難しい話ではなくて、いわゆる意味論的なものと語用論的なものと、言葉の意味が変わっているんじゃないかと思うんですね。だから今の烏賀陽さんの話は意味論的な、いわゆる震災前にあった漢字の福島からずれているんだから、それは別な表現にするんだ、というところなんですね。一方、反発は語用論、語の用い方の論、カタカナフクシマを言う人が何かデマっぽいことを言ったりしている、という風に見ている人にとっては、それって差別的な文脈で用いられてるんじゃないの、という話だと思うんです。僕が最初にそう書いた時には、まだ他に用いられていない状況だったけれども、ちょっとずつ週刊誌のタイトルとかでカタカナフクシマが使われるようになってきて、今後もそういう風に呼ばれ続けるんだろうと。だからいわゆるフクシマ、カタカナフクシマと言われる時にこの本を思い浮かべる…その裏側にある教科書として読んでもらいたいと思っています。そういう意味で資本論を意識と言うか、そこからのインスピレーションなんです」
U「資本論は資本のことを書いているんだけれども、賛成しているわけではない。そういう話ね」
K「そうですね」
U「なるほどね。だからカギカッコフクシマなんだ」
K「そうです」
U「そこをもう少し聞いておきたいんだけれども、福島出身者として、福島がヒロシマ、ナガサキのように、カタカナで表記されるようになったことへの抵抗感ってありますか?」
K「僕はそんなに(ありませんね)。反対って言うのでもなくて、でも賛成ってわけでもなくて。ただそこで議論が起きている状況っていうのは好ましいと思っているんです。だから、差別的なんじゃないか、ってパフォーマティブな言葉の用いられ方みたいにしたりするんですけれども、言葉自体はパフォーマンスしていく言葉と何も生み出さない言葉ってあるわけじゃないですか。そういった意味では、カタカナフクシマってのは間違いなくパフォーマティブなものだと思うんですね。だから、あえて使ってみたりする人が出てくるのはむしろいいことだし、一方それに反対する先に何があるかと言うと、言葉狩り問題とかでしょう。この言葉を使ったら、お前は差別だと思ってないかもしれないけど、それは無意識的に差別を心の中に抱えているんだ、と糾弾する。そんな風に言葉を狩っていった結果、なくなった差別もあるんでしょう。ですが、それで差別が地下化する、より陰湿になる、っていうような問題も多分安易な言葉狩りの中ではあったかもしれない。というところで、僕はフクシマの言葉狩りっていうことにはむしろ抵抗感があるし、じゃあそれが嫌ならなぜ嫌か、ちゃんと言葉にしてごらん、という風に問いかけたいですね」
U「例えばね、3.11が起きた初期のツイッターを見ていると、被曝の曝という字を火偏の爆と曝す、お日様の日を混合するなっていうことが、結構まじめに言われていて、それは僕は面白い記録だと思っているんです。日本人は最初、爆発を被る被爆と、放射能に晒される被曝を上手く区別できなかったということだと思うんですよ。つまり、核兵器が爆発する時の被害と、今回の事故のように原発から煙みたいに放射性物質がモクモク広がっていくという状況が区別できなかったんですよね。その中で、それを区別するんだと言いはった人たちがいた。それは確かに意味論的にはそうなんですよ。ただ、僕はそこにあったのは、やっぱりヒロシマ、ナガサキみたいな核兵器の被害と福島の被害を一緒にするな、福島はあんなに酷くない、というような、核兵器と原子力発電所は別だという意識だったと思う。僕はこの本で両者は双子の兄弟だという結論を出したんだけれども、あの時はやはりそういう(原爆と原発を別物と考えたいと言う)意識があったのかなと思うんですけど」
K「やっぱりあるんじゃないですかね。区別したいと言うかそういう意識が。僕はその時の空気をあんまりそういう観点では捉えてなかったので分からないですが、きっとあったんだと思いますよ」
U「とにかく安心したい。安心したいからそういう風に聞きたいんだよね、言葉をね」
K「そこで感じるのは、風評被害と言うなって話とか、除染なんか無意味で移染にすぎないとか、確かにそういう側面もあるのかもしれないけど、そこに無茶苦茶こだわる人って何なんだろうと思うんです。そこには大きな不安とか、やっぱり言葉の概念がすごく揺れる状況があったと思うんですよ。今まで信じられていた“安全”が信じられなくなってきている。言葉を扱うこと、操ることによって…言霊信仰じゃないですけど、それで心を落ち着けるというのがあったのかもしれません」
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■ファンタジー克服のためのクエスチョニング
U「最終回で過去を振り返ると言われているのに済みません。もう一言いいですか? 僕は今の話はすごく面白いと思うんです。と言うのも、僕は原発安全神話って何なんだろうと思うんですよ。原発事故が起こり得ないというのは、アメリカで取材してみたら、ちゃんちゃら可笑しい、単なるファンタジーなんですね。実際アメリカでは、1950年代からメルトダウン事故を何回も起こしていて、死人も出ている。そういう国は、えっニュークリアアクシデントなんてポッシブル(あり得る)に決まっているじゃない、という冷めた目で見ているんです。そのことを、日本では原子力村の学者の先生も、電力会社のエンジニアも慢心的にインポッシブルだ(あり得ない)としてきたわけですよ」
K「なるほど」
U「原子力発電所事故というものを。こういう風に科学的な合理主義から言えば迷信にすぎないものを、皆が信じちゃったというのは、過去にも何かあったよなって考えたら、神州不滅だとか、神州不敗伝説とか、最後は日本に神風が吹いて、米英を撃滅してくれるとか信じていた人がいたなぁと思い至ったんです。それって何なんだろうなと思うんですけど、結局不安が社会を覆っている時に、スローガンとして、多くの人たちが“聞きたいこと”を先回して言うんです。で、そこには科学的根拠も合理性も全く必要ないんだと。不安があるがゆえに人々はそれを受け入れてしまうんだなということを見せつけられた思いがするんですね。要するに、みんな潜在的に原発が不安だったから、安全神話が聞きたかっただけなんだと。そういうことに気がついたんですね。原発の近くに住んでいる人たちも、安全神話を自分で再生産していってた部分があるよね」
K「そうですね。フクシマ論にもそういうことを書きました」
U「書いてあったよね。そういう、近くにいる人ほど不安だから、実はそういうこと(安全神話)を強固に言うようになるんじゃないかな」
K「近くにいるから不安というよりは、やっぱり心配だという情報が、例えば反原発の人が来てデモをすることでもたらされる。その中でやはり危ないのかな…と思う機会が平時から来ているんですね」
U「そういうのが目に入ってしまうんだ」
K「ある程度はあるでしょう」
U「なるほどなぁ」
K「だから、そうじゃないんだというのを見ようとする、と」
U「なるほどねぇ。いや済みません。最終回だから開沼さんからいっぱい搾り取ろうとつい質問を重ねてしまうんですが、これ記者って意地汚いことがあるんですよね。申し訳ない。…で、プロデューサーからこれまでの対談を振り返るように言われてますので、振り返りましょう」
K「そうですね(笑)」
U「開沼さんはこれまで僕と話をしている間に、何かこう、おもろいことありましたか?」
K「どれも面白かったけれども、『報道の脳死』はやっぱりすごかったですね。思い返せばジャーナリストが書いたジャーナリズム論って、鎌田慧さんの『ルポルタージュの書き方』等々、有名なやつは読んでましたけど、烏賀陽さんのそれは、またすごく違った角度で面白かったなと思います。クエスチョニングの話とか…。僕は今、ちょっと大きなプロジェクトをやろうと思っているんです。福島県民に千人規模でインタビュー調査をやろうと」
U「千人規模っていうのは、千人くらい? それとももっと?」
K「可能なら二千人を目標にしたいです。200万人いるうちの0.1%」
U「なるほどねぇ。すごい数ですね」
K「そうですね。確か広島とかの原爆が落ちた後にも千人規模の調査があったと思いますが…」
U「あれは1800人でしたかね」
K「だから、実は歴史に残る仕事をと言う気持ちですね」
U「それはすごいですよ」
K「それができたら、ですけどね。ただその時に、広島だったら被爆の影響という点が主だったんだけれども、今回の問題の難しさは、例えば福島とは何かとか、復興とは何かとか、原発事故とは何かというのがある中で、一つにクエスチョニングが絞り切れないところがあるし、一方では復興が遅れているという状況もある。でも実はそれも、先ほどの話と同じで、復興が遅れていると言葉に出すことによって安心したい、みたいなところもあるのかなと」
U「遅れていると言うことによって安心する、と」
K「遅れている遅れている、と繰り返すことによって、だから私は現状を把握しているんだと思い込める、みたいな」
U「あるいは現状を肯定はしてないんだ、という言い訳」
K「そういう発言をしておくことで、後ろめたさみたいなものに向き合わずに済むとかですね」
U「なるほどね。ところで僕も新聞社時代に世論調査やったことがあるんですけど、サンプル数で言えば、二千人というのはあれですね、新聞社の世論調査並みの規模なのかな」
K「そうですね。ただアンケートを答えさせるだけのいわゆる量的調査じゃなくて、質的調査で、ある程度質問枠は決めているけれども」
U「対面調査をする」
K「対面ですね」
U「電話とかじゃなくて」
K「そうですね。実際にやります。だからちゃんとクエスチョニングをしていかないと駄目ですね。やはり相手が話し慣れていると、お涙頂戴話になっちゃうし、(インタビューなどに繰り返し答えている中で)もう定型文ができてしまっている人とかもいると思うので」
U「答えを既に用意している人ね」
K「そうですね。これからのことなので、プロジェクトをこの先どうしていくかは分からないですけど、それを考えなくちゃ、という時にもすごく参考になると思ってます」
U「ありがとうございます。ついでにまた聞いちゃうんですけど、これはどんな質問を何問ぐらいするんですか。この二千人に対して」
K「質問はですね、問いを大体100個立てようと思っているんです。100個立てて、一つの問いに10人から20人の話を聞くと。十人十色と言うように、本当はどんな問いに対してもいろんな答えがある。現状、あるんじゃないかと僕は思っているんですが、それがメディアとかに出た時には、ごく一部のすごくセンセーショナルな話だけが切り取られてしまう傾向があると思うんですね。例えばこの場所は本当は危ないと思っている、と彼女がつぶやき下を向いた…みたいな締め方の新聞とか記事とかがあるわけだけれども、そういう人がいる一方で、全然気にしないという人もいるわけです。そこをちゃんと押さえないで、報じるのに都合のいい話ばっかりを取って行っても、結局実態把握にはなってないだろうと思うんですね」
U「じゃあもうあれなんですね、その何て言うか、何の結論も予想しないと言うか、もう出たなりに受け入れていく、と」
K「そうですね。枠だけ決めて。若い子供を持っている家庭の悩み、ぐらいの問いだとか、あの時何をしていましたか、今どう思っていますか、という問いに対する答えを、ひたすら集めるのが重要かなと」
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■報道と学究のボーダレスな時代
U「そう言われてみれば、福島の地元紙とかね、(福島)民報、(福島)民友とかありますよね。そういうメディアって大規模な世論調査はしてないんですか」
K「世論調査という形ではしてないですね」
U「不思議ですね。朝日新聞とかはみんな、世論調査の専用のスタッフまで持っているのにね。何故しないんだろう」
K「まあ震災前には必要がなかったし、そのまま今まで来ているということだと思いますね」
U「あるいは震災後の報道で忙しくなっちゃってみたいな」
K「実際そうだと思いますけどね」
U「なるほど」
K「一応はそういう定量調査、アンケート調査として最大のものを、双葉8ヵ町村調査という形で、震災から数カ月後に福島大がやってるわけですけど」
U「大学がやっているんだ」
K「そうです。それが最大。双葉の8ヵ町村に限って、ほぼ全数の調査です」
U「双葉8ヵ町村ねぇ。今度開沼さんがおやりになるのも大学で…県立大学でしたっけ」
K「いえ、福島大学は国立です」
U「ああ、やっぱり主体は一緒なんだ」
K「そうですね」
U「で、開沼さんの予算は福島大から出ているんでしたっけ」
K「国から来て、福島大のプロジェクトということでやろうと」
U「じゃあ学生を100人ぐらい雇ってわ~っと質問をするのかな」
K「そうですねぇ。そういうのがいいか、100人雇って、それぞれ20人聞いて終わるんだったら楽ですけど、実際にはなかなか簡単じゃないですよね。そういう数字になってくると」
U「すごいですよね。多分その上に、中間管理職的な人がまた10人ぐらい必要ですね。そういう調査だけで」
K「そうですね」
U「多分これは歴史に残る史料になると思うから、ぜひ頑張ってほしいなと思いますね」
K「頑張っていきたいと思います」
U「今度は僕の方から言うんですけど、開沼さんとの話で面白かったのは…そうですね、開沼さんは僕より22歳若いわけです。僕が50歳で開沼さんが28歳」
K「29歳です(笑)」
U「おめでとうございます(笑) そういうわけですから、一世代、完全にもう親子ぐらい違うんですね。そう言えば、そういう世代の現場の学者ってしばらく身近にいなかったなぁ。僕は京都大学の出身なので、今西さんとか…いわゆる京都学派ですね。フィールドに出て学問するんだという手法に割となじみがあるんですよ。そういう文化人類学とかがフィールドから生まれてきて、それがジャーナリズムの人、本多勝一になった、みたいに、僕の上の世代で何が起きたのかを見ていたので、開沼さんの方法論に僕はすごい親近感があるのね。アカデミシャンがそういう風にフィールドに出て行くのは素晴らしいことだなと思うんだけれども、考えてみると僕の周りにそういう人があまりいないなと思って。別に同業者を批判しろと言うんではないですが、フィールドワークから考えていく先輩って、あまり上にいないんじゃない?」
K「いないですね」
U「何でだろうね。そんなに予算が潤沢ではないんだろうけれども」
K「いろんな仮説が立てられるけれども、一つはまあジャーナリストに任せておけばいいんじゃないか、みたいな出版文化があるし」
U「そうなんだ。それは割と間違っているような(苦笑)」
K「つまりノンフィクション賞…例えば大宅(壮一)賞とかが出てきた70年代から、商業としてのジャーナリズムが盛り上がってきて、多分それに被るような気もするけれども、その頃までは現場で宮本常一とか、網野善彦とか、山口昌男とか…彼らは必ずしもメジャー系と言うか、東大教授でというわけではなく、むしろ周縁的な存在だったかもしれないけれども、確実に評価される仕事をしていました。その前にはやっぱり柳田國男の民俗学とか、ずっとあったけれども、そこでプッツリ切れるのは、いろんな理由があるでしょうが、ジャーナリズムの方が現場に出ちゃってるから、それを乗り越えられるのかなっていう見方が一つできるんじゃないでしょうか」
U「今、開沼さんみたいな存在が許される…予算がつくようまでになったのは、もちろん3.11というアクシデントがあったという理由もあるんですけど、学問の方では何が変わったんでしょうね? 世代が変わった以上のものを感じるんだけれども」
K「さっき言ったジャーナリズムの興隆という仮説で行ったら、(ジャーナリズムの方が)衰えているのかな」
U「それは正しい観察ですね(笑)。僕らの対話の中でも出てきたんですけど、僕は、知るべき人が知るべきことを教えてもらうためには、別にその情報を運んでくる人が記者だろうが、学者だろうが、医者だろうが何でもいいじゃないかという主義なんですよね。ある意味、自分の商売っていうのは誰でも乗り入れ可能であるというのを自分の肌で思うんですよ。むしろ、みんな来てくださいと思うんですよね。一方で、僕がすごくやられたなぁと思うのは、開沼さんが3.11を、福島というテーマを一生懸命やるのは何でか、って話をした時に、忘却に抵抗するため、ということを仰ってた。それって要するに記録すると言うか、レコードするということなんだと。そしてノイズを放ち続けると言うか、ノイズメーカーが要るということを仰ったじゃないですか。それを聞いて、本当に自分がおじさんになっちゃったなと思ったんですが、要するにそれってジャーナリストの仕事だったんだよね」
K「そうですね」
U「僕が開沼さんぐらいの年に先輩に教わったのは、ジャーナリストってのは、多くの人々が忘れてしまうことを忘れないようにすることなんだと。だから記事にして、過去のことを掘り起こす。例えば御巣鷹山に飛行機が落ちた。JAL123便が落ちたと。でもいつかは皆忘れていくだろうと。だけれども俺たちは毎年それを忘れないようにするんだと言っていたんです。ところが新聞の方は、いつの間にかそれを年中行事化しちゃって、形骸化しちゃったんですよ。今、僕は開沼さんから、忘却に抵抗するためなんだと学者の人に言われて、ちょっと愕然としたね。つまり、(報道の)メインストリームだった新聞の方が二十数年の間に、すっかり衰退してしまって、逆に開沼さんのような若い世代のアカデミズムの方が、ジャーナリズム本来の機能に乗り入れはじめているわけ。もはやジャーナリストの機能かどうかも怪しくなっているわけで、ここは僕は悔しいやら嬉しいやら…すごくあれだよね、ノーボーダーな感じ。ノーボーダーと言うと某ジャーナリストの会社みたいだけれども(笑)、そうじゃなくて、ボーダレスな感じだよね」
K「そうですね」
U「だけど開沼さんの場合、意識しないで割と天然でやってるわけでしょ」
K「そうですね。それが面白いところだなと」
U「開沼さん天然やね。そこはね」
K「そうですね(笑)」
U「実はちょっと取材記者もやってたりしたんですよね。アサヒ芸能じゃないや、実話ナックルズ。すごいね」
K「ですね。そうですね」
U「どっちが先に来たの? 取材記者としての経験が先に来たの? それともアカデミズムで社会学者になるんだというのが先にあって、後からアルバイトで記者を?」
K「社会学者になるんだ、が先ですね。でもスキルとして現場を見るスキルがないと駄目だなと。で、やっているうちに原発もその中にあったし、後は漂白される社会とかもあったし…それらを結果としてアカデミックにまとめているみたいな状況ですね」
U「そこでね、僕の世代の人だったら、大体そのままライターに流れていってしまって、気がついたら反原発ライターになってましたとか、左翼チックな方向に流れて、エコと反原発とインドの情報で食ってる人とか、誰とは言いませんが、まだいますからね(笑)。そっちに行かないというあたりが、僕には世代が変わったなと映ります」
K「なるほど。でもそれは多分…さっきも若いライター志望の人と喋ったんですけれども、食えないからっていうこともありますよ。昔はそれで食えたし、共同体もあったし、ということだと思いますね。今ではそもそも食えないってのが先にあると思うんだけれども、じゃあ仲間ができるかと言うと、仲間もできない」
U「あるいは上の世代を見ていても、こいつらかっこ良くないな、と思ったりね」
K「そういう部分もあるんでしょうね。その点、昔はすごかった」
U「昔はすごかった、ねぇ。なるほどなぁ(笑)。開沼さんを見ていると、若い世代にもちゃんとした人がいるから、大丈夫だみたいな気がしてくるよね。何かちょっとオヤジ的な言い方になるんだけどね」
K「そうですね(笑)」
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■震災後2年の危機
U「明日からまた福島に行こうと思っているんですけれども、やっぱり2年経つとね、僕らが対談を始めてからでも半年経っているので、ああ変わっちゃったんだな、ってところがあります。県外避難者でも、結構福島に帰ってる人が多いよね。で、何と言うか、非福島的な視点で行くと、原発事故が一段落したという風に人々が認識しはじめたのか(だから帰るのか)と思うんだけれども、電話なんかで話を聞いていると、どうも違うんじゃないかというのを感じるんです。本当は帰りたくないんだけれどもやむなくねぇ、みたいな状況の中で、別な圧力が働いて帰らざるを得なくなった、みたいな響きを感じていたんですよ。2011年に他府県に逃げていた人たちを追跡してみるとね。どうです、開沼さんもずっと福島と東京を行ったり来たりしているわけでしょ。福島へ帰っていく人って、今増えているんでしょうか」
K「そうですね。統計上は一貫して帰っているんですが、一方で新たに出て行く人ってのがほとんど居なくなっている状況です。それはまあ理解可能ですね」
U「そうですね」
K「ただ、じゃあどうして戻ってくるのかということですが、やっぱり出ては見たけれども、結局仕事がないからでしょう。多分それに拍車をかけるだろうと思っているのが、多くの行政の(災害関連の)制度っていうのが2年間で…震災から2年間を区切りにして、打ち切られることですね」
U「家賃の補助とかが2年で切られちゃうと言う」
K「そうです。後は市民の、住民の受け入れ側の支援者や支援NPOに対して、最初はいろんな財団とか外国からの寄付とか、補助金とかがあったのがどんどん減ってきている、ということもあると」
U「それはその、いわゆるガバメントバジェットからのお金が減っていることですか。寄付とかが減っていると」
K「寄付とかも減っていると思いますね」
U「両方減っていると」
K「そうです」
U「これも打ち明け話なんですけどね、3.11が起きた直後からは、自腹で現地取材に入れたんですよ。自腹なので、みなさん寄付してくださいとツイッターとかで言ったら、大体2年で70万円集まったんですね。2011年3月から2年間で。ところが、2011年3月11日からの1年間、最初の1年間が60万円で、2年目は10万円なんだよね(笑)。
1年目は60万集まったけど、2年目はその6分の1にガクンと減って、今はさらにガクンと減って、まもなく2年半ですが、危険水域にあるんですよ。だから、なるほど3年目になると人々は忘却と言うか、すっかり日常の中に戻ってしまって、非日常感を失うんだなって気がしてくるんですね。やっぱりそういう感じなんでしょうね」
K「3年目は孤立死が増えると一般的に言われていますしね」
U「それは2年目が過ぎて3年目からと言うこと?」
K「そうですね」
U「それはなぜなんですか」
K「なぜ3年という数字なのかっていうのは、帰納的にそう導き出されるという話になっちゃいますね。でも一つには、多くの制度が2年ぐらいを区切りのメドにしているってことがあるでしょう」
U「3年目の孤独死ね。そう言えば、僕は阪神大震災の取材をして、震災から3周年、1998年の1月に神戸の仮設住宅にあちこち行ってみて、どうなってるのかを調べてみたんですけど、やはり3年経つと行く所がある人はどこかに行っちゃっていて、孤独感、孤独死以前に、仮設住宅に残っている人は何か事情がある人なんですね。元々お年寄りの一人暮らしで、特に戻る所がないと。戻っても一人暮らしなんだから、別にここでいいやみたいな感じで居着いちゃう人が多くて、しかもそういう人たちは、例えば長田区とかの木造平屋住宅みたいな所に独りで住んでいる。そこへ嫁入りしてきて、ずっと住んでいるとか、そこで生まれて育って住んでいるお年寄りだったわけですね。そういう人たちが、木造がまっ先に壊れたので外に出されて仮設に移った。で、3年経ったと。どうせもう戻る所もないしと。昔はそういう長屋エリアの中のご近所付き合いでコミュニティがあったけれども、マンション的な市営住宅とかに移るとコミュニティがなくなってしまった。そういう人たちが孤独死してしまった、と。だから神戸では仮設で孤独死ってのは案外なかったんですね。市営住宅…団地の中でお年寄りが亡くなったという話を結構聞いたりするんです。その時に思ったのは、じゃあこの人たちは今までは誰が見てたのかなということなんですね。今回も、2年間は見回りみたいな人がいるということなんですね。NPOやボランティア的な。そのお年寄りが孤立しないように」
K「そうですね。でも仰る通り、それは別に2年の区切りと関係なく始まっていたけれども、普通の人が住んでいるアパートの一室に入ったりすると、いわゆる分かりやすい被災者ではなくなって、不可視化すると」
U「不可視化って要するに見えなくなるということですか」
K「見えなくなる」
U「ただの隣に越してきたおばあさんになると」
K「そうするともう分からないですね。何十年と一つの近所付き合いというコミュニティの中で暮らしてきた、という生活習慣がある人がそこから出た暮らしに全く適応できなかった、って話になってしまうわけです。それは不可視化しないように継続的に頑張るしかないんですけど」
U「どうすればいいんでしょうね。例えば私は被災者ですとか言って何かダビデの星とかつけておくわけにはいかないわけで…。一方そういう風に私をいつまでも特別視扱いしないでくれという思いもあるでしょうし」
K「ありますね」
U「そう言うね、私も日常に戻りたいんだってい欲求って人間は誰あると思うんですよ。何の変哲もなかった私が特別でなかった頃の生活に戻りたいという思う人もいると思うんですね。それってどういう風に整合させればいいんだろう」
K「それはもう両方あるし、細かく調べていくしかないんですね。京都の避難者の方に会いに行ったんですが、避難者がいっぱい入っている住宅が、伏見とかにあるんです」
U「京都へ福島から避難した?」
K「そうです。で、避難者同士の自治会みたいなものが集合住宅団地みたいな所にあるけれども、そこに出て来ない人もいて、出てこない理由はやはりいつまでも自分が被災者として暮らしていく、ってことはもうやめにしたいと。仕事も見つかったし、家族も来たし、自治会とかも出たくないと言うんですね」
U「つまりその人はあれだね。ごく普通の引っ越してきた人間として暮らしたいんだ」
K「そうですね。多分それも一つの事実なので、それはそれでいいことかもしれないけれども、じゃあ、はい自立しました、と言って手を離してしまうとそれで亡くなっちゃう人もいるわけで」
U「なるほどなぁ。しかし、京都まで避難されるというのは環境の変化がすごく大きいですね」
K「大きいですね」
U「僕は京都の人間だから言うんですけど、多分ね、人々のメンタリティとか、言葉遣いとかも全然違うし、ものすごい落差だと思うんですよ。だからそうやって、いや私を特別扱いしないでほしい、と仰る方が出てくるというのは、僕から見ると、京都から排除されてこんな所にいたくないとか、京都人はなんて陰険な奴らだ、とか言われなくて良かったと逆に思うんですけど(苦笑)」
K「今出ている集英社の『ことば』という季刊誌に、それについて五千字ぐらい書いているんです。その京都の避難者も色々なことを言っていて、例えば福島は自然があって帰りたいなと言いながら、京都は山ばっかりじゃんとも言う。ただ僕にもなんとなくしか分からないけれど、福島の山はちょっと遠くを見ると雪があったりして、やはり京都のそこら中に囲まれているような感じではないというような違いを感じているようなんですね。それが分かってもらえない。そういうすごい細かい所での孤独感みたいなものがあったりするのかもしれません」
U「そういうのってね、すごく分かるんですよ。山形、米沢に避難してきた浜通り、福島、南相馬の人にインタビューした時に、何か違和感を抱いたことってありますかって聞いたら、料理の味付けが塩辛いって言ったんだよね。で、それから(中通りでは)魚を食べないと言うんだよね。浜通りって太平洋岸だから魚がおいしいんですよね。人間は案外食だとか、そういう身体欲求的な所でストレスを溜めるんだなと思ったんですよ。多分いつかは慣れるんでしょうけれども、最初のハードルとして、越境した時に出てくるんですね。福島から米沢って、山一つ越えるだけですよね。だから近いように見えるんだけれども、実は遠い所だったりと。そう言えば僕も東京に来た時に、うどんの出汁が塩辛いと言ってブーブー言ってた。きつねうどんがないとか、ブーブー言ってたなと思ったんです。多分最初はそういう身体的な所を乗り越えないと(その地に)なじめないんだろうと。その段階が過ぎてようやく次の、職がないとか、子供が学校になじめないっていう所で悩んで、(福島に)戻っていたりするんだなという感じがしたんですね。何年経ったら定住ということになると思いますか? 3年ぐらいかなやっぱり」
K「そうですね。まあ京都の方たちの所には4月末から5月頭にかけて行ってたんですが、もう定住している感が出ている人は結構いて、母子だけで行ってたりだと難しいんですが、例えば旦那さんが介護職であるとか、手に職があって、どこでも働けるというパターンだと、まあこれで行くぞと(決心できる)。ただし、子供が大学入って出て行くようになった時に(福島へ)帰るかどうか決める、と言ったりするんですね。だからそれは完全なる定住と言るのかと言うとまた違うかもしれませんけど」
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■移ろいゆくメディアとオープンな思索への希望
U「なるほどね。だけどあれでしょ。開沼さんが福島出身で、わざわざ調査に来たと言うと、みなさん喜んでくれるんじゃないですか」
K「でもやっぱり報道被害な意識もあるかな。基本はやっぱり取材とか面倒くさいという空気も感じました。私たちのことを知ってほしいという欲求も一方であるんだけれど。そこがジレンマですね」
U「それは、報道になった途端にものすごくステレオタイプな表現にされるみたいなことなんですかね。どんな感じが嫌なんでしょう」
K「例えば関西電力が電気料金を値上げする時に、福島から避難者の何々さんは『原発のことをちゃんと片付けないのに』と怒りの声を上げた、っていうことにされたという話」
U「(笑)それは分かりやすいと言うか、まだそんなことやってるのか、っていうぐらい笑っちゃうね」
K「でもやっぱりあるみたいですよ」
U「それは京都の某・京都新聞?」
K「某・京都新聞です」
U「某・京都新聞とか某・全国紙の朝日新聞か。けしからんな。まだそんなことやってるのか。もう朝日新聞とるのやめよう(笑)。済みませんね、ご迷惑かけて。私の故郷が。だけど若い時の僕もそういうステレオタイプな事を書いていたなぁとちょっとしんみりしたんだけど…なるほどなぁ。29歳の開沼さんが、そういうのが報道被害だってことを、現実を見て知ってるというのは結構希望があることだよね。開沼さんの世代が40歳になる頃には、社会のマジョリティはそういう臭い報道をやるなと、そういう新聞は潰れてしまえという意識を持って市場淘汰みたいなものを始めるんじゃないかと思ってるんだよね」
K「そうでしょうね。でもそれを読んで喜んでいる人もいる。やっぱりそういう怒りの声を上げているんだ、みたいな受け止めとか」
U「そうか。福島がめちゃくちゃになっているのに、大飯原発再稼働はけしからんと言うためにね。そういう報道が好きな人もいる」
K「その方がサッカー観戦みたいに盛り上がれる」
U「だけどそれって、爆弾三勇士みたいなもので、完全にフィクションだよね。つまり報道が来て、そういう質問をしなかったら成り立たない話であって、それってあれだよね。メディアイベントと言うか、一種の…社会学の世界で言うと擬似現実とかあるじゃないですか。ダニエル・ブーアスティンとかが言ったことだけど。あるいはスード・イベント(注:事件をでっちあげてマスコミが騒ぎ立てること)とか、そういう世界。まあでっち上げとまでは言わないけれども、記者が来なかったらそんなこと言うかって話ですよね。だからそういうのはもう現実の報道とは言わないと思うんだよな」
K「そうですね。でもまあそういうマスゴミ批判なことを、表面上はされるけれども、重要なのはそういうリテラシーと言うか、しょうもない話とそうじゃない話を見極める力のはずなのに、なかなかそういうのが育ってないなと言う」
U「育たないままメディアがあっという間にインターネットに行っちゃって、皆インターネットリテラシーどころか、紙メディアリテラシーすら育ってない。そういうのがドドドッとインターネットに出ちゃって、ツイッターとか見てるとますます大混乱になってるよね。最近のツイッターって混乱のメディアみたいになってて、何か叩きたかったらツイッターで言ってみろみたいな、どうしようもない状態になっているんだよ。僕みたいに、そういうのを見てウヒウヒって、これは面白いなって見ている人はいいんだけれども、ちょっと今素人が手を出すと怖いことになりますね」
K「そうなんですよ。今日の朝もサッカーのウェーブとかが勝手に出ているのを見て、とりあえず盛り上がるネタを探していくということもあるだろうし、そういう部分を簡単に結びつけてくれるし、見つけさせてくれるものとして情報技術が良くも悪くも働いているのを感じました。あまりいい形じゃなくなってきているのかもしれませんね」
U「3.11の時はツイッターが誰を救ったとか、ツイッターで社会を変えるんだとか、まじめに誰かが言ってたような気がするんだけど、やっぱり寿命は短かったと言うか、なんて言うんでしょう、新聞が権威を失って没落するのに30年、テレビが10年、ツイッターは2年と、どんどん寿命が短くなっていますよね」
K「そうですね」
U「これってメディア社会学的に言うと、致し方ない現象と言いますか、そういう流れにあるの?」
K「そうなんでしょうね。新聞が偶々長かったのかなという気もしますけど」
U「競合が出なかったからね。なかなかね」
K「だからボクタクの最初の方に出た、いわゆる戦争体制論的な、つまり戦中に新聞の統合がされて、競合同士が潰し合わないような大同団結的な体制が出来上がったというのは世界的にも、あるいは人類の歴史的に見ても特異な業態だったんだと思います。通常は競争が頻繁に起こって、移り変わるものなのかなという気もしますけど」
U「なるほどね。と言うか基本的には外資との競争がないからね。新聞って。日本語という非関税障壁があるから、どこからもライバルが現れなかった。ホンダだって東洋レイヨンだって、日本鋼管だって皆外国企業と戦って勝ってきてるわけじゃないですか。日本の、それもいわゆる世界で先行した企業というのは。ところが日本の新聞、出版、テレビって、全然外国企業との競争をやってないんだよね。だから何時まで経っても国内大会と言うか、オリンピックに出たことがない、国内限定チャンピオンみたいな感じ。そんな連中が威張っているんだと考えてみたら、皆すごく馬鹿馬鹿しいと思うんですよね」
K「そうですね」
U「段々メディア批判的な流れになってきましたが、ここでプロディーサーからお互いの近著情報を言えと(笑)。近著情報と言うと、開沼さんの『漂白される社会』が…」
K「ええ。三刷になりまして」
U「すごい。3刷って言うと、2~3万部ってことかな」
K「いやまだ1万ちょいなんですけどね。ありがたいことに」
U「売れっ子ですね。これは開沼博によるルポルタージュですよね」
K「学術的なこともあって、読みにくいとも言われるし、参考になるとも言われます」
U「そういう風に評価が相半ばするのがいい本なんですね。それからさっきのお話の大規模インタビュー、二千人に聞きましたというのをやると。それもまた本にされるんですか」
K「まあそうですね。本にもしていくと思いますし、後はデータを使ってジャーナリストなり学者なりが勝手に本を作ってください、という形にもできればなと」
U「オープンソースですね」
K「そうですね。二千人データがあるので、どんな切り口でもいいと思うんですね。じゃああの時の危機管理を地元の人はどういう風にやったのかというデータを、ある検索条件で出るようにとか、っていう風にすれば…」
U「ああそうか。コンピュータ上で検索できるようにしてしまう」
K「いろんなデータをつけて行って、公務員である、双葉8カ町村である、で当時40位から50代だと。だとすると多分行政の中である程度の重役でこういうことをやったんだろうな、というのが分かり、その人の体験とかを読むと、原子力災害の危機管理というのはこういうことが重要になってくるんだというのが読み取れるデータになると思うんですね」
U「ああ。それは貴重ですね。だって地元の、例えば双葉の双葉郡の首長さんたちに僕は片っ端からインタビューしたんですけど、それだけでも大熊町には避難のバスが来たけど、双葉町には来なかったとか、そういうのが分かりますよね。そういうのは本当に聞いてみないと分からないですから」
K「後はそうですね…チェルノブイリ本が7月に」
U「7月。じゃあもうすぐじゃないですか」
K「そうですね」
U「じゃあもう入稿は終わったの?」
K「今刷ってる感じです。『思想地図β4-1』ですね」
U「なるほど」
K「僕にも全然どういう全体の構成になるのか分からないんですよ。自分の原稿を入れただけで」
U「それは寄稿者の一人ということで」
K「そうですね。そういう感じですね」
U「東さん津田さん、皆寄稿している」
K「そうですね」
U「売れそうですな」
K「売れるのかな(苦笑)。東さんは今まで自分でやってきた思想地図の1・2・3があるし、その前にも色々シリーズあるけれども、これが最高傑作だと言ってるし、僕もすごく面白いと思うんですが、さっきの話にもあったように、世間が今3.11というものとか原発っていうものに、興味を持っているかと言うと…。衆議院選ってわずか半年前だけれども、そのアジェンダセッティングにしても、まだ原発だったし、復興でしたよね。じゃあそれが今出てくるのかと言うと、復興とか言わないですよね、既に。ましてや原発の再稼働さえしれっとやろうかなという話が聞かれるぐらいです。まあそういうことだと思うんですね。そんな中で売れるかどうかというのは…売れるように期待したいですけどね」
U「そういう意味では抵抗してほしいですね。善戦してほしいと言うか。この前、朝日新聞時代の同僚でしつこく福島第一をやり続けている人と会って、飯を食っていて、やっぱりその話になったんですよ。なぜ続けるのか。そもそも新聞記者って忘れっぽいんだよなと。大体もう皆(福島を報道するという場から)居なくなったと。ただ居なくなったっていうのは、特にどうでもいい人たちがいなくなったのであって、本当に必要な書き手はまだやっていると言うんですね。3年目にはあの事故が何で起きたのかというのを明らかにしようとして皆必死になっていると。それぐらいのスケジュールでいいんだ、と彼なんかは言っている。僕もそれぐらいのペースなんですけども、やっぱり最後は個人的な属性に帰っていく。新聞社の中でも忘れちゃってる奴はもういいや、という意味で日常業務に励んでいる。転勤で福島から居なくなってる人も結構多いし。だけどどうしても納得できないって奴はまだやっている。それも人によると言うんですよ。それがね、結局世論の一部でしかないんですよ。その他人々の一部でしかないと言うか」
K「そうですよね」
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■“ボクタク”響く終わりなき小径
U「さて、私の方についてあまり言ってないような気がするんで」
K「お! 今、装丁が画面に」
U「面白いでしょ」
K「何なんですかこれは。表紙なのにカバーみたいな」
U「そうなんですよね。何で、って聞いたら、いやカバーをつけるとアマゾンが嫌がるしと。あるいは問屋の書店さんが破れて返品するの嫌だって言うから、じゃあカバーなし、帯なしにしますということでそのデザインになったんですよ。僕的には自分の写真が表紙になっているというのはなかなか晴れがましいので嬉しいんですけどね。ちょっと雑誌みたいでしょ?」
K「そうそう。版元的にこういうのが得意だとかあるんですか」
U「と言うかね、元々岩波とか、文藝春秋社みたいに堅い歴史物をやるようなところじゃなくて、ビジネス本とかも作るのが得意なところなんですよ。僕のコンセプトと合っていたのは、これは核技術をめぐる政治史であり、経済史であり、技術史なんですけど、やわらかくやりたかったんですよ。その…女の人が手にとってもなんとなく綺麗だし、ストーリーとして読みやすいと言うか、ちょっとおこがましい言い方をすると、村上春樹の小説みたいにサクサク読める、という感じで核技術の歴史が読めたらいいなという感じで書いたんです。だからまあ旅日記みたいな旅の記録みたいにしているんですよね。だからそういうのと上手くソフトカバーで写真が沢山載っていて、雑誌みたいな表紙でというのが上手くフィットしていますね。それは良かったと思ってます」
K「そうですね。カラー写真とかも普通の紙を使いながら」
U「そうなんですよ。しかも私の撮った写真が晴れがましく並んでいる。だからやっぱり行って良かったと思いました。何か現場を踏むとですね、こんな半径100キロ人が住んでない所で原発って生まれたんだと。そんな所で原子炉が爆発する実験とかやってるのかと実感するんです。そういうのを済ませて、こういうことをしたら原発って暴走するんだということを確かめてから彼らは外に出したということを納得するわけですね。日本人はそれをやってないんですよ。ただアメリカから技術を買ってきて、おんぶにだっこで作ってもらって、それで日本は原発の技術を世界一ですと今やってるわけですね。だけどそんな、技術として、誕生も看取ってないし、そもそもリサーチャーにもディベロップメントにも金を投資しないですから、我々に日本人は。よくそんな奴がしかも、こんな狭い国に54基造った上で、そもそも技術の風土として全然アメリカと違うレベルで、よく技術大国と言るなと。そんな傲慢さを実感しちゃたんですよ」
K「なるほど。そうですね」
U「例えば大型のアメリカ車って、バイクでも車でも、まっすぐなハイウェイを、信号のない所を80キロぐらいでクルージングするのにすごくいいんだけど、日本の町中みたいな信号が100メートルに1回あって、止まって、小さなカーブを曲がって、十字路を曲がってという所では、図体が大きすぎるし、カーブを曲がれないぐらいハンドルが重いでしょ。そういう代物なんですよ。それをいきなり日本に持ってきたというのが原発なんだなと感じたんですね」
K「実際行くと、そう感じるでしょうね」
U「説教臭いので嫌ですけど、本物を見るのって大事だなと」
K「スリーマイルの夜の、何か未来みたいな光景だとか」
U「気持ち悪いでしょ。UFOが着陸したみたい。そこを写真に撮るとね、その場所の後ろに日本人が除染に行った時の記念植樹の桜が埋まってるんですよ。だからみんなスリーマイルと日本人って縁がないと思っているけれども、縁があるんですよね」
K「2012年7月に双葉町から、福島第一を撮ってますけど、これは結構な望遠ですね」
U「撮った撮った。それは双葉の海水浴場に行って、ちょっと岬の先に出るとちょうどそこから見えるのを、あれは300ミリぐらいで撮ったのかな。本当はもっと堂々と中に入りたいんですけど、なかなかくじにも当たらないし、面倒くさいので外からでいいやみたいな感じで」
K「なるほどなるほど」
U「だけど面白いですね。福島のまさにそこで、今原子炉から漏れ出した放射能…例えばセシウムとか、皆ワーワー言ってるわけしょ。プルトニウムだとかトリチウムだとか。それって正直言うと、アメリカ生まれなんだよね。ニューメキシコとかの砂漠とか、アイランの平原とか、自分が見たところで生まれた技術が双葉町と大熊町の境でボコボコ漏れ出しているわけだよね。だから僕は不思議な感じがしたんですよ。線量計を出すと、線量計の数字が増えていく。これって本来、アメリカからの技術が来なかったら、そうならなかったんだよなと思うんですよ。だからすごく不思議なんですよ。地球の反対側で見た現実と、放射能という見えないもので結ばれるんですね。技術って本当に面白いと思うのは、そういう国境とか文化を超えて、ニューメキシコと福島の双葉郡というのは全然つながりはないんだけれども、それが突如結ばれるんですよね。何て言うんだろう、同じ自分の目が知覚して、同じ自分の鼻や目が口がセシウムを含んだ空気を吸っているという現実はすごく面白かったです」
K「そうですよね、面白いですよね」
U「世界で初めて原子爆弾を爆発させたニューメキシコの砂漠って今でも線量が高いんですよ。真ん中辺のグラウンドゼロに行くと、線量が1.07マイクロシーベルトぐらいあったのかな。ちょうど飯舘村役場の前とかね、同じぐらい。どちらにも同じ線量計を持って行ったんですが、その線量計のガイガーミュラー管にポコポコ当たっているものも、やっぱり同じものなんだなと。なぜこのニューメキシコの砂漠のど真ん中と福島県双葉郡って同じものがポコポコあるんだろうっていうのが、すごく不思議な感じがしました」
K「そういうのは結構あって、福島市とか二本松市とかで農業をやっていて、農地の線量、土壌線量と空間線量を必死に測って、それでどこが危険ってマップを作ってやってるんですけれども、その時に最初は機材がなくて困っていたんです。で、やっぱりウクライナ、ベラルーシやアメリカに行く。二本松の人はアメリカに行ったのか、アメリカから取り寄せたのか」
U「それは線量計を?」
K「ええ。ちなみに軍事用で。ただ何らかの理由で、軍事用の線量計ってあんまり発展してないようで、あまり感度が良くないんですね。もっともベラルーシとかは、やっぱりここ25年間やってきているから結構使えて、今はベラルーシ製が福島で使われる主流になっています。ベラルーシの線量計って、元々ソ連軍が第三次世界大戦向けに開発していたものらしいですが、それがなぜか福島のど田舎で使われているっていうのに、僕も驚愕したんですけどね」
U「今は川俣町のカインズホームで売ってます(笑)」
K「そうなんです」
U「やっぱりそうなんですよね。線量計を皆が持ち歩いてガリガリキーってやるというのは、第三次世界大戦が起きたら…というSF映画の世界だと思っていたのに、なぜか福島でそれが展開されていると言う。これは現実が理解を超えますよね。福島に行くたびに、あまりにシュールで、現実とは思えないような、今でも悪い夢を見ているんじゃないかと思う時がありますよね」
K「後この本の中の、豊田さんと伊原さんの話はまだ読んでないんですけど、これから楽しみに読みたいなと思ってます」
U「どうぞどうぞ」
K「この方たちは本とかインタビュー…本は出していらしたんですよね。どちらかが」
U「ええと、豊田さんは出していますね。日本の原発史みたいな本を書いていて、そこで福島第一と第二の立地について、ものすごく細かいところまで書いてあります。本当は海抜35メートルあったけど10メートルに削りました、とかね。なぜかと言うとクレーンが届かなかったからだそうで、35メートルあったら津波は大丈夫だったのに、という話も書いておられますね」
K「なるほど。伊原さんはインタビューとか表に出て受けて大丈夫なんですか」
U「全然大丈夫です。伊原さんはね、本当に記憶もものすごく鮮明で、よくこんなことまで、と驚かされました。ご自分が留学した1953年の時の担当の上司とか、予算の金額とか全部言うんですよ。それくらい記憶が鮮明で、歴史の証人としては本当にすごい人だなと思いますね」
K「なるほど。だのにあまりインタビューとかに行ってないんですかね。他のジャーナリストは」
U「行ってないですね。開沼さんにはご紹介しますよ」
K「ぜひ。理系の人だとそういう情報が別途整理されているのかもしれないですけれども、文系で原発研究する人って、それこそ東電経産省けしからんみたいなところに留まりがちで、けしからん、まではいいんだけど、実地に話を聞きに行かなかったりするんですよね。だから当事者に聞けばもっと分かることもあるはずなのにとは思っていて、豊田さん、イハラさんのお話はぜひ読みたいなと」
U「そうですね。お二人とも全然拒まないですしね。ご紹介しますよ」
K「ぜひそれはお願いします」
U「今後、開沼さんにはぜひそういう取材をしてほしいんですよね。僕もまだ福島の取材を続けてですね、明日からも行こうかなと思っているのと、また来月辺りからアメリカに行ったりとかですね」
K「それはどういう取材で」
U「ちょっとスリーマイルをもう少し突っ込んで調べたいということと、やっぱり裁判の当事者とかに会って、(和解の実際が)どうなったのかというのをきちんと当事者として聞きたいというのもありますし、あるいは疫学調査をした人たちに会って…(調査報告の)ペーパーは手に入りますけれどもね、何が貴方の発見だったんですか、というのを聞きたい。福島はそこから何を学べばいいんでしょう、ということを聞かないといけないなと思っていて、もう1冊本を書けるぐらいスリーマイルについてやりたいと思っていますね」
K「面白いですね。ちなみに、ここ2~3ヶ月でチェルノブイリ関連本はポコポコ出ているんです」
U「そうなんだ」
K「翻訳本ですね。チェルノブイリの報告」
U「はいはい。ありましたね」
K「で、何かのタイミングでみんな一斉に企画したから、この2~3ヶ月で揃ってくるという要因はあると思うんですが、いずれを見てもすごく面白くて…でもそういう意味ではスリーマイル関連本ってまだないですよね」
U「そうなんですね」
K「だから翻訳と言うか、こういうことが書いてあるよということが紹介されている本が出るだけでも、皆は参照するんじゃないかなと思うんですね」
U「やっぱり(事故から)30年経ったらどうなるというのは、まさに福島の未来図でもあるわけで、ぞっとするものがあるんですよ。未来を先取りして見せられているみたいな…。ある人は諦め、ある人は力尽き、ある人は引っ越していなくなり、消息不明になり、死ぬんですよ。スリーマイルは福島の10分の1しか出てないんですけれども、やっぱり住民に与えるインパクトってすさまじいんですね。それは計量化できるものでなくて、心理的なものなんですよ。だから福島でも健康被害があるのかないのかという議論以前に、既に被害は出ているだろうと話なんですね。これでコミュニティがめちゃくちゃになったじゃないかと。そういうところをもう一回、(スリーマイルを)同じ被災地ということで、ちゃんと調べたいですね」
K「なるほどなるほど」
U「開沼さんの今後の計画は、二千人インタビュー…」
K「そうですね。そのプロジェクトが一つと、もう何個か、何年かかけて仕事は考えていますけど、まあ震災関係と言うか、その流れで言うと、歴史社会学をフクシマ論とは別な所でやりたいなと思っています。仮タイトルは『危機の近代化』と言いまして、どういうことかと言うと、レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』だとか、(ナオミ・クラインの)『ショック・ドクトリン』…どっちも災害とか、危機の後に社会が再編されるということを書いていて」
U「ああ。ハリケーン・カトリーナとか911の後に、とんでもない法律を通したって話ですよね。ショック・ドクトリンって」
K「惨事便乗型の資本主義けしからんっていう方なのか、いや災害ユートピアが意外とできちゃうんだよ、という話なのか、それぞれあると思うんですけど、それをもうちょっと普遍化してみて、危機が日本社会の近代化を実は作ってきたし,日本社会の近代化は、今の形というのは危機なしではあり得なかったということを、明治以降ずっと見ていくという作業をしたいなと」
U「それは天災だけじゃなくて、東京空襲とか」
K「戦争もそうですね。仰る通り、東京空襲、関東大震災、阪神淡路もそうだし」
U「確かにそうだね。だけど、それは東京が焼け野原にされて、そこから復興する過程で一からやり直して、そういうことだけじゃなくて…」
K「そういうことももちろんですね」
U「面白いですね
。そういう学問もあるんですね。そうなるとあれだよね、福島というものがもっと横に広がって行くと言うか、ということはあるだろうね」
K「そうですね。だから、そういう過去の事例と比べて共通するところ、意外と同じ事を昔からやっているじゃん、と。(危機や災害が)最初に起こった時には皆パニクるけど、サクッと忘れて、政治はそれをサクッと利用して、色々変えちゃうというのが起こっている。あるいは時代を遡ってくるに連れて、どんどんある何らかの進化が進んでいるみたいなことが見えてきたりもする」
U「なるほどなぁ」
K「だからそういうのは重要かなと」
U「災害ユートピアってのは、そこに関係するんだっけ?」
K「災害ユートピアはまあ関係しますね。災害が起こった時に、実は共同体がパニクるだけじゃなくて、むしろ自然的に自らが…」
U「活性化する。あるいは復活したりもする」
K「という感じですね」
U「なるほどねぇ。分かりました。ああ、そろそろお時間でしょうか」
K「振り返りの予定だったんですけどね(苦笑)」
U「二人とも未来志向なんですね、きっと(笑)」
K「そうですね」
U「どうも半年間お疲れさまでした」
K「お疲れさまでした」