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【サンプル記事】こち駒 ニコニコ支店
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【サンプル記事】こち駒 ニコニコ支店

2012-09-07 17:00
    職業柄、人からいろいろなことを聞かれることがある(職業とまったく関係ないが昔から街を歩いているとよく道を聞かれたりもする。旅先でもけっこうあるので閉口する)。根がブロガーなので、別に専門でなくても(そうことわった上で)ぺらぺらしゃべったりするし、ブログに書いたりもする。

    いじめ問題については、少し前に自分のブログに書いた(リンク)のだが、おそらくこれをどこかで見かけたのだろう、とある高校生の方から、メールで意見を求められた。なんでも「夏休みの課題」であるらしい。高校生からとなれば、「職業柄」、まじめに答えざるを得まいということで、少々まじめに書いたのが以下のもの。ご承諾をいただいたので、氏名等は伏せてここに公開しておく。若干教員ぽいというかポジショントークっぽいところもあるが、そもそもそういう文章なのでご容赦。

    メールは、ある新聞記事を引用していた。おそらくこれかと思う。


    デジタルでは一部しか公開されていないが、紙面では、このあと、「どんな人がどんな思いでネット情報を見ているのか。「いじめに抗議しよう」という掲示板の呼び掛けに応じ、自殺した生徒が通っていた学校前に来た人達に聞いてみた」と、抗議している人たちにインタビューしていて、「「マスコミは伝えるべき情報を隠しているから」と一人が言うと周囲が一斉にうなずいた」としめくくられている。

    これを挙げたのち、メールをくれた高校生の方は、こう問いかけている。
     
    「この記事についてどう思われますか。
    私はこの記事を見て、ネットは恐ろしいと思いました。
    そしてネットというものが無かったら、こんな事は起きなかっただろうと思いました。
    私はこの問題を解決するには、掲示板などをなくす事が必要だと思いましたが、山口先生はどう思われますか。」
     
    いじめそのものではなく、いじめ問題にまつわる人々の反応に注目しているのは興味深い。一応メディア関連の学部の教員でもあるわけで、メディアに関する質問には答えようと思って書いたのが以下の文章。



    メールをいただきました駒澤大学の山口です。
    私はいじめ問題の専門家ではありませんが、ネットでいじめに関する記事を書いたことはあるので、それをお読みになったのでしょうか。
    「専門家」のご意見をお求めでしたら、別の方にお聞きになるのがよいと思います。
    以上を前提としてですが、せっかくお尋ねいただきましたので、お答えいたします。

    報道等を見る限り、大津市の事件でのいじめは、かなりひどいものだったように思います。さらに、いじめを放置し、かつ自殺者が出た後も事態に向きあおうとせず責任逃れに終始するかのようにみえる学校や教育委員会の対応は、怒りをかきたてるものがあります。

    同じように考える人は、世の中にたくさんいるだろうということは容易に想像できます。中には、自身や身近な人にいじめ被害の経験があるなど、いじめ問題に対してひときわ強い思い入れを持った人もいるでしょう。中には、加害者や学校、教委の人たちに「天誅」を下してやりたい、と思う人もいるかもしれません。

    人は、頭の中で何を考えようと自由です。しかし、それをことばや行動で表現することに対しては、一定の制約があります。「殺してやりたい」と思うことは自由ですが、実際に殺人を犯せば犯罪ですし、「殺してやる」と相手に対して言うだけでも犯罪になる可能性があります。それは、自分の考えを表現したり行動に移したりする自由があると同時に、相手方にも、平穏に生きる権利があるからです。法律はそれらの権利の間の調整をはかるものです。そして、法律以外にも、「常識」や「社会通念」、あるいは「慣行」のように、人々の間の権利調整のためのさまざまなルールが社会の中にはあります。

    これらに照らして考えれば、今回の事件に関連して現在起こっている、学校や関係者への「抗議活動」の中には、脅迫などの犯罪にあたるもの、犯罪の疑いがあるものが少なからず含まれているように思われます。「自殺した生徒は守られなかったのに学校関係者は守るのか」といった反論は通用しません。正当防衛など特殊な場合を除いて権利侵害に対して、私的な報復は法律で禁じられていますし、ましてや今そうしている人たちのほとんどは無関係の他人でしょう。

    しかし、こうしたルール上の問題以上に重要なのは、こうした人々の行動こそがまさに「いじめ」であるということです。「いじめ」にはもちろんいろいろなケースがあるでしょうが、その中には「あいつ許せないから懲らしめてやる」といった、いわばある種の「正義感」に基づくものがかなりの割合で含まれています。仲間内のルールを乱したり、迷惑をかけたりしたことへの「私的制裁」というわけですが、これは、「いじめ」をした者、「いじめ」を放置した者への私的制裁と実質的に変わるところはありません。「学校や教委はあんなにひどいいじめを放置したんだからひどい目に遭って当然だ」という意見は、その意味で、いじめを擁護する意見そのものであり、死を以っていじめの被害を訴えた生徒の気持ちを踏みにじるものだと思います。

    さて、以上を前提として、ここからがご質問の本題。

    今回の事件を受けて、「ネットは恐ろしい」「ネットや掲示板がなかったらこんなことは起きなかった」というご意見についての回答です。

    「こんなこと」というのが何を指すのか文章からは必ずしもはっきりしないのですが、仮に、学校や教委に対する脅迫や個人名の暴露などのいやがらせのことを指す、と考えます。

    結論から書くと、私の意見は以下の通りです。
    ・ネットや掲示板がなくても似たようなことは起きた
    ・ネットは恐ろしいが有用なのでなくすべきではない
    ・対策はネットをなくすことではなく、よりよいやり方を工夫していくこと、人々がもっと学ぶこと

    以下、理由を書きます。

    そもそもこの件は、「ネット」が原因なのでしょうか?詳しく事情を知りませんが、少なくともこの件が社会に広く知られるに至ったのは、マスメディアが報じたからでした。ネットは、関心ある人が求める情報を探すにはいいツールですが、社会全般に情報を広める力はまだあまり強くありません。ネットは、マスメディアといっしょになって初めて大きな力を発揮します。つまりこの事件に対して社会の広い層から反発が集まったのは、ネットとマスメディア双方の力によるものでしょう。

    ネットがなかった時代にも、似たようなことはしばしば起きました。有名な事件を1つ挙げます。松本サリン事件の際の第一発見者に対する誹謗中傷です。これについてはネットに情報がたくさんありますので、調べてみてください。この時代、インターネットはまだ普及していませんでしたが、マスメディアの報道をきっかけに、この方の自宅には脅迫状や脅迫電話が押し寄せました。こうしたいわゆる「報道被害」の事例は他にもたくさんあります。

    報道されなくとも、ネットに流れなくとも、周辺の人しか知らないような場合でも、無言電話などいやがらせのような行為はよくあります。ネットがあるからこうしたことが起きるのではなく、人はもともとこうしたことをしたがる傾向を持っているのだと思います。よく「ネットの闇」などといいますが、闇はネットではなく、人の心の中にあるのです。

    もちろん、ネットの存在によって、こうしたいやがらせ行為を行いやすくなったという面はあるでしょう。では、だからネットはなくすべきでしょうか。掲示板は禁止すべきでしょうか。

    ネットはもともと、悪いことをするために発達したのではありません。人に危害を及ぼすたいていの道具はそうです。包丁は料理をするため、自動車は人やモノを運ぶために作られましたが、中にはそれを悪いことのために使う者、上手に使えずに他人に危害を加えてしまう者が現れます。では、包丁で人を刺した人がいたからといって、包丁の製造や販売、所持を禁止すべきでしょうか。自動車で誤って人をはねてしまうドライバーがいるから、自動車を禁止すべきでしょうか。

    実際にはそんなことはありません。包丁や自動車は、人に危害を加えることもありますが、人にメリットをもたらしもするからです。そしてメリットの方が大きいと考える人が多いため、禁止はされていません。一方、銃は、人が自由に持てるようにするとデメリットの方が大きいという判断から、銃刀法でその所持に許可が必要なしくみになっています。そもそも基本的に人は自由なので、他人に迷惑をかけない限り、何をすることもできます。何かを禁止するのは、それを禁止しない場合とした場合とでどちらがよいか比較した上で、後者の方がよいと判断される場合だけです。

    では、ネットやネット掲示板は、禁止した方がメリットが大きいでしょうか。私はそうは思いません。

    ネットは多くの人に有用に使われています。インターネットは、日本の全人口の約8割に普及しています。今回の事件で学校等にいやがらせをした人が何人いるかは知りませんが、どんなに多く見積もっても、せいぜい数百人から数千人といったところでしょう。ネットユーザーのほとんどの人は、こうした行為に参加してはいないのです。こうして私たちがやりとりできるのも、電子メールというネットサービスがあるからです。メールで他人を脅迫する人もいますが、だからといってメールを禁止しようという話にはなりませんよね?

    掲示板についても、基本的な考え方は同じです。掲示板は多くの人に利用されるサービスであり、一部のユーザーが不適切な使い方をしたからといって、即禁止すべきという議論にはなりません。ただ、悪用されるケースがあったときに、そのユーザーに対してペナルティを与えることが難しい状況があるとよくないという意味で、今広く使われている掲示板等の多くは一定のルールを設けており、必要な範囲で警察等の捜査への協力も行なっているはずです。それが十分でないという議論は確かにあって、検討は行われているかと思いますが、禁止という方向性ではないでしょう。

    そもそも、ネットを禁止しても被害はなくなりません。ネットは世界につながっているので、国内で禁止されれば海外のサービスが利用されるだけの話です。掲示板を禁止しても、今回のように、有名人のブログをきっかけに炎上が起きることもあります。また、上記のように、ネットがなくても、マスメディアをきっかけに今回のようなことが起きることもあるでしょう。マスメディアが伝えなくても、近所の噂だけでも似た問題は起きます。問題はネットではなく、社会の中で起きるのです。ネットや掲示板の禁止は問題の解決にはつながりません。

    一方、ネットは、こうした問題が起きたときに、すぐに反対の意見が出てくることによって、自ら誤ちを正していく力もあります。いじめ事件が放置されたことに対して「おかしい」という声が上がったのと同じように、関係者に対する嫌がらせに対しても「おかしい」という声が上がりました。ネットで他人に暴言を吐いている人もいれば、ネットで傷ついた人のために暖かいメッセージを送る人もいます。

    人間の行動に対してルールによる制約が必要な場合は確かにありますが、不必要に制約を加えることは望ましくありません。社会は、人々の創意工夫によって発展してきました。そして創意工夫は、自由から生まれます。「あれとこれはやっていい」と決めるのと、「あれとこれはやっちゃダメだが他はいい」と決めるのとでは、人々の行動には大きな差が生まれます。

    もちろん、「有益なものは認めるが無益なものは認めない」という考え方は今の社会でもある程度通用しているわけですが、これも必ずしも正しいとは限りません。学校とちがい、現実社会には「正解」のわからないことがたくさんあります。有益無益の判断は、事後的にしかできない場合がけっこう多いのです。

    かつて「ソ連」という国があったことは知っているでしょう。ソ連はかつて、アメリカと並ぶ二大強国と考えられていました。彼らは政府が経済活動を細かく計画しコントロールする計画経済というやり方をとっていました。1950~60年代ごろは、こうした計画経済と、アメリカのような自由経済のどちらが優れているのか、学者の間でもまじめに激論が交わされていました。しかし80年代にはその差は誰の目にも明らかなものとなり、91年にソ連は崩壊してしまいました。

    現在の目でふりかえると50年代の議論はばかばかしくも見えますが、当時は本当にわからなかったのです。自由な行動を阻害すれば、その分だけ発展が遅れます。そしてその遅れが、人々を困窮に陥れるのです。弱者への思いやりも、裏打ちする発展があってこそです。つまり、自由そのものに価値があるのです。

    インターネットもそうです。インターネットは比較的新しい存在であるため、今当たり前の存在となっているもののほとんどは、ごく最近始まったものです。たとえば、携帯電話でメールをやりとりする習慣は、99年のi-modeサービス開始以前には存在しませんでした。ネットで動画を見る習慣も、2005年のYouTubeサービス開始時点では、今のように一般的になると考えた人はほんの少数だったはずです。将来は、わからないものです。だからこそ、不必要な制約を受けないことが重要なのです。

    もちろん、さまざまな変化に合わせた新しいルール作りは必要です。その意味で、現在のルールは、法律にせよ慣習にせよ、必ずしもネットを前提とした実態についていっているとはいえません。自動車が発明された当時、自動車の存在を前提とした交通法規はありませんでした。それらは自動車が普及し、問題が多数発生した後に作られたのです。同じように、ネットが普及した現在、ネットが普及する以前のルールでは対処できない部分があるのは当然でしょう。

    今、関係者ががんばって、より時代に合ったルール作りをすすめようとしています。そしてそれは、「ネット禁止」「掲示板禁止」といった乱暴なものではなく、もっときめ細かく、自由と保護とのバランスに配慮したものをめざしているはずです。もちろんそれが「正解」である保証はありませんし、仮に正解であったとしても、永遠に正解であり続けることはないでしょう。検証しながら、少しずつ直してよりよいものにしていく、そうした継続的な努力が必要なのです。

    同時に、社会の中の私達自身が、新しい現実を知り、向き合っていく必要があります。その意味で特に重要なのが、学校における教育でしょう。ネットの適切な使い方を学び、情報社会のいいところを使い、悪いところを避けていける能力が求められています。聞くところでは、小中高における情報教育はかなりお寒い状況だそうで、実際私も日々大学生に接していてそう思います。残念ながら今のところ、そうした教育の不足は、自分で補わなければならない状況のようです。

    ぜひ、ネットが社会の中でどんな役割を果たしているか、私たちがそれをどう使っていったらいいか、そのためにどんなルールが必要かなど、いろいろ調べて勉強してください。この問題にも「正解」はありません。だからこそ、とことん考え、どんどん議論していく必要があります。そのためにもネットは有効に使えますね。いい使い方が増えれば、ネットは全体としてより有益なものとなります。そしてそうなるかどうかを決めるのは、私たち自身です。

    いい自由研究になることを期待しています。