ダースレイダー×吉田雅史+さやわか「フリースタイル・人称・コミュニティーーラップの言葉はどこから来て、どこに行くのか」【四天王シリーズ #5】@DARTHREIDER @nejel_mongrel @someru
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【収録時のイベント概要】さやわか氏の緊急参戦!?イベント後半(21:00すぎ)、壇上に批評家のさやわか氏が参戦の予定です。三者でラップを語り尽くす!!▼ 吉田雅史氏からのコメントが届きました! 長い間積み上げて来たMCバトルの大会の歴史の蓄積に加え、近年の高校生ラップ選手権やフリースタイル・ダンジョンのヒットにより、韻を踏みながら相手をディスるというフリースタイル・バトルという形式は、かなり一般にまで広く知られるようになったと言えるでしょう。むしろ「ラップ」といったときに一般的に皆が思い浮かべるのは、そのようなスタイルかもしれません。このバトル形式の普及によって、楽曲として発表される「書かれるリリック」を含む日本語のラップの歌詞内容やラップのスタイルも影響を受けることになります。それでは、バトルという形式がどのように、日本語のラップの言葉を、表現を変革してきたのでしょうか。ひいては、日本語のラップ形式の歌詞が増えたことで、「日本語の歌」においてどのような表現が可能となり、広がりを持ってきているのでしょうか。一方、その元々の誕生時から、自慢話や特定の相手へのディスという成分を多分に含んでいるラップですが、勿論ラップのリリックはバトル形式のものばかりではありません。そしてフリースタイルの原義とは、文字通りーー自由なスタイルーーにバトルに捉われず、自由な発想で行われるもののはずです。実際に、バトル以外の形式を探求しようとするアーティストたちやイベントが、アメリカにも日本にも存在します。それではその際に駆使される自由な想像力は、どのような物語を紡ぐのでしょうか。それを考える際のキーワードとして「人称」という言葉を挙げることができるでしょう。一人称で自分の経験を語るのが典型的なラップのリリックであり、それがどこまでリアルなものであるかが問われるのが、ラップというジャンルのひとつの特異性と言えます。しかしそれは、必ずしも自分の経験に基づいていなければならないのでしょうか。ラップのリリックも「歌の歌詞」の一部であるという大枠で考えたときには、自由な発想で、どんな人物の視点――あるいは人間以外の視点にもーーにも立ち、一人称で、あるいは三人称でフィクショナルな物語をリアルに描くことができるはずです。そのようなラップ表現の拡張を...(全文は以下のリンク先でご覧いただけます)【イベントのページ】https://genron-cafe.jp/event/20181005/