米側が敏感に反応し、「米国外し」と強い不信を抱いた首相鳩山由紀夫の「東アジア共同体」構想とは、どんな考えだったのか。
首相就任から13年前の1996年。旧民主党を設立した鳩山は同年11月、月刊誌「文芸春秋」に「民主党 私の政権構想」との題で寄稿する。
当時、沖縄県が打ち出していた、2015年までに全ての米軍基地を返還させる基地返還アクションプログラムと、跡地利用を中心に沖縄を東アジアの交易・交通拠点にする国際都市形成構想に触れた上で、こう述べた。
「沖縄の米軍基地が返ってくることを可能にするようなアジアの紛争防止・信頼醸成の多国間安保対話システムをどう作り上げていくか」
「活力にあふれ、ますます緊密に結び付きつつあるアジア・太平洋全体を、日本が生きていく基本的な生活空間と捉えて、国連、アジア太平洋経済協力会議(APEC)、東アジア、東南アジア諸国連合(ASEAN)および北東アジアすなわち環日本海という重層的な多国間地域外交をこれまで以上に重視」
後の東アジア共同体につながる考えには沖縄が大きく関係していた。「常時駐留なき安保」の持論も背景に、2009年8月の衆院選で鳩山の口から普天間飛行場の「最低でも県外」発言が飛び出す。
だが鳩山の「東アジア」構想は