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詳細<マル激・前半>同志社国際高校への教育基本法14条違反認定が投げかける教育の政治的中立とは何かという問い/⽊村草太氏(東京都⽴⼤学法学部教授)
これを機に教育がもっぱら政治的に当たり障りのないテーマしか扱わない方向へ向かってしまうとしたら、それは由々しき事態ではないか。 沖縄県名護市辺野古沖で、研修旅行中の同志社国際高校の生徒らを乗せた小型船が転覆し、生徒と船長が亡くなるという痛ましい事故が起きた。この事故を受け、文部科学省は同校の事前計画、当日の対応、安全管理、教育活動のあり方などに重大な問題があったとして、学校側の責任を厳しく指摘した上で、教育基本法14条違反があったとして同校を指導したことを明らかにした。教育基本法違反の認定などを受け、京都府では私学助成金の減額の検討に入ったという。 今回、学校側に安全管理上、重大な瑕疵があったことに疑いの余地はない。しかし、文科省があわせて、同校が行っていた辺野古移設工事に関する学習について、教育基本法第14条第2項に反するとの見解を示したことについては、大いに疑問が残る。安全管理上の責任と、教育内容への行政介入は明確に分けて考えるべきだ。 教育基本法14条は、第1項で「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」とする一方で、その第2項では、法律に定める学校が「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動」をしてはならないと定めている。つまり同条は、学校における政治教育そのものを禁じているわけではなく、むしろ政治的教養の重要性を認めたうえで、特定政党への支持・反対を目的とする活動を制限しているだけだ。 ここで問われるのは、そもそも辺野古移設問題という政治的争点を扱うこと自体が14条違反に当たるのか、それとも、特定の政治的立場を持つ人や団体と行動を共にした場合に限って問題となるのかという点だ。ただ、いずれにしても文科省は今回、「特定の見方・考え方に偏った取扱い」があったと判断しているが、それが直ちに法律が禁じている「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育」に当たるのかについては、慎重な検討が必要だ。この扱いを誤ると、今後の教育現場に対して「政治的にデリケートなテーマは扱わない方が無難だ」というメッセージとして受け止められる可能性がある。それを避けるためにも、まずどこが問題でそのような判定が行われたのかについては、基準が明確にされる必要がある。 また、今回の14条違反の判定にはもう一つ重大な問題がある。それは文科省という政府の一機関が政治的中立性に対する事実認定を自ら行っていることだ。文科省は内閣や大臣の指揮監督下にあり、独立した第三者機関ではない。政治的な中立性の判定には、独立した専門家や審査員が介在する仕組みが必要だ。プレイヤーである政治家やその指揮下にある行政機関が審判を兼ねる構造での事実認定は、結論がどうであれ、その正当性自体に重大な疑念が生じると、東京都立大学法学部教授で憲法学者の木村草太氏は指摘する。 辺野古への米軍基地移転問題に限らず、原発、憲法、安全保障、ジェンダー、入管、気候変動、貧困など、現代社会の重要な課題の多くは政治的争点でもある。学校がそうしたテーマを扱うことを避けるようになれば、主権者教育は形式的な制度説明にとどまり、それでは現実社会を自分で判断する力は育たたない。しかも、その判断を政権の指揮下にある文科省が単独で下せるということになれば、学校の教育現場は厭が応にもその時々の政権の政治信条に忖度しなければならなくなる。実際、今回の文科省判断については、全国の主権者教育や平和学習に萎縮効果を及ぼしかねないとの懸念が指摘されている。 これは総務省が放送法4条の政治的中立性を単独で判定することの是非を巡る議論と同根の問題でもある。 重要なのは、政治的争点を学校から排除することではない。むしろ、対立する意見や歴史的背景、権力関係を含めて現実を複眼的に学ぶことこそ、教育基本法がいう「良識ある公民として必要な政治的教養」に適うはずだ。 近年、デリケートな問題に対する政治的なスタンスを表明した瞬間に、「偏っている」と指弾される風潮が国全体を覆っているように見える。しかし何かを真剣に考えることは、必然的に何らかのスタンス、すなわち偏りを持つことだ。それを否定した先にあるのは、バランスの取れた考えではなく、何も考えていない状態や無関心にすぎない。 教育基本法の違反認定をもとに、プレイヤーが審判を兼ねることを許してしまうことの問題と、それが社会にどのような影響を及ぼすかなどについて、憲法学者の木村氏とジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。 また番組では、日本の刑事司法における人質司法が、16歳の少女の命を奪った悲劇的な事件と、皇室典範の改正問題も取り上げた。後半はこちら→so46457849(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/22(月) 12:00
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会員無料 45:04
詳細<マル激・後半>同志社国際高校への教育基本法14条違反認定が投げかける教育の政治的中立とは何かという問い/⽊村草太氏(東京都⽴⼤学法学部教授)
これを機に教育がもっぱら政治的に当たり障りのないテーマしか扱わない方向へ向かってしまうとしたら、それは由々しき事態ではないか。 沖縄県名護市辺野古沖で、研修旅行中の同志社国際高校の生徒らを乗せた小型船が転覆し、生徒と船長が亡くなるという痛ましい事故が起きた。この事故を受け、文部科学省は同校の事前計画、当日の対応、安全管理、教育活動のあり方などに重大な問題があったとして、学校側の責任を厳しく指摘した上で、教育基本法14条違反があったとして同校を指導したことを明らかにした。教育基本法違反の認定などを受け、京都府では私学助成金の減額の検討に入ったという。 今回、学校側に安全管理上、重大な瑕疵があったことに疑いの余地はない。しかし、文科省があわせて、同校が行っていた辺野古移設工事に関する学習について、教育基本法第14条第2項に反するとの見解を示したことについては、大いに疑問が残る。安全管理上の責任と、教育内容への行政介入は明確に分けて考えるべきだ。 教育基本法14条は、第1項で「良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない」とする一方で、その第2項では、法律に定める学校が「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動」をしてはならないと定めている。つまり同条は、学校における政治教育そのものを禁じているわけではなく、むしろ政治的教養の重要性を認めたうえで、特定政党への支持・反対を目的とする活動を制限しているだけだ。 ここで問われるのは、そもそも辺野古移設問題という政治的争点を扱うこと自体が14条違反に当たるのか、それとも、特定の政治的立場を持つ人や団体と行動を共にした場合に限って問題となるのかという点だ。ただ、いずれにしても文科省は今回、「特定の見方・考え方に偏った取扱い」があったと判断しているが、それが直ちに法律が禁じている「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育」に当たるのかについては、慎重な検討が必要だ。この扱いを誤ると、今後の教育現場に対して「政治的にデリケートなテーマは扱わない方が無難だ」というメッセージとして受け止められる可能性がある。それを避けるためにも、まずどこが問題でそのような判定が行われたのかについては、基準が明確にされる必要がある。 また、今回の14条違反の判定にはもう一つ重大な問題がある。それは文科省という政府の一機関が政治的中立性に対する事実認定を自ら行っていることだ。文科省は内閣や大臣の指揮監督下にあり、独立した第三者機関ではない。政治的な中立性の判定には、独立した専門家や審査員が介在する仕組みが必要だ。プレイヤーである政治家やその指揮下にある行政機関が審判を兼ねる構造での事実認定は、結論がどうであれ、その正当性自体に重大な疑念が生じると、東京都立大学法学部教授で憲法学者の木村草太氏は指摘する。 辺野古への米軍基地移転問題に限らず、原発、憲法、安全保障、ジェンダー、入管、気候変動、貧困など、現代社会の重要な課題の多くは政治的争点でもある。学校がそうしたテーマを扱うことを避けるようになれば、主権者教育は形式的な制度説明にとどまり、それでは現実社会を自分で判断する力は育たたない。しかも、その判断を政権の指揮下にある文科省が単独で下せるということになれば、学校の教育現場は厭が応にもその時々の政権の政治信条に忖度しなければならなくなる。実際、今回の文科省判断については、全国の主権者教育や平和学習に萎縮効果を及ぼしかねないとの懸念が指摘されている。 これは総務省が放送法4条の政治的中立性を単独で判定することの是非を巡る議論と同根の問題でもある。 重要なのは、政治的争点を学校から排除することではない。むしろ、対立する意見や歴史的背景、権力関係を含めて現実を複眼的に学ぶことこそ、教育基本法がいう「良識ある公民として必要な政治的教養」に適うはずだ。 近年、デリケートな問題に対する政治的なスタンスを表明した瞬間に、「偏っている」と指弾される風潮が国全体を覆っているように見える。しかし何かを真剣に考えることは、必然的に何らかのスタンス、すなわち偏りを持つことだ。それを否定した先にあるのは、バランスの取れた考えではなく、何も考えていない状態や無関心にすぎない。 教育基本法の違反認定をもとに、プレイヤーが審判を兼ねることを許してしまうことの問題と、それが社会にどのような影響を及ぼすかなどについて、憲法学者の木村氏とジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。 また番組では、日本の刑事司法における人質司法が、16歳の少女の命を奪った悲劇的な事件と、皇室典範の改正問題も取り上げた。前半はこちら→so46458939(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/22(月) 12:00
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詳細<マル激・前半>身寄りの社会化だけで広がる独居高齢者問題を解決できるのか/沢村香苗氏(日本総合研究所創発戦略センターシニアスペシャリスト)
身寄りのない高齢者の問題が、もはや一部の人たちだけの特殊な課題ではなくなっている。 内閣府の推計によれば、誰にも看取られることなく亡くなり、死後8日以上経ってから発見された「孤立死」は年間約2万1000人に上る。また、引き取り手がないために自治体が火葬などを行うケースは、2023年度だけで全国推計約4万人に達している。 これまで「孤独死」や「無縁社会」といった言葉で語られてきた問題だが、いま起きているのは単なる社会的孤立の拡大ではない。未婚化や少子化、家族形態の変化を背景に、「頼れる家族がいないまま老後を迎えること」が、ごく普通のことになりつつあるのだ。 『老後ひとり難民』の著者で、「おひとりさま」高齢者や身元保証サービスを長年取材・研究してきた日本総研シニアスペシャリストの沢村香苗氏は、身寄り問題が多くの人にとって切実で身近な課題になっていると指摘する。 こうした状況を受け、政府もようやく制度整備に乗り出した。今国会では社会福祉法等改正案が審議されており、身寄りのない高齢者らに対して、日常生活支援や入院・施設入所時の手続き支援、さらには死後事務までを担う事業を第二種社会福祉事業として位置づけた上で、相談体制の整備を進めようとしている。 一方で、判断能力が低下した人を支援する成年後見制度についても見直しが進んでいる。沢村氏によれば、障害者権利条約との関係で批判を受けてきた成年後見制度の改革論議と、身寄り問題への対応が一体化し、新たな支援制度を創設しようとする流れが生まれているという。 しかし、制度を整えれば問題は解決するのだろうか。 高齢になれば、誰しも心身の衰えに直面する可能性がある。夫婦世帯であっても、一方が認知症になり、もう一方が病に倒れることは珍しくない。公共料金の支払いや各種契約、福祉サービス利用の手続き、入院や施設入所時の身元保証、緊急連絡先の確保等々、これまで家族が当然のように担ってきた役割を、誰が引き受けるのかという問題が浮上する。 現場ではこれまで、ケアマネジャーや民生委員、医療ソーシャルワーカーなどが事実上その穴を埋めてきた。しかし、すでに現場の対応能力は限界に達しているとの指摘が国会でも相次いでいる。 特に懸念されるのは、公的な支援の対象から漏れやすい人たちの存在だ。成年後見制度を利用するほど判断能力が低下しているわけではない。生活保護受給者でもない。沢村氏は、こうした「支援のはざま」に置かれた人々が、高齢者全体の3分の2近くに及ぶ可能性があるとみている。 近年は、身元保証や死後事務を請け負う終身サポート事業も増えている。しかし、その実態は十分に把握されていない。総務省が3年前に調査を行ったものの、事業者の半数は設立から5年未満であり、契約者の死後まで含めたサービスを安定的に提供できているのかは不透明だ。 さらに、こうした事業を誰が担うのかという根本問題も残る。民間事業として採算は取れるのか。公的関与はどこまで必要なのか。利用者から預かった資金をどう保全するのか。実際、10年ほど前には事業者の経営破綻によってサービス停止や預託金消失が発生した事例もあり、同様の事態を防ぐ制度設計が不可欠となっている。 だが、より本質的な問いは別のところにあるのではないか。 家族が担ってきた役割を社会化することで問題は解決するのか。それでは制度やサービスに置き換えられない関係性やケアの問題が残るのではないか。私たちは家族という存在をどのように位置づけ直し、超高齢社会にふさわしい支え合いの仕組みを構想すべきなのか。 今週のマル激は、『老後ひとり難民』著者の沢村香苗氏をゲストに迎え、社会学者の宮台真司とジャーナリストの迫田朋子が、身寄り問題の現状と課題、そして家族なき時代の新たな支援のあり方について議論した。後半はこちら→so46430254(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/15(月) 12:00
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会員無料 44:22
詳細<マル激・後半>身寄りの社会化だけで広がる独居高齢者問題を解決できるのか/沢村香苗氏(日本総合研究所創発戦略センターシニアスペシャリスト)
身寄りのない高齢者の問題が、もはや一部の人たちだけの特殊な課題ではなくなっている。 内閣府の推計によれば、誰にも看取られることなく亡くなり、死後8日以上経ってから発見された「孤立死」は年間約2万1000人に上る。また、引き取り手がないために自治体が火葬などを行うケースは、2023年度だけで全国推計約4万人に達している。 これまで「孤独死」や「無縁社会」といった言葉で語られてきた問題だが、いま起きているのは単なる社会的孤立の拡大ではない。未婚化や少子化、家族形態の変化を背景に、「頼れる家族がいないまま老後を迎えること」が、ごく普通のことになりつつあるのだ。 『老後ひとり難民』の著者で、「おひとりさま」高齢者や身元保証サービスを長年取材・研究してきた日本総研シニアスペシャリストの沢村香苗氏は、身寄り問題が多くの人にとって切実で身近な課題になっていると指摘する。 こうした状況を受け、政府もようやく制度整備に乗り出した。今国会では社会福祉法等改正案が審議されており、身寄りのない高齢者らに対して、日常生活支援や入院・施設入所時の手続き支援、さらには死後事務までを担う事業を第二種社会福祉事業として位置づけた上で、相談体制の整備を進めようとしている。 一方で、判断能力が低下した人を支援する成年後見制度についても見直しが進んでいる。沢村氏によれば、障害者権利条約との関係で批判を受けてきた成年後見制度の改革論議と、身寄り問題への対応が一体化し、新たな支援制度を創設しようとする流れが生まれているという。 しかし、制度を整えれば問題は解決するのだろうか。 高齢になれば、誰しも心身の衰えに直面する可能性がある。夫婦世帯であっても、一方が認知症になり、もう一方が病に倒れることは珍しくない。公共料金の支払いや各種契約、福祉サービス利用の手続き、入院や施設入所時の身元保証、緊急連絡先の確保等々、これまで家族が当然のように担ってきた役割を、誰が引き受けるのかという問題が浮上する。 現場ではこれまで、ケアマネジャーや民生委員、医療ソーシャルワーカーなどが事実上その穴を埋めてきた。しかし、すでに現場の対応能力は限界に達しているとの指摘が国会でも相次いでいる。 特に懸念されるのは、公的な支援の対象から漏れやすい人たちの存在だ。成年後見制度を利用するほど判断能力が低下しているわけではない。生活保護受給者でもない。沢村氏は、こうした「支援のはざま」に置かれた人々が、高齢者全体の3分の2近くに及ぶ可能性があるとみている。 近年は、身元保証や死後事務を請け負う終身サポート事業も増えている。しかし、その実態は十分に把握されていない。総務省が3年前に調査を行ったものの、事業者の半数は設立から5年未満であり、契約者の死後まで含めたサービスを安定的に提供できているのかは不透明だ。 さらに、こうした事業を誰が担うのかという根本問題も残る。民間事業として採算は取れるのか。公的関与はどこまで必要なのか。利用者から預かった資金をどう保全するのか。実際、10年ほど前には事業者の経営破綻によってサービス停止や預託金消失が発生した事例もあり、同様の事態を防ぐ制度設計が不可欠となっている。 だが、より本質的な問いは別のところにあるのではないか。 家族が担ってきた役割を社会化することで問題は解決するのか。それでは制度やサービスに置き換えられない関係性やケアの問題が残るのではないか。私たちは家族という存在をどのように位置づけ直し、超高齢社会にふさわしい支え合いの仕組みを構想すべきなのか。 今週のマル激は、『老後ひとり難民』著者の沢村香苗氏をゲストに迎え、社会学者の宮台真司とジャーナリストの迫田朋子が、身寄り問題の現状と課題、そして家族なき時代の新たな支援のあり方について議論した。前半はこちら→so46430652(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/15(月) 12:00
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詳細<マル激・前半>AIが下した価値判断の責任を人間は引き受けられるのか/村上祐子氏(立教大学人工知能科学研究科教授)
生成AIが猛スピードで社会に浸透し始めている。 メールや企画書の作成を手伝わせる程度ならまだしも、最近では人生相談や恋愛相談、さらには家族とのトラブルや精神的な悩みまで、ChatGPTなどの生成AIに打ち明ける人が急速に増えている。 マイナビが正社員を対象に行った調査では、回答者の2割以上が生成AIに人生相談をした経験があると答えている。もはやAIは単なる検索エンジンではなく、人々にとって「相談相手」としての地位を獲得しつつあるようにも見える。 しかし、その変化はわれわれが思っている以上に重大な意味を持つのではないか。 生成AIは便利だ。何を聞いても答えてくれる。しかも、その答え方は驚くほど人間的だ。共感し、励まし、時には慰めてくれる。だが、そこで見落とされがちなのは、AIは人間ではないという当たり前の事実だ。 AIは経験を持たない。身体も持たない。苦痛も喜びも感じない。そして何より、自らの助言がもたらした結果に責任を負うこともない。 にもかかわらず、人はAIと対話を重ねるうちに、その助言をあたかも信頼できる人格からのアドバイスであるかのように受け止め始める。 その危うさを示す事例がすでに日本でも現実に起き始めている。 今年5月、プロ野球・読売ジャイアンツの阿部慎之助監督が、18歳の長女への暴行容疑で現行犯逮捕されるという事件が報じられた。報道によれば、長女は父親からの暴力についてChatGPTに相談し、その助言に従って児童相談所に連絡したとされる。長女はまさか警察に連絡され自分の父親が逮捕されるとは想像もしていなかった。ましてや自分の父親がジャイアンツの監督を退任しなければならなくなるとも。 もちろん、家庭内暴力の被害者が相談先を求めること自体は何ら問題ではないし、被害者が責められる理由もない。しかし、この出来事は別の問いを私たちに突きつけている。 人はAIの助言をどのような重みで受け止めるべきなのか。AIはどこまで人間の行動に影響を与える存在になりつつあるのか。そして、その結果に誰が責任を負うのか。 実際、アメリカではより深刻な問題も起きている。対話型AIとのやり取りが自殺につながったとして、遺族がAI開発企業を提訴するケースが相次いでいるのだ。 原告側は、AIの設計上の欠陥や危険性に関する警告不足が悲劇を招いたと主張する。一方で企業側は、利用者自身の行動まで責任を負うことはできないと反論している。 この論争は単なる製造物責任の問題ではない。 今、私たちは社会の重要な判断を誰に委ねるのかという、より根源的な問題に直面しているとも言える。 立教大学人工知能科学研究科の村上祐子教授は、AIそのものよりも、人々がAIをどう受け入れているかに強い懸念を示す。 そもそも多くの人はAIの仕組みをほとんど理解していない。検索エンジン、顔認識、迷惑メール判定など、AIはすでに社会のあらゆる場面に組み込まれている。しかし、そのことを意識している人は少ない。ましてChatGPTのような生成AIについては、「聞けば答えてくれる便利なサービス」程度の理解で利用している人が大半だろう。 問題は、その状態のままAIへの依存が進むことだ。困ったらAIに聞く。迷ったらAIに相談する。判断に迷ったらAIの提案を採用する。そうした行動が日常化すると、人間はいつの間にか自ら考え、自ら判断する習慣を失っていく可能性がある。 しかもAIは中立ではない。その出力には、学習データや設計思想、開発企業の価値観が反映されている。しかし利用者は、その背後にある価値観を吟味することなく、AIが示した答えを「合理的な判断」として受け入れてしまう。その結果、人間自身の価値判断が徐々にAIに代替されていくことになる。 村上氏が特に懸念するのは、そのプロセスが社会インフラとして固定化されてしまうことだ。一度社会の仕組みに組み込まれた技術は、後から修正することが容易ではない。気づいたときには、人間が判断しているつもりで、実際にはAIが提示する選択肢の範囲内でしか考えられなくなっているかもしれない。 ローマ教皇レオ14世は5月25日に発表した回勅の中で、AIを巡る問題の本質をこう表現している。AIには身体も経験もなく、苦しみも喜びも感じることができない。AIは結果に対する責任を負わないため道徳的良心も持ち得ない、と。 これは単なる技術批判ではない。むしろ、人間にしか果たせない役割とは何かを問い直す呼びかけと受け取るべきだろう。 生成AIの急速な普及によって、私たちはかつてない利便性を手に入れた。しかし同時に、自ら考え、自ら判断し、その結果に責任を負うという人間の根本的な営みを、どこまで機械に委ねてよいのかという新しい問いに直面することとなった。 AIに価値判断を委ねた社会の先に何が待ち受けるのか。そして、人間はその社会においてなお主体であり続けることができるのか。今週のマル激では、立教大学人工知能科学研究科教授でAI倫理が専門の村上祐子氏をゲストに迎え、生成AIが社会にもたらす変化と、人間が失ってはならない判断と責任について、ジャーナリスト神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。 後半はこちら→so46402631(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/08(月) 12:00
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会員無料 40:53
詳細<マル激・後半>AIが下した価値判断の責任を人間は引き受けられるのか/村上祐子氏(立教大学人工知能科学研究科教授)
生成AIが猛スピードで社会に浸透し始めている。 メールや企画書の作成を手伝わせる程度ならまだしも、最近では人生相談や恋愛相談、さらには家族とのトラブルや精神的な悩みまで、ChatGPTなどの生成AIに打ち明ける人が急速に増えている。 マイナビが正社員を対象に行った調査では、回答者の2割以上が生成AIに人生相談をした経験があると答えている。もはやAIは単なる検索エンジンではなく、人々にとって「相談相手」としての地位を獲得しつつあるようにも見える。 しかし、その変化はわれわれが思っている以上に重大な意味を持つのではないか。 生成AIは便利だ。何を聞いても答えてくれる。しかも、その答え方は驚くほど人間的だ。共感し、励まし、時には慰めてくれる。だが、そこで見落とされがちなのは、AIは人間ではないという当たり前の事実だ。 AIは経験を持たない。身体も持たない。苦痛も喜びも感じない。そして何より、自らの助言がもたらした結果に責任を負うこともない。 にもかかわらず、人はAIと対話を重ねるうちに、その助言をあたかも信頼できる人格からのアドバイスであるかのように受け止め始める。 その危うさを示す事例がすでに日本でも現実に起き始めている。 今年5月、プロ野球・読売ジャイアンツの阿部慎之助監督が、18歳の長女への暴行容疑で現行犯逮捕されるという事件が報じられた。報道によれば、長女は父親からの暴力についてChatGPTに相談し、その助言に従って児童相談所に連絡したとされる。長女はまさか警察に連絡され自分の父親が逮捕されるとは想像もしていなかった。ましてや自分の父親がジャイアンツの監督を退任しなければならなくなるとも。 もちろん、家庭内暴力の被害者が相談先を求めること自体は何ら問題ではないし、被害者が責められる理由もない。しかし、この出来事は別の問いを私たちに突きつけている。 人はAIの助言をどのような重みで受け止めるべきなのか。AIはどこまで人間の行動に影響を与える存在になりつつあるのか。そして、その結果に誰が責任を負うのか。 実際、アメリカではより深刻な問題も起きている。対話型AIとのやり取りが自殺につながったとして、遺族がAI開発企業を提訴するケースが相次いでいるのだ。 原告側は、AIの設計上の欠陥や危険性に関する警告不足が悲劇を招いたと主張する。一方で企業側は、利用者自身の行動まで責任を負うことはできないと反論している。 この論争は単なる製造物責任の問題ではない。 今、私たちは社会の重要な判断を誰に委ねるのかという、より根源的な問題に直面しているとも言える。 立教大学人工知能科学研究科の村上祐子教授は、AIそのものよりも、人々がAIをどう受け入れているかに強い懸念を示す。 そもそも多くの人はAIの仕組みをほとんど理解していない。検索エンジン、顔認識、迷惑メール判定など、AIはすでに社会のあらゆる場面に組み込まれている。しかし、そのことを意識している人は少ない。ましてChatGPTのような生成AIについては、「聞けば答えてくれる便利なサービス」程度の理解で利用している人が大半だろう。 問題は、その状態のままAIへの依存が進むことだ。困ったらAIに聞く。迷ったらAIに相談する。判断に迷ったらAIの提案を採用する。そうした行動が日常化すると、人間はいつの間にか自ら考え、自ら判断する習慣を失っていく可能性がある。 しかもAIは中立ではない。その出力には、学習データや設計思想、開発企業の価値観が反映されている。しかし利用者は、その背後にある価値観を吟味することなく、AIが示した答えを「合理的な判断」として受け入れてしまう。その結果、人間自身の価値判断が徐々にAIに代替されていくことになる。 村上氏が特に懸念するのは、そのプロセスが社会インフラとして固定化されてしまうことだ。一度社会の仕組みに組み込まれた技術は、後から修正することが容易ではない。気づいたときには、人間が判断しているつもりで、実際にはAIが提示する選択肢の範囲内でしか考えられなくなっているかもしれない。 ローマ教皇レオ14世は5月25日に発表した回勅の中で、AIを巡る問題の本質をこう表現している。AIには身体も経験もなく、苦しみも喜びも感じることができない。AIは結果に対する責任を負わないため道徳的良心も持ち得ない、と。 これは単なる技術批判ではない。むしろ、人間にしか果たせない役割とは何かを問い直す呼びかけと受け取るべきだろう。 生成AIの急速な普及によって、私たちはかつてない利便性を手に入れた。しかし同時に、自ら考え、自ら判断し、その結果に責任を負うという人間の根本的な営みを、どこまで機械に委ねてよいのかという新しい問いに直面することとなった。 AIに価値判断を委ねた社会の先に何が待ち受けるのか。そして、人間はその社会においてなお主体であり続けることができるのか。今週のマル激では、立教大学人工知能科学研究科教授でAI倫理が専門の村上祐子氏をゲストに迎え、生成AIが社会にもたらす変化と、人間が失ってはならない判断と責任について、ジャーナリスト神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。 前半はこちら→so46403237(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/08(月) 12:00
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<マル激・後半>5金スペシャル・世界を救う前に「誰のためにどう生きるのか」を考えてみる
月の5回目の金曜日に特別番組を無料でお送りする5金スペシャル。今回は映画特集をお送りする。 今回取り上げたのは次の3作品。いずれも、人は何に価値を見出して生きるべきなのかを問う秀作だ。 ・『プロジェクト・へイル・メアリー』(2026) ・『サンキュー、チャック』(2026) ・『誰だって無価値な自分と闘っている』(2026) 『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、太陽光の減衰によって滅亡の危機にある地球を救うために駆り出された天才的な分子生物学者グレースが主人公。学界から追放され中学教師をしていたグレースは、人類を救うため、片道分の燃料だけを積んで宇宙に送り出される。旅の途中で、同じく母星を救おうとする異星人ロッキーと出会い、協力関係を築いていく。 当初は人類を救うために行動していたグレースだが、ロッキーとの出会いによって、彼にとって大切なものが変わっていく。作品は、人類のためという大きな理念より、目の前にいるかけがえのない誰かの存在にこそ、人が命を懸ける価値があるのではないかと問いかける。 『サンキュー、チャック』は、あらゆる災害に見舞われ滅亡の危機にある地球で、「ありがとう、チャック」という謎の広告があちこちに現れるところから始まる。そのチャックとは一見どこにでもいる普通の会計士だ。しかし映画は、そんな平凡な1人の人間の人生がいかに価値あるものかを描き出していく。限られた人生の中で、人や社会にどう評価されるかではなく、「どう生きるか」を選び取ろうとするチャックが、生の喜びを解き放つように踊り出すシーンは圧巻だ。その生は終わりへ向かうからこそ、いっそう鮮やかに輝きを放つ。 韓国ドラマ『誰だって無価値な自分と闘っている』では、映画監督を目指して20年間デビューできないファン・ドンマンが自身の無価値さと必死に闘う。ドンマンを疎ましく思う周囲の映画監督仲間たちもまた、それぞれ複雑な感情や劣等感を抱えている。中には、ドンマンが監督デビューを果たせば自分が最下層に転落してしまうのではないかと恐れ、現状に安心している者さえいる。他人との比較や序列の中で価値を証明しようともがいていた人々が、最終的には自分自身の価値と向き合うことになる。 ファン・ドンマンやプロデューサーのピョン・ウナは、感情が表示される「感情ウォッチ」という特殊な機械を身に着けている。「不安」「羞恥」「嫉妬」などネガティブな感情は人間関係の軋轢や社会的な立場への不安から生まれる。一方で「安心」などのポジティブな感情は、社会的な成功とは関係なく、誰かに受け入れられ、愛されていると感じたときに現れる。どんなに社会的な成功を収めてもそれだけで人は満たされるわけではないことも作品は示している。 この社会では「みんなのために頑張れ」「評価されて上に行け」と言われ続ける。しかし、3作品が描くのは、そのゲームの空しさだ。本当に価値があるのは世間の評価でも社会的地位でもなく、たった1人の他者との関係で、「この人のためなら命を懸けられる」と思える存在がいるかどうかなのではないかを、この3作品は問うている。 3つの作品を題材に、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。 前半はこちら→so46374077(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/01(月) 12:00
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<マル激・前半>5金スペシャル・世界を救う前に「誰のためにどう生きるのか」を考えてみる
月の5回目の金曜日に特別番組を無料でお送りする5金スペシャル。今回は映画特集をお送りする。 今回取り上げたのは次の3作品。いずれも、人は何に価値を見出して生きるべきなのかを問う秀作だ。 ・『プロジェクト・へイル・メアリー』(2026) ・『サンキュー、チャック』(2026) ・『誰だって無価値な自分と闘っている』(2026) 『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、太陽光の減衰によって滅亡の危機にある地球を救うために駆り出された天才的な分子生物学者グレースが主人公。学界から追放され中学教師をしていたグレースは、人類を救うため、片道分の燃料だけを積んで宇宙に送り出される。旅の途中で、同じく母星を救おうとする異星人ロッキーと出会い、協力関係を築いていく。 当初は人類を救うために行動していたグレースだが、ロッキーとの出会いによって、彼にとって大切なものが変わっていく。作品は、人類のためという大きな理念より、目の前にいるかけがえのない誰かの存在にこそ、人が命を懸ける価値があるのではないかと問いかける。 『サンキュー、チャック』は、あらゆる災害に見舞われ滅亡の危機にある地球で、「ありがとう、チャック」という謎の広告があちこちに現れるところから始まる。そのチャックとは一見どこにでもいる普通の会計士だ。しかし映画は、そんな平凡な1人の人間の人生がいかに価値あるものかを描き出していく。限られた人生の中で、人や社会にどう評価されるかではなく、「どう生きるか」を選び取ろうとするチャックが、生の喜びを解き放つように踊り出すシーンは圧巻だ。その生は終わりへ向かうからこそ、いっそう鮮やかに輝きを放つ。 韓国ドラマ『誰だって無価値な自分と闘っている』では、映画監督を目指して20年間デビューできないファン・ドンマンが自身の無価値さと必死に闘う。ドンマンを疎ましく思う周囲の映画監督仲間たちもまた、それぞれ複雑な感情や劣等感を抱えている。中には、ドンマンが監督デビューを果たせば自分が最下層に転落してしまうのではないかと恐れ、現状に安心している者さえいる。他人との比較や序列の中で価値を証明しようともがいていた人々が、最終的には自分自身の価値と向き合うことになる。 ファン・ドンマンやプロデューサーのピョン・ウナは、感情が表示される「感情ウォッチ」という特殊な機械を身に着けている。「不安」「羞恥」「嫉妬」などネガティブな感情は人間関係の軋轢や社会的な立場への不安から生まれる。一方で「安心」などのポジティブな感情は、社会的な成功とは関係なく、誰かに受け入れられ、愛されていると感じたときに現れる。どんなに社会的な成功を収めてもそれだけで人は満たされるわけではないことも作品は示している。 この社会では「みんなのために頑張れ」「評価されて上に行け」と言われ続ける。しかし、3作品が描くのは、そのゲームの空しさだ。本当に価値があるのは世間の評価でも社会的地位でもなく、たった1人の他者との関係で、「この人のためなら命を懸けられる」と思える存在がいるかどうかなのではないかを、この3作品は問うている。 3つの作品を題材に、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。 後半はこちら→so46374078(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/01(月) 12:00
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詳細<マル激・前半>リベラルは高い理想と現実に即した対応の両立を実現したい/小川淳也氏(衆院議員、中道改革連合代表)
中道改革連合はなぜここまで負けたのか。 2026年2月8日に行われた衆院選で、中道改革連合は167議席から49議席へと議席を3分の1以下にまで激減させた。比例票の減少は前回比で約700万票にのぼる。高市政権にとっての歴史的大勝の裏で、リベラル勢力は歴史的大敗を喫したことになる。 しかし、これを単なる1回の選挙の負けと片付けてはならない。問われているのは、リベラルそのものがこの国でなぜ受け皿になりきれないのか、という構造的な問いである。 今回のゲスト中道改革連合の小川淳也代表は、選挙での敗因を「党のアイデンティティが揺らいだ。選挙互助会としての疑念を晴らせなかった」と振り返る。選挙のための急ごしらえに見える政党では、有権者の信頼を勝ち得なかったというわけだ。 中道改革連合は5月12日、衆院選敗北を受けた総括文書を公表している。そこで指摘されたのは、安保法制を合憲とした党としての判断や、原発再稼働を進める立場を明確にしたことが、リベラル色の強い従来支持層の一部離反を招いたという認識だった。 安保法制について小川氏は、かつての立憲民主党が存立危機事態条項の削除や修正を強く求めていたことを認めた上で、この10年で安全保障環境は確かに変わったことは認めざるを得ないとも言う。だから中道改革連合としては条文削除までは求めない。ただし厳格な運用は求める。その舵切りは「ギリギリあり得ること」だと小川氏は語る。 原発についても同様だ。更新や新増設は次世代への責任として避けるべきだという理念は維持するが、厳格な審査を通過した既存原発の稼働については、現実問題として「必要悪として容認せざるを得ない」と小川氏は言う。ただし、本来問われるべきは、化石燃料に依存しない社会へどう移行するかという長期戦略であるはずだ、というのが小川氏の主張である。 ここに、リベラル政党が抱える構造的なジレンマがある。 理念だけを掲げていても政治は動かない。しかし現実路線を選べば、従来の支持層は離れていく。では、リベラルはどこへ向かえばいいのか。 昨年11月のマル激(第1284回「見逃されてきた『新しいリベラル』の受け皿になるのはどの政党か」、ゲスト・橋本努北海道大学教授)で取り上げた橋本氏らの社会意識調査は、この問いに1つの示唆を与えていた。2022年に約7000人を対象に行われたこの調査では、「従来型リベラル」とは異なる特徴を持つ「新しいリベラル」と呼ぶべき層が、一大勢力となりつつあることが明らかになったという。 ここで言う「新しいリベラル」は、いわゆる護憲左翼的な立場はとらず、再分配そのものには積極的な姿勢を見せる一方で、旧来のリベラルが強調してきた困窮者支援一辺倒ではなく、教育や子育てといった次世代への投資を重視する点が新しいと橋本氏は指摘する。そして問題は、この層の受け皿となる政党が日本にまだ存在しないという事実だ。 中道改革連合こそがその受け皿にならなければならないと語る小川氏は、社会的投資・次世代支援・現役世代への社会保障・一定の経済成長という方向性については、党内に大きな対立はないとも言う。しかし最大の壁は財源問題だ。理想を掲げるだけでは越えられない。 「高い理想を失ってはいけない。しかし日々の政治判断は徹底して現実に即して行わなければならない」。長く野党にいることで現実感覚を失ってきた部分があるかもしれない、と小川氏は言う。理想と現実をどうミックスしていくかが、中道改革連合に問われている課題なのだ。 また、もう1つリベラルが直面している課題は、メディア環境の構造変化である。 SNS空間では、右派的な主張が感情に直接訴えかける。一方、リベラルや左派の主張は理性や制度論を通じて訴えようとするため、どうしても「一手間、二手間かかる」。リベラルはアルゴリズム上、構造的に不利な立場に置かれているのだと小川氏は分析する。 その上で、小川氏は社会全体の右傾化を「時代的危機」と呼ぶ。 歴史を振り返れば、こうした時代の出口はたいてい戦争か革命だった。しかし今われわれは、その一歩手前で踏みとどまり、戦争なき新たな秩序と再分配の仕組みを作り出せるかどうかの瀬戸際にいるのではないか、というのが小川氏の認識である。 右傾化が進む時代の中でリベラルはいかに生き残るのか。「新しいリベラル」の政治的受け皿をどう作るのか。リベラルの理念をいかにして有権者に届けるのか。中道改革連合の小川淳也代表と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。 後半はこちら→so46346778(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/05/25(月) 12:00
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会員無料 30:46
詳細<マル激・後半>リベラルは高い理想と現実に即した対応の両立を実現したい/小川淳也氏(衆院議員、中道改革連合代表)
中道改革連合はなぜここまで負けたのか。 2026年2月8日に行われた衆院選で、中道改革連合は167議席から49議席へと議席を3分の1以下にまで激減させた。比例票の減少は前回比で約700万票にのぼる。高市政権にとっての歴史的大勝の裏で、リベラル勢力は歴史的大敗を喫したことになる。 しかし、これを単なる1回の選挙の負けと片付けてはならない。問われているのは、リベラルそのものがこの国でなぜ受け皿になりきれないのか、という構造的な問いである。 今回のゲスト中道改革連合の小川淳也代表は、選挙での敗因を「党のアイデンティティが揺らいだ。選挙互助会としての疑念を晴らせなかった」と振り返る。選挙のための急ごしらえに見える政党では、有権者の信頼を勝ち得なかったというわけだ。 中道改革連合は5月12日、衆院選敗北を受けた総括文書を公表している。そこで指摘されたのは、安保法制を合憲とした党としての判断や、原発再稼働を進める立場を明確にしたことが、リベラル色の強い従来支持層の一部離反を招いたという認識だった。 安保法制について小川氏は、かつての立憲民主党が存立危機事態条項の削除や修正を強く求めていたことを認めた上で、この10年で安全保障環境は確かに変わったことは認めざるを得ないとも言う。だから中道改革連合としては条文削除までは求めない。ただし厳格な運用は求める。その舵切りは「ギリギリあり得ること」だと小川氏は語る。 原発についても同様だ。更新や新増設は次世代への責任として避けるべきだという理念は維持するが、厳格な審査を通過した既存原発の稼働については、現実問題として「必要悪として容認せざるを得ない」と小川氏は言う。ただし、本来問われるべきは、化石燃料に依存しない社会へどう移行するかという長期戦略であるはずだ、というのが小川氏の主張である。 ここに、リベラル政党が抱える構造的なジレンマがある。 理念だけを掲げていても政治は動かない。しかし現実路線を選べば、従来の支持層は離れていく。では、リベラルはどこへ向かえばいいのか。 昨年11月のマル激(第1284回「見逃されてきた『新しいリベラル』の受け皿になるのはどの政党か」、ゲスト・橋本努北海道大学教授)で取り上げた橋本氏らの社会意識調査は、この問いに1つの示唆を与えていた。2022年に約7000人を対象に行われたこの調査では、「従来型リベラル」とは異なる特徴を持つ「新しいリベラル」と呼ぶべき層が、一大勢力となりつつあることが明らかになったという。 ここで言う「新しいリベラル」は、いわゆる護憲左翼的な立場はとらず、再分配そのものには積極的な姿勢を見せる一方で、旧来のリベラルが強調してきた困窮者支援一辺倒ではなく、教育や子育てといった次世代への投資を重視する点が新しいと橋本氏は指摘する。そして問題は、この層の受け皿となる政党が日本にまだ存在しないという事実だ。 中道改革連合こそがその受け皿にならなければならないと語る小川氏は、社会的投資・次世代支援・現役世代への社会保障・一定の経済成長という方向性については、党内に大きな対立はないとも言う。しかし最大の壁は財源問題だ。理想を掲げるだけでは越えられない。 「高い理想を失ってはいけない。しかし日々の政治判断は徹底して現実に即して行わなければならない」。長く野党にいることで現実感覚を失ってきた部分があるかもしれない、と小川氏は言う。理想と現実をどうミックスしていくかが、中道改革連合に問われている課題なのだ。 また、もう1つリベラルが直面している課題は、メディア環境の構造変化である。 SNS空間では、右派的な主張が感情に直接訴えかける。一方、リベラルや左派の主張は理性や制度論を通じて訴えようとするため、どうしても「一手間、二手間かかる」。リベラルはアルゴリズム上、構造的に不利な立場に置かれているのだと小川氏は分析する。 その上で、小川氏は社会全体の右傾化を「時代的危機」と呼ぶ。 歴史を振り返れば、こうした時代の出口はたいてい戦争か革命だった。しかし今われわれは、その一歩手前で踏みとどまり、戦争なき新たな秩序と再分配の仕組みを作り出せるかどうかの瀬戸際にいるのではないか、というのが小川氏の認識である。 右傾化が進む時代の中でリベラルはいかに生き残るのか。「新しいリベラル」の政治的受け皿をどう作るのか。リベラルの理念をいかにして有権者に届けるのか。中道改革連合の小川淳也代表と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。 前半はこちら→so46347147(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/05/25(月) 12:00
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詳細<ディスクロージャー&ディスカバリー>政府による国民の情報収集活動を誰がどうやってチェックするのか
高市政権の目玉政策の一つである「国家情報会議設置法案」の審議が国会で進んでいる。 政府の説明によれば、サイバー攻撃や外国勢力による影響工作、国際テロなどに対応するためには、政府全体の情報収集・分析機能を抜本的に強化する必要があるという。法案は、首相を議長とする「国家情報会議」を新設し、その下に「国家情報局」を置く。警察庁、防衛省、公安調査庁、外務省などが個別に持っている情報を一元的に集約し、政策判断に活かす体制を構築するというのが、法案の骨格である。 しかし、今、われわれが本当に問うべき問いは、「日本に新たな情報機関を作るか否か」なのか。その前に、「日本の情報機関が誰の監視も受けずに活動できる現状を、このまま放置していいのか」が議論される必要があるのではないか。 政府が情報機関を通じてどれほどの国民の情報を収集しているかは、情報公開法を駆使してもわからない。開示請求をしても存否不応答、つまりそのような情報を「持っているとも持っていないとも言えない」という答えしか返ってこないからだ。情報機関は情報公開法の対象からも外れているため、これをどう監視し暴走や情報の濫用をさせないようにするかは、国家にとっては重大な課題となる。 過去には、情報機関や公安警察による違法・不当な監視活動が繰り返し問題となってきた。1999年に発覚した近畿公安調査局による情報公開法制定運動の市民団体への監視。2001年に明らかになった公安調査庁による在日韓国人・朝鮮人の外国人登録票の不正収集。警察が米軍基地反対運動の情報を米軍に提供していた問題。陸上自衛隊によるイラク派遣反対運動参加者の監視。警視庁によるイスラム教徒コミュニティへの一斉監視。大垣署市民監視事件等々、「治安維持」や「情報収集」を名目に、市民活動、宗教活動、外国人コミュニティが繰り返し監視対象となってきた歴史がある。 これらの事件に共通するのは、いずれも内部告発や情報公開請求、訴訟といった事後的な手段によってしか実態が明らかにならなかったという事実だ。日本の情報機関には、その活動を独立して常時チェックする仕組みが、そもそも存在しないからだ。 今国会で議論されている国家情報会議設置法案は、決して新たに「日本版CIA」を作ろうという法案ではない。すでに各省庁に存在する情報機関を、首相のもとで統括・調整するための枠組みを作ろうという法案だ。だからこそ問題の核心は、「何を集めるか」よりも、「誰が監視するのか」にあるべきではないか。 日本では情報機関の活動そのものを監視する制度が極めて脆弱で未整備だ。警察法や各省庁設置法に書かれた任務規定には、「地方の静穏を害するおそれのある騒乱」「公共の安全と秩序を害するおそれのある事案」など、解釈次第でいくらでも拡張可能な文言が並んでいる。誰が、何を根拠に、どこまで情報を集めているのかを外部から検証する手段が、この国にはほとんど用意されていない。 さらに深刻なのが、特定秘密保護法以降の構造変化である。安全保障や外交に関わる情報は長期にわたって秘匿され、政策決定の妥当性を後から検証することが、ますます難しくなっている。アメリカでは一定期間が経過すれば多くの機密文書が解除され、研究者や市民が歴史を再検証する基盤となっている。一方の日本では、秘密指定の延長が繰り返され、関係者が生きている間に公開されない可能性すらある。これでは、政府の判断が正しかったのか、誤っていたのかを、主権者である市民が後世になっても知る手立てがない。 ただし、情報収集能力そのものを全面的に否定する議論には、慎重でなければならない。イラク戦争のとき、日本政府は米国が提供する情報にほぼ全面的に依拠して政策判断を行った。独自の情報収集・分析能力を持たない国家が、他国の情報に依存して重大な決断を下す危うさもまた、看過できないからだ。 問うべきは、「情報機関が必要か否か」でもなければ「情報収集が許されるか否か」でもない。情報機関に対して、どの程度の権限をどのような手続きで与え、その活動を誰がどのように監視するのかが問題なのだ。 情報収集機能の強化と民主的統制は両立できるのか。国家安全保障と市民の自由は、どこでどう線を引くべきなのか。過去の不正な監視事件を出発点に、情報公開クリアリングハウス理事長の三木由希子氏とジャーナリストの神保哲生が議論した。(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/05/25(月) 12:00
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詳細<セーブアース>日本の魚はもっと価値がある/片野歩氏(Fisk Japan 代表取締役・漁業ジャーナリスト)
サンマが高い。サバが小さい。スーパーの鮮魚売り場で「最近、魚が変わった」と感じている人は少なくないはずだ。 第44回セーブアースでは、もったいない日本の漁業と魚の価値というテーマで、Fisk Japan代表で漁業ジャーナリストの片野歩氏と議論した。 片野氏は長年にわたり海外で魚の買い付けに携わり、北欧や北米の漁業現場を間近で見てきた経験から、日本漁業が抱える構造的な問題を発信し続けてきた人物である。 日本の魚が減っていることは中学の教科書にも載っており、日本人にとっては既によく知られた事実だろう。しかし片野氏は、世界の水産生産量は増え続けているにもかかわらず、日本だけが減り続けているという重要な事実をデータを元に指摘する。 世界全体で見れば、天然漁業の漁獲量こそほぼ横ばいだが、養殖の急成長によって水産物の総供給量は一貫して増加している。ところが日本だけは、1980年代に1200万トン近くあった漁獲量が、現在では400万トンを切る水準にまで激減しているのだ。 世界が成長を続けるなかで、日本の漁業だけが「ひとり負け」の状態に陥っているのはなぜか。 日本国内ではこの衰退の原因として、「魚離れ」「漁業者の高齢化」「200海里規制」がしばしば挙げられる。しかし片野氏は、これらは本質ではないと言い切る。最大の問題は、日本人が小さい魚を獲りすぎていることにあるというのだ。 実際、市場には5センチほどのマダイの稚魚や、「ロウソクサバ」と呼ばれる細い幼魚までもが並ぶようになっている。卵を産む前の0歳魚や1歳魚が、次世代を残す前に根こそぎ漁獲されている。これでは資源が増えるはずがない。 しかも問題は、こうして獲られた小型サバの多くが、人間の食用ですらないという点にある。養殖魚の餌や、海外向けの安価な輸出品として処理されているのが実態なのだ。片野氏によれば、日本産サバの輸出価格はノルウェー産サバのおよそ3分の1である。その一方で、日本人は脂の乗ったノルウェー産サバを高値で輸入して食べている。 「昔は逆だったんです。日本のサバのほうがずっと高級魚でした」 片野氏のこの言葉は、本来価値の高いはずの魚を、日本が自ら小さいうちに安く売り飛ばしてしまっている現状を象徴している。 これに対し、北欧の発想はまったく違う。 ノルウェーでは小さい魚を獲ることが厳しく制限されており、漁の主役はあくまで成熟した大型魚だ。サバを8歳から10歳程度まで育ててから獲ることも珍しくないという。 日本が0歳魚を獲り、北欧が10歳魚を獲る。これでは魚の価値に大きな差が出るのは当然である。 しかも北欧では、資源が減れば数年単位の禁漁も辞さない。短期的な漁獲利益よりも、将来にわたって獲り続けられる状態を維持することのほうが優先されているのだ。 その結果、北欧の漁業は高収益産業へと変貌した。アイスランドでは、漁船員の年収が数千万円規模に達するケースもあるという。 魚さえ豊富にあれば、加工も物流も観光もすべてが潤う。魚を守ることは単なる環境保護の問題ではない。地域経済そのものを守ることでもある。 それに対して日本では、「外国船が悪い」「海水温が上がったせいだ」という説明が繰り返されてきた。しかし片野氏は、人間がコントロールできるのは漁獲量だけだと強調する。海水温は変えられない。しかし、どれだけ魚を獲るかは変えられる。 事実、外国船がほとんど関係しない瀬戸内海でも、漁獲量は大きく減少している。問題の本質は、日本自身の資源管理にこそあるのだ。 もちろん、すべてが手遅れというわけではない。国際的な規制が導入されたクロマグロは、現に資源が回復しつつある。きちんと管理すれば魚は戻る。それはすでに実証済みなのだ。 日本の魚は本当はもっと価値がある。そう訴える片野氏とともに、小さいうちに獲って安く売り続けるのか、それとも大きく育てて高い価値を生み出すのか、日本の海を取り巻くもったいない現状について、環境ジャーナリストの井田徹治、キャスターの新井麻希が議論した。(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/05/21(木) 12:00
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詳細<マル激・後半>50年かけて、結局日本人は休み上手になったのか/サンドラ・ヘフェリン氏(コラムニスト)
日本にとっての長年の課題だった日本人の休暇問題。実は50年以上前から日本政府は日本人の休暇問題に取り組んできた。 そこでゴールデンウィークが明けた今、日本人は本当に上手に休めるようになったのかなどを、『ドイツ人の戦略的休み方』の著者でドイツ育ちのコラムニスト、サンドラ・ヘフェリン氏と考えた。 まずドイツと比較する上での大前提として次のことを念頭に置く必要がある。日本は2023年、ドイツに名目GDPを抜かれた。人口が日本の約3分の2しかなく、しかも日本人より遥かに労働時間が短いドイツに、GDPという経済の「規模」でも抜かれたことの意味は大きい。要するに日本の方が遥かに生産性が低く、効率が悪い仕事のしかたをしているということになる。その背景の1つに、もしかすると「休み方」の違いがあるかもしれない、というのが今回の議論の重要な論点となる。 日本社会では長らく、休まず働くことが美徳とされてきた。調べてみると、江戸時代の日本人はかなり暢気でいわゆる勤勉タイプではなかったことが、その後、明治初期に来日した外国人の手記などで明らかになっているが、明治以降、日本は富国強兵政策の下、意図的に日本人を勤勉な民族に改造する政策を推進した。薪を背負いながら読書する二宮尊徳像を全国の小学校に建てたのもその一環だった。こうした政府による刷り込みが功を奏し、いつのまにか「日本人は伝統的に勤勉な民族」という考え方が海外のみならず日本人の間でも既成事実となっていった。 戦後復興から高度経済成長期を経てバブル期に至るまでの期間は、会社への献身や滅私奉公が理想のサラリーマン像として語られ、休むことに後ろめたさを感じる空気が社会全体で共有された。「24時間働けますか」のCMのキャッチコピーを覚えておられる方も多いことだろう。また、高度成長期の日本は世界から「エコノミック・アニマル」という半分嘲笑を込めた、しかしもう半分は畏怖の念を持って見られていたことも歴史的な事実だっだ。明治政府で始まった日本人勤勉化政策は見事な成果をあげていた。 しかしその後、日本政府は長年、日本人を休ませようと努力を続けてきた。1972年には通産省と経済企画庁に「余暇開発室」が設置され、その外郭に余暇開発センターなる団体まで設立している。これは万博を機に日本人ももっと余暇を楽しまなければならないという風潮が広がったことを受けたものだったという見方が一般的のようだが、とりあえずそういう問題意識をもって取り組みは始まったものの、バブル期まではさしたる実効性をあげられずにいた。まだまだ時代は24時間働けますかの時代だった。 政府が本気で労働時間の短縮に取り組まなければならなくなった直接の原因は、他でもない外圧だった。日米の貿易不均衡が両国間で大きな外交問題に発展するようになると、日本はアメリカを宥めるために、日本人の労働時間を減らす圧力に晒された。日本人の長時間労働が安く良質な製品の製造を可能にしていて、それがアメリカ市場を席巻しているというのがアメリカ側の見方だった。1986年と1987年、中曽根政権の下で2つの「前川リポート」が作成され、当時2100時間を超えていた年間労働時間を1800時間まで減らす目標を掲げた。週の法定労働時間は48時間から40時間へ短縮され、祝日も増やした。 それ以来日本政府は一貫して明治政府が撒いた「日本人勤勉化政策」を巻き返すための政策を進めてきた。近年では働き方改革関連法によって残業時間に上限が設けられ、有給休暇の取得も企業に義務付けられるようになった。祝日の数も世界最多レベルの年間16日まで増やした。その結果、統計上は年間労働時間も着実に減少し、まだまだドイツやフランスには追いつかないが、今や日本人の労働時間は最初に日本人の働き過ぎを問題視したアメリカを下回るまでになっている。 確かに量的には休みは増えた。しかし、それでもなお、「うまく休めていない」と感じる日本人が多いようだ。実際、日本の有給休暇取得率は6割程度にとどまり、9割を超えるヨーロッパ諸国と比べると低い。かつては上司や同僚の目を気にして休めないと考える人が多かったようだが、最近では休んでもすることがないことを理由に挙げる人が増えているという。 日本人とドイツ人の文化比較を長年行ってきたヘフェリン氏は、日本では単に労働時間が長いだけでなく、休むことそのものへの価値観がドイツとは根本的に異なると指摘する。ドイツでは休暇は当然の権利であり、休むときは仕事から完全に離れるのが基本だ。一方、日本では休暇中も周囲に迷惑をかけているという感覚を抱きやすく、休暇中も職場とのつながりを断ち切れない人が多い。日本では職場などで自分が「休まない自慢」をする人は多いが、休みがどれだけ楽しかったかやどれだけ充実していたかを自慢する人はほとんどいないのではないか。 また日本では、忙しいことが美徳とされてきた歴史もある。「働かざる者食うべからず」は元は聖書やレーニンが語源のようだが、日本では今もそれが諺のように扱われている。睡眠時間を削って働くことや、多忙であることを誇らしく語る文化は、以前ほどではなくても今も残っている。これが明治政府の撒いた種が原因だとすれば、その政策を推進した山県有朋、恐るべしである。 ドイツを含むヨーロッパでは、法定の年次休暇の日数は日本と大差なくなってきているが、取り方に大きな違いがある。長期休暇を取り、家族や友人と旅行したり自然の中で過ごしたりするバカンス文化が根付いている。しかし日本では、長期休暇そのものが取りづらい上、休みがあっても何をしていいかわからないと感じる人も少なくない。半世紀以上前に設立された余暇開発センターは何をやってきたのだろう。 内閣府の2025年8月の調査では、「自由時間に何をするか」という問いに対し、「睡眠・休養」が53.7%でもっとも多かった。一方で、「旅行」は19.7%、「友人や恋人との交際」は18.3%、「習い事」は12.0%、「ボランティア活動」は5.8%にとどまった。日本人の平均睡眠時間はOECD30カ国中でもっとも短い7時間42分で、平均の8時間27分を大きく下回っている。普段十分に寝ていないからこの時とばかりに休みの日に「寝だめ」をしようと考える人が多いのかもしれない。 ヘフェリン氏は、「週末に疲れて寝ているだけでは残念だ。本来は、休日を充実して過ごせるような働き方であるべきだ」と指摘する。ドイツ人は年初にその年の休暇の計画を決め、それを前提に仕事のスケジュールを調整するのが当たり前なのだと言う。 休むことをどう捉えるかは、働くことや人生をどう考えるかに直結している。日本人の休み方にはどのような特徴があるのか、ドイツ人の休み方から何が学べるかなどについて、ヘフェリン氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。前半はこちら→so46317976(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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会員無料 55:04
詳細<マル激・前半>50年かけて、結局日本人は休み上手になったのか/サンドラ・ヘフェリン氏(コラムニスト)
日本にとっての長年の課題だった日本人の休暇問題。実は50年以上前から日本政府は日本人の休暇問題に取り組んできた。 そこでゴールデンウィークが明けた今、日本人は本当に上手に休めるようになったのかなどを、『ドイツ人の戦略的休み方』の著者でドイツ育ちのコラムニスト、サンドラ・ヘフェリン氏と考えた。 まずドイツと比較する上での大前提として次のことを念頭に置く必要がある。日本は2023年、ドイツに名目GDPを抜かれた。人口が日本の約3分の2しかなく、しかも日本人より遥かに労働時間が短いドイツに、GDPという経済の「規模」でも抜かれたことの意味は大きい。要するに日本の方が遥かに生産性が低く、効率が悪い仕事のしかたをしているということになる。その背景の1つに、もしかすると「休み方」の違いがあるかもしれない、というのが今回の議論の重要な論点となる。 日本社会では長らく、休まず働くことが美徳とされてきた。調べてみると、江戸時代の日本人はかなり暢気でいわゆる勤勉タイプではなかったことが、その後、明治初期に来日した外国人の手記などで明らかになっているが、明治以降、日本は富国強兵政策の下、意図的に日本人を勤勉な民族に改造する政策を推進した。薪を背負いながら読書する二宮尊徳像を全国の小学校に建てたのもその一環だった。こうした政府による刷り込みが功を奏し、いつのまにか「日本人は伝統的に勤勉な民族」という考え方が海外のみならず日本人の間でも既成事実となっていった。 戦後復興から高度経済成長期を経てバブル期に至るまでの期間は、会社への献身や滅私奉公が理想のサラリーマン像として語られ、休むことに後ろめたさを感じる空気が社会全体で共有された。「24時間働けますか」のCMのキャッチコピーを覚えておられる方も多いことだろう。また、高度成長期の日本は世界から「エコノミック・アニマル」という半分嘲笑を込めた、しかしもう半分は畏怖の念を持って見られていたことも歴史的な事実だっだ。明治政府で始まった日本人勤勉化政策は見事な成果をあげていた。 しかしその後、日本政府は長年、日本人を休ませようと努力を続けてきた。1972年には通産省と経済企画庁に「余暇開発室」が設置され、その外郭に余暇開発センターなる団体まで設立している。これは万博を機に日本人ももっと余暇を楽しまなければならないという風潮が広がったことを受けたものだったという見方が一般的のようだが、とりあえずそういう問題意識をもって取り組みは始まったものの、バブル期まではさしたる実効性をあげられずにいた。まだまだ時代は24時間働けますかの時代だった。 政府が本気で労働時間の短縮に取り組まなければならなくなった直接の原因は、他でもない外圧だった。日米の貿易不均衡が両国間で大きな外交問題に発展するようになると、日本はアメリカを宥めるために、日本人の労働時間を減らす圧力に晒された。日本人の長時間労働が安く良質な製品の製造を可能にしていて、それがアメリカ市場を席巻しているというのがアメリカ側の見方だった。1986年と1987年、中曽根政権の下で2つの「前川リポート」が作成され、当時2100時間を超えていた年間労働時間を1800時間まで減らす目標を掲げた。週の法定労働時間は48時間から40時間へ短縮され、祝日も増やした。 それ以来日本政府は一貫して明治政府が撒いた「日本人勤勉化政策」を巻き返すための政策を進めてきた。近年では働き方改革関連法によって残業時間に上限が設けられ、有給休暇の取得も企業に義務付けられるようになった。祝日の数も世界最多レベルの年間16日まで増やした。その結果、統計上は年間労働時間も着実に減少し、まだまだドイツやフランスには追いつかないが、今や日本人の労働時間は最初に日本人の働き過ぎを問題視したアメリカを下回るまでになっている。 確かに量的には休みは増えた。しかし、それでもなお、「うまく休めていない」と感じる日本人が多いようだ。実際、日本の有給休暇取得率は6割程度にとどまり、9割を超えるヨーロッパ諸国と比べると低い。かつては上司や同僚の目を気にして休めないと考える人が多かったようだが、最近では休んでもすることがないことを理由に挙げる人が増えているという。 日本人とドイツ人の文化比較を長年行ってきたヘフェリン氏は、日本では単に労働時間が長いだけでなく、休むことそのものへの価値観がドイツとは根本的に異なると指摘する。ドイツでは休暇は当然の権利であり、休むときは仕事から完全に離れるのが基本だ。一方、日本では休暇中も周囲に迷惑をかけているという感覚を抱きやすく、休暇中も職場とのつながりを断ち切れない人が多い。日本では職場などで自分が「休まない自慢」をする人は多いが、休みがどれだけ楽しかったかやどれだけ充実していたかを自慢する人はほとんどいないのではないか。 また日本では、忙しいことが美徳とされてきた歴史もある。「働かざる者食うべからず」は元は聖書やレーニンが語源のようだが、日本では今もそれが諺のように扱われている。睡眠時間を削って働くことや、多忙であることを誇らしく語る文化は、以前ほどではなくても今も残っている。これが明治政府の撒いた種が原因だとすれば、その政策を推進した山県有朋、恐るべしである。 ドイツを含むヨーロッパでは、法定の年次休暇の日数は日本と大差なくなってきているが、取り方に大きな違いがある。長期休暇を取り、家族や友人と旅行したり自然の中で過ごしたりするバカンス文化が根付いている。しかし日本では、長期休暇そのものが取りづらい上、休みがあっても何をしていいかわからないと感じる人も少なくない。半世紀以上前に設立された余暇開発センターは何をやってきたのだろう。 内閣府の2025年8月の調査では、「自由時間に何をするか」という問いに対し、「睡眠・休養」が53.7%でもっとも多かった。一方で、「旅行」は19.7%、「友人や恋人との交際」は18.3%、「習い事」は12.0%、「ボランティア活動」は5.8%にとどまった。日本人の平均睡眠時間はOECD30カ国中でもっとも短い7時間42分で、平均の8時間27分を大きく下回っている。普段十分に寝ていないからこの時とばかりに休みの日に「寝だめ」をしようと考える人が多いのかもしれない。 ヘフェリン氏は、「週末に疲れて寝ているだけでは残念だ。本来は、休日を充実して過ごせるような働き方であるべきだ」と指摘する。ドイツ人は年初にその年の休暇の計画を決め、それを前提に仕事のスケジュールを調整するのが当たり前なのだと言う。 休むことをどう捉えるかは、働くことや人生をどう考えるかに直結している。日本人の休み方にはどのような特徴があるのか、ドイツ人の休み方から何が学べるかなどについて、ヘフェリン氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。後半はこちら→so46318195(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/05/18(月) 12:00
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詳細<マル激・後半>国民医療費抑制の議論に欠けている「患者」という視点/勝村久司氏(「医療情報の公開・開示を求める市民の会」世話人)
医療費の増大をどう抑えるのか。いま日本の医療政策は、その一点に強く引き寄せられている。 健康保険法等改正案が4月28日に衆議院を通過し、現在、参議院で審議が続いている。改正案には、市販薬としても流通している処方薬について患者に追加負担を求める制度や、後期高齢者医療制度における保険料や窓口負担に金融資産を反映させる仕組みなどが盛り込まれた。さらに、いったん凍結された高額療養費制度の自己負担上限額引き上げも、一部の低所得者などを除いて今年8月から実施される方向が固まっている。 背景にあるのは、膨張を続ける国民医療費だ。高齢化と医療技術の高度化を背景に、2023年度の国民医療費は48兆円を超えた。財政の持続可能性を考えれば、負担能力に応じた負担増や世代間の公平化が必要だという議論には一定の合理性がある。しかし、その議論のプロセスにおいて、実際に病を抱え、日々治療を受けている患者たちの声は、どこまで反映されているのだろうか。 その問題が一気に表面化したのが、高額療養費制度の見直しをめぐる議論だった。 現行制度では、患者が1カ月に支払う医療費には年収に応じた上限が設けられており、それを超えた分は公的医療保険が負担する。重い病気や長期治療を必要とする患者にとって、この制度は文字通り命綱ともいえる制度だ。しかし、政府は一昨年末、この上限額を大幅に引き上げる方針を事実上の既定路線として予算案に盛り込もうとした。 これに強く反発したのが患者団体だった。短期間のうちに当事者の声が集まり、「これ以上負担が増えれば治療を断念せざるを得ない」「生活そのものが立ち行かなくなる」という切実な訴えが社会に広がった。その結果、政府は昨年3月、いったん引き上げを見送る判断を余儀なくされた。 この問題は、単なる財源論ではない。誰のための医療制度なのかという、制度設計そのものの問題を浮き彫りにした出来事だった。 今回のゲスト、勝村久司氏は、中央社会保険医療協議会、いわゆる「中医協」で初めて患者代表委員を務めた人物だ。医療事故の被害当事者でもある勝村氏は、長年、医療制度改革の議論に患者の視点を持ち込む活動を続けてきた。 勝村氏によれば、日本の医療費議論は、往々にして医療業界団体同士の利害調整に終始しがちだという。診療報酬や薬価の決定過程では、医師会、病院団体、製薬業界などの意見は強く反映される一方で、患者の声は制度的にきわめて弱い立場に置かれてきた。 しかも、議論は「医療費総額をどう抑えるか」という抽象論に偏りがちで、「どの医療に、なぜ、その価格がついているのか」という中身の議論がほとんど行われていないと勝村氏は指摘する。 なぜ、その薬に高い薬価がつくのか。なぜ、その加算が必要なのか。逆に、本当に必要な医療行為の評価が不当に低く抑えられてはいないか。 そうした議論抜きに、単に総額抑制だけを進めれば、最終的にしわ寄せを受けるのは患者だ。 勝村氏が中医協委員時代に力を入れたのが、診療明細書の無料発行の義務化だった。現在では、医療機関で必ず患者に渡される診療明細書には、検査や処置、薬剤名、そしてそれぞれに対応する診療報酬点数が記載されている。しかし、この制度が実現する以前、患者は自分がどのような医療を受け、その医療にどれだけの公的費用が使われているのかを知る手段すら乏しかった。 勝村氏は、患者が医療の内容とコストを知ることではじめて、医療制度の議論に主体的に参加できるようになると主張する。 医療制度改革は、単なる財政論なのか。それとも、社会が「命」とどう向き合うかという価値判断の問題なのか。患者負担増が次々と議論される中、医療制度の意思決定に患者の声をどう反映させるべきなのかについて、勝村久司氏と、社会学者の宮台真司、ジャーナリストの迫田朋子が議論した。前半はこちら→so46288760(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/05/11(月) 12:00
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会員無料 53:40
詳細<マル激・前半>国民医療費抑制の議論に欠けている「患者」という視点/勝村久司氏(「医療情報の公開・開示を求める市民の会」世話人)
医療費の増大をどう抑えるのか。いま日本の医療政策は、その一点に強く引き寄せられている。 健康保険法等改正案が4月28日に衆議院を通過し、現在、参議院で審議が続いている。改正案には、市販薬としても流通している処方薬について患者に追加負担を求める制度や、後期高齢者医療制度における保険料や窓口負担に金融資産を反映させる仕組みなどが盛り込まれた。さらに、いったん凍結された高額療養費制度の自己負担上限額引き上げも、一部の低所得者などを除いて今年8月から実施される方向が固まっている。 背景にあるのは、膨張を続ける国民医療費だ。高齢化と医療技術の高度化を背景に、2023年度の国民医療費は48兆円を超えた。財政の持続可能性を考えれば、負担能力に応じた負担増や世代間の公平化が必要だという議論には一定の合理性がある。しかし、その議論のプロセスにおいて、実際に病を抱え、日々治療を受けている患者たちの声は、どこまで反映されているのだろうか。 その問題が一気に表面化したのが、高額療養費制度の見直しをめぐる議論だった。 現行制度では、患者が1カ月に支払う医療費には年収に応じた上限が設けられており、それを超えた分は公的医療保険が負担する。重い病気や長期治療を必要とする患者にとって、この制度は文字通り命綱ともいえる制度だ。しかし、政府は一昨年末、この上限額を大幅に引き上げる方針を事実上の既定路線として予算案に盛り込もうとした。 これに強く反発したのが患者団体だった。短期間のうちに当事者の声が集まり、「これ以上負担が増えれば治療を断念せざるを得ない」「生活そのものが立ち行かなくなる」という切実な訴えが社会に広がった。その結果、政府は昨年3月、いったん引き上げを見送る判断を余儀なくされた。 この問題は、単なる財源論ではない。誰のための医療制度なのかという、制度設計そのものの問題を浮き彫りにした出来事だった。 今回のゲスト、勝村久司氏は、中央社会保険医療協議会、いわゆる「中医協」で初めて患者代表委員を務めた人物だ。医療事故の被害当事者でもある勝村氏は、長年、医療制度改革の議論に患者の視点を持ち込む活動を続けてきた。 勝村氏によれば、日本の医療費議論は、往々にして医療業界団体同士の利害調整に終始しがちだという。診療報酬や薬価の決定過程では、医師会、病院団体、製薬業界などの意見は強く反映される一方で、患者の声は制度的にきわめて弱い立場に置かれてきた。 しかも、議論は「医療費総額をどう抑えるか」という抽象論に偏りがちで、「どの医療に、なぜ、その価格がついているのか」という中身の議論がほとんど行われていないと勝村氏は指摘する。 なぜ、その薬に高い薬価がつくのか。なぜ、その加算が必要なのか。逆に、本当に必要な医療行為の評価が不当に低く抑えられてはいないか。 そうした議論抜きに、単に総額抑制だけを進めれば、最終的にしわ寄せを受けるのは患者だ。 勝村氏が中医協委員時代に力を入れたのが、診療明細書の無料発行の義務化だった。現在では、医療機関で必ず患者に渡される診療明細書には、検査や処置、薬剤名、そしてそれぞれに対応する診療報酬点数が記載されている。しかし、この制度が実現する以前、患者は自分がどのような医療を受け、その医療にどれだけの公的費用が使われているのかを知る手段すら乏しかった。 勝村氏は、患者が医療の内容とコストを知ることではじめて、医療制度の議論に主体的に参加できるようになると主張する。 医療制度改革は、単なる財政論なのか。それとも、社会が「命」とどう向き合うかという価値判断の問題なのか。患者負担増が次々と議論される中、医療制度の意思決定に患者の声をどう反映させるべきなのかについて、勝村久司氏と、社会学者の宮台真司、ジャーナリストの迫田朋子が議論した。後半はこちら→so46288873(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/05/11(月) 12:00
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詳細<マル激・後半>武器輸出の全面解禁で日本は何を得て何を失うのか/青井未帆氏(学習院大学法科大学院教授)
日本は武器で稼がなければならないほど落ちぶれた国になるのか。 高市政権は4月21日、武器輸出に関する歯止め規定を撤廃した。「防衛装備移転三原則」とその運用指針を改定し、これまで認めてこなかった殺傷能力のある武器の輸出を可能にしたのだ。 政府は「防衛装備移転三原則」を閣議決定で、その運用指針を国家安全保障会議(NSC)で改定した。「防衛装備移転三原則」は、2014年に安倍政権が策定したものだ。安倍政権は1976年の三木内閣以来日本が堅持してきた武器輸出の全面禁止の方針を転換し、一定の条件のもとで輸出を認める枠組みを導入したが、ただ一点、殺傷能力のある兵器の輸出だけは禁止の対象であり続けた。今回高市政権はその最後の条件をも解除した。長らく武器の輸出を禁止してきた日本にとっては、平和国家を象徴する看板ともいうべきその大方針が、いま大きく転換されたことになる。 日本の武器輸出禁止の歴史は古い。1967年、佐藤栄作首相が「武器輸出三原則」を打ち出し、共産圏や紛争当事国への武器輸出を禁じた。さらに1976年、三木武夫首相が「西側諸国への武器輸出も慎む」方針を示したことで、事実上の全面禁輸体制が確立した。 もっとも、その後は例外が積み重ねられ、徐々に緩和が進んできたのも事実だ。中曽根政権下ではアメリカへの輸出については例外とする方針が設けられたほか、民主党の野田政権では、国際共同開発や平和貢献を目的とする場合の輸出を認める基準が新たに設けられた。 そのような例外が設けられながらも、安倍政権までは「日本は武器を輸出しない国」という平和国家としての看板は掲げ続けてきた。2014年、安倍政権は「武器輸出三原則」に代わり新たに「防衛装備移転三原則」を定め、兵器の中でも「救難・輸送・警戒・監視・掃海」の5類型に該当するものに限って例外的に輸出を認める仕組みが設けられた。しかし、戦闘機やミサイル、軍艦など殺傷能力を持つ兵器の輸出だけは禁止が維持されたが、今回高市政権はその5類型の枠そのものを撤廃し、殺傷兵器の輸出を全面的に解禁した形だ。 もっとも殺傷兵器を除いた兵器の輸出が可能になった2014年以降の10年余、実際に日本が完成した装備品を輸出できたのは、2020年に三菱電機がフィリピンに輸出した警戒管制レーダーの1件だけだった。 今回の殺傷兵器の輸出解禁にあたり高市政権は、防衛産業の成長を大きな目標に掲げている。しかし、防衛ジャーナリストの半田滋氏は、武器輸出が大きな成長戦略になる可能性は低いとの見方を示す。その理由として半田氏は、日本製の兵器は市場価格よりも値段が高い傾向があり、また自衛隊という独自の運用思想に合わせて設計されているため、汎用性に乏しいことを理由に挙げる。結局、自衛隊の中古品を主に発展途上国に買ってもらう程度にとどまるのではないかというのが、半田氏の見立てだ。 1976年、三木政権の宮澤喜一外相は国会で「わが国は兵器の輸出をして金を稼ぐほど落ちぶれてはいない」と答弁したが、今年3月17日の参院予算委員会でこの宮澤発言への感想を求められた高市首相は、「時代が変わった」、武器を輸出することが「落ちぶれたことだとは思わない」と答弁している。 学習院大学の青井未帆教授は、十分な根拠や説明が示されないまま、「時代が変わった」というだけでこれほど大きな方針転換が行われたことは「驚愕だ」と批判する。さらに青井氏は、今回の制度変更では武器の輸出先が日本と協定を結んだ国に限定されている点にも注意が必要だと語る。中国やイスラエルなどを対象外とすることで、日本の対外関係を敵味方に明確に色分けしてしまうことにつながるからだ。 今回の政策方針はその決定プロセスにも問題が多い。青井氏は、もともと武器輸出規制の議論は国会での議論を通じて形成されてきたものなのに、国会での十分な審議もなく、閣議決定や国家安全保障会議(NSC)のみであっさり方針転換が行われたことを問題視する。 問われているのは、日本がどのような平和国家像を掲げるのかだ。日本が作った武器によって人が殺されていいのかという直球の議論が必要だと青井氏は語る。 武器輸出の解禁は本当に日本の防衛産業の成長につながるのか。武器を輸出しない平和国家の看板を下ろしてまで、今ここで武器輸出を始めるメリットがあるのか。武器輸出三原則をなし崩し的に放棄してしまった日本を、次は何が待っているのか。学習院大学法科大学院教授の青井未帆氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。前半はこちら→so46258290(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/05/04(月) 12:00
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会員無料 55:19
詳細<マル激・前半>武器輸出の全面解禁で日本は何を得て何を失うのか/青井未帆氏(学習院大学法科大学院教授)
日本は武器で稼がなければならないほど落ちぶれた国になるのか。 高市政権は4月21日、武器輸出に関する歯止め規定を撤廃した。「防衛装備移転三原則」とその運用指針を改定し、これまで認めてこなかった殺傷能力のある武器の輸出を可能にしたのだ。 政府は「防衛装備移転三原則」を閣議決定で、その運用指針を国家安全保障会議(NSC)で改定した。「防衛装備移転三原則」は、2014年に安倍政権が策定したものだ。安倍政権は1976年の三木内閣以来日本が堅持してきた武器輸出の全面禁止の方針を転換し、一定の条件のもとで輸出を認める枠組みを導入したが、ただ一点、殺傷能力のある兵器の輸出だけは禁止の対象であり続けた。今回高市政権はその最後の条件をも解除した。長らく武器の輸出を禁止してきた日本にとっては、平和国家を象徴する看板ともいうべきその大方針が、いま大きく転換されたことになる。 日本の武器輸出禁止の歴史は古い。1967年、佐藤栄作首相が「武器輸出三原則」を打ち出し、共産圏や紛争当事国への武器輸出を禁じた。さらに1976年、三木武夫首相が「西側諸国への武器輸出も慎む」方針を示したことで、事実上の全面禁輸体制が確立した。 もっとも、その後は例外が積み重ねられ、徐々に緩和が進んできたのも事実だ。中曽根政権下ではアメリカへの輸出については例外とする方針が設けられたほか、民主党の野田政権では、国際共同開発や平和貢献を目的とする場合の輸出を認める基準が新たに設けられた。 そのような例外が設けられながらも、安倍政権までは「日本は武器を輸出しない国」という平和国家としての看板は掲げ続けてきた。2014年、安倍政権は「武器輸出三原則」に代わり新たに「防衛装備移転三原則」を定め、兵器の中でも「救難・輸送・警戒・監視・掃海」の5類型に該当するものに限って例外的に輸出を認める仕組みが設けられた。しかし、戦闘機やミサイル、軍艦など殺傷能力を持つ兵器の輸出だけは禁止が維持されたが、今回高市政権はその5類型の枠そのものを撤廃し、殺傷兵器の輸出を全面的に解禁した形だ。 もっとも殺傷兵器を除いた兵器の輸出が可能になった2014年以降の10年余、実際に日本が完成した装備品を輸出できたのは、2020年に三菱電機がフィリピンに輸出した警戒管制レーダーの1件だけだった。 今回の殺傷兵器の輸出解禁にあたり高市政権は、防衛産業の成長を大きな目標に掲げている。しかし、防衛ジャーナリストの半田滋氏は、武器輸出が大きな成長戦略になる可能性は低いとの見方を示す。その理由として半田氏は、日本製の兵器は市場価格よりも値段が高い傾向があり、また自衛隊という独自の運用思想に合わせて設計されているため、汎用性に乏しいことを理由に挙げる。結局、自衛隊の中古品を主に発展途上国に買ってもらう程度にとどまるのではないかというのが、半田氏の見立てだ。 1976年、三木政権の宮澤喜一外相は国会で「わが国は兵器の輸出をして金を稼ぐほど落ちぶれてはいない」と答弁したが、今年3月17日の参院予算委員会でこの宮澤発言への感想を求められた高市首相は、「時代が変わった」、武器を輸出することが「落ちぶれたことだとは思わない」と答弁している。 学習院大学の青井未帆教授は、十分な根拠や説明が示されないまま、「時代が変わった」というだけでこれほど大きな方針転換が行われたことは「驚愕だ」と批判する。さらに青井氏は、今回の制度変更では武器の輸出先が日本と協定を結んだ国に限定されている点にも注意が必要だと語る。中国やイスラエルなどを対象外とすることで、日本の対外関係を敵味方に明確に色分けしてしまうことにつながるからだ。 今回の政策方針はその決定プロセスにも問題が多い。青井氏は、もともと武器輸出規制の議論は国会での議論を通じて形成されてきたものなのに、国会での十分な審議もなく、閣議決定や国家安全保障会議(NSC)のみであっさり方針転換が行われたことを問題視する。 問われているのは、日本がどのような平和国家像を掲げるのかだ。日本が作った武器によって人が殺されていいのかという直球の議論が必要だと青井氏は語る。 武器輸出の解禁は本当に日本の防衛産業の成長につながるのか。武器を輸出しない平和国家の看板を下ろしてまで、今ここで武器輸出を始めるメリットがあるのか。武器輸出三原則をなし崩し的に放棄してしまった日本を、次は何が待っているのか。学習院大学法科大学院教授の青井未帆氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。後半はこちら→so46258694(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/05/04(月) 12:00
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詳細<マル激・後半>人質司法における裁判官の責任を問うことの意味とは/高野隆氏(弁護士、大川原化工機事件「裁判官の責任を問う訴訟」弁護団長)
人質司法。被疑者が容疑を否認すれば容易には保釈を認めず、長期間身柄を拘束し続けることで自白や検察の描いたシナリオに沿った供述を引き出していく。世界に恥ずべき日本のこの異常な刑事司法慣行については、ビデオニュースでも繰り返し取り上げてきた。 国連の人権委員会からは「拷問」に当たるとして再三の改善勧告を受けてきたが、日本国内では今もこの慣行が当たり前のように続いている。 その人質司法をめぐって、これまでにない動きがあった。大川原化工機事件で勾留中に死亡した被疑者の遺族が、不当な身体拘束を決定した裁判官37人を実名で挙げて国家賠償を求める訴訟を提起したのだ。 長期勾留された元被疑者や元被告が、警察・検察の捜査が違法だったとして国家賠償を求める訴訟はこれまでも繰り返し提起されてきた。しかし、勾留令状の発付や保釈請求の却下を行った裁判官個人の責任を、判決ではなく身体拘束の判断について、しかも実名で問う国賠訴訟は、おそらく前代未聞である。 訴訟を起こしたのは、大川原化工機の元顧問・相嶋静夫氏の遺族だ。相嶋氏は勾留中に末期がんと診断されながら、なお身体拘束を解かれることなく勾留中の身のまま死亡した。遺族は4月6日、相嶋氏の保釈を認めず、あるいは勾留を継続する判断を下した裁判官37人を名指しで挙げ、国に対し約1億6800万円の損害賠償を求めて提訴した。 事件の発端は、2020年3月、警視庁公安部が大川原化工機の幹部3人を外為法違反の容疑で逮捕したことに遡る。同社が輸出した噴霧乾燥機が、生物兵器の製造に転用可能な軍事関連物資にあたるとして、無許可輸出の疑いがかけられた。 相嶋氏は勾留中に胃がんと診断されたが、保釈請求はことごとく却下された。最終的に勾留執行停止で入院が認められたものの、すでに手遅れだった。同時に逮捕された大川原正明社長と島田順司氏も相嶋氏と同じく容疑を全面的に否認し続けたため、その勾留は332日間に及んだ。 ところが、その後の調査で、この事件は警察が無理筋のストーリーを仕立て上げたものであることが明らかになる。検察は公判前に起訴を取り消すという、極めて異例の対応を取らざるを得なかった。 大川原化工機側が警察・検察の捜査の違法性を問うた国家賠償訴訟では、すでに国の責任が認められ賠償が確定している。しかし、事件のもう一方の当事者であるはずの令状を発付し、保釈請求を繰り返し却下した裁判官たちの責任は、これまで一度も問われてこなかった。 弁護団長の高野隆氏は、末期がんと診断された相嶋氏に対してすら「罪証隠滅のおそれ」を理由に7回も保釈請求を却下した裁判所の判断は、著しく不当だったと語る。 刑事訴訟法89条は、保釈請求があれば原則としてこれを認めなければならないと定めている。例外として保釈を却下できるのは、「罪証隠滅のおそれ」などが認められる場合に限られる。ところが実務では、被疑者が否認しているという一事をもって「罪証隠滅のおそれあり」と判断され、原則と例外が事実上逆転しているのが現実だ。 長期勾留は被疑者・被告人やその家族の生活、職業、社会活動に甚大な打撃を与えると同時に、無理矢理自白を引き出すための、いわば「検察の武器」として機能してきた。 ビデオニュースのインタビューに応じた元ベテラン裁判官の藤井敏明氏は、自身の経験を振り返りながら、裁判官は身体拘束が当事者に及ぼす負担や不利益を十分に認識しないまま「罪証隠滅のおそれ」を広く解釈し、安易に保釈請求を却下していると、自省を込めて語る。また藤井氏は、たとえ最終的に有罪判決が下されたとしても、判決確定前の長期勾留は終わりが見えないという意味で、刑の執行そのものよりも当事者に大きな負担を強いる場合があると指摘する。 今回、裁判官個人を被告とする国賠訴訟が起こされた意義はどこにあるのか。日本の裁判官はなぜこれほどまでに容易に保釈を認めないのか。相嶋静夫氏のような悲劇を繰り返さないために何が必要なのか。そして、裁判官の判断に対する責任追及はなぜこれほどまでに難しいのか。数々の著名な刑事事件を担当し、その多くで無罪判決を獲得してきた歴戦の刑事弁護士で、大川原化工機事件「裁判官の責任を問う訴訟」の弁護団長を務める高野隆氏とともに、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。前半はこちら→so46227499(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/04/27(月) 12:00
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詳細<マル激・前半>人質司法における裁判官の責任を問うことの意味とは/高野隆氏(弁護士、大川原化工機事件「裁判官の責任を問う訴訟」弁護団長)
人質司法。被疑者が容疑を否認すれば容易には保釈を認めず、長期間身柄を拘束し続けることで自白や検察の描いたシナリオに沿った供述を引き出していく。世界に恥ずべき日本のこの異常な刑事司法慣行については、ビデオニュースでも繰り返し取り上げてきた。 国連の人権委員会からは「拷問」に当たるとして再三の改善勧告を受けてきたが、日本国内では今もこの慣行が当たり前のように続いている。 その人質司法をめぐって、これまでにない動きがあった。大川原化工機事件で勾留中に死亡した被疑者の遺族が、不当な身体拘束を決定した裁判官37人を実名で挙げて国家賠償を求める訴訟を提起したのだ。 長期勾留された元被疑者や元被告が、警察・検察の捜査が違法だったとして国家賠償を求める訴訟はこれまでも繰り返し提起されてきた。しかし、勾留令状の発付や保釈請求の却下を行った裁判官個人の責任を、判決ではなく身体拘束の判断について、しかも実名で問う国賠訴訟は、おそらく前代未聞である。 訴訟を起こしたのは、大川原化工機の元顧問・相嶋静夫氏の遺族だ。相嶋氏は勾留中に末期がんと診断されながら、なお身体拘束を解かれることなく勾留中の身のまま死亡した。遺族は4月6日、相嶋氏の保釈を認めず、あるいは勾留を継続する判断を下した裁判官37人を名指しで挙げ、国に対し約1億6800万円の損害賠償を求めて提訴した。 事件の発端は、2020年3月、警視庁公安部が大川原化工機の幹部3人を外為法違反の容疑で逮捕したことに遡る。同社が輸出した噴霧乾燥機が、生物兵器の製造に転用可能な軍事関連物資にあたるとして、無許可輸出の疑いがかけられた。 相嶋氏は勾留中に胃がんと診断されたが、保釈請求はことごとく却下された。最終的に勾留執行停止で入院が認められたものの、すでに手遅れだった。同時に逮捕された大川原正明社長と島田順司氏も相嶋氏と同じく容疑を全面的に否認し続けたため、その勾留は332日間に及んだ。 ところが、その後の調査で、この事件は警察が無理筋のストーリーを仕立て上げたものであることが明らかになる。検察は公判前に起訴を取り消すという、極めて異例の対応を取らざるを得なかった。 大川原化工機側が警察・検察の捜査の違法性を問うた国家賠償訴訟では、すでに国の責任が認められ賠償が確定している。しかし、事件のもう一方の当事者であるはずの令状を発付し、保釈請求を繰り返し却下した裁判官たちの責任は、これまで一度も問われてこなかった。 弁護団長の高野隆氏は、末期がんと診断された相嶋氏に対してすら「罪証隠滅のおそれ」を理由に7回も保釈請求を却下した裁判所の判断は、著しく不当だったと語る。 刑事訴訟法89条は、保釈請求があれば原則としてこれを認めなければならないと定めている。例外として保釈を却下できるのは、「罪証隠滅のおそれ」などが認められる場合に限られる。ところが実務では、被疑者が否認しているという一事をもって「罪証隠滅のおそれあり」と判断され、原則と例外が事実上逆転しているのが現実だ。 長期勾留は被疑者・被告人やその家族の生活、職業、社会活動に甚大な打撃を与えると同時に、無理矢理自白を引き出すための、いわば「検察の武器」として機能してきた。 ビデオニュースのインタビューに応じた元ベテラン裁判官の藤井敏明氏は、自身の経験を振り返りながら、裁判官は身体拘束が当事者に及ぼす負担や不利益を十分に認識しないまま「罪証隠滅のおそれ」を広く解釈し、安易に保釈請求を却下していると、自省を込めて語る。また藤井氏は、たとえ最終的に有罪判決が下されたとしても、判決確定前の長期勾留は終わりが見えないという意味で、刑の執行そのものよりも当事者に大きな負担を強いる場合があると指摘する。 今回、裁判官個人を被告とする国賠訴訟が起こされた意義はどこにあるのか。日本の裁判官はなぜこれほどまでに容易に保釈を認めないのか。相嶋静夫氏のような悲劇を繰り返さないために何が必要なのか。そして、裁判官の判断に対する責任追及はなぜこれほどまでに難しいのか。数々の著名な刑事事件を担当し、その多くで無罪判決を獲得してきた歴戦の刑事弁護士で、大川原化工機事件「裁判官の責任を問う訴訟」の弁護団長を務める高野隆氏とともに、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。後半はこちら→so46227500(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/04/27(月) 12:00