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会員無料 38:31
詳細<マル激・後半>副首都法から大阪都構想へという強引な流れは一度断ち切るべきだ/幸田雅治氏(弁護士・神奈川大学名誉教授)
何のための、誰のための副首都法なのか。 国会会期を延長してまで通した副首都法だったが、背景には日本維新の会が強く主張してきた大阪都構想があり、政治的な動きばかりが目立つ。その一方で、この法律は住民にとってどういう意味があり、どのような課題があるのかが見えてこない。 自民・維新の連立合意書にかかげられていた副首都法案は、与党が多数を占める衆議院を通過したあと、国会の会期を延長して参議院で審議入りし、7月24日に賛成123票、反対121票の僅差で可決した。国土政策にかかわる重要な内容であるにもかかわらず政府提出ではなく議員立法という形で提出されたこの法案は、議論が不十分なまま極めて短時間で成立している。 副首都法は大規模災害に備え副首都を整備することを目的としているが、その要件は今後政令で定めるとされており、国の出先機関をどうするかや、すでに決定されている国土計画との関係など、不明な点が多い。地方自治が専門の幸田雅治・神奈川大学名誉教授は、大規模災害という観点からいっても、首都直下地震だけでなく南海トラフ地震などの大規模災害が想定されていることを考えれば、首都機能の複数地域への分散を考えるべきで巨大な副首都をつくる合理性はないと指摘する。 維新がこの法律の成立を急いだ背景には、大阪都構想がある。大都市大阪の「市」を廃止して東京23区と同様な特別区を設置する大阪都構想は、これまで2度の住民投票で否決されてきた。吉村代表は、副首都法成立後の記者会見で、来年の統一地方選挙に合わせて大阪都構想の住民投票の同日実施を目指したいと発言し、物議をかもした。成立した副首都法の付帯決議に、地方選と住民投票の日程が重複しないように最大限調整する、とあるにもかかわらずの発言だったからだ。すでに、8月7日の大阪都構想の法定協議会では、現在の大阪市を4つの特別区に分ける案が示されており、今後これをもとに議論が進んでいくと考えられている。 大阪市を廃止して特別区になるとどうなるのか。東京23区の例で考えれば、これまで大阪市が行っていた教育や福祉、ゴミ処理といった行政サービスが特別区の事務となり、権限と予算が区に移譲される。市立小学校が区立となり、市民税ではなく区民税を納めることになるのだ。一方でまちづくりなどの都市計画や消防・救急といった業務は大阪府が行うことになる。 住民に最も身近な行政サービスを行う基礎自治体としての大阪市は現在人口280万。これを区分けして小規模にして住民により身近な自治体とし、大都市としての一体性を保つための機能は大阪府に移行する、という考え方自体はありうると語る幸田氏は、今の維新のやり方に住民自治の発想がないことを問題視する。 特別区になれば区長、区議会議員も公選制となるが、大阪都構想の場合示されている議員数が他の同規模の自治体と比較して極端に少ない。区割りも含め、どういう街にしてゆくのか、市民が判断できるように提示して議論を積み重ねてゆくようなプロセスが見えてこないまま住民投票を繰り返すやり方でよいのかと、幸田氏は疑問を呈する。 東京23区が基礎自治体として定着する過程では住民がともに考え選択してきた経緯がある。住民自治こそが重要だと考える幸田雅治氏と、社会学者の宮台真司、ジャーナリストの迫田朋子が議論した。前半はこちら→so46708611(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/08/24(月) 12:00
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会員無料 44:05
詳細<マル激・前半>副首都法から大阪都構想へという強引な流れは一度断ち切るべきだ/幸田雅治氏(弁護士・神奈川大学名誉教授)
何のための、誰のための副首都法なのか。 国会会期を延長してまで通した副首都法だったが、背景には日本維新の会が強く主張してきた大阪都構想があり、政治的な動きばかりが目立つ。その一方で、この法律は住民にとってどういう意味があり、どのような課題があるのかが見えてこない。 自民・維新の連立合意書にかかげられていた副首都法案は、与党が多数を占める衆議院を通過したあと、国会の会期を延長して参議院で審議入りし、7月24日に賛成123票、反対121票の僅差で可決した。国土政策にかかわる重要な内容であるにもかかわらず政府提出ではなく議員立法という形で提出されたこの法案は、議論が不十分なまま極めて短時間で成立している。 副首都法は大規模災害に備え副首都を整備することを目的としているが、その要件は今後政令で定めるとされており、国の出先機関をどうするかや、すでに決定されている国土計画との関係など、不明な点が多い。地方自治が専門の幸田雅治・神奈川大学名誉教授は、大規模災害という観点からいっても、首都直下地震だけでなく南海トラフ地震などの大規模災害が想定されていることを考えれば、首都機能の複数地域への分散を考えるべきで巨大な副首都をつくる合理性はないと指摘する。 維新がこの法律の成立を急いだ背景には、大阪都構想がある。大都市大阪の「市」を廃止して東京23区と同様な特別区を設置する大阪都構想は、これまで2度の住民投票で否決されてきた。吉村代表は、副首都法成立後の記者会見で、来年の統一地方選挙に合わせて大阪都構想の住民投票の同日実施を目指したいと発言し、物議をかもした。成立した副首都法の付帯決議に、地方選と住民投票の日程が重複しないように最大限調整する、とあるにもかかわらずの発言だったからだ。すでに、8月7日の大阪都構想の法定協議会では、現在の大阪市を4つの特別区に分ける案が示されており、今後これをもとに議論が進んでいくと考えられている。 大阪市を廃止して特別区になるとどうなるのか。東京23区の例で考えれば、これまで大阪市が行っていた教育や福祉、ゴミ処理といった行政サービスが特別区の事務となり、権限と予算が区に移譲される。市立小学校が区立となり、市民税ではなく区民税を納めることになるのだ。一方でまちづくりなどの都市計画や消防・救急といった業務は大阪府が行うことになる。 住民に最も身近な行政サービスを行う基礎自治体としての大阪市は現在人口280万。これを区分けして小規模にして住民により身近な自治体とし、大都市としての一体性を保つための機能は大阪府に移行する、という考え方自体はありうると語る幸田氏は、今の維新のやり方に住民自治の発想がないことを問題視する。 特別区になれば区長、区議会議員も公選制となるが、大阪都構想の場合示されている議員数が他の同規模の自治体と比較して極端に少ない。区割りも含め、どういう街にしてゆくのか、市民が判断できるように提示して議論を積み重ねてゆくようなプロセスが見えてこないまま住民投票を繰り返すやり方でよいのかと、幸田氏は疑問を呈する。 東京23区が基礎自治体として定着する過程では住民がともに考え選択してきた経緯がある。住民自治こそが重要だと考える幸田雅治氏と、社会学者の宮台真司、ジャーナリストの迫田朋子が議論した。後半はこちら→so46708887(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/08/24(月) 12:00
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会員無料 83:00
詳細<セーブアース>子どもたちがサッカー選手を目指せる未来を守る/辻井隆行氏(Jリーグ執行役員)
盛り上がりを見せたサッカー・ワールドカップが閉幕し、8月7日にはJリーグの新シーズンが開幕した。今年からJリーグは、これまでの2月開幕・12月閉幕から、8月開幕・翌年6月閉幕へと、開催時期を大きく変更した。30年以上続いたシーズンカレンダーを変える背景には、欧州主要リーグとの日程統一や国際大会との整合性に加え、年々深刻になる暑さへの対応もある。Jリーグ執行役員でサステナビリティを担当する辻井隆行氏は、選手とファン・サポーターの安全、そして選手のパフォーマンスを考えた結果だと説明する。 これまでのJリーグでは、2月にシーズンが始まったあと、春にかけて選手の走行距離やスプリントなどのパフォーマンスが上昇し、暑くなる夏場には競技強度が低下する傾向があった。特に、時速20キロ以上で走った距離を示す「ハイインテンシティ走行距離」は、夏場に約2割低下するという。欧州主要リーグではシーズン開始から競技強度が上昇し、終盤には疲労によって低下するのに対し、日本では夏に谷ができる。暑さは選手の身体だけでなく、試合そのものの質にも影響しているのだ。 もちろん、シーズンを移すだけで猛暑の問題が解決するわけではない。選手を守るため、Jリーグでは暑さ指数(WBGT)を活用し、試合開催の判断や水分補給に生かすほか、暑さが厳しい場合には試合中に「飲水タイム」を設けている。キックオフを夜間にずらすことも対策の一つで、将来的には屋内スタジアムや空調設備の導入も選択肢となる。 しかし、問題はプロの試合だけではない。子どもたちがサッカーをする環境にも、すでに暑さの影響が及んでいる。人工芝のグラウンドでは、素材が熱を吸収し、夏場には表面温度が70度近くになるため、遮熱構造の靴でなければ足にやけどを負うこともあるという。 Jリーグでは、ためた雨水を毛細管現象によって芝に供給し、気化熱でグラウンドを冷やす新しい芝の技術にも注目している。この技術は暑さ対策になるだけでなく、集中豪雨の際に雨水を一時的にためる機能も期待できる。 実際、昨年、あるサッカースクールでは、夏の3カ月間に予定していた90回のうち65回が中止となり、開催できたのは25回だけだったという。暑さだけでなく、雷や大雨などの気象条件による中止も増えている。Jリーグの試合でも、2018年以降、気象を理由とする中止・延期が増えており、以前は年間数試合だったものが、平均で9~10試合にまで増えているという。 ここで問われるのは、「暑さにどう適応するか」だけでよいのか、という点だ。 辻井氏は、熱中症対策や開催時間の変更など、目の前の危険から選手を守る「適応」と同時に、気候変動の原因そのものに向き合う「緩和」が必要だと話す。JリーグもCO₂を排出する側である以上、自らの排出削減に取り組まなければならない。 一方で、Jリーグの排出量だけをゼロにしても、気候変動そのものを止めることはできない。だからこそ、60のクラブがそれぞれの地域で、自治体や企業、学校、ファンなどを巻き込み、社会の仕組みそのものを変えていくことを目指している。 その一例が、公共交通や再生可能エネルギーの利用を、地域の課題と結びつけた取り組みだ。クラブを単なるサッカーの興行主体ではなく、地域の人々をつなぐ「ハブ」として活用し、便利で使いやすい仕組みをつくることで、結果的にCO₂の削減にもつなげていく。こうしたロールモデルを60の地域で生み出し、互いの地域に広げていくことが、Jリーグの目指す方向だ。 さらにJリーグは、英国発の「スポーツポジティブリーグ(Sport Positive Leagues)」にアジアで初めて参加し、各クラブの気候変動への取り組みを12の領域で評価・可視化することにした。順位をつける目的は、優劣を競うことではない。あるクラブの取り組みを別のクラブが取り入れることで、リーグ全体の活動を底上げすることにある。 気候変動は、サッカーのように一つのクラブが勝てば、ほかが負けるというものではない。「みんなで勝たなければ、みんなが負ける」問題なのだ。 猛暑は、もはや選手の体調管理だけの問題ではない。競技の質を下げ、試合を中止させ、子どもたちからサッカーをする機会を奪い、さらには「サッカーをする」という日常そのものを変えようとしている。 かつて自分たちが当たり前のように享受してきた環境を、次の世代も同じように享受できるとは限らない。だからこそ、Jリーグが目指すのは、いまの選手を守ることだけではない。将来、子どもたちが「サッカー選手になりたい」と思ったときに、安心してボールを蹴ることのできる環境を残すことでもある。 そのためには、暑さに適応するだけでなく、温暖化をこれ以上進行させない社会をつくる必要がある。サッカーを守ることは、サッカーだけを守ることではない。 スポーツを通じて、未来の暮らしそのものをどう変えていくのか。Jリーグ執行役員の辻井隆行氏、環境ジャーナリストの井田徹治、キャスターの新井麻希が議論した。(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/08/23(日) 12:00
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会員無料 45:33
詳細<マル激・後半>イラン戦争がいつまでも終わらない理由/田中浩一郎氏(慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授)
「イランを石器時代に逆戻りさせてやる」 トランプ大統領が開戦直後に語った楽観的な見通しは、見事に裏切られ、それが壮大な誤算だったことが日に日に明らかになっている。イランの核開発を止めることが第一義的な目的だったはずのイラン攻撃は、いつの間にかホルムズ海峡の取り合いになり、今後戦況がどう変化したとしても、アメリカの立場は開戦前よりも大きく後退することが必至だ。そして、その間、日本を含めた世界経済はとてつもない損害を被っている。 2月28日のアメリカとイスラエルによるイラン攻撃から間もなく半年が経とうとしている。6月17日にはイランとアメリカが停戦に向けた覚書に署名し、事態は収束するかに思われた。しかし、合意直後から双方が停戦違反をし、イスラエルも停戦合意を無視した行動を続けたために、結局、イラン戦争は元の木阿弥になってしまった。はっきり言ってアメリカにとっては泥沼の様相だ。あれだけの凄まじい爆撃を受けても、イランは体制転覆どころか継戦能力を維持しており、むしろ一刻も早く抜けたいアメリカが戦争に引きずり込まれている状態だ。 イラン・中東情勢の第一人者で慶應義塾大学大学院教授の田中浩一郎氏は、イランの継戦能力がここまで持続している最大の理由は、アメリカ側の誤算にあると指摘する。破壊したと思っていた施設が実は破壊できていなかったことに加え、そもそもイランのミサイル発射能力の全体量、つまり分母の見積もりを大きく読み誤っていた。さらに、指導部を殺害した2月28日の攻撃で止めずに空爆を続けたことで、当初期待されていた体制転換を望む国内勢力が動けなくなり、結果的に体制を延命させることにつながっているという。 ハメネイ亡き後のイランでは、軍部が統治の実権を握り、三代目最高指導者となった次男モジタバ師は軍の上に立つのではなく、むしろ軍に取り込まれ、その名前だけが統治の正統性のために使われている状態だと田中氏は見る。そのイランが今、最優先しているのは国民生活の回復ではなく、再攻撃をさせない体制の構築だ。そして、ヒズボラなどを使った従来の前進防衛戦略が機能しなくなった今、イランが「棚ぼた」のように手に入れた切り札がホルムズ海峡の封鎖だった。 一方のアメリカは、パトリオットやTHAADなど高価な迎撃ミサイルの在庫を大量に消費し、米シンクタンク・戦略国際問題研究所(CSIS)の推計では補充に4〜5年を要する弾薬枯渇状態に陥っている。軍事的にホルムズ海峡を解放するにはイラン全土の占領が必要だが、それは現実的に不可能だと田中氏は言う。 しかもこの戦争の根底には、レジームチェンジを達成するまでやめたくないイスラエルが、アメリカが足抜けできない環境を作り続けているという構造がある。イスラエルにとって、イランの現体制は自国の安全保障に対する根本的な脅威であり、神話に根拠を持つ大イスラエル主義まで持ち出せば、イスラエルが安心できる条件を突き詰めた先に終わりはない。トランプ政権は、こうした思惑に引きずり込まれ、自国の国益を損ないながらも身動きが取れない状態に陥っているのだ。 戦争の長期化は、世界経済の急所である中東の海上交通路に深刻な打撃を与えている。イランは現在、自国の要求を押し通すためにホルムズ海峡を通行不能な状態に置き、アメリカに対して圧力をかけている。8月8日、イランは「ホルムズ海峡解放のための6条件」を提示し、イランに対する脅迫や侮辱の停止や、米軍による海上封鎖の解除およびイラン周辺からの撤退、戦闘による被害の全額賠償、制裁および資産凍結の解除などを求めている。 ホルムズ海峡の危機に加えて、イランが支援するイエメンの反政府武装組織フーシ派が紅海のバブ・エル・マンデブ海峡を封鎖する動きを見せている。これにより、中東の原油輸送ルートは事実上の「二重封鎖」状態に陥りつつあり、世界的なエネルギー供給網への懸念が急激に高まっている。 出口の見えない戦争は、中東地域の地政図をも塗り替えつつある。イスラエルのカタール空爆を機に生まれたサウジアラビア・パキスタンの防衛協定はトルコを加えた「メッカ共同防衛協定」へと発展し、アメリカの域内影響力の低下と表裏一体で、新たなパワーバランスが形成されつつある。田中氏は、アメリカが折れない限り膠着状態は続き、ホルムズ海峡が2月28日以前の状態に戻ることは当面ない、場合によってはトランプ政権期内の正常化すらないかもしれないと予測する。 現在、アメリカに残された選択肢は極めて少ない。イランの強硬な6条件を全面的に呑んで譲歩するか、あるいは数十万人規模の地上部隊を投入してイランを占領し、力ずくで海峡を解放するかのいずれかである。しかし、後者は莫大な人的・経済的コストを伴うため現実的ではなく、前者はアメリカの威信を決定的に傷つけることになる。 11月のアメリカ中間選挙に向けて政治的な駆け引きが激化する中、両国が妥協を見出す糸口は未だ見えていない。トランプ政権が自身の戦略的誤算とイスラエルの路線に縛られ続ける限り、このイラン戦争は長期化を免れないだろうというのが、田中氏の見立てだ。下手をすると現在のような膠着状態が、この先何年も続く可能性があると言うのだ。 石油・天然ガスの9割をホルムズ海峡経由に依存する日本にとって、これは決して対岸の火事ではない。既に日本経済は大きな打撃を受けており、早晩石油備蓄も底をつく。 そして今回のイラン紛争が露呈させたのは、合理的計算を欠いた指導者を民主的に選出してしまうという、民主主義そのものが抱える構造的な脆弱性でもあった。 8月15日、日本は81回目の終戦の日を迎える。先の大戦の後、不戦の誓いを立てたはずの日本は、今、憲法9条の改正も着々と準備が進む。高市首相の下、日本は武器輸出を再開させ、非核三原則すら絶対的なものではないとの考え方を見せるようになっている。 なぜこれだけ爆撃を受けてもイランの現体制は持ち堪えられるのか、軍事的に圧倒しているはずのアメリカはなぜイラン戦争から抜けられなくなっているのか、そして日本は今のこの状況とどう向き合っていけばよいかなどについて、イランを中心とする中東地域の国際関係を専門とする田中氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。前半はこちら→so46672107(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/08/17(月) 12:00
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詳細<マル激・前半>イラン戦争がいつまでも終わらない理由/田中浩一郎氏(慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授)
「イランを石器時代に逆戻りさせてやる」 トランプ大統領が開戦直後に語った楽観的な見通しは、見事に裏切られ、それが壮大な誤算だったことが日に日に明らかになっている。イランの核開発を止めることが第一義的な目的だったはずのイラン攻撃は、いつの間にかホルムズ海峡の取り合いになり、今後戦況がどう変化したとしても、アメリカの立場は開戦前よりも大きく後退することが必至だ。そして、その間、日本を含めた世界経済はとてつもない損害を被っている。 2月28日のアメリカとイスラエルによるイラン攻撃から間もなく半年が経とうとしている。6月17日にはイランとアメリカが停戦に向けた覚書に署名し、事態は収束するかに思われた。しかし、合意直後から双方が停戦違反をし、イスラエルも停戦合意を無視した行動を続けたために、結局、イラン戦争は元の木阿弥になってしまった。はっきり言ってアメリカにとっては泥沼の様相だ。あれだけの凄まじい爆撃を受けても、イランは体制転覆どころか継戦能力を維持しており、むしろ一刻も早く抜けたいアメリカが戦争に引きずり込まれている状態だ。 イラン・中東情勢の第一人者で慶應義塾大学大学院教授の田中浩一郎氏は、イランの継戦能力がここまで持続している最大の理由は、アメリカ側の誤算にあると指摘する。破壊したと思っていた施設が実は破壊できていなかったことに加え、そもそもイランのミサイル発射能力の全体量、つまり分母の見積もりを大きく読み誤っていた。さらに、指導部を殺害した2月28日の攻撃で止めずに空爆を続けたことで、当初期待されていた体制転換を望む国内勢力が動けなくなり、結果的に体制を延命させることにつながっているという。 ハメネイ亡き後のイランでは、軍部が統治の実権を握り、三代目最高指導者となった次男モジタバ師は軍の上に立つのではなく、むしろ軍に取り込まれ、その名前だけが統治の正統性のために使われている状態だと田中氏は見る。そのイランが今、最優先しているのは国民生活の回復ではなく、再攻撃をさせない体制の構築だ。そして、ヒズボラなどを使った従来の前進防衛戦略が機能しなくなった今、イランが「棚ぼた」のように手に入れた切り札がホルムズ海峡の封鎖だった。 一方のアメリカは、パトリオットやTHAADなど高価な迎撃ミサイルの在庫を大量に消費し、米シンクタンク・戦略国際問題研究所(CSIS)の推計では補充に4〜5年を要する弾薬枯渇状態に陥っている。軍事的にホルムズ海峡を解放するにはイラン全土の占領が必要だが、それは現実的に不可能だと田中氏は言う。 しかもこの戦争の根底には、レジームチェンジを達成するまでやめたくないイスラエルが、アメリカが足抜けできない環境を作り続けているという構造がある。イスラエルにとって、イランの現体制は自国の安全保障に対する根本的な脅威であり、神話に根拠を持つ大イスラエル主義まで持ち出せば、イスラエルが安心できる条件を突き詰めた先に終わりはない。トランプ政権は、こうした思惑に引きずり込まれ、自国の国益を損ないながらも身動きが取れない状態に陥っているのだ。 戦争の長期化は、世界経済の急所である中東の海上交通路に深刻な打撃を与えている。イランは現在、自国の要求を押し通すためにホルムズ海峡を通行不能な状態に置き、アメリカに対して圧力をかけている。8月8日、イランは「ホルムズ海峡解放のための6条件」を提示し、イランに対する脅迫や侮辱の停止や、米軍による海上封鎖の解除およびイラン周辺からの撤退、戦闘による被害の全額賠償、制裁および資産凍結の解除などを求めている。 ホルムズ海峡の危機に加えて、イランが支援するイエメンの反政府武装組織フーシ派が紅海のバブ・エル・マンデブ海峡を封鎖する動きを見せている。これにより、中東の原油輸送ルートは事実上の「二重封鎖」状態に陥りつつあり、世界的なエネルギー供給網への懸念が急激に高まっている。 出口の見えない戦争は、中東地域の地政図をも塗り替えつつある。イスラエルのカタール空爆を機に生まれたサウジアラビア・パキスタンの防衛協定はトルコを加えた「メッカ共同防衛協定」へと発展し、アメリカの域内影響力の低下と表裏一体で、新たなパワーバランスが形成されつつある。田中氏は、アメリカが折れない限り膠着状態は続き、ホルムズ海峡が2月28日以前の状態に戻ることは当面ない、場合によってはトランプ政権期内の正常化すらないかもしれないと予測する。 現在、アメリカに残された選択肢は極めて少ない。イランの強硬な6条件を全面的に呑んで譲歩するか、あるいは数十万人規模の地上部隊を投入してイランを占領し、力ずくで海峡を解放するかのいずれかである。しかし、後者は莫大な人的・経済的コストを伴うため現実的ではなく、前者はアメリカの威信を決定的に傷つけることになる。 11月のアメリカ中間選挙に向けて政治的な駆け引きが激化する中、両国が妥協を見出す糸口は未だ見えていない。トランプ政権が自身の戦略的誤算とイスラエルの路線に縛られ続ける限り、このイラン戦争は長期化を免れないだろうというのが、田中氏の見立てだ。下手をすると現在のような膠着状態が、この先何年も続く可能性があると言うのだ。 石油・天然ガスの9割をホルムズ海峡経由に依存する日本にとって、これは決して対岸の火事ではない。既に日本経済は大きな打撃を受けており、早晩石油備蓄も底をつく。 そして今回のイラン紛争が露呈させたのは、合理的計算を欠いた指導者を民主的に選出してしまうという、民主主義そのものが抱える構造的な脆弱性でもあった。 8月15日、日本は81回目の終戦の日を迎える。先の大戦の後、不戦の誓いを立てたはずの日本は、今、憲法9条の改正も着々と準備が進む。高市首相の下、日本は武器輸出を再開させ、非核三原則すら絶対的なものではないとの考え方を見せるようになっている。 なぜこれだけ爆撃を受けてもイランの現体制は持ち堪えられるのか、軍事的に圧倒しているはずのアメリカはなぜイラン戦争から抜けられなくなっているのか、そして日本は今のこの状況とどう向き合っていけばよいかなどについて、イランを中心とする中東地域の国際関係を専門とする田中氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。後半はこちら→so46672207(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/08/17(月) 12:00
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会員無料 96:46
詳細<マル激・後半>「寝てない自慢」が幅を利かせる社会はそろそろ卒業しないか/櫻井武氏(筑波大学医学医療系教授)
「総理就任以来0時間から3時間の睡眠が常態だったが、久々に5時間も眠れた」。 高市首相のSNSへのこんな投稿が話題を呼んだ。 日本では多忙な政治家や経営者が睡眠時間の短さを頑張りの証しとして自慢することは珍しくない。しかし、これは睡眠も自己管理の重要な一要素と考えられている欧米諸国では、あり得ない話だ。実際、首相のこの投稿には海外からの否定的なコメントが多く寄せられた。睡眠不足を自己管理能力欠如の反映と見る傾向の強い欧米では、3時間しか眠っていない首相に国の運営を任せられるのかといった疑問が出るのは自然なことだった。 睡眠科学の世界的権威で、覚醒を維持する脳内物質オレキシンの発見者として知られる筑波大学の櫻井武教授は、人間は4時間未満の睡眠では判断能力が著しく低下することが実証されていると指摘した上で、「長距離バスの運転手が『昨晩3時間しか寝ていませんが大丈夫です』と車内放送をしたら、乗客は降りたくなるはずだ。日本という大きな船の舵を取る指導者が、その状態にあるとすればどうか」と首相の投稿に疑問を呈す。 実際、日本人の睡眠時間はOECD加盟国中で最短で、アメリカとは1時間以上も開きがある。加えて日本人は、睡眠時間を実際よりも短く自己申告する傾向があると櫻井氏は言う。長く眠ることを怠惰とみなし、短く眠ることを勤勉の証しとする価値観が、社会に根強く深く染み付いているようなのだ。 しかし、日本人が短い睡眠を勤勉の証しと考えるようになったのは、比較的最近のことのようだ。江戸から明治にかけて鎖国が解かれた日本にやってきた外国人たちは、こぞって日本人の悠長さと怠惰ぶりに驚きと不満を書き残していた。時刻の概念すらなかったこの国に、学校教育と富国強兵を通じて時間規律と勤勉を刷り込んだのは明治国家であり、その延長線上に全国的な二宮尊徳像の建立や、戦後の経済大国化の下での「24時間戦えますか」が連なり、現在に至っている。寝ない=勤勉という考え方は日本人が元々持っていた価値観ではなく、国家目的を遂行するために上から押しつけられた人工物としての側面が多分にあるようだ。 しかし、睡眠不足が人間のあらゆるパフォーマンスを低下させることは、十分すぎるほど科学的に立証されている。毎日1時間の睡眠不足を10日間続けると、認知機能が徹夜明けと同水準まで低下することもわかっている。もし慢性的に3時間未満しか眠れていないというのが本当だとすると、日本の首相は毎日徹夜明けのようなパフォーマンスしか発揮できていないことになる。そう考えると恐ろしいことではないか。 睡眠不足で最も損なわれるのは、判断や意思決定を司り、感情を制御する前頭前野の機能だ。睡眠不足が重なった結果、睡眠負債が大きくなればなるほど、感情の抑えが効きにくくなり、判断ミスが起きやすくなる。スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故の背景に、意思決定者たちの深刻な睡眠不足があったことをNASAの報告書は指摘している。また、睡眠時間4時間の人は7時間の人に比べ、認知症の発症リスクが3倍以上に達するというデータもある。まさに睡眠不足は百害あって一利無しなのだ。 睡眠中の脳は、日中に溜め込んだ情報を整理し、シナプスを刈り込み、記憶を定着させる。これらはいずれも人間が健康で文化的な生活を送る上で不可欠な、いわば脳のメンテナンスと言うべき重要な工程だ。しかし、日本は未だに「惰眠を貪る」、「早起きは三文の得」、「不眠不休の努力」、「蛍雪の功」等々、よく眠ることを蔑み、眠らないことを尊ぶ風潮に支配されているようだ。もうそんな軛からは卒業しても良いのではないか。 なぜ日本人は眠らないのか。人はなぜ、そして何のために眠るのか。睡眠不足は人体にどのような影響を与えるのか。今週のマル激は、睡眠研究の第一人者である櫻井氏をゲストに迎え、睡眠の科学の最前線と、眠らない国ニッポンの病理について、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。 また、番組の前半ではとどまるところを知らない検察不祥事の連鎖を取り上げた。大阪地検トップによる部下の検事に対する性暴力、16歳の少女を死に追いやった不適切な捜査と長期勾留に加えて、担当検事が捜査対象の女性と不貞関係にあったことまで明らかになるなど、検察を巡る状況は目を覆うばかりだ。それにもかかわらず検察は、自民党の議員連盟からの第三者委員会の設置要求をあくまで撥ねつけている。この検察の唯我独尊・隠蔽体質と、平口法務大臣が与党の政治家でありながら検察をまったく制御できないでいる日本の民主政の根本的欠陥について、神保哲生と宮台真司が議論した。前半はこちら→so46641398(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/08/10(月) 12:00
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会員無料 40:00
詳細<マル激・前半>「寝てない自慢」が幅を利かせる社会はそろそろ卒業しないか/櫻井武氏(筑波大学医学医療系教授)
「総理就任以来0時間から3時間の睡眠が常態だったが、久々に5時間も眠れた」。 高市首相のSNSへのこんな投稿が話題を呼んだ。 日本では多忙な政治家や経営者が睡眠時間の短さを頑張りの証しとして自慢することは珍しくない。しかし、これは睡眠も自己管理の重要な一要素と考えられている欧米諸国では、あり得ない話だ。実際、首相のこの投稿には海外からの否定的なコメントが多く寄せられた。睡眠不足を自己管理能力欠如の反映と見る傾向の強い欧米では、3時間しか眠っていない首相に国の運営を任せられるのかといった疑問が出るのは自然なことだった。 睡眠科学の世界的権威で、覚醒を維持する脳内物質オレキシンの発見者として知られる筑波大学の櫻井武教授は、人間は4時間未満の睡眠では判断能力が著しく低下することが実証されていると指摘した上で、「長距離バスの運転手が『昨晩3時間しか寝ていませんが大丈夫です』と車内放送をしたら、乗客は降りたくなるはずだ。日本という大きな船の舵を取る指導者が、その状態にあるとすればどうか」と首相の投稿に疑問を呈す。 実際、日本人の睡眠時間はOECD加盟国中で最短で、アメリカとは1時間以上も開きがある。加えて日本人は、睡眠時間を実際よりも短く自己申告する傾向があると櫻井氏は言う。長く眠ることを怠惰とみなし、短く眠ることを勤勉の証しとする価値観が、社会に根強く深く染み付いているようなのだ。 しかし、日本人が短い睡眠を勤勉の証しと考えるようになったのは、比較的最近のことのようだ。江戸から明治にかけて鎖国が解かれた日本にやってきた外国人たちは、こぞって日本人の悠長さと怠惰ぶりに驚きと不満を書き残していた。時刻の概念すらなかったこの国に、学校教育と富国強兵を通じて時間規律と勤勉を刷り込んだのは明治国家であり、その延長線上に全国的な二宮尊徳像の建立や、戦後の経済大国化の下での「24時間戦えますか」が連なり、現在に至っている。寝ない=勤勉という考え方は日本人が元々持っていた価値観ではなく、国家目的を遂行するために上から押しつけられた人工物としての側面が多分にあるようだ。 しかし、睡眠不足が人間のあらゆるパフォーマンスを低下させることは、十分すぎるほど科学的に立証されている。毎日1時間の睡眠不足を10日間続けると、認知機能が徹夜明けと同水準まで低下することもわかっている。もし慢性的に3時間未満しか眠れていないというのが本当だとすると、日本の首相は毎日徹夜明けのようなパフォーマンスしか発揮できていないことになる。そう考えると恐ろしいことではないか。 睡眠不足で最も損なわれるのは、判断や意思決定を司り、感情を制御する前頭前野の機能だ。睡眠不足が重なった結果、睡眠負債が大きくなればなるほど、感情の抑えが効きにくくなり、判断ミスが起きやすくなる。スペースシャトル・チャレンジャー号の爆発事故の背景に、意思決定者たちの深刻な睡眠不足があったことをNASAの報告書は指摘している。また、睡眠時間4時間の人は7時間の人に比べ、認知症の発症リスクが3倍以上に達するというデータもある。まさに睡眠不足は百害あって一利無しなのだ。 睡眠中の脳は、日中に溜め込んだ情報を整理し、シナプスを刈り込み、記憶を定着させる。これらはいずれも人間が健康で文化的な生活を送る上で不可欠な、いわば脳のメンテナンスと言うべき重要な工程だ。しかし、日本は未だに「惰眠を貪る」、「早起きは三文の得」、「不眠不休の努力」、「蛍雪の功」等々、よく眠ることを蔑み、眠らないことを尊ぶ風潮に支配されているようだ。もうそんな軛からは卒業しても良いのではないか。 なぜ日本人は眠らないのか。人はなぜ、そして何のために眠るのか。睡眠不足は人体にどのような影響を与えるのか。今週のマル激は、睡眠研究の第一人者である櫻井氏をゲストに迎え、睡眠の科学の最前線と、眠らない国ニッポンの病理について、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。 また、番組の前半ではとどまるところを知らない検察不祥事の連鎖を取り上げた。大阪地検トップによる部下の検事に対する性暴力、16歳の少女を死に追いやった不適切な捜査と長期勾留に加えて、担当検事が捜査対象の女性と不貞関係にあったことまで明らかになるなど、検察を巡る状況は目を覆うばかりだ。それにもかかわらず検察は、自民党の議員連盟からの第三者委員会の設置要求をあくまで撥ねつけている。この検察の唯我独尊・隠蔽体質と、平口法務大臣が与党の政治家でありながら検察をまったく制御できないでいる日本の民主政の根本的欠陥について、神保哲生と宮台真司が議論した。後半はこちら→so46642241(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/08/10(月) 12:00
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<マル激・後半>世界が完全に壊れた時、人は何を頼りに生きるのか
ロシアが隣国に軍事介入したかと思えば、アメリカはよくわからない理屈でイラン攻撃を続ける、そうかと思えば、他国の国家元首をいきなり拉致したり暗殺までするようになっている。 どうやら世界は本当に壊れ始めているのかもしれない。もしそうだとすれば、私たちはこれから何を頼りに生きればいいのだろうか。 月の5回目の金曜日に特別番組を無料でお送りする5金スペシャル。今回は「壊れた世界でどう生きるか」をテーマに映画特集をお送りする。 今回取り上げたのは現在劇場公開中の3作品。いずれも、因果応報や予定調和といった私たちが無意識に信じている前提がまったく働かず、不条理や理不尽がまかり通り、世界が終わりに向かう予感の中で、人はどう生きるかを問う秀作だ。・『シラート』(2026)オリベル・ラシェ監督・『デッドマンズ・ワイヤー』(2026)ガス・ヴァン・サント監督・『大統領のケーキ』(2026)ハサン・ハーディ監督 『シラート』は、砂漠のレイブパーティに参加したまま失踪した娘を捜す父ルイスと息子エステバンが、モロッコの砂漠の奥地へと分け入っていく物語だ。タイトルの「シラート」はアラビア語で、天国と地獄の間に架かる針のように細い橋を意味する。しかし、その意味が回収されるのは終盤になってからで、観客は最初から「自分は何を見せられているのか分からない」という不思議な体験の中に投げ込まれる。カンヌ国際映画祭でサウンドトラック賞など4つの賞を受賞した本作の白眉は、重低音を軸にした特異なサウンドデザインだ。音響が観客の精神状態そのものを作り変えていく。この作品で死は、善悪や行いの報いとしてではなく、誰に訪れるかも分からない偶然として描かれる。因果応報と予定調和に溢れた物語に慣れ親しんだ日本人には消化しにくい映画だが、まさにその消化しにくさこそが、この作品の仕掛けなのだ。分かりやすい救いは提示されない。しかし終盤、登場人物たちが同じ世界の同じ流れに乗るように踊る姿には、チクセントミハイのいうフローに通じる、救いとは別の形の感受性が確かに映っている。 『デッドマンズ・ワイヤー』は、1977年にインディアナポリスで実際に起きた人質立てこもり事件を題材にしたガス・ヴァン・サント監督の最新作だ。不動産ローン会社に全財産を騙し取られたと訴えるトニー・キリシス(ビル・スカルスガルド)は、同社に押し入り役員を人質に取る。自分の首と人質の首をショットガンとワイヤーで固定し、自分と人質が引き離されれば自動発砲される「デッドマンズ・ワイヤー」という装置を自ら考案し、警察すら手を出せない状況を作り上げた。トニーはラジオやテレビの生中継に次々と登場し、事件は劇場型の様相を呈していく。メディアが犯人に同情的な文脈を作り、視聴者が犯人側に傾いていく構図は、半世紀前の話とは思えないほど今日的だ。働いて得るのではなく投資と金融操作で利益が生まれる金融資本主義の歪みが、追い詰められた個人を暴発させる。この社会の立て付けは50年前から大きくは変わっていない。事件の結末でトニーが心神喪失により無罪となる展開は、英語圏の「not guilty」と日本語の「無罪」の語感の違いも含め、罪と責任をめぐる論点を私たちに突きつける。 『大統領のケーキ』の舞台は、1990年代、経済制裁下のイラクだ。独裁者のフセイン大統領は自身の誕生日を祝うケーキを作るよう国内の各学校に命じており、9歳の少女ラミアはくじ引きでその係に選ばれてしまう。用意できなければ重い罰が待っている。日々の食材すら手に入らない極端な物資不足の中、ラミアはクラスメイトのサイードとともにケーキの材料を求めて町を駆け巡る。イラク出身のハサン・ハーディ監督が自らの体験をもとに描いた本作は、カンヌ国際映画祭で監督週間観客賞とカメラドールの2冠に輝いた。西側諸国による経済制裁の実害は独裁者本人にはほとんど及ばず、最も弱い立場の貧困層を苦しめる。しかも制裁が奪うのは物資だけではない。生き延びるために人が人を騙し、子どもまでもがその不条理に巻き込まれていく。制裁は人々の倫理を奪うのだ。爆撃下の逃避行が悲劇へと傾く終盤に、分かりやすい救いはない。それでもカテゴリーを超えて結ばれていく関係の中に、かすかな光が宿る。 3作品に共通するのは、世界がすでに終わりに向かっている、これまでわれわれが当たり前と考えてきた想定がとうに崩れているという前提だ。戦争、国家、金融、官僚制といった巨大な力の前で、個人は交換可能な部品のように扱われ、ほとんど無力だ。しかし3作品はいずれも、その無力さの中でなお、倫理や人間関係や身体の感覚を通じて生き方が変わり得ることを描いている。誰もが入れ替え可能な「当たり前」を回すだけの自明性の檻に安住し、平和ボケしたままでいる私たちにとって、これらの作品は檻の外の世界を垣間見せてくれる。大量動員型ではないこうした作品が今も映画館で観られること自体が貴重であり、ぜひ劇場に足を運んでほしい。 3つの作品を題材に、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。 前半はこちら→so46615571(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/08/03(月) 12:00
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<マル激・前半>世界が完全に壊れた時、人は何を頼りに生きるのか
ロシアが隣国に軍事介入したかと思えば、アメリカはよくわからない理屈でイラン攻撃を続ける、そうかと思えば、他国の国家元首をいきなり拉致したり暗殺までするようになっている。 どうやら世界は本当に壊れ始めているのかもしれない。もしそうだとすれば、私たちはこれから何を頼りに生きればいいのだろうか。 月の5回目の金曜日に特別番組を無料でお送りする5金スペシャル。今回は「壊れた世界でどう生きるか」をテーマに映画特集をお送りする。 今回取り上げたのは現在劇場公開中の3作品。いずれも、因果応報や予定調和といった私たちが無意識に信じている前提がまったく働かず、不条理や理不尽がまかり通り、世界が終わりに向かう予感の中で、人はどう生きるかを問う秀作だ。・『シラート』(2026)オリベル・ラシェ監督・『デッドマンズ・ワイヤー』(2026)ガス・ヴァン・サント監督・『大統領のケーキ』(2026)ハサン・ハーディ監督 『シラート』は、砂漠のレイブパーティに参加したまま失踪した娘を捜す父ルイスと息子エステバンが、モロッコの砂漠の奥地へと分け入っていく物語だ。タイトルの「シラート」はアラビア語で、天国と地獄の間に架かる針のように細い橋を意味する。しかし、その意味が回収されるのは終盤になってからで、観客は最初から「自分は何を見せられているのか分からない」という不思議な体験の中に投げ込まれる。カンヌ国際映画祭でサウンドトラック賞など4つの賞を受賞した本作の白眉は、重低音を軸にした特異なサウンドデザインだ。音響が観客の精神状態そのものを作り変えていく。この作品で死は、善悪や行いの報いとしてではなく、誰に訪れるかも分からない偶然として描かれる。因果応報と予定調和に溢れた物語に慣れ親しんだ日本人には消化しにくい映画だが、まさにその消化しにくさこそが、この作品の仕掛けなのだ。分かりやすい救いは提示されない。しかし終盤、登場人物たちが同じ世界の同じ流れに乗るように踊る姿には、チクセントミハイのいうフローに通じる、救いとは別の形の感受性が確かに映っている。 『デッドマンズ・ワイヤー』は、1977年にインディアナポリスで実際に起きた人質立てこもり事件を題材にしたガス・ヴァン・サント監督の最新作だ。不動産ローン会社に全財産を騙し取られたと訴えるトニー・キリシス(ビル・スカルスガルド)は、同社に押し入り役員を人質に取る。自分の首と人質の首をショットガンとワイヤーで固定し、自分と人質が引き離されれば自動発砲される「デッドマンズ・ワイヤー」という装置を自ら考案し、警察すら手を出せない状況を作り上げた。トニーはラジオやテレビの生中継に次々と登場し、事件は劇場型の様相を呈していく。メディアが犯人に同情的な文脈を作り、視聴者が犯人側に傾いていく構図は、半世紀前の話とは思えないほど今日的だ。働いて得るのではなく投資と金融操作で利益が生まれる金融資本主義の歪みが、追い詰められた個人を暴発させる。この社会の立て付けは50年前から大きくは変わっていない。事件の結末でトニーが心神喪失により無罪となる展開は、英語圏の「not guilty」と日本語の「無罪」の語感の違いも含め、罪と責任をめぐる論点を私たちに突きつける。 『大統領のケーキ』の舞台は、1990年代、経済制裁下のイラクだ。独裁者のフセイン大統領は自身の誕生日を祝うケーキを作るよう国内の各学校に命じており、9歳の少女ラミアはくじ引きでその係に選ばれてしまう。用意できなければ重い罰が待っている。日々の食材すら手に入らない極端な物資不足の中、ラミアはクラスメイトのサイードとともにケーキの材料を求めて町を駆け巡る。イラク出身のハサン・ハーディ監督が自らの体験をもとに描いた本作は、カンヌ国際映画祭で監督週間観客賞とカメラドールの2冠に輝いた。西側諸国による経済制裁の実害は独裁者本人にはほとんど及ばず、最も弱い立場の貧困層を苦しめる。しかも制裁が奪うのは物資だけではない。生き延びるために人が人を騙し、子どもまでもがその不条理に巻き込まれていく。制裁は人々の倫理を奪うのだ。爆撃下の逃避行が悲劇へと傾く終盤に、分かりやすい救いはない。それでもカテゴリーを超えて結ばれていく関係の中に、かすかな光が宿る。 3作品に共通するのは、世界がすでに終わりに向かっている、これまでわれわれが当たり前と考えてきた想定がとうに崩れているという前提だ。戦争、国家、金融、官僚制といった巨大な力の前で、個人は交換可能な部品のように扱われ、ほとんど無力だ。しかし3作品はいずれも、その無力さの中でなお、倫理や人間関係や身体の感覚を通じて生き方が変わり得ることを描いている。誰もが入れ替え可能な「当たり前」を回すだけの自明性の檻に安住し、平和ボケしたままでいる私たちにとって、これらの作品は檻の外の世界を垣間見せてくれる。大量動員型ではないこうした作品が今も映画館で観られること自体が貴重であり、ぜひ劇場に足を運んでほしい。 3つの作品を題材に、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。 後半はこちら→so46615572(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/08/03(月) 12:00
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詳細<ディスクロージャー&ディスカバリー>政府の情報活動を強化するなら監視機能の整備が不可欠だ
7月31日に国家情報局が発足する。 これまでバラバラに存在していた政府の情報機関を一元管理するためだという。政府の情報収集能力強化に強いこだわりを持つ高市政権の肝いり政策の一つだ。 しかし、政府の情報収集能力を強化するのであれば、同時にそれを監視する機能も整備されなければならない。監視なき情報収集活動は容易に暴走や濫用を招く恐れがあるからだ。 今回の「ディスクロージャー&ディスカバリー」では、国家情報局発足を7月31日に控え、自衛隊による個人情報収集疑惑や行政機関のSNS運用、国会における情報公開制度の課題を取り上げ、情報収集と民主的統制のあり方を考えた。 番組ではまず、熊本日日新聞が報じた陸上自衛隊中央情報隊配下の「現地情報隊」による個人情報収集疑惑を取り上げた。記事は、自衛隊が大学教授やNPO関係者らについて、氏名や学歴、職歴だけでなく、思想信条や交友関係、借金の有無や性的指向など極めて機微性の高い情報を「個人ベーシックソースデータ(BSD)」と称して収集・管理していたことが、実際にその活動を行っていた元自衛官によって明らかにされたと報じている。 それが事実だとすれば、この情報収集は従来の公安警察などによる「監視」とは性格が異なる点に注意が必要だ。収集対象となった人々は通常公安が監視対象にしている反政府活動家ではなく、むしろ将来的に情報源として協力を得られる可能性のある人物だった。なぜ協力を得たい相手の借金や性的指向を知る必要があったのか。それをどのように利用することが想定されていたのか。そして、実際にそれがどう使われたのかなどはすべて藪の中だ。利用目的が明確でなければ情報収集の適法性を検証することができず、民主的な統制も働かない。 政府が安全保障上必要な情報を収集することには一定の合理性がある。しかし、収集目的や法的根拠、収集した情報がその後どのように管理されているのか、目的外利用は防止されているのかといった点が極めて曖昧なまま、情報収集機能だけが強化されていくのは、極めて危険な兆候と言わねばならない。情報機関が集めた情報を一元管理する前に、それぞれの情報機関の情報収集活動の監視機能や法的な根拠の整備が、先に来る必要があるのではないか。 また、日本では国会における情報公開のあり方にも問題が多い。国会は情報公開法の対象になっていないため、議員立法が行われた場合、法案作成過程や法制局とのやり取りなど、行政機関であれば当然開示されるべき情報の公開が義務づけられていない。その結果、なぜその条文になったのか、どのような議論を経て成立したのかなどを後から検証することが難しい。また、政府の情報活動を監視する機能を国会に持たせた場合も、同様の問題が生じる。国会が情報公開法の対象になっていない以上、国会の情報公開基準を定める法律なり制度なりの強化が急務ではないか。 国の安全保障と市民の自由は、どこで折り合いをつけるべきなのか。国家情報局の発足を目前に控え、自衛隊による個人情報収集疑惑や国会の情報公開上の課題を入口に、情報収集機能の強化と民主的統制をいかに両立させるかについて、情報公開クリアリングハウス理事長の三木由希子とジャーナリストの神保哲生が議論した。(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/07/31(金) 12:00
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詳細<マル激・後半>津久井やまゆり園事件の検証は不十分だ/藤井克徳氏(日本障害者協議会代表)
2016年7月26日未明、相模原市の県立障害者支援施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害され、入所者と職員あわせて26人が重軽傷を負った。戦後日本最悪級の大量殺人事件であり、犯人は施設の元職員だった。「障害者は不幸しか生まない」と語ったその考えは社会に大きな衝撃を与えた。事件から10年、私たちは何を検証してきたのか。 裁判を傍聴し、拘置所で犯人と面会し、手紙のやり取りも重ねてきた日本障害者協議会代表の藤井克徳氏は、事件の真相究明はいまだ不十分で、本格的な検証は行われていないと指摘する。 今年7月の国会で高市首相は、事件後の検討チームで事実関係や再発防止策を議論したと答弁した。しかし2016年の厚労省報告書は、措置入院後の支援や施設の防犯体制に焦点を当てる一方、事件の背景や社会に根付く差別意識には踏み込まなかった。国連障害者権利委員会も2022年、日本政府に優生思想と非障害者優先主義の観点から事件を見直すよう勧告しているが、実現していない。 裁判では責任能力が主な争点となり、犯行の背景は十分に解明されなかった。被害者は「甲Aさん」など匿名で扱われ、19人がどのような人生を送り、なぜ標的となったのかも十分には語られなかった。「事件は封印されてしまった」と藤井氏は語る。 犯人の障害者観がどのように形成されたのかを知るため本人と対話を重ねてきた藤井氏は、家庭環境や職歴、社会的背景、精神的要因など複数の要素が重なり合っていたのではないかという。だからこそ、社会全体で事件を検証する必要があると藤井氏は訴える。 今回の事件の背景には、日本社会に根強く残る優生思想がある。優生保護法は1996年まで「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」と定め、およそ2万5,000人に強制不妊手術を行った。優生思想は個人の偏見ではなく、国家政策として制度化されていたのである。 旧優生保護法違憲訴訟では最高裁が国の責任を認め、補償法も成立した。しかし施行から1年半が過ぎても補償認定は対象者のほんの数%にとどまり、被害の掘り起こしは進んでいない。精神医療における強制入院や身体拘束の問題、政府から独立した国内人権機関の未整備なども含め、日本の人権意識は依然として大きな課題を抱えている。 事件を特異な犯人だけの問題として終わらせれば、社会の責任は見えなくなる。生産性や自己責任が重視される現代社会の中で、「内なる優生思想」は誰の中にも潜んでいるのではないか。事件から10年を迎えた今、なぜ十分な検証が行われなかったのか、私たちは何を学ぶべきなのかについて、「人権は与えられるものではなく獲得するもの」と語る藤井克徳氏と、社会学者の宮台真司、ジャーナリストの迫田朋子が議論した。前半はこちら→so46589096(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/07/27(月) 12:00
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詳細<マル激・前半>津久井やまゆり園事件の検証は不十分だ/藤井克徳氏(日本障害者協議会代表)
2016年7月26日未明、相模原市の県立障害者支援施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害され、入所者と職員あわせて26人が重軽傷を負った。戦後日本最悪級の大量殺人事件であり、犯人は施設の元職員だった。「障害者は不幸しか生まない」と語ったその考えは社会に大きな衝撃を与えた。事件から10年、私たちは何を検証してきたのか。 裁判を傍聴し、拘置所で犯人と面会し、手紙のやり取りも重ねてきた日本障害者協議会代表の藤井克徳氏は、事件の真相究明はいまだ不十分で、本格的な検証は行われていないと指摘する。 今年7月の国会で高市首相は、事件後の検討チームで事実関係や再発防止策を議論したと答弁した。しかし2016年の厚労省報告書は、措置入院後の支援や施設の防犯体制に焦点を当てる一方、事件の背景や社会に根付く差別意識には踏み込まなかった。国連障害者権利委員会も2022年、日本政府に優生思想と非障害者優先主義の観点から事件を見直すよう勧告しているが、実現していない。 裁判では責任能力が主な争点となり、犯行の背景は十分に解明されなかった。被害者は「甲Aさん」など匿名で扱われ、19人がどのような人生を送り、なぜ標的となったのかも十分には語られなかった。「事件は封印されてしまった」と藤井氏は語る。 犯人の障害者観がどのように形成されたのかを知るため本人と対話を重ねてきた藤井氏は、家庭環境や職歴、社会的背景、精神的要因など複数の要素が重なり合っていたのではないかという。だからこそ、社会全体で事件を検証する必要があると藤井氏は訴える。 今回の事件の背景には、日本社会に根強く残る優生思想がある。優生保護法は1996年まで「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」と定め、およそ2万5,000人に強制不妊手術を行った。優生思想は個人の偏見ではなく、国家政策として制度化されていたのである。 旧優生保護法違憲訴訟では最高裁が国の責任を認め、補償法も成立した。しかし施行から1年半が過ぎても補償認定は対象者のほんの数%にとどまり、被害の掘り起こしは進んでいない。精神医療における強制入院や身体拘束の問題、政府から独立した国内人権機関の未整備なども含め、日本の人権意識は依然として大きな課題を抱えている。 事件を特異な犯人だけの問題として終わらせれば、社会の責任は見えなくなる。生産性や自己責任が重視される現代社会の中で、「内なる優生思想」は誰の中にも潜んでいるのではないか。事件から10年を迎えた今、なぜ十分な検証が行われなかったのか、私たちは何を学ぶべきなのかについて、「人権は与えられるものではなく獲得するもの」と語る藤井克徳氏と、社会学者の宮台真司、ジャーナリストの迫田朋子が議論した。後半はこちら→so46589193(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/07/27(月) 12:00
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詳細<セーブアース>酷暑の日本がすべきこととは/平田仁子氏(一般社団法人Climate Integrate代表理事)
関東で梅雨明けが発表された翌日の収録となった今月のセーブアースのテーマは猛暑だ。 気象庁は今年から、最高気温40度以上の日を「酷暑日」と呼ぶことにしたという。思い返せば、日本には元々夏日という言葉しかなかった。それが1967年頃から真夏日が、そして2007年には猛暑日が設定された。そして遂に2026年は酷暑日を設定しなければならなくなった。暑さを表す言葉を次々に発明しなければ現実に追いつかない。この言葉の変遷そのものが、地球が確実に熱くなっていることの動かぬ証拠と言っていい。 ゲストの平田仁子氏がまず示したのは、人為起源の温室効果ガス排出量のグラフだった。年間577億トン。人間活動が気候変動を引き起こしていることは、科学的には「これ以上疑いようがない」水準まで明確になっている。にもかかわらず、1990年に問題が国際的に指摘されて以来、排出は減るどころか増え続けてきた。コロナ禍で経済活動が止まった時期に一時的に減少したが、その後の反動で元に戻ってしまったことは記憶に新しい。 ここでまず問わなければならないのは、なぜ35年間、分かっていながら止められなかったのかということだ。知識が足りなかったのではない。技術がなかったのでもない。世界の平均気温の上昇を産業革命前の1.5度上昇までに抑えるには、2035年までに地球全体の二酸化炭素の排出量を250億トン程度、つまり現在の半分以下にする必要がある。残された時間は10年ほどしかない。それでも平田氏は「できるかできないかではなく、やる気になって実行するかどうか」と語る。実現への道筋を示したレポートは、すでにいくつも存在している。つまりこれは能力の問題ではなく、意思の問題なのだ。 現実は厳しい。世界の平均気温はすでに1.5度上昇の水準に達し、各国が現在の政策を続けた場合、今世紀末には2.8度上昇に向かうと予測されている。南極やグリーンランドの氷床、サンゴ礁、海洋の熱塩循環など、一度超えれば後戻りができない「ティッピングポイント」を超えつつある。1.5度どころか、2度の上昇すら止められないだろうと悲観する科学者も多い。 酷暑は日本だけの現象ではない。この6月、欧州は前例のない熱波に見舞われ、海水温も記録的な高さとなった。番組では7月9日にスペイン南部アルメリアで発生し、13人が犠牲となった山火事の映像も紹介された。カナダの山火事の煙は米国にも流れ込み、約1億人が大気汚染の影響を受けたとされる。日本でも今後、山火事が増える可能性は十分にあり、直接の被害だけでなく、煙による大気汚染と健康被害まで視野に入れておく必要がある。 では日本は何をすればいいのか。日本の排出削減の話になると、必ず出てくるのが「日本排出量は世界全体の排出量のわずか3%に過ぎない」という声だ。だが、この理屈は二重に成り立たない。 第一に、日本は依然として排出量で世界第5位の排出大国だ。第二に、統計上「その他」に括られる190カ国あまりが同じ理屈を口にすれば、それだけで中国に匹敵する規模の排出が正当化されてしまう。全員が「自分は小さい」と言い張れば、誰も削減しなくてよいことになる。3%論はそのような責任逃れの論理を代表している。 むしろ平田氏が指摘するのは、東南アジアへの経済的影響力を持つ日本が脱炭素を進めれば、それ自体が世界のモデルになりうるという点だ。日本には「3%だからやらない」ではなく、「5位の大国だからこそやる」立場が求められている。 ところが昨今の国内の実態は、モデルどころか逆行が目立つ。G7の中で最も石炭に依存しているのは、実は日本だ。米国よりもドイツよりも多い。しかもその石炭はほぼ全量が輸入である。老朽石炭火力を順次止めていくという従来方針も、高市政権の下で転換され、エネルギー危機への対応を名目に、むしろ石炭が増やされている。 その一方で、再生可能エネルギーの新規導入量は減少が続き、風力はほとんど伸びていない。世界では太陽光の発電量が天然ガスを上回り、パキスタンのような国でさえ屋根置き太陽光が急増している。その世界の潮流と、日本の停滞との対照は際立っている。 しかし、悲観材料ばかりではない。平田氏らが実施した世論調査では、約7割が再生可能エネルギーを支持し、その支持は原子力を上回った。SNS上で目立つ「反再エネ」の声は、実際の世論と大きくずれている。声の大きさと世論の分布を混同してはならない。 技術的な条件も整いつつある。太陽光は屋根の10%と農地の7%、国土のわずか1%程度を使えば、2050年に必要とされる400ギガワットをまかなえるという試算がある。蓄電池価格の低下により、昼の電力で夜をつなぐことも現実的になってきた。足りないのは資源でも技術でも世論でもない。それを束ねて実行に移す政治の意思だ。 もちろん、個人にできることに限界はある。1人がエアコンの設定温度を上げただけでは、577億トンは減らない。だが番組で強調されたのは、個人の力は「我慢」ではなく「選択」と「声」にあるという点だ。再エネ由来の電力を選ぶ。次の車をEVにする、あるいはカーシェアに切り替える。省エネ性能で製品を選ぶ。そして支持する政策や企業に意思表示をする。一つひとつの行動の影響は小さくても、それが集まれば市場へのシグナルとなり、企業の行動と政治の判断を動かす。世論の7割が再エネを支持しているという事実は、その声がまだ十分に届いていないことの裏返しでもある。 40度の夏はもはや異常ではなく、日常になりつつある。その現実を前に、エアコンの効いた部屋から暑さに文句を言うだけの夏にするのか。それとも「私はこれをやった」と語り合える夏にするのか。それが問われている。気候危機の現状と日本のエネルギー政策の課題について、気候変動政策が専門の平田仁子氏と、環境ジャーナリストの井田徹治、キャスターの新井麻希が議論した。(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/07/26(日) 12:00
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詳細<マル激・後半>なぜ「万世一系・男系男子」でなくてはならないのか/仁藤敦史氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)
7月17日、国会で皇室典範改正法が成立した。皇室典範の本則が本格的に改正されるのは、戦後初めてのことだ。 今回の改正は、皇族数の減少への対応として議論されてきた。皇族の数が減ったために、皇族一人ひとりの公務負担が重すぎるというのが、その理由だった。そのため、皇族の数を増やすために、女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持できるようにすることと、戦後に皇籍を離脱した旧宮家の男系男子を養子として皇族に迎えることを可能にすることが、その柱となっていた。元々はそういう話のはずだった。 ところが、いざ法案が国会で審議される段階になって、政府から国会に上程された改正法には、養子となった旧宮家の男子に生まれた男系男子に将来の皇位継承資格を認める仕組みが盛り込まれていた。そのため、今回の改正は、皇族数の確保という実務的な課題への対応にとどまらず、皇位継承制度そのもののあり方に関わるものとなった。 改正案のその部分をめぐり、国会では「男系男子による皇位継承が一貫した日本の伝統だった」という考え方が、主に保守系の議員らによって声高に主張され、最終的に法案にもその考え方が採用された。その背景には、「皇統は神武天皇以来2600年、例外なく男系で受け継がれてきた」という特定の歴史認識があるようだ。 しかし、現在、皇族の中には未婚の女性が愛子内親王、佳子内親王を始め5人いる一方で、男性は悠仁親王1人しかいない。皇位の継承を男系男子にしか認めないということになると、現在は次世代の皇位継承者が1人しかいない状態で、皇統の継続性という意味では非常に不安定な状態になる。そこで、旧宮家から天皇の血を引く男系男子を養子に取ることを可能にするという、かなりアクロバティックな案が今回の法改正に盛り込まれた。 しかし、この「男系男子は2600年間日本が守り続けていた伝統」という前提は、歴史学的にはどこまで実証されているのだろうか。 日本古代史を専門とする国立歴史民俗博物館名誉教授の仁藤敦史氏は、「神武天皇以来2600年」という年代観そのものが、7世紀から8世紀にかけて『日本書紀』が編纂される過程で盛り込まれたものであり、歴史学が実証できる天皇の系譜は、それよりかなり後の時代からだと指摘する。また、日本の歴史には8人10代の女性天皇が存在しており、「男系男子」が皇位継承の唯一の原則として制度化されたのは、実は明治期の皇室典範制定以降のことだという。 もちろん、男系継承を重視する立場にも理由がある。保守派は、男系男子による継承こそが皇統の連続性を担保し、それこそが日本の皇室の独自性を支えてきたと主張する。そのため、仮に女性天皇は容認したとしても、女系天皇だけは認められないとの立場を取る人が一定数いることも事実だ。 しかし、そもそも、「万世一系」「男系男子」という考え方は、本当に日本の長い歴史を通じて変わることなく受け継がれてきたものなのか。 皇室典範によって現在の皇室制度の骨格が作られたのは明治期に入ってからだが、実は明治政府が皇室制度を整備する過程で、当時、内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねていた伊藤博文の下では、男系が途絶えた場合に女性天皇や女系継承を認める案が検討されていたことが歴史的にも実証されている。しかし、それに対して伊藤の下で法制度の整備を進めていた参事院議官の井上毅らの強い提言を受けて、最終的に「男系男子」が皇室典範に明文化されることになったのだという。 では、井上はなぜそこまで男系男子にこだわったのか。その背景には、当時の明治政府を取り巻く状況が色濃く反映されていたと考えられている。 260年続いた徳川の治世が終わり、薩長を中心に形成された明治政府は、政府の正統性を高めるために天皇の権威を最大限に利用した。そうした中で後に内閣法制局長官の座に就く井上は1886年に伊藤に提出した「謹具意見」の中で、国家の最高権威である天皇だけは政治から切り離された絶対的な存在にすべきだと説き、皇統に疑義が生じないことや王朝交代の可能性を完全に排除するためには、男系男子を制度化することが必要だと進言した。つまり、「男系男子」は明治政府にとって、自らの正統性を高めるための手段として提案され、そして採用されたものだったと考えられているのだ。 今回の改正では、1947年に皇籍を離脱した旧宮家の男系男子を養子として皇族に迎えることで皇族の数を増やすと同時に、皇位継承者の数を増やすことが想定されている。しかし、旧宮家の源流は室町時代に成立した伏見宮家にまで遡るもので、数百年前まで遡らなければ現在の皇室との共通祖先にたどり着かない。早い話が遠い遠い親戚でしかない。あえてそうした人々を皇族に迎え、その子孫に将来の皇位継承資格を認める一方で、現在の女性皇族の子どもには継承資格を認めないという制度設計に、今の日本でどれほどの正当性があるのだろうか。 皇室は日本国憲法の下では「国民の総意に基づく」象徴だとされている。その皇位継承制度を考えるとき、私たちは歴史的事実をどのように理解し、何を「伝統」と呼ぶべきなのか。皇室典範改正をめぐる議論を振り返りながら、「万世一系」「男系男子」という考え方はいつ、どのように形成され、どのような形で今日まで受け継がれてきたのか。21世紀に生きるわれわれはその歴史的経緯をどのように受け止め、どう制度に組み入れていくべきなのかなどについて、仁藤氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。前半はこちら→so46563694(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/07/20(月) 12:00
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詳細<マル激・前半>なぜ「万世一系・男系男子」でなくてはならないのか/仁藤敦史氏(国立歴史民俗博物館名誉教授)
7月17日、国会で皇室典範改正法が成立した。皇室典範の本則が本格的に改正されるのは、戦後初めてのことだ。 今回の改正は、皇族数の減少への対応として議論されてきた。皇族の数が減ったために、皇族一人ひとりの公務負担が重すぎるというのが、その理由だった。そのため、皇族の数を増やすために、女性皇族が結婚後も皇族の身分を保持できるようにすることと、戦後に皇籍を離脱した旧宮家の男系男子を養子として皇族に迎えることを可能にすることが、その柱となっていた。元々はそういう話のはずだった。 ところが、いざ法案が国会で審議される段階になって、政府から国会に上程された改正法には、養子となった旧宮家の男子に生まれた男系男子に将来の皇位継承資格を認める仕組みが盛り込まれていた。そのため、今回の改正は、皇族数の確保という実務的な課題への対応にとどまらず、皇位継承制度そのもののあり方に関わるものとなった。 改正案のその部分をめぐり、国会では「男系男子による皇位継承が一貫した日本の伝統だった」という考え方が、主に保守系の議員らによって声高に主張され、最終的に法案にもその考え方が採用された。その背景には、「皇統は神武天皇以来2600年、例外なく男系で受け継がれてきた」という特定の歴史認識があるようだ。 しかし、現在、皇族の中には未婚の女性が愛子内親王、佳子内親王を始め5人いる一方で、男性は悠仁親王1人しかいない。皇位の継承を男系男子にしか認めないということになると、現在は次世代の皇位継承者が1人しかいない状態で、皇統の継続性という意味では非常に不安定な状態になる。そこで、旧宮家から天皇の血を引く男系男子を養子に取ることを可能にするという、かなりアクロバティックな案が今回の法改正に盛り込まれた。 しかし、この「男系男子は2600年間日本が守り続けていた伝統」という前提は、歴史学的にはどこまで実証されているのだろうか。 日本古代史を専門とする国立歴史民俗博物館名誉教授の仁藤敦史氏は、「神武天皇以来2600年」という年代観そのものが、7世紀から8世紀にかけて『日本書紀』が編纂される過程で盛り込まれたものであり、歴史学が実証できる天皇の系譜は、それよりかなり後の時代からだと指摘する。また、日本の歴史には8人10代の女性天皇が存在しており、「男系男子」が皇位継承の唯一の原則として制度化されたのは、実は明治期の皇室典範制定以降のことだという。 もちろん、男系継承を重視する立場にも理由がある。保守派は、男系男子による継承こそが皇統の連続性を担保し、それこそが日本の皇室の独自性を支えてきたと主張する。そのため、仮に女性天皇は容認したとしても、女系天皇だけは認められないとの立場を取る人が一定数いることも事実だ。 しかし、そもそも、「万世一系」「男系男子」という考え方は、本当に日本の長い歴史を通じて変わることなく受け継がれてきたものなのか。 皇室典範によって現在の皇室制度の骨格が作られたのは明治期に入ってからだが、実は明治政府が皇室制度を整備する過程で、当時、内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねていた伊藤博文の下では、男系が途絶えた場合に女性天皇や女系継承を認める案が検討されていたことが歴史的にも実証されている。しかし、それに対して伊藤の下で法制度の整備を進めていた参事院議官の井上毅らの強い提言を受けて、最終的に「男系男子」が皇室典範に明文化されることになったのだという。 では、井上はなぜそこまで男系男子にこだわったのか。その背景には、当時の明治政府を取り巻く状況が色濃く反映されていたと考えられている。 260年続いた徳川の治世が終わり、薩長を中心に形成された明治政府は、政府の正統性を高めるために天皇の権威を最大限に利用した。そうした中で後に内閣法制局長官の座に就く井上は1886年に伊藤に提出した「謹具意見」の中で、国家の最高権威である天皇だけは政治から切り離された絶対的な存在にすべきだと説き、皇統に疑義が生じないことや王朝交代の可能性を完全に排除するためには、男系男子を制度化することが必要だと進言した。つまり、「男系男子」は明治政府にとって、自らの正統性を高めるための手段として提案され、そして採用されたものだったと考えられているのだ。 今回の改正では、1947年に皇籍を離脱した旧宮家の男系男子を養子として皇族に迎えることで皇族の数を増やすと同時に、皇位継承者の数を増やすことが想定されている。しかし、旧宮家の源流は室町時代に成立した伏見宮家にまで遡るもので、数百年前まで遡らなければ現在の皇室との共通祖先にたどり着かない。早い話が遠い遠い親戚でしかない。あえてそうした人々を皇族に迎え、その子孫に将来の皇位継承資格を認める一方で、現在の女性皇族の子どもには継承資格を認めないという制度設計に、今の日本でどれほどの正当性があるのだろうか。 皇室は日本国憲法の下では「国民の総意に基づく」象徴だとされている。その皇位継承制度を考えるとき、私たちは歴史的事実をどのように理解し、何を「伝統」と呼ぶべきなのか。皇室典範改正をめぐる議論を振り返りながら、「万世一系」「男系男子」という考え方はいつ、どのように形成され、どのような形で今日まで受け継がれてきたのか。21世紀に生きるわれわれはその歴史的経緯をどのように受け止め、どう制度に組み入れていくべきなのかなどについて、仁藤氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。後半はこちら→so46563700(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/07/20(月) 12:00
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詳細<マル激・後半>この再審法改正で冤罪被害者は救えるのか/稲田朋美氏(衆院議員)
日本の刑事司法には、長年「開かずの扉」と呼ばれてきた制度がある。再審制度だ。 再審とは、確定判決に重大な誤りがあり、新たな証拠などによって有罪認定に合理的な疑いが生じた場合に、あらためて裁判をやり直す制度のこと。日本では再審開始までのハードルが極めて高く、手続きに関する規定も十分に整備されていないため、冤罪被害者やその支援者、弁護士らが長年にわたり法改正を求めてきたが、再審制度を所管する法務省は抜本的な改正に慎重な姿勢を取り続けてきた。結果的に開かずの扉の向こう側で、無実の人間が何十年も塀の中に閉じ込められてきた。 しかし、袴田事件や福井事件など再審によって一旦は確定した有罪判決が覆る事例が相次いだことで、再審制度を70年ぶりに見直す機運が高まり、現在、再審法(刑事訴訟法の再審条項)の改正案が今国会で審議されている。ところが、提出された法案の中身と、そこに至る審議の過程を仔細に見ていくと、この改正が本当に冤罪被害者を救うためのものなのか、大きな疑問を抱かざるを得ない。 まず、今回の法改正議論の背景にある冤罪事件のすさまじさを確認しておきたい。 袴田事件では、1966年の逮捕から2024年の再審無罪確定まで、何と58年もの歳月が費やされた。逮捕から釈放まで実際に袴田巌氏が拘禁された期間は47年7ヵ月に及ぶ。しかもその大半を、袴田氏はいつ刑が執行されるかわからない死刑囚として、恐怖の中で過ごすことを強いられた。 福井事件はさらに露骨だ。1986年に起きた女子中学生殺害事件で逮捕された男性に対し、検察は客観的な裏付けとなるテレビ番組の放映日を偽った捜査報告書を隠蔽し、事実上有罪判決を騙し取っていた。男性が逮捕から38年を経て2025年に無罪を勝ち取るまでの道のりは、筆舌に尽くしがたいものだった。 なぜ冤罪被害者の救済にこれほどの時間がかかるのか。要因は2つある。検察による不服申し立て(抗告)が認められていることと、証拠開示規定の欠如だ。裁判所が再審開始を決定しても、検察が抗告を繰り返せば手続きは際限なく長期化する。実際、袴田氏は最初に再審の決定が下ってからも、検察が抗告を繰り返したために、無罪の確定までに9年もの不要な年月を費やすことになった。しかも検察には弁護側に証拠を開示する義務がないため、被疑者や被告人の無実を証明する証拠が検察の倉庫に眠ったまま、そもそも再審の扉を開くこともできない事態が常態化してきた。 今回の法改正はこうした状況を正すことが目的、のはずだった。ところが、今回法務省が提出した法案は、被害者救済の観点からは到底満足できる内容になっていない。 法案では検察の不服申し立ては原則禁止とされているが、「十分な根拠がある場合」には例外的に認めるという大きな抜け穴を残した。もう一つの焦点である証拠開示についても、裁判所が請求理由に関連があると判断したものに限って開示させる「提出命令制度」の新設にとどまっている。さらに問題なのは、証拠の目的外使用を罰則付きで禁止する条項が盛り込まれたことだ。この規定により、冤罪の第三者検証や、メディアによる報道までもが処罰の対象となる危険性が指摘されている。冤罪被害者を救うための法改正が、冤罪の検証を妨げる道具になりかねないのだ。 なぜこのような骨抜き法案が提出されることになったのか。実は当初、国会内では超党派の「えん罪被害者のための再審法改正を早期に実現する議員連盟」が発足し、議員立法による法改正が目指されていた。議連は自民党の柴山昌彦氏が代表を務め、昨年4月時点で与野党の国会議員の過半数を上回る384名が参加するなど、議員立法による法案の提出と可決成立は十分に可能な体制が確立していた。 議連がまとめた法案は、検察による不服申し立ての全面禁止、請求人への直接的な証拠開示と証拠一覧表の開示を定め、目的外使用の禁止規定も存在しない。冤罪被害者や弁護士らが長年求めてきた「満額回答」と言っていい内容だった。 ところが、与党自民党は途中でこの議員立法の枠組みから離脱し、法務大臣から法制審議会に諮問する方針へと転換してしまった。法制審議会の事務局を担うのは法務省であり、法務省の中枢を占めるのは検察官だ。要するに、当事者である検察の「組織防衛」が露骨に優先された形となったのだ。結果的に議連案は、野党3党の共同提出という形で国会に上程されたが、自民党を含む反対多数で否決されている。 議連で幹事長代理を務め、4月6日の自民党会合で法務省に猛抗議して注目を集めた稲田朋美衆議院議員は、権威ある法制審議会ならまともな法律を作ってくれると信じていたが、実態はまったく違ったと憤りを隠さない。法務省に騙されたとの思いを禁じ得ないと稲田議員は言う。 ここで問われるべきは、より根源的な問題だ。なぜ国民から選ばれた政治家が、一行政機関に過ぎない法務省や検察を適正に統制できないのか。その根底には、政治家の側に深く根付いた、検察の捜査権に対する「恐怖感」がある。日本では公職選挙法や政治資金規正法の解釈にグレーゾーンが広く残されており、検察の裁量や匙加減ひとつで、多くの議員がいつでも捜査の対象にされ得る。検察を統制すべき立場の政治家が、検察に生殺与奪の権を握られているという転倒した権力構造が、そこには存在している。 日本の刑事司法の現状は、国際的な常識からも大きく逸脱している。欧米の先進国では、検察による意図的な証拠隠匿は、司法妨害や職権乱用として明確な刑事罰の対象となる。翻って日本では、検察が自らに不利な証拠を長期間隠し続け、無実の人の人生を破壊した事実が発覚しても、誰一人として刑事罰に問われることはない。形式的な反省の弁が述べられることはあっても、組織としての真摯な謝罪すら拒み続けているのが実情だ。 議連案の作成に携わった稲田氏は、与党の国会議員として最終的に法務省案を飲まざるを得なかったことに悔しさをにじませる。自らが作成に参加した満点の議連案に、反対票を投じることになってしまったのだ。しかし、同時に稲田氏は、今回の政府案が成立すれば、70年以上まったく手がつけられてこなかった再審制度における小さな「一歩前進」にはなるかもしれないとも語る。 今回の改正案だけで冤罪を防ぐことはできないかもしれない。しかし、不十分な法制を今後さらにアップデートしていくと同時に、強すぎる検察権力を政治と社会がいかに民主的に統制していくかという、国家の根幹に関わる課題に、これからも私たちは向き合い続けなければならない。 今国会で可決が見込まれる再審法改正案に対する評価と、真に正義が機能する司法を実現するために何が求められるのかなどについて、ゲストの稲田朋美氏とともに、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。前半はこちら→so46537749(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/07/13(月) 12:00
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詳細<マル激・前半>この再審法改正で冤罪被害者は救えるのか/稲田朋美氏(衆院議員)
日本の刑事司法には、長年「開かずの扉」と呼ばれてきた制度がある。再審制度だ。 再審とは、確定判決に重大な誤りがあり、新たな証拠などによって有罪認定に合理的な疑いが生じた場合に、あらためて裁判をやり直す制度のこと。日本では再審開始までのハードルが極めて高く、手続きに関する規定も十分に整備されていないため、冤罪被害者やその支援者、弁護士らが長年にわたり法改正を求めてきたが、再審制度を所管する法務省は抜本的な改正に慎重な姿勢を取り続けてきた。結果的に開かずの扉の向こう側で、無実の人間が何十年も塀の中に閉じ込められてきた。 しかし、袴田事件や福井事件など再審によって一旦は確定した有罪判決が覆る事例が相次いだことで、再審制度を70年ぶりに見直す機運が高まり、現在、再審法(刑事訴訟法の再審条項)の改正案が今国会で審議されている。ところが、提出された法案の中身と、そこに至る審議の過程を仔細に見ていくと、この改正が本当に冤罪被害者を救うためのものなのか、大きな疑問を抱かざるを得ない。 まず、今回の法改正議論の背景にある冤罪事件のすさまじさを確認しておきたい。 袴田事件では、1966年の逮捕から2024年の再審無罪確定まで、何と58年もの歳月が費やされた。逮捕から釈放まで実際に袴田巌氏が拘禁された期間は47年7ヵ月に及ぶ。しかもその大半を、袴田氏はいつ刑が執行されるかわからない死刑囚として、恐怖の中で過ごすことを強いられた。 福井事件はさらに露骨だ。1986年に起きた女子中学生殺害事件で逮捕された男性に対し、検察は客観的な裏付けとなるテレビ番組の放映日を偽った捜査報告書を隠蔽し、事実上有罪判決を騙し取っていた。男性が逮捕から38年を経て2025年に無罪を勝ち取るまでの道のりは、筆舌に尽くしがたいものだった。 なぜ冤罪被害者の救済にこれほどの時間がかかるのか。要因は2つある。検察による不服申し立て(抗告)が認められていることと、証拠開示規定の欠如だ。裁判所が再審開始を決定しても、検察が抗告を繰り返せば手続きは際限なく長期化する。実際、袴田氏は最初に再審の決定が下ってからも、検察が抗告を繰り返したために、無罪の確定までに9年もの不要な年月を費やすことになった。しかも検察には弁護側に証拠を開示する義務がないため、被疑者や被告人の無実を証明する証拠が検察の倉庫に眠ったまま、そもそも再審の扉を開くこともできない事態が常態化してきた。 今回の法改正はこうした状況を正すことが目的、のはずだった。ところが、今回法務省が提出した法案は、被害者救済の観点からは到底満足できる内容になっていない。 法案では検察の不服申し立ては原則禁止とされているが、「十分な根拠がある場合」には例外的に認めるという大きな抜け穴を残した。もう一つの焦点である証拠開示についても、裁判所が請求理由に関連があると判断したものに限って開示させる「提出命令制度」の新設にとどまっている。さらに問題なのは、証拠の目的外使用を罰則付きで禁止する条項が盛り込まれたことだ。この規定により、冤罪の第三者検証や、メディアによる報道までもが処罰の対象となる危険性が指摘されている。冤罪被害者を救うための法改正が、冤罪の検証を妨げる道具になりかねないのだ。 なぜこのような骨抜き法案が提出されることになったのか。実は当初、国会内では超党派の「えん罪被害者のための再審法改正を早期に実現する議員連盟」が発足し、議員立法による法改正が目指されていた。議連は自民党の柴山昌彦氏が代表を務め、昨年4月時点で与野党の国会議員の過半数を上回る384名が参加するなど、議員立法による法案の提出と可決成立は十分に可能な体制が確立していた。 議連がまとめた法案は、検察による不服申し立ての全面禁止、請求人への直接的な証拠開示と証拠一覧表の開示を定め、目的外使用の禁止規定も存在しない。冤罪被害者や弁護士らが長年求めてきた「満額回答」と言っていい内容だった。 ところが、与党自民党は途中でこの議員立法の枠組みから離脱し、法務大臣から法制審議会に諮問する方針へと転換してしまった。法制審議会の事務局を担うのは法務省であり、法務省の中枢を占めるのは検察官だ。要するに、当事者である検察の「組織防衛」が露骨に優先された形となったのだ。結果的に議連案は、野党3党の共同提出という形で国会に上程されたが、自民党を含む反対多数で否決されている。 議連で幹事長代理を務め、4月6日の自民党会合で法務省に猛抗議して注目を集めた稲田朋美衆議院議員は、権威ある法制審議会ならまともな法律を作ってくれると信じていたが、実態はまったく違ったと憤りを隠さない。法務省に騙されたとの思いを禁じ得ないと稲田議員は言う。 ここで問われるべきは、より根源的な問題だ。なぜ国民から選ばれた政治家が、一行政機関に過ぎない法務省や検察を適正に統制できないのか。その根底には、政治家の側に深く根付いた、検察の捜査権に対する「恐怖感」がある。日本では公職選挙法や政治資金規正法の解釈にグレーゾーンが広く残されており、検察の裁量や匙加減ひとつで、多くの議員がいつでも捜査の対象にされ得る。検察を統制すべき立場の政治家が、検察に生殺与奪の権を握られているという転倒した権力構造が、そこには存在している。 日本の刑事司法の現状は、国際的な常識からも大きく逸脱している。欧米の先進国では、検察による意図的な証拠隠匿は、司法妨害や職権乱用として明確な刑事罰の対象となる。翻って日本では、検察が自らに不利な証拠を長期間隠し続け、無実の人の人生を破壊した事実が発覚しても、誰一人として刑事罰に問われることはない。形式的な反省の弁が述べられることはあっても、組織としての真摯な謝罪すら拒み続けているのが実情だ。 議連案の作成に携わった稲田氏は、与党の国会議員として最終的に法務省案を飲まざるを得なかったことに悔しさをにじませる。自らが作成に参加した満点の議連案に、反対票を投じることになってしまったのだ。しかし、同時に稲田氏は、今回の政府案が成立すれば、70年以上まったく手がつけられてこなかった再審制度における小さな「一歩前進」にはなるかもしれないとも語る。 今回の改正案だけで冤罪を防ぐことはできないかもしれない。しかし、不十分な法制を今後さらにアップデートしていくと同時に、強すぎる検察権力を政治と社会がいかに民主的に統制していくかという、国家の根幹に関わる課題に、これからも私たちは向き合い続けなければならない。 今国会で可決が見込まれる再審法改正案に対する評価と、真に正義が機能する司法を実現するために何が求められるのかなどについて、ゲストの稲田朋美氏とともに、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。後半はこちら→so46537751(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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詳細<マル激・後半>日本が金利のある時代に戻るということの意味/中空麻奈氏(かんぽ経済研究所主席研究員)
日本銀行は6月16日、政策金利にあたる無担保コール翌日物金利の誘導目標を、それまでの0.75%程度から1.0%程度へと引き上げた。政策金利が1%台に戻るのは1995年以来、実に31年ぶりのことになる。日銀は同時に、今後も経済・物価・金融情勢に応じて政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していく考えを示している。 いよいよ日本にも「金利のある世界」が戻ってきたようだ。 しかし、そうであるならば、われわれはまず、この30年近く続いた「金利のない世界」とは一体何だったのかを総括しなければならない。そして同時に、金利が復活するとは何を意味し、それが企業、家計、財政、そして日本という国の将来にどのような影響を及ぼすのかを考えておく必要がある。 金利とは、単に住宅ローンや預金の利息の問題ではない。金利はお金を借りる際のコストであると同時に、時間の値段であり、リスクの値段であり、通貨に対する信認を示す指標でもある。景気が過熱し、物価が上がりすぎれば、中央銀行は金利を上げて消費や投資を抑える。逆に景気が悪く、物価が下がるデフレ局面では、金利を下げて経済活動を刺激する。これが金融政策の基本的な考え方だ。 ところが日本は、バブル崩壊後の不良債権処理の遅れやデフレの長期化の中で、1990年代後半以降、政策金利をほとんどゼロ近辺に張り付かせる時代に入った。1999年にはゼロ金利政策が導入され、2016年にはマイナス金利付き量的・質的金融緩和に踏み込んだ。そのマイナス金利が解除されたのは2024年3月であり、そこから2年余りを経て、今回ようやく1%という水準に戻ってきたことになる。 今の30歳前後以下の世代は、物心がついてから「金利のある社会」をほとんど経験していない。企業経営者も、政治家も、われわれ生活者も、いつの間にか金利がないことを所与の条件として行動するようになっていた。国はいくら借金をしても当面は利払い負担が大きくならず、企業は低いコストで資金を調達でき、家計は預金に利息がつかないことを当然のものとして受け入れてきた。 しかし、金利がなかったことには、当然ながら副作用もあった。 本来、超低金利は、痛みを一時的に和らげている間に、次の成長に向けて産業構造を転換するための猶予期間だったはずである。ところが現実には、その猶予は十分には活かされなかった。低金利は、資金繰りに苦しむ企業を救う一方で、本来なら退出を迫られるはずの低生産性企業を延命させる効果も持った。借り換えさえできれば何とかなるという環境が続いた結果、企業の新陳代謝は進まず、労働市場の流動化も遅れ、成長産業への人材と資本の移動も十分には起きなかった。 つまり、金利の復活とは、単に銀行預金に少し利息がつくようになるという話ではない。長く日本経済を覆ってきたモルヒネが切れ始めるということでもある。 今回の利上げが、日本経済の力強い成長を背景にしたものであれば、それは通常の金融政策の正常化として歓迎できる。しかし、今回の日銀の説明を見る限り、背景にあるのはむしろ、中東情勢による原油価格上昇、円安、食料品価格の上昇、そしてインフレ期待の上振れである。日銀自身も、物価上昇が幅広い品目に波及し、基調的な物価上昇率が2%目標を上回るリスクに言及している。 つまり今回の利上げは、「景気が強すぎるから冷やす」というよりも、「物価と為替と信認の圧力に押されて、利上げせざるを得なくなった」という側面が強い。ここに、今回の局面の難しさがある。 しかも、通常であれば日本の金利が上がれば、円を買う動きが強まり、円高に向かってもおかしくない。ところが実際には、円安が止まっていない。6月末から7月初めにかけて円相場は1ドル162円台後半まで下落し、39年半ぶりの円安水準を記録した。 これは何を意味しているのか。 もちろん、日米の金利差はなお大きい。しかし、ゲストで経済アナリストの中空麻奈氏が指摘するように、より深刻なのは、円という通貨そのもの、ひいては日本の長期的な国力に対する市場の信認が揺らぎ始めていることではないか。金利が上がっても円が買われないということは、金利差だけでは説明しきれない日本売りの要素が入り始めている可能性がある。 奇しくも、日本の政策金利が最後に1%台にあった1995年は、日本の生産年齢人口がピークを迎えた年でもある。内閣府などの資料によれば、日本の15歳から64歳までの生産年齢人口は1995年をピークに減少に転じた。金利が低下していく過程と、働き手の数が減っていく過程は、ほぼ同じ時間軸で進んできたことになる。 人口が減り、働き手が減り、需要も供給力も細っていく。その中で、金利だけが復活する。これは、きわめて厳しい組み合わせである。 さらに、財政の問題もある。低金利は、日本の巨額の政府債務を支える最大の前提でもあった。財務省資料によれば、普通国債残高は2026年度末に1,145兆円に上る見込みとされている。金利が上がれば、当然、国債費、すなわち利払いと償還の負担は重くなる。巨大災害や有事に備えるためにも、財政に余力を持っておくことは国家の基本的な安全保障である。 にもかかわらず、政治の側では消費税減税や給付、あるいは大型投資の話ばかりが前面に出がちである。もちろん、成長投資そのものが悪いわけではない。高市政権は17の戦略分野に対し、2040年度までに官民合わせて累計370兆円超の投資を想定する成長戦略を打ち出しているが、問題は、その投資が本当に日本の稼ぐ力につながるのかということだ。 対象分野を広げれば広げるほど、政策は総花的になりやすい。AIも半導体も宇宙も量子もバイオも防衛も、すべて重要だというのはその通りだ。しかし、すべてが重要だという政策は、往々にして、どこにも十分な資源を集中できない政策になってしまう。 ここで問われているのは、単なる金融政策ではない。日本はこれからも右肩上がりの成長を目指すのか。それとも、人口減少を所与のものとして、より小さく、しかし持続可能な国の形を選ぶのか。強い日本を取り戻すために痛みを伴う構造改革を行うのか。それとも、石橋湛山的な小国主義の発想に立ち、限られた資源をどう分かち合うかを考えるのか。 どちらの道を選ぶにしても、金利のある世界では、ごまかしが利きにくくなる。 金利は、政治の先送りにも、企業の延命にも、家計の錯覚にも、いずれ価格をつける。借金にはコストがかかる。リスクには値段がつく。通貨への信認は無限ではない。その当たり前の現実が、約30年ぶりに日本社会の前に戻ってきたのである。 われわれは金利の復活を、日本経済を作り直す最後の警告として受け止めることができるのか。金利のある時代に戻るとは、単に金融政策が正常化することではない。それは、日本という国が、これ以上現実から目をそらすことを許されなくなるということである。金利の復活が意味すること、そして日本がこれからどのような国として生き残るべきなのかについて、かんぽ経済研究所主席研究員の中空麻奈氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。前半はこちら→so46512028(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/07/06(月) 12:00
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詳細<マル激・前半>日本が金利のある時代に戻るということの意味/中空麻奈氏(かんぽ経済研究所主席研究員)
日本銀行は6月16日、政策金利にあたる無担保コール翌日物金利の誘導目標を、それまでの0.75%程度から1.0%程度へと引き上げた。政策金利が1%台に戻るのは1995年以来、実に31年ぶりのことになる。日銀は同時に、今後も経済・物価・金融情勢に応じて政策金利を引き上げ、金融緩和の度合いを調整していく考えを示している。 いよいよ日本にも「金利のある世界」が戻ってきたようだ。 しかし、そうであるならば、われわれはまず、この30年近く続いた「金利のない世界」とは一体何だったのかを総括しなければならない。そして同時に、金利が復活するとは何を意味し、それが企業、家計、財政、そして日本という国の将来にどのような影響を及ぼすのかを考えておく必要がある。 金利とは、単に住宅ローンや預金の利息の問題ではない。金利はお金を借りる際のコストであると同時に、時間の値段であり、リスクの値段であり、通貨に対する信認を示す指標でもある。景気が過熱し、物価が上がりすぎれば、中央銀行は金利を上げて消費や投資を抑える。逆に景気が悪く、物価が下がるデフレ局面では、金利を下げて経済活動を刺激する。これが金融政策の基本的な考え方だ。 ところが日本は、バブル崩壊後の不良債権処理の遅れやデフレの長期化の中で、1990年代後半以降、政策金利をほとんどゼロ近辺に張り付かせる時代に入った。1999年にはゼロ金利政策が導入され、2016年にはマイナス金利付き量的・質的金融緩和に踏み込んだ。そのマイナス金利が解除されたのは2024年3月であり、そこから2年余りを経て、今回ようやく1%という水準に戻ってきたことになる。 今の30歳前後以下の世代は、物心がついてから「金利のある社会」をほとんど経験していない。企業経営者も、政治家も、われわれ生活者も、いつの間にか金利がないことを所与の条件として行動するようになっていた。国はいくら借金をしても当面は利払い負担が大きくならず、企業は低いコストで資金を調達でき、家計は預金に利息がつかないことを当然のものとして受け入れてきた。 しかし、金利がなかったことには、当然ながら副作用もあった。 本来、超低金利は、痛みを一時的に和らげている間に、次の成長に向けて産業構造を転換するための猶予期間だったはずである。ところが現実には、その猶予は十分には活かされなかった。低金利は、資金繰りに苦しむ企業を救う一方で、本来なら退出を迫られるはずの低生産性企業を延命させる効果も持った。借り換えさえできれば何とかなるという環境が続いた結果、企業の新陳代謝は進まず、労働市場の流動化も遅れ、成長産業への人材と資本の移動も十分には起きなかった。 つまり、金利の復活とは、単に銀行預金に少し利息がつくようになるという話ではない。長く日本経済を覆ってきたモルヒネが切れ始めるということでもある。 今回の利上げが、日本経済の力強い成長を背景にしたものであれば、それは通常の金融政策の正常化として歓迎できる。しかし、今回の日銀の説明を見る限り、背景にあるのはむしろ、中東情勢による原油価格上昇、円安、食料品価格の上昇、そしてインフレ期待の上振れである。日銀自身も、物価上昇が幅広い品目に波及し、基調的な物価上昇率が2%目標を上回るリスクに言及している。 つまり今回の利上げは、「景気が強すぎるから冷やす」というよりも、「物価と為替と信認の圧力に押されて、利上げせざるを得なくなった」という側面が強い。ここに、今回の局面の難しさがある。 しかも、通常であれば日本の金利が上がれば、円を買う動きが強まり、円高に向かってもおかしくない。ところが実際には、円安が止まっていない。6月末から7月初めにかけて円相場は1ドル162円台後半まで下落し、39年半ぶりの円安水準を記録した。 これは何を意味しているのか。 もちろん、日米の金利差はなお大きい。しかし、ゲストで経済アナリストの中空麻奈氏が指摘するように、より深刻なのは、円という通貨そのもの、ひいては日本の長期的な国力に対する市場の信認が揺らぎ始めていることではないか。金利が上がっても円が買われないということは、金利差だけでは説明しきれない日本売りの要素が入り始めている可能性がある。 奇しくも、日本の政策金利が最後に1%台にあった1995年は、日本の生産年齢人口がピークを迎えた年でもある。内閣府などの資料によれば、日本の15歳から64歳までの生産年齢人口は1995年をピークに減少に転じた。金利が低下していく過程と、働き手の数が減っていく過程は、ほぼ同じ時間軸で進んできたことになる。 人口が減り、働き手が減り、需要も供給力も細っていく。その中で、金利だけが復活する。これは、きわめて厳しい組み合わせである。 さらに、財政の問題もある。低金利は、日本の巨額の政府債務を支える最大の前提でもあった。財務省資料によれば、普通国債残高は2026年度末に1,145兆円に上る見込みとされている。金利が上がれば、当然、国債費、すなわち利払いと償還の負担は重くなる。巨大災害や有事に備えるためにも、財政に余力を持っておくことは国家の基本的な安全保障である。 にもかかわらず、政治の側では消費税減税や給付、あるいは大型投資の話ばかりが前面に出がちである。もちろん、成長投資そのものが悪いわけではない。高市政権は17の戦略分野に対し、2040年度までに官民合わせて累計370兆円超の投資を想定する成長戦略を打ち出しているが、問題は、その投資が本当に日本の稼ぐ力につながるのかということだ。 対象分野を広げれば広げるほど、政策は総花的になりやすい。AIも半導体も宇宙も量子もバイオも防衛も、すべて重要だというのはその通りだ。しかし、すべてが重要だという政策は、往々にして、どこにも十分な資源を集中できない政策になってしまう。 ここで問われているのは、単なる金融政策ではない。日本はこれからも右肩上がりの成長を目指すのか。それとも、人口減少を所与のものとして、より小さく、しかし持続可能な国の形を選ぶのか。強い日本を取り戻すために痛みを伴う構造改革を行うのか。それとも、石橋湛山的な小国主義の発想に立ち、限られた資源をどう分かち合うかを考えるのか。 どちらの道を選ぶにしても、金利のある世界では、ごまかしが利きにくくなる。 金利は、政治の先送りにも、企業の延命にも、家計の錯覚にも、いずれ価格をつける。借金にはコストがかかる。リスクには値段がつく。通貨への信認は無限ではない。その当たり前の現実が、約30年ぶりに日本社会の前に戻ってきたのである。 われわれは金利の復活を、日本経済を作り直す最後の警告として受け止めることができるのか。金利のある時代に戻るとは、単に金融政策が正常化することではない。それは、日本という国が、これ以上現実から目をそらすことを許されなくなるということである。金利の復活が意味すること、そして日本がこれからどのような国として生き残るべきなのかについて、かんぽ経済研究所主席研究員の中空麻奈氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。後半はこちら→so46512094(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/07/06(月) 12:00
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詳細<マル激・後半>意味不明な戦争の帰趨のカギを握るのはやっぱりイスラエル/鶴見太郎氏(東京大学教養学部准教授)
当初、3日で決着が付くはずだったアメリカとイスラエルによるイラン攻撃は、当初の目的だったイランの体制転覆も実現しないまま、イランによるホルムズ海峡の封鎖によって世界経済を巻き込んだ大迷惑な戦争に発展した挙げ句、どうやらイランの全面勝利で終わることになりそうだ。 もともと攻撃の意図や目的がはっきりしないまま始まった戦争だったが、石油の世界への出入り口となるホルムズ海峡をめぐる情勢に、世界中の株式市場は乱高下を繰り返した。そして開戦から約4カ月が経過した6月17日、アメリカとイランは戦闘終結に向けた14項目の覚書(MOU)に署名した。今回、停戦合意の覚書がアメリカとイランの大統領によって電子署名されたことで、とりあえず戦闘状態が終わり、一時的にはホルムズ海峡が開放されることが期待されている。 しかし、停戦の覚書が発効した今も、予断を許さない状況が続いている。なぜならば、この戦争の真の主役であるイスラエルが、停戦の覚書に署名していないからだ。それどころか、イスラエル国内では主戦論が圧倒的多数を占め、イスラエルの意向を無視したまま中途半端な停戦に合意したアメリカやトランプ大統領に対しては、容赦のない批判や誹謗中傷がイスラエル国内のメディアから浴びせられている。もともと自身も主戦論者で強硬派のネタニヤフ首相率いる現政権が、このまま黙って引き下がるとはとても思えないのが実情だ。 現にイスラエルはレバノン南部への駐留を継続する意思を明確にしている。ここでイランが支援する民兵組織のヒズボラとの戦闘が再び激化すれば、イランはアメリカとの停戦違反を理由に再びホルムズ海峡の閉鎖に踏み切る可能性がある。そうなると話はまったく元の木阿弥だ。 そもそもアメリカがイランとの間で署名した14項目の覚書も、その内容はひどいものだ。アメリカはイスラエルによって必ずしも望んでいなかったイランとの戦争に引きずり込まれ、何とかそこから抜け出そうと今回の覚書を捻り出したわけだが、外交の専門家に言わせれば、これは戦争終結の文書として史上最悪の部類に入るもので、アメリカの完全なスコンク負けだという。 この覚書でアメリカが得たものは、60日間の核交渉期限とその間の停戦、そして60日間はホルムズ海峡を無料で船を通すという約束だけだ。これに対してイランは、石油輸出の再開や凍結資産の解除、そして3000億ドルの復興資金まで獲得している。満額回答に近い。アメリカのトランプ政権としてはホルムズ海峡の封鎖によってガソリン価格が未曾有の1ガロン4ドル超にまで跳ね上がったまま11月の中間選挙に突入すれば、共和党の敗北は必至な情勢だ。そうなるとトランプ政権は残る2年の任期を、ほとんどやりたいことが何もできないままレイムダック化してしまう可能性が大きい。トランプとしてはガソリン価格を下げて物価を落ち着かせるためには、どんな譲歩をしてでもホルムズ海峡を開けてもらう必要があったのだ。 しかし、全面的にイランに有利なこの覚書を、イスラエルがのめるはずがない。これがそのまま実現してしまえば、イランの力が戦争前よりも強大化してしまい、イスラエルにとっては単に脅威が増すことになる。6月のヘブライ大学などの調査では、今回の覚書の内容について、92%が「イランの利益のほうが大きい」、83%が「イスラエルの安全保障が低下した」と答えるなど、イスラエルの市民はまったくこれに納得していない。実はイスラエルも10月に総選挙を控え、このままでは連立与党は過半数割れに追い込まれネタニヤフ氏は首相の座を追われてしまう可能性が高い。もともと収賄の嫌疑がかかるネタニヤフ氏としては、首相の座を追われれば逮捕される可能性すらある以上、この選挙には負けられない。そんな国内的な事情からも、ネタニヤフ政権としても何があっても弱腰を見せられないのだ。 今回のイラン攻撃は、世界経済を巻き込んだ割には、誰にとっても得るものがない不毛な戦争だった。唯一得るものがあった国があるとすれば、それはイランだ。今回の合意の結果、イランはより強大化し、ホルムズ海峡の封鎖の旨味も知ってしまった。そこに残るのは、戦争前よりも不安定な中東情勢だ。 外交の素人が交渉に当たってきたトランプ政権がイスラエルによって無謀な戦争に引きずり込まれ、世界経済を大混乱に陥れた挙げ句、イラン側に全面的に譲歩することによってしかそこから抜け出すことができなくなってしまった。しかも、もはやイスラエルはアメリカの言うことを聞かない。と言うよりも、イスラエル国内の政治情勢がそれを許してくれない。 この閉塞をどう打ち破ることができるのか。アメリカが調整役としての機能を完全に喪失した今、中東で手を汚していない日本や東アジアの国々にこそ、その役割を果たす余地があると、ユダヤの歴史が専門の鶴見太郎・東京大学教養学部准教授は語る。そして、エネルギー源を中東からの石油に9割以上依存している日本にとっては、中東情勢が安定することは、国家安全保障上の必須条件でもある。 日本は長期的には中東産石油への依存度を下げ、化石燃料への依存度そのものを下げる努力を急ピッチで行う必要があるが、それが実現するまでの間も、中東の安定化のために自分たちにできることは何があるかを真剣に考えるべきではないか。この3月にイスラエルでの研究生活から帰国した東京大学の鶴見氏と、ジャーナリストの神保哲生、社会学者の宮台真司が議論した。前半はこちら→so46484541(本記事はインターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』の番組紹介です。詳しくは当該番組をご覧ください。)
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2026/06/29(月) 12:00