INDEX
■イントロダクション
■押されたままのポーズボタン
■新時代の「悶々とした日々」
■自責とその承認からの出発
■ワンマン・アーミーとして
■3.11があぶり出した真偽と、組織の限界
■昨日と違う今日、そして明日
■自分の一部としての福島第一
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■イントロダクション
「3.11を振り返る」烏賀陽弘道の2年
3.11の襲来によって、我が身が置かれた状況への反駁でもあったというスラップ訴訟取材を凍結。震災とそれに伴う福島第一原子力発電所事故への迷いなきアプローチを開始した烏賀陽弘道。自らの不明を承認することから出発し、ジャーナリストのあるべき姿への信念とその実践に明け暮れた2年間を語る。
◎この対談について
・この対談は、2013年3月8日にニコニコチャンネルの生放送で配信された対談です。当日の内容は、Youtubeにもアップされています。
こちら(http://youtu.be/GJ_8qnqI9gQ)からご視聴いただけますので是非ご覧下さい。
◎対談テキストについて
・対談内の人物表記は、(U)烏賀陽氏、(K)開沼氏 と表記しています。
・対談内容のテキスト化において、口語部分等内容の一部修正をしています。
◎対談音声の聞き方について
・『ボクタク』チャンネル購読後に配信されるメールの、「電子書籍で読む(本記事のみ)」のURLをクリックしてEPUBファイルをダウンロードし、EPUBリーダーにてご視聴ください。
・また、ニコニコチャンネルの『ボクタク』ブロマガ記事(この記事)からダウンロードする場合、本ページ右側上にある「電子書籍」タブをクリックすることでダウンロードできます。
・各章の最初に音声を聞くためのリンクが設置してあります。
・ご視聴いただく周りの環境にご配慮の上、お楽しみください。ご覧いただくリーダーによっては、音声の再生が行えない場合があります。
◎推奨環境について
・『ボクタク』のePubファイルは推奨環境として、下記のリーダーでの動作確認を行っております。 (※各URLよりダウンロードできます。)
*Readium【Windows】 http://goo.gl/6eN8k
*Murasaki【Mac】 http://goo.gl/i0tLh
*iBooks【iPhone・iPad】 https://ssl.apple.com/jp/apps/ibooks/
(※またはitunesの検索機能から「iBooks」で検索ください。)
◎bokutaku.comについて
・『ボクタク』ではニコニコチャンネル以外に、ご利用の方々、運営チーム、出演者等が交流を持てる場所として、bokutaku.comという公式サイトを設けています。
サイト内の交流用掲示板で、みなさんのご要望・質問・意見などを自由に交わすなど、是非ご活用ください。
・ボクタク公式サイト
http://bokutaku.com
・ボクタク交流用掲示板
http://bokutaku.com/bbs/
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『ボクタク』第3回 「3.11を振り返る」烏賀陽弘道の2年
烏賀陽(U)
開沼(K)
■押されたままのポーズボタン
K「前半は開沼の2年間みたいなところでしたけど、烏賀陽さんに伺いたいのは、震災の間際までは、当然日常の仕事をしていたと思うんですけど、その時何をやってらしたんですか」
U「ああ、僕はごく普通に、自宅のダイニングキッチンのテーブルで、ツイッターを書いてました(笑)」
K「ああ、そうなんですか」
U「だからあれですよ。3月11日の2時45分ぐらいに、ものすごく呑気なツイッターを書いていて、その直後に来た揺れの中で、自分がはいつくばるようになってる時に、コンピューターの画面を見たら、1分前に自分が打った間抜けなツイッターが出てくるのを見て、何て俺は馬鹿なんだろうっていう風に思ったのを覚えてますね」
K「なるほど。ちなみにその時どういう取材とか、取材対象とか、テーマを…」
U「当時はその……実は今もまだ、ずっとしかかったままなんですが、民事訴訟による言論の自由の妨害、っていうですね、要するにスラップ訴訟というテーマを本にするというので、2011年2月にアメリカ取材、2回目のアメリカ取材に行って、帰ってきて、もう必死になって資料の山と格闘し、原稿を書いていました。(震災は)そのさなかでしたね」
K「なるほど」
U「今でも、そこから2年間、その仕事はずっとポーズボタンを押したまま止まってるんですよ」
K「そうなんですか」
U「本当申し訳ないことしてるんですよね」
K「いやいや、でも司法の問題とか、今も間接的にいろいろ取材されていると思いますけども、(僕も)確かにスラップ取材にはものすごく興味あります。(烏賀陽さんの場合は)どういう興味だったんですか」
U「それはね、単純に言うと、僕がそういう訴訟で訴えられたんです。で、33ヶ月間法廷に縛り付けられてですね。で、裁判対策をするために弁護士を雇うお金が何百万とか(かかり)、あるいは(その間)働けないので仕事の収入がガクガクガクっと減ったとかで、かれこれ1000万ぐらい損害をこうむったんだけど、そんな損害は誰も補填してくれないんです。どうしてこういうことが起きるんだろうって、日本の法制度から自分でもう1回調べなおしてみようという、そういう本なんですね」
K「なるほど。それも聞きたいんですけど、まあ原発で(仕事の話は)飛んじゃうわけですよね」
U「そうですね。まさにそういう(司法について考える)日常が続いてきたわけですが、続いてきたところで地面が揺らぎ始めるわけですよね。その、東京の月島のですね、私のダイニングキッチンが突然、ユサユサ揺れ始めてですね、お皿がゴワッシュゴワッシュって鳴ったのを覚えてるんですよ。で、お皿がダダダダダってなだれ落ちて、かわらけ(破片)になっていくわけですね。その中で、嫁さんがね、何が起きたか分からず、呆然と立ち尽くしているのを手を引っ張って、テーブルの下に押し込んでですね、自分もテーブルの下に入って、いつ止むんだろうと思いつつ、ついに来るもんが来た、ってのを感じてたんですよね。そこですべてが変わってしまった」
K「うんうん」
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■新時代の「悶々とした日々」
U「48年生きてたわけですけども、何て言うんですかね、これ日本全部そうだと思うんですけど、プレ3.11とポスト3.11ってのは僕の中では別の時代なんですよ。まったく新しい時代に入ってしまった。多分、その時代の感覚っていうのを認識してる人と、してない人の間で、今の日本では文化の分断が生まれていると思うんです。僕の中ではそれぐらいの変化だったんですね」
K「なるほど。それでさらに次の日には(福島第一が)爆発するし…。(震災)当日から、海に遺体が何十体みたいな話とかね」
U「宮城の話ですね」
K「その後、ジャーナリストとしては、(現場に)行きたくなる瞬間っていうのが多分(あったと思うんですが)、どこから来たんでしょうか」
U「自分の身辺で、落ちた皿を片付けて、やっとテレビの所に行った瞬間かもしれませんね。割れた皿を、椅子でもってザラザラザラって片付けて、テレビの前でつけた瞬間に、あの、黒い、あの泥の塊が仙台の平野をなめていく映像が映っていて…。9.11の(映像を)見た時もビビったんですけど、3.11は自分の国ですからね。もう、これは何て言うんですかね、まあそこでは多分記者であってもなくても反応してたと思うんですよ。体が凍りついて、あそこにいる人たちはどうなったんだろうということで、頭がクラクラするのって一緒だと思うんですよね」
K「そうですね」
U「そこで考えたら、いやこれは、俺、行かなくちゃいけないっていう風に、悶々とし始めるわけです。だけども、3月11日明けて、どうなったかというと、首都圏の交通が麻痺している。もう首都圏を出ることすらできないんで、そうするとそこで別の悶々が始まるわけです。現場に行きたいのに行けない、っていう悶々ですよね。一方新聞社の人たちとか、雑誌の取材の人たちは、警察からの緊急車両(証明書)ってのを持って、そのまま東京から行っちゃうんですよ。だけど僕は一介のフリーで、まったく個人旅行と一緒なので、勝手に行って、燃料が尽きたら二次遭難するかもしれない。そういう時においそれと動けないんですね。だから、しばらく悶々としてました。しょうがないから、もう東京での交通の麻痺とかそういうものを、東京を現場としてしばらく取材するしかないな、と。でまあ、自転車でウロウロしたり写真を撮ったり、そういうことを始めたわけですね」
K「なるほどなるほど。で、それをずっと続けた、と」
U「はい。3月の下旬になってやっと動き出すんですよね。最初は津波の取材をしなくちゃいけないと。で、三沢基地…三沢空港(基地と共用)へ飛びました。ここが最初に開いた空港だったんですよね。当時は東北自動車道も新幹線も全部止まってますから、東北に入れないわけですよ。で、首都圏を出ようにも車がない。仕方がないから、最初に開いた空港で東北に飛ぶしかないな、って。新潟に飛んだ人もいるし、秋田に飛んだ人もいるんだけども、僕は三沢だったんですよね」
K「それは3月の何日ぐらい」
U「20日は過ぎてたと思うんですね。で、現地に入って、そこで車を調達しました。運の良いことにプリウスが手に入ったんですよ。プリウスは満タンにすると1000km走りますんで、ともかく500kmほど太平洋沿いに南下しようということで、まず岩手を、という風に南へ向かった行ったわけですね。そしたら、野田村っていう、走り始めて2時間ぐらいの所で、もう村が半分以上壊滅してるのを見たわけです。そこで足が止まって、1週間ぐらい野田村にいたのかな。2週間いたかもしれない。そこで津波の現場を見、話を聞き、写真に撮り、まったく破壊の荒野となった場所をてくてく一日歩くわけですよね」
K「なるほど」
U「でまあ、戻ってきたんですよ。一旦東京に引き上げたんです。すると今度は原発のことが気になり始めるわけですよね。当初からずっと3.11って、僕にとっては、3つの複合災害なんですよ。で、地震、津波、原発災害。どれ一つとっても国がひっくり返っておかしくないような、まあ国難的なクライシスだと思うんですよね。それが3つ束になってやってきた。で、地震と津波に関しての現場を見て、僕は、ああこれは大変だけれども、日本人っていうのは、災害から粘り強く復興するっていうのはやったことがあるから、大丈夫かもしれない、っていう、一種の感触があったんですよ。時間とお金と労力をかければ大丈夫かもしれないっていうことを感じたんですよね。つまり、この人たちは大丈夫だっていう一つの安心感があったんですよ。皆が皆打ちひしがれているわけじゃなくて、やっぱり前向きに取り組もうとしている(人たちがいる)っていうのが分かったんです。それはすごくいいことだと思うんですよ」
K「なるほど」
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■自責とその承認からの出発
U「だけど、放射能がばら撒かれているっていうのは、そういう頑張りだとか努力とかと関係のない話で、30年100年と汚染が続くっていう事態が、僕らの国のどこかに生じてしまったってことですよね。それは僕にとって、もっとより・・・・(?)の問題だったんですよ。で、しかも、その、人類の歴史の中で3回しか起きてないことでしょ。開沼さんも確かこう言ってたと思うんです『自分がこれを書くことはすべて世界史の一部になる』と。僕が最初思ったこともまったく同じで、自分がこれから福島の現場に行って取材することは、すべて世界ニュースなんだと。僕が書いたことや写した写真の一枚一枚が、世界の人々にとって価値のあるものになるはずだと。知らせる価値があって、それは、福島の人たちにとっても役に立てるはずだ、っていう、何かできるはずだって思ったんですよ。あれだけ沢山の人が家を追われて…難民化している状況。人間として何かせずにおれんですよね。で、もちろん津波の所もそうなんですけど、同じ国の中で、陸続きの人たちが、あんなに沢山人が死んでるのに平気でいられないですよ。居ても立ってもいられないですよね。で、行くわけですよね」
K「行きますね」
U「で、もう、行ったらまさに足抜けできなくなる。こんなことを開沼さんに言うのは釈迦に説法だと思いますけど、なぜこんな所に原発が、っと思うんです。恥ずかしいけども、僕は3.11が起きるまで福島に原発がある、2つもあると。原子炉にいたっては6つ7つ…いやもっとか、そんなにもあるってことを知らなかった。僕はその瞬間に、何か自分の中で猛烈な罪悪感(を覚えた)、それは自分の不勉強と無関心っていうものに対して(の罪悪感です)。やっぱり、自分で自分を責めるような感じがあって……考えてみたら、自分は新聞記者だったし、雑誌記者だったし、ニュースの前線に近い所にいたのに、それを知らなかったと。(一方で)自分のそういう姿に、何て言うかですね、責任転嫁するわけじゃないですけど、これってどうしようもなく今の普通の日本人だとも思ったんですよね。で、ここから始めないとどうしようもないと思ったんですよ」
K「うんうん」
U「そう、ここから始める。僕には特別のスキルがあるわけでも、あるいは、福島県で生まれ育ったという出自のあるわけでもないし、原発に詳しいとかっていう、記者としてのジョブスキルもない。で、じゃあ俺に何ができるんだ、って考えたら、俺は全然無知で無関心だった平均的な日本人の一人なんだ、っていうこと。そして放射能に怯えて、東京から逃げ出そうかどうか迷ってる、というその立ち位置から出発するしかなかったんですよね。で、そこから始めたと。だから、福島に、もう20回25回と行ったんですけども、多分それはね、自分の中でもお詫び行脚的な所もあるんじゃないかと思ったりも、時々しますよね。今までの(自分の)歴史の中で、48年の人生の中でやらなかったことを、ここで俺は一気に埋めなくちゃいけない、っていう、そういう義務感って今でも感じてますね」
K「なるほど。新聞の社会部的な目線だと、いろんな……例えばここ半年だといじめの話や自殺の話がありましたけれど、そういう事件があったら、なぜこんなわけの分からないことが起こってるんだっていうようなことで、多分それに向き合い、何らかの仮説とか自分のポジションってのを取ると思うんです。けれども、そういう分かりやすい社会事件と違って、どこから手を付ければいいのか、っていう難しさが(原発事故には)あったと思うんです。雑誌も最初は手探りで、とりあえず瓦礫映して、2週間目には希望を映して、ボランティアが入ってきてます…で、3週間目か、もうちょっと後かもしれないけど、放射能がやってくるの話になって、という文脈がありました。(烏賀陽さんは)そういうのを横目に見ながら、どこから行こうと、どこからこの物語、始めていこうと思ったんですか」