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2013年八月(平成二十五年)。初稿を書き終えたのは、関谷さんが四十九歳になって一ヶ月経った日だった。十日には、高知と山梨で四十・七度を観測し、東京も四十度を超えた。翌日は、都心の最低気温が三十度を下回らず、1975年の統計開始以来の最高値を記録した。

 埼玉の拘置所にいた頃は、気温を肌で感じていたが、エアコンが作動している東京の施設は廊下側にある大きな通風口扉から冷気が入り、運動場はビル風が激しく吹き乱れ、四十度という実感が持てずにいる。

 処遇は全く変わらない。このままでは鬱になりそうだ。埼玉では、窓口で原稿を受け渡しできたのだが、東京拘置所は、郵送しか許可しないと言われた。

二木さんに手紙で伝えると、お盆の開庁免業日初日に、彼はやって来た。

 愛媛県境に近い山間の高知県四万十市で、国内の観測史上最高の四十一・〇度を記録した日だった。

「御機嫌伺いに来ました」

ジャスティン・ティンバレイクのような髭を生やした二木さんは言った。ガブリエル・オーブリーかと思わせるお洒落男子は、大学生になった。

「機嫌は変わりませんよ。エアコンついているから涼しいだけで、不愉快なことばっかり」

「えっ冷房ついてるの?」

二木さんは、拘置所にエアコンが作動していることに驚いていた。

「今ね、三十六冊目のノート書き終わったところです」

「あと何冊で終わりそうなの?」

「それはわからないなあ。あと1週間はかからないと思うので、二冊ぐらいかな」

「未使用のノートは何冊持ってるの?」

「五冊ぐらい」

「じゃあノートは差入れなくて大丈夫かな」

 私は、二木さんが瞬時に引き算できたことに感動した。会話に数字がたくさん出てきた。出版社でバイトをしている大学生みたいだった。

中学生が高校を飛び級して大学生になった。忘れずに石鹸を買ってくれた。とっても嬉しかった。私は物品制限の為まだ自分で石鹸を買えずにいたのだ。

二木さんが差入れ窓口で買ってくれた石鹸が私に届いたのは、面会に来た翌々日だった。

「混雑していると交付が二~三日後になることもあります」と、職員に言われた。

二木さんの石鹸はフレッシュフローラルの香りがした。被告人が自分で購入することができる牛乳石鹸ではなかった。

 東京拘置所では、日用品も食料品同様、窓口の差入れ業者が違うという。所内で自弁購入する物より、窓口で差入れに出来る物のほうが種類が豊富で質が高いのだ。チリ紙の量や手触りまで違う。

 私は、東京に移送されてからというもの、毎日、石鹸とチリ紙を欲していた。埼玉から持ってきた物の残量が少なく、日々減っていくのに、新たな購入は認めてもらえなかった。

埼玉の麗子さんから、

「東拘は官物の給与量も厳しいのよ。生理用ナプキンやチリ紙でさえ、決められた量以上渡さないんだから」 

と、聞いていた。

 無料貸与される官物は粗悪品だ。一般のスーパーで売っているレベルのものではない。チリ紙は、犬の糞を始末する為のペット用ティッシュを薄くしたような質感の、ごわごわして水にすぐ溶けてしまうものである。試しに触らせてもらったが、それはひどい材質だった。

 私がよく布巾や雑巾を石鹸で洗っているのを見た麗子さんが、

「掃除用なら官物の石鹸あげましょうか。使いきらないで、出て行った人が残した物がたくさんあるのよ」

と言って、官物の洗顔用石鹸をごっそりくれた。

「あれで顔を洗うと肌が荒れそうですね」

「あの石鹸は横浜刑務所で作ってるのよ」

「ああ、そうですか。お店で売っている商品ではない感じがします」

「官物は刑務所で作ってる物か三流メーカーの粗悪品しかないのよ」

「掃除用にはあれで十分です。小さいと使いにくいので、水に浸けて柔らかくしてから練って一つの石鹸玉にして使っています」

「今の若い人は、あなたみたいに物を大切に使う気持ちがないのよね。なんでも使い捨てで生活の知恵がなくても生きていける世の中になっちゃったのよ」

と、麗子さんは嘆いていた。

 官物のチリ紙を渡すときも「これが一日分の目安だから大切に使ってね」と、言っていた。足りなくなれば、渡してくれた。私はそれを当然だと思って見聞きしていた。

 しかし、東京拘置所ではそれが当たり前ではないのだ。麗子さんが言っていた通り、官物は決められた量以上絶対与えない。

 浦和では女子がいる区画に共同室が四部屋、単独室が五部屋しかなかった。東京は同じ区画に単独室だけが七十近くある。そういうフロアが何十もあるのだから、規模の大きさが違うのだ。「ケーリさん」と呼ばれる職員の助手をするいわゆる雑役囚がいることも驚きだった。

 近くの部屋の人が、

「これで二週分です。それまで補充はしませんから考えて使って下さい」

と言われ、半分に割られた石鹸を渡されていた。

「チリ紙がなくなったので下さい」

「今朝、今日の分は渡しましたよね。明日までもうあげられません」

「一枚もないんです。どうしたらいいんですか」

「そんなこと知りません」

というやりとりを聞き背筋が寒くなった。新たに日用品を買えない私は、他人事ではなかった。

 途方に暮れた私は、仕方なく母に連絡した。

東京拘置所に移ってからの処遇の変化と、窮状を訴えた。

速達で返事が届いた。開封するまで、やはり彼女も母親としての情を持っているのだと嬉しく思った。どんなひどい仕打ちを受けてきても、子供は母親を求め期待するものなのかと、思いながら手紙を読んだ。

「現在の処遇は、自業自得ではありませんか。世間ではこれからお盆休みになります。綾子は幼稚園が夏休みの間、旅行に出ています。正博と美穂は、それぞれの家庭で予定があります。愛音と晃成は夏休み中です。子供と孫達の夏休みの予定を花菜の我が儘勝手で潰すことは、母親の私が許しません。自分で買えるようになるまでは、官物を借りて使って下さい」

 早生まれの姪は八歳で小学三年生になり、六歳の甥は幼稚園の年長クラスに通っている。夏休みは、遊びに連れて行ってもらうことが嬉しい時期だろう。

 美穂が初めて幼稚園で担任を持った生徒が今年、成人したという。

確実に年月は過ぎているのだ。

独身で子供を持たず、健康な私には実感しにくい年月が、刻々と経過しているのだ。

 私はしばらく家族のことを考えないことにした。

 

頭のなかにプレッツェルがはいっているような混乱した状態で、私は新聞記者の藤井さんに手紙を書いたらしい。いつ送ったか、何を書いたか覚えていないのだ。部屋の中には便箋とボールペンしかなかった。

多分、埼玉から移送され、それまでとの処遇の落差に動揺していたのだと思う。その時の心情を綴って送った気がする。彼女からの返信に

「お心が穏やかでないご様子、文面を読みながら大変心配しております」

と、書かれてあった。私は彼女を心配させてしまうような内容の手紙を送ったようだ。

「お手紙の中で、何度も内容について謝罪されていましたが、書くことで気持ちが少しでも落ち着かれるようでしたら、遠慮なくどんどん書いて下さい。一番最初のお手紙でも書きましたが、どんなことでも受け止めます」

私は感涙に噎び、しばらくその手紙を読み返すことができなかった。

 確かに藤井さんは、十一年の夏に初めて送ってきた手紙で、私の素の声を聞きたい、私の考えていることを教えて欲しい、趣味、好きなもの、最近気になるもの、日々の退屈しのぎなど、なんでも構いませんと書いてきた。

二木さんは、知り合って二ヶ月経ってから

「何かに思い悩んだときは、いつでも本音で打ち明けて下さい。自分の気持ちを人に話すことは、とても気持ちを軽くしますから。そうして頂いた方が、僕もとても嬉しいです」という手紙を書いてくれた。

 二人には素直な気持ちを伝えている。

家族より本音で語っている。

 

この本を書くにあたって、家族にはフィクションではなく真実を綴りたいと伝えてきた。

 過去の出来事やその折々での家族の思いを聞いていくうちに、母に対してだけは、今でも共感や賛同できない面が多いけれど、ありのままを書くつもりだと言った。

 母は激情に駆られ、執筆をやめないのならば、弟妹と連絡を取ることを許さない、今後の支援は考えさせてもらうことになるとわめいた。母が、弟妹との連絡を許さないとヒステリーを起こしたところで、同居しているわけではない弟妹との交流はあった。

 しかし、本の出版に関して理解を得ることは難航した。

「ノンフィクションではなく、小説の形にしようと思っているの。全てを正確に再現することは出来ないのだから、事実の断片を要素にした私小説になると思う。教養小説のような趣のあるものになったら良いなと考えているの」

「花菜ちゃんの立場で教養について書くなんて……」

美穂は言った。

「教養の在り方を書く小説じゃないわよ。若者が成長して大人になってゆく過程を書いたビルドゥングスロマンのことよ」

「ロマン…」

「私はね、万人に好かれたいと媚びたり、リーダビリティが高いものを書こうとは思っていないの」

「りいだびりてぃ…」

私小説という言葉も知らない美穂と本について話すのは難しかった。

原稿が完成に近付いた折の移送だった。

 

八月の末に、父が知床の峯浜で車を運転中に事故に遭った。本家から最初に電話を受けた時は、父が行方不明になっているという内容だった。

 私はその日の飛行機で帰省した。実家は、父が生活していたままの状態だった。ひょっこり父が戻ってきそうだった。

しかし、何日待っても父は帰宅しなかった。

私は一度東京に戻った。すると、本家から、きょうだい全員で至急来てほしいと連絡がきた。四人で駆け付けた。私は二匹の犬を、美穂は0歳の愛音を連れて、飛行機に乗った。

 実家は、本家の人間が数十人出入りし、大変な事態になっていた。自宅での仮通夜が終わり、その晩は、父が横たわる祭壇に線香を絶やさないよう同じ部屋に布団を並べ、子供たちが交代で線香を上げ続けた。

「お骨になるまでお線香を絶やしてはいけないものなんだよ」

と、西の祖父が亡くなった時に祖母が言い、交代で線香の番をしたのは十一歳の夏だった。

「お線香の煙は上へ上へと伸びていくから、天上の道しるべになるんだよ」

 西の祖母の言葉を思い出し、太い線香を蠟燭の火に近づけた。

 九月十日に、隣町にある本家の菩提寺で十九時から父の通夜が執り行われた。翌日、午前十時からの葬儀には、母も参列した。

 喪主は、長男である弟にすると、本家の親戚が話し合って決めたことに、母の兄弟たちは立腹し、葬儀には顔を見せなかった。

 西の祖母は、棺桶の中に横たわる父が『二十世紀少年』の「ともだち」のように包帯を巻かれているのを見て、

「正芳さん、こんなになって…」

と、静かに涙を流し、本家の人達に深く頭を下げた。

 私は祖母を抱き締めた。

 母は、小劇団の舞台女優みたいに、おいおいと泣き出した。意味がわからなかった。背筋がそそけ立った。 なぜか母は、父の妹の典子、聡子、祥子の三人の叔母たちと抱き合って泣いていた。

 あなた達が謝罪すべき相手は父だろう、と思いながら、彼女が演じる様を白けた気持ちで眺めていた。

 この時期、私の鬱はピークだった。家族以外からの誰一人、それに気付かないらしかった。

私と綾子は東京に転籍した。父のいない北海道に本籍を置く必要はないと思った。母と分籍しようかという話になったのが、きっかけだった。しかし、若い独身女性が一人の戸籍を作るのも寂しいわよね、と綾子と話し、転籍にした。

私と綾子は、今後、母と生活を共にする気持ちは一切なかった。私たち四人の子供は、父の寿命を縮めたのは母だという共通認識を持っていた。

父は生前日記をつけていた。私達家族と生活していた頃にはなかった習慣だ。

 その日記は主に、昭子さんとの交際日記でもあった。父の男としての本心が赤裸々に綴られていた。子供たちへの想い、母や本家の祖父母への心情も記されていた。この日記の存在は、母には内緒にしようと四人で約束した。

 パソコンの電子メールと携帯のショートメールも使っていた。電話でもよく話し、毎日何かしらで連絡を取り合っていたことを、私は昭子さんから直接聞いて知った。

 昭子さんが送ってきた香典袋には、親戚の額よりも多く包まれていた。斎場にも大きな花輪を贈ってくれた。それを忌ま忌ましげに見つめる母の視線が怖かった。

 母は出棺の際に女優張りの号泣をして以来、嬉々として、父がいなくなった自宅の模様替えをし始めた。

 

私は2005年に入ってから体調のすぐれない日が多かった。

「花菜ちゃん、最近暗いね」

と、綾子に言われた。

夜中になっても眠りにつけない日が続き、昼までベッドから起きられなくなっていた。気力が減退しているのに落ち着かず、色々なことに苛立った。

 思考力と集中力が減退しているのを感じていた。何もしていないのに、ひどく疲れた。疲れているのに、眠れなかった。

 外に出て楽しそうな人たちを見ると、孤独感が強まり、なぜか涙が出た。寂しくなった。

家族がいて、恋人がいて、愛犬もいる。時間とお金の余裕もある。

それなのに寂しかった。なぜかわからない。

どうしようもない重苦しさに心が暗くなった。いつも不安を感じるようになっていた。

 

綾子は、三月に音楽大学を卒業し、四月から福祉大学の保育児童学科への進学が決まっていた。

 彼女は教員を目指していた。大学で教職課程を学び、母校へ教育実習に赴き、音楽の教員免許を取得したのだが、音楽科目の教員枠は少なく、就職活動は難航した。

そこで綾子は以前から関心のあった幼稚園への就職を考え始めた。しかし、どこの採用も幼稚園教諭や保育士の資格が応募の最低条件だと知った。そこで、幼稚園教諭と保育士の資格が取得でき、教員採用試験で抜群の合格実績を誇る就職率文系大学日本一という福祉大学を受験し、合格した。

当初、綾子は

「四年間音大に通わせてもらったのだから、働きながら通学しようと思う」

と、言っていたのだが、父が、

「お金のことは心配しないで学業に専念しなさい」

と、学費を納め、仕送りを続けてくれることになった。夢に向かって進んでいく綾子が眩しかった。

私は何もやる気になれなかった。何かしようと思っても頭が回らない。これはおかしい、と思った。

 知り合いの内科の医師に相談すると、

「鬱病の診断基準を満たす症状が出揃っているよ」

と、言われた。

「精神科医のいるところに通った方がいい。一度の投薬で治るわけじゃないから、カウンセリングを受けて、ゆっくり治療をした方がいい」

 精神医療を受けることには抵抗があった。南野さんを思い出した。精神科はハードルが高かったので、メンタルクリニックの診療内科を探してもらった。

 新患外来の予約は、どこも一ヶ月以上待たねばならず、知り合いの医師に紹介状を書いてもらい、港区のメンタルクリニックを受診したのは二月のことだった。

月に三度、通院するように言われ、自宅に近いクリニックに変えた。三十分タクシーに乗って移動することさえ辛かったのだ。人混みの駅が怖くて電車には乗れなかった。

 精神科医に三種の薬を処方された。その中に、2000年から日本で発売されるようになったグラクソ・スミスクラインのパキシルが入っていた。

様子伺いの電話をくれた知り合いの医師に、こんな薬が処方されたと伝えると

「抗不安薬と睡眠導入剤は効果をすぐ感じるだろうけど、パロキセチンは個人差が大きいし、急に服薬をやめると、気分や体調が悪くなることがあるから、必ず医者の指示を守るんだよ。非依存性で中止が簡単な安全な薬だと宣伝されているけど、欧米では裁判も起こされている。抗うつ薬や精神科の薬の効果は25%で、多くは偽薬効果や自然経過だというデータもあるからね。症状が改善されたら、薬を減らしていくように治療するんだよ」

と、言われた。

「うん、わかった。ありがとう」

長く話す気力がなかった。

入眠障害と途中覚醒の症状は多少軽減したが、ふらつきや残眠感、目眩、頭痛、倦怠感といった副作用も強かった。おくすりカレンダーのポケットに薬を入れていると、認知症の高齢者と変わらないじゃないかと情けなくなった。

 おくすりカレンダーは、飲み忘れや飲み違いを防ぐために、朝・昼・夕・就寝前と服用する時点ごとに分けて入れる壁掛けタイプの薬入れだ。一目でいつどれを飲めばいいかわかるようになっている。

 医師からは、完治するまで大事な決断はしないようにと忠告された。判断能力が欠如しているということらしい。

 メンタルクリニックに通い始めてからも、関谷さんとは泊りがけで裏磐梯に行った。彼は自分のバスボートで湖に出るのが楽しくて仕方のない時期だった。

 
礼讃

木嶋佳苗が拘置所で綴る自伝的小説です。 北国で生まれ育った幼少期から、単身上京して『普通ではない世界』へと足を踏み入れていく少女の成長と心の内面を赤裸々に描きます。

木嶋佳苗

さいたま地方裁判所における事件番号「平成21年(わ)第1809号等(詐欺、詐欺未遂、窃盗、殺人)」の被告人。

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