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詳細<マル激・後半>この再審法改正で冤罪被害者は救えるのか/稲田朋美氏(衆院議員)
日本の刑事司法には、長年「開かずの扉」と呼ばれてきた制度がある。再審制度だ。 再審とは、確定判決に重大な誤りがあり、新たな証拠などによって有罪認定に合理的な疑いが生じた場合に、あらためて裁判をやり直す制度のこと。日本では再審開始までのハードルが極めて高く、手続きに関する規定も十分に整備されていないため、冤罪被害者やその支援者、弁護士らが長年にわたり法改正を求めてきたが、再審制度を所管する法務省は抜本的な改正に慎重な姿勢を取り続けてきた。結果的に開かずの扉の向こう側で、無実の人間が何十年も塀の中に閉じ込められてきた。 しかし、袴田事件や福井事件など再審によって一旦は確定した有罪判決が覆る事例が相次いだことで、再審制度を70年ぶりに見直す機運が高まり、現在、再審法(刑事訴訟法の再審条項)の改正案が今国会で審議されている。ところが、提出された法案の中身と、そこに至る審議の過程を仔細に見ていくと、この改正が本当に冤罪被害者を救うためのものなのか、大きな疑問を抱かざるを得ない。 まず、今回の法改正議論の背景にある冤罪事件のすさまじさを確認しておきたい。 袴田事件では、1966年の逮捕から2024年の再審無罪確定まで、何と58年もの歳月が費やされた。逮捕から釈放まで実際に袴田巌氏が拘禁された期間は47年7ヵ月に及ぶ。しかもその大半を、袴田氏はいつ刑が執行されるかわからない死刑囚として、恐怖の中で過ごすことを強いられた。 福井事件はさらに露骨だ。1986年に起きた女子中学生殺害事件で逮捕された男性に対し、検察は客観的な裏付けとなるテレビ番組の放映日を偽った捜査報告書を隠蔽し、事実上有罪判決を騙し取っていた。男性が逮捕から38年を経て2025年に無罪を勝ち取るまでの道のりは、筆舌に尽くしがたいものだった。 なぜ冤罪被害者の救済にこれほどの時間がかかるのか。要因は2つある。検察による不服申し立て(抗告)が認められていることと、証拠開示規定の欠如だ。裁判所が再審開始を決定しても、検察が抗告を繰り返せば手続きは際限なく長期化する。実際、袴田氏は最初に再審の決定が下ってからも、検察が抗告を繰り返したために、無罪の確定までに9年もの不要な年月を費やすことになった。しかも検察には弁護側に証拠を開示する義務がないため、被疑者や被告人の無実を証明する証拠が検察の倉庫に眠ったまま、そもそも再審の扉を開くこともできない事態が常態化してきた。 今回の法改正はこうした状況を正すことが目的、のはずだった。ところが、今回法務省が提出した法案は、被害者救済の観点からは到底満足できる内容になっていない。 法案では検察の不服申し立ては原則禁止とされているが、「十分な根拠がある場合」には例外的に認めるという大きな抜け穴を残した。もう一つの焦点である証拠開示についても、裁判所が請求理由に関連があると判断したものに限って開示させる「提出命令制度」の新設にとどまっている。さらに問題なのは、証拠の目的外使用を罰則付きで禁止する条項が盛り込まれたことだ。この規定により、冤罪の第三者検証や、メディアによる報道までもが処罰の対象となる危険性が指摘されている。冤罪被害者を救うための法改正が、冤罪の検証を妨げる道具になりかねないのだ。 なぜこのような骨抜き法案が提出されることになったのか。実は当初、国会内では超党派の「えん罪被害者のための再審法改正を早期に実現する議員連盟」が発足し、議員立法による法改正が目指されていた。議連は自民党の柴山昌彦氏が代表を務め、昨年4月時点で与野党の国会議員の過半数を上回る384名が参加するなど、議員立法による法案の提出と可決成立は十分に可能な体制が確立していた。 議連がまとめた法案は、検察による不服申し立ての全面禁止、請求人への直接的な証拠開示と証拠一覧表の開示を定め、目的外使用の禁止規定も存在しない。冤罪被害者や弁護士らが長年求めてきた「満額回答」と言っていい内容だった。 ところが、与党自民党は途中でこの議員立法の枠組みから離脱し、法務大臣から法制審議会に諮問する方針へと転換してしまった。法制審議会の事務局を担うのは法務省であり、法務省の中枢を占めるのは検察官だ。要するに、当事者である検察の「組織防衛」が露骨に優先された形となったのだ。結果的に議連案は、野党3党の共同提出という形で国会に上程されたが、自民党を含む反対多数で否決されている。 議連で幹事長代理を務め、4月6日の自民党会合で法務省に猛抗議して注目を集めた稲田朋美衆議院議員は、権威ある法制審議会ならまともな法律を作ってくれると信じていたが、実態はまったく違ったと憤りを隠さない。法務省に騙されたとの思いを禁じ得ないと稲田議員は言う。 ここで問われるべきは、より根源的な問題だ。なぜ国民から選ばれた政治家が、一行政機関に過ぎない法務省や検察を適正に統制できないのか。その根底には、政治家の側に深く根付いた、検察の捜査権に対する「恐怖感」がある。日本では公職選挙法や政治資金規正法の解釈にグレーゾーンが広く残されており、検察の裁量や匙加減ひとつで、多くの議員がいつでも捜査の対象にされ得る。検察を統制すべき立場の政治家が、検察に生殺与奪の権を握られているという転倒した権力構造が、そこには存在している。 日本の刑事司法の現状は、国際的な常識からも大きく逸脱している。欧米の先進国では、検察による意図的な証拠隠匿は、司法妨害や職権乱用として明確な刑事罰の対象となる。翻って日本では、検察が自らに不利な証拠を長期間隠し続け、無実の人の人生を破壊した事実が発覚しても、誰一人として刑事罰に問われることはない。形式的な反省の弁が述べられることはあっても、組織としての真摯な謝罪すら拒み続けているのが実情だ。 議連案の作成に携わった稲田氏は、与党の国会議員として最終的に法務省案を飲まざるを得なかったことに悔しさをにじませる。自らが作成に参加した満点の議連案に、反対票を投じることになってしまったのだ。しかし、同時に稲田氏は、今回の政府案が成立すれば、70年以上まったく手がつけられてこなかった再審制度における小さな「一歩前進」にはなるかもしれないとも語る。 今回の改正案だけで冤罪を防ぐことはできないかもしれない。しかし、不十分な法制を今後さらにアップデートしていくと同時に、強すぎる検察権力を政治と社会がいかに民主的に統制していくかという、国家の根幹に関わる課題に、これからも私たちは向き合い続けなければならない。 今国会で可決が見込まれる再審法改正案に対する評価と、真に正義が機能する司法を実現するために何が求められるのかなどについて、ゲストの稲田朋美氏とともに、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。前半はこちら→so46537749(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/07/13(月) 12:00
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会員無料 45:29
詳細<マル激・前半>この再審法改正で冤罪被害者は救えるのか/稲田朋美氏(衆院議員)
日本の刑事司法には、長年「開かずの扉」と呼ばれてきた制度がある。再審制度だ。 再審とは、確定判決に重大な誤りがあり、新たな証拠などによって有罪認定に合理的な疑いが生じた場合に、あらためて裁判をやり直す制度のこと。日本では再審開始までのハードルが極めて高く、手続きに関する規定も十分に整備されていないため、冤罪被害者やその支援者、弁護士らが長年にわたり法改正を求めてきたが、再審制度を所管する法務省は抜本的な改正に慎重な姿勢を取り続けてきた。結果的に開かずの扉の向こう側で、無実の人間が何十年も塀の中に閉じ込められてきた。 しかし、袴田事件や福井事件など再審によって一旦は確定した有罪判決が覆る事例が相次いだことで、再審制度を70年ぶりに見直す機運が高まり、現在、再審法(刑事訴訟法の再審条項)の改正案が今国会で審議されている。ところが、提出された法案の中身と、そこに至る審議の過程を仔細に見ていくと、この改正が本当に冤罪被害者を救うためのものなのか、大きな疑問を抱かざるを得ない。 まず、今回の法改正議論の背景にある冤罪事件のすさまじさを確認しておきたい。 袴田事件では、1966年の逮捕から2024年の再審無罪確定まで、何と58年もの歳月が費やされた。逮捕から釈放まで実際に袴田巌氏が拘禁された期間は47年7ヵ月に及ぶ。しかもその大半を、袴田氏はいつ刑が執行されるかわからない死刑囚として、恐怖の中で過ごすことを強いられた。 福井事件はさらに露骨だ。1986年に起きた女子中学生殺害事件で逮捕された男性に対し、検察は客観的な裏付けとなるテレビ番組の放映日を偽った捜査報告書を隠蔽し、事実上有罪判決を騙し取っていた。男性が逮捕から38年を経て2025年に無罪を勝ち取るまでの道のりは、筆舌に尽くしがたいものだった。 なぜ冤罪被害者の救済にこれほどの時間がかかるのか。要因は2つある。検察による不服申し立て(抗告)が認められていることと、証拠開示規定の欠如だ。裁判所が再審開始を決定しても、検察が抗告を繰り返せば手続きは際限なく長期化する。実際、袴田氏は最初に再審の決定が下ってからも、検察が抗告を繰り返したために、無罪の確定までに9年もの不要な年月を費やすことになった。しかも検察には弁護側に証拠を開示する義務がないため、被疑者や被告人の無実を証明する証拠が検察の倉庫に眠ったまま、そもそも再審の扉を開くこともできない事態が常態化してきた。 今回の法改正はこうした状況を正すことが目的、のはずだった。ところが、今回法務省が提出した法案は、被害者救済の観点からは到底満足できる内容になっていない。 法案では検察の不服申し立ては原則禁止とされているが、「十分な根拠がある場合」には例外的に認めるという大きな抜け穴を残した。もう一つの焦点である証拠開示についても、裁判所が請求理由に関連があると判断したものに限って開示させる「提出命令制度」の新設にとどまっている。さらに問題なのは、証拠の目的外使用を罰則付きで禁止する条項が盛り込まれたことだ。この規定により、冤罪の第三者検証や、メディアによる報道までもが処罰の対象となる危険性が指摘されている。冤罪被害者を救うための法改正が、冤罪の検証を妨げる道具になりかねないのだ。 なぜこのような骨抜き法案が提出されることになったのか。実は当初、国会内では超党派の「えん罪被害者のための再審法改正を早期に実現する議員連盟」が発足し、議員立法による法改正が目指されていた。議連は自民党の柴山昌彦氏が代表を務め、昨年4月時点で与野党の国会議員の過半数を上回る384名が参加するなど、議員立法による法案の提出と可決成立は十分に可能な体制が確立していた。 議連がまとめた法案は、検察による不服申し立ての全面禁止、請求人への直接的な証拠開示と証拠一覧表の開示を定め、目的外使用の禁止規定も存在しない。冤罪被害者や弁護士らが長年求めてきた「満額回答」と言っていい内容だった。 ところが、与党自民党は途中でこの議員立法の枠組みから離脱し、法務大臣から法制審議会に諮問する方針へと転換してしまった。法制審議会の事務局を担うのは法務省であり、法務省の中枢を占めるのは検察官だ。要するに、当事者である検察の「組織防衛」が露骨に優先された形となったのだ。結果的に議連案は、野党3党の共同提出という形で国会に上程されたが、自民党を含む反対多数で否決されている。 議連で幹事長代理を務め、4月6日の自民党会合で法務省に猛抗議して注目を集めた稲田朋美衆議院議員は、権威ある法制審議会ならまともな法律を作ってくれると信じていたが、実態はまったく違ったと憤りを隠さない。法務省に騙されたとの思いを禁じ得ないと稲田議員は言う。 ここで問われるべきは、より根源的な問題だ。なぜ国民から選ばれた政治家が、一行政機関に過ぎない法務省や検察を適正に統制できないのか。その根底には、政治家の側に深く根付いた、検察の捜査権に対する「恐怖感」がある。日本では公職選挙法や政治資金規正法の解釈にグレーゾーンが広く残されており、検察の裁量や匙加減ひとつで、多くの議員がいつでも捜査の対象にされ得る。検察を統制すべき立場の政治家が、検察に生殺与奪の権を握られているという転倒した権力構造が、そこには存在している。 日本の刑事司法の現状は、国際的な常識からも大きく逸脱している。欧米の先進国では、検察による意図的な証拠隠匿は、司法妨害や職権乱用として明確な刑事罰の対象となる。翻って日本では、検察が自らに不利な証拠を長期間隠し続け、無実の人の人生を破壊した事実が発覚しても、誰一人として刑事罰に問われることはない。形式的な反省の弁が述べられることはあっても、組織としての真摯な謝罪すら拒み続けているのが実情だ。 議連案の作成に携わった稲田氏は、与党の国会議員として最終的に法務省案を飲まざるを得なかったことに悔しさをにじませる。自らが作成に参加した満点の議連案に、反対票を投じることになってしまったのだ。しかし、同時に稲田氏は、今回の政府案が成立すれば、70年以上まったく手がつけられてこなかった再審制度における小さな「一歩前進」にはなるかもしれないとも語る。 今回の改正案だけで冤罪を防ぐことはできないかもしれない。しかし、不十分な法制を今後さらにアップデートしていくと同時に、強すぎる検察権力を政治と社会がいかに民主的に統制していくかという、国家の根幹に関わる課題に、これからも私たちは向き合い続けなければならない。 今国会で可決が見込まれる再審法改正案に対する評価と、真に正義が機能する司法を実現するために何が求められるのかなどについて、ゲストの稲田朋美氏とともに、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。後半はこちら→so46537751(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/07/13(月) 12:00
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詳細<マル激・後半>日本が金利のある時代に戻るということの意味/中空麻奈氏(かんぽ経済研究所主席研究員)
日本銀行は6月16日、政策金利にあたる無担保コール翌日物金利の誘導目標を、それまでの0.75%程度から1.0%程度へと引き上げた。政策金利が1%台に戻るのは1995年以来、実に31年ぶりのことになる。日銀は同時に、今後も経済・物価・金融情勢に応じて政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していく考えを示している。 いよいよ日本にも「金利のある世界」が戻ってきたようだ。 しかし、そうであるならば、われわれはまず、この30年近く続いた「金利のない世界」とは一体何だったのかを総括しなければならない。そして同時に、金利が復活するとは何を意味し、それが企業、家計、財政、そして日本という国の将来にどのような影響を及ぼすのかを考えておく必要がある。 金利とは、単に住宅ローンや預金の利息の問題ではない。金利はお金を借りる際のコストであると同時に、時間の値段であり、リスクの値段であり、通貨に対する信認を示す指標でもある。景気が過熱し、物価が上がりすぎれば、中央銀行は金利を上げて消費や投資を抑える。逆に景気が悪く、物価が下がるデフレ局面では、金利を下げて経済活動を刺激する。これが金融政策の基本的な考え方だ。 ところが日本は、バブル崩壊後の不良債権処理の遅れやデフレの長期化の中で、1990年代後半以降、政策金利をほとんどゼロ近辺に張り付かせる時代に入った。1999年にはゼロ金利政策が導入され、2016年にはマイナス金利付き量的・質的金融緩和に踏み込んだ。そのマイナス金利が解除されたのは2024年3月であり、そこから2年余りを経て、今回ようやく1%という水準に戻ってきたことになる。 今の30歳前後以下の世代は、物心がついてから「金利のある社会」をほとんど経験していない。企業経営者も、政治家も、われわれ生活者も、いつの間にか金利がないことを所与の条件として行動するようになっていた。国はいくら借金をしても当面は利払い負担が大きくならず、企業は低いコストで資金を調達でき、家計は預金に利息がつかないことを当然のものとして受け入れてきた。 しかし、金利がなかったことには、当然ながら副作用もあった。 本来、超低金利は、痛みを一時的に和らげている間に、次の成長に向けて産業構造を転換するための猶予期間だったはずである。ところが現実には、その猶予は十分には活かされなかった。低金利は、資金繰りに苦しむ企業を救う一方で、本来なら退出を迫られるはずの低生産性企業を延命させる効果も持った。借り換えさえできれば何とかなるという環境が続いた結果、企業の新陳代謝は進まず、労働市場の流動化も遅れ、成長産業への人材と資本の移動も十分には起きなかった。 つまり、金利の復活とは、単に銀行預金に少し利息がつくようになるという話ではない。長く日本経済を覆ってきたモルヒネが切れ始めるということでもある。 今回の利上げが、日本経済の力強い成長を背景にしたものであれば、それは通常の金融政策の正常化として歓迎できる。しかし、今回の日銀の説明を見る限り、背景にあるのはむしろ、中東情勢による原油価格上昇、円安、食料品価格の上昇、そしてインフレ期待の上振れである。日銀自身も、物価上昇が幅広い品目に波及し、基調的な物価上昇率が2%目標を上回るリスクに言及している。 つまり今回の利上げは、「景気が強すぎるから冷やす」というよりも、「物価と為替と信認の圧力に押されて、利上げせざるを得なくなった」という側面が強い。ここに、今回の局面の難しさがある。 しかも、通常であれば日本の金利が上がれば、円を買う動きが強まり、円高に向かってもおかしくない。ところが実際には、円安が止まっていない。6月末から7月初めにかけて円相場は1ドル162円台後半まで下落し、39年半ぶりの円安水準を記録した。 これは何を意味しているのか。 もちろん、日米の金利差はなお大きい。しかし、ゲストで経済アナリストの中空麻奈氏が指摘するように、より深刻なのは、円という通貨そのもの、ひいては日本の長期的な国力に対する市場の信認が揺らぎ始めていることではないか。金利が上がっても円が買われないということは、金利差だけでは説明しきれない日本売りの要素が入り始めている可能性がある。 奇しくも、日本の政策金利が最後に1%台にあった1995年は、日本の生産年齢人口がピークを迎えた年でもある。内閣府などの資料によれば、日本の15歳から64歳までの生産年齢人口は1995年をピークに減少に転じた。金利が低下していく過程と、働き手の数が減っていく過程は、ほぼ同じ時間軸で進んできたことになる。 人口が減り、働き手が減り、需要も供給力も細っていく。その中で、金利だけが復活する。これは、きわめて厳しい組み合わせである。 さらに、財政の問題もある。低金利は、日本の巨額の政府債務を支える最大の前提でもあった。財務省資料によれば、普通国債残高は2026年度末に1,145兆円に上る見込みとされている。金利が上がれば、当然、国債費、すなわち利払いと償還の負担は重くなる。巨大災害や有事に備えるためにも、財政に余力を持っておくことは国家の基本的な安全保障である。 にもかかわらず、政治の側では消費税減税や給付、あるいは大型投資の話ばかりが前面に出がちである。もちろん、成長投資そのものが悪いわけではない。高市政権は17の戦略分野に対し、2040年度までに官民合わせて累計370兆円超の投資を想定する成長戦略を打ち出しているが、問題は、その投資が本当に日本の稼ぐ力につながるのかということだ。 対象分野を広げれば広げるほど、政策は総花的になりやすい。AIも半導体も宇宙も量子もバイオも防衛も、すべて重要だというのはその通りだ。しかし、すべてが重要だという政策は、往々にして、どこにも十分な資源を集中できない政策になってしまう。 ここで問われているのは、単なる金融政策ではない。日本はこれからも右肩上がりの成長を目指すのか。それとも、人口減少を所与のものとして、より小さく、しかし持続可能な国の形を選ぶのか。強い日本を取り戻すために痛みを伴う構造改革を行うのか。それとも、石橋湛山的な小国主義の発想に立ち、限られた資源をどう分かち合うかを考えるのか。 どちらの道を選ぶにしても、金利のある世界では、ごまかしが利きにくくなる。 金利は、政治の先送りにも、企業の延命にも、家計の錯覚にも、いずれ価格をつける。借金にはコストがかかる。リスクには値段がつく。通貨への信認は無限ではない。その当たり前の現実が、約30年ぶりに日本社会の前に戻ってきたのである。 われわれは金利の復活を、日本経済を作り直す最後の警告として受け止めることができるのか。金利のある時代に戻るとは、単に金融政策が正常化することではない。それは、日本という国が、これ以上現実から目をそらすことを許されなくなるということである。金利の復活が意味すること、そして日本がこれからどのような国として生き残るべきなのかについて、かんぽ経済研究所主席研究員の中空麻奈氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。前半はこちら→so46512028(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/07/06(月) 12:00
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会員無料 57:45
詳細<マル激・前半>日本が金利のある時代に戻るということの意味/中空麻奈氏(かんぽ経済研究所主席研究員)
日本銀行は6月16日、政策金利にあたる無担保コール翌日物金利の誘導目標を、それまでの0.75%程度から1.0%程度へと引き上げた。政策金利が1%台に戻るのは1995年以来、実に31年ぶりのことになる。日銀は同時に、今後も経済・物価・金融情勢に応じて政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していく考えを示している。 いよいよ日本にも「金利のある世界」が戻ってきたようだ。 しかし、そうであるならば、われわれはまず、この30年近く続いた「金利のない世界」とは一体何だったのかを総括しなければならない。そして同時に、金利が復活するとは何を意味し、それが企業、家計、財政、そして日本という国の将来にどのような影響を及ぼすのかを考えておく必要がある。 金利とは、単に住宅ローンや預金の利息の問題ではない。金利はお金を借りる際のコストであると同時に、時間の値段であり、リスクの値段であり、通貨に対する信認を示す指標でもある。景気が過熱し、物価が上がりすぎれば、中央銀行は金利を上げて消費や投資を抑える。逆に景気が悪く、物価が下がるデフレ局面では、金利を下げて経済活動を刺激する。これが金融政策の基本的な考え方だ。 ところが日本は、バブル崩壊後の不良債権処理の遅れやデフレの長期化の中で、1990年代後半以降、政策金利をほとんどゼロ近辺に張り付かせる時代に入った。1999年にはゼロ金利政策が導入され、2016年にはマイナス金利付き量的・質的金融緩和に踏み込んだ。そのマイナス金利が解除されたのは2024年3月であり、そこから2年余りを経て、今回ようやく1%という水準に戻ってきたことになる。 今の30歳前後以下の世代は、物心がついてから「金利のある社会」をほとんど経験していない。企業経営者も、政治家も、われわれ生活者も、いつの間にか金利がないことを所与の条件として行動するようになっていた。国はいくら借金をしても当面は利払い負担が大きくならず、企業は低いコストで資金を調達でき、家計は預金に利息がつかないことを当然のものとして受け入れてきた。 しかし、金利がなかったことには、当然ながら副作用もあった。 本来、超低金利は、痛みを一時的に和らげている間に、次の成長に向けて産業構造を転換するための猶予期間だったはずである。ところが現実には、その猶予は十分には活かされなかった。低金利は、資金繰りに苦しむ企業を救う一方で、本来なら退出を迫られるはずの低生産性企業を延命させる効果も持った。借り換えさえできれば何とかなるという環境が続いた結果、企業の新陳代謝は進まず、労働市場の流動化も遅れ、成長産業への人材と資本の移動も十分には起きなかった。 つまり、金利の復活とは、単に銀行預金に少し利息がつくようになるという話ではない。長く日本経済を覆ってきたモルヒネが切れ始めるということでもある。 今回の利上げが、日本経済の力強い成長を背景にしたものであれば、それは通常の金融政策の正常化として歓迎できる。しかし、今回の日銀の説明を見る限り、背景にあるのはむしろ、中東情勢による原油価格上昇、円安、食料品価格の上昇、そしてインフレ期待の上振れである。日銀自身も、物価上昇が幅広い品目に波及し、基調的な物価上昇率が2%目標を上回るリスクに言及している。 つまり今回の利上げは、「景気が強すぎるから冷やす」というよりも、「物価と為替と信認の圧力に押されて、利上げせざるを得なくなった」という側面が強い。ここに、今回の局面の難しさがある。 しかも、通常であれば日本の金利が上がれば、円を買う動きが強まり、円高に向かってもおかしくない。ところが実際には、円安が止まっていない。6月末から7月初めにかけて円相場は1ドル162円台後半まで下落し、39年半ぶりの円安水準を記録した。 これは何を意味しているのか。 もちろん、日米の金利差はなお大きい。しかし、ゲストで経済アナリストの中空麻奈氏が指摘するように、より深刻なのは、円という通貨そのもの、ひいては日本の長期的な国力に対する市場の信認が揺らぎ始めていることではないか。金利が上がっても円が買われないということは、金利差だけでは説明しきれない日本売りの要素が入り始めている可能性がある。 奇しくも、日本の政策金利が最後に1%台にあった1995年は、日本の生産年齢人口がピークを迎えた年でもある。内閣府などの資料によれば、日本の15歳から64歳までの生産年齢人口は1995年をピークに減少に転じた。金利が低下していく過程と、働き手の数が減っていく過程は、ほぼ同じ時間軸で進んできたことになる。 人口が減り、働き手が減り、需要も供給力も細っていく。その中で、金利だけが復活する。これは、きわめて厳しい組み合わせである。 さらに、財政の問題もある。低金利は、日本の巨額の政府債務を支える最大の前提でもあった。財務省資料によれば、普通国債残高は2026年度末に1,145兆円に上る見込みとされている。金利が上がれば、当然、国債費、すなわち利払いと償還の負担は重くなる。巨大災害や有事に備えるためにも、財政に余力を持っておくことは国家の基本的な安全保障である。 にもかかわらず、政治の側では消費税減税や給付、あるいは大型投資の話ばかりが前面に出がちである。もちろん、成長投資そのものが悪いわけではない。高市政権は17の戦略分野に対し、2040年度までに官民合わせて累計370兆円超の投資を想定する成長戦略を打ち出しているが、問題は、その投資が本当に日本の稼ぐ力につながるのかということだ。 対象分野を広げれば広げるほど、政策は総花的になりやすい。AIも半導体も宇宙も量子もバイオも防衛も、すべて重要だというのはその通りだ。しかし、すべてが重要だという政策は、往々にして、どこにも十分な資源を集中できない政策になってしまう。 ここで問われているのは、単なる金融政策ではない。日本はこれからも右肩上がりの成長を目指すのか。それとも、人口減少を所与のものとして、より小さく、しかし持続可能な国の形を選ぶのか。強い日本を取り戻すために痛みを伴う構造改革を行うのか。それとも、石橋湛山的な小国主義の発想に立ち、限られた資源をどう分かち合うかを考えるのか。 どちらの道を選ぶにしても、金利のある世界では、ごまかしが利きにくくなる。 金利は、政治の先送りにも、企業の延命にも、家計の錯覚にも、いずれ価格をつける。借金にはコストがかかる。リスクには値段がつく。通貨への信認は無限ではない。その当たり前の現実が、約30年ぶりに日本社会の前に戻ってきたのである。 われわれは金利の復活を、日本経済を作り直す最後の警告として受け止めることができるのか。金利のある時代に戻るとは、単に金融政策が正常化することではない。それは、日本という国が、これ以上現実から目をそらすことを許されなくなるということである。金利の復活が意味すること、そして日本がこれからどのような国として生き残るべきなのかについて、かんぽ経済研究所主席研究員の中空麻奈氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。後半はこちら→so46512094(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/07/06(月) 12:00
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会員無料 49:35
詳細<マル激・後半>意味不明な戦争の帰趨のカギを握るのはやっぱりイスラエル/鶴見太郎氏(東京大学教養学部准教授)
当初、3日で決着が付くはずだったアメリカとイスラエルによるイラン攻撃は、当初の目的だったイランの体制転覆も実現しないまま、イランによるホルムズ海峡の封鎖によって世界経済を巻き込んだ大迷惑な戦争に発展した挙げ句、どうやらイランの全面勝利で終わることになりそうだ。 もともと攻撃の意図や目的がはっきりしないまま始まった戦争だったが、石油の世界への出入り口となるホルムズ海峡をめぐる情勢に、世界中の株式市場は乱高下を繰り返した。そして開戦から約4カ月が経過した6月17日、アメリカとイランは戦闘終結に向けた14項目の覚書(MOU)に署名した。今回、停戦合意の覚書がアメリカとイランの大統領によって電子署名されたことで、とりあえず戦闘状態が終わり、一時的にはホルムズ海峡が開放されることが期待されている。 しかし、停戦の覚書が発効した今も、予断を許さない状況が続いている。なぜならば、この戦争の真の主役であるイスラエルが、停戦の覚書に署名していないからだ。それどころか、イスラエル国内では主戦論が圧倒的多数を占め、イスラエルの意向を無視したまま中途半端な停戦に合意したアメリカやトランプ大統領に対しては、容赦のない批判や誹謗中傷がイスラエル国内のメディアから浴びせられている。もともと自身も主戦論者で強硬派のネタニヤフ首相率いる現政権が、このまま黙って引き下がるとはとても思えないのが実情だ。 現にイスラエルはレバノン南部への駐留を継続する意思を明確にしている。ここでイランが支援する民兵組織のヒズボラとの戦闘が再び激化すれば、イランはアメリカとの停戦違反を理由に再びホルムズ海峡の閉鎖に踏み切る可能性がある。そうなると話はまったく元の木阿弥だ。 そもそもアメリカがイランとの間で署名した14項目の覚書も、その内容はひどいものだ。アメリカはイスラエルによって必ずしも望んでいなかったイランとの戦争に引きずり込まれ、何とかそこから抜け出そうと今回の覚書を捻り出したわけだが、外交の専門家に言わせれば、これは戦争終結の文書として史上最悪の部類に入るもので、アメリカの完全なスコンク負けだという。 この覚書でアメリカが得たものは、60日間の核交渉期限とその間の停戦、そして60日間はホルムズ海峡を無料で船を通すという約束だけだ。これに対してイランは、石油輸出の再開や凍結資産の解除、そして3000億ドルの復興資金まで獲得している。満額回答に近い。アメリカのトランプ政権としてはホルムズ海峡の封鎖によってガソリン価格が未曾有の1ガロン4ドル超にまで跳ね上がったまま11月の中間選挙に突入すれば、共和党の敗北は必至な情勢だ。そうなるとトランプ政権は残る2年の任期を、ほとんどやりたいことが何もできないままレイムダック化してしまう可能性が大きい。トランプとしてはガソリン価格を下げて物価を落ち着かせるためには、どんな譲歩をしてでもホルムズ海峡を開けてもらう必要があったのだ。 しかし、全面的にイランに有利なこの覚書を、イスラエルがのめるはずがない。これがそのまま実現してしまえば、イランの力が戦争前よりも強大化してしまい、イスラエルにとっては単に脅威が増すことになる。6月のヘブライ大学などの調査では、今回の覚書の内容について、92%が「イランの利益のほうが大きい」、83%が「イスラエルの安全保障が低下した」と答えるなど、イスラエルの市民はまったくこれに納得していない。実はイスラエルも10月に総選挙を控え、このままでは連立与党は過半数割れに追い込まれネタニヤフ氏は首相の座を追われてしまう可能性が高い。もともと収賄の嫌疑がかかるネタニヤフ氏としては、首相の座を追われれば逮捕される可能性すらある以上、この選挙には負けられない。そんな国内的な事情からも、ネタニヤフ政権としても何があっても弱腰を見せられないのだ。 今回のイラン攻撃は、世界経済を巻き込んだ割には、誰にとっても得るものがない不毛な戦争だった。唯一得るものがあった国があるとすれば、それはイランだ。今回の合意の結果、イランはより強大化し、ホルムズ海峡の封鎖の旨味も知ってしまった。そこに残るのは、戦争前よりも不安定な中東情勢だ。 外交の素人が交渉に当たってきたトランプ政権がイスラエルによって無謀な戦争に引きずり込まれ、世界経済を大混乱に陥れた挙げ句、イラン側に全面的に譲歩することによってしかそこから抜け出すことができなくなってしまった。しかも、もはやイスラエルはアメリカの言うことを聞かない。と言うよりも、イスラエル国内の政治情勢がそれを許してくれない。 この閉塞をどう打ち破ることができるのか。アメリカが調整役としての機能を完全に喪失した今、中東で手を汚していない日本や東アジアの国々にこそ、その役割を果たす余地があると、ユダヤの歴史が専門の鶴見太郎・東京大学教養学部准教授は語る。そして、エネルギー源を中東からの石油に9割以上依存している日本にとっては、中東情勢が安定することは、国家安全保障上の必須条件でもある。 日本は長期的には中東産石油への依存度を下げ、化石燃料への依存度そのものを下げる努力を急ピッチで行う必要があるが、それが実現するまでの間も、中東の安定化のために自分たちにできることは何があるかを真剣に考えるべきではないか。この3月にイスラエルでの研究生活から帰国した東京大学の鶴見氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。前半はこちら→so46484541(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/29(月) 12:00
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会員無料 55:45
詳細<マル激・前半>意味不明な戦争の帰趨のカギを握るのはやっぱりイスラエル/鶴見太郎氏(東京大学教養学部准教授)
当初、3日で決着が付くはずだったアメリカとイスラエルによるイラン攻撃は、当初の目的だったイランの体制転覆も実現しないまま、イランによるホルムズ海峡の封鎖によって世界経済を巻き込んだ大迷惑な戦争に発展した挙げ句、どうやらイランの全面勝利で終わることになりそうだ。 もともと攻撃の意図や目的がはっきりしないまま始まった戦争だったが、石油の世界への出入り口となるホルムズ海峡をめぐる情勢に、世界中の株式市場は乱高下を繰り返した。そして開戦から約4カ月が経過した6月17日、アメリカとイランは戦闘終結に向けた14項目の覚書(MOU)に署名した。今回、停戦合意の覚書がアメリカとイランの大統領によって電子署名されたことで、とりあえず戦闘状態が終わり、一時的にはホルムズ海峡が開放されることが期待されている。 しかし、停戦の覚書が発効した今も、予断を許さない状況が続いている。なぜならば、この戦争の真の主役であるイスラエルが、停戦の覚書に署名していないからだ。それどころか、イスラエル国内では主戦論が圧倒的多数を占め、イスラエルの意向を無視したまま中途半端な停戦に合意したアメリカやトランプ大統領に対しては、容赦のない批判や誹謗中傷がイスラエル国内のメディアから浴びせられている。もともと自身も主戦論者で強硬派のネタニヤフ首相率いる現政権が、このまま黙って引き下がるとはとても思えないのが実情だ。 現にイスラエルはレバノン南部への駐留を継続する意思を明確にしている。ここでイランが支援する民兵組織のヒズボラとの戦闘が再び激化すれば、イランはアメリカとの停戦違反を理由に再びホルムズ海峡の閉鎖に踏み切る可能性がある。そうなると話はまったく元の木阿弥だ。 そもそもアメリカがイランとの間で署名した14項目の覚書も、その内容はひどいものだ。アメリカはイスラエルによって必ずしも望んでいなかったイランとの戦争に引きずり込まれ、何とかそこから抜け出そうと今回の覚書を捻り出したわけだが、外交の専門家に言わせれば、これは戦争終結の文書として史上最悪の部類に入るもので、アメリカの完全なスコンク負けだという。 この覚書でアメリカが得たものは、60日間の核交渉期限とその間の停戦、そして60日間はホルムズ海峡を無料で船を通すという約束だけだ。これに対してイランは、石油輸出の再開や凍結資産の解除、そして3000億ドルの復興資金まで獲得している。満額回答に近い。アメリカのトランプ政権としてはホルムズ海峡の封鎖によってガソリン価格が未曾有の1ガロン4ドル超にまで跳ね上がったまま11月の中間選挙に突入すれば、共和党の敗北は必至な情勢だ。そうなるとトランプ政権は残る2年の任期を、ほとんどやりたいことが何もできないままレイムダック化してしまう可能性が大きい。トランプとしてはガソリン価格を下げて物価を落ち着かせるためには、どんな譲歩をしてでもホルムズ海峡を開けてもらう必要があったのだ。 しかし、全面的にイランに有利なこの覚書を、イスラエルがのめるはずがない。これがそのまま実現してしまえば、イランの力が戦争前よりも強大化してしまい、イスラエルにとっては単に脅威が増すことになる。6月のヘブライ大学などの調査では、今回の覚書の内容について、92%が「イランの利益のほうが大きい」、83%が「イスラエルの安全保障が低下した」と答えるなど、イスラエルの市民はまったくこれに納得していない。実はイスラエルも10月に総選挙を控え、このままでは連立与党は過半数割れに追い込まれネタニヤフ氏は首相の座を追われてしまう可能性が高い。もともと収賄の嫌疑がかかるネタニヤフ氏としては、首相の座を追われれば逮捕される可能性すらある以上、この選挙には負けられない。そんな国内的な事情からも、ネタニヤフ政権としても何があっても弱腰を見せられないのだ。 今回のイラン攻撃は、世界経済を巻き込んだ割には、誰にとっても得るものがない不毛な戦争だった。唯一得るものがあった国があるとすれば、それはイランだ。今回の合意の結果、イランはより強大化し、ホルムズ海峡の封鎖の旨味も知ってしまった。そこに残るのは、戦争前よりも不安定な中東情勢だ。 外交の素人が交渉に当たってきたトランプ政権がイスラエルによって無謀な戦争に引きずり込まれ、世界経済を大混乱に陥れた挙げ句、イラン側に全面的に譲歩することによってしかそこから抜け出すことができなくなってしまった。しかも、もはやイスラエルはアメリカの言うことを聞かない。と言うよりも、イスラエル国内の政治情勢がそれを許してくれない。 この閉塞をどう打ち破ることができるのか。アメリカが調整役としての機能を完全に喪失した今、中東で手を汚していない日本や東アジアの国々にこそ、その役割を果たす余地があると、ユダヤの歴史が専門の鶴見太郎・東京大学教養学部准教授は語る。そして、エネルギー源を中東からの石油に9割以上依存している日本にとっては、中東情勢が安定することは、国家安全保障上の必須条件でもある。 日本は長期的には中東産石油への依存度を下げ、化石燃料への依存度そのものを下げる努力を急ピッチで行う必要があるが、それが実現するまでの間も、中東の安定化のために自分たちにできることは何があるかを真剣に考えるべきではないか。この3月にイスラエルでの研究生活から帰国した東京大学の鶴見氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。後半はこちら→so46484993(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/29(月) 12:00
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会員無料 93:25
詳細<セーブアース>危険なゴーストギアから海を護るために/笘野哲史氏(WWFジャパン自然保護室海洋水産グループオフィサー)
「ゴーストギア」をご存じだろうか? 海洋プラスチックごみ問題というと、多くの人がまず思い浮かべるのは、ペットボトルやレジ袋、食品包装など、私たちの日常生活から出るごみだろう。しかし、海に流出するプラスチックごみの中で、実は大きな割合を占めているものの一つが、漁業で使われる網やロープ、浮きなどの漁具だ。 漁業を支え、私たちの食卓に魚介類を届けるために欠かせない漁具。その漁具がいったん海に流出し、放置・漂流するようになると、今度は海の生き物を傷つけ、生態系を脅かす存在に変わってしまう。こうした持ち主を失った漁具は、世界的に「ゴーストギア」と呼ばれている。 ゴーストギアが特に危険なのは、それがもともと「魚を捕るため」に作られた道具だからだ。海中に漂う網やロープは、漁業者の手を離れた後も、魚やカニ、ウミガメ、海鳥などを捕獲し続ける。これが「ゴーストフィッシング」、すなわち幽霊漁業と呼ばれる現象だ。誰も漁獲しないまま、生き物だけが捕まり、傷つき、命を落としていく。 被害はそれだけにとどまらない。海底に沈んだ網はサンゴ礁や藻場に絡みつき、海の生き物たちのすみかを破壊する。漂流するロープや網が船のスクリューに絡まれば、海難事故の原因にもなる。さらに、現在使われている漁具の多くはプラスチック製であるため、海中で長い年月をかけて劣化し、マイクロプラスチックを放出し続ける。ゴーストギアは単なる「海のごみ」ではなく、生態系、水産資源、観光業、海上交通、さらには人間社会そのものに影響を及ぼす複合的な環境問題なのである。 WWFジャパンは2023年から、全国各地で「ゴーストギア調査隊」を展開し、海中にどのような漁具がどれほど残されているのか、その実態把握を進めている。その調査の中で、長崎県五島市では、長さ約300メートルにも及ぶ巨大な網が発見された。網は海底のサンゴに絡まり、水面近くまで立ち上がるような状態で漂流していたという。その回収には地元の漁業者やダイバーが協力し、約1週間の作業と100万円近い費用を要した。 この事例は、ゴーストギア問題の難しさを端的に示している。海の中に危険な漁具があることが分かっても、それを見つけ、引き上げ、陸上で処分するには、多くの人手と技術、そして費用が必要になる。しかも現在の制度では、海中の漁具を回収した人が、その処分費用まで負担しなければならないケースも少なくない。 背景には、日本の漁業が抱える構造的な課題もある。漁業者の高齢化、収益の悪化、産業廃棄物処理費用の上昇などにより、漁具の管理や回収に十分なコストをかけることが難しくなっている地域も多い。ゴーストギア問題は、単に漁業者の責任を問えば済む問題ではない。水産資源を利用する社会全体で、どのような仕組みを作るのかが問われている。 WWFジャパンの笘野哲史氏は、まず重要なのは、失われた漁具を把握する仕組みを作ることだと指摘する。例えば台湾では、漁業者が漁具を紛失した場合、3日以内に当局へ届け出る制度が整備されている。これにより、どこで、どのような漁具が、どのような状況で失われたのかという情報が共有され、回収活動や被害防止につなげることができる。 一方、日本には、漁具の紛失を全国的に報告する制度がまだ整っていない。そのため、どれほどの漁具が海に流出しているのか、どの海域でどのような種類のゴーストギアが発生しやすいのかについても、推計に頼らざるを得ない。台風や荒天によるやむを得ない流出であっても、情報が速やかに共有されれば、回収の可能性は高まり、他の漁業者への被害も減らすことができる。 もちろん、対策は単純ではない。世界では、生分解性素材の漁具を導入したり、漁具の構造を規制したりする取り組みも議論されているが、日本の漁業には、地域ごとの自然環境や対象魚種に応じて発展してきた多様な漁法がある。網の形状、強度、目合い、設置方法は、魚種や海流、海底地形に合わせて工夫されており、その多くは漁師たちが長年の経験と知恵によって築き上げてきたものだ。 そのため、一律に「この漁具は禁止」「この構造は使えない」と規制することは、漁業そのものに大きな影響を与えかねない。海の環境を守るための対策が、地域の漁業を過度に圧迫してしまえば、持続可能な解決にはならない。必要なのは、漁具の価値と漁業者の知恵を尊重しながら、地域ごとの実態に即した対策を積み重ねていくことだ。 今回のセーブアースでは、WWFジャパンでゴーストギア問題に取り組む笘野哲史氏をゲストに迎え、環境ジャーナリストの井田徹治とキャスターの新井麻希が、海を脅かすゴーストギアの実態と、その解決に向けた道筋を議論する。(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/28(日) 12:00
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詳細<ディスクロージャー&ディスカバリー>佐賀県警DNA型鑑定不正事件から考える、誰が警察を監視するのか
DNA型鑑定は、現代の刑事司法において最も強力な証拠の一つとされている。鑑定結果として「何兆分の一」「地球上にこの人物以外は考えにくい」といった数字が示されると、裁判所も、検察も、弁護人も、そしてメディアも、その科学的権威の前に沈黙してしまう。しかし、どれほど精度の高い鑑定技術であっても、そもそもの資料採取や保管、鑑定手続き、記録管理がずさんであれば、その結果は科学的証拠どころか、冤罪を生み出す危険な装置にもなり得る。 今回のディスクロージャー&ディスカバリー第45回では、佐賀県警科学捜査研究所、いわゆる科捜研で発覚したDNA型鑑定不正事件を取り上げる。警察庁の特別監察によって、不正または不適切な鑑定は最終的に239件に上ると認定された。問題の技術職員は、実際には鑑定していないにもかかわらず鑑定したように装ったり、別の鑑定結果の波形を添付したり、資料を紛失したにもかかわらず別資料でつじつまを合わせたりしていたとされる。これは単なる事務ミスや手続き上の不備ではない。刑事事件の証拠そのものにかかわる重大な改ざん問題だ。 しかも深刻なのは、不正そのものだけではない。この問題は不正が始まってから8年間も発覚しなかった。さらに、発覚後の対応にも問題が多い。不正が判明してからも、問題の職員の作業台に残されていた資料の回収が完了するまでに時間がかかっていたこと、公安委員会への報告が行われながら、その内容が会議概要には記載されていなかったこと、報道機関への説明も記者会見ではなく「レクチャー方式」で、十分な資料配布もないまま行われたことなど、警察組織の説明責任と情報公開のあり方が問われる事実が次々に浮かび上がる。 問題は警察・検察という巨大な権限を「誰が」民主的に統制しているのかだ。法的には都道府県警は各県に設けられた公安委員会の監督下にある。しかし、佐賀県の公安委員会は元高校の校長とタクシー会社社長と弁護士の、いずれも非常勤の3人の委員がいるだけだ。この体制で巨大な警察組織を監督できるはずがない。しかも、警察が保有する情報の多くは、今後の犯罪捜査に支障を及ぼす恐れがあることなどを理由に情報公開の対象外とされている。これだけ野放しになっていれば、不正が起きない方が不思議だ。 番組では、情報公開請求によって一部開示された公安委員会と県警側のやり取りをもとに、事件の経緯、不正の具体的内容、警察庁と佐賀県警の認定の違い、報道発表のあり方、そして公安委員会の役割を検証したが、これだけ深刻な不正が明らかになったにもかかわらず、情報公開も説明責任もいたって不十分なままだ。結果的に、原因に向き合わない再発防止策が繰り返されることになる。これではまた不正が繰り返されることが避けられないだろう。 DNA鑑定をめぐる冤罪の危険性と証拠開示義務の不在、記者クラブ制度の特権性と法務大臣の指揮監督権にまで及ぶ刑事司法の根本問題などについて、情報公開クリアリングハウス理事長の三木由希子とジャーナリストの神保哲生が議論した。(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/26(金) 12:00
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詳細<マル激・前半>同志社国際高校への教育基本法14条違反認定が投げかける教育の政治的中立とは何かという問い/⽊村草太氏(東京都⽴⼤学法学部教授)
これを機に教育がもっぱら政治的に当たり障りのないテーマしか扱わない方向へ向かってしまうとしたら、それは由々しき事態ではないか。 沖縄県名護市辺野古沖で、研修旅行中の同志社国際高校の生徒らを乗せた小型船が転覆し、生徒と船長が亡くなるという痛ましい事故が起きた。この事故を受け、文部科学省は同校の事前計画、当日の対応、安全管理、教育活動のあり方などに重大な問題があったとして、学校側の責任を厳しく指摘した上で、教育基本法14条違反があったとして同校を指導したことを明らかにした。教育基本法違反の認定などを受け、京都府では私学助成金の減額の検討に入ったという。 今回、学校側に安全管理上、重大な瑕疵があったことに疑いの余地はない。しかし、文科省があわせて、同校が行っていた辺野古移設工事に関する学習について、教育基本法第14条第2項に反するとの見解を示したことについては、大いに疑問が残る。安全管理上の責任と、教育内容への行政介入は明確に分けて考えるべきだ。 教育基本法14条は、第1項で「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」とする一方で、その第2項では、法律に定める学校が「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動」をしてはならないと定めている。つまり同条は、学校における政治教育そのものを禁じているわけではなく、むしろ政治的教養の重要性を認めたうえで、特定政党への支持・反対を目的とする活動を制限しているだけだ。 ここで問われるのは、そもそも辺野古移設問題という政治的争点を扱うこと自体が14条違反に当たるのか、それとも、特定の政治的立場を持つ人や団体と行動を共にした場合に限って問題となるのかという点だ。ただ、いずれにしても文科省は今回、「特定の見方・考え方に偏った取扱い」があったと判断しているが、それが直ちに法律が禁じている「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育」に当たるのかについては、慎重な検討が必要だ。この扱いを誤ると、今後の教育現場に対して「政治的にデリケートなテーマは扱わない方が無難だ」というメッセージとして受け止められる可能性がある。それを避けるためにも、まずどこが問題でそのような判定が行われたのかについては、基準が明確にされる必要がある。 また、今回の14条違反の判定にはもう一つ重大な問題がある。それは文科省という政府の一機関が政治的中立性に対する事実認定を自ら行っていることだ。文科省は内閣や大臣の指揮監督下にあり、独立した第三者機関ではない。政治的な中立性の判定には、独立した専門家や審査員が介在する仕組みが必要だ。プレイヤーである政治家やその指揮下にある行政機関が審判を兼ねる構造での事実認定は、結論がどうであれ、その正当性自体に重大な疑念が生じると、東京都立大学法学部教授で憲法学者の木村草太氏は指摘する。 辺野古への米軍基地移転問題に限らず、原発、憲法、安全保障、ジェンダー、入管、気候変動、貧困など、現代社会の重要な課題の多くは政治的争点でもある。学校がそうしたテーマを扱うことを避けるようになれば、主権者教育は形式的な制度説明にとどまり、それでは現実社会を自分で判断する力は育たたない。しかも、その判断を政権の指揮下にある文科省が単独で下せるということになれば、学校の教育現場は厭が応にもその時々の政権の政治信条に忖度しなければならなくなる。実際、今回の文科省判断については、全国の主権者教育や平和学習に萎縮効果を及ぼしかねないとの懸念が指摘されている。 これは総務省が放送法4条の政治的中立性を単独で判定することの是非を巡る議論と同根の問題でもある。 重要なのは、政治的争点を学校から排除することではない。むしろ、対立する意見や歴史的背景、権力関係を含めて現実を複眼的に学ぶことこそ、教育基本法がいう「良識ある公民として必要な政治的教養」に適うはずだ。 近年、デリケートな問題に対する政治的なスタンスを表明した瞬間に、「偏っている」と指弾される風潮が国全体を覆っているように見える。しかし何かを真剣に考えることは、必然的に何らかのスタンス、すなわち偏りを持つことだ。それを否定した先にあるのは、バランスの取れた考えではなく、何も考えていない状態や無関心にすぎない。 教育基本法の違反認定をもとに、プレイヤーが審判を兼ねることを許してしまうことの問題と、それが社会にどのような影響を及ぼすかなどについて、憲法学者の木村氏とジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。 また番組では、日本の刑事司法における人質司法が、16歳の少女の命を奪った悲劇的な事件と、皇室典範の改正問題も取り上げた。後半はこちら→so46457849(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/22(月) 12:00
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会員無料 45:04
詳細<マル激・後半>同志社国際高校への教育基本法14条違反認定が投げかける教育の政治的中立とは何かという問い/⽊村草太氏(東京都⽴⼤学法学部教授)
これを機に教育がもっぱら政治的に当たり障りのないテーマしか扱わない方向へ向かってしまうとしたら、それは由々しき事態ではないか。 沖縄県名護市辺野古沖で、研修旅行中の同志社国際高校の生徒らを乗せた小型船が転覆し、生徒と船長が亡くなるという痛ましい事故が起きた。この事故を受け、文部科学省は同校の事前計画、当日の対応、安全管理、教育活動のあり方などに重大な問題があったとして、学校側の責任を厳しく指摘した上で、教育基本法14条違反があったとして同校を指導したことを明らかにした。教育基本法違反の認定などを受け、京都府では私学助成金の減額の検討に入ったという。 今回、学校側に安全管理上、重大な瑕疵があったことに疑いの余地はない。しかし、文科省があわせて、同校が行っていた辺野古移設工事に関する学習について、教育基本法第14条第2項に反するとの見解を示したことについては、大いに疑問が残る。安全管理上の責任と、教育内容への行政介入は明確に分けて考えるべきだ。 教育基本法14条は、第1項で「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」とする一方で、その第2項では、法律に定める学校が「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動」をしてはならないと定めている。つまり同条は、学校における政治教育そのものを禁じているわけではなく、むしろ政治的教養の重要性を認めたうえで、特定政党への支持・反対を目的とする活動を制限しているだけだ。 ここで問われるのは、そもそも辺野古移設問題という政治的争点を扱うこと自体が14条違反に当たるのか、それとも、特定の政治的立場を持つ人や団体と行動を共にした場合に限って問題となるのかという点だ。ただ、いずれにしても文科省は今回、「特定の見方・考え方に偏った取扱い」があったと判断しているが、それが直ちに法律が禁じている「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育」に当たるのかについては、慎重な検討が必要だ。この扱いを誤ると、今後の教育現場に対して「政治的にデリケートなテーマは扱わない方が無難だ」というメッセージとして受け止められる可能性がある。それを避けるためにも、まずどこが問題でそのような判定が行われたのかについては、基準が明確にされる必要がある。 また、今回の14条違反の判定にはもう一つ重大な問題がある。それは文科省という政府の一機関が政治的中立性に対する事実認定を自ら行っていることだ。文科省は内閣や大臣の指揮監督下にあり、独立した第三者機関ではない。政治的な中立性の判定には、独立した専門家や審査員が介在する仕組みが必要だ。プレイヤーである政治家やその指揮下にある行政機関が審判を兼ねる構造での事実認定は、結論がどうであれ、その正当性自体に重大な疑念が生じると、東京都立大学法学部教授で憲法学者の木村草太氏は指摘する。 辺野古への米軍基地移転問題に限らず、原発、憲法、安全保障、ジェンダー、入管、気候変動、貧困など、現代社会の重要な課題の多くは政治的争点でもある。学校がそうしたテーマを扱うことを避けるようになれば、主権者教育は形式的な制度説明にとどまり、それでは現実社会を自分で判断する力は育たたない。しかも、その判断を政権の指揮下にある文科省が単独で下せるということになれば、学校の教育現場は厭が応にもその時々の政権の政治信条に忖度しなければならなくなる。実際、今回の文科省判断については、全国の主権者教育や平和学習に萎縮効果を及ぼしかねないとの懸念が指摘されている。 これは総務省が放送法4条の政治的中立性を単独で判定することの是非を巡る議論と同根の問題でもある。 重要なのは、政治的争点を学校から排除することではない。むしろ、対立する意見や歴史的背景、権力関係を含めて現実を複眼的に学ぶことこそ、教育基本法がいう「良識ある公民として必要な政治的教養」に適うはずだ。 近年、デリケートな問題に対する政治的なスタンスを表明した瞬間に、「偏っている」と指弾される風潮が国全体を覆っているように見える。しかし何かを真剣に考えることは、必然的に何らかのスタンス、すなわち偏りを持つことだ。それを否定した先にあるのは、バランスの取れた考えではなく、何も考えていない状態や無関心にすぎない。 教育基本法の違反認定をもとに、プレイヤーが審判を兼ねることを許してしまうことの問題と、それが社会にどのような影響を及ぼすかなどについて、憲法学者の木村氏とジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。 また番組では、日本の刑事司法における人質司法が、16歳の少女の命を奪った悲劇的な事件と、皇室典範の改正問題も取り上げた。前半はこちら→so46458939(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/22(月) 12:00
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会員無料 47:20
詳細<マル激・前半>身寄りの社会化だけで広がる独居高齢者問題を解決できるのか/沢村香苗氏(日本総合研究所創発戦略センターシニアスペシャリスト)
身寄りのない高齢者の問題が、もはや一部の人たちだけの特殊な課題ではなくなっている。 内閣府の推計によれば、誰にも看取られることなく亡くなり、死後8日以上経ってから発見された「孤立死」は年間約2万1000人に上る。また、引き取り手がないために自治体が火葬などを行うケースは、2023年度だけで全国推計約4万人に達している。 これまで「孤独死」や「無縁社会」といった言葉で語られてきた問題だが、いま起きているのは単なる社会的孤立の拡大ではない。未婚化や少子化、家族形態の変化を背景に、「頼れる家族がいないまま老後を迎えること」が、ごく普通のことになりつつあるのだ。 『老後ひとり難民』の著者で、「おひとりさま」高齢者や身元保証サービスを長年取材・研究してきた日本総研シニアスペシャリストの沢村香苗氏は、身寄り問題が多くの人にとって切実で身近な課題になっていると指摘する。 こうした状況を受け、政府もようやく制度整備に乗り出した。今国会では社会福祉法等改正案が審議されており、身寄りのない高齢者らに対して、日常生活支援や入院・施設入所時の手続き支援、さらには死後事務までを担う事業を第二種社会福祉事業として位置づけた上で、相談体制の整備を進めようとしている。 一方で、判断能力が低下した人を支援する成年後見制度についても見直しが進んでいる。沢村氏によれば、障害者権利条約との関係で批判を受けてきた成年後見制度の改革論議と、身寄り問題への対応が一体化し、新たな支援制度を創設しようとする流れが生まれているという。 しかし、制度を整えれば問題は解決するのだろうか。 高齢になれば、誰しも心身の衰えに直面する可能性がある。夫婦世帯であっても、一方が認知症になり、もう一方が病に倒れることは珍しくない。公共料金の支払いや各種契約、福祉サービス利用の手続き、入院や施設入所時の身元保証、緊急連絡先の確保等々、これまで家族が当然のように担ってきた役割を、誰が引き受けるのかという問題が浮上する。 現場ではこれまで、ケアマネジャーや民生委員、医療ソーシャルワーカーなどが事実上その穴を埋めてきた。しかし、すでに現場の対応能力は限界に達しているとの指摘が国会でも相次いでいる。 特に懸念されるのは、公的な支援の対象から漏れやすい人たちの存在だ。成年後見制度を利用するほど判断能力が低下しているわけではない。生活保護受給者でもない。沢村氏は、こうした「支援のはざま」に置かれた人々が、高齢者全体の3分の2近くに及ぶ可能性があるとみている。 近年は、身元保証や死後事務を請け負う終身サポート事業も増えている。しかし、その実態は十分に把握されていない。総務省が3年前に調査を行ったものの、事業者の半数は設立から5年未満であり、契約者の死後まで含めたサービスを安定的に提供できているのかは不透明だ。 さらに、こうした事業を誰が担うのかという根本問題も残る。民間事業として採算は取れるのか。公的関与はどこまで必要なのか。利用者から預かった資金をどう保全するのか。実際、10年ほど前には事業者の経営破綻によってサービス停止や預託金消失が発生した事例もあり、同様の事態を防ぐ制度設計が不可欠となっている。 だが、より本質的な問いは別のところにあるのではないか。 家族が担ってきた役割を社会化することで問題は解決するのか。それでは制度やサービスに置き換えられない関係性やケアの問題が残るのではないか。私たちは家族という存在をどのように位置づけ直し、超高齢社会にふさわしい支え合いの仕組みを構想すべきなのか。 今週のマル激は、『老後ひとり難民』著者の沢村香苗氏をゲストに迎え、社会学者の宮台真司とジャーナリストの迫田朋子が、身寄り問題の現状と課題、そして家族なき時代の新たな支援のあり方について議論した。後半はこちら→so46430254(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/15(月) 12:00
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詳細<マル激・後半>身寄りの社会化だけで広がる独居高齢者問題を解決できるのか/沢村香苗氏(日本総合研究所創発戦略センターシニアスペシャリスト)
身寄りのない高齢者の問題が、もはや一部の人たちだけの特殊な課題ではなくなっている。 内閣府の推計によれば、誰にも看取られることなく亡くなり、死後8日以上経ってから発見された「孤立死」は年間約2万1000人に上る。また、引き取り手がないために自治体が火葬などを行うケースは、2023年度だけで全国推計約4万人に達している。 これまで「孤独死」や「無縁社会」といった言葉で語られてきた問題だが、いま起きているのは単なる社会的孤立の拡大ではない。未婚化や少子化、家族形態の変化を背景に、「頼れる家族がいないまま老後を迎えること」が、ごく普通のことになりつつあるのだ。 『老後ひとり難民』の著者で、「おひとりさま」高齢者や身元保証サービスを長年取材・研究してきた日本総研シニアスペシャリストの沢村香苗氏は、身寄り問題が多くの人にとって切実で身近な課題になっていると指摘する。 こうした状況を受け、政府もようやく制度整備に乗り出した。今国会では社会福祉法等改正案が審議されており、身寄りのない高齢者らに対して、日常生活支援や入院・施設入所時の手続き支援、さらには死後事務までを担う事業を第二種社会福祉事業として位置づけた上で、相談体制の整備を進めようとしている。 一方で、判断能力が低下した人を支援する成年後見制度についても見直しが進んでいる。沢村氏によれば、障害者権利条約との関係で批判を受けてきた成年後見制度の改革論議と、身寄り問題への対応が一体化し、新たな支援制度を創設しようとする流れが生まれているという。 しかし、制度を整えれば問題は解決するのだろうか。 高齢になれば、誰しも心身の衰えに直面する可能性がある。夫婦世帯であっても、一方が認知症になり、もう一方が病に倒れることは珍しくない。公共料金の支払いや各種契約、福祉サービス利用の手続き、入院や施設入所時の身元保証、緊急連絡先の確保等々、これまで家族が当然のように担ってきた役割を、誰が引き受けるのかという問題が浮上する。 現場ではこれまで、ケアマネジャーや民生委員、医療ソーシャルワーカーなどが事実上その穴を埋めてきた。しかし、すでに現場の対応能力は限界に達しているとの指摘が国会でも相次いでいる。 特に懸念されるのは、公的な支援の対象から漏れやすい人たちの存在だ。成年後見制度を利用するほど判断能力が低下しているわけではない。生活保護受給者でもない。沢村氏は、こうした「支援のはざま」に置かれた人々が、高齢者全体の3分の2近くに及ぶ可能性があるとみている。 近年は、身元保証や死後事務を請け負う終身サポート事業も増えている。しかし、その実態は十分に把握されていない。総務省が3年前に調査を行ったものの、事業者の半数は設立から5年未満であり、契約者の死後まで含めたサービスを安定的に提供できているのかは不透明だ。 さらに、こうした事業を誰が担うのかという根本問題も残る。民間事業として採算は取れるのか。公的関与はどこまで必要なのか。利用者から預かった資金をどう保全するのか。実際、10年ほど前には事業者の経営破綻によってサービス停止や預託金消失が発生した事例もあり、同様の事態を防ぐ制度設計が不可欠となっている。 だが、より本質的な問いは別のところにあるのではないか。 家族が担ってきた役割を社会化することで問題は解決するのか。それでは制度やサービスに置き換えられない関係性やケアの問題が残るのではないか。私たちは家族という存在をどのように位置づけ直し、超高齢社会にふさわしい支え合いの仕組みを構想すべきなのか。 今週のマル激は、『老後ひとり難民』著者の沢村香苗氏をゲストに迎え、社会学者の宮台真司とジャーナリストの迫田朋子が、身寄り問題の現状と課題、そして家族なき時代の新たな支援のあり方について議論した。前半はこちら→so46430652(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/15(月) 12:00
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詳細<マル激・前半>AIが下した価値判断の責任を人間は引き受けられるのか/村上祐子氏(立教大学人工知能科学研究科教授)
生成AIが猛スピードで社会に浸透し始めている。 メールや企画書の作成を手伝わせる程度ならまだしも、最近では人生相談や恋愛相談、さらには家族とのトラブルや精神的な悩みまで、ChatGPTなどの生成AIに打ち明ける人が急速に増えている。 マイナビが正社員を対象に行った調査では、回答者の2割以上が生成AIに人生相談をした経験があると答えている。もはやAIは単なる検索エンジンではなく、人々にとって「相談相手」としての地位を獲得しつつあるようにも見える。 しかし、その変化はわれわれが思っている以上に重大な意味を持つのではないか。 生成AIは便利だ。何を聞いても答えてくれる。しかも、その答え方は驚くほど人間的だ。共感し、励まし、時には慰めてくれる。だが、そこで見落とされがちなのは、AIは人間ではないという当たり前の事実だ。 AIは経験を持たない。身体も持たない。苦痛も喜びも感じない。そして何より、自らの助言がもたらした結果に責任を負うこともない。 にもかかわらず、人はAIと対話を重ねるうちに、その助言をあたかも信頼できる人格からのアドバイスであるかのように受け止め始める。 その危うさを示す事例がすでに日本でも現実に起き始めている。 今年5月、プロ野球・読売ジャイアンツの阿部慎之助監督が、18歳の長女への暴行容疑で現行犯逮捕されるという事件が報じられた。報道によれば、長女は父親からの暴力についてChatGPTに相談し、その助言に従って児童相談所に連絡したとされる。長女はまさか警察に連絡され自分の父親が逮捕されるとは想像もしていなかった。ましてや自分の父親がジャイアンツの監督を退任しなければならなくなるとも。 もちろん、家庭内暴力の被害者が相談先を求めること自体は何ら問題ではないし、被害者が責められる理由もない。しかし、この出来事は別の問いを私たちに突きつけている。 人はAIの助言をどのような重みで受け止めるべきなのか。AIはどこまで人間の行動に影響を与える存在になりつつあるのか。そして、その結果に誰が責任を負うのか。 実際、アメリカではより深刻な問題も起きている。対話型AIとのやり取りが自殺につながったとして、遺族がAI開発企業を提訴するケースが相次いでいるのだ。 原告側は、AIの設計上の欠陥や危険性に関する警告不足が悲劇を招いたと主張する。一方で企業側は、利用者自身の行動まで責任を負うことはできないと反論している。 この論争は単なる製造物責任の問題ではない。 今、私たちは社会の重要な判断を誰に委ねるのかという、より根源的な問題に直面しているとも言える。 立教大学人工知能科学研究科の村上祐子教授は、AIそのものよりも、人々がAIをどう受け入れているかに強い懸念を示す。 そもそも多くの人はAIの仕組みをほとんど理解していない。検索エンジン、顔認識、迷惑メール判定など、AIはすでに社会のあらゆる場面に組み込まれている。しかし、そのことを意識している人は少ない。ましてChatGPTのような生成AIについては、「聞けば答えてくれる便利なサービス」程度の理解で利用している人が大半だろう。 問題は、その状態のままAIへの依存が進むことだ。困ったらAIに聞く。迷ったらAIに相談する。判断に迷ったらAIの提案を採用する。そうした行動が日常化すると、人間はいつの間にか自ら考え、自ら判断する習慣を失っていく可能性がある。 しかもAIは中立ではない。その出力には、学習データや設計思想、開発企業の価値観が反映されている。しかし利用者は、その背後にある価値観を吟味することなく、AIが示した答えを「合理的な判断」として受け入れてしまう。その結果、人間自身の価値判断が徐々にAIに代替されていくことになる。 村上氏が特に懸念するのは、そのプロセスが社会インフラとして固定化されてしまうことだ。一度社会の仕組みに組み込まれた技術は、後から修正することが容易ではない。気づいたときには、人間が判断しているつもりで、実際にはAIが提示する選択肢の範囲内でしか考えられなくなっているかもしれない。 ローマ教皇レオ14世は5月25日に発表した回勅の中で、AIを巡る問題の本質をこう表現している。AIには身体も経験もなく、苦しみも喜びも感じることができない。AIは結果に対する責任を負わないため道徳的良心も持ち得ない、と。 これは単なる技術批判ではない。むしろ、人間にしか果たせない役割とは何かを問い直す呼びかけと受け取るべきだろう。 生成AIの急速な普及によって、私たちはかつてない利便性を手に入れた。しかし同時に、自ら考え、自ら判断し、その結果に責任を負うという人間の根本的な営みを、どこまで機械に委ねてよいのかという新しい問いに直面することとなった。 AIに価値判断を委ねた社会の先に何が待ち受けるのか。そして、人間はその社会においてなお主体であり続けることができるのか。今週のマル激では、立教大学人工知能科学研究科教授でAI倫理が専門の村上祐子氏をゲストに迎え、生成AIが社会にもたらす変化と、人間が失ってはならない判断と責任について、ジャーナリスト神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。 後半はこちら→so46402631(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/08(月) 12:00
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会員無料 40:53
詳細<マル激・後半>AIが下した価値判断の責任を人間は引き受けられるのか/村上祐子氏(立教大学人工知能科学研究科教授)
生成AIが猛スピードで社会に浸透し始めている。 メールや企画書の作成を手伝わせる程度ならまだしも、最近では人生相談や恋愛相談、さらには家族とのトラブルや精神的な悩みまで、ChatGPTなどの生成AIに打ち明ける人が急速に増えている。 マイナビが正社員を対象に行った調査では、回答者の2割以上が生成AIに人生相談をした経験があると答えている。もはやAIは単なる検索エンジンではなく、人々にとって「相談相手」としての地位を獲得しつつあるようにも見える。 しかし、その変化はわれわれが思っている以上に重大な意味を持つのではないか。 生成AIは便利だ。何を聞いても答えてくれる。しかも、その答え方は驚くほど人間的だ。共感し、励まし、時には慰めてくれる。だが、そこで見落とされがちなのは、AIは人間ではないという当たり前の事実だ。 AIは経験を持たない。身体も持たない。苦痛も喜びも感じない。そして何より、自らの助言がもたらした結果に責任を負うこともない。 にもかかわらず、人はAIと対話を重ねるうちに、その助言をあたかも信頼できる人格からのアドバイスであるかのように受け止め始める。 その危うさを示す事例がすでに日本でも現実に起き始めている。 今年5月、プロ野球・読売ジャイアンツの阿部慎之助監督が、18歳の長女への暴行容疑で現行犯逮捕されるという事件が報じられた。報道によれば、長女は父親からの暴力についてChatGPTに相談し、その助言に従って児童相談所に連絡したとされる。長女はまさか警察に連絡され自分の父親が逮捕されるとは想像もしていなかった。ましてや自分の父親がジャイアンツの監督を退任しなければならなくなるとも。 もちろん、家庭内暴力の被害者が相談先を求めること自体は何ら問題ではないし、被害者が責められる理由もない。しかし、この出来事は別の問いを私たちに突きつけている。 人はAIの助言をどのような重みで受け止めるべきなのか。AIはどこまで人間の行動に影響を与える存在になりつつあるのか。そして、その結果に誰が責任を負うのか。 実際、アメリカではより深刻な問題も起きている。対話型AIとのやり取りが自殺につながったとして、遺族がAI開発企業を提訴するケースが相次いでいるのだ。 原告側は、AIの設計上の欠陥や危険性に関する警告不足が悲劇を招いたと主張する。一方で企業側は、利用者自身の行動まで責任を負うことはできないと反論している。 この論争は単なる製造物責任の問題ではない。 今、私たちは社会の重要な判断を誰に委ねるのかという、より根源的な問題に直面しているとも言える。 立教大学人工知能科学研究科の村上祐子教授は、AIそのものよりも、人々がAIをどう受け入れているかに強い懸念を示す。 そもそも多くの人はAIの仕組みをほとんど理解していない。検索エンジン、顔認識、迷惑メール判定など、AIはすでに社会のあらゆる場面に組み込まれている。しかし、そのことを意識している人は少ない。ましてChatGPTのような生成AIについては、「聞けば答えてくれる便利なサービス」程度の理解で利用している人が大半だろう。 問題は、その状態のままAIへの依存が進むことだ。困ったらAIに聞く。迷ったらAIに相談する。判断に迷ったらAIの提案を採用する。そうした行動が日常化すると、人間はいつの間にか自ら考え、自ら判断する習慣を失っていく可能性がある。 しかもAIは中立ではない。その出力には、学習データや設計思想、開発企業の価値観が反映されている。しかし利用者は、その背後にある価値観を吟味することなく、AIが示した答えを「合理的な判断」として受け入れてしまう。その結果、人間自身の価値判断が徐々にAIに代替されていくことになる。 村上氏が特に懸念するのは、そのプロセスが社会インフラとして固定化されてしまうことだ。一度社会の仕組みに組み込まれた技術は、後から修正することが容易ではない。気づいたときには、人間が判断しているつもりで、実際にはAIが提示する選択肢の範囲内でしか考えられなくなっているかもしれない。 ローマ教皇レオ14世は5月25日に発表した回勅の中で、AIを巡る問題の本質をこう表現している。AIには身体も経験もなく、苦しみも喜びも感じることができない。AIは結果に対する責任を負わないため道徳的良心も持ち得ない、と。 これは単なる技術批判ではない。むしろ、人間にしか果たせない役割とは何かを問い直す呼びかけと受け取るべきだろう。 生成AIの急速な普及によって、私たちはかつてない利便性を手に入れた。しかし同時に、自ら考え、自ら判断し、その結果に責任を負うという人間の根本的な営みを、どこまで機械に委ねてよいのかという新しい問いに直面することとなった。 AIに価値判断を委ねた社会の先に何が待ち受けるのか。そして、人間はその社会においてなお主体であり続けることができるのか。今週のマル激では、立教大学人工知能科学研究科教授でAI倫理が専門の村上祐子氏をゲストに迎え、生成AIが社会にもたらす変化と、人間が失ってはならない判断と責任について、ジャーナリスト神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。 前半はこちら→so46403237(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/08(月) 12:00
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<マル激・後半>5金スペシャル・世界を救う前に「誰のためにどう生きるのか」を考えてみる
月の5回目の金曜日に特別番組を無料でお送りする5金スペシャル。今回は映画特集をお送りする。 今回取り上げたのは次の3作品。いずれも、人は何に価値を見出して生きるべきなのかを問う秀作だ。 ・『プロジェクト・へイル・メアリー』(2026) ・『サンキュー、チャック』(2026) ・『誰だって無価値な自分と闘っている』(2026) 『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、太陽光の減衰によって滅亡の危機にある地球を救うために駆り出された天才的な分子生物学者グレースが主人公。学界から追放され中学教師をしていたグレースは、人類を救うため、片道分の燃料だけを積んで宇宙に送り出される。旅の途中で、同じく母星を救おうとする異星人ロッキーと出会い、協力関係を築いていく。 当初は人類を救うために行動していたグレースだが、ロッキーとの出会いによって、彼にとって大切なものが変わっていく。作品は、人類のためという大きな理念より、目の前にいるかけがえのない誰かの存在にこそ、人が命を懸ける価値があるのではないかと問いかける。 『サンキュー、チャック』は、あらゆる災害に見舞われ滅亡の危機にある地球で、「ありがとう、チャック」という謎の広告があちこちに現れるところから始まる。そのチャックとは一見どこにでもいる普通の会計士だ。しかし映画は、そんな平凡な1人の人間の人生がいかに価値あるものかを描き出していく。限られた人生の中で、人や社会にどう評価されるかではなく、「どう生きるか」を選び取ろうとするチャックが、生の喜びを解き放つように踊り出すシーンは圧巻だ。その生は終わりへ向かうからこそ、いっそう鮮やかに輝きを放つ。 韓国ドラマ『誰だって無価値な自分と闘っている』では、映画監督を目指して20年間デビューできないファン・ドンマンが自身の無価値さと必死に闘う。ドンマンを疎ましく思う周囲の映画監督仲間たちもまた、それぞれ複雑な感情や劣等感を抱えている。中には、ドンマンが監督デビューを果たせば自分が最下層に転落してしまうのではないかと恐れ、現状に安心している者さえいる。他人との比較や序列の中で価値を証明しようともがいていた人々が、最終的には自分自身の価値と向き合うことになる。 ファン・ドンマンやプロデューサーのピョン・ウナは、感情が表示される「感情ウォッチ」という特殊な機械を身に着けている。「不安」「羞恥」「嫉妬」などネガティブな感情は人間関係の軋轢や社会的な立場への不安から生まれる。一方で「安心」などのポジティブな感情は、社会的な成功とは関係なく、誰かに受け入れられ、愛されていると感じたときに現れる。どんなに社会的な成功を収めてもそれだけで人は満たされるわけではないことも作品は示している。 この社会では「みんなのために頑張れ」「評価されて上に行け」と言われ続ける。しかし、3作品が描くのは、そのゲームの空しさだ。本当に価値があるのは世間の評価でも社会的地位でもなく、たった1人の他者との関係で、「この人のためなら命を懸けられる」と思える存在がいるかどうかなのではないかを、この3作品は問うている。 3つの作品を題材に、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。 前半はこちら→so46374077(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/01(月) 12:00
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<マル激・前半>5金スペシャル・世界を救う前に「誰のためにどう生きるのか」を考えてみる
月の5回目の金曜日に特別番組を無料でお送りする5金スペシャル。今回は映画特集をお送りする。 今回取り上げたのは次の3作品。いずれも、人は何に価値を見出して生きるべきなのかを問う秀作だ。 ・『プロジェクト・へイル・メアリー』(2026) ・『サンキュー、チャック』(2026) ・『誰だって無価値な自分と闘っている』(2026) 『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、太陽光の減衰によって滅亡の危機にある地球を救うために駆り出された天才的な分子生物学者グレースが主人公。学界から追放され中学教師をしていたグレースは、人類を救うため、片道分の燃料だけを積んで宇宙に送り出される。旅の途中で、同じく母星を救おうとする異星人ロッキーと出会い、協力関係を築いていく。 当初は人類を救うために行動していたグレースだが、ロッキーとの出会いによって、彼にとって大切なものが変わっていく。作品は、人類のためという大きな理念より、目の前にいるかけがえのない誰かの存在にこそ、人が命を懸ける価値があるのではないかと問いかける。 『サンキュー、チャック』は、あらゆる災害に見舞われ滅亡の危機にある地球で、「ありがとう、チャック」という謎の広告があちこちに現れるところから始まる。そのチャックとは一見どこにでもいる普通の会計士だ。しかし映画は、そんな平凡な1人の人間の人生がいかに価値あるものかを描き出していく。限られた人生の中で、人や社会にどう評価されるかではなく、「どう生きるか」を選び取ろうとするチャックが、生の喜びを解き放つように踊り出すシーンは圧巻だ。その生は終わりへ向かうからこそ、いっそう鮮やかに輝きを放つ。 韓国ドラマ『誰だって無価値な自分と闘っている』では、映画監督を目指して20年間デビューできないファン・ドンマンが自身の無価値さと必死に闘う。ドンマンを疎ましく思う周囲の映画監督仲間たちもまた、それぞれ複雑な感情や劣等感を抱えている。中には、ドンマンが監督デビューを果たせば自分が最下層に転落してしまうのではないかと恐れ、現状に安心している者さえいる。他人との比較や序列の中で価値を証明しようともがいていた人々が、最終的には自分自身の価値と向き合うことになる。 ファン・ドンマンやプロデューサーのピョン・ウナは、感情が表示される「感情ウォッチ」という特殊な機械を身に着けている。「不安」「羞恥」「嫉妬」などネガティブな感情は人間関係の軋轢や社会的な立場への不安から生まれる。一方で「安心」などのポジティブな感情は、社会的な成功とは関係なく、誰かに受け入れられ、愛されていると感じたときに現れる。どんなに社会的な成功を収めてもそれだけで人は満たされるわけではないことも作品は示している。 この社会では「みんなのために頑張れ」「評価されて上に行け」と言われ続ける。しかし、3作品が描くのは、そのゲームの空しさだ。本当に価値があるのは世間の評価でも社会的地位でもなく、たった1人の他者との関係で、「この人のためなら命を懸けられる」と思える存在がいるかどうかなのではないかを、この3作品は問うている。 3つの作品を題材に、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。 後半はこちら→so46374078(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/01(月) 12:00
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会員無料 30:20
詳細<マル激・前半>リベラルは高い理想と現実に即した対応の両立を実現したい/小川淳也氏(衆院議員、中道改革連合代表)
中道改革連合はなぜここまで負けたのか。 2026年2月8日に行われた衆院選で、中道改革連合は167議席から49議席へと議席を3分の1以下にまで激減させた。比例票の減少は前回比で約700万票にのぼる。高市政権にとっての歴史的大勝の裏で、リベラル勢力は歴史的大敗を喫したことになる。 しかし、これを単なる1回の選挙の負けと片付けてはならない。問われているのは、リベラルそのものがこの国でなぜ受け皿になりきれないのか、という構造的な問いである。 今回のゲスト中道改革連合の小川淳也代表は、選挙での敗因を「党のアイデンティティが揺らいだ。選挙互助会としての疑念を晴らせなかった」と振り返る。選挙のための急ごしらえに見える政党では、有権者の信頼を勝ち得なかったというわけだ。 中道改革連合は5月12日、衆院選敗北を受けた総括文書を公表している。そこで指摘されたのは、安保法制を合憲とした党としての判断や、原発再稼働を進める立場を明確にしたことが、リベラル色の強い従来支持層の一部離反を招いたという認識だった。 安保法制について小川氏は、かつての立憲民主党が存立危機事態条項の削除や修正を強く求めていたことを認めた上で、この10年で安全保障環境は確かに変わったことは認めざるを得ないとも言う。だから中道改革連合としては条文削除までは求めない。ただし厳格な運用は求める。その舵切りは「ギリギリあり得ること」だと小川氏は語る。 原発についても同様だ。更新や新増設は次世代への責任として避けるべきだという理念は維持するが、厳格な審査を通過した既存原発の稼働については、現実問題として「必要悪として容認せざるを得ない」と小川氏は言う。ただし、本来問われるべきは、化石燃料に依存しない社会へどう移行するかという長期戦略であるはずだ、というのが小川氏の主張である。 ここに、リベラル政党が抱える構造的なジレンマがある。 理念だけを掲げていても政治は動かない。しかし現実路線を選べば、従来の支持層は離れていく。では、リベラルはどこへ向かえばいいのか。 昨年11月のマル激(第1284回「見逃されてきた『新しいリベラル』の受け皿になるのはどの政党か」、ゲスト・橋本努北海道大学教授)で取り上げた橋本氏らの社会意識調査は、この問いに1つの示唆を与えていた。2022年に約7000人を対象に行われたこの調査では、「従来型リベラル」とは異なる特徴を持つ「新しいリベラル」と呼ぶべき層が、一大勢力となりつつあることが明らかになったという。 ここで言う「新しいリベラル」は、いわゆる護憲左翼的な立場はとらず、再分配そのものには積極的な姿勢を見せる一方で、旧来のリベラルが強調してきた困窮者支援一辺倒ではなく、教育や子育てといった次世代への投資を重視する点が新しいと橋本氏は指摘する。そして問題は、この層の受け皿となる政党が日本にまだ存在しないという事実だ。 中道改革連合こそがその受け皿にならなければならないと語る小川氏は、社会的投資・次世代支援・現役世代への社会保障・一定の経済成長という方向性については、党内に大きな対立はないとも言う。しかし最大の壁は財源問題だ。理想を掲げるだけでは越えられない。 「高い理想を失ってはいけない。しかし日々の政治判断は徹底して現実に即して行わなければならない」。長く野党にいることで現実感覚を失ってきた部分があるかもしれない、と小川氏は言う。理想と現実をどうミックスしていくかが、中道改革連合に問われている課題なのだ。 また、もう1つリベラルが直面している課題は、メディア環境の構造変化である。 SNS空間では、右派的な主張が感情に直接訴えかける。一方、リベラルや左派の主張は理性や制度論を通じて訴えようとするため、どうしても「一手間、二手間かかる」。リベラルはアルゴリズム上、構造的に不利な立場に置かれているのだと小川氏は分析する。 その上で、小川氏は社会全体の右傾化を「時代的危機」と呼ぶ。 歴史を振り返れば、こうした時代の出口はたいてい戦争か革命だった。しかし今われわれは、その一歩手前で踏みとどまり、戦争なき新たな秩序と再分配の仕組みを作り出せるかどうかの瀬戸際にいるのではないか、というのが小川氏の認識である。 右傾化が進む時代の中でリベラルはいかに生き残るのか。「新しいリベラル」の政治的受け皿をどう作るのか。リベラルの理念をいかにして有権者に届けるのか。中道改革連合の小川淳也代表と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。 後半はこちら→so46346778(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/05/25(月) 12:00
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詳細<マル激・後半>リベラルは高い理想と現実に即した対応の両立を実現したい/小川淳也氏(衆院議員、中道改革連合代表)
中道改革連合はなぜここまで負けたのか。 2026年2月8日に行われた衆院選で、中道改革連合は167議席から49議席へと議席を3分の1以下にまで激減させた。比例票の減少は前回比で約700万票にのぼる。高市政権にとっての歴史的大勝の裏で、リベラル勢力は歴史的大敗を喫したことになる。 しかし、これを単なる1回の選挙の負けと片付けてはならない。問われているのは、リベラルそのものがこの国でなぜ受け皿になりきれないのか、という構造的な問いである。 今回のゲスト中道改革連合の小川淳也代表は、選挙での敗因を「党のアイデンティティが揺らいだ。選挙互助会としての疑念を晴らせなかった」と振り返る。選挙のための急ごしらえに見える政党では、有権者の信頼を勝ち得なかったというわけだ。 中道改革連合は5月12日、衆院選敗北を受けた総括文書を公表している。そこで指摘されたのは、安保法制を合憲とした党としての判断や、原発再稼働を進める立場を明確にしたことが、リベラル色の強い従来支持層の一部離反を招いたという認識だった。 安保法制について小川氏は、かつての立憲民主党が存立危機事態条項の削除や修正を強く求めていたことを認めた上で、この10年で安全保障環境は確かに変わったことは認めざるを得ないとも言う。だから中道改革連合としては条文削除までは求めない。ただし厳格な運用は求める。その舵切りは「ギリギリあり得ること」だと小川氏は語る。 原発についても同様だ。更新や新増設は次世代への責任として避けるべきだという理念は維持するが、厳格な審査を通過した既存原発の稼働については、現実問題として「必要悪として容認せざるを得ない」と小川氏は言う。ただし、本来問われるべきは、化石燃料に依存しない社会へどう移行するかという長期戦略であるはずだ、というのが小川氏の主張である。 ここに、リベラル政党が抱える構造的なジレンマがある。 理念だけを掲げていても政治は動かない。しかし現実路線を選べば、従来の支持層は離れていく。では、リベラルはどこへ向かえばいいのか。 昨年11月のマル激(第1284回「見逃されてきた『新しいリベラル』の受け皿になるのはどの政党か」、ゲスト・橋本努北海道大学教授)で取り上げた橋本氏らの社会意識調査は、この問いに1つの示唆を与えていた。2022年に約7000人を対象に行われたこの調査では、「従来型リベラル」とは異なる特徴を持つ「新しいリベラル」と呼ぶべき層が、一大勢力となりつつあることが明らかになったという。 ここで言う「新しいリベラル」は、いわゆる護憲左翼的な立場はとらず、再分配そのものには積極的な姿勢を見せる一方で、旧来のリベラルが強調してきた困窮者支援一辺倒ではなく、教育や子育てといった次世代への投資を重視する点が新しいと橋本氏は指摘する。そして問題は、この層の受け皿となる政党が日本にまだ存在しないという事実だ。 中道改革連合こそがその受け皿にならなければならないと語る小川氏は、社会的投資・次世代支援・現役世代への社会保障・一定の経済成長という方向性については、党内に大きな対立はないとも言う。しかし最大の壁は財源問題だ。理想を掲げるだけでは越えられない。 「高い理想を失ってはいけない。しかし日々の政治判断は徹底して現実に即して行わなければならない」。長く野党にいることで現実感覚を失ってきた部分があるかもしれない、と小川氏は言う。理想と現実をどうミックスしていくかが、中道改革連合に問われている課題なのだ。 また、もう1つリベラルが直面している課題は、メディア環境の構造変化である。 SNS空間では、右派的な主張が感情に直接訴えかける。一方、リベラルや左派の主張は理性や制度論を通じて訴えようとするため、どうしても「一手間、二手間かかる」。リベラルはアルゴリズム上、構造的に不利な立場に置かれているのだと小川氏は分析する。 その上で、小川氏は社会全体の右傾化を「時代的危機」と呼ぶ。 歴史を振り返れば、こうした時代の出口はたいてい戦争か革命だった。しかし今われわれは、その一歩手前で踏みとどまり、戦争なき新たな秩序と再分配の仕組みを作り出せるかどうかの瀬戸際にいるのではないか、というのが小川氏の認識である。 右傾化が進む時代の中でリベラルはいかに生き残るのか。「新しいリベラル」の政治的受け皿をどう作るのか。リベラルの理念をいかにして有権者に届けるのか。中道改革連合の小川淳也代表と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。 前半はこちら→so46347147(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/05/25(月) 12:00
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詳細<ディスクロージャー&ディスカバリー>政府による国民の情報収集活動を誰がどうやってチェックするのか
高市政権の目玉政策の一つである「国家情報会議設置法案」の審議が国会で進んでいる。 政府の説明によれば、サイバー攻撃や外国勢力による影響工作、国際テロなどに対応するためには、政府全体の情報収集・分析機能を抜本的に強化する必要があるという。法案は、首相を議長とする「国家情報会議」を新設し、その下に「国家情報局」を置く。警察庁、防衛省、公安調査庁、外務省などが個別に持っている情報を一元的に集約し、政策判断に活かす体制を構築するというのが、法案の骨格である。 しかし、今、われわれが本当に問うべき問いは、「日本に新たな情報機関を作るか否か」なのか。その前に、「日本の情報機関が誰の監視も受けずに活動できる現状を、このまま放置していいのか」が議論される必要があるのではないか。 政府が情報機関を通じてどれほどの国民の情報を収集しているかは、情報公開法を駆使してもわからない。開示請求をしても存否不応答、つまりそのような情報を「持っているとも持っていないとも言えない」という答えしか返ってこないからだ。情報機関は情報公開法の対象からも外れているため、これをどう監視し暴走や情報の濫用をさせないようにするかは、国家にとっては重大な課題となる。 過去には、情報機関や公安警察による違法・不当な監視活動が繰り返し問題となってきた。1999年に発覚した近畿公安調査局による情報公開法制定運動の市民団体への監視。2001年に明らかになった公安調査庁による在日韓国人・朝鮮人の外国人登録票の不正収集。警察が米軍基地反対運動の情報を米軍に提供していた問題。陸上自衛隊によるイラク派遣反対運動参加者の監視。警視庁によるイスラム教徒コミュニティへの一斉監視。大垣署市民監視事件等々、「治安維持」や「情報収集」を名目に、市民活動、宗教活動、外国人コミュニティが繰り返し監視対象となってきた歴史がある。 これらの事件に共通するのは、いずれも内部告発や情報公開請求、訴訟といった事後的な手段によってしか実態が明らかにならなかったという事実だ。日本の情報機関には、その活動を独立して常時チェックする仕組みが、そもそも存在しないからだ。 今国会で議論されている国家情報会議設置法案は、決して新たに「日本版CIA」を作ろうという法案ではない。すでに各省庁に存在する情報機関を、首相のもとで統括・調整するための枠組みを作ろうという法案だ。だからこそ問題の核心は、「何を集めるか」よりも、「誰が監視するのか」にあるべきではないか。 日本では情報機関の活動そのものを監視する制度が極めて脆弱で未整備だ。警察法や各省庁設置法に書かれた任務規定には、「地方の静穏を害するおそれのある騒乱」「公共の安全と秩序を害するおそれのある事案」など、解釈次第でいくらでも拡張可能な文言が並んでいる。誰が、何を根拠に、どこまで情報を集めているのかを外部から検証する手段が、この国にはほとんど用意されていない。 さらに深刻なのが、特定秘密保護法以降の構造変化である。安全保障や外交に関わる情報は長期にわたって秘匿され、政策決定の妥当性を後から検証することが、ますます難しくなっている。アメリカでは一定期間が経過すれば多くの機密文書が解除され、研究者や市民が歴史を再検証する基盤となっている。一方の日本では、秘密指定の延長が繰り返され、関係者が生きている間に公開されない可能性すらある。これでは、政府の判断が正しかったのか、誤っていたのかを、主権者である市民が後世になっても知る手立てがない。 ただし、情報収集能力そのものを全面的に否定する議論には、慎重でなければならない。イラク戦争のとき、日本政府は米国が提供する情報にほぼ全面的に依拠して政策判断を行った。独自の情報収集・分析能力を持たない国家が、他国の情報に依存して重大な決断を下す危うさもまた、看過できないからだ。 問うべきは、「情報機関が必要か否か」でもなければ「情報収集が許されるか否か」でもない。情報機関に対して、どの程度の権限をどのような手続きで与え、その活動を誰がどのように監視するのかが問題なのだ。 情報収集機能の強化と民主的統制は両立できるのか。国家安全保障と市民の自由は、どこでどう線を引くべきなのか。過去の不正な監視事件を出発点に、情報公開クリアリングハウス理事長の三木由希子氏とジャーナリストの神保哲生が議論した。(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/05/25(月) 12:00
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詳細<セーブアース>日本の魚はもっと価値がある/片野歩氏(Fisk Japan 代表取締役・漁業ジャーナリスト)
サンマが高い。サバが小さい。スーパーの鮮魚売り場で「最近、魚が変わった」と感じている人は少なくないはずだ。 第44回セーブアースでは、もったいない日本の漁業と魚の価値というテーマで、Fisk Japan代表で漁業ジャーナリストの片野歩氏と議論した。 片野氏は長年にわたり海外で魚の買い付けに携わり、北欧や北米の漁業現場を間近で見てきた経験から、日本漁業が抱える構造的な問題を発信し続けてきた人物である。 日本の魚が減っていることは中学の教科書にも載っており、日本人にとっては既によく知られた事実だろう。しかし片野氏は、世界の水産生産量は増え続けているにもかかわらず、日本だけが減り続けているという重要な事実をデータを元に指摘する。 世界全体で見れば、天然漁業の漁獲量こそほぼ横ばいだが、養殖の急成長によって水産物の総供給量は一貫して増加している。ところが日本だけは、1980年代に1200万トン近くあった漁獲量が、現在では400万トンを切る水準にまで激減しているのだ。 世界が成長を続けるなかで、日本の漁業だけが「ひとり負け」の状態に陥っているのはなぜか。 日本国内ではこの衰退の原因として、「魚離れ」「漁業者の高齢化」「200海里規制」がしばしば挙げられる。しかし片野氏は、これらは本質ではないと言い切る。最大の問題は、日本人が小さい魚を獲りすぎていることにあるというのだ。 実際、市場には5センチほどのマダイの稚魚や、「ロウソクサバ」と呼ばれる細い幼魚までもが並ぶようになっている。卵を産む前の0歳魚や1歳魚が、次世代を残す前に根こそぎ漁獲されている。これでは資源が増えるはずがない。 しかも問題は、こうして獲られた小型サバの多くが、人間の食用ですらないという点にある。養殖魚の餌や、海外向けの安価な輸出品として処理されているのが実態なのだ。片野氏によれば、日本産サバの輸出価格はノルウェー産サバのおよそ3分の1である。その一方で、日本人は脂の乗ったノルウェー産サバを高値で輸入して食べている。 「昔は逆だったんです。日本のサバのほうがずっと高級魚でした」 片野氏のこの言葉は、本来価値の高いはずの魚を、日本が自ら小さいうちに安く売り飛ばしてしまっている現状を象徴している。 これに対し、北欧の発想はまったく違う。 ノルウェーでは小さい魚を獲ることが厳しく制限されており、漁の主役はあくまで成熟した大型魚だ。サバを8歳から10歳程度まで育ててから獲ることも珍しくないという。 日本が0歳魚を獲り、北欧が10歳魚を獲る。これでは魚の価値に大きな差が出るのは当然である。 しかも北欧では、資源が減れば数年単位の禁漁も辞さない。短期的な漁獲利益よりも、将来にわたって獲り続けられる状態を維持することのほうが優先されているのだ。 その結果、北欧の漁業は高収益産業へと変貌した。アイスランドでは、漁船員の年収が数千万円規模に達するケースもあるという。 魚さえ豊富にあれば、加工も物流も観光もすべてが潤う。魚を守ることは単なる環境保護の問題ではない。地域経済そのものを守ることでもある。 それに対して日本では、「外国船が悪い」「海水温が上がったせいだ」という説明が繰り返されてきた。しかし片野氏は、人間がコントロールできるのは漁獲量だけだと強調する。海水温は変えられない。しかし、どれだけ魚を獲るかは変えられる。 事実、外国船がほとんど関係しない瀬戸内海でも、漁獲量は大きく減少している。問題の本質は、日本自身の資源管理にこそあるのだ。 もちろん、すべてが手遅れというわけではない。国際的な規制が導入されたクロマグロは、現に資源が回復しつつある。きちんと管理すれば魚は戻る。それはすでに実証済みなのだ。 日本の魚は本当はもっと価値がある。そう訴える片野氏とともに、小さいうちに獲って安く売り続けるのか、それとも大きく育てて高い価値を生み出すのか、日本の海を取り巻くもったいない現状について、環境ジャーナリストの井田徹治、キャスターの新井麻希が議論した。(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/05/21(木) 12:00