僕はガイナックスをやっていたときに『オネアミスの翼 王立宇宙軍』という作品を作ったんだよね。
その時に、山賀博之がやりたかった映画っていうのが、『ガープの世界』なんだよ。
『ガープの世界』というのは、ジョージ・ロイ・ヒルという監督が作った映画。
ウィリアム・ロビンソンが初主演して、この俳優がどんなに演技が上手いのかを世に知らしめた映画なんだ。
このジョージ・ロイ・ヒル監督のタッチが、すごい変わってるんだよね。
知的というのかな。
なので名前を知っている人は多いんだけど、映画を見た人がほとんどいないんだよね。
庵野に無いものは、このジョージ・ロイ・ヒルの感覚なんだよ。
山賀は、そのジョージ・ロイ・ヒルがすごく好きだった。
『オネアミスの翼』を作った時に、主人公のシロツグ・ラーダットというキャラクターを作り、その相方として、リイクニ・ノンデライコっていうキャラクターを作った。
シロツグは 宇宙飛行士になりたくてなったんじゃない男。
リイクニは新興宗教にマジで救いを求めてて、目の前の人に優しくしなければいけない。
だからのシロツグに優しくしたら、変な恋愛感情を持ってきて、つきまとわれた。
こういう関係でできているんだ。
それがすごいジョージ・ロイ・ヒル的なんだよ。
ジョージ・ロイ・ヒルは、人間を多面的な灯(あか)りで照らすんだよね。
決して「コイツは、こういうキャラクターだ!」という照らし方はしないんだよね。
僕もついつい山賀のジョージ・ロイ・ヒル・ブームにつき合って、「面白いな」と思ったので、映画をそういう風に見る癖がついちゃってるんだよな。
だから『スター・ウォーズ』を見ると、やっぱりルーク・スカイウォーカーのカッコよさは、多面的な光が当たっている所だと思っちゃう。
ところが『アイアンマン』のトニー・スタークっていうのは、光が単調なんだよね。
いわゆるキーライトとサブライトくらい。
キーライトとしてイケイケの自信家のプレイボーイの発明家の科学者のトニー・スターク。
もう一つのサブライトとして、でも、そうありながら自分が武器を製造していることに対して罪悪感を持っている。
これで「キャラクターが出来ている」というふうに表現するんだよな。
もっと出来の悪い作品になってくると、キーライトが1つしかないんだよ。
キャラに「この役割しかない」という作品がよくあるじゃん。
アニメとかでもダメな作品は、このキーライトが1方向くらいしかなくて、カウンターライトが当たっていたら上等。
『ルパン三世』でいえば、銭形のとっつぁんは、正義感があってルパンを追いかけて、というキーライトがある。
そこにカウンターライトとして、ルパンを信頼している。
「ルパンはそんなことしません!」というふうに、カウンターライトが当たると急にキャラクターというのが、フッと立ってくる。
ルーク・スカイウォーカーというのは、もうちょっと光がある。
たとえば「宇宙に行きたい」「冒険したい」「父親が本当はどうなのか知りたい」。
カウンターライトとして、でも、大学に行けないことを叔父さんに対して恨みがましく思っている。
フォースに対して、畏れる心を持っている。
そんなカウンターライトが当たって、そこに更に恋愛も描かれてる。
好きだったレイア姫が実は自分の妹だった。
『ジェダイの帰還』の方になってくると、自分には本当は心を許せる人が誰もいないんだとわかってくる。
今のフォースの復活に至る、「ルーク・スカイウォーカーが何に絶望したのか?」「星の中の孤島の中にたった一人で生きてたのは、なんでなんだろう?」というのが流れてくる。
このライトの複雑さというのがあるんだよね。
ジョージ・ロイ・ヒルの映画も、こんなに複雑にライトを当てているんだ。