この間、大阪でオフ会があった時の『火垂るの墓』の感想なんですけども。
「『フランダースの犬』は許せる」と。
「最後に死んでも、パトラッシュとネロは天国に連れて行ってもらえるじゃないか」と。
満足して死んでいる。
「でも『火垂るの墓』はダメだ。なに一つ良い事が無い」と言ってた人がいました。
そういう人がいたと思えば、最近カレー屋を始めた お姉さんなんかは「いや、あれは全然 泣かないよと」。
「よくやったよ」と。
「清太の周りに同じような男の子、山のように駅での垂れ死んでいたじゃん」と。
「あんな死に方した人、当時でもいっぱい いただろうに。お前は良くやった!」と(笑)。
「結果がダメだとしても、そこまで頑張って死んだんだから、本望だろう」って言ってた人がいたんですけども。
多分、高畑さんの意図にわりと近い見方だと思うんですけども、なかなか そんなふうに見れる人は いないと思います。
だから高畑さんは別の所でも「清太は現代の若者に近い存在だから理解されるだろう」と。
で、「もしこれから日本の景気が悪くなったり状況が悪くなったりすると、世の中がギスギスギスギスしてきて、叔母さんの味方が現れる」と。
つまり「清太みたいに社会性が無いヤツは許せない」というのは、逆に言えば社会が堅苦しくなってきた証拠だと。
だから高畑勲が描くべきなのは、どの時代にも通用する作品を描く事。
なぜかというと芸術をやっているからなんですね。
今の世界に受ける事は、宮崎駿がやってくれるんですよ。
高畑勲はそうじゃなくて、100年後にも値打ちがあるものを作ろうとしてるんですね。
だから清太の味方が多い自分勝手な人が多い世の中でも、叔母さんの味方が多いギスギスした世の中でも、どっちでも通用するような作品というのを作ろうとするから、こういう作品になる。
「アートっていうのは、そういうのもなんだな」というふうに、僕はちょっと感心しました。
・・・
後、僕自身が ちょっと個人的に笑っちゃったのが清太の火事場泥棒のシーンなんですけども。
映画の後半の方で爆撃機とかが来たら、清太が ものすごく喜んで他所の家に泥棒に入って盗みまくるんですけども(笑)。
もうね、お父さんが軍人だからあんなに敵を憎んでいた清太が、段々と敵が近所の人になってくるんですね。
なんせ野菜を盗んだら殴られる。
米とかを買おうとしたら、高い金をふっかけられて売ってくれない。
周りが全部、敵に見えちゃう。
そうすると爆撃してくれる敵は、敵の敵だから味方になってしまって、「もっとやれ!もっとやれ!」みたいな事を言い出すと(笑)。
あそこも清太が人間性を失っていくところなんですね。
だから高畑さんとしては充分に “哀しみ” 以外にも、清太の持っている正義感が歪んでいくさまで、 “清太” という主人公が人間性を失っていく所をみせたはずだから「みんな、そんなに泣くハズ無いのになぁ」って思ってると思うし。
僕はそんなシーンを見て、「うわ、面白れぇ」って思っちゃうんですけども(笑)。
みんなは、どういう視点で あのシーンを見てるんでしょうね。