ナンパで思い出深いことに、今井さんという歯科医との出会いがある。
秀和さんというマンションみたいな名前の彼は、徹さんが「重なる」、健ちゃんは「ミックス」、伊東さんは「層」と表現した性感のシナジー効果を「ブレンド」と呼んだ。
「連動してブレンドされたオーガズムの気持ちよさって、女性にだけ与えられたギフトだよね」と、言った。
言葉は違うけれど、相乗効果や協働作用と意味するところは同じだった。この感覚の存在を認識し、その快感を与えてあげようと思えるかどうかが、男性のセックスの上手下手に大きく関わってくる。
私が今井さんと知り合ったのは、彼が経営する歯科クリニックだった。私は患者として、そこを訪れた。私は「奥歯がムズムズするんです」と診察を受けた。
「ああ、第3大臼歯が生えてきてるね。親知らずが隣の歯にぶつかって、少し炎症が起きてるなあ。虫歯にはなっていないけど、斜めに生えてきているから、抜いた方がいいね」
「斜めにですか?」
「そんなに驚くことじゃないよ。親知らずは、垂直に生える人より斜めに生えてきたり、横に水平に伸びて歯茎から出てこない方が多いんだから」
「そうなんですか。奥歯がむずむずして以来、唾が口の中に溢れて、涎が垂れて困ってるんです」
「唾液がでなくてドライマウスで困っている人は多いけど、溢れて困るって人は珍しいな。唾液に含まれているパロチンという物質は全身を若々しく保つ効果があるんだよ。唾液で潤っていると、口内環境が良くなるし、パロチンは歯は勿論、皮膚や筋肉、骨、内臓、髪や目にも影響するからね。僕の経験から言うと、唾液が多い女性は年をとっても、肌に皺が出にくい傾向にある。木山さんはまだ若いから皺ができるなんて考えられないだろうけど、四十過ぎた時に同世代の女性と自分の肌を見比べてごらん。僕の言ったことがわかるはずだよ」
「覚えておきます」
「歯科治療では、早い安い巧いの三拍子揃うことはない」
と言う彼は、自由診療を行う医師だった。
口腔内を隅々までキレイにして、虫歯の原因となる細菌を除去するケアを、定期的にしてくれた。
「日本人が歯を失う第一の原因は虫歯でも老化でもなく歯周病だよ」と、彼は言った。
歯ブラシだけでは歯垢の6割しか除けない。フロスと歯間ブラシを併用しても9割。歯垢が固まって歯石になって張り付くと、歯医者に任せるしかない。
ブラッシングでプラークを除けるのは一mmの深さまで。歯と歯の間、歯と歯茎の境目、奥歯の噛み合わせの隙間に溜まりやすい歯垢を、細菌が増殖する前に定期的にしっかり除去するケアが大切なんだよ、と今井さんに力説され、私は、三十四歳まで虫歯がないのに毎月必ず、歯科医院に通っていた。
歯がなくなると、噛む力が弱くなり、言葉を発しにくくなったり、口の中の状態の悪化が身体の健康にも影響を及ぼすと、子供の頃から父がうるさく言っていた。歯ブラシだけでは、汚れを完全に取ることは出来ないと、母も言っていた。
子供の頃から、歯ブラシとデンタルフロスとウォーターピックを使ってケアしてきた。歯と歯肉の間の歯肉溝は深さ一mm以内を保ってきた。
さいたま拘置支所の茶髪歯科医に、口の中をみられ
「わあ、凄いな。歯茎がキレイですね」と、言われた。
悪いことをして逮捕されるかもしれないと心当たりのある人は、歯科治療だけは外でしっかりしておいた方が良い。留置場や拘置所に勾留されたら、まともな治療は受けられません。虫歯になっても、痛みが出ても、腫れてもすぐには治療を受けられません。
東京拘置所の健康診断で、
「歯は大丈夫?」
「はい」
「それは良かった。今の状態を保つようにして下さいね。ここは歯科治療の希望者が多くて半年待ちです」
と、言われた。
インプラントとか入れ歯とか、定期ケアが必要な物を装着している人は、不具合が出た時に大変なことになる。自分の歯を虫歯にせず守ることが何より大切。親知らずは抜いておく。これも大事。
親知らずの虫歯で顔が腫れ、泣きながら痛みを訴える男性が拘置所にはたくさんいる。そういう人の診療が続いた茶髪の歯科医は、抜歯に力を使い過ぎ、手が痺れたとこぼしていた。